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1.  稲村ジェーン
前半はかなりつらかった。後半はこちらで意識の緊張度を落としたので「ややつらい」ぐらいですんだ。どうもだらだらなのよね。引きつけるものが「大波」だけで、それだけで興味をつないでいくのは、サーファーでない身にはしんどい。出てくる子どもたちが面白くないし、そもそも人間に対する興味がない監督みたい。最後の演奏を8ミリで撮ってるとこなんかちょっといい。あるいは地下通路の端の階段に降る天気雨とか。風でおもむろに盛り上げた映画らしい部分の後が、SFXになっちゃうの。小銭を壷に入れて水が溢れるとこなんかも映画らしいんだけどなあ。そういう部分部分でいいところはあった。「愛しちゃったのよ」のクワタ風バージョンも聴けます。
[映画館(邦画)] 4点(2014-03-08 09:18:23)
2.  遺産相続 《ネタバレ》 
『お葬式』に『マルサの女』的な情報を盛り込んで“二倍楽しめます”を狙ったようなのだが…。旦那が死ぬまでぐずぐずしていて、人情と合わない法律の冷たさを妾の側から描くのかと思っているとそうでもなく、政治家を絡めると社会性を出せたって気分になるのも困ったものである。三階ぶちぬきのセットが面白かったが、うまく使いこなせていなかった。佐久間良子が風間杜夫の弁護士に土下座するとこで職員がみな見下ろしたり見上げたりしている俯瞰のカットがあって、あの次に横からの三階ぶちぬきのカットが入ると思ったのだが。小川真由美が出てくると締まる。野々村真が出てくると緩む。最後は五分五分で人情で手打ち。どうして冒険をしてくれないのだ、邦画は。
[映画館(邦画)] 5点(2014-01-03 09:43:22)
3.  犬神家の一族(1976)
推理小説の映画化は、どうしても言葉に頼る部分が多くなり成功しづらいのだが、崑さんはそれを逆手にとって会話の場面で面白がらせる。前作『吾輩は猫である』がそうだった。いわばサロンの仲間うちの会話で成り立っているような原作から、会話のリズムと画面を顔で埋める映像で楽しめる映画にしてしまった。その延長にこの金田一シリーズが出来たのだろう。解決篇の部分が推理ものにとっては鬼門で、どうしても説明になってしまう。そこが本シリーズでは面白い。事件のフラッシュバックを挿入する勘どころ、言い募りあう人物を時間を少しずつずらして短いカットでつないでいく緊迫、顔の部分アップを折り込んだり、コラージュを楽しんで作っている。そして崑の終生のモチーフである女のドラマにもなっていた。本シリーズは『男はつらいよ』とは別のスタイルで、当時の大女優名鑑になった。シリーズを通しての脇役チームとなる俳優たちの顔を見るのも楽しく(本シリーズの坂口良子は忘れがたい)、それにしてもつい最近の映画と思っていたのにずいぶん多くの役者が故人になってしまっているものだ。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2013-11-17 09:34:15)
4.  いつか読書する日
リアリズムのようでいて、どこかそうでない方向へ逸れていく。玄関先で待っていて、毎朝牛乳一本を目の前で飲み干すじいさん。カレー小僧の伝説。日常からはみ出していくボケ老人と、養育放棄された子ども。などなどが世界を変な方向に広げている。岸部一徳は劇的な死を遂げた父のせいで「絶対に平凡に生きてやる、必死になってそうしてきた」と言う。必死に平凡たろうとしてきたキャラクター。ついに田中裕子が「カイタ!」と名前で呼びかける瞬間のスリル。あるいは妻の死後訪れて、学生時代のような口ぶりで「ちょっとつきあってくんない」と言うあたり。「死ねと言うなら死にます」も。中年の抑えられていたセリフのいちいちが味わい。メロドラマこそ平凡のなかの必死なんだな。タイガースのメンバー仲間岸部は、撮影の合間にジュリーの妻・田中に「沢田君、元気?」とか挨拶したわけ?
[DVD(邦画)] 7点(2013-10-07 09:51:12)
5.  生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言
カバーかけたまま走り出す車のイキのよさで乗せ、次第に原発に集中していく。原発ジプシーと呼ばれるワタリの労働者の問題。30年前の映画だ。今も現場で働く人たちがマスコミに登場してこない気味悪さが続いている(欧米だったら英雄視されるだろう事故始末をしている彼らが、日本では顔が映るとモザイクがかかったりする)。廃液漏れなんてまさに今直面してるわけだ。飲み屋でビール瓶をボーボー吹くので彼らの不安が伝わる。浜での宴会で、今まで出会った人の名前を並べ立てる声が、呪文のような効果を出す。あれは題名になっている党の党員名簿でもあるのか。なら政治的な映画かというと、原田芳雄が白いのかぶっていれば、宗教的な気配が漂う。天気雨ってのも宗教的だし。「弱いものは助け合うべきだが、その弱さゆえに仲間を裏切ってしまうこともある、でもその疚しさを持続させれば、いつか弱いもの同士の連帯が可能なのではないか」といったメッセージが浮かぶが、これは政治的なのか宗教的なのか。甘いと言われればそうだが、その切実さが迫ってくるので、つい「あふれる情熱、みなぎる若さ」と叫んでしまうのであった。
[映画館(邦画)] 8点(2013-09-10 10:00:18)
6.  いばら姫またはねむり姫
岸田今日子の奇妙な童話が原作。「眠りの森の美女」の新解釈もの。情熱に突き動かされて、うつろになってしまうってところが監督の好きな女性像なんだ。息を荒げている人形ってのがけっこうエロティック。つまりこの人は人形にふさわしくない「過剰な情熱に翻弄される女性」ってのが好きなのよね。それを無表情な人形のなかに封じ込めることに、妖しい悦びを感じてしまう人らしい。けっこう不健全なんだ。そもそも人形を動かして悦びを得る「人形アニメーター」ってのに、変態の要素があるんだが、子どもの遊び初めは、だいたい手で持って動かす人形遊びなのではないか。人形とは、ただ眺めるものでなく、「動かないはずのものを動かす(アニメートそのもの)」悦びの最初の道具なのだろう。変態の目覚めとして。
[映画館(邦画)] 7点(2013-05-20 09:55:47)
7.  生きてゐる孫六
この監督は基本的にバタ臭いところがあるが、これなんか戦争中の作品なのに骨組みはすごくアチラ風で、込み入っていた人々が、ラストでパタパタと片付いていくウェルメイドな手際の良さが見事。立派な青年や将校たちにリアリティが欠けるのは、時代がら仕方なかろう。陰気な家と青白きインテリの描写がいいんだ。婆さんの鉦の音が神経を逆なでするようにチンチンと持続する効果。あの戦時下、「お国のために」で良いものもずいぶん失われたが、なかなか壊れなかった旧弊なものも壊すことが出来た。木下さんはそっちの気分に寄ってる人だったろう。戦後の『遠い雲』などでも、古い家の厭らしさは繰り返しテーマとされる。あの戦争に対する肯定否定以前に、旧弊なものへの反発が一番根っこにあったモダンボーイだったのだと思う。監督二作目だがこれが初のオリジナルシナリオ。彼の得意な地方舞台のコメディだ。土地の由来を描く冒頭の戦国時代の合戦シーンはずいぶん金掛けてたようだが、ああいう勇壮なシーンがあると国威発揚の特別予算でも当局から付いたのかな。武田信玄も出てくる(ドラマそのものはあくまで現代劇よ)。数少ない彼の時代劇映画の『笛吹川』にも、先代の勘三郎が武田信玄で出てたっけ。
[映画館(邦画)] 7点(2013-01-18 10:02:18)
8.  鰯雲
成瀬のフィルモグラフィーにはときどき変種が紛れ込んでいて、おやっとさせられる。戦前にはプロレタリア作家徳永直の『はたらく一家』を映画化しており、その「おやっ」という違和感を成瀬の世界にしていく面白さがあった。ときに「合わないだろう」という脚本家と平気で組んで(会社の方針には逆らわない主義なのか)、菊島隆三脚本の『女が階段を上がるとき』を代表作にしてしまう。あと「合わないだろう」は、本作と『コタンの口笛』の橋本忍だ。どちらも原作ものだが、こっちは農民文学の人。都市の近郊農家の難しさとか、若い世代の農業離れの問題とか、成瀬的とは言えないテーマである。そのなかから「滅ぶものの唄」を引き出していく。鴈治郎が淡島千景に「みんなあんたの言ったとおりになる」とぼやくあたり、農民文学のなかから成瀬的なものが匂いたつ。土地の相続の問題、土地を平等に子どもに分割していったら、農業ってものが成り立たなくなっていってしまう、というけっこうシビアな問題も見据えている。「自分の生き方が現代と合わなくなってきている、でもそういう生きるしか道がない」というこの時代の農業従事者の苦衷が、成瀬的に、ということは半分諦めながら、しみじみと伝わってくるのだ。
[映画館(邦画)] 7点(2012-11-18 09:21:46)
9.  インディアン・ランナー
冒頭の鹿狩りに黒味を挟んでみたり、バスケットボールと音響とで緊張上げていくとことか、なんかやってはいるんだが、全体としてはちょっと退屈したか。この兄は主役に座るようなキャラクターじゃないんだよね。生活すること・家庭を持つことを怖がるアウトローの話で、兄弟愛は副次的なものにするべきだった。ひげのないチャールズ・ブロンソンは別人のよう。悪魔のような役どころデニス・ホッパーは合ってる。少年の弟が出てきてピストルを構えるところを撮りたかったんだろう。父親の自殺を知らせるまで朝刊が来るのを待っている同僚なんかよかった。もっと絞れば佳作にはなったはず。
[映画館(字幕)] 6点(2012-11-15 09:52:53)
10.  稲妻(1952)
次女の保険金に当然のようにたかり、下卑た男は出入りし、長男は頼りない。末娘高峰は兄のすね毛にさえ嫌悪を感じる、そういう一家のネットリ感を丹念に丹念に描いていく。どうしてそれが不特定多数の客の鑑賞の対象となる映画作品になるのだろう。次姉の死んだ亭主の妾のところに談判にいくエピソード。川や小さな橋のたたずまいが懐かしいということもあるが、この二人の味も素っ気もない会話もいいんだよ。ねちねち反撥し合いながら一つの共同体を作ってしまっている家族というものの、肯定でも否定でもない描写。これの対比として下宿人だった女性がいた。あまり深く立ち入って描かれてはいなかったけど、一人でやっていく厳しさと爽やかさが置かれる。あと下宿先の兄妹の睦まじさ(夜、光が漏れているさま)も、比較としてある。でも彼らは主人公の家族のネットリのリアリティを高めるために、デッサンされただけなのかもしれない。これらを倫理的判断を下さずにただ並置していく。普通の映画だったらちゃんと次女が見つかるところまで責任持つだろうが、成瀬はそんな分かりきったところにこだわらない。作中の言葉を使えば「ずるずるべったり」の、糸を引いてるネバネバを、なぜか不潔感なく描ききった映画ということだ。大人になった高峰秀子の戦後の成瀬作品はまた車掌さんから再スタートし、日本映画の黄金時代を築いていく。
[映画館(邦画)] 8点(2012-10-16 09:41:21)
11.  イン・ザ・スープ
この監督は海と父との取り合わせが好きらしい。ジョー(シーモア・カッセル)は友だちと言うよりも父的になっている。ニコニコ笑いながら悪いことに誘っていくジョーがなかなかいい。サンタのかっこして車を盗んだり。ブーシェミがキートン的な困惑に落ちいっていくあたり『ミステリー・トレイン』の彼を思い出させる。車の席の構図なんかも。おっかない男との対話、心の声に対してエッと言われたり。こういう被害妄想的ユーモアってこのころの流行のようでもあり、サイレント時代から連綿と続いていたようでもある。ジャームッシュの匂いが強い。本人も出てるし。前作『父の恋人』では男のオカマ役だったJ・ビールス(「こいつ女じゃねえ、男だぜ」って言われる役。ついでに言っとくとこのひどい役を設定した監督とビールスは結婚したが、やがて別れた)が今回は女性役。作品として面白い気分はあるんだけど、ちょっと物足りない。この監督はいっそセンチメンタリズムに徹したほうが、ジャームッシュとの違いを出せたか。
[映画館(字幕)] 6点(2011-09-25 10:12:32)
12.  偽れる盛装
『祇園の姉妹』を思わせるのは、もともと脚本の新藤兼人がオマージュとして書いたらしい。切りを重んじる母に、何言うとるねん、とやきもきする姉、このうちと小林桂樹んちのおっかさんとのイサカイのあたりはかなり小気味いい。溝口がぴったり女性の側について男社会を告発したのに対し、こっちはやや間を置いて、たとえば妹が町並みを眺めて「戦災に遭わなかったから封建制が残ってるんやわ」とか言うように、ちょっとヒトゴト風。こういうところが新藤さんの弱点かな。客観的であろうとして評論的になってしまう。進藤英太郎のとこの店で京マチ子がお酒を飲んでいると、カメラのすぐ前で盃のやり取りが始まって客の噂話につないでく、なんて演出もあった。この時代、自転車で走るってのは、健全の象徴だったのね。町のすいていること。進藤英太郎はつくづくいい。時代劇では平気で単純な悪役を嬉々として演じられるし、こういう役もやる。ただのアホじゃなくて、それ相応の仕事はしてきた男を感じさせる。好色でも開放的であって、東の森繁のようなヤサ男とは違う豪放さを持っている。日本の西の男のある典型なんだろう。
[映画館(邦画)] 6点(2011-07-31 10:27:24)
13.  今ひとたびの
いかにもこの時代を代表するような作品で、メッセージ先行、あまりリアリティのない人たちがすれ違うメロドラマ。なんて言ったらいいか、主人公たちがひどく抽象的な苦悩を苦悩しているという感じ。苦悩っつうのはもっと具体的な手応えのあるものなんじゃないか。誕生日でのブルジョワの会話だって「だからプロレタリアって嫌い」って言うだけじゃミもフタもない。もっと工夫した会話を練れなかったのは、つまり観念的な操作だけで物語が出来ちゃってるからなんだろう(というか、参考になる本物のブルジョワが映画人の周辺にはいなかったってことか?)。高峰さんが波砕ける岩場で男の名を、竜崎君がダムで女の名をそれぞれ呼ぶシーンは、やっぱ見てて照れちゃう。でもサナトリウムのシーンでは、隣に座ってた年配の方が泣いていた。あの戦争の時代を通過した人には、その世代だけが理解できる胸を絞るようなツボがあるのであって、軽々に笑ってはいけない、と思いました。高峰さんは女学生からバーのマダムまで演じて、当時おいくつだったのか。ギリギリ20代には引っかかってるか。
[映画館(邦画)] 6点(2011-05-10 12:20:38)
14.  刺青一代 《ネタバレ》 
河津清三郎邸の平気でリアリズム離れするすごさ。弟が殺されるところの花道的な使い方。長廊下。横移動。斬り込みシーン。雷に映る障子の影。延々と続く襖。待ち構える槍の列。奥の黄色い光。一人ずつ対戦するのも美しさのため。河津がいる部屋も、何か半階上にある抽象的な世界でググッと左に移動して影に入ったりまた戻ったり、と突如真下から見上げるの、エイッと突くとパタッと外は篠突く雨、…まあ見事でした。これ途中でちょっとでも休んじゃダメね、こちらにどうこう客観的に醒めた目で見る時間を与えない。ひとつひとつの安っぽさを塗り重ねていくことで、なんだか知らないけど異様な「たしかな手応え」を生んでしまっている。あと思い出すままに挙げると、野呂圭介が屋根で寝てるとこ、高品格とのけんか、船のあたりでの人の見え隠れとか、ラストの花札パラパラとか。話はけっこう定型踏んでるの。カタギの弟のためだったり、自分はやくざもんだからと和泉雅子の愛を振り切ったり、山内明が逃がしてくれるあたりの男と男の意気など、ごく普通の定型の物語なのに、それを全然定型でない映画に仕立ててしまっている。
[映画館(邦画)] 7点(2011-02-20 11:06:25)(良:1票)
15.  石中先生行状記(1950)
これは「成瀬的」というもののイメージをことごとく裏切りつつ、それでも観終わってみれば、やはり成瀬の映画を観た、という気分にさせてくれる不思議な作品である。まず成瀬的「うじうじ」がなく、「朗らか」である(多くの作品ではそのうじうじぶりがたまらなくいいんだけど)。これはまあ原作のせいかもしれない。次に狭い「下町の路地」を得意とするのに、これはいたって「牧歌的」。道を撮ると印象的なのは同じだが。そして「中年」の話で多くの名作を残しているのに、これは「若者」。若山セツ子と三船敏郎(当時は若者なのだ)の第三話など、愛すべき作品。でもみずみずしさがあまりほとばしらないところが、なんか成瀬らしい。加えて達者な役者たち。欲もあり人もよし、というところは進藤英太郎以外に考えられず、藤原釜足と中村是好のコズルサを出す会話の妙には堪能させられた。最終話の囲炉裏を囲むシーン、健康そのものの若山セツ子とブスッとしている三船敏郎の対比、それまで若い娘のいなかった家庭のこれまでを想像させてくれる(若山が『青い山脈』の自分のシーンを観ているなんて、似合わぬジョークもやっている)。成瀬の代表作ではないかも知れないが、こういう明朗・牧歌的・若者の作品もあるって嬉しい。
[映画館(邦画)] 8点(2010-09-24 09:53:03)
16.  119
前作との比較で言うと、前作は山・本作は海、ってことが一番気づくが、前作は都会生活者・今回は地方の人、ってことのほうが大きかったかも知れない。この人は、侘しさからおかしみを取り出すのが趣味みたいで、前作はそれがうまくいった。ただ今回は、もともと侘しい地方を舞台にしているので、その侘しさがユートピア的なイメージで覆われ、ちょっとじかに触れられなくなってしまった感じがある。侘しさが剥き出しになってくれない。そこらへん物足りない。久我美子に小津調で語らせるギャグ。わっと子どもが走り抜けていくと、そっちから赤井英和がかけてくるシーン(ここらへんは寅調)。完全にうつ伏せに倒れているマルセ太郎。本当はラスト、退屈したカットのとき、向こうの窓を消防車が動き出すところを一緒に映したかったのではないか。
[映画館(邦画)] 6点(2010-08-14 10:03:11)
17.  刺青(1966) 《ネタバレ》 
照明が近いので影が大きくなる。また横向きの場合コントラストが強く、正面の場合ノッペリとする。それでなにか非常に「狭い」感じが出てくる。人物も凝縮していく感じ。あんまり大らかな人物は登場しない話だし。「伝奇もの」でもないんだよなあ。女郎蜘蛛を彫られてから女が変化していく、ってんでもなく、その前からそういう感じで演出してた。だからいくら若尾文子が「だました男に復讐してやるんだ」って言っても、口実みたいになっちゃう。それでいいんだろうね。口実なんだよ。魔性の女には違いないけど、それは彫りもののせいなんかじゃなく、女の本質なんだろう。それを映画は怖がってるだけじゃなく、突き放して笑って見ているところがある、もちろんまわりの男たちも含めて。女がそそのかし、男が「またやってしまった…」と青ざめる繰り返しに、何か、夫婦漫才みたいな感じがチョロッとある。
[映画館(邦画)] 7点(2010-05-05 11:57:23)
18.  居酒屋ゆうれい
京浜急行沿線って、なにかいい意味での場末的な雰囲気を残している。消えていく幽霊はなぜ哀れなのか。幽霊ってのがそもそも、死別を自己完結できないとこから来ているわけで、それを何とか納得させたいときに、哀れに消えていく幽霊が必要になってくるのだろう。生き残ったものの後ろめたさ、ってことが底にありそう。舞台が場末ってことがしっくりくるのだ。死別と生別の二人、死別のほうが優しく、生別のほうが冷たい。女同士のほうがなにやら仲良くなっていってしまう。あの世とこの世のけじめが曖昧になる。のりうつったりもする。男にとって、妻も死者も同じものなのだ。演出はあまり奇をてらわないのがよく、鏡の中に座って映る室井滋、時計の振り子越しに夫婦を眺め下ろしたり、転がるビー玉など。トルコの軍楽隊みたいのも聞こえるが、島倉千代子の「愛のさざなみ」が場末感充溢していて嬉しい。くりかえす~、くりかえす~、さざなみ~の、ように~。
[映画館(邦画)] 7点(2010-03-13 11:58:53)
19.  インスタント沼 《ネタバレ》 
流行を追う雑誌の世界がまずあり、それから一時は最先端だったものが古物になりかけているツタンカーメンの占いマシンがあり、さらに後ろに骨董・折れ釘が控えていて、その背後には蔵・何者かを潜ませている沼、そして河童の世界につながっている。そんな世界観。雑誌の世界を追われたヒロインの、最後の世界までのオデュッセイ、ってなところか。「本当の父親探し」なんてのもほとんど骨董の世界の物語だ。そういった古いものとインスタントなものの対比、というか混交。ラストは、「インスタントの中からでも空駈けるものは出てくる」と肯定的に見るのか、「現代では空駈けるものもインスタント」とショボンと見るのか、どっちにも取れる。冒頭のシークエンスなんかすごく凝っていて、手間暇かかってる。“どうだ、ささいなクスクス笑いのために、これだけ手間かけてるんだぞ”といった自慢げな意気込みが感じられる。ほかにもけっこう手間かけてるなあ、と思うシーンがあったんだけど、ほら、もう思い出せない。瞬発的には感心するんだけど、けっきょくクスクス笑いの元なので、さして記憶に残らない。そこらへん、なにか映画としてもインスタント感が漂ってしまった、意図したものなのかどうかは知らないけど。
[DVD(邦画)] 6点(2010-03-08 11:58:28)
20.  EAST MEETS WEST 《ネタバレ》 
どうも焦点がボケているためにハズんでくれない。真田とそれを追う竹中いう設定が、あまり活きなかったんじゃないか。いっそラストの悪の街に乗り込むとこだけに焦点を絞ったほうが、シャキッとしたと思う。喜八らしさは、忍術で体をクネクネして牢格子を抜けるあたり、老人たちに銃を持たせたとこ、インディアンの歌と木遣りが重なる音響効果、など。刀とピストルで対決するってのは、『用心棒』を初めいろいろ試みられているが、どうもスッキリするアイデアは生み出せていないようだ。二人が対決する距離設定が難しいんだろうな、両者有利不利なしの対等な距離ってのが思い描きづらい。これ、永遠のテーマ。
[映画館(邦画)] 6点(2010-01-09 12:02:05)
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