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鉄腕麗人さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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61.  切腹 《ネタバレ》 
「竹光」というものの存在を、7年前にこの映画を初めて観た時に初めて知った。 この映画における「竹光」の用いられ方は、あまりに哀しみと痛みを秘めており、暫く心に焼き付いて離れなかった。  いわゆる「勧善懲悪」の娯楽時代劇とはまさに対極に位置するこの作品は、武家社会の様式の厳しさと美しさ、そして根本的な無情さを鮮烈に描き出す。 その無情さは、ストーリーが深まるにつれ更に深化し、深い深い“愚かさ”として露になる。 そのほとんどが屋敷の庭先で展開されるストーリーは、極めて予測不可能。時代劇でありながら秀逸なサスペンスの雰囲気さえ感じずにはいられなかった。  何よりも、大胆かつ神妙な語り口で主人公を演じきる仲代達矢の振る舞い、眼光、発せられる声質まで総てが圧倒的だ。まさかこの当時30歳とはとてもじゃないが信じられない。彼に対峙する三國連太郎の独特の存在感も素晴らしかった。  初見時は、遷移する時代の“ひずみ”の中において起こった武家の非道な仕打ちに対して、主人公が自らの命を賭してその在り方を問う映画だと思えた。 もちろんそれも、この映画の中でメインで描かれている側面だとは思う。 しかし、数年ぶりに見返してみて、また違う側面も垣間見えた。  それは、この映画の物語の中で描かれるある種の無情さと滑稽さそれに伴う愚かさは、必ずしも非道な仕打ちをした武家に対してのみ描かれていることではないということだ。 むしろ"愚かさ”ということに関しては、主人公自身の悲しみの中にこそ描かれていたと思う。  誰よりも愛する家族に対して非道だったのは、“刀”を捨てきれなかった自分自身だったということに、主人公は気づき、己の愚かさに打ちひしがれたのち、「切腹」を覚悟し武家に赴いたのだろう。  仲代達矢演じる主人公が、三國連太郎演じる家老に放った激情ほとばしる一つ一つの言葉は、実のところ自分自身に向けたものだったように思えてならない。  移りゆく歴史の流れの中でひっそりと蠢いた一瞬の裏側を見事に切り取った大傑作だと思う。
[DVD(邦画)] 10点(2004-05-24 01:39:54)(良:3票)
62.  八日目の蝉
3年前に小豆島へ行った。当時付き合っていた彼女との初旅行だった。 思い返してみれば、「小豆島へ行きたい」と思ったきっかけは、角田光代の「八日目の蟬」を読んだことだった。 幼子を誘拐した主人公が逃亡の果てに安住したのが小豆島だった。文体からは、偽りの母娘を包む優しい島の光と空気と香りがありありと伝わってきた。  あれから3年が経ち、あの小説の映画化作品を観た。  いつぶりだろうか、映画館で号泣した。泣いた。めくり上げていたパーカーの袖を手首まで戻して、とめどない涙を拭った。もれ出そうな嗚咽を必死に抑えた。  素晴らしい小説の映画化は非常に難しい。ただし、それが成功した時、その映画は特別なものになる。 この映画は、映画が好きな人、小説が好きな人、その両者にとって幸福な奇蹟だと思う。  子を産むという愛、子を育てるという愛、本来合致しているべき二つの愛が分断されてしまったことによる悲哀。 もちろん、それは「幸福」なことではなかった。 ただそれが、そのまま「不幸」でもないということに、二つの別々の愛を受けて生きた娘が気付いたとき、この物語はその真の意味に辿り着く。  文体が映像化されることにより生まれる“差異”は、多くの場合弊害となる。でも、この映画にはそういう弊害がまるでない。 それはこの映画が、良い意味で原作に依存していないからだと思う。 文体が伝える情感に寄り添いつつも、映画表現として一線を画し、映画作品ならではの新たな情感を生み出している。  決して消えることのない悲しみを抱えながら偽りの母を演じ、子を育てる幸福を心の底から感じた女の心情。 子を育てる幸福を奪われ、戻ってきた子にまっすぐな愛情を注ぐことが出来なかった女の心情。 その狭間で苦悩を抱えながら成長し、自らが宿した子への愛に気付いた女の心情。  それはもう、喜びも悲しみもすべてひっくるめた眩しい光のようだ。あまりに眩しいその光を覆うように、涙が溢れた。  男の僕は、子を身籠るということの本当の意味を一生理解できない。絶対に。 それでも、それぞれの激しい心情の吐露に、胸が締め付けられた。  3年前に小豆島へ行った彼女は、妻になり、もうすぐ母になる。 僕自身が親になるこのタイミングで、この素晴らしい映画を観られたことを幸福に思う。
[映画館(邦画)] 10点(2011-05-09 17:06:20)(良:3票)
63.  サマーウォーズ
ネット上の仮想世界が、現実世界のライフラインをも司るようになったごく近い未来社会。 そんな中、田舎の“おばあちゃんち”に集まった家族一同が、結束して世界を救う。という話。  “バーチャルリアリティ”の世界と、旧家の“おばあちゃんち”という相反する「場面」の融合。 このユニークな題材を、「時をかける少女」の細田守×マッドハウスがどうアニメーションとして描き出すのか。 それは興味深さと同時に、大いなる疑問符を持たざるを得なかった。  が、その疑問符は、圧倒的に高い「創造物」としてのクオリティーの前に、早々に一蹴される。  作り込まれた仮想世界のディープさと、“おばあちゃんち”という普遍的な日本の様式を見事に共存させ、映画に引き込まれるにつれ、この上のない“居心地の良さ”に包み込まれる。 ストーリー自体ももちろん面白かったのだが、マトリックス的に入り組んだ世界観を、決して小難しく表現するのではなく、日本独特の居心地の良さの中で極めて身近な感覚で表現できたことが、この映画のこの上ない価値だと思う。  仮想世界の中でのアバター同士の“つながり”を、現実世界の家族同士の”つながり”、そして世界全体の人間同士の“つながり”にまで昇華していく。 その様は、ネット上でしか繋がりを持てないでいる現代人、すべてを“数字”で処理してしまう現代社会に対する警鐘であり、同時に“救い”のように思えた。  そういうことを、難解なフレーズを並び立てて描き出すのではなく、主人公の少年をはじめ、一人の人間の心の成長の中で瑞々しく描き出す映画世界に、泣けた。  梅雨明け初日、夏のはじまりの日に見る映画として、実にふさわしい。実にスバラシイ映画だ。
[映画館(邦画)] 9点(2009-08-01 12:48:58)(良:3票)
64.  宇宙人ポール
昨年「SUPER8」を観た時に、作品としての完成度には不満を持ちつつも、溢れる“映画愛”に対して無下に否定することが出来なかったことが思い出された。 あの映画と今作は、映画としての立ち位置はまったく違うように見えるけれど、本質的な“理念”はむしろ全く同じと言っていい。 即ち、かつて世界中が熱狂し愛したスティーブン・スピルバーグをはじめとする偉大な映画監督たちが生み出した数々のアメリカ娯楽映画に対する「敬愛」。まさにその一言に尽きる。  ただ、今作が「SUPER8」と少し違うところは、そんな理屈抜きにして問答無用に面白い映画であるということだ。 往年の娯楽映画に対するオマージュに溢れてはいるが、そんなものはあくまで“おまけ”であり、きっと誰が観たって「面白い!」そういう映画としてきっちりと成立している。それが、「娯楽映画」として最も素晴らしいことであることは言うまでもない。  英国の“ボンクラオタク男子”の二人組が、憧れのアメリカ旅行中に宇宙人に遭遇する。紆余曲折を経つつ意気投合し、宇宙人の彼を仲間の元へ送り届ける。 実際ただそれだけの話である。ただそれだけの話が極上の「娯楽」になる、だからこそ映画は素晴らしいのだということを、この映画は再確認させてくれる。  何と言っても、宇宙人“ポール”の存在感が凄い。 実写映画の中の一キャラクターをフルCGで描き出すという試み自体はもはや珍しくもない。 しかし、そこに娯楽映画の主人公に相応しい愛着と、周囲のキャラクターと同様に息づく存在感を持ち合わさせることは、並大抵のことではない。 決して仰々しくなく、さりげなく描き出されているように見えるが、このクオリティーの高さは「凄い」としか言いようがなく、それを生み出しているものこそが、製作スタッフの紛れも無い「映画愛」に他ならないと思えた。  最高に楽しくて良い映画だったと思う。ただし、惜しむらくは自分自身が“SF映画オタク”になりきれていないこと。 前述の通り、過去の名作SF映画を観ていなくても存分に楽しめる映画であることは間違いない。 しかし、オタクだったならばもっともっとはしゃげたんだろうと思うことも事実。 「ああ、これは何かの映画のオマージュなんだろうな」と気付きはするが、それが何なのか明確にならない悔しさは随所で感じてしまった。  とりあえず「未知との遭遇」は早急に観よう。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-07-14 22:54:32)(良:3票)
65.  クラウド アトラス
無数のクローン少女たちが、何も知らぬまま「死」への歩みを進める。 その不穏さに溢れたシーンが、手塚治虫の「火の鳥」における人間の精神を受け継いだ万能ロボット“ロビタ”の“死の行進”と重なった人は多かろう。  この奇妙で荘厳な映画を観終えてやはり何よりも先ず思ったことは、「火の鳥にそっくりだ」ということだ。 そして、手塚治虫のライフワークであった「火の鳥」の“崇拝者”である僕にとって、この映画に対してのその感想は、最大級の「賛辞」であることは言うまでもない。  時空を超えた6つのストーリーにおける複数の“同一の魂”を描いた映画世界は、非常に複雑で、混沌としているように見える。 しかし、まさに散らばったパズルのピースが組み合わされていくように、次第に複数の支流が絡み合い、結びつき、大きな一つの流れに集約される。 そうして紡ぎ紡がれた一つの結末に辿り着いた時、すべての疑問や謎は、そんなもの最初から無かったかのように綺麗に解消され、主人公が見上げる星空の如く美しく澄み渡る。  誰もが「映像化不可能」と考えた原作は未読だが、前述の通り、手塚治虫の「火の鳥」の映画化と考えれば、それを成立させた「構成力」だけを取っても映画としての価値は揺るがないと思う。 しかも、複数の独立したエピソードを章分けするでなく、すべてを同時進行で描き連ね、最終的に一つの物語に“繋げた”ことは、もはや奇跡的ですらある。 ウォシャウスキー姉弟とトム・ティクヴァ、この3人の監督が導き出した映画世界は、原作の持つテーマと世界観を完璧に再現し、更にそこに誰も見たことが無い映画のマジックを加味してみせたと思う。  勿論、時代も人種も性別までも超越した複数の人物像を演じた俳優たちも素晴らしい。 彼らがそれぞれのキャラクターすべてにおいて見事に息づいているからこそ、6つの物語は本質的な部分で結びつき、一人のキャラクターではなく、一つの魂を持ったキャラクターに感情移入出来たのだと思う。  兎にも角にも、この映画の凄さは、いくら言葉を並べても表現出来るものではない。 ハリウッドの大作映画としては珍しい程にとても実験的な作品であることは間違いなく、評価は大きく二分されることも頷ける。 ただし、結局のところそれは実際に観てみないと分からないだろうし、結果がどうであれ「観た」ということの価値が大きい映画であることは間違いない。
[ブルーレイ(字幕)] 10点(2013-07-15 23:13:10)(良:3票)
66.  ゴジラ-1.0
「恐怖」が、戦後直後の復興途中の東京を蹂躙し、街を“再び”焼き尽くす。 たった一発の絶望的な熱線により、「生活」のすべてが吹き飛び、巨大なきのこ雲が立ち上る様を呆然の見上げるしか無いその“無慈悲”は、まさしく本作の映画世界でこの国が経てきたばかりの悲劇の再演であった。 突如現れた畏怖の象徴を目の当たりにして、立ち尽くす“日本人”の視線は、恐怖感や絶望感を超えて、諦観しているようにも見え、その様が事程左様に無慈悲への拍車をかけていた。 “恐怖の化身”という言葉がそのまま当てはまる大怪獣に対する畏怖の念は、1954年の第1作「ゴジラ」、そして2016年の「シン・ゴジラ」に勝るとも劣らないシリーズ随一のものだったと、まず断言したい。  1954年の「ゴジラ」第1作目から70年、国内製作の実写版としてちょうど30作目となる本作。過去のシリーズ作全作、ハリウッド版やアニメ版も含めてすべて鑑賞してきた“ゴジラ映画ファン”である自分にとっても、確実に五指に入る傑作だった。 正直なところ、7年前の「シン・ゴジラ」があまりにも大傑作だった故に、もうこれ以上ゴジラ映画を製作することは難しいんじゃないかと思っていた。 今年、新作が公開されるという情報を見聞きしても、期待感はそれほど膨らまず、ギリギリまで高揚感も高まらなかった。 山崎貴監督は、その懸念と軽視をものの見事に吹き飛ばし、蹴散らしてみせたと思う。  自らの得意分野であるVFXによる圧倒的ビジュアルを駆使して、観客を映画体験を超えた“ゴジラ体験”に引き込んでみせたことが、成功の最たる要因だろう。 これまでのシリーズ作においても、伝統的な特撮技術や、先進的な撮影手法による魅力的なゴジラ造形や映像世界の構築は多々あるけれど、そのどれよりもゴジラを巨大に、そして“間近”に見せていると思えた。 ゴジラの巨躯と対峙する登場人物及び、我々観客との圧倒的に短い距離感こそが、この体験のエキサイティング性を際立たせているのだと思う。  そしてゴジラが登場する映画世界の舞台を1947年にしたことも的確だった。 過去作でいくつも昭和の日本描写をクリエイトしてきたこともあり、その精度も最大級に高まっていた。精巧な映像世界の“創造”ができるからこそ、それを“破壊”することにおいても極めて高いクリエイティビティを発揮できているのだと思う。  昭和時代の人間模様を描いたドラマとストーリーテリングには、この監督らしい懐古主義をいい意味でも悪い意味でも感じ、台詞回しや演出プランには、ある種のベタさやオーバーアクト的な雰囲気も感じたけれど、その点も“昭和のゴジラ映画”へオマージュを含めたリブートと捉えれば的確だったし、印象深い演技シーンも多かった。 神木隆之介の華奢な主人公感、浜辺美波の圧倒的に美しい昭和女優感、吉岡秀隆の一瞬イカれた目つきを見せるマッドサイエンティスト感、佐々木蔵之介の分かりやすくべらんめえ口調な江戸っ子感等々、愛すべきキャストのパフォーマンスが、本作への愛着を高める要因となっている。   一つ一つの台詞に対する丁寧な伏線回収や、クライマックスの作戦終盤において熱線放射寸前で発光しているゴジラを海中に沈めることで状況をビジュアル的に認識できるようにした工夫など、本作は努めて“分かりやすく”製作することを心がけている。 ストーリー展開や登場人物の心情の少々過度な“分かりやすさ”は、世界のマーケットも見据えた本作の明確な製作意図であることは間違いない。  私自身、ハリウッド版ゴジラの各作品や、国内で制作された“アニゴジ”の3部作、Netflix配信のアニメシリーズ「ゴジラ S.P」の鑑賞を経て感じたことは、世界的なカルチャーアイコンとなった「ゴジラ」に対しては、ファン一人ひとりにおいて「観たいゴジラ映画」があって良いということ。 そして、“ゴジラファン”を経て、クリエイターとなった一人ひとりにおいても、「ゴジラ」をテーマにしたストーリーテリングは、自由闊達にその可能性を広げて良いということだ。 そのためにも、日本国内のみならず、より広い世界のターゲットに向けて、改めて「ゴジラ映画」の魅力を提示し、新たな展開に繋げていくことは、ともて意義深いことだと思う。  「映画作品」としての質や価値を主眼にするならば、本作は1954年「ゴジラ」や、「シン・ゴジラ」には及ばないかもしれない。 ただし、世界中の人々が愛することができる「ゴジラ映画」として、この作品の立ち位置はまさしく一つの「最適解」だ。
[映画館(邦画)] 10点(2023-11-04 23:39:30)(良:3票)
67.  エクスペンダブルズ2
クライマックス、シルベスター・スタローンの太い腕がナイフを地面に突き立てる。 その“腕の太さ”は、単純な筋肉の誇示ではなく、この映画俳優が長年に渡り培ってきた成功と苦労の象徴のように見えた。  満を持してこの映画を観た翌日の日曜日、実家にて庭作業をする父親を手伝った。自分自身が育った分、当然ながら父親は確実に歳をとっている。その父親の腕と、前日に見た老アクションスターの腕が、見た目的にも、意味合い的にも、何だか重なって見えた。 もちろん良いところばかりではないが、自分がこの“腕”によって育てられてきたことは紛れもない事実であり、感謝をしなければならない。 そして、「映画鑑賞」という人生経験においても、この映画に勢揃ったアクションスターたちの“太い腕”によって育てられたということは、たぶん間違いないことだと思う。  つまるところ、この映画が世界中のアクション映画ファンにとっての「夢」そのものであることは明らかだ。 そんな「夢」の実現、そして彼らがそれぞれに苦心して経てきた映画人生そのものに、まず感謝せずにはいられない。  もちろん「完璧」などという形容が相応しい映画ではない。ただ、敢えて言うならば、「完璧」ではないことが「完璧!」と断言できる。 スタローンとシュワルツェネッガーとウィリスが、見紛うことなくそろい踏み、惜しげもなく銃器をぶっ放す。 ヴァン・ダムが、代名詞のハイキックを見事に繰り出し、極悪非道を演じる。 ステイサムは、洗練された格闘とナイフアクションで、“現トップスター”の意地を見せる。 そして御歳“72歳!”のチャック・ノリスが、“伝説的”な立ち位置でオイシいところをかっさらう。 ストーリーにおける粗なんて本当にどうでもいい。これだけの要素が盛り込まれていて、他に何が要るのかという話だ。 「良い!」と思う全てのシーンにもれなく付随する“ほつれ”も含めて、この映画の不完全な完全さだと思う。  「大人の事情」を感じてしまうジェット・リーの序盤での“里帰り”や、“マギー・チャン”役には何とかマギー・チャンを出してほしかったなどなど細かな物足りなさはあるにはある。 そして、セガールにスナイプスにヴィン・ディーゼル、見たいヤツらはまだまだいる。 「5」あたりで超グダグダになることまで、アクション映画シリーズの“お約束”と想定に入れて、まだまだ“祭り”が観たい!
[映画館(字幕)] 8点(2012-11-18 23:55:26)(良:3票)
68.  レ・ミゼラブル(2012)
2012年、年の瀬。たぶん、今年一番泣いた。 生命をまっとうした人物たちが、人生の讃歌を高らかに歌い上げるラストシーンに涙が止まらなかった。  こんなにも泣くつもりはなかった。「レ・ミゼラブル」という物語については、原作も読んだことがあるし、過去の映画化作品も観ていたので、描き出されるストーリー自体に感動こそすれ号泣などはすまいと思っていた。 実際、涙が止まらなかった直接的な理由は物語に対しての感動によるものではなかったと思う。 映画の持つ素晴らしさ、音楽の持つ素晴らしさ、芸術という表現そのものが持つ果てしなく大きな「力」に対して、感動し、むせび泣いてしまったという感じだった。  この物語に本質的な意味で“間違っている”人物は登場しない。 すべての人物は、ただただひたすらに“生きる”ということに執着しているだけだ。必死に生き抜こうとしている彼らを誰も否定することなど出来ない。 ただ、だからこそ人間同士はぶつかり合い、すれ違い、「人間」であるが故の悲喜劇が生まれる。 この物語が、時代と国を越えて愛され続けているのは、そういう人間そのものの本質的な葛藤とそれに伴う壮大なドラマが、決して色褪せるものではないからだと思う。  その色褪せない人間ドラマが、音楽、歌唱、映像、演技、それらすべてをひっくるめた「光と音」で彩られる。 スクリーンいっぱいに繰り広げられるその映画世界は、もはや奇蹟的で、神々しさすら感じた。  そんな映画にこれ以上言葉など必要ない。 今この時季にこのミュージカル映画を観られたことへの多幸感に対して、立ち上がって拍手を送りたくなった。 いつか必ず舞台版も観たい。
[映画館(字幕)] 10点(2012-12-23 00:57:58)(良:3票)
69.  恋はデジャ・ブ
十数年に渡って、この映画のジャケットをレンタルショップで幾度となく見続けてきた。 そしてその度に、「若いビル・マーレイが出ているチープなラブコメなんだろうな」と思い続けてきた。 何より、「恋はデジャ・ブ」という邦題がださ過ぎる。恐らく、多くの映画好きの日本人が同じような印象を持っているんじゃないかと思う。  ところがこの映画が、アメリカの歴代映画ランキングの「ファンタジー」部門で8位にランキングされており、驚いてしまった。 そして追い打ちをかけるように、TSUTAYAの“発掘良品”の企画棚に並んでいるのを観て、この映画の存在を知って十数年目、初めて手に取った。  いやあ、良い映画だった。まさに“8位”、まさに“発掘良品”に違わない。  自尊心ばかりが強い意地の悪い主人公が、嫌々訪れた田舎町で、“或る一日”を抜け出せず、繰り返し繰り返し同じ一日を生きなければならなくなる。 良いことも悪いこともすべてが繰り返され、主人公は時に楽観し、時に悲観し、心情の浮き沈みさえも繰り返す。  人は誰しも、とても良いことがあっても、とても悪いことがあっても、「また同じ一日をやり直したい」と思う。 では、実際にそういう状況に陥ったとき、果たして何が出来るのか?ということをこの映画はひたすらに描き出す。  永遠に繰り返される一日。それはやはり“悲劇”であり、“恐怖”だと思う。 何を成功しても、何を失敗しても、目が覚めると”ゼロ”に逆戻り。 その儚さは、「一日」に“始まり”と“終わり”があることの「価値」を雄弁に語る。  ラブコメであるこの映画は、恋の成就とともに一応ハッピーエンドを迎える。 ただそのハッピーエンドには、また繰り返される一日が表裏一体で存在しているようで、何だか怖い。  ビル・マーレイが演じる主人公は、繰り返される一日に苦悩しながら、人生における様々な発見と経験を得ていく。 この映画は、“同じ一日”を繰り返して描くことで、人生にまったく“同じ一日”なんてものは無いということを、ファンタジックな辛辣さの中で物語っている。  最後に……やはりこの邦題だけは最悪だ。
[DVD(字幕)] 8点(2010-10-31 19:06:14)(良:3票)
70.  新感染 ファイナル・エクスプレス
「ゾンビ映画」×「韓国映画」 この食い合わせはとてもよく合いそうだが、これまで著名な作品が殆ど生まれてこなかったことが意外である。 韓国映画のクオリティの高いアクション・バイオレンス描写や、特有のドライさを携えた客観性や批評性、トータルバランスに秀でた映画的娯楽性の高さは、ゾンビ映画との親和性がそもそも高いと思える。   ゾンビ映画というものが飽くことも無く世界中で作られる理由は、人間が最も恐れるものが「人間」そのものであることに尽きる。 その恐怖の象徴として、“ゾンビ”という人間の権化が生み出され、、それに襲われ食い尽くされる様は、常に社会問題に対する警鐘と共に、人間自らに対する自戒として描かれてきた。   そしてついに生み出された“韓国製ゾンビ映画”は、ゾンビ映画としても、韓国映画としても、しっかりと傑作だった(案の定)。 古今東西世界中で生み出し続けられているゾンビ映画というジャンルの根底にある本質をきっちりと捉えた上で、“特急列車パニック”というジャンル性をも見事に融合してみせた確固たる娯楽映画である。   本作のストーリーテリングは、極めてベタで王道的だ。過去の各国のゾンビ映画やパニック映画の定石を丁寧になぞるかのように、ストーリーは展開される。 ただし、不思議なのだが、映し出される映画世界に対して、使い古されたありきたりな印象は一切受けない。むしろとてもフレッシュにすら感じる。クソダサい駄洒落に思えたこの日本語タイトルも、鑑賞を終えてみるとあながち的外れでもないなと思える。   その最たる要因は、韓国映画の土壌の豊かさに他ならないだろう。 無論、ゾンビ映画としての土壌の新しさも映画的な新鮮さに繋がっているだろうが、やはり前述の通り、卓越したアクションシーンや躊躇のないバイオレンス描写、自らの国民性をドライに映し出した人間描写など、クオリティの高さとバランス感覚を兼ね備えたこの国の“映画力”が反映された結果だと思う。   クライマックスにおける展開と、物語の帰着も、極めて韓国映画らしく、映画表現としてのシビアさと感動に満ち溢れている。  “悪役”として位置づけられているキャラクターの言動は、心底胸糞悪くて、もっともっと残酷な“退場”を迎えて欲しかったけれど、果たして、この映画を観たどれだけの人間が、“あいつ”のことを完全に否定できるだろうか。 彼にだって帰るべき場所があり、家族があり、突如放り込まれたパニックの中で只々怖かっただけだろう。 非道い言動を繰り広げた悪役をただ「ざまあ」と殺さずに、最後の最後までひたすらに主人公らを脅かし続ける役割を与えていることこそが、この映画の最たる「苦味」だ。  つまりは、この“悪役”こそが、現実の社会における私たちそのものだと思う。 主人公の父親も、悪役の会社役員も、人間としての本質は大差ない。むしろ親しい人間性として描かれている。 それはこの社会に生きる誰しもが、英雄にも悪者にもなり得るということの証明だ。 「普通」に生きているつもりでも、いつ何時、健全な社会を食い尽くす“ゾンビ”になるか分からない。 このソウル発釜山行きのゾンビ映画は、ジャンル映画としての真っ当な警鐘と自戒を、マ・ドンソクの無骨な拳のようにドスンと重く豪快に叩きつけてくる。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-08-16 01:05:41)(良:3票)
71.  ブルーバレンタイン 《ネタバレ》 
結婚をして2年。今年の夏に愛娘が生まれ、ちょうど三ヶ月目の夜。一人、ウイスキーを飲みながら、この映画を観た。 「絶対にこのタイミングで観るべき映画ではなかった」とも思うし、「今だからこそまだ観られる映画だ」とも思った。  「他に誰もいらない」と結ばれた二人。永遠に変わらない愛を信じる過去と、永遠に変わらない愛なんてないと知った現在が、時間を超えて交錯する。 それは世界中で無数に繰り広げられる誰でもが知っている男女の営みの形であり、だからこそ哀しく、だからこそ精神的に堪えた。  僕はまさかこんなラストだとは想像してなかったので、あまりに美しくあまりに哀しいシーンが、エンドロールの始まりとともに"ラストシーン”となった瞬間に、「そりゃないぜ」と思ってしまった。 その瞬間は、「なんて酷い映画だ」と思わずにはいられなかった。 でも、切ないエンドロールを呆然と観ながら、自分の心が説明のつかない揺さぶられ方をしていることに気づいた。端的に言ってしまうと、“動揺”してしまっていた。  “動揺”の理由は、あまりに哀しいと感じたこのラストシーンが、絶対に自分に訪れないとは、必ずしも言い切れないということを、この映画のすべてが物語っていたからだ。 もちろん今は、自分はあんなことにはならないと信じて疑わないけれど、それはこの映画の中の二人とて同じことだったろう。  人間の気持ちなど変わりゆくものだとそもそも悟って、その都度対応できればそれにこしたことはないのだろうが、そういうわけにもいかないのが、人間の無様な美しさだと思う。  観終わった瞬間に「酷い映画だ」と感じたことに間違いはないけれど、観る者のその時々の感情や環境や価値観によって、様々な映り方をするであろう素晴らしい映画だとも思った。  とても哀しい結末だったけれど、それすらもこの映画の二人にとっては経ていくべきプロセスなのだろうとも思えた。 その後の二人がどういう人生を送っていくのかということもとても気になるので、時間を経て、同じキャストで続編が制作されれば、嬉しいなあと思う。   さてそろそろ気持ちが耐えきれないので、愛妻と愛娘が眠る寝室に参ろう。
[DVD(字幕)] 9点(2011-10-08 02:09:05)(良:3票)
72.  アメイジング・スパイダーマン
恋をした同級生の男子が“スパイダーマン”であることを知り、その背中を見送るヒロインは一言「ああ困った」と呟く。 その彼女のテンションは、スーパーヒーローを好きになってしまったという極端な動揺ではなく、警察官の娘なのに街のちょっとした問題児を好きになってしまって「ああ困った」というような、ハイティーンの普遍的な動揺として表現される。 このシーンによって、この映画のスタンスは、つまるところ若い男女の恋模様を主軸とした青春ドラマであり、それ以上でもそれ以下でもないということを宣言していると思えた。  アメコミヒーロー映画としての“エンターテイメント性”という部分において、及第点を越えていることは間違いない。しかし、サム・ライミ版の第一作目と比べると、すべての娯楽性の部分において衝撃度は劣る。 でもだからと言って面白くなかったかと言うと決してそんなことはなく、ヒーロー映画云々以前に映画として素直に面白かったと言える。 そしてその面白さこそが、冒頭に記したこの映画のスタンスに尽きると思う。  膨大なアクションシーンのボリュームの力技で貫くのでもなく、はたまたライミ版の「スパイダーマン」や「ダークナイト」の如くヒーローの内面的な葛藤に対してディープに踏み込んでいくわけでもない。 悪漢に制裁を与えるシーンで軽妙な振る舞いをしてみたり、一旦恋に落ちれば“秘密”や“約束”なんてないがしろにしてみたり、良い部分でもあり悪い部分でもあるそういったハイティーンの“軽さ”と“若々しさ”それに伴うポップさこそが、この映画におけるエンターテイメントそのものとして存在している。 まさにそれこそが「(500)日のサマー」のマーク・ウェブが今作を監督をした価値だったろうと思う。  どういう捉え方をするかによって、観賞後の満足感は大いに左右するだろう映画であることは確かだと思う。 単純に比較するべきではないかもしれないが、サム・ライミ版と比べて映画のテンションからキャスティングに至るまでどちらが「スパイダーマン」という素材に相応しいかと問われれば、ライミ版に優位性があることは間違いない。  でも、個人的には、主人公とヒロインが誰もいない学校の廊下でデート(じみた何か)の約束をするという、アメコミヒーロー的な側面には何も関係ないシーンに心を掴まれてしまった時点で、この映画を揶揄する気は毛頭無くなってしまった。
[映画館(字幕)] 8点(2012-07-02 16:07:04)(良:3票)
73.  ボーイズ・オン・ザ・ラン
無様な男と、無様な女、そのありのままの「無様さ」を“綺麗ごと”なんて完全無視して描きつけた“ヘン”な青春映画だった。  主人公は玩具メーカーのうだつが上がらない29歳の営業マン。援交相手の醜女に逆切れされ、憧れの同僚とはいい感じになりつつも、肝心なところで大失態を繰り返し、挙げ句ライバル営業マンに寝取られる始末……。 最初から最後まで汚れまくりで、良いことなんてほとんどない。  実は、自分自身29歳の営業マン。仕事の合間にネクタイを締めたままこの映画を観ていた。 “イタイ”主人公の姿に笑いつつ、キワドいリアリティが突き刺さってきた。  自分がものに出来なかった女の仇を討つため、軟弱な主人公は“ブチ切れ”、鍛え上げ、「タクシードライバー」のトラヴィスと化す。  普通の青春映画であれば、主人公の「達成」をもって爽快感を導き出すのだろうけれど、普通の青春映画ではない今作は、それすらも許さない。 主人公が終始「無様」なまま、この映画は終焉する。  映画を観終わり、再び仕事に戻るため、土砂降りの中を営業車で走った。 けれど、僕の心は何故か晴れ晴れとしていた。 それは、この映画が無様で阿呆でしょうもないけれど、確かな「勇気」に溢れているからだと思う。  主人公は何も達成しない。ただただ己の小さな自分の人生を走る。その様は決して格好良くないし、転びまくる。でもその目を背けたくなる程に痛々しい等身大の姿は、問答無用に胸に迫る。
[DVD(邦画)] 8点(2010-10-10 02:03:50)(良:3票)
74.  シン・仮面ライダー
まず、ある種の清々しさを含めつつも、本作に対しては個人的にきっぱりと「駄作」だったと言いたい。それも近年まれに見る「超」がつくほどの。  庵野秀明による、「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」の大トリ第四弾。 「シン・エヴァンゲリオン」はまったくの門外漢なのでまた観ていないが、2016年の「シン・ゴジラ」を皮切りに、2022年の「シン・ウルトラマン」、そして本作「シン・仮面ライダー」と、大いなる高揚感と期待感をもって鑑賞してきた。 なんと言っても、「シン・ゴジラ」で表現された新時代感とそれに伴う畏怖感は衝撃的で、ゴジラ映画を全作観てきた者として、圧倒的にエキサイティングだった。  一方で、昨年の「シン・ウルトラマン」の時点でおやおやと思う節はあった。 製作者たちの溢れ出る過去作に対する「愛情」を感じる反面、僕自身は乗り切れなかった。 嬉々として繰り広げられる良く言えば“独特”、悪く言えば“陳腐”な映像表現、映画表現に対して、「あ、ふーん」、「あ、そうなんだ」と引いたスタンスを取らざる得ず、なんとも困惑してしまった。  そして、この「シン・仮面ライダー」の“世界観”を目の当たりにして、一つのことが明確になった。 「シン・ゴジラ」にあって、「シン・ウルトラマン」、「シン・仮面ライダー」に無かったモノ、それは僕自身の過去作品対する「愛情」という名の「耐性」だったのだろう。  個人的な遍歴として、玉石混交の全作品を観てきた「ゴジラ」映画シリーズに対して、「ウルトラマン」も「仮面ライダー」も、僕は過去のオリジナルシリーズを殆ど観てきていない。 故に、今回の各映画作品に対して僕が求め期待するものと、オリジナルシリーズを偏執的なまでに愛し表現し続けてきた製作者たちが見せたいものとが、乖離しすぎていたのだと思う。   と、自分にとって本作が本質的に“合わない”映画であり、「仮面ライダー」に対する無知を認めつつも、やっぱり客観的に見て酷い映画だったなとは思う。 「シン・ウルトラマン」はそれでもまだ“乗り切れなかった”という印象であり、特撮映画としての見応えと、娯楽映画としての楽しさも随所に存在していた作品だった。 が、しかし、本作は正直“耐え難かった”という印象を拭えない。久しぶりに鑑賞中に“しんどさ”を感じてしまい、思わず席を立ちたくなった(無論そんなことはしないが)。  個性的でユーモラスな怪人たち(チープで陳腐)、昭和感を感じさせる俳優たちの朴訥な演技(お遊戯会レベルの某演技)、映像技術の低さを工夫で補うカメラワーク(見づらく気持ち悪い)。 それらは、「仮面ライダー」や「ウルトラマン」がテレビ放映されていた当時のつくり手たちが、限られた制作環境や時代性の中で、必死に“面白いもの”を生み出そうとした結果の産物だろう。  それらを観て育ち、感銘を受けて映画制作やアニメ制作の世界に入ったクリエイターたちが、過去のオリジナル作品対しての“リスペクト”をふんだんに盛り込むのは良い。 ただ、だからといって当時の映像表現やアイデアを現代技術でそのまま再現して、「仮面ライダーといえばこれでしょう」と悦に浸るのは、あまりにも安直だし、クリエイターとしてダサすぎるのではないか。 そんなものは、過去作へのリスペクトを笠に着た“クリエイティブ”の怠慢であり、放棄だと思ってしまった。   自分の想像以上に本作を称賛する人たちも多いようなので、やはり作品に何を求めるかによって、映画の価値なんてものは大いに振れるものなんだなと思い知る。 だからこそ、しっかりと自分の感情に沿った評価をしていきたいと思う。 “10点”の映画は年間数本出会えるが、その逆は数年に一つ出会えるかどうか。振り返ってみると実に8年ぶりの“0点”を捧げよう。
[映画館(邦画)] 0点(2023-03-17 23:17:45)(笑:1票) (良:2票)
75.  アポロ13
「月へ人類を送る」 あのJFKの号令から端を発した「アポロ計画」。NASAの大事業のハイライトはもちろん、 1969年のアポロ11号による「月面着陸」だろう。 しかし、今尚NASAの組織内において、最たる価値を持つ功績として掲げられているのが、この「アポロ13」の“事故”からの“生還”であるという。  宇宙開発という大事業において、重要視するべきものは、その価値観において多岐に渡ると思う。  「月面着陸」という大目的の達成は、もちろんその一つであると思うが、同時に、「事故死」という最悪の失敗を避けることも、「成功」と同等の価値を持つ成果だと思う。  そういう意味で、NASA史上最大の“危機”を最大の“栄誉”に転じさせてみせた、飛行士たちをはじめとするアポロ13のスタッフの功績は、偉大であり、その人間模様を緻密に描き出した今作の素晴らしさを唯一無二のものにしていると思う。  久しぶりに観たが、何度観ても、ラストの交信再開のシーンには、心がふるえる。 
[映画館(字幕)] 10点(2003-10-06 14:01:09)(良:3票)
76.  重力ピエロ
「映像化不可能」という文句は、もはや伊坂幸太郎の原作に対する常套句となりつつある。 今作「重力ピエロ」も、類に漏れずその常套句が掲げられたが、そのニュアンスは他の作品とは少々異なるものだったと思う。 「アヒルと鴨のコインロッカー」のような文体によるストーリー構成の妙にその要因があるわけではなく、主人公の兄弟をはじめ描き出される「人間性」の妙こそが、映像化に対する最大の難関だったと思う。  結果としてまず言いたいことは、素晴らしい映画であったということだ。 伊坂幸太郎の独特の世界観に息づく絶妙な人間性を、決して物語を破綻させることなく、リアリティをもって映画として紡ぎ出すことに成功している。  それは、原作の真意をしっかりと汲んだ上での監督の確かな演出力、そして、絶妙なキャスティングによる俳優たちの奇跡的な演技力によるものだ。  「小説の映画化」に対して総じて言えることだが、文体によって緻密に描き出されるキャラクターを、生身の人間が「映画」という制限された領域の中で不足なく表現することは、途方もなく困難なことだ。 それが、この原作の登場人物たちのように多様性と二面性を表裏に持った複雑なキャラクターであれば、その途方もなさは更に果てしないものだ。  この物語は、ミステリアスな展開に彩られながら、悲劇を越え、遺伝子を越えて、一筋縄ではいかない「親子の絆」を堂々と描き出す。 それは、まさに重力を飛び越えて空中ブランコをこなすピエロのように、飄々とした中に確実に存在する「自信」と「誇り」に溢れている。  伊坂幸太郎の文体で描き尽くされたに思われたその「最強の家族」の姿を、この映画の俳優たちは、単なる「再現」を飛び越えて、見事に息づかせてみせた。
[映画館(邦画)] 9点(2009-05-24 01:04:59)(良:3票)
77.  アウトレイジ ビヨンド 《ネタバレ》 
冒頭から小日向文世演じる悪徳マル暴刑事が小蠅のように方々に飛び回っては、「ケジメ、ケジメ」と五月蝿い。 その描写が象徴するように、この続編作品は前作「アウトレイジ」から持ち越された「ケジメ」をひたすらに取ったり、取らされたりする映画だ。 前作において、”甘い汁”を吸った者、“煮え湯”を呑まされた者、各々が再び入り交じり、血で血を洗っていく。 その仰々しいまでの“愚かしさ”が、前作同様に極上のエンターテイメントとして画面一杯に映し出され、きっちりと締めくくられた。  非常に満足度は高い映画であることは間違いない。 それを前提にして敢えて言うならば、前作程の“アク”の強さはなかったかなと思う。  「全員悪人」と銘打たれて揃った面々が入り乱れ、一体誰がどうなるのかとストーリーの顛末自体に見通しがきかない面白さに溢れていた前作に対し、今作ではわりと予定調和的に各キャラクターに対しての“おとしまえ”がつけられていくため、ヒリヒリするような緊迫感が薄れていた。  また、前作では、ビートたけし演じる「大友」がこの映画世界の一応の主人公ではあったが、それぞれの思惑と野心を持った極道たちの群像劇色が強く、それがこの映画世界独特の面白味だったと思う。 しかし、今作では「大友」がいかにもな主人公然とした立ち位置で描かれるため、それ以外のキャラクターの印象が弱まってしまった。 同時に、その主人公自体も前作の流れを経て、表面的な荒々しさが薄れた描写が多く、狙い通りではあるだろうが全体的な迫力不足に繋がってしまっていることは否めない。  新たに登場する西田敏行ら“関西勢”は良い味を出していたけれど、"切った張った”の中心には絡んでこないので、トータル的なインパクトに欠けてしまったと思う。  と、前作とそのまま比較してしまうと、どうしても物足りなさが先行しがちな感想が出てきてしまうが、このジャンルの娯楽映画として水準を大きく超えている映画であることは言うまでもない。  五月蝿い小蠅に対して、望み通りきっちりと「ケジメ」をつけて締めくくられたラストカットに、高揚感は極まった。
[映画館(邦画)] 8点(2012-10-06 16:19:19)(良:3票)
78.  セッション
汗、涙、血、身体中からありとあらゆる水分を撒き散らして、音を奏でる…いや音を殴りつける。 それは音楽学校を舞台にした“スポ根”だなんて生やさしいものではなく、狂気と狂気のせめぎ合いだった。 常識的な価値観のその先に突っ走っていく二つの狂気。 ついに“一線”を越えてしまった愛する息子を、舞台裏の扉の隙間から遠く眺める父親の眼差しが哀しい。  “偉大”なドラマーになることのみに固執する主人公は、自らを取り巻くあらゆるものを妄信的に確信的に排除していく。 友人を排除し、恋人を排除し、ついには誰よりも自分を愛してくれている父親をも排除する。 不意に訪れた「事故」は、彼にとっては最後の“救い”だったはず。 けれど、彼はその救済までも排除して、自分の中に巣食う狂気を唯一認めてくれる存在の元へと舞い戻る。 音楽に対する理想を共有する二人だが、彼らは最後まで憎み合っている。 二つの狂気は、憎しみ合ったまま、ついに求める音楽を奏でる。 憎悪の中で恍惚となる二人。 その異様な契りは、まさに、悪魔との契約に相違ない。  彼らはきっとこの先も「幸福」なんてものとは無縁の人生を送ることだろう。 常に他者を憎み、自身に怒り続ける日々を送り、精神をすり減らし果てていくことだろう。 ただし、それすらも彼らが望んだことであり、もはや他人の価値観が入り込める隙間など微塵もない。  ほとばしる狂気を目の当たりにして、真っ当な価値観を持つ凡人たちは、ただただ呆然と見守るしかないのだと思う。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2015-11-18 19:16:51)(良:3票)
79.  SPACE BATTLESHIP ヤマト
映画、特に娯楽映画においてはっきりと言えることが一つある。 それは、観る者のそれぞれの感受性と価値観によって、一つでも「印象」に残る要素があれば、その映画の価値は揺るがないということだ。  この映画には確実に“それ”がある。それがある以上この映画を否定することなんて出来ない。  それは、日本映画界で考えられる最大限のレベルで実現させた宇宙戦艦の発進シーンでも、 良い意味でも悪い意味でも“木村拓哉らしい”ヒーロー像ぶりでもなく、 ずばり“ヒロイン”の魅力に他ならない。  そう、“森雪”を演じた黒木メイサが素晴らしかった。  映画や漫画において時折、堪らなく魅力的なヒロインにめぐり会う。 そういうときは、その作品を観終わった後もしばらくの間、“彼女”のことばかり考えてしまう。 それはまさに、現実と創造の狭間に生まれるささやかな“恋”だと思う。  必ずしも黒木メイサの演技力が高いとは思わないし、原作を知らないので“森雪”というキャラクターに彼女が合致していたのかどうかも定かではない(おそらく随分違うんじゃないかと思う)。 ただそんなこと「どうでもいい」と思わせるほど、“黒木メイサの森雪”は魅力的で、木村拓哉の古代進と同様に彼女に恋し、守りたいと思ってしまった。  繰り返しになるが、世代が随分違うので、原作のアニメは見たことが無い。 原作を知らないからこそ楽しめた要素は多くあるのかもしれない。  基本設定は「スタートレック」にも似たこのSFエンターテイメントを、もしハリウッドが映画化したならそりゃあ大迫力のブロックバスター映画になったことだろう。  だが、この「宇宙戦艦ヤマト」の精神的な荒涼感や孤独感、奥ゆかしい情緒感は、やはり日本人が描くべき世界観だと思った。 映画としての粗や突っ込みどころは非常に多い。 ただそれでも、この映画を、日本人が一生懸命に挑戦してつくりきったことが、非常に重要なことだと思う。   まあそんなことより何よりも、僕にとっての“森雪”がとびきり可愛くイーッとして古代進を見送る。そのシーンがすべてだと言いたい。  ヒロインの漆黒の瞳から始まり、「未来」を見つめる彼女の姿を映し出して終わるこの映画において、その価値観は決して間違っていないと確信する。   余談になるが、某スキャンダル女優が降板したことが、今となっては「運命」だったとすら思う。
[映画館(邦画)] 8点(2010-12-05 22:55:18)(良:3票)
80.  ドリーム
「私には差別意識なんてものは無いのよ」  と、キルスティン・ダンスト演じる白人女性管理職のミッチェルが、それが自分の本心だということを疑わずに言う。 それに対して、黒人女性としてNASA初の管理職を目指すオクタヴィア・スペンサー演じるドロシーはこう冷静に返す。  「分かっているわ あなたがそう思い込んでいることを」  愕然とするミッチェルのみならず、僕自身を含め、観客の多くがドキッとした台詞だったろう。 世界のあらゆる「差別」における最大の問題点は、あからさまなレイシストをどう排除していくかということではない。 「私は差別なんてしていない」と平然と生活をしている我々大衆の根底にある無意識の差別意識を、どう根絶できるかということだ。  「差別なんてしてない」と信じている人間に、実は存在する差別意識を認識させること程難しいことはない。 たとえそれの存在に気付いていたとしても、「知らないふり」をしていた方が、ずっと楽だし、正義を気取れるからだ。 自分自身の中に巣食う差別意識に対面し、それを認めることは、実は最も勇気が必要なことなのかもしれない。  社会に蔓延る人種差別を描いた映画を多々観てきたけれど、「“差別”が何故愚かなことなのか」という普遍的な問いに対する、分かっているようで分かっていないその「答え」を、これ程まで明確に、そして娯楽性豊かに示した映画を他に知らない。  この映画が示すその明確な答えは、あまりに潔く、的確だ。 即ちそれは、「差別」の存在が人類の進化においてあまりにも“非効率”であり、その歩みを留める致命的な“エラー”になり得るからだ。 本当に優秀な人材が、当たり前のように根付く差別意識とそれに伴う愚かな仕組みのせいで、ただ「トイレに行く」だけのために、無意味に駆け回らなければならない。 人類全体の新たな「1歩」のために、1秒、1ミリ、1グラムを追求するべく職に就く人間が、愚かな非効率を強いられることの罪深さをこの映画は圧倒的な雄弁さで物語る。  言わずもがな、キャストの演技はみな素晴らしい。 特に主要キャラクターとなる3人の黒人女性を演じた女優たちの魅力的な存在感は圧巻。原題「Hidden Figures」が表す通り、歴史の中に隠れた人達の輝かしい功績を燦然と体現している。  同年のアカデミー賞を勝ち獲ったのは、今作と同じく、社会的マイノリティの葛藤を叙情的に描いた「ムーンライト」だったわけだが、今作の映画としての非の打ち所の無さは同作を遥かに凌駕する。 世界中の誰が観ても、心から楽しめ、提示される問題の根深さを理解することが出来るこの映画の価値は極めて高い。   クラシックな車と同じく、古い「時代」とそれに伴う間違った「価値観」は時に立ち往生する。 悲しくて悔しくて、先行きままならないことも多々ある。 でも、ならば車の底に潜り込んで直せばいい、正せばいい。 彼女たちが示した勇気とプライド。そのあまりにも尊い価値に涙と多幸感が溢れ出る。
[映画館(字幕)] 9点(2017-10-21 22:52:07)(良:3票)

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