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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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21.  アベンジャーズ/エンドゲーム 《ネタバレ》 
トニー・スタークがアイアンマンになって10余年。僕たちは、彼が幾つもの眠れぬ夜を過ごしてきたことを知っている。 そのトニーの姿を一番近くで見続けていたのは、他の誰でもなくペッパー・ポッツだったということ。 だからこそ、ポッツは、遂に“闘い終えた”トニー・スタークに対して、努めて穏やかに「眠って」と言葉を送ったのだ。  もうね、涙が止まらなかった。高揚感、喪失感、そして多幸感と感謝、涙の理由は多層的に渦巻き、正直なところ初回鑑賞時には感情の整理がつかなかった。 そして、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)が、「アイアンマン」からこの「エンドゲーム」に至るまで描き連ねてきたものは、“ヒーロー”という宿命を背負った者たちの自らの「運命」に対する抗いと享受の物語だったということを痛感した。 MCUのヒーローたちは、自らの運命を憂い、おびただしい傷を負いながら、藻掻き苦しむ。 時に混乱し、対立し、選択を見誤ることもあるけれど、決して彼らは諦めない。再び立ち上がり、強大な敵=運命に“Avenge(復讐)”する。 その姿に、僕たちは憧れ続ける。それは必ずしもスーパーヴィランに打ち勝つスーパーヒーローだからではない。 彼らは皆、ヒーローであると同時に一人の人間だ。その一人の人間としての弱さや脆さすらもひっくるめた強さに憧れるのだ。  この一つの「時代」を築き上げたヒーロー映画シリーズの最終局面である本作には、“市井の人々”は殆ど映し出されない。 必然的に、ヒーローたちが市民の危機を救うシーンは皆無だ。巷ではそのことに対して批判的な論評もあるようだが、僕は異を唱えたい。 本作に限っては、アベンジャーズが僕たち一般人を救い出すシーンなど必要ないと思う。 なぜなら、「彼らは、僕ら」だからだ。  スーパーヒーローの一人ひとりが、時に弱く脆い一人の人間であることと同時に、我々一人ひとりの人間が、時に強く勇敢なスーパーヒーローにもなり得るし、そうでなければならない。ということを、このエンドゲーム の“大合戦”はありありと映し出していた。 遂にスーツを纏い、夫と背中合わせで戦うペッパー・ポッツは勿論、テレパスのマンティスやシュリ(プラックパンサーの妹)など、非戦闘員のキャラクターたちが、名だたるヒーローたちの先陣を切るようにしてサノス軍に立ち向かっている。 クライマックスにおいて画面いっぱいに映し出されたこの異様な迫力に溢れた「構図」が表す意味は明らかだ。 もはやこの局面において、スーパーヒーローかそうでないかなど関係ない。強大な悪と理不尽な暴力によって大切なものを奪われた全ての者たちが、「正義」の名の下に復讐に挑む。 それは、溜めに溜めたキャップの「Avengers Assemble」の一声と共に、ヒーローたちのみならず我々人類全員が「アベンジャーズ」となった瞬間だった。 だから、この映画に限っては、ヒーロー映画であっても“救う”シーンは必要なく、全員で“戦う”シーンで占められているのだ。  と、まあ初鑑賞からかれこれ日数が経っても、熱くならずを得ず、また語り尽くせぬ。 10年以上に渡り、この類まれな映画体験を享受できたことを、只々幸福に思う。  70年遅刻のデートを果たしたスティーブ・ロジャースに祝福を。 “不完全燃焼”のソーには、まだ何千年も残っているであろう人生に敬意(と密かな期待)を。 そして、Thank you Tony. Thank you Avengers,3000.
[映画館(字幕)] 10点(2019-04-27 00:09:40)(良:3票)
22.  アントマン&ワスプ
前作「アントマン」は、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」と「シビル・ウォー」の狭間で公開され、両作の色々な意味で“重い”作風に対して、一服の清涼剤となるような良い意味でライトで痛快無比な最高のヒーロー映画だった。 続編となる今作もその立ち位置は変わっていない。あの「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」の重苦しい“悲劇”の直後のMCU作品として、“清涼剤”としての役割は前作以上に大きかったことだろう。  キャストとスタッフが概ね続投されていることもあり、映画のクオリティやテイストに大きな変化はなく、前作同様ヒーロー映画として十二分に楽しい作品に仕上がっていると思う。  ただし、前作ほどのフレッシュさは流石に薄れている。 美しく強い“ワスプ”は魅力的で、表題に割って入ってくるのも納得だけれど、アントマンとのパートナーとしての関係性自体は、前作時点で既に築かれていたものなので、安心感はあるものの特段目新しさは無かった。 アントマンの“巨大化”のくだりも、「シビル・ウォー」で“ネタ見せ”してしまっているのでインパクトに欠けていた。 ストーリーの肝である量子世界への突入についても、既に前作で帰還に成功しているわけだから、新たな緊迫感を生むには至っていないと思う。  それでも前作同様の娯楽性を担保できているのは、やはり登場するキャラクターとそれを演じるキャスト陣が魅力的だからだろう。 アントマンことスコット・ラングを演じるポール・ラッドをはじめ、ワスプ役のエヴァンジェリン・リリー、ハンク・ピム博士役のマイケル・ダグラス、そしてなんと言っても悪友ルイス役のマイケル・ペーニャらのパフォーマンスが安定している。そんなレギュラーメンバーたちの掛け合いを見ているだけで楽しい。 またスコットの娘ちゃんは健気で可愛いし、普通の映画だったら憎まれ役になりがちの娘の“継父”すらも端役ながら最高なキャラクター性を見せてくており、ほっこりさせてくれる。  というわけで結果的には、前回と同じく“清涼剤”の役割をしっかりと果たしてくれていることは間違いない。 が、「覚悟」はしていたけれど、MCUにおいて痛快無比なこの作品においても、あの無慈悲な“チリ”を舞わせるとは……何とも容赦ない。 でもね、アベンジャーズの超人オールスター勢の中で、スパイダーマンでも、ブラックパンサーでも、ドクター・ストレンジでもなく、スコット・ラングという「小物」が生残されたことは、きっと“大きな”意味を持つと期待せずにはいられないよね。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-03-21 18:27:49)(良:2票)
23.  アクアマン
「ロード・オブ・ザ・リング」+「ブラックパンサー」+「ドラえもん のび太の海底鬼岩城」という式がぴたりと当てはまる。 そしてそれは、それぞれの過去作に対して“二番煎じ”というわけでは決してなく、あらゆる要素が大渦のように轟々と混ざり合い、まったく新しい「娯楽」の世界へと誘ってくれる。 詰まるところ、DCコミックスが放った新たなスーパーヒーロー映画は、「ワンダーウーマン」に引続き、最高の娯楽映画だったということだ。   大々的にイントロダクションされている通り、全編通して繰り広げられる海中アクションがやっぱり凄い。 映像技術の進化に伴い、水中描写そのものはそれほど珍しくなくなったが、今作ほど主要シーンの殆どが海中シーンであり、文字通り縦横無尽のアクションを展開させた映画はなかったのではないか。 そして、イマジネーションが満ち溢れる海底都市の魅惑的なビジュアルは、まさしく「誰も見たことがない」映像世界だったと思える。 また、果てしない奥行きを備えた海中世界の描写はIMAX3Dとの親和性も極めて高かった。   その圧倒的な映像世界と、凄まじいアクションシーンを司ったジェームズ・ワンの映画監督としての力量はやはり卓越している。 マレーシア出身のこのアジア人監督は、時に豪胆に、時に繊細に、広義の意味での“アクション”を膨大な映像的物量で積み重ねつつ、巧みに整理し、この大バジェット映画を支配している。 逃亡中の主人公らがヴィランに襲撃されるシチリアのシーンでは、ありがちな攻防戦を巧みな空間演出とカット割りによって、白眉のアクションシーンに昇華させている。 屈強でゴージャスなハリウッドスターの狭間で、マジックのような演出を施すこの小さなアジア人監督には、これからも新しい映画企画をどしどし回すべきだと思う。   「ジャスティス・リーグ」そして今作で、見事に“海の王”のキャラクターをものにしてみせたジェイソン・モモアのスター性も文句無く、もっとこの濃ゆい俳優によるアクアマンを観てみたいと思わせた。 現時点では「ジャスティス・リーグ2」の公開は定かにはなっておらず、今作においてもクロスオーバー的な描写が殆ど無かったことは残念だったが、隆盛を極めた“ライバル”に対して、DCコミックスの反撃態勢は確実に強く固まってきている。
[映画館(字幕)] 9点(2019-03-02 17:54:45)
24.  アリータ:バトル・エンジェル 《ネタバレ》 
序盤から何だかいやな予感はしていた。 舞台はディストピア、何らかの過去を抱えた選ばれしヒロイン、苦境の中で芽生える無垢な恋心、絶対的権力と運命に対する若者たちの抗い……ああ、この流れは、典型的な量産型ティーン向けムービーじゃないか。 有り触れたクライマックスと、見え透いた続編に向けたラストシーンを迎えた頃には、すっかり気持ちは萎えてしまっていた。   ジェームズ・キャメロン、ロバート・ロドリゲスというビックネームが名を連ね、クリストフ・ヴァルツ、マハーシャラ・アリらアカデミー賞俳優が顔を並べた今作のインフォメーションは魅力的だった。 久しぶりに登場したジェームズ・キャメロン御大に「革新的映像!」と日本人向けに煽られては、そりゃ期待せずにはいられないじゃないか。 というわけで、昨年早々のトレーラー公開時から期待値は非常に高かったのだが、結果としては非常に残念な仕上がりだった。   映像世界の作りこみは確かに凄いとは思うが、決して目新しさがあったわけでもなく、「革新的」と謳うわりにはあまりに物足りなかった。 トレーラーの段階では、“違和感”を“期待感”が凌駕していたけれど、主人公の造形をあからさまなCGI的な風貌にした意図も、結局ちょっとよくわからなかった。  非人間的な造形のスーパーヒロインが、ひたすらにハードアクションを繰り広げ、死屍累々の上に立つさまをおぼろげに想像したが、そういう振り切れた描写も殆どなく、ロバート・ロドリゲスが監督を担った意味も皆無だったといわざるを得ない。   日本の原作漫画も未読なので、このあとにどんなストーリー展開が備わっているかは知らないけれど、少なくともこの映画作品の方向性では続編への期待は薄い。 ついでに、御大が満を持しての続編を公開する「アバター」に対しても、極めて懐疑的になってきた。
[映画館(字幕)] 2点(2019-02-23 23:58:41)
25.  アノマリサ
冒頭から、強烈な“違和感”を突きつけられる。 或る都市へ向かう飛行機内の乗客たちの何気ない会話音のはずだが、なんだか物凄く気持ちが悪い。 その理由が、乗客の声がすべて同一の無機質な男の声であることに気づくのに時間はかからないけれど、なぜそんな奇妙な設定になっているのか、得体の知れない世界観に突如放り込まれたような感覚を覚えた。  カスタマーサービス業における啓発で名声を得た主人公は、見るからに憂鬱な眼差しを携えつつ、講演のため異国の街に降り立つ。うつ病を患っているらしい彼は、自分以外の周囲の人間がすべて同じ顔に見え、同じ声に見える。 ストップモーションアニメによる絶妙に悪趣味な造形も手伝って、人形とは思えないリアルな描写が妙に生々しく、痛々しく、居心地の悪さに包み込まれる。  某動画配信サービスのラインナップの中から、特段予備知識も入れないままに鑑賞を始めたこともあり、「何を見せられるのか?」という期待と不安が入り混じった感情が、展開とともに、徐々に確実に大きくなっていった。  ストーリー展開自体は極めてミニマムだ。 翌日の講演のために前泊したホテルでの一夜を、過剰とも言える細やかさで描き連ねている。 主人公の一挙手一投足を並べ連ねていくことで、彼が抱える鬱積と闇が自然に見え隠れする。 そして、この男の、生々しく痛々しい様を見るにつけ、彼が何故ゆえ世界から孤立し、奇妙な環境の中で生きざるを得なくなっているのかが見えてくる。  主人公の正体、そして映画の正体の輪郭が見え始めた頃、「ああ、そうか、これがチャーリー・カウフマン(の映画)だったな」と思い出した。 「マルコヴィッチの穴」しかり、「アダプテーション」しかり、“こじらせオヤジ”を描かせたら、やはりこの人の右に出る者はいない。  ラスト、自宅に帰り着いた主人公は、再び孤立し、“玩具屋”で土産に買った壊れた奇妙な絡繰人形と対峙する。 まさかの「桃太郎」を歌う(気持ち悪い!)その人形を前にして、果たして彼は己の愚かさに気づいたのだろうか。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-02-07 23:30:25)
26.  アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル
“トーニャ・ハーディング”が、テレビカメラ越しに、やや諦観しているような真っ直ぐな眼差しで、軽薄な「大衆」に向けて、「あなた」という呼びかけと共に、静かな怒りと諦めをぶつける。 「あなた」というのは、まさに自分自身のことだと思えた。  1994年のリレハンメル五輪のあの冬、僕は13歳からそこらだったと思うが、トーニャ・ハーディングが途中で演技を止めて、審判席に詰め寄る光景をよく覚えている。 そして、僕は確かに、彼女のその様を、「往生際の悪い女だ」と、好奇と侮蔑を携えて見ていたことも、よく覚えている。 年端もいかない“ガキ”だったとはいえ、断片的に伝え聞いていたのであろうワイドショーの情報と、衛星中継の一寸の光景だけで、そういった底意地の悪い感情を抱いてしまったことは、恥ずべきことだったと思う。 結局、何が「真実」かなんてことは分からないけれど、自分も含めた大衆の無責任さは痛感せざるを得ない。  それにしても、一流アスリートとオリンピックを巻き込んだあの一連のスキャンダル事件を、このような形で、スポーツ映画としても、一人の女性像を描き出す作品としても成立させ、見事な傑作として完成させてみせたことには驚かされた。  マーティン・スコセッシの犯罪映画のようでもあり、デヴィッド・フィンチャーの実録映画のようでもあり、最新の撮影技術を駆使した確固たるスポーツ映画でもある今作は、極めて芳醇な多様性を孕んでいて、最初から最後まで決して飽くことがない。 二十数年前のスキャンダルを知っていても、知らなくても、面白みを堪能できる作品に仕上がっていることは、虚偽と真相、フィクションとノンフィクションの境界を描く今作が、大成功を収めていることの表れだろう。  演者で特筆すべきは、やはりなんと言ってもマーゴット・ロビー。 どこまでも愚かであり、どこまでも不憫な実在の女性像を見事に表現しきっている。そして、間違いなく世界トップクラスのフィギュアスケーターだったトーニャ・ハーディングを演じるにあたってのアスリートとしてのアクションも、極めて高い説得力と共に体現していたと思う。  ラストシーン、スケート界から追放された主人公は、ボクシングのリング上で、アッパーカットを浴び宙を舞う。 その様をかつての“トリプルアクセル”と重ねて映し出すという「残酷」の後、リングに打ち付けられた彼女は再びこちらを見つめてくる。 この映画は、無責任な好奇の目に晒され続けた彼女が、それを浴びせ続けたこちら側を終始見つめ返す作品だった。
[DVD(字幕)] 9点(2018-11-23 23:52:48)(良:2票)
27.  アンダー・ザ・シルバーレイク
久しぶりにイカれた映画を観たな。と、新宿バルト9を後にした。 “ヒッチコック+リンチ=悪夢版ラ・ラ・ランド”的な寸評コメントは、やや安直にも聞こえるが、確かにそう感じずにはいられない空気感が随所に感じられた。 二十歳になったばかりの頃に観たデヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」鑑賞後の困惑を彷彿とさせられた。  ただ、「マルホランド・ドライブ」ほど難解で手がつけられないということではなかった。 ストーリーテリングはいかにも混沌としているけれど、紡ぎ出された事の真相と顛末は意外にシンプルだった。  三十路を過ぎて、恋に破れ、夢に破れ、己の人生を見いだせないまま空虚な生活を送る主人公が、不意に訪れた出会いと喪失に端を発して、盲目的に、破滅的に、人生の意義を掴み取ろうとする話。 主人公は、或る種の強迫観念にせっつかれるように、世の中に渦巻く(かもしれない)陰謀論と暗号の解読に、自分の“居場所”を見出そうとするわけだ。 結果として、確かに暗号はあった。そして、主人公は自分の知り得なかった世界を垣間見る。 しかし、それだけだ。 暗号を解き、この世界に隠された理を知ったところで、そこに彼の居場所はなかった。彼はその真理を思い知り、打ちのめされる。  果たして、彼は、この淫靡で妖しい冒険を経て、何かを得られたのだろうか、空虚な自室を出て、新たな世界を踏み出せたのだろうか……。 当然ながら、このヘンテコリンな映画が分かりやすいハッピーエンドを描くわけもなく、熟女とのセックスの後に気だるく佇む主人公の姿を映し出し終幕する。  カオス。しかし、この“混沌”は映画世界と現実世界の境界線を、フクロウ女のように奇妙に、強引に、越えてくる。
[映画館(字幕)] 8点(2018-10-25 01:52:04)
28.  アバウト・タイム 愛おしい時間について
とても愛らしい映画だった。この映画が多くの映画ファンに愛されている理由がよく分かる。  タイムリープ能力を有した主人公のラブストーリーといえば、傑作「バタフライ・エフェクト」だったり、クリストファー・リーブの「ある日どこかで」だったり、今作同様レイチェル・マクアダムスがヒロインの「きみがぼくを見つけた日」など、古今東西多々あり、個人的に好きなジャンルでもある。 それらの多くは、主人公たちの悲恋の切なさや美しさを、練り込まれたストーリーテリングの中で描き出すが、今作はそういうジャンル性の中において一風変わっている。 “変わっている”というよりは、想定外に“どストレート”なストーリー展開が逆に特徴的に感じたのだと思う。  この手の映画の多くは、“タイムトラベル”とういアイデアをどう活かして、独創的なストーリーを紡ぎ出すかに注力するものだが、この映画において、“タイムトラベル”という要素は、一つの小道具に過ぎない。 ストーリーの妙ではなく、あくまでも主人公が織りなす恋愛模様、家族模様、それらすべてをひっくるめた人生模様の素晴らしさをストレートに、真っ当に描き出すことを最優先にしている。 そこに映画作品としての新しさや、特筆する発見はないけれど、てらうことなく、人を愛することの素晴らしさ、家族を持つことの素晴らしさを真っ直ぐに伝えてくれるからこそ、この映画はあまりに愛おしいのだと思える。  ふいにタイムリープ能力を得た主人公は、ひたすらに誰かを愛することに没頭し、文字通り時間を駆け巡る。 そして、人生と、それを司る「時間」という概念に対するひとつの真理にたどり着く。 それは、「綺麗事」などと片付けてしまうには、あまりに勿体ない僕たちの人生に備わっている「価値」だ。  秋深まる深夜、映画を観終え、清々しく床に就く。 思わず、すでに眠っている妻にキスをし、娘を抱きしめ、息子の頭を撫でてやりたくなる。 明日はみんなで、ごはんを食べよう。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2018-10-21 17:39:11)(良:1票)
29.  アナイアレイション -全滅領域-
美しく、そして残酷な、“未知との遭遇”。 映画全編に渡る得体の知れない恐怖感と、「世界」と「世界」の狭間を描き出したビジュアルの美意識自体は、決して嫌いじゃなかった。 幻想的で、芸術的、そして観念的なアプローチによるSF的な解釈は、興味をそそられた。 けれど、映画の中の“調査隊”が謎と恐怖に包み込まれた真相に突き進む程、ストーリー的な推進力は緩慢になり、残念ながら面白味も霧散していくようだった。  詰まるところ、「SF」として物語を紡ぐには、それを語り切るに相応しいストーリーテリング力が欠如していたのだと思う。 理解し難く、“答え”そのものを観る側に委ねるタイプのSF映画は多々あるし、それはそれで大好物だけれども、この映画の場合は、秘められているのであろう“哲学性”が巧く表現できているとは言えず、展開の稚拙さや唐突さが雑音となり、それがどんどん大きくなったまま終幕してしまった。  ナタリー・ポートマン演じる主人公が、オープニングからエンディングに至るまで、ひたすらに「わからない」を繰り返すばかりでは、流石にストーリーそのものを放り投げすぎじゃないか。 そう思わせてしまった時点で、この映画の目指した“試み”は失敗しているのだと思う。 プロットやストーリーにおけるアイデアそのものは、過去のSFスリラーでも幾度も描かれている類のものなので、この映画が描いている顛末は何となく理解できる。しかし、観客にそれを腑に落ちさせなければ、それは単なる自己満足的な絵空事に過ぎない。  「エクスマキナ」で一躍気鋭監督となったアレックス・ガーランドの最新作であり、キャストも一流どころを揃えているにも関わらず、劇場公開が難航し、一転してNetflix公開となったこの映画の辿った道程の「理由」が、何となく見えてくる。  予算面含めて、もう少し製作環境が整っていたならば、それこそSF映画の新たな傑作になり得ていた可能性も感じるだけに、SF映画ファンとしては至極残念だ。
[インターネット(字幕)] 4点(2018-06-04 17:25:00)
30.  アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー 《ネタバレ》 
改めて辞書で確認してみると、「avenger」の意味は「復讐者」とある。つまり、このエンターテイメント大作のタイトルの意味は「復讐者たち」ということになる。 もはや熱心な映画ファンやアメコミファンでなくとも、「アベンジャーズ」という呼称は聞き馴染みのあるメジャーワードとなっているけれど、よくよく考えてみれば、ヒーローたちが集結した“チーム”の名称として、その意味は少々奇異に思える。 「復讐者たち」ということは、絶大なパワーを備えたチームでありながら、先ず危害を被ることを前提としているように聞こえるからだ。  しかし、その答えは、この“チーム”が結成された経緯を振り返れば明確になる。 各々がスーパーヒーローとしてそれぞれの「正義」を全うしていた中で、想像を超えた巨大な「悪」による恐怖と悲劇に晒される。ヒーロー一人ひとりでは到底太刀打ちできない。だから、結束して「復讐」をする。 絶対的な「巨悪」が先ずあり、それに対峙するために生まれた“チーム”だからこそ、彼らは「復讐者たち」なのだ。  彼らのその姿は、この現実世界の在り方とまさに“合わせ鏡”だ。 普段、この世界では、それぞれの国、それぞれの民族、それぞれの人が、てんでバラバラに己の「正義」を振りかざしている。 何かしらの問題や課題、共通の「敵」が存在したとき、初めて人々は同じ方向を向くことができる。 言い換えれば、何か「実害」が生じなければ、我々は結束することが出来ない。  なんとも歯がゆく、なんとも愚かしい。 ただそれが人間の正直な姿であり、「そうじゃない」と否定したところで何も始まらない。  その人間の、歯がゆく愚かな本質を根幹に据えたヒーロー像こそが、「アベンジャーズ」の正体なのだと思う。 彼らは人智を超越したスーパーヒーローではあるけれど、間違いも起こせば、失敗もする。そしてその都度、甚大な被害を生み、傷つき、苦悩する。  だけれども、彼らは常にそこから立ち上がり、己の間違いを正し、悪を叩き、ついに「復讐」を果たす。 だからこそ、僕たち人間は、彼らの活躍に熱狂するのだ。   満を持しての第三弾。“復讐者たち”は、あたかもそれが彼らの宿命であるかのように、打ちのめされ、紛うことなく過去最大の悲劇を叩きつけられる。 重く悲しい旋律がシアター内を包み込む。鑑賞を共にしたすべての観客が、絶望感と共に押し黙っているようだった。 誰も席を立つはずもなく、エンドロール後に示されるはずの「希望」を心待ちにしていた。 ようやく隻眼の司令官が登場し一寸安堵する。が、まさか、彼に「mother f*cker」すら言わせないとは。 “サノス”は「慈悲」だと言ったけれど、何たる無慈悲か。   でも、僕らは知っている。 チーム結成時の「6人」は、“二分の一の賭け”に勝ち残っているということを。 そして、「アベンジャーズ」と名付けられた彼らの本当の「avenge=復讐」が始まるということを。  最高だぜ。
[映画館(字幕)] 10点(2018-04-27 23:49:03)(良:1票)
31.  悪女 AKUJO
冒頭から繰り広げられる“一人称視点”での大殺戮シーンを皮切りに、想像以上にぶっ飛んだ映画だった。良い意味でも悪い意味でも。 「ニキータ」+「キル・ビル」+「女囚さそり」+etc…古今東西のあらゆる“ヒロインバイオレンス”の要素を詰め込み、混ぜ込んだ上で、独特の空気感でぶっ込んでくる。 見せつけられるエンターテイメント性は強引ではあるけれど、極めて高い。  相も変わらず韓国映画の土壌は、よく肥えて、充実しているなあと思う。 ただし、数多の韓国映画の傑作の数々と比較すると、「稚拙」な部分は多々ある。特にストーリーテリングにおいてはトータル的に稚拙だったと言わざるをえない。 中盤に挟み込まれる恋愛シーン、回想シーンは、ヒロインの「業苦」を増幅させるために確かに必要な要素だったとは思うけれど、もう少し手際よく見せるべきだった。 それに特別捜査官の男の心情はもっと包み隠した演出にすべきではなかったか。序盤から彼の想いはダラダラと垂れ流されているため、感情移入はする反面、終盤の彼の行動にエモーションを感じることができなかった。 で、可哀想な“娘ちゃん”の出自は結局なんだったのか?中途半端な尻切れ感は、後味の悪さに悪い方向に拍車をかけている。  だがしかし、だ。冒頭から最後の最後までアクションシーンはまさに「怒涛」。それは否定できない。 想像よりもずっと「漫画的」な映画で、上質な傑作とは言い難いが、「殺人の告白」に続きこの監督の良い意味でも悪い意味でも雑多な味わいは、一つの特徴だと思う。  ストーリーの粗とチープささえ嘲笑うかのように、「絶望」なんて言葉を遥かに通り越した終着点で高笑いを見せる“悪女”のおぞましい姿に絶句。
[映画館(字幕)] 7点(2018-03-01 23:15:55)
32.  アシュラ(2016)
冒頭の主人公自身のモノローグにもあるように、この映画の主人公は、権力者に尻尾を振る「犬」だ。 主人公だけではない、登場する主要人物の全員が、欲望と狂気に塗れた「犬畜生」だ。 何のためらいもなく全ての人間が私利私欲を追い求め、薄汚れた街、血塗られた人間関係の中で、凄惨な“サバイバル”を繰り広げる。 骨太の韓国映画らしく、その描き出し方に、躊躇や遠慮はまったくない。 だからこそ、胸糞悪い描写の連続でカタルシスなど生まれるわけもないはずなのに、最終的には妙な清々しさすら覚えた。  架空の都市アンナム市を舞台にして、汚職刑事、悪徳市長、傲慢検事らが欲望の渦の中で入り乱れ、文字通り阿鼻叫喚の地獄絵図を作り上げる。 その血みどろの人間模様を表現している韓国映画の俳優たちが、相も変わらず、みな「素晴らしい」の一言に尽きる。 架空都市を舞台にしていることからも明らかなように、今作は決して現実世界に対してリアルな映画世界を追求しているわけではない。 だがしかし、そこで息づく人間たちの有様は実在感に溢れ、あまりに生々しい。 彼らが辿り着く“阿鼻叫喚”は、明らかにフィクショナルなはずなのに、我々が巣食うこの世界と地続きであると感じさせ、殊更に背筋が凍る。  見事な韓国人俳優たちの中でも特に圧倒的だったのは、「映画史上最凶の“市長”」と言って過言ではない悪徳市長・パク・ソンベを演じたファン・ジョンミン。個人的には、2013年の韓国ノワールの傑作「新しき世界」でのチョン・チョン役も記憶に新しい。この実力派俳優の映画全体における「支配力」があったからこそ、この映画は特別なものになり得ていると思う。全く見事だった。   また中盤における、まさしく「縦横無尽」のカメラワークを見せるカーチェイスシーンをはじめ、随所に挟み込まれるアクションシーンもすべてがハイクオリティーでフレッシュ。 改めて韓国映画の芳醇さを感じずにはいられなかった。  バイオレンス映画としての高い娯楽性を携えつつ、味わいの深さと絶妙な軽妙さをも併せ持つ佇まいは、マーティン・スコセッシの映画世界をも彷彿とさせる。 御大本人によるリメイクも十分あり得るんじゃなかろうか。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-11-20 17:05:45)
33.  アトミック・ブロンド
ラストシーン、主演女優が甘美な微笑を携え小気味よく最後の台詞を言い放ち、映画は終幕する。 劇場の暗がりの中、エンドロールを迎えた途端に、涙が滲んできた。 純然たるアクション映画における圧倒的な充足感で涙が出てきたのは初めてかもしれない。  このアクション映画を賞賛する要素は多々あれど、先ず特筆すべき要素は次の3点に尽きる。  一にシャーリーズ・セロン!二にシャーリーズ・セロン!!そして、三にシャーリーズ・セロンだ!!!  決して大袈裟ではなく、全シーン、全カットで映える主演女優・シャーリーズ・セロンが抜群に格好良く、あまりに美しい。 「ワンダフル!」「ハラショー!」「ヴンダバー!」「シュペール!」 果たして、最終的にどの言語で、“彼女”を賞賛すべきか惑うが、とにかく「素晴らしい!」  ナイトクラブでのゴージャスなドレスから、全身傷だらけで“ズタボロ”にも関わらず完璧に美しいフルヌードに至るまで、ありとあらゆる「衣装」を纏った女スパイが、冷戦末日のベルリンで暗躍する。 「騙す者を騙すのは愉快」と、血で血を洗う国家間の陰謀の狭間を、強かに、しなやかに、そして艶やかに立ち回っていく主人公・ロレーン・ブロートンに、ただひたすらに陶酔せざるを得ない。  冷戦下を舞台にしたスパイ映画らしく、各人のめくるめく思惑と、折り重なる策略によってストーリーテリングはクライマックスにかけていよいよ混乱してくる。 何がどうなっているのか殆どわけが分からなくなってくるけれど、そんなストーリーに象徴される世界の混沌そのものを、主人公の存在感が圧倒する。  大国間の冷たく重い鬩ぎ合いも、その水面下で繰り広げられる各国諜報機関の騙し合いも、愚かな“ゲーム”によって命を奪い合う男たちも、その総てを見下し、嘲笑するかのような女スパイの冷ややかな視線と佇まいに、ただただひれ伏すのみ。  7分半にも及ぶ1カット構成により、次々と襲いかかる男共を叩きのめし、打ちのめす“ノンストップ”のアクションシーンは確かに物凄い。 このシーンのみで、今作がアクション映画史上におけるエポックメイキングとしての価値を刻みつけたことは間違いない。 けれど、この映画が物凄いのは、そんな圧倒的シーンすら主人公を彩る一要素でしかないということだ。  鍛え抜かれたアクションも、シーンごとにチェンジされる魅力的な衣装も、中毒性の高い80年代ミュージックも、その総てをウォッカロックのように飲み干し、“彼女”が「支配」する。 その「支配」そのものが、今作の全てのシークエンスを通じて“悦び”に変わる。  「女優」という存在に支配されることの愉悦と恍惚。それらこそが、映画という娯楽の根源ではなかろうか。
[映画館(字幕)] 10点(2017-10-30 23:04:45)
34.  アウトレイジ 最終章
「全員悪人」と銘打たれた第一作目から7年。渾身の最終章。  許されざる者たちの鬩ぎ合いの様は、恐ろしさを遥かに通り過ぎ、愚かさを通り過ぎ、滑稽さをも通り過ぎ、もはや「悲哀」に溢れている。 どんなに息巻き、意地と欲望渦巻く勢力争いを繰り広げたとて、彼らが辿り着く先はただ一つ。 生きるも地獄、死ぬも地獄。そんな真理を知ってか知らずか、この映画に登場する悪人たちの眼には、諦観にも似た虚無感が漂っていた。  この映画で描き出される“outrage=暴虐”の世界に生きるすべての人間たちが、自らの生き方に疲弊しきっているように見える。 血管を浮かび上がらせ、怒号と暴力を浴びせつつも、同時に「何故こんなことになったのか?」と己の生き様自体に疑問と虚しさを抱えているようだった。  故に、今作は、前二作と比較すると明らかに地味で、枯れているように見えるだろう。 当然である。描かれるキャラクターたちの血気そのものが薄まり、あらゆる意味で衰退の一途を辿っているのだから。 しかしそれは、前二作と比べて今作の映画的魅力が落ち込んでいるということでは決して無い。 娯楽映画としての分かりやすい迫力は抑えられているが、その分、前二作を礎にした映画作品としての芳醇さに満ちている。  前二作のハードな暴虐性が反動となり、この「最終章」のある種静的な境地へと辿り着いている。 そこに見えたものは、「動」と「静」。別の言い方をするならば、「フリ」と「オチ」。 それはまさに北野武という映画監督の真髄であり、芸人、役者、監督、あらゆる意味での「表現者」としての矜持だと思えた。   シリーズ三作通じて共通することだが、「悪人」としての“雁首”揃えられたキャスト陣は皆素晴らしい。 特に今作においては、塩見三省が凄まじかった。実際に重病を患い、その後遺症が残る中での迫真の存在感。 前作で見せた方幅の広い関西ヤクザの恐ろし過ぎる迫力は消え去り、かわりにフィクションの境界を超えて人生そのものを焼き付けるような老ヤクザの気迫が凄い。 痩せ細り、足が不自由な様子で、呂律も回っていない。それは、前作の風貌と比較すると非常にショッキングな変貌だった。 しかし、以前実際のヤクザ組織の実態を追った或るドキュメンタリーを観たことがあるが、ああいう老いさらばえたヤクザは現実に沢山いる。 時代が変わり、社会が変わり、ヤクザなんて生き方がまかり通らなくなった昨今においては、塩見三省が演じた老ヤクザの醸し出す雰囲気こそが、むしろ限りなくリアルに近いのではないかと思う。   繰り返しになるが、「アウトレイジ」シリーズは、北野武による壮大な「フリ」と「オチ」だったのだと思う。 椎名桔平が演じた格好良い武闘派ヤクザや、加瀬亮が演じた分かりやすいインテリヤクザの描写は、“非現実的”だった。だからこそ「フリ」として、ジャンル映画の娯楽性の中で派手に殺される。 一方で、西田敏行や塩見三省が演じた知略と謀略の限りを尽くす無様で姑息な老ヤクザの描写は、“現実的”だった。彼らがヤクザとして最後まで醜くしがみつき、生き残る様こそが、北野武が用意した「オチ」だったのだろう。   映画は、食べさせる相手がもういない“釣り”の哀しさを映し出して終幕する。 全編通して、「これぞ北野武の映画」だと痛感する見事な一作だ。
[映画館(邦画)] 8点(2017-10-18 16:00:23)(良:2票)
35.  アドレナリン:ハイ・ボルテージ
相変わらず「馬鹿」過ぎるテンションに面食らう。ギリギリ良い意味で。 前作の衝撃的なラストカットから間髪をいれず始まるこの続編、正直色んな意味でイカれている。 あまりにも劣悪な状況下での心臓移植手術シーンから始まり、すべての設定、展開が、“悪ふざけ”のオンパレード。エログロ展開は完全に前作以上。 もしも、前作を踏まえずに今作を観たならば、いきなりの暴走ぶりに対してひそめた眉が戻らないだろう。  前作は謎の“中国毒”によって常にアドレナリンを出しっぱなしにしておかなければ心臓が停止するという、文字通りの暴走馬鹿映画だったが、今作は謎の中国フィクサーによって無理矢理心臓を抜き取られ、“充電式”の人工心臓を強引に埋め込まれ、常に感電し続けなければ死んでしまうという前作に輪をかけた超暴走馬鹿映画。  この映画に携わるすべての人間が“悪ふざけ”を楽しんでいるが、誰よりもそれに興じているのは、他でもない主演のジェイソン・ステイサムだろう。 アクションスターとしては現役トップスターであろうこの英国人俳優が愛されるのは、どんな映画においても「全力」で挑むからだろう。寡黙で屈強な殺し屋を演じることにも、一転して馬鹿すぎるジャンキー野郎を演じることにも、一切躊躇がない。 彼がテンションを上げっぱなしのイカレ野郎をてらいなく演じているからこそ、この馬鹿映画は成立しているのだと思える。  二作目にしてもはやお約束の「公開○○○シーン」も健在。しまいには既にクセになっちゃってるヒロイン役のエイミー・スマートちゃんが、馬のアレを見て興奮するシマツ。  「馬鹿な映画だなー」と何度呟いたか分からないが、同時にニヤニヤが止まらないことも事実。 前作も“どーかしてる”テンションの映画だったが、それを越えて完全に頭がイカれている領域。ここまでされては、ただ笑うしかない。
[インターネット(字幕)] 6点(2017-04-09 01:28:31)
36.  アサシン クリード 《ネタバレ》 
出張中、深夜。新宿某映画館の大スクリーンに流れるエンドロールを見ながら、「ああ、久しぶりにまあまあ酷い映画を観たなあ」と思った。 どんなに目を伏せても、耳をふさいでも、ついつい溢れかえっている映画評を見聞きしてしまう昨今だったが、幸か不幸か今作においては殆ど事前情報を入れることなく、“マイケル・ファスベンダー主演”という認識だけ携えて鑑賞に至った。 個人的には、このところ極端な酷評に値する映画を劇場で観ることがなかったので、逆に安堵感すら覚えてしまった。  というわけで、人気ビデオゲームの映画化であるということすら鑑賞後に知った始末。(コミックの映画化だとばかり思っていた) 何が悪いコレが駄目と列挙するのも辟易するが、取り敢えず主人公の存在意義が「媒体」という要素に終始し、キャラクターとしての魅力を全く感じないことが根本的な問題だと思う。 勿論、ビデオゲーム作品内では、「媒体」としての主人公キャラにプレイヤーが“シンクロ”してミッションクリアを目指していくわけなのだろうけれど、ビデオゲームの映画化ってそういうことじゃないだろうと思うし、娯楽としてあまりに“下手っぴ”だと感じずにはいられなかった。  原作ゲームの概要を見てみると、“暗殺者”である主人公が潜入し極秘裏にミッションを遂行していく設定が最大の魅力らしいのに、この映画化においては皆無と言っていいほど「潜入感」が希薄なことも、著しく面白味に欠けている要因の一つだろうと思う。 「マトリックス」なり、「ミッション:8ミニッツ」なり、同様のゲーム的感覚を活かした傑作はいくらでもあるのだから、原作ゲームの醍醐味を反映できなかったことは、完全に製作陣の実力不足、いや怠慢だろう。  主人公をはじめとするすべての登場人物たちの行動原理もまったくもって理解不能。 映画内だけで通用する固有名詞と専門用語を羅列するばかりで、本質的な人間描写に整合性がなく、はっきり言って善玉と悪玉の区別すらつきづらい。安直に「厨二病的」と片付けるには、厨二病に失礼だ。   主演のマイケル・ファスベンダーとマリオン・コティヤールは、この監督の前作にも出演していたらしいが、今作を選択したことで彼らの出演が叶わなかった映画企画があることを思うと、非常に勿体無い。 両者とも、現在のハリウッドにおけるトップ・オブ・トップの油の乗り切ったスター俳優なのだから、作品選びの責任の重さを自覚してほしい。 あきらかに“そのつもり”のようだが、勿論シリーズ化には断固反対である。   冒頭で、“鷲”の安っぽいCGをこれ見よがしに見せられた時点で嫌な予感はした。 ああ、やっぱり各方面で激賞されている韓国映画を観に行けばよかったと、項垂れてながら宿に向かう深夜の新宿。
[映画館(字幕)] 2点(2017-03-16 08:47:37)(良:1票)
37.  IAM A HERO アイアムアヒーロー
この国は“ZQN”だらけだ。そして誰もが“ZQN”になり得る。  非常識で傍若無人な振る舞いをする“輩”を表す“DQN”という蔑称を文字って、劇中ゾンビとなってしまった人達を“ZQN”と表したこの映画の在り方は、“ゾンビ映画”として極めて真っ当で、ちゃんと面白い。  古くから優れたゾンビ映画は、ホラーというエンターテイメント性と共に、常にその時々の社会の縮図とそこに孕む病理性を描き出してきた。 ゾンビという恐怖を、社会病理の象徴として位置づけることで、それが文字通り生活を脅かす様を描いてきたのだ。それこそが多くの映画ファンが、ゾンビ映画に求める本質的なテーマなのだと思う。 個人的には恐怖映画が苦手なので、ソンビ映画の系譜そのものに対しての造詣は極めて低いのだが、それでもこの国産ゾンビ映画が、その“テーマ”をきちんと踏まえた上で、正真正銘のゾンビ映画として仕上がっていることは充分に理解できた。  この映画の成功の最大の要因は、言わずもがな原作漫画の見事さに尽きるのだろう。 花沢健吾の原作漫画が、前述のゾンビ映画が持つべきテーマ性をきちんと踏まえているからこそ、この映画化作品が見事なゾンビ映画に仕上がっていることは明らかだ。  ただ、どんなに優れた人気漫画の映画化であっても、尽く失敗してしまっているのが国内映画の、特に娯楽大作系映画の現実である。 そんな中で、今作の娯楽大作としての成功は、やはり喜ばしいトピックスだ。  原作漫画を忠実に映画化したと言ってしまえばそれまでだが、それこそが映画化において最も難しい部分であることも確か。 冗長になりがちな心情描写やモノローグ描写を極力廃し、ひたすらにアクションの連続で構築したことが、潔く見事だったと思う。 そして、キャスティングと俳優たちのパフォーマンスも総じて良かったと思う。 特に主人公を演じた大泉洋の英雄ぶりがスゴかった。初登場シーン、漫画を描く原稿から顔を上げた瞬間に「あ、鈴木英雄だ」と疑わなかった。 最後の最後まで、ZQN=ゾンビを殺すことに快感を微塵も覚えることなく、散弾銃を構え続ける主人公・鈴木英雄のキャラクター設定こそが原作漫画の肝であり、その特異な主人公像を体現した大泉洋の表現力は流石である。   毎朝のようにワイドショーでは、“DQN”と化した一般市民の醜態が報じられている。 「自分とは違う人種だ」と軽蔑の眼差しを送るに留まる日本人が殆どだろうが、果たしていつまでもそう安閑としていて良いものだろうか。 「炎上」を巻き起こす程の極端で分かりやすい言動に至っていないだけで、実は自分自身を含めた総ての人々に“DQN”になり得る節は見え隠れしているのではないか。  ふと気づけば、「日常」がゾンビだらけで阿鼻叫喚に包まれているなんてことに本当にならなければいいけれど……。 このゾンビ映画が描く「恐怖」とは、詰まるところそういうことだ。
[ブルーレイ(邦画)] 8点(2016-12-10 12:23:44)(良:1票)
38.  アナと雪の女王/エルサのサプライズ
“7分”という完全な「おまけ映像」をここまで作りこみ、しっかりと可笑しくて多幸感溢れる「作品」に仕上げているディズニーの孤高のサービス精神に脱帽。  生まれ持った魔法の力のしがらみから解放されて、妹の誕生日のために惜しみなく魔法を使いまくるエルサの優しさと不器用さがキュート過ぎる。 とても短い尺の中で、“雪の女王のくしゃみ”を軸にして、しっかりと伏線とオチがストーリー上に設定されている構成も見事。  一瞬だけの登場で散々な目に合っているハンス王子のその後の様に大笑い。
[CS・衛星(吹替)] 6点(2015-11-27 15:45:25)
39.  アントマン 《ネタバレ》 
アントマン=“蟻男”って、なんだその地味なヒーローは……。と、この新ヒーロー登場に触れそういう嘲笑を含んだ印象を拭えなかった。 今夏公開された「アベンジャーズ2」は、非常に満足のいくマーベル映画の集大成的な作品だった。 が、その映画的物量の凄まじさにより、スーパーヒーロー映画そのものに対して“お腹いっぱい”だったこともあり、今作においては劇場鑑賞をスルーしようと思っていた。 と、そんな矢先、某友人からふいに絶賛メッセージが届き、一転して映画館へ足を運んだ。 正直、実際に鑑賞に至るまで半信半疑なところもあったが、何の事はない、序盤から心の中の“親指”が立ちっ放しだった。  最高。傑作。マーベル映画史上最も“楽しい”映画であると断言してしまっていいとさえ思える。  何よりも楽しかったポイントは、「蟻男」が想像以上に「蟻男」だったことだ。 ただ単に新開発された奇想天外なスーパースーツを身に付けた主人公がミクロサイズになり、“一寸法師”的な活躍をするだけの新ヒーローだと想像していたが、そうではなかった。 「蟻男」は文字通り、“蟻”のリーダーとして無数の蟻軍団を率いて巨悪に立ち向かうのだ。 その想像を超えたあまりにマンガ的な展開が、決して馬鹿馬鹿しくなく、エンターテイメント性に溢れ、感動的な程に楽しかった。 (アリンコ一匹の死にこれほど悲しみを覚えた記憶も無い!)  有名なハリウッドスターがトップクレジットに据えられていなかったことも、イントロダクションの段階で今作が娯楽大作として地味に映ってしまった一因だったが、キャスティングされている俳優たちも皆素晴らしいパフォーマンスを見せている。 主演のポール・ラッドは、コメディ畑の俳優らしい表現力で、軽妙な映画世界の中での軽妙な新ヒーローに見事にフィットしていた。 脇役ではマイケル・ペーニャが最高に良い。近年様々な作品で印象的なバイプレーヤーぶりを見せる俳優だが、彼の「語り口」がなければ、今作は色々な意味で成立しなかったろうとすら思える。 そして唯一のビッグネームであるマイケル・ダグラス。この重鎮俳優独特の怒りと憂いと狂気に満ちた存在感があったからこそ、下手をすればただ軽々しいだけに仕上がっていただろう今作に一本の筋が通っていたと思える。  今作は、「アベンジャーズ2」という“大祭”が終わったばかりのマーベル映画シリーズにおけるシーズンオフ前の最後の作品でもあるらしい。 次のシーズンに向けての区切りとなる作品として、マクロ的に肥大しある意味においては食傷気味だったアベンジャーズの世界観を、一旦ミクロの世界へ凝縮させることにより、魅力を増大させてみせたと思う。 それは、まさに“アントマンスーツ”とまったく同じ論理であり、見事だという他ない。   幼い愛娘のファンシーな部屋の中で、ラスボスとの死闘を繰り広げるスーパーヒーローがいまだかつていただろうか。もちろん、いるわけがない。 “マクロ”から“ミクロ”へ、ヒーロー映画の視点そのものを見事な塩梅で転換してみせたこの映画の優れたエンターテイメント性に脱帽だ。
[映画館(字幕)] 9点(2015-10-06 22:59:02)(良:3票)
40.  アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン
マーベルの“大祭・第二弾”。 3年前の大祭・第一弾が、奇跡的な大成功を収めただけに、この続編へのハードルは残酷なまでに高まっていたと思う。 これ程までに濃ゆいメンツを一つの映画作品に詰め込むことだけでも、その苦労は半端ないものである筈で、そこに続編ならではの難しさも加わり、大き過ぎる期待の反面、クオリティーの低下を覚悟していた部分はあった。 が、何の事はない。高すぎるハードルを華麗に越え、エンターテイメント超大作としてきっちりと仕上げている。見事だ。  「アイアンマン3」、「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」の流れを汲み、描き出されるストーリーは、決して終始高揚感溢れるものではなく、時に陰鬱で破滅的ですらある。 アベンジャーズを構成するヒーローそれぞれの心の闇と葛藤が浮き彫りにされるストーリー展開は、映し出されるアクションシーンが派手になればなるほど、彼らを包む渇いた空気感を際立たせるようだった。  この“苦い”味わい深さは、この“大祭”に至るまでの各作品を観ていなければ到底理解できるものではなく、そういう意味では完全に“一見さんお断り”映画であることは間違いないだろう。  ただし、そういった苦味の中でも、アメコミヒーロー映画の究極として、アゲるべきところはしっかりとアゲてくる。 各ヒーローの弱みを露わにするからこそ、それぞれの見せ場も存分に見せてくれる。 そして、彼らが“アベンジャーズ”として「結束」することによる無敵ぶりをきちんと映画のピークに合わせてくる。  そして、今回キャラクターとして特筆すべきは、アイアンマンでもキャプテンアメリカでもハルクでもなく、まさかの“ホークアイ”だろう。 生身の人間であるこのキャラクターは、超人的な能力を誇る他のメンバーに対して明らかに浮いていた。 スカーレット・ヨハンソン演じるブラック・ウィドウはまだ紅一点という明瞭な存在意義があったが、ジェレミー・レナー演じるホークアイは、あまりに存在感が薄かったと言える。 が、今作においては、極めて重要な存在感を見せてくれる。  ロボットの軍勢が襲いかかり入り乱れる非人間的な戦闘の中で、「俺の武器は弓、笑えるだろ?」と自嘲するホークアイ。 それでも一歩戦いの場に踏み出れば、彼はアベンジャーズとして信念を持ってひたすらに弓を引き続ける。 その様は最高に格好良い。 そのホークアイの姿にこそ、アベンジャーズの真価が表れていたと思う。 ジェレミー・レナーという一流俳優がこの地味な脇役を担い続けた意味がようやく結実している。   さて、大きければ大きいほど祭りのあとはいつも寂しい。 ハルクは南の海に去り、ホークアイは家族の元へ帰ってしまった。トニー・スタークとソーは戻ってくるだろうか。 祭りのあとの空虚感を携えつつ、エンドロールを見送った。 そして、「アベンジャーズは帰ってくる」というお決まりのテロップをしっかりと確認し、少し安心して映画館を後にした。   (2018.5.14 再鑑賞)  劇場公開以来の再鑑賞。なんだよ、やっぱり最高かよ。  “S.H.I.E.L.D.”という文字通りの「後ろ盾」を失ったヒーローたちが、絶大なパワーとそれ故の恐怖との狭間で苦悩する。 この映画単体としてのプロットは、意地悪な見方をすれば、ヒーローたちの“独り相撲”であり、それにほぼ巻き込まれる形で実害を被る世界の人々からすれば、そりゃあ恨み節も言いたくなろうし、危険視するムーブメントも避けられまい。 今作におけるヒーローたちの「失敗」が、この後の「シビル・ウォー」の悲劇へと直結していくわけで、その顛末を知った上での再鑑賞では、ヤキモキ感が増長したことは言うまでもない。  ただだからこそ、前作「アベンジャーズ」を遥かに凌駕したヒーローたちのアクションシーンの連続が、ひたすらに熱い。 自ら招いた危機によって打ちひしがれようとも、傷つこうとも、倒れようとも、彼らは何度でも立ち上がり、新たな仲間を伴い、「復讐者」となる。  その様は、まさに“独り相撲”の極みかもしれないけれど、そんな小賢しい理屈なんて超えて、ただただ熱狂せざるを得ない。  実は誰よりも“人間臭い”最凶人工知能“ウルトロン”のユニークな悪役性、ホークアイを筆頭とする脇役の見せ場、スカーレット・ウィッチ、そしてヴィジョンら一線を超えた新キャラクターを問答無用に「有り」にしたMCUの巧みさに、改めて脱帽。
[映画館(字幕)] 9点(2015-08-07 00:28:23)(良:2票)
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