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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2628
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  ARGYLLE/アーガイル
殆ど事前情報を得ずに鑑賞を始めたので、冒頭のスパイアクションシーンに対して、「なんだこの嘘っぽい世界観」はと、落胆というよりも少々唖然としながら観ていた。 それが中年の女性作家が執筆するスパイ小説の作品世界の描写であったことが分かり、一転して興味が掻きたてられた。小説世界に登場する、ヘンリー・カヴィル、ジョン・シナによるザ・脳筋キャラ的な造形もナイスなキャスティングだったと思う。  主人公の小説家が突如として善玉・悪玉双方のスパイたちの標的となり、殺し合いの大騒動に巻き込まれるアクション・コメディの展開もスムーズで良かった。 効いていたのは、主演のブライス・ダラス・ハワードのビジュアルだろうと思う。 適度に“お肉”の付いたザ・中年女性の風貌が、戯れに書いたスパイ小説が売れて一躍人気作家となった女性像を説得力たっぷりに体現していた。  そして、その主演女優の風貌が、その後の展開においてさらに“効果てきめん”だったことは間違いないだろう。 作品のキービジュアルは、ヘンな髪型をしたヘンリー・カヴィルを矢面に立たせて、分かりやすそうなスパイコメディであることをミスリードすることで、本作の“企み”をうまく隠していたと思う。  「キック・アス」「キングスマン」のマシュー・ヴォーン監督らしい、遊び心と悪戯心に溢れたスパイコメディ映画だったことは間違いなく、秋の夜長にふと配信で鑑賞するにあたっては満足度の高い作品だったとは思う。  ただ一点、決して小さくない苦言を呈するならば、尺が長過ぎるという点だろう。 この手のアクションコメディ、そして世界観で、上映時間139分はあまりに長過ぎる。 実際、ストーリー展開上のテンポがあまりに悪かったり、内容が乏しかったりして、途中ダレてしまう時間帯が随所にあったことは否めない。 少なくとも30分程度は短くして、90分〜100分くらいの尺でスマートにまとめるべきだったろう。そうすれば、もっとスタイリッシュで体感速度の早いスパイコメディを堪能できたと思う。  エンドクレジット前後のシークエンスでは、続編への“含み”や、「キングスマン」の映画世界とのクロスオーバーも示唆されていたので、何らかの企画はあるのだろう。 キャラクター描写やアイデアはユニークだったので、よりブラッシュアップされるのであれば、続編も期待したい。
[インターネット(字幕)] 6点(2024-11-09 09:04:01)
2.  ある男
“主人公”という概念に対する本作のミスリードを感じ取ったとき、途端にこの物語が持つ本質に引き込まれた。 “ある男”とは、結果として誰を指すタイトルだったのか。ラストの短いシークエンスでそれをあぶり出す本作の試みは、とても興味深く、とても感慨深かった。  鬱積した現代社会に関わらず、人間が織りなす社会に巣食う私たちは、少なからず何かを偽って、「自分」という仮面を被って生きている。 家庭人の仮面、仕事人の仮面、社会人の仮面、モラリストの仮面……、自らが築いた環境、または流れ着いた環境を保持し、必死にしがみつくように人は「仮面」を被り続けている。  結果、他ならぬ自分自身が、己の本当の「顔」を見失う。  本作で象徴的に映し出される“ルネ・マグリット”の絵画「複製禁止」は、そういう人間たちの愚かさを如実に表すものだったのだろうと思う。   石川慶監督の独特の映画の空気感と“間”の中で、安定感のあるキャスト陣がそれぞれ人間の脆さと弱さ、それでもなんとか存在し続けようとする人間の根幹的な執念のようなものを表現していた。 中でもやはり印象的だったのは、ストーリーがかなり進んでからようやく登場する“主人公”を演じた妻夫木聡だろう。  本作は安藤サクラ演じる未亡人の亡き夫(窪田正孝)の偽られた「正体」を、妻夫木聡演じる弁護士の男が追い求めるストーリーであるが、実のところあらわになるものは謎の男(=X)の正体ではなかった。 Xに対する追究、探訪を通じて、隠し秘め続けていた主人公のアイデンティティが丸裸にされていく。まさに“ルネ・マグリット”の絵画のように、見えている男の背中は、他のだれでもなく自分自身の背中だった。 妻夫木聡は、絶妙な人間的な希薄さと違和感を見事に表現して、その主人公像を創造し、演じきっていたと思う。   実は、主人公の弁護士は、謎の男Xの追究を始めるずっと前から、自身の「仮面」と直視できない本当の「顔」に気づいている。 すなわち、この映画を通じて本当に気付かされるのは、それ(ある男)を観ている私たち観客の“後ろ姿”だったのだと思う。 今この瞬間も、自分自身の後ろ姿を見続ける、決して相対することのない本当の自分が存在しているのかも知れない。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-10-13 00:42:47)
3.  憐れみの3章
或る週末、とてもおぞましくて、気味悪い程に支配的で、あまりにも意味不明な映画を観た。 エンドロールを呆然と見送りながら、殆ど何も理解できていないまま、かろうじて一つの事実には気付いた。 上映時間の164分間、私は暗闇の中で、困惑と好奇が入り交じる感情と共にニヤつきを絶やすことが無かったということに。 そう、結論から言うと、私は、本作に対して明確な「拒否感」を感じつつも、確実に本作の“虜”になっていたのだと思う。 それは、「支配」をテーマにしたこの映画の目論見に、まんまとハマってしまったということだろう。  個人的に、今年(2024年)は、ヨルゴス・ランティモス監督の「哀れなるものたち」に囚われて続けていると言っても過言ではない。それくらい、年初に観た同作は強烈で特別な映画体験だったと言っていい。 その監督、そして同じ主演女優(エマ・ストーン)の最新作が同年に公開される。そりゃあ多少得体が知れなくとも、公開と同時に劇場に足を運ばざるを得なかった。  前述の通り、人間同士の関係性における様々な支配関係を主軸にして、3つの奇妙な物語が綴られる。 エマ・ストーン、ジェシー・プレモンス、ウィレム・デフォーをはじめとする限られたキャストが3篇通じて異なるキャラクターを演じる作劇構造、登場人物たちの奇異な心理描写を軸にした物語構造は、この作品が極めてミニマムで低予算な映画であることを示しているけれど、描き出されたその映画世界はその是非はともかくとして、“ディープ”の一言に尽きる。 当初の構想では、同様の短編が10篇からなる構成だったとも聞くので、本当はもっと果てしなく、常人には理解も表現もしがたい深淵が広がっているのだろう。  あれこれ語って理解したつもりになる程に、自分自身の浅はかさが露呈してしまいそうになる。 ここは一つ、1話目でジェシー・プレモンスが演じる男同様に、己の無力さと、絶対的支配による抱擁と陶酔を甘受しつつ、3話目のエマ・ストーン同様に終わりなき奇怪なダンスを心の中で踊り続けるべきだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2024-09-29 11:44:02)
4.  アステロイド・シティ
結論から言うと、好きな映画だと言っていい。 メインストーリーを極彩色豊かな劇中劇として映し出し、舞台劇のように描き出した現実描写を挟み込んだ入れ子構造は、意図的に難解で、映画世界に没頭しづらい。 けれど、その感情移入のしづらさそのものが、本作におけるウェス・アンダーソン監督の思惑でもあり、最終的には彼の生み出した世界に心地よく包みこまれていたことに気づく。 30年以上に渡ってハリウッドの第一線で、偏執的なまでの自分の世界観を描き出し続けるウェス・アンダーソンのクリエイティブがとにかく素晴らしい。  1955年のアメリカ南西部の砂漠の中の小さな街を舞台にしたストーリーテリングには、当時のアメリカ社会を投影した様々な要素が盛り込まれている。 エスカレートしていく冷戦を背景にした軍拡前提の科学者育成、女性蔑視が色濃く残る社会や、その中で苦悩する人気女優。揃いも揃って風変わりな登場人物たちが、実は孕んでいる人生模様の中で、そういった要素が、割とダイレクトに表現されていた。  映画作品の文脈として特に興味深かったのは、同時期に製作・公開されたであろう「オッペンハイマー」との類似性だ。 砂漠の中の小さな街“アステロイド・シティ”の舞台設定は、「オッペンハイマー」で原爆開発のために作られた街“ロスアラモス”ととても似通っていたし、キャラクターたちの人生観においても、共通要素があったと思う。 公開時「オッペンハイマー」と対峙するように話題となった「バービー」の主演マーゴット・ロビーが出演していることも興味深い関連性だろう。  と、時代設定を背景にして色々な社会的要素を詰め込み、宇宙人も登場するハチャメチャな映画世界ではあるけれど、その一方で本質的なテーマはシンプルだ。 詰まる所、主人公である父親とその長男である息子の視点を主軸にした、妻(母)を亡くした父子の喪失とリスタートの物語だったのだと思う。  おそらくは、主人公の父子も、劇中劇を演出する監督や脚本家も、ウェス・アンダーソン監督自身の自己投影であり、やっぱり本作は首尾一貫して、彼の極めてパーソナルな心象風景を描き出した映画世界だった。  描き出された時代背景や、物語構造を推察して様々なテーマ性を考察することも一興だろうし、思考を止めてただただお洒落な映画世界をファッション誌をめくるように堪能することも、本作の正しい観方だろう。 脳天気なコメディにも見えるし、シニカルなブラックコメディにも見えるし、社会性を踏まえた重い悲劇のようにも見える。鑑賞者によっては、傑作にも、凡作にも、駄作にも見えるだろう。 そういった様々な側面を踏まえて、とても懐の深い映画だと思える。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-06-09 10:12:35)(良:1票)
5.  アルキメデスの大戦
結論から言うと、とても面白い映画だった。 太平洋戦争開戦前の旧日本海軍における兵器開発をめぐる政治的攻防が、事実と虚構を織り交ぜながら娯楽性豊かに描き出される。 若き天才数学者が、軍人同士の喧々諤々の中に半ば無理矢理に引き込まれ、運命を狂わされていく。 いや、狂わされていくというのはいささか語弊があるかもしれない。主人公の数学者は、戦艦の建造費算出という任務にのめり込む連れ、次第に自らの数字に対する偏執的な思考性と美学をより一層に開眼させていく。そこには、天才数学者の或る種の「狂気」が確実に存在していた。  一方、旧日本海軍側の軍人たちにおいても、多様な「狂気」が無論蔓延っている。 旧時代的な威信と誇りを大義名分とし、戦争という破滅へと突き進んでいくかの時代の軍部は、その在り方そのものが狂気の極みであったことは、もはや言うまでもない。 強大で美しい戦艦の新造というまやかしの国威によって、兵や国民を無謀な戦争へと突き動かそうとする戦艦推進派の面々も狂気的だし、それに対立して、航空母艦の拡充によって航空戦に備えようとする劇中の山本五十六も軍人の狂気を孕んでいた。  数学者の狂気と、軍人の狂気が、ぶつかりそして入り交じる。  史実として太平洋戦争史が存在する以上、本作の主題である戦艦大和の建造とその末路は、揺るがない“結果”の筈だが、それでも先を読ませず、ミスリードや新解釈も含めながら展開するストーリーテリングが極めて興味深く娯楽性に富んでいた。 避けられない運命に対して、天才数学者のキャラクター創造による完全なフィクションに逃げることなく、彼自身の狂気性と軍人たちの狂気性の葛藤で物語を紡いでみせたことが、本作最大の成功要因だろう。  主人公を演じた菅田将暉は、時代にそぐわない“違和感”が天才数学者のキャラクター性に合致しておりベストキャスティングだったと思う。 新たなキャラクター造形で山本五十六を体現した舘ひろしや、海軍の上層部の面々を演じる橋爪功、國村隼、田中泯らの存在感は流石だった。特に主人公側と対立する平山造船中将を演じた田中泯は、圧倒的な説得力で各シーンを制圧し、本作の根幹たるテーマ性を見事に語りきっていた。 若手では、主人公のバディ役を演じた柄本佑がコメディリリーフとして良い存在感を放っていたし、ヒロインの浜辺美波は問答無用に美しかった(そりゃ体のありとあらゆる部位を計りたくなる)。  そして、山崎貴監督のVFXによる冒頭の巨大戦艦大和の撃沈シーンが、このストーリーテリングの推進力をより強固なものにしている。 プロローグシーンとしてはあまりにも大迫力で映し出されるあの「戦艦大和撃沈」があるからこそ、本作が織りなす人物たちの狂気とこの国の顛末、そして、「なぜそれでも大和は建造されたのか」というこの映画の真意がくっきりと際立ってくる。   数多の狂気によって、かつてこの国は戦争に突き進み、そして崩壊した。そこには、おびただしい数の犠牲と死屍累々が積み重なっている。 ただ、だからと言って、誰か一人の狂気を一方的に断罪することはできないだろう。なぜなら、その狂気は必ずしも軍部の人間たちや政治家、そして一部の天才たちだけが持っていたものではないからだ。 日本という国全体が、あらゆる現実から目をそらし、増長し、そして狂っていったのだ。  今一度そのことを思い返さなければ、必ず歴史は繰り返されてしまう。 平和ボケしてしまった日本人が、失われかけたその「記憶」を鮮明に思い返すために、山崎貴監督によるVFXが今求められているのかもしれない。 誰得のCG映画やファンタジー映画で茶を濁さずに、意義ある「映像化」に精を出してほしい。 
[インターネット(邦画)] 8点(2024-03-10 00:07:07)
6.  アラジン(2019)
若干舐めていたところもあったが、思ったよりも真っ当でシンプルに面白いエンターテイメントだった。
[インターネット(吹替)] 7点(2024-03-02 23:39:53)
7.  哀れなるものたち
嗚呼、とんでもない映画だった。  ひと月ほど前に、映画館内に貼られた特大ポスターを目にした瞬間から「予感」はあった。 何か得体のしれないものが見られそうな予感。何か特別な映画体験が生まれそうな予感。 大写しにされた主演女優の、怒りとも、悲しみとも、憂いとも、感情が掴みきれないその眼差しが、そういう予感を生んでいた。  チラホラとアカデミー賞関連のノミネート情報は見聞きしつつも、本作の作品世界についてはほとんど情報を入れずに、公開日翌日の鑑賞に至った。 朝から原因不明の頭痛が続いていて、その日の鑑賞をぎりぎりまで逡巡したけれど、体調が万全でないことで、逆に映画世界に没入できるとも思い、赴いた。  正直、もっと楽観的にファンタジックな映画世界を想像していたものだから、モノクロームで映し出された序盤の展開から面食らってしまった。 ゴシックホラーを彷彿とさせる怪奇とグロテスクは、想定していた“ライン”を嘲笑うかのように超えていき、油断をすると一気に置いてけぼりを食らうところだった。  今思えば、この序盤のモノクローム展開の中で、惜しげもなくトップレスを披露する主演女優エマ・ストーンに対して、「さすがアカデミー賞女優、体を張っているな」などと上から目線の称賛を送っていた自分は、あまりも幼稚で愚かだったと思う……。  死んだ母親の体に脳を埋め込まれて「生」を得た主人公ベラは、狭く、色の無い世界を抜け出して、人生という冒険に踏み出す。そして、「性」の目覚めとともに、その世界は過剰なまでの彩色と造形で彩られていく。 世界は綺羅びやかではあるけれど、その本質は決して美しくない。それは、「良識ある社会」のルールやあり方が、まったくもって美しくないからに他ならない。  綺羅びやかに彩られた醜い世界、そしてそこに巣食う“哀れなるものたち”  それはまさしく、呪いたくなるくらいにおぞましくて、哀しいこの現実世界と人間たちの本質だろう。 けれども、何よりも自分自身の“成長”に対して純真無垢で迷いのないベラは、それらすべてを受け入れ、自分の価値観に昇華していく。 タブーとされる行為も発言も、性別や職業、生まれた環境に対するレッテルも、希望も絶望も、薄っぺらな「良識」を盾にして拒否することなく、先ず全身で受け入れ、自分自身の「言葉」を紡いでいく。  主人公ベラのキャラクター造形は、すべてにおいて奇々怪々だけれど、その生き様は極めて“フェア”であり、昨今の耳ざわりの良さだけで乱用されているものとは一線を画す真の意味での“ジェンダーレス”を象徴する存在だった。 怪奇とグロ、ありとあらゆる禁忌が入り交じる本作の混沌とした映画世界が、ベラの達観した眼差しと共に、極めてフラットで高尚な地点へ着地していることが、そのことを雄弁に物語っていると思えた。   すべてを曝け出して、人間の本質をその身一つで体現してみせたエマ・ストーンは、授賞式を前にして二度目のオスカーに相応しいと確信した。 久しぶりに“緑色の超人”以外のキャラクターで卓越した演技を見せたマーク・ラファロも流石。プレイボーイの放蕩者を、その凋落ぶりも含めて見事に演じきっていたと思う。 古き父性の象徴であり、“怪物”の生みの親として、作中もっとも破滅的な人生観を披露するマッド・ドクターを演じたウィレム・デフォーの存在感も素晴らしかった。  時に「4mm」という超超広角レンズで写し取られた映像世界は、非現実的でありながら、この世界のすべてを文字通り広い視野で余すことなく映し出しているようでもあり、類まれな没入感を得られる。 その映画世界のすべてをクリエイトしたヨルゴス・ランティモス監督の圧倒的な世界観には、終始驚愕だった。   ふと“ジャケ買い”したアルバムが、想定外に強烈なパンクで、問答無用に脳味噌をかき混ぜられ、ほじくり返された感じ。(いや、本当に文字通りの映画なのだが) 奇想天外で、際限なくおぞましい映画世界ではあったが、不思議なくらいに拒絶感はなく、愛さずにはいられない。そして、これがこの世界の「理」だと言われてしまえば、確かにそうだと納得せざる得ない。  エンドロールを見送りながら、様々な感情と感覚が入り混じり、とてもじゃないが脳と心の整理がつかなかったけれど、朝から続いていたはずの頭痛は、きれいさっぱり消え去っていた。
[映画館(字幕)] 10点(2024-01-27 23:36:23)
8.  アクアマン/失われた王国
前作「アクアマン」は、アメコミヒーロー映画史上においても屈指の傑作であり、最高の娯楽映画だった。MCU隆盛の最中にあって、DCEU(DCエクステンデット・ユニバース)の“反撃”として、「ワンダーウーマン」に続く強烈な一撃だった。 が、残念ながらDCEUは結果的には方向性が定まらず、実質的には本作が同ユニバースとしては最終作となってしまうようだ。 確かに、MCUもとい“アベンジャーズ”の強固な結束力と比較すると、“ジャスティス・リーグ”の面々をはじめとするDCEUのヒーローたちは、個性的過ぎてまとまりに欠けていたことは否めない。ただ、超個性派集団であったことが、時に独創的で娯楽性が溢れ出る作品を生み出していたことも事実であり、彼らの活躍がもう観られないのは、やはり悲しい。  そして、当の本作も、DCEUという沈みゆく船の最終作からなのか、一作目と比べると様々な要素でレベルが低下してしまっていることは否定できなかった。  個人的に最も期待外れだったのは、海中シーンが前作よりも大幅に減っているように感じたこと。前作において白眉だったのは、やはり何と言ってもイマジネーション溢れる海底世界のビジュアルと、そこで繰り広げられる文字通り縦横無尽のアクションシーンだった。ジェームズ・ワン監督が描き出した豪胆かつ繊細な海中アクションは、IMAX3Dとの相性も極めて高く、極上の映画鑑賞体験をもたらせてくれた。 なのに本作では、その肝心の海中シーンが少なく、主要なアクションシーンの殆どが“陸上”で繰り広げられる。前作ではヴィランだった弟オームとのバディシーンを描くに当たっても、同じ海底人同士として海中アクションの妙をもっと追求すべきだったろうと思うし、“血”を受け継いだ赤ん坊の息子にも海中で何かしらの力を発揮させる様を見せるべきだったろう(クジラの大群を呼び寄せるのは息子でも良かったのでは?)  勿論、ストーリー的にも、完全に「マイティー・ソー」の二番煎じだとか、「ブラック・パンサー」の流用と感じる展開は随所に見受けられるし、「失われた王国」というサブタイトルや設定自体が、数多のヒーロー映画やファンタジー映画で使い古された要素だとは思う。 でもそれらは、相互に“真似”をしあいながらヒーローキャラクターや世界観の創造を競ってきたDCコミックとマーベルコミックの歴史を振り返れば、ある意味必然的なことだとも思うし、ストーリーがありきたりであっても面白いヒーロー映画は沢山ある。ことヒーロー映画においては、「王道」と「ベタ」は紙一重だろう。  本作においても、ジェイソン・モモア演じるアクアマンのキャラクター性や魅力は健在だったと思う。パトリック・ウィルソン演じる弟オームとの絡みも、まんま“ソーとロキ”ではあったけれど楽しかったので良いと思う。 結局は、前作と比較してケレン味のあるアクションシーンを再構築しきれなかったことが致命的な敗因だった。実情はよくわからないけれど、製作費不足、リソース不足は明らかだろう。   兎にも角にも、これでDCEUは終焉し、ジェームズ・ガン主導による新たなユニバースへとリブートされる。その中に、ジェイソン・モモアのアクアマンや、ガル・ガドットのワンダーウーマンが、再登場しないのはあまりにも残念すぎる。どうにかジェームズ・ガンによる「救済」を期待したい。
[映画館(字幕)] 5点(2024-01-17 20:51:05)
9.  アントマン&ワスプ:クアントマニア
“フェーズ4”の作品群は、良い意味では極めて多様性に溢れ、悪い意味ではあまりにも世界観を広げようとしすぎるあまりこれまでの各フェーズと比較するとまとまりが無かった。 MCUという大河のシリーズとはいえ、元来は各作品とも独立した映画であることが前提なので、“まとまり”を求める必要は本来ないのかもしれないが、“ビッグ3”が牽引して「エンドゲーム」で大団円を迎えた“フェーズ3”までの流れがあまりにも奇跡的だったので、どうしてもそういうことを感じてしまう。  昨年(2022年)も「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」を皮切りに「ドクター・ストレンジ/MOM」と「ソー:ラブ&サンダー」を勇んで劇場に足を運び、それぞれ楽しんだけれど、前述の世界観の肥大とそれに伴う情報量の“拡散”に対して、やや疲弊感を感じてしまったことも事実。 結局今の所まだ手を出し切れていないが、「Disny+」で立て続けに配信されたスピンオフの各ドラマシリーズを全く追いきれていないことも、それに拍車をかけている。 ついには「ブラックパンサー」の続編を劇場鑑賞スルーしてしまうなど、自分の中で確実に“MCU離れ”が生じ始めていた。  “フェーズ5”の第一弾となるこの「アントマン&ワスプ」の続編に対しても、二の足を踏んでいたが、結果的には劇場鑑賞しておいてよかったなとは思う。 正直なところ「大満足」というレベルの作品ではないけれど、“フェーズ5”の入り口として重要な情報が多い作品であったし、何よりもやっぱり“アントマン&ワスプ”というヒーローカップルの活躍は痛快だった。  「アントマン」の過去作が公開された時と同様に、この小さき者はいつだってMCUという大河における停滞と混濁に痛快な風穴を開けてくれる。 「量子世界」というミクロの先のもう一つの果てしない宇宙を舞台にした映画世界は、イマジネーションに溢れ、そこにアントマンというキャラクター性が表す個性がユニークに発揮されていたと思う。  ただし、量子世界の造形美そのものは、美しく神秘的であった反面、明らかに“スターウォーズ”オマージュの要素が強く、また「アバター」等にも類似していて、必然的に既視感があったことは否めない。 現代のエンターテイメント全体のトップランナーであるMCUの一作だからこそ、そこは“見たことがない”映画世界と価値観を創出してほしかったとは思う。  物足りなさについて加えると、今後の“ラスボス”として初登場した“カーン”という強大なヴィランが、結局何者なのかが分かりづらかった。 節々の台詞で“におわせ”はしているものの、つまるところ彼は何を成し遂げたいのか、そして時間の終末に何を見たのかが、今後の展開を踏まえた意図的なものであることを理解しつつも、あまりにぼやけ過ぎていたように思える。  もう少し、このヴィランが時間そのものを支配している存在であることを映像表現として伝えるべきだった。カットになった未公開シーンでは、ホープやその他キャラクターのあり得たかもしれない“未来の姿”を見せるような展開もあったという。 時間軸が入り混じった新たな価値観を含めたこのヴィランの恐怖を表現できていたら、それこそ近年のSF映画の傑作「メッセージ」のような既存の概念を覆す深淵のドラマが表現できたのではないか。  また、演じるジョナサン・メジャースの演技は称賛されているようだが、個人的な所感ではキャラクターとしての厚みを感じられなかったのが正直なところだ。(少々わざとらしい演技プランも興を削いだ) 彼が今後の展開のキモとなるのは間違いないし、文字通り様々な「顔」を見せてくるのだろうから、その変貌ぶりも含めて期待していきたい。  そして、本作における最大の“欠落”は、マイケル・ペーニャが演じていた“ルイス”の不在だろう。 彼の存在と軽妙な言い回しが、過去作における代え難い娯楽性であったことは明らかだったので、冒頭かラストの1シーンでも登場させて欲しかったというのは、ファンの共通した思いに違いない。   とまあ、クドクドと不満要素多めになってしまったが、ヒーロー映画として面白くないなんてことは決してなく、充分に楽しめた。 エヴァンジェリン・リリーとミシェル・ファイファーの熟女母娘が、めちゃくちゃ美しく、格好いいだけでも、個人的な満足度は担保されている。  エンドロール後のクレジットをワクワクしながら待ち、登場したキャラクターを見て、「ああ、やっぱりDisny+に引きずり込まれるのか?」と神妙な面持ちになったことは否めないけれど。
[映画館(字幕)] 7点(2023-03-03 23:56:03)(良:1票)
10.  RRR
2022年の終盤に映画好き界隈の中で熱狂的な話題になっていたインド映画が、地元のIMAXシアターでリバイバル上映されていたので、これを逃す手はないと勇んで観に行った。 一定以上の満足は想定していたけれど、この映画を映画館で観られたことに対して、想定以上の大正解を得られた。  S・S・ラージャマウリ監督の前作「バーフバリ」を鑑賞したときも、その圧倒的なスペクタクルにクラクラしたものだったが、今回はその時を完全に上回る鑑賞体験だった。 作品的な好みもあろうが、やはりこういう映画は劇場鑑賞するかしないかで雲泥の差が生まれ得るものだろう。(「バーフバリ」は自宅鑑賞だった) 今回、IMAXで鑑賞できたことは本当にラッキーなことだったのだと痛感した。  “漢”同士のぶつかり合い(とじゃれ合い)をこれでもかと見せ続けるストーリー展開には、躊躇もなければ、遠慮もない。 ニッコニコの友情シーンから、キレッキレのダンスシーン、バッチバチの対決シーン、そしてガッチガチの共闘シーンに至るまで、二人の主人公の存在感のみで描き、映画という舞台に叩きつけている。  荒れ狂う大海原のように展開するストーリーも物凄い。 大英帝国支配下のインドを舞台とした友情劇と復讐劇と逆襲劇が、幾重にも折り重なり、インド映画でしか成立しないような豪胆なストーリーテリングを見せる。 そのストーリーは、中途半端な規模や心意気の映画であれば、とてもじゃないが成り立たないだろう。 あらゆる常識の範疇を超越して、ただただひたすらに大娯楽を追求した映画世界にのみ許される文字通りの「神話」であった。  もうそこに、既成の理屈なんてものは存在しない。 2時間を超える映画は流行らないとか、映画は配信の時代になるなんていう浅い固定概念なんて蹴散らし、映画という娯楽の楽しさが爆発しているようだった。   究極の力技映画。その圧巻の3時間は、「幸福」と呼んでいい。
[映画館(字幕)] 10点(2023-01-21 21:45:13)(良:1票)
11.  アバター:ウェイ・オブ・ウォーター
映画を観たときの、面白い、面白くないの判別は、当然のことながら鑑賞者一人ひとりの「価値観」に委ねられることが普通だろう。 どんな映画であっても、その是非を判別し支配するのは、個々の鑑賞者だ。 もちろん、本作も一映画作品としてその立ち位置は変わらないはずだけれど、私は鑑賞中、その立ち位置が逆転しているような感覚を覚えた。  圧倒的な映画世界が、個々人の小さな価値観や人生観なんて一旦意識の範疇から弾き飛ばし、文字通りのその世界観に「支配」されている感覚を覚えた。 そうして映画世界の中を巡り巡って、最終的には、彼方に追いやられていたはずの鑑賞者一人ひとりの精神世界にたどり着く。 そういう「映画体験」を、ジェームズ・キャメロンは、また私たちにもたらしてくれていると思えた。   しかし、映画作品としての評価は賛否両論で、酷評が多いことも十分理解できる。 本作鑑賞後に、改めて13年前の前作を再鑑賞してみたけれど、続編である本作の描き出したストーリー性は希薄と言わざるを得ない。 敢えて意図的なことだとは思うが、ストーリー展開は前作の焼き直し的な要素が多く、親子関係や環境問題(捕鯨問題)を描いた全体のテーマ性もありきたりであり、新鮮さや、新たな価値観の発見はほぼない。  前作においては、主人公ジェイク・サリーが、身体的にも精神的にも不遇の状態の中で、“アバター”を介してまさしく「再誕」していく様が、ストーリーの核心であり、ドラマ性を生んでいた。 だがしかし、本作のジェイクは、複層的な意味ですっかりナヴィ族の「顔」となっており、彼が元地球人であることの葛藤や苦悩がまったくと言っていいほど描かれていない。それが主人公のキャラクター的にも希薄さに繋がっていたと思う。  その一方で、新登場するジェイクの4人子どもたちのキャラクター造形には、それぞれドラマ性があり、魅力的で、今後の可能性も期待できた。 生物の“種”を超えたハーフであることや、出生が明らかではないという“特異性”を持った彼らの存在性は、多様性極まる現代社会にも通じる要素だったと思う。 同世代の地球人“スパイダー”も含め、彼らの今後の生き様が、次作以降の本シリーズの価値を決定づけるのではないかと思える。  というわけで、傑作とは言い難い脆さも多い超大作ではあるが、Web配信も入り乱れる昨今の映画産業の中において、本作ほど映画館での鑑賞が「必須」な作品もなく、少なくとも、192分の上映時間の間、“異世界”にトリップできることは間違いない。 そして、ジェームズ・キャメロンが追求し続けるその映画表現の可能性と価値は、やはり揺るぎないものだと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2023-01-08 23:44:06)
12.  アダムス・ファミリー(1991)
まさかこの映画を観ていなかったとはな。 Netflixのオリジナルシリーズ「ウェンズデー」が面白そうだったので、元ネタである本作を復習しようと思ったら、なんと続編の「アダムス・ファミリー2」だけ観ていて、本作は未鑑賞だったという事実が発覚。 ちょうどクリスマス時期にも相応しいと思い、まさかの初鑑賞。 キャラクター造形も、テーマ曲も、その世界観も、初鑑賞でありながらももはや「懐かしい」映画世界だった。  もっとチープで子供向けのファミリームービーの印象だったが、冒頭からしっかりと作り込まれた美術やカメラワークが秀逸で、想像よりもずっとレベルの高いクオリティを誇る娯楽映画の世界観に引き込まれた。  本作が娯楽映画として世界的人気を得た最大の要因は、何と言ってもファミリーを演じる個性的な俳優陣によるキャラクターにマッチした表現力だろう。 主演のラウル・ジュリアを筆頭に、個性派俳優たちが嬉々として奇妙なキャラクターを演じきっている。  個人的に最も印象的だったのは、やはり“フェスター伯父さん”に扮するクリストファー・ロイド。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズで“ドク”を演じ終えた直後の出演作だけあって、その表情をはじめとするアクトパフォーマンスのそこかしこに“ドク”が垣間見えて、楽しい。  そして何と言っても、クリスティーナ・リッチ演じる“ウェンズデー”の特異なキュートさがたまらない。弟を処刑ごっこの実験台にし続けたり、首がちょん切れた人形を大切にしていたり、学芸会の舞台では大量の血しぶきをぶちまけながら熱演を繰り広げたりと、その言動のすべてが常軌を逸しつつも、ひたすらにブキミでカワイイ。  本作のストーリーそのものは、ベタなコント的なものであり、あってないようなものだけれど、そんなマイナス要因を補って余りある奇怪で愉快な映画世界は、やはり魅力的だ。 30年の時を経て蘇る「ウェンズデー」には、クリスティーナ・リッチも出演するらしい。益々楽しみだ。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-12-16 23:54:41)
13.  アムステルダム
戯曲のように自由闊達で雄弁な語り口。そして、人物たちの強い眼差し。 想像以上に突飛で、時にアバンギャルドな映画世界中で、唖然とするシーンも多かったが、それ故に明確な意思の強さを感じる作品だった。 その彼らの意思の強さは、今この混迷極まる世界、そして時代の最中において相応しく、大きな存在感を放っていたと思えた。  第一次世界大戦の戦場で知り合い親友となった男女が、1930年代のニューヨークで再会し、陰謀渦巻く殺人事件に巻き込まれる。 冒頭から見るからに常軌を逸した“変人”医師として登場する主人公“バート”を演じるクリスチャン・ベールが、特異な存在感を放ち、観る者に対して、本作が良い意味で“マトモな映画ではない”ということを半ば強制的に呑み込ませてくる。 そして矢継ぎ早に展開される解剖シーンと殺害シーンで、観客をドン引きさせると共に、本作が描く時代の混迷へと引きずり込む。 その観客の感情や心の準備なんてお構いなしに、本作が描き出すべきテーマと、それを織りなす時代を表現する冒頭の展開は、極めて強引で暴力的だけれども、同時にシニカルで痛快でもあり、本作が孕む本質的なエンターテイメント性を伝えていたと思う。  タイトル「アムステルダム」は、主人公ら3人が意気投合し、束の間の安寧を謳歌した街として映し出される。 戦禍の悲痛を経て、喜びと多幸感に溢れる青春の様を描いたその短いシークエンスは美しく、3人がその後の人生においてもその日々を心の拠り所として生きてきたことがありありと伝わってくる。 その中で、マーゴット・ロビー演じる“ヴァレリー”は、まさしく太陽のような輝きと強さを併せ持ち、圧倒的な魅力を放っていたと思う。その後時を経て再登場し、一転して月のような儚い輝きと陰影を表現していたことも印象的だった。(マーゴット・ロビーは、今やハリウッドにおいてその出演作にもっともハズレが無い女優の一人だと思う)  次々に登場するオールスターキャストもみな印象的で素晴らしい。 ジョン・デヴィッド・ワシントン、ゾーイ・サルダナ、クリス・ロック、マイク・マイヤーズ、マイケル・シャノン、アニヤ・テイラー=ジョイ、ラミ・マレック、そしてロバート・デ・ニーロ。殆ど事前情報を入れずに鑑賞に至ったこともあり、個性的な豪華キャストが登場するたびに驚き、高揚した。  特異なストーリーテリングとテンションが全面的に繰り広げられる作品なので、必然的に“お手本通り”に“万人受け”するタイプの映画ではないだろう。正直、間延びしていたり、展開的な違和感を感じる場面も少なくはない。 ただその映画的な歪さや、ある意味での居心地の悪さも含めて、本作が試みたブラックユーモアであり、現実の世界にも通ずるシニカルな批評性の表れだったのだと思う。  主人公は、文字通り満身創痍の身体と己の人生を受け入れて、引き続きこのクソみたいな世界で生き続けることを決心する。 その先に本当の愛はあったのだろうか。3人の親友たちはいつか再会して再び歌い合うことができたのだろうか。 アムステルダムの街は、また美しく、彼らを迎えてくれたのだろうか。 この映画の終幕の後に展開する世界の行く末と、彼らの人生模様を想像して、少し胸がキュッとなった。
[映画館(字幕)] 8点(2022-10-29 23:52:36)
14.  Adam by Eve: A Live in Animation
どういう類いの作品であるかをろくに確認せずに、Netflixのピックアップに上がっていた中から作品時間のコンパクトさに惹かれて鑑賞。 実写とアニメーションが融合した興味をそそる映像世界ではあったけれど、存在すら知らなかった気鋭アーティストの“長編MV”だった。  こういう作品もあるのかと、“おじさん”なりに興味深かったけれど、何せ楽曲をほぼ聴いたこともないアーティストだったので、短いドラマパートの間に挟み込まれるMVの連続に入り込めなかったことは否めない。  映像自体はそれなりに作り込まれていたし、Tik Tok世代に向けられた歌詞表示付きの演出は、ファンにとってはエモーショナルなものなのだろう。  ただしそれが「独創的」であるかどうかは少々疑問。 「渋谷」を舞台にした少女たちの葛藤や鬱積を主軸にして展開される世界観は、既視感があり、特にアイドルグループ「欅坂46」が表現した世界観に重なる部分が多かった。 主役の女の子は魅力的だったが、完全に平手友梨奈に寄せたキャスティングだったと思う。  ともかく、結果的に面白かったかどうかは別にして、自分の興味の範囲外の作品に触れる機会はそれほど得られるわけではないので、そういう意味では良い機会だったと思う。 最後の楽曲でようやく「ああ呪術廻戦の主題歌の人か」と気づく始末。新しいアーティストももっと積極的に知らなければと思う。
[インターネット(邦画)] 3点(2022-06-26 23:16:09)
15.  浅草キッド
昭和56年生まれの僕は、ビートたけしが“漫才師”だった時代を知らない。 僕自身、物心がつくかつかないかの頃、テレビで活躍していた彼の姿は“タケちゃんマン”だった。 分別がつき始めた頃には彼は毒舌家のパーソナリティとして既に芸能界のトップに君臨していたし、映画鑑賞が趣味となった頃には“北野武”という押しも押されもせぬ日本を代表する映画監督になっていた。  もちろん、古い映像でツービートの漫才を見たことはあったし、無名時代にストリップショーの幕間コントに出演していたということは知っていたけれど、僕らの世代にとってそれらはもはや「伝説」の類だった。 (「ちびまる子ちゃん」でお笑い好きのキャラクター“野口さん”がフランス座の前で無名のたけしにサインをもらうエピソードが印象深い)  そういうわけで、この映画は、この国の芸能界の“生きる伝説”ビートたけしの「誕生秘話」として極めて興味深く、青春映画として、そして伝記映画として紛れもなく傑作だったとまず言いたい。 正直、劇団ひとり監督をなめていた。 彼の芸人としての趣味趣向ど真ん中の題材とはいえ、これほどまで骨格のしっかりした良質な作品を作り上げるとは、只々脱帽だ。  浅草のストリップ劇場「フランス座」を舞台にした人間模様、そして芸人師弟の物語は、決して奇をてらうことなく王道的だった。 そこには、この国の誰もが知る芸能におけるスーパースターの誕生を描くことに対する気概と敬意が表れていたと思える。 「伝説」を映画として描き出すに当たって、余計な創作やデフォルメは不要であり、ありのままの“ビートたけし”をそこに存在させることができたならば、面白くなるに決まっている。 それが、ひとり監督の信念であり、勝算だったのではないか。  そして、その思惑は見事に結実している。 決して大袈裟なストーリーテリングをするわけでもなく、未読だが、おそらくは小説「浅草キッド」に沿った物語展開の中で、若き見習い芸人“タケ”が、“ビートたけし”へと成り上がっていく。  この映画を成立させているのは、やはり“ビートたけし”を文字通り体現した柳楽優弥だと思う。 松村邦洋からかなり綿密な指導を受けたようだが、当然ながら俳優としてモノマネという領域を超越し、“憑依”という言葉が相応しい圧巻の演技を見せてくれた。 前述の通り、僕自身は若い頃のビートたけしを見たことはないが、「ああ、これはたけしだ」と驚くほどに腹に落ちた。  W主演としてビートたけしの師匠・深見千三郎を演じた大泉洋も、もはや名優という冠を疑わせない安定感と存在感を見せている。 門脇麦、鈴木保奈美ら女優陣が表現した“生き様”もとてもドラマティックで素晴らしかった。 また、触れないわけにはいかないのが、ビートきよしを演じたナイツ土屋伸之の名演+名漫才。現役世代トップの漫才師としての技量と自然な佇まいが見事だった。  そしてそれら芸達者な演者たちの能力をちゃんと引き出し、王道的な映画世界の中に着実に落とし込んでみせた劇団ひとり監督の手腕は、やはり本物だと思うのだ。
[インターネット(邦画)] 9点(2021-12-15 22:14:30)(良:2票)
16.  あの頃。
現実の鬱積に打ちひしがれた主人公が、死んだような瞳で、ふと手にした松浦亜弥のMVのDVDを観始め、ある瞬間ふいに涙を流す。 正直、この冒頭のシーンのみで、この映画が伝えるべきことは表現されている。と、思った。 僕自身、アイドルファンのはしくれとして、あの瞬間の情感が、人生における明確な一つのトピックスであることを否定できるわけもなく、彼の感覚がリアルな経験と共に蘇ってくるようだった。  4年前、36歳にして初めて、アイドルグループにハマり、その沼に足を踏み入れた。 夫として、二児の父親としての節操は最低限保ちつつも、円盤を買い漁り、You Tubeの動画を見漁り、SNSで情報を追っては掘り起こす日々は、存外に楽しく、時を忘れた。 地方在住、家族持ちの身として、おいそれとライブに行くなんてことはできなかったけれど、東京出張の合間に、彼女たちのグループ名の由来となった“坂”に赴いたり、ついには東京ドームでのライブにも参戦できたことは、個人的に極めてセンセーショナルなことだった。  そういうふうに、時代に関係なく、タイミングや年齢に関係なく、そして“推し”に関係なく、ひいては必ずしも“アイドルファン”であるかどうかも関係なく、ただ「何か」にふいに涙を流してしまうほどのエモーショナルを感じ、そこに「今日」を生きる理由を見出した経験があるすべての人達に捧げられた映画だと思う。  主人公たち「恋愛研究会。」の面々の言動と、人生模様は、美しくもなければ、決して褒められもしない露悪的なものだけれど、その醜さや、愚かしさも含めて、彼らが過ごした「あの頃」そのものだろうし、その短く限られた時間があったからこそ、彼らは日々を連ねられたのだろう。 それは、辛いことや嫌なことばなりの日々の中で、一つの音楽、一つの動画、一つの画像で何かしらの“救い”を得た経験があるすべての人達が理解できることだと思う。  原作者であり、主人公本人でもある“劔樹人”の自伝的エッセイが原作なので、決して特別にドラマティックなストーリーテリングが用意されているわけではない。 冒頭にも記した通り、この映画作品の醍醐味は、オープニングの主人公の涙に集約されている。 ただ、その全編通した堕落感やしょうもなさこそが、「あの頃。」と銘打たれたこの作品における何にも代えがたい価値のようにも思える。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-12-04 00:18:05)
17.  ある用務員 《ネタバレ》 
極めて“惜しい”映画であることを前提とした上で、とても稚拙で、ダサい映画だったなと、落胆したことは否めない。 全編から滲み出る映画の低予算感を踏まえると、出演陣はちょっと驚くくらいに豪華な印象を受ける。脇役陣は特に名の知れたバイプレイヤー揃いで、それぞれクセの強いキャラクターを演じていたと思う。  まず良かった点から挙げるとするならば、前野朋哉演じる「本田」の一見凡人の風貌から溢れ出る強烈な残虐性とサイコパス感は、悪役キャラクターとしてフレッシュで、恐ろしく、娯楽性に溢れていたと思う。 彼と、組織の秘書役的な手下との間の抜けた掛け合いは、この映画世界の異常性と狂気性を増幅させていて良かった。  彼ら以外にも、各殺し屋コンビの即興的な掛け合いには、独特のユーモアが滲み出ていたので、もっとそれぞれのキャラクター性を活かして、殺し屋たちの見せ場を魅力的に映し出せていたら、映画全体の印象と娯楽性は変わっていたかもしれない。  詰まるところ、最も致命的だったのは、演出面やストーリーテリングを含めた映画作りそのもののチープさだった。 部分的な外しセリフは即興的で楽しかったけれど、本筋の話運びとセリフ回しは、あまりにも通り一遍で面白味に欠けていた。 そこに根本的な演出力の弱さも重なり、主演俳優をはじめとする役者陣の雑で薄っぺらい演技合戦には、正直なところ目も当てられなかった。 つくづく、役者というものは、演出によっていかようにも様変わりするものだなと思った。  加えて、音楽や効果音の使い方においても、的外れで耳障りになってしまっているシーンが多かったように思う。 あるヤクザの親分が石柱を怒り任せに蹴り続けるシーンがあるのだが、何故かボコボコと木製の壁を蹴るような効果音が当てられていて鼻白む。 他にも基本的な距離感や、小道具の使い方などの細々した箇所で「違和感」を感じることが多く、その都度「雑だなあ」と思ってしまった。 劇中、学のない戦闘要員が馬鹿にされるくだりがあるが、監督自身の映画的な学の無さが目に余る結果となってしまっている。  映画のテイストしては、韓国映画の「アジョシ」や「悪女/AKUJO」など、バイオレンスアクションのノリを強く感じたし、監督自身多分に影響されていると思う。 ただ残念ながら、韓国映画の芳醇な土壌によるクオリティーには遠く及んでいない。 部分的なアイデアと、前野朋哉の「本田」だけ輸出して、韓国でリメイクしてほしい。
[インターネット(邦画)] 2点(2021-10-11 16:35:06)
18.  愛がなんだ
たぶん、この映画を観たほとんどの人たちは、登場人物たち(特に主人公)に対して、痛々しさと、ある種の嫌悪感を覚えるのだろうと思う。 恋の沼に溺れ(どっぷりと沈み込んでいる)、自分を好いている人に都合よく甘え、相手を悪者にしたくないと物分りいい風に恋を諦める“彼ら”の様は、正直目も当てられない。 でもね、僕たちのほどんどは、その彼らの無様な姿から目を離すことができない。そして、嫌悪感を示しつつも、否定もしきれない。 それは、誰しもその無様さと自分自身の経験とを重ね合わさざるを得ないからだ。  誰だって、「正論」とは程遠い恋に溺れたことがあるだろうし、「不誠実」なセックスで誰かを傷つけてしまったこともあるかもしれない。 なぜそうしてしまうのか? それは、劇中でも吐露される通り、本当は誰も自分自身に対して「自信」なんて持てず、弱さや情けなさを隠しつつ、寂しさに覆い尽くされてしまわないように必死に生きているからだ。  主人公のテルコは、恋に溺れ沈み込む自分の愚かさも、相手の男の情けなさも、友人たちの弱さもズルさも、みんな分かっている。 それがもはや「恋」でもなければ、「愛」でもないことも。 それでも、彼女は、“沈没”を止めない。止められない。 友人に現実を突きつけられても、無垢な少女時代の自分自身に疑問を呈されても、「は?何それ」とすべてをシャットアウトする。  彼女は無意識下で知っているのだ。 それがどんなに愚かで精神的に不衛生な選択であろうとも、沈んで沈んで沈み込んで、“底”に足をつけなければ、浮き上がることができないことを。   この映画が描き出していることは、必ずしも色恋を主体にした恋愛模様ではなく、もっと泥臭くて滑稽な人間模様だった。 脳天をガツンと叩かれた感じ。この感覚は、2年前に鑑賞した「勝手にふるえてろ」を彷彿とさせる。 打ちひしがれた主人公が唐突に歌いだして心情を吐露するシーンなど類似点も多かったと思う。  そして、「勝手にふるえてろ」鑑賞時に松岡茉優を発見したことと同様に、また一人大好きになるべき女優を発見した。 主人公テルコを演じた岸井ゆきの。この女優がまた素晴らしかった。 不安定なキャラクターを演じきったその表現力もさることながら、個人的にツボだったのは彼女の風貌だ。 とても美人にも見えるがよく見るとそうでもなかったり、とびきり可愛らしくも見える時もあればまったくそうじゃない時もある。一つの映画の中でビジュアルがくるくると入れ替わるようだった。 例えるならば、“のん”のようなキュートでコミカルな繊細さ、“田畑智子”のような儚げな芯の強さ、そしてBiSHの“セントチヒロ・チッチ”のような秘めた熱さをかけて混ぜ合わせたようなマーブル柄。それが様々な表情を見せているようなそんな感覚を覚えた。 要するに女優としてどストライクだったということ。   「会社辞めたら象の飼育員になるわ」 と、動物園の象を見ながら、馬鹿な昔の男が馬鹿なことを言っていた。 それを聞いて泣いた私は、もっと馬鹿な女だったな。 と、彼女は、彼(象)に餌をやりながら懐かしむ。
[インターネット(邦画)] 10点(2021-05-03 00:23:09)(良:1票)
19.  アップグレード 《ネタバレ》 
得体の知れない「悪意」によって、愛する妻と自身の体の自由を失った不遇な男が、“機械”を体に埋め込み、文字通りの“殺人マシーン”と化して復讐に挑む。 翌日への憂鬱を抱えた休日の夜に観るには相応しい、B級SFの娯楽性を存分に堪能できる映画だった。日曜洋画劇場と淀川長治氏が健在な時代であれば、きっと何度も放送されたであろう。  サイボーク化の悲哀、AIの人格化と暴走、隠された陰謀……、この映画の娯楽を彩るテーマは、過去の幾つもの作品でもはや使い古されたものかもしれないが、描き方、映し出し方がとても丁寧でフレッシュなので、終始飽くことがなかった。 「機械」という悪魔に見初められてしまった男の過酷で壮絶な運命が、「寄生獣」や「ヴェノム」を彷彿とさせるある種の“バディ感”と共に展開していくストーリーが、とてもユニークだったとも思う。  決して、全てが目新しい映画ではないけれど、オリジナル作品として、監督と脚本を務めたリー・ワネルという監督の手腕と創造性は中々のものだ。先日観た現代版「透明人間」でも監督・脚本を務めたこの映画人には今後も期待したいと思う。  映画は、この手のダークSFに相応しい辛辣なエンディングを迎える。 それがただ後味の悪い悲劇に見えるのではなく、現代の社会に対する警鐘として妖しき光の中に浮かび上がってくることが、この映画が“質の高いB級SF映画”であることの証明だろう。  この世界に喜びを見いだせず、苦しみに耐えかねる人類は、そのうち皆、仮想現実に押し込められてしまうのではないか。 そう考えると、この映画が「マトリックス」の前日譚のようにも見えてくる。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-02-23 23:29:16)
20.  愛してるって言っておくね
自分自身が、「親」という存在になって9年半。 この12分の短編アニメに登場する「娘」は、愛娘とほぼ同じ年頃だ。  無論、悲しくてやりきれないし、理不尽さに対する憤りに心が張り裂けそうになる。 映し出される両親の虚無感は、極めてシンプルだけれど情感的なアニメーションによって、静かに、ゆっくりと、鑑賞者の心をも覆い尽くした。  この20年あまり、同様の悲劇のニュースが、かの国から絶えることはない。 自分の子が生まれてからも、幾度となく、無差別な銃乱射によって理不尽に奪われた子供たちの命を知る度に、とても他人事とは思えず身につまされてきた。  この短いアニメーションの中では、「惨劇」そのものが映し出されることはない。 ただ、大きな“星条旗”の下で、凶弾と子供たちの叫び声が響き渡る。その「意図」は明らかだろう。  「If Anything Happens I Love You(愛してるって言っておくね)」  この短いメッセージを、誰が、誰に対して、どのような状況で伝えたのか。 それが明らかになったとき、堪えてきた涙腺は一気に決壊した。   12分という短い時間は、必然的に“悲しみ”の感情でほぼ埋め尽くされている。 でもこのアニメは、ただ悲しいだけ、ただ辛いだけの作品では決して無い。  彼らにとって何よりも大切な娘を失ってしまった喪失感は、絶望と共に深まると同時に、彼女が確かに存在したことも確実に浮き彫りにしていく。  転がったミートボール、おかしな壁の修繕跡、Tシャツの残り香、思い出の写真や音楽、そして、彼女と過ごした記憶そのもの。  彼女の短い人生の中の無数の思い出は決して無くならず、思い出すことがまた思い出となっていく。 悲しみが消えて無くなることはないけれど、それでも生きていく。 人間は、そういうふうにできている。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-12-19 22:10:49)(良:1票)
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