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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2010年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  クリード チャンプを継ぐ男
名作「ロッキー」の新章として、各方面からの激賞を聞き及びつつも、気が付けば8年の歳月を経てようやく鑑賞。既に人気シリーズと化し、劇場では第三弾が公開されている状況。  観れば間違いないんだから、観ればいい。 にも関わらず、なかなか鑑賞に至れなかった最たる要因として、あまりにも容易にストーリー展開が想像できてしまうということがあった。 年老いて隠遁生活をしているロッキー・バルボアの前に、かつての強敵(と書いて「友」)アポロ・クリードの息子が現れ、師弟として絆を深めつつ、稀代のボクサーとして大成していく……というストーリーテリングが、鑑賞前からくりっきりと脳裏に広がっていた。 無論、それこそが「ロッキー」に通ずるまさしく“王道”であることは理解していたが、王道なのであれば逆にこの先いつ鑑賞しても満足するだろうという思いも働いてしまい、今に至ったのだと思う。  実際に鑑賞し、率直に感じたことは、想像以上に想像通りな王道サクセスストーリーだったということ。  ボクサー王者アポロの私生児として辛い幼少期を過ごした主人公ドニーが、アポロの正妻メアリー・アンに引き取られるところから物語は始まる。 自身がチャンピオンの息子だなんて露知らず、愛する母にも先立たれ、孤児院で喧嘩に明け暮れる孤独な少年の心情は、とても悲痛だ。 この少年がボクサーとしての血統と才能に目覚め、少年から大人へと成長しながら、自ら人生を切り開いていくという王道的プロットは、想像しただけで十分に胸熱だ。  ところが、少年ドニーの登場シーンはその冒頭のみで、次のシーンでは、既に筋骨隆々の大男に育ったドニーもといマイケル・B・ジョーダンが登場し、メキシコの場末のリングとはいえ、強者としての片鱗をいきなり見せつけてしまう。さらに本業は、一流証券会社勤務、実家は大豪邸、地元のジムの先輩ボクサーにはスパーリングに挑む代償として高級車のキーを放り投げる始末。 その様からは、少年ドニーからほとばしっていた反骨心とハングリーさはすっかり消え去っていて、正直なところ、彼がボクサーへの道に固執する理由がぼやけて見えてしまったことは否めない。 無論そこには、亡き父に対する憧れと、呪縛のような血脈があることは明らかだけれど、“トントン拍子”過ぎる展開に対して、乗り切れないとまでは言わないが、少し俯瞰した立ち位置で見ざるを得なかった。  “トントン拍子”は、ロッキーとの師弟関係の構築、恋人との都合の良い出会い、大物ボクサーからのビッグマッチのオファーへと、わりと終盤まで淀みなく続くが、2つの試合シーンで、文字通りリングの只中へと一気に引き込まれた。 文字通り息をつく暇も与えてくれない圧倒的なファイトシーンが、本作をボクシング映画の新たな金字塔へと引き上げていることは間違いなく、それはやはり「ロッキー」の新章として相応しいストロングポイントだったと思う。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-06-03 01:00:52)
2.  クレヨンしんちゃん オラの引っ越し物語 サボテン大襲撃
ひろしの転勤により、野原一家は家族そろってメキシコにお引越し。 まず、奇妙なサボテンの実の利権を得るために地球の裏側まで飛ばされるサラリーマンの悲哀と逞しさを、父ひろしから感じずにはいられない。 そして、単身赴任を決意していた夫の想いを感じ取って、家族で着いていくと即座に決める妻みさえのここ一番の愛情も深い。  序盤の春日部の面々とのお別れもそこそこにして、しんのすけたちは海を越えてメキシコに到着、ラテンのノリに合わせるようにトントン拍子にメキシコ生活をスタートさせる。  “オラの引越し物語”の後に続く“サボテン大襲撃”という副題が表していた通り、映画はそこから一気に“モンスターパニック映画”へと転じていく。 荒涼とした乾いた土地を舞台にして、そこに住まう人々に襲いかかる怪物(=サボテン)の構図は、まさしくB級モンスター映画の金字塔「トレマーズ」を彷彿とさせ、同映画の大ファンとしてニヤリとせずにはいられなかった。  他にも、「エル・マリアッチ」や「デスペラード」へのオマージュなど、映画ファン的にフックとなる要素はあったと思うけれど、中盤からクライマックスにおけるストーリー展開としては、凡庸の一言につき、面白味を感じることはできなかった。 もう少し、B級モンスター映画なり、B級アクション映画のテイストに振り切ったり、パロディを盛り込むなどして、映画史的な文脈に沿った娯楽性を加味してくれていれば楽しかったのになと思う。
[インターネット(邦画)] 5点(2021-09-26 22:41:01)
3.  クロール -凶暴領域-
まず最初に言っておくと、“B級モンスターパニック映画”好きとしては、この映画は断然アリ。 流石は「ピラニア3D」を手掛けたフランス人監督アレクサンドル・アジャ、この手のジャンル映画の何たるかをよく理解した上で、とても丁寧な映画作りがなされている。  競泳選手の娘が、ワニと洪水の恐怖の渦を得意の“クロール”で泳ぎ切り、父娘の絆を取り戻す話。  と、この映画のプロットを文面にすると極めて「馬鹿」みたいだけれど、そういう馬鹿馬鹿しさを、大真面目にパニック映画として映し出すことこそが、“B級映画”としての醍醐味だろうと思う。 馬鹿らしいプロット、馬鹿らしいストーリー展開だと感じつつも、主人公の心情や、恐怖に至るまでのプロセスがきちんと描かれているからこそ、彼女が突如として巻き込まれる悪夢のような状況にすんなりと入りむことができる。  また、極めてミニマムな映画的題材や素材を最大化し、エンターテイメント性溢れる「恐怖」を紡ぎだしていることも巧みだった。  まず「ワニ」という題材が相当地味だ。それも、馬鹿な科学者が遺伝子操作で狂暴化させたモンスターワニなどではなく、近所の“ワニ園”にいる極々フツーのワニが襲ってくるという設定が、地味すぎて逆にチャレンジングだった。  恐怖の対象となるワニの地味さを、舞台設定を主人公家族がかつて住んでいた家に限定することでカバーすると共に、フレッシュな恐怖心や緊迫感を創出することに成功している。 更には大部分の展開を、湿地の性質も加味されたジメジメと不潔で不快極まりない地下スペースに絞り込むことで、主人公たちが味わうストレスとパニックを何倍にも増幅させている。  そして、舞台となるかつての“マイホーム”は、主人公の娘と父親が抱える“喪失”とも巧みにリンクし、そこからの脱却が、父娘のドラマをエモーショナルに盛り上げる。  襲い来るワニの精巧なビジュアルや、しっかりと迫力をもって映し出される暴風雨や洪水の災害描写を見る限り、それなりに巨額の製作費が当てられていることは見て取れる。 もっと分かりやすく仰々しい舞台設定を構築することも恐らくできたのであろうが、それをせず、あくまでも“マイホーム(家族)”の映画に仕上げたことこそが、今作の最大の狙いだったのだろう。  そういう明確な“チャレンジ”に溢れた作品だからこそ、ベタベタな王道展開にも素直にグッと親指を立てたくなる。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-11-23 23:50:08)(良:2票)
4.  空母いぶき
どこかの阿呆のように、どんな事でも、浅はかに「曲解」しようと思えばいくらでも出来るわけで。 今現在の、この世界の複雑さと、愚かさを伴った在り方は、いつだってその“危機”を孕んでいる。 「日本」は、そういう危機感に対して、時に老獪に、時に臆病に、結論を避け、蓋を閉め続けてきた。 それは決して、一方的に非難すべきことでも、賞賛すべきことでもなく、極めて難しい選択肢の中で、苦慮をし続けてきた結果なのだろう。 ただし、そういう危うさに対して、いつまでも避け続けるわけにもいかないし、もう蓋をしようにも閉め切れない時勢に至っていることも明らかだ。 この国は、何らかの形で、この「局面」を超えなければならない。この映画の主人公が発した「ハードル」とは、まさにそういうことだ。  ならばどうするのか。 無論、その答えは一つであろうはずもないし、何が正しいかなど実際分からない。 大切なことは、導き出した方向性に対して、誠実に「覚悟」を示せるかということ。 この映画の登場人物たちは、自衛隊員も、政治家も、官僚も、ジャーナリストも、みなそれぞれに強い意思を示し、「覚悟」を示す。 その彼らの有様と、この映画で描き出されることは、あくまでも一つの価値観に端を発する「理想」であり、「空想」に過ぎないかもしれないけれど、その“姿勢”の示し方自体は、とても有意義だったと思う。  演者の部分的な演技プランのみをピックアップして無責任な難癖をつける阿呆は論外だが、しっかりと鑑賞した上で、この映画で描き出されていることと、自分自身の価値観を鑑みて、「否定」することは大いに結構だと思う。 どこまで意図的かは分からないけれど、この映画は、鑑賞者の思想や意識によって如何様にも「見え方」が異なるように仕上がっている。 この映画を鑑賞することで、避けられない「局面」を迎えているこの国の国民として、今一度自分自身の立ち位置を見極める良い機会にになり得るのではないか。   映画作品として、「完成度の高い映画だ」とは正直言いがたい。 登場人物たちに青臭く語らせすぎだし、所々再現映像のようなチープ描写もあり、映画表現としては稚拙だと言わざる得ない部分も多い。 だがしかし、製作費が限られているであろう中で、何とか苦心して映し出された海上での戦闘シーンは、きちんと緊迫感を備えていたし、日本独自のミリタリー映画として成立していたと思える。 そして、その海上の緊迫感は、日本政府の苦悩ともリンクし、この国だからこそ表現し得たポリティカルサスペンスとしても見応えがあった。  最後に、中井貴一の呑気なコンビニ店長役に違和感を感じた人も多いかもしれないが、これは海上護衛艦を舞台にした2005年の映画「亡国のイージス」を鑑賞した映画ファンならば、なかなか感慨深いギャップを孕んだキャスティングのはずだ。 本作には、「亡国のイージス」原作者の福井晴敏が企画として名を連ねており、随所にかの映画を彷彿とさせるキャスティングや設定が見受けられる。 原作自体に関連性は無いので、ストーリー性が別物であることは当然だが、同じ日本の領海上を舞台にしたポリティカルサスペンスでありながら、十数年の時を経て、自衛官や政治家たちの立ち位置が微妙に変化していることも興味深い点だった。
[映画館(邦画)] 8点(2019-05-30 23:28:20)(笑:1票)
5.  クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン 失われたひろし
昨年に続き、クレヨンしんちゃん映画を我が子と、友人父子らと連れ立って鑑賞。 昨年の「爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜」は、想定を大いに超えた素晴らしい作品だった。 このアニメならではの“おバカ”コメディを全面に繰り広げつつも、しんちゃんをはじめとする子どもたちの目線を通じて「正義」という概念のこの世界でのあり方を問うという、物凄くクオリティーの高いストーリーテリングに感嘆した。  そんなわけで昨年よりも鑑賞前の期待値が上がった今作も、“クレしん映画”ならではの「時代」を映すテーマ性は盛り込まれていたと思う。 今作のテーマは、母親であり、妻であり、一人の女性である“みさえ”によるずばり「女性讃歌」だ。  数年遅れのハネムーンの地で、母親であることの苦闘、妻であることの葛藤、それらをひっくるめて一女性としての強さと弱さを等しく全面に押出しながら、アドベンチャーを繰り広げる“みさえ”の姿が眩しく、愛おしい。 今作においては、主人公であるしんのすけは、めずらしく子どもらしいポジションにおさまっており、みさえとひろしの父母の活躍に振り切った構成も中々潔い。  それはまさに、この映画を子を連れて鑑賞しているであろうすべての母親たちにスポットライトを当てるべく用意されたストーリー展開だった。  この映画の焦点とその意図はよく理解できる。ただし、“クレしん映画”としてちゃんと面白かったかというと、少々疑問は残る。 個人的には、「母親」や「女性」といったターゲットに対する焦点の当て方が、少しあざとすぎたんじゃないかと思える。 主人公・野原しんのすけの存在感が“大人しく”見えたことに顕著に表れているように、「子ども」の存在をもう少し意義深く描き出すべきだったのではないかと思う。  「クレヨンしんちゃん」の主人公は、当然ながらしのすけである。 今作でも彼はいつものようにおバカに暴れまわってくれてはいるが、どこかその言動にいつものような“熱さ”を感じなかった。 “クレしん映画”の過去作をいくつも観ているわけではないので、どうしても前年との比較になってしまうが、声優の交代も少なからず影響しているのではないかと思う。声色的に違和感はあまり無かったが、この国民的キャラクターが内包する根本的な「熱量」を、まだ新しい声優は表現し切れていないのかもしれない。  まあとはいえ、僕の横で子どもたちはちゃんと笑い、ちゃんと泣いていたようなので、変な言いがかりをつけるべきではないのかもしれないが。
[映画館(邦画)] 5点(2019-05-06 20:40:56)
6.  クリミナル 2人の記憶を持つ男 《ネタバレ》 
まず断言したいのだが、この映画は、かつてのハリウッドの大スター俳優が惰性で出演している安易なアクション映画では決してない。 主演のケビン・コスナーは、60歳を超えてなお新境地を切り開くべく、精力的な役づくりに挑み、不幸な幼少時代に脳障害を受けた凶悪死刑囚を熱演している。  その主人公の凶悪犯に、死亡したCIAエージェントの記憶を埋め込み、世界の危機を救うミッションに挑むというプロットは、字面だけをみれば馬鹿馬鹿しく思えるが、そこから生まれたドラマ性はなかなかどうして見応えがあった。  断片的な記憶を辿りながら絶体絶命のミッションを繰り広げていくというような「ボーン・アイデンティティ」的なスパイアクションの二番煎じなのだろうと想定していた。 しかし、そうではなくこの映画は、ある種「障がい者」でもある凶悪犯が、強制的な脳手術により図らずも“人間らしさ”を得て、自分が置かれた立場との狭間で苦悩する人間ドラマを主軸に据えていた。そのストーリー展開は、非常に悲しく、新鮮でもあった。  また、その物語の構図は、ダニエル・キイスのSF小説「アルジャーノンに花束を」を彷彿とさせ、深い感慨を孕んでいたと思う。  と、想定よりもずっと面白い映画であったことは間違いないのだが、ラストの顛末があまりにモ惜しい。 主人公は、世界を陥れようとするテロリストに見事に打ち勝ち、世界を危機から救う。そこまではエンターテイメントとして爽快でとても良い。 ただ、その後、埋めつけられたCIAエージェントの記憶と人格が定着し、遺族である家族たちと懇意になるという“ハッピーエンド”は、いささか安直で都合が良すぎると感じてしまった。 更には、非人道的に彼を利用するだけして使い捨てるつもりだったに違いないゲーリー・オールドマン扮するCIA支局長(無能)も「スカウトしよう」とか言い出す始末……。  せっかく「アルジャーノンに花束を」のような感慨深いドラマ性を孕んでいるのだから、最後の最後まで、あの物語性を踏襲してくれたなら、相当に感慨深い余韻を残す傑作に仕上がっていたに違いない。 束の間の“人間らしさ”が夢だったかのように霧散し、再び監獄に戻っていくケビン・コスナーの後姿を妄想しただけで、涙が出てくるのに。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-05-04 23:50:54)
7.  グランド・イリュージョン 見破られたトリック
原題にも用いられている「Now You See Me」とは、「見えてますね」というマジシャンの常套句の意。 この原題が表す通り、この娯楽映画シリーズは、“何が見えていて、何が見えていないのか”という“トリック”を全編に散りばめながらストーリーを展開させていく。 前作は、その思惑が100%達成できているとは言えないけれど、娯楽映画としての着想そのものはユニークだったし、実力派を揃えたキャスティングも功を奏し、及第点の仕上がりだったと思う。 あからさまな酷評も割りと多かったようだけれど、この映画が“マジック”を描いている以上、素直に騙され、それを楽しむことが、観客としてのマナーだとも思った。     なので、その続編である今作においても、間違っても「あんなマジックはあり得ない」などと、分かりきった難癖を付けるのは「無粋」というものだ。 映画のストーリー上で、どんなに荒唐無稽なマジックが展開されようとも、「わあ、すごい!」と楽しめる人は心ゆくまで楽しめばいいし、もしそれが出来ないような人は観なければいい。   と、少々傲慢な“予防線”を張ってしまった感も我ながら否めないけれど、個人的には前作同様に及第点の娯楽映画を堪能できた。 奇想天外で荒唐無稽な“マジック”を「武器」にした義賊チームによるケイパー映画として、作品のテイストを前作以上に振り切ったことで、より気兼ねなく楽しめる娯楽映画に仕上がっている。   ジェシー・アイゼンバーグをはじめ主要キャストは「黒幕」や「悪役」も含めて続投となっているため、安定感はあるものの、ストーリー展開的な驚きはそれ程得られない。(モーガン・フリーマンの役どころなどは、もはやベタ過ぎる)   ただ、だからこそ王道的な娯楽を楽しめるという、“ジャンル映画”としての面白味が生まれ始めているようにも見える。 これ以上の続編はおそらく蛇足になると思われるが、義賊チームにおける“チーム感”を更に高め、愛着を得られるようになるならば、例えば「ワイルド・スピード」のような大ヒットシリーズに成長するような「奇蹟」もありえなくは無い。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-01-03 13:40:54)(良:1票)
8.  来る
結局、最も凶悪でおぞましい存在の極みは、お化けでも、妖怪でも、怨霊でもなく、「人間」であるということが、この物語の発端であり、着地でもあった。 その物語のテーマ性は、劇中の台詞の中にも登場するが、「ゲゲゲの鬼太郎」の時代から“ホラー”の中で延々と語られているものだろう。 ただし、そのある種普遍的なテーマ性を孕んだストーリーを、中島哲也監督が盤石のキャスト陣で映画化したならば、そりゃあ例によって“劇薬”的な映画になるに決まっている。  「下妻物語」以来のこの監督の作品のファンだ。特に直近の2作品「告白」、「渇き。」は、ただでさえ過激な原作世界に、中島監督ならではの悪意とインスピレーションを盛り込んだ映画づくりにより、クラクラしっぱなしの映画体験を食らわされた。 ビビットな映画的色彩の中で、醜く、滑稽な、人間の本質的な闇を浮き彫りにすることにこの監督は長けている。 そして、その人間描写をジメジメと陰鬱に描き出すのではなく、まるで悪魔が高笑いをしているかのような豪胆さ、即ち“エンターテイメント”を全面に打ち出してくる作風に、毎回ノックアウトを食らうのだ。  今作では、“ほぎわん”という恐怖の対象をある種のマクガフィン的にストーリーの主軸に据え、それに対峙する人間たちがそもそも抱えていたドロドロとした闇を、おぞましく、破滅的に描きつけている。 章立てされた群像劇的なストーリーテリングの中で、主要キャラクターを演じた俳優たちはみな素晴らしかったと思う。  妻夫木聡は、前作「渇き。」に引き続き、実に愚かなクソ野郎ぶりを見事に見せつけてくれる。 黒木華は、「リップヴァンウィンクルの花嫁」と似たようなキャラクターを演じているな〜と思わせておいて、一転、心の闇を爆発させる女性像を痛々しく体現する。 岡田准一は、もはや貫禄を帯びてきた俳優力で、途中登場ながら主人公としての存在感を放っていた。 松たか子、小松菜奈による中島映画歴代ダークヒロインコンビは、あまりにも魅力的な霊能者姉妹を演じ、彼女たちが再登場する続編を観たい!と思わせた。 青木崇高、柴田理恵をはじめとする脇役、端役の面々も、それぞれがキャラクターの存在感を放ち、映画世界をより重層的に彩っていたと思う。  と、総じて満足度の高い期待通りの映画であったことは間違いはない。 ただし、前述の過去2作と比べると、何か一抹の物足りなさが残っていることも否めない。 思うに、この監督と、このキャスト、そしてこのストーリーであれば、もっともっと弾け飛ばせれたのではないかと思える。 ラストの「対決」に至るまでの盛り上がり方は最高だったが、肝心の対決そのものの描写、そして映画の締め方が、この作り手にしては大人しく萎んでしまったように見えた。  いかにもなジャパニーズホラー的な起点から、自らそれを嘲笑うかのような終着へ導いているのだから、もっと爆発的で破壊的な顛末を見せて欲しかったと思うのだ。 この一抹のフラストレーションを、あの夥しい血流の中できっと生き抜いているであろう霊能者(姉)が祓ってくれることを望む。
[映画館(邦画)] 8点(2018-12-23 20:44:40)(良:1票)
9.  KUBO/クボ 二本の弦の秘密
昨年、世の好事家たちを唸らせたストップモーションアニメの今作をようやく観ることができた。 近年、ストップモーションアニメの進化が目覚ましい。 撮影技術の進化、3Dプリントをはじめとする造形技術の進化など、技術的な革新はもちろん大きかろうが、何よりも大きな要因は、観客も、作り手も、あらゆる作品に対して、本物の質感を強く求めるようになったことではないかと思う。  CG映像の隆盛に伴い、観客はもはやどんなリアルに見える映像を目の当たりにしても、驚かなくなった。映像上で何が起こったところで、「ああCGか」の一言で済ませてしまう。 言い換えれば、映し出される驚愕の映像がリアルであればあるほど、実際には触れないモノ、質感がないモノだと、無意識レベルで認識してしまっているのだと思う。 当然ながら、そういう感情を抱かせてしまった時点で、そこに観客の熱量は生まれない。観客の熱量を感じられないものに対して、作り手も熱量を注ぐことが出来なくなっている。  そこで再注目されている手段が、原点回帰的な特撮技術だったり、今作のようなストップモーションアニメなのだと思う。 人を形どったものに命を吹き込むというプロセスは、古来より世界中の文化が共通して培ってきたものであり、そこから溢れ出る芸術性と愛着感は、我々一人ひとりのDNAレベルに刷り込まれているのかも知れない。  そうして生み出された世界観とキャラクターが、これまた「物語」そのものの根幹に迫るテーマを紡ぎ出す。  「結末」があるからこそ、物語は美しく、価値が生まれる。 人は、心が弱ると、ついつい必要以上に「終幕」を恐れてしまう。 だが、結末を迎えた物語は、決してそのまま消えてなくなってしまうわけではない。  一つの物語を、また別の者が語り、紡いでいくことで、その価値は幾重にも折り重なり、新たな物語を生んでいく。 それは、「人生」の理とまったく同じだろう。  この世界は、そういうふうにできている。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2018-11-27 23:25:09)(良:1票)
10.  クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ 拉麺大乱
この世界は腹立たしい。「正義」を貫こうとすればするほど、怒りが膨れ上がる。 行き場のない怒りは、徐々に憎しみとなり益々世界は混沌とするけれど、それでは“相手”の思うツボ。 「じゃあ、どうすればいいんだ?」 “正解”ではなく、それだけではこの世界の問題は解消しないけれど、ひとつの“アンサー”をこの映画は導き出してみせている。  「クレヨンしんちゃん」映画を劇場鑑賞したのは実は初めてだった。 今作で26作目にも関わらず、鑑賞しているものは、第一作の「アクション仮面VSハイグレ魔王」と、傑作として名高い「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」くらいで、子供の頃からアニメ放映している世代としては馴染みが薄い方かもしれない。 「オトナ帝国」然り、作品によっては世の好事家たちも舌を巻く世界観を描き出してきたシリーズであることは勿論知っていたけれど、それでも何となく「ナメていた」部分は大きかったようだ。  結論を言うと、今作は凄く良い映画だった。完全にナメていた。  序盤から繰り広げられる“おバカ”カンフー映画テイストで、圧倒的大半を占める子どもたちを和ませつつ、カンフー映画世代の大人たちの“子供心”もしっかりとくすぐってくる。 映画作品26作にも渡って土壌を培ってきているわけだから、当然といえば当然だが、「クレヨンしんちゃん」の世界観だからこそ許されるハイテンションギャグとブラックユーモアを併せ持ったコメディ性のバランス感覚には、もはや老獪な安定感すら感じる。  破天荒な展開を突っ走って、しんちゃんとヒロインが取得した“必殺奥義”で悪党を倒して大団円〜、かと思いきや、まさかの展開が用意されていた。 クライマックスからエンディングに向けて、“行き過ぎた正義”がもたらす弊害と、“正義”という概念そのものが孕んでいるアンバランスまでを描き切る大胆さにまず感嘆した。 そして、その誰も解決の見出だせていない通念的な問題に対して、しんちゃん(かすかべ防衛隊)は、彼らならではの“アンサー”を堂々と示す。  そう、腹立たしいことの多い世界だけれど、“ジェンガ”を踊って戦争をすることは出来ないし、憎しみを抱くことすら馬鹿らしくなるということ。 その光景は、一寸「なんだソレ!?」と思ってしまうけれど、紛れもない真理であり、それを臆面もなく表現することができる彼らの姿に、心が洗われる。 「そんなことで問題は解決しない」と一蹴してしまうことはあまりに安易で愚かだ。そんなことは理解した上で、今作はこの顛末を描き出しているのだから。  “ジェンガ”を踊り続けるラストシーンは、ある種の異世界のように非現実的に描かれている。もしかしたらすべては傷ついた子どもたちの「空想」なのかもしれない。 では、その「空想」を「空想」のままにしてしまっていいのか?その問いは、この世界のすべての「大人」たちに突き付けられている。
[映画館(邦画)] 8点(2018-05-06 21:53:17)
11.  グレイテスト・ショーマン
サーカスが好きである。世界各国から集められた芸達者な精鋭たちが、あの限られた閉鎖的な空間の中で、無限にも感じるイメジネーションを繰り広げるエンターテイメント性は勿論、彼らが当然抱えているであろうパフォーマーとしての人生の機微や、決して綺麗事ばかりではないであろうショービジネス界の苦悩も含めて、圧倒される。  そんな“サーカスの祖”とも言える稀代の興行師の人生を軸に、“ショー”の中でしか生きる術が無かった者達の人生讃歌が、圧倒的な歌唱とダンスで映し出されていた。 ミュージカル映画好き、そしてサーカス好きとして、問答無用の高揚感に包み込まれたことは言うまでもない。  だがしかし、この映画のストーリーラインと語り口は、“空中ブランコ”のように極めて危うい。 その最たる要因は明確で、ヒュー・ジャックマン演じる主人公P・T・バーナムが、決して清廉潔白な品行正しい人間ではないからだ。 彼はあくまでも私利私欲のために(勿論、愛する家族を守るという大義名分はあるけれど)、いわゆる“フリークス(奇人)”を集め、笑いものにするための「見世物小屋」を始めたのだ。 その様をどんなに成功譚的に描き、“好人物”の世界屈指の代表格であるヒュー・ジャックマンが演じようとも、この主人公に対して非倫理観や不道徳性を感じてしまうことは否めない。  無論、そんなことはこの映画の製作陣は充分に理解している。理解した上で、それでも敢えて短絡的に思える語り口を貫き、ただただシンプルに主人公をはじめとするショーの中で生きる者達の生き様を歌い上げている。 この映画が素晴らしいのは、まさにその映画として潔い「態度」だ。 ほんの少し演出のバランスが悪かったり、別のキャスティングだったならば、主人公は勿論、他の登場人物たちの言動も決して受け入れられず、非難の的となっていたことだろう。  フリークス達は、「綺麗事」ばかりを振りかざして生きていくことなどできないこの世界の闇の深さを、他の誰よりも知っている。 倫理に反しようが、不道徳だろうが、そんなもの知ったこっちゃない。 誰に笑われ、誰に罵られようとも、「生きていく」という覚悟の上に、彼らの歌声は響き渡る。  ミュージカルシーンの華やかさと力強さは紛れもなく素晴らしい。ただそれによる娯楽性が、ストレートな多幸感には直結しない。終始一貫して、薄くへばりつくような居心地の悪さを感じる。それは即ち、この現実世界にはびこる居心地の悪さそのものなのだろう。 その映画としての試みが完全に成功しているとまでは言わないが、このミュージカル映画の目指した「表現」と「着地点」は、圧倒的に正しいと思える。  演者としては、ゼンデイヤ嬢が「ホームカミング」に続いて魅力的だった。彼女の溢れ出る魅惑的な異端性は、女優として今後益々唯一無二のものとなっていくだろう。 蛇足だが、ミシェル・ウィリアムズとレベッカ・ファーガソンに挟まれては、流石のヒュー・ジャックマンも辛かろうな。
[映画館(字幕)] 8点(2018-03-15 08:04:21)(良:2票)
12.  クローバーフィールド・パラドックス 《ネタバレ》 
再開したばかりのNetflixを開くと、「クローバーフィールド」の文字が。なんとシリーズ最新作がWeb限定公開とは。自分がそれを観られる状態にあることを喜びつつも、益々このサービスから離れられなくなるなと少々複雑な思いも巡る。  と、一瞬のうちに思うくらいには、このシリーズのファンだ。 何と言っても2008年の第一作「クローバーフィールド/HAKAISHA」が最高だった。“企画”先行の作品であったことは否めないが、圧倒的なクオリティで「怪獣映画」を文字通りの“別視点”で描ききった大傑作だと思っている。 そして、2016年に満を持して公開された「続編」というよりも、「番外編」に近い第二作は、僕達にファンに植え付けられた「怪獣映画」という概念を笑ってしまうほどの豪胆さで打ち消し、“戸惑い”必至のトンデモB級映画(かろうじて褒めている)に仕上げ、このシリーズの特異な在り方を示してみせたと思う。  そんなわけで、この第三作も、良い意味でも悪い意味でも「想定外」の映画世界を見せてくることは間違いない。 「クローバーフィールド」と銘打っておきながら、宇宙に飛び出して一体何を描くのかと思いきや、なんとこんなに機知に富んだSF的発想で、そもそもの“事の発端”めいたものを映し出してくるとは。 強引過ぎる「多言宇宙論」を持ち出してきて、平行世界が織りなす混乱と悲劇を描き出したストーリーテリングは、決して巧い語り口ではないけれど、「F先生」仕込みのパラレルワールドもの大好き世代には堪らない展開だった。 ストーリーライン自体が破綻しているわけではないので、もう少し巧い脚本が仕上がっていれば、純然たるSF映画の傑作になり得たとも思える。  企画として、崇高な映画を作ろうなんて端から考えていないはずなので、前作とはまた全く違うベクトルでのトンデモB級ぶりを展開しつつ、ラストの大オチを“ネット視聴者”に見せつけられたことで、J・J・エイブラムスをはじめとする製作陣は大満足なのだろう。  なんかチャン・ツィイーみたいな中国人がキャスティングされているなあと思っていたら、チャン・ツィイーだった。 アジアの宝石も歳をとったなあと思ったが、最期の“凍結”ぶりはなかなか印象的で良かった。 (恐らくは中国市場向けに、彼女の台詞が全編中国語だったのには、違和感を覚えたけれど)  さあ次はどんな「奇策」を見せてくるのか。こういう期待の仕方も映画シリーズとして独特でアリだと思う。
[インターネット(字幕)] 7点(2018-03-11 00:19:18)
13.  苦役列車
面白い“青春映画”だったと思う。 夢も希望もなければ、友もなく、女もなく、当然金もない、社会の底辺で生きざるを得ない男の束の間の青春を、取り繕いなく切り取ったユニークな映画だった。  日雇いの人足仕事でその日暮らしをしている主人公・北町貫多は、19歳にして既に人生を諦めかけている。 稼いだ僅かな金は、酒と風俗に費やし、家賃滞納を続けているアパートからはいつ追い出されるかも分からぬ日々。 そんな男に、ふと同い年の「友達」が出来たことで、ほんの少しだけ人生に「色」がつき始める。 ただし、わずかに19歳らしい色めきが立ったところで、この男に長年に渡って染み付いた下卑た根性が一掃されるわけではなく、次第にまた人は離れていく。親しくなった友も、焦がれた女も。  という一連のこの主人公の青春模様、人生模様が、愚かしくも、可笑しい。 彼が得た顛末は総てにおいて「自業自得」の一言に尽き、擁護のしようもないのだけれど、彼と一度は友達になった二人と同様に、この北町貫多という男のことが気になって仕方なくなる。   主人公・北町貫多を演じる森山未來が、流石の表現力を見せつけてくれる。 このキャラクターが持つ生活環境によって染み付いた下品さと屈折した性格を見事に表し、「誰にも愛されない主人公」をほぼ完璧に体現している。 また主人公の友達となる高良健吾、前田敦子の役柄と佇まいもそれぞれ良かった。 彼ら3人が、立入禁止の海辺で戯れる場面は、あからさまな青春感がどこか非現実的な雰囲気も醸し出しており、この作品に相応しい名シーンだと思える。   ただ一方で、原作「苦役列車」で書き連ねられたものは、もっと暗くて笑えない悲観そのものだったのではないかとも予測できる。 原作は未読なのだが、今作で芥川賞を受賞した西村賢太が描きつけた世界観に、この映画で示されたようなポジティブさは微塵もないのだろう。 自分自身の人生を象った私小説だからこそ、この映画作品の佇まいに対して憤りを感じたことも充分に理解できる。「俺には“何もない”がある」なんてキャッチコピーには、虫唾が走ったに違いない。  必ずしも原作通りに映画を作ることが正解だとは思わない。特に私小説をそのまま映画化することは独善的になりがちだし、あまりにリスキーだと思う。 しかし、実際、この映画作品の主人公・北町貫多が背負っている苦悩は、劇中で露わになっている以上に深く救い難いものだろう。 その主人公の苦悩をもう少しだけきちんと根底に描きつけることが出来ていたなら、“束の間の青春”がもっと特別な時間として映り、この映画はもっと確固たる名作になり得たかも知れない。 そして、この監督と演者たちにはそれが出来たと思う。
[インターネット(邦画)] 7点(2017-11-20 17:08:57)
14.  海月姫
とても愛らしい映画だったとは思う。 原作漫画は1巻しか読んでいないが、キャストのビジュアル面をはじめとして最大限忠実に漫画の実写化に努めている。 ただそれ故に、あとほんの少しだけ映画表現としての巧さが備わっていたならば、この映画は青春映画としても、ファッション映画としても、もっと快作に仕上がったのではないかと口惜しさが残った。  コメディ漫画の世界観を、キャスト陣はビジュアル、テンション含めて見事に表現している。それについては、核となる“尼〜ず”の面々のキャスティングが抜群だったと思う。 もはや「名女優」という枠にカテゴライズされてもおかしくない池脇千鶴の贅沢過ぎる配役を筆頭に、ビジュアルの合致を存分に活かし“芸人枠”としては塚地武雅並の安定感を見せた馬場園梓(アジアン)、ファッションにも精通した篠原ともえのバラエティー性は映画の題材的にもマッチしていた。 そして個人的には何と言っても太田莉菜。「69 sixty nine」以来のファンとしては、彼女がまさかの役どころを怪演していることも嬉しかったが、“まやや”というキャラクターに隠された要素を知らなかったので、クライマックスの顛末では何故この役が太田莉菜だったのかが一目瞭然で、ただただアガりっぱなしだった。  この“尼〜ず”の面々が入り乱れるシーンの一つ一つは笑いが絶えない。 ただそれぞれがコント的で、個々のキャラクターが持つドラマ性までは踏み込めていないことも事実。 もちろん、奇妙な面々の可笑しささえ表現できていればいいのかもしれない。けれど、終盤の展開を踏まえると、もっと個々が待つ葛藤や人間性に踏み込んだ場面があった方が、“チーム感”が高まり、ラストの円陣はもっともっとエモーショナルになったろうにと思えてならない。 126分というコメディ映画としては結構な長尺を有しているにも関わらず、そういった人間描写が物足りないことは、映画的な巧さがなく稚拙なのだと思う。  あと、これは言っても致し方ないことだとは思うけれど、“女性にしか見えないキャラクター”を男性が演じるのはやはり無理がある。 菅田将暉は「綺麗」だったし、所々の1カットにおいては、原作漫画のキャラクターのビジュアルを表現できていた場面も幾つかはあったと思う。 しかし、実写で動きがつくとなると、やっぱり男は男だし、それをあれほど密接に関わっている人達が気付いていないという設定にはどうしても違和感を感じ続けなければならなかった。 まあコレは本当に仕方ないことだ。それが最大のウィークポイントになることは前提の上での映画化なのだろうから、もはや何も言うまい。  そして、この映画が愛らしい最大にして唯一無二の理由は、言わずもがな「能年玲奈」(2014年時点)という女優の存在そのものである。 能年玲奈演じる主人公“月海”が、すべてのシーン、すべてのカットにおいて愛らしいからこそ、この映画は愛らしいのだ。 女優として上手いとか下手だとかそういう一般的な評価は彼女には相応しくない。 能年玲奈が能年玲奈であったかどうか、この女優に与えられる評価の付け方はそうあるべきだとすら思う。 「あまちゃん」を観ていなかった僕は、先日観た「この世界の片隅に」に続いて、今更ながらこの女優の特別さを思い知っている。  決して優れた映画ではなかったし、評価が低く、売れなかった映画であることも納得はできる。 ただしだ、能年玲奈、いや「のん」という女優の若き日の貴重な時間を切り取った映画としては、とても大切な作品になるかもしれない。
[インターネット(邦画)] 6点(2017-03-04 12:47:41)(良:2票)
15.  グラスホッパー
伊坂幸太郎の原作は、この人気作家らしい切り口が特徴のユニークな「殺し屋小説」だったハズだが、これまた随分と凡庸でダサい映画に仕上がってしまっていると思った。 原作小説を初めて読んだのはちょうど5年前で、既にストーリーをうろ覚えだったので、映画を観た翌日、書棚から文庫本を引っ張り出してきて、一気に再読してみた。 なるほど。映画化における改変が、殆どすべてにおいて「改悪」となっている。原作ファンとしては、むしろ、“別のお話”に作り変えられていると思ってしまうくらいに、原作が持つストーリーテリングの“妙”が破壊されてしまっている。  個人的に伊坂幸太郎の小説が好きだ。流行作家らしい軽妙な語り口と、ポップカルチャーの多様は、熱心な文学ファンにとっては敬遠される要素なのかもしれないけれど、映画ファンとしては、この作家が持つ独特の視点と、娯楽性の高いストーリーテリングには、常に映像的感覚が付随されていて、引き込まれる。  そもそもが映像的な感覚に富んだ文体であり、映画的なアクセントをつけやすいキャラクターが多く登場するので、これまで観てきた映画化作品は、どれも一定の面白さを備えた作品に仕上がっていた。映画化作品のすべてを観たわけではないけれど、少なくとも「駄作」と切り捨てるものはなかったように思う。  が、しかし、残念ながら今作は、「駄作」と言わざるをえない。 映画化における「改変」は、ある程度仕方がないことだとは思う。過去の伊坂幸太郎原作の映画化作品においても、すべて何らかの改変はされている。 今作において問題なのは、原作の持つテーマ性をまるっきり履き違えてることだ。  主人公は拭い去れない復讐心を抱えているが、この物語のテーマは「復讐」などではない。 それは、原作において、「復讐」の最大の対象が冒頭でいともあっさりと死んでしまうことからも明らかなはずだ。 映画では、冒頭から陰惨な殺戮シーンを映し出し、いかにも凶悪な「悪党」の存在を際立たせ、安直に描き出される復讐心を煽っている。それが実に陳腐でダサい。  原作小説では、悪党の親玉たちの描写は必要最低限に抑えられている。直接的な描写は殆ど無く、ほぼその配下の部下や取引先の人間たちによる伝聞で留められている。 なぜか?巨悪の根源の正体なんて、そんなありふれたものどうでもいいからだ。 原作でメインに描き出されているのは、主人公の平凡な男と、二人の殺し屋の、抱え込んだトラウマからの脱却の様である。 そしてそれを主軸にして、誰も知らない「業界」の常識とルール、そこで生きる者たちの心象風景が、特異なエンターテイメントとして繰り広げられている。  そういったテーマ性や娯楽性が、全くと言っていいほど再現されていない。 同監督作では、同じく生田斗真が主演した「脳男」が、粗はありつつも想定外に面白い娯楽映画に仕上がっていたので期待感はあった。 しかし、今作においては、豪華なキャスティングをまったく生かしきれていない演出力のマズさが終始際立つ映画になってしまっている。 アクションシーンがチープだったことも大きなマイナス要因だったと思う。 「アジョシ」や「ジョン・ウィック」レベルのアクション描写を用意しろなどとないものねだりをするつもりはないが、多種多様な細かい殺人描写がキモであるストーリーでもあるだけに、映像的な説得力の無さは致命的だった。  更には、エンディングに大ファンであるYUKIの楽曲が意味不明にタイアップされていたことが、やり場のない虚しさに拍車をかけた。
[ブルーレイ(邦画)] 3点(2016-07-04 18:50:45)
16.  くもりときどきミートボール2 フード・アニマル誕生の秘密
前作の「エイリアン」「インデペンデンス・デイ」オマージュに続き、今回は完全に「ジュラシックパーク」! 正々堂々とパクって……いや、オマージュを捧げている娯楽性がまず楽しい。それだけで、アニメーション映画としての及第点は満たしていると思える。  前作は、過剰なほどにポップなビジュアルにそぐわぬ「飽食」に対しての意外にも深いテーマ性と、シニカルなブラックユーモアの連続で彩られた万人向けというよりも、むしろオトナ向けとも言えるアニメーション映画の傑作だった。  食べ物が“災害”として襲ってきた前作は、その描写の下品さに対して文化的に若干引いてしまう部分もあったが、今作はありとあらゆる食べ物が大なり小なりの“アニマル”として登場し、ただただ愉快で可愛らしい。  前作と同様のテーマ性なりを期待しすぎてしまうと、この続編への拍子抜けは避けられないかもしれない。 けれど、今作はメインとなるテーマを主人公を中心とした普遍的な人間関係に絞り、敢えて良い意味での子供向け路線にシフトチェンジしているのだと思う。 そして、これはこれで充分過ぎるほどのクオリティーを備えたアニメーションだったと思う。
[CS・衛星(吹替)] 6点(2015-06-26 23:33:06)
17.  グランド・ブダペスト・ホテル
ウェス・アンダーソンの映画を観るのは「ライフ・アクアティック」「ファンタスティック Mr.FOX」に次いで三作目となる。ビギナーと言えるだろうが、それでも映画が始まってすぐに「ああ、ウェス・アンダーソンの映画だな」と認知させてしまうのは、この監督の稀有な作家性故だろう。  映画は全編に渡って、この監督らしいウェルメイドなコメディと、拘り抜かれた美意識に彩られていて、映し出される一つ一つの「画」を見ているだけでも楽しい。 タイトルから想像したイメージは、風変わりなホテル内での風変わりな人間模様が“グランドホテル形式”で描かれるのだろうと思っていた。 しかし、物語は想定外に加速し冒険活劇へと展開していく。  激動の時代背景を根底に敷き、或る人間の或る人間に対する思い出がつまびらかになっていく。 そうして辿り着いた結末は、この映画世界が醸し出す雰囲気からは想像もできないくらいに、重く、悲しい。  ただし、この映画に登場する人物たちは、必ずしも悲しみに暮れているわけではないと思えた。 人生は、総じて過酷で辛いもの。 それは悲劇ではなく、受け入れるべき運命であり、それらを礎にして“新しい世界”は構築される。 昨日の世界と明日の世界は常に変わりゆくもので、それの善し悪しをその日を生きている者は判別出来ないのだと思う。  そういう達観めいたものを、過ぎ去った世界のことを語る老いた“ベルボーイ”に感じた。 
[映画館(字幕)] 7点(2014-07-02 16:19:27)(良:1票)
18.  グランド・イリュージョン 《ネタバレ》 
ジェシー・アイゼンバーグが、冒頭から「ソーシャル・ネットワーク」よろしく早台詞をまくしたてる。 その時点で自分自身を含め健全な観客は、この映画の“ミスリード”に引っ掛かっていたのかもしれない。  “マジック”を描いた映画になかなか良作はない。 マジックというエンターテイメントは、鑑賞者の目の前で見せるからこそ驚きがあるわけで、映画というそもそもが“つくりもの”の世界の中でいくらびっくり仰天の奇術を見せたとて、驚ける筈がないからだ。  今作においても、主眼を“マジック”に置いている以上、その障壁は免れない。 実際、繰り広げられる数々のイリュージョンに対しても、「まあこれが実際に目の前で行われた凄いだろうね」と一歩引いた立ち位置で観ざるを得なかったことは確かだ。  ただ単に、映画世界の中で壮大なイリュージョンを繰り広げて「スゴイでしょ?」という作品であったならば、極めて駄作と言わざるを得なかったろうけれど、この映画の場合は、全編に渡るテンポの良さと、キャスティングの巧さで、そういったマイナス要素をカバーし、映画としての質を高められていると思う。  この映画の中では当然ながら数々のマジックシーンが描かれるが、マジックショーそのものの魅力は、冒頭の4人の路上マジシャンたちの登場シーンに集約されている。 彼らの鮮やかなマジックの手腕をいきなり見せつけられて、観客は「ああ、これからこいつらがとんでもないイリュージョンを見せるのだな」と強く認識させられる。 先に記した主演俳優の早い台詞回しも含めて、この“見せ方”が映画全体に効いている。  もちろん端からマジックの「タネ」もとい、映画の「オチ」を先取りしようと“ステージ”に対して斜めから映画を観たならば、わりとすぐにネタバレしてしまうかもしれない。 ただそういう観方は、マジックを観るにしても、映画を観るにしても、「無粋」というものだ。 勘ぐること自体は結構だと思うけど、娯楽として真っ当に楽しみたいのであれば、きちんと真っ正面から観て、気持ちよく騙されることも大切だと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2013-11-02 00:09:34)(良:2票)
19.  クロニクル 《ネタバレ》 
「童貞をこじらせる」なんて表現がしばしば使われるけれど、この映画ほど“童貞をこじらせた”主人公を描いた作品は他に無い。 この映画の主人公は確かに不幸な境遇にあるけれど、彼の暴走と発狂の発端は、決して特殊なことではなく、世界中の「男子」の誰にでも起き得ることであり、普遍的であるが故に、同時に彼に対する同情の余地はあまりない。  しかし、だからこそこの映画が“描くこと”は極めてリアルで、身につまされ、ちょっと笑えない。  登場するキャラクター自身が撮影している体で映し出される「POV方式」で、ふいに超能力を得た3人の男子高校生の顛末を描いた今作。 「アイデア一発」の映画に捉えられがちだろうが、決してそんなことはない。 多くのPOV映画が、「リアル」というものをビジュアル的に安直に追い求めて失敗しているのに対して、この映画は必ずしもビジュアル的な要素に「リアル」の焦点を当てていない。  この映画がPOV方式をとった意味は、主人公をはじめとする現代の若者たちの「自己表現」の手段、詰まるところの「自画撮り」をストーリーテリングの「主眼」に据えるために他ならない。 他ならぬ僕自身もまさにそうだが、SNS、スマートフォン……取り巻く環境に伴い、「自分を撮る」ということは、もはや屈折でもなんでもなく、世界中の若者にとって普遍的な自己表現の一つとなってきている。 「他者」との関わりを拒絶し、その距離感が広がれば広がるほど、自身の主眼はより内向きになり、必然的にカメラのレンズも自らを映し出すようになる。 それこそが、この映画がこの撮影方式によって求めた「リアル」だったのだと思う。  映画は、非常にミニマムで内省的な青春映画のように始まり、コメディからアクション、悲愴感が溢れる破壊衝動を経て、ヒーロー映画の秀逸な「前日譚」のような帰着を見せる。 綻びもあるにはあるが、そんなものどうでも良くなる程に、なんという発想の豊かさだろうと思える。  そんな映画世界を殆ど無名の若いスタッフとキャストで作り上げていることに、眩い輝きを感じる。 キャストで印象的だったのは、やはり主人公を演じたデイン・デハーン。 独特な鬱積を秘めた目と、滲み出る危うさは、若い頃のレオナルド・ディカプリオを彷彿とさせる。 既に注目作へのキャスティングも決まっているらしいが、今後の注目株であることは間違いないだろう。
[映画館(字幕)] 9点(2013-10-14 23:05:08)(良:2票)
20.  クラウド アトラス
無数のクローン少女たちが、何も知らぬまま「死」への歩みを進める。 その不穏さに溢れたシーンが、手塚治虫の「火の鳥」における人間の精神を受け継いだ万能ロボット“ロビタ”の“死の行進”と重なった人は多かろう。  この奇妙で荘厳な映画を観終えてやはり何よりも先ず思ったことは、「火の鳥にそっくりだ」ということだ。 そして、手塚治虫のライフワークであった「火の鳥」の“崇拝者”である僕にとって、この映画に対してのその感想は、最大級の「賛辞」であることは言うまでもない。  時空を超えた6つのストーリーにおける複数の“同一の魂”を描いた映画世界は、非常に複雑で、混沌としているように見える。 しかし、まさに散らばったパズルのピースが組み合わされていくように、次第に複数の支流が絡み合い、結びつき、大きな一つの流れに集約される。 そうして紡ぎ紡がれた一つの結末に辿り着いた時、すべての疑問や謎は、そんなもの最初から無かったかのように綺麗に解消され、主人公が見上げる星空の如く美しく澄み渡る。  誰もが「映像化不可能」と考えた原作は未読だが、前述の通り、手塚治虫の「火の鳥」の映画化と考えれば、それを成立させた「構成力」だけを取っても映画としての価値は揺るがないと思う。 しかも、複数の独立したエピソードを章分けするでなく、すべてを同時進行で描き連ね、最終的に一つの物語に“繋げた”ことは、もはや奇跡的ですらある。 ウォシャウスキー姉弟とトム・ティクヴァ、この3人の監督が導き出した映画世界は、原作の持つテーマと世界観を完璧に再現し、更にそこに誰も見たことが無い映画のマジックを加味してみせたと思う。  勿論、時代も人種も性別までも超越した複数の人物像を演じた俳優たちも素晴らしい。 彼らがそれぞれのキャラクターすべてにおいて見事に息づいているからこそ、6つの物語は本質的な部分で結びつき、一人のキャラクターではなく、一つの魂を持ったキャラクターに感情移入出来たのだと思う。  兎にも角にも、この映画の凄さは、いくら言葉を並べても表現出来るものではない。 ハリウッドの大作映画としては珍しい程にとても実験的な作品であることは間違いなく、評価は大きく二分されることも頷ける。 ただし、結局のところそれは実際に観てみないと分からないだろうし、結果がどうであれ「観た」ということの価値が大きい映画であることは間違いない。
[ブルーレイ(字幕)] 10点(2013-07-15 23:13:10)(良:3票)
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