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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  ジョン・ウィック:コンセクエンス
ラストの「決闘」の舞台に向けて、パリ中から群がるおびただしい数の敵を蹴散らしながら、50代後半のキアヌ・リーヴスもといジョン・ウィックは、二百数十段の階段を登り切る。そして、見事な“階段落ち”を見せる。 決闘開始時刻のタイムリミットが迫る中、数十段のロスかと思いきや、まるでコントのように延々と転がり続け、なんと二百数十段丸ごとの階段落ちを目の当たりにした時、この映画世界の真の境地を見たと思った。 そこに生まれたのは失笑などではない、唯一無二のアクション映画に対する紛れもない感嘆だった。  どんなにマンガ的な設定であろうと、どんなにあり得ない展開であろうと、どんなに馬鹿馬鹿しい描写であろうと、それを“アリ”にしてしまう孤高の娯楽力。それこそが、「ジョン・ウィック」という映画化世界が達した世界観であり、五十路を越えて己の“アクション映画馬鹿”の精神を貫き通したハリウッドスターの矜持であろう。  振り返ってみても、「ジョン・ウィック」シリーズは、いわゆる“一級”のアクション映画の“品質”など端から追い求めていない。「ミッション:インポッシブル」や「007」のように、世界中の幅広い映画ファンに認められて称賛されようなんて考えは微塵も無かった。  本シリーズにおいて、キアヌ・リーヴスを始めとする製作陣が追求したのは、古今東西のアクション映画マニアの心に巣食う「俺が観たいアクション映画」に他ならなかった。 もっと言い切るならば、キアヌ・リーヴス自身が“観たいアクション”そして“撮りたいアクション”の結晶だったのだと思う。  「俺が撮りたいアクション映画」、それを実現するためならば、彼はあらゆる努力を惜しまない。 ガンアクション、マーシャルアーツをはじめ、玄人はだしのあらゆるトレーニングを積み重ね、60歳を目前とする今なお、己の身一つで“スタイリッシュ”を体現し続ける。 本作において、ヨーロッパの荘厳な教会や歴史的建造物を背にして歩くだけで、映画シーンとして様になるキアヌ・リーヴスは、まさしくイケオジの頂点だろう。  169分というあまりにも長い上映時間の中で、ほぼフルフルで展開されるアクションシーンの連続に対して、観客の多くは高揚感を遥かに通り過ぎて、頭がクラクラしてくるに違いない。 正直なところ映画的に冗長であることは否定できないし、何度も何度も繰り返される殺し屋同士の殺し合いの様は、まともな神経で観続けれることは困難で、ちょっと頭がどうかしていると思える。  だがしかし、もはやその狂気性とカオス感こそが、「ジョン・ウィック」なのだと認めて、呆然としながらこの映画世界を呑み込むしかない。 そう半ば強制的に観客の価値観をも支配してしまう本作と、その主人公及び主演俳優の在り方は、エキサイティングで、やっぱりちょっと異常だ。
[映画館(字幕)] 8点(2023-09-23 22:14:08)(良:2票)
2.  シン・仮面ライダー
まず、ある種の清々しさを含めつつも、本作に対しては個人的にきっぱりと「駄作」だったと言いたい。それも近年まれに見る「超」がつくほどの。  庵野秀明による、「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」の大トリ第四弾。 「シン・エヴァンゲリオン」はまったくの門外漢なのでまた観ていないが、2016年の「シン・ゴジラ」を皮切りに、2022年の「シン・ウルトラマン」、そして本作「シン・仮面ライダー」と、大いなる高揚感と期待感をもって鑑賞してきた。 なんと言っても、「シン・ゴジラ」で表現された新時代感とそれに伴う畏怖感は衝撃的で、ゴジラ映画を全作観てきた者として、圧倒的にエキサイティングだった。  一方で、昨年の「シン・ウルトラマン」の時点でおやおやと思う節はあった。 製作者たちの溢れ出る過去作に対する「愛情」を感じる反面、僕自身は乗り切れなかった。 嬉々として繰り広げられる良く言えば“独特”、悪く言えば“陳腐”な映像表現、映画表現に対して、「あ、ふーん」、「あ、そうなんだ」と引いたスタンスを取らざる得ず、なんとも困惑してしまった。  そして、この「シン・仮面ライダー」の“世界観”を目の当たりにして、一つのことが明確になった。 「シン・ゴジラ」にあって、「シン・ウルトラマン」、「シン・仮面ライダー」に無かったモノ、それは僕自身の過去作品対する「愛情」という名の「耐性」だったのだろう。  個人的な遍歴として、玉石混交の全作品を観てきた「ゴジラ」映画シリーズに対して、「ウルトラマン」も「仮面ライダー」も、僕は過去のオリジナルシリーズを殆ど観てきていない。 故に、今回の各映画作品に対して僕が求め期待するものと、オリジナルシリーズを偏執的なまでに愛し表現し続けてきた製作者たちが見せたいものとが、乖離しすぎていたのだと思う。   と、自分にとって本作が本質的に“合わない”映画であり、「仮面ライダー」に対する無知を認めつつも、やっぱり客観的に見て酷い映画だったなとは思う。 「シン・ウルトラマン」はそれでもまだ“乗り切れなかった”という印象であり、特撮映画としての見応えと、娯楽映画としての楽しさも随所に存在していた作品だった。 が、しかし、本作は正直“耐え難かった”という印象を拭えない。久しぶりに鑑賞中に“しんどさ”を感じてしまい、思わず席を立ちたくなった(無論そんなことはしないが)。  個性的でユーモラスな怪人たち(チープで陳腐)、昭和感を感じさせる俳優たちの朴訥な演技(お遊戯会レベルの某演技)、映像技術の低さを工夫で補うカメラワーク(見づらく気持ち悪い)。 それらは、「仮面ライダー」や「ウルトラマン」がテレビ放映されていた当時のつくり手たちが、限られた制作環境や時代性の中で、必死に“面白いもの”を生み出そうとした結果の産物だろう。  それらを観て育ち、感銘を受けて映画制作やアニメ制作の世界に入ったクリエイターたちが、過去のオリジナル作品対しての“リスペクト”をふんだんに盛り込むのは良い。 ただ、だからといって当時の映像表現やアイデアを現代技術でそのまま再現して、「仮面ライダーといえばこれでしょう」と悦に浸るのは、あまりにも安直だし、クリエイターとしてダサすぎるのではないか。 そんなものは、過去作へのリスペクトを笠に着た“クリエイティブ”の怠慢であり、放棄だと思ってしまった。   自分の想像以上に本作を称賛する人たちも多いようなので、やはり作品に何を求めるかによって、映画の価値なんてものは大いに振れるものなんだなと思い知る。 だからこそ、しっかりと自分の感情に沿った評価をしていきたいと思う。 “10点”の映画は年間数本出会えるが、その逆は数年に一つ出会えるかどうか。振り返ってみると実に8年ぶりの“0点”を捧げよう。
[映画館(邦画)] 0点(2023-03-17 23:17:45)(笑:1票) (良:2票)
3.  新・男はつらいよ
今年も正月は“寅さん”からスタート。元日の夜半、シリーズ4作目にしてしっかりと定番化したキャラクター描写とお決まりの喜劇が心地よく身にしみる。  前作(第3作「男はつらいよ フーテンの寅」)は、舞台設定やストーリーテリングがやや脱線気味でまとまりがない印象があったが、本作は「新」という冠のもとで、原点回帰というか、本作以降も続くであろう定形が固まった印象を受ける。  決して特別に感動的な話が展開されるわけではないが、渥美清演じる車寅次郎の特異なキャラクター性を軸にしてベタな喜劇が安定していたと思う。  ヒロインの描写がやや表面的で、彼女が抱える人生模様に踏み込みきれていないようにも思うが、自身の実父の死に対する悲しみを、とらやの面々の滑稽な様を目の当たりにしつつ深めて、自分の中の本当の思いに気づく様は印象的だった。  寅次郎は相変わらず馬鹿で迷惑な男だけれど、人間誰しも素直になれない不器用さや愚かさは内包しているもの。これからも、時代を越えて、この国の人たちは寅さんに思いを重ね続けるのだろう。
[インターネット(邦画)] 7点(2023-01-01 23:57:45)
4.  シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション
ふいにレコメンド表示された「シティーハンター」のこのフランス実写版を、半ばザッピング感覚で鑑賞し始めた。 ところが想像以上に原作漫画に対して忠実で、クオリティの高い“実写化”に少々驚いた。 単行本を全巻揃えていて、北条司のイラスト集も保有していたくらいの原作ファンとしても、遠いフランスでの愛ある実写化に多幸感を覚えたと言っていい。  「シティーハンター」の漫画世界が孕む唯一無二のハードボイルド性までが完璧に表現しきれていたとは言えないが、それ以外の多くの要素、コメディ性、アクション性、そしてセクシー描写と“下ネタ”は、きっちりと再現されていたと思う。 一つの映画作品として傑作と言えるような見応えがあったとは言わないけれど、「シティーハンター」の1エピソードの映像化としては充分に及第点のクオリティだったと思えるし、率直に「シティーハンター」らしい世界観だと思えた。  本作オリジナルのストーリー展開の肝となるある要素についても、主人公冴羽獠の特性をよく理解した上で、現代のフランスで描き出されるに相応しい新しいアイデアによる“危機”をユニークに描いていると思った。  一方、せっかくのフランス人キャストなので、冴羽獠と槇村香のビジュアルが、もっとマンガ的にスタイルの良い美男美女だったならば更に高揚感は高まったかもしれないなと、一寸思う……。 と、思いきや、どうやら主演俳優のフィリップ・ラショーなる人物が、監督と脚本も務めているようで、紛れもなく「シティーハンター」及び主人公・冴羽獠に対する愛を持って演じ、この映画世界をクリエイトしてくれたようだ。 映画全体のテイストがコメディに振り切っていたことを考えると、主人公以外も含めてキャスティングされたフランス人俳優たちはよく頑張ってくれていると思い直した。  そして、お決まりのエピローグ描写からのエンドクレジットで流れる「Get Wild」。重ね重ねオリジナルに対する「愛」に感謝。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-11-19 22:50:59)
5.  ジュラシック・ワールド/新たなる支配者
1993年の「ジュラシック・パーク」から約30年、時間を越えて、時代を越えて、一つの映画シリーズを“体感”するというプロセスは、映画ファンとしての一つの醍醐味だと思う。 かなり破茶滅茶な作品に仕上がっていることは否定しないが、30年間このシリーズを観続けてきた一恐竜映画ファンとして、“胸アツ”だったことも否定できない。  30年前、10歳かそこらだった私は、父親と劇場のスクリーンに蘇った恐竜の闊歩を目の当たりにした。 映画制作におけるCG技術もまだまだ黎明期だった時代、スティーヴン・スピルバーグによってもたらされたその“恐竜世界”は、まさにアメージングであり、エキサイティングな体験だった。 個人的にも、映画を映画館で観るという娯楽体験の本質を、心に植え付けてくれた作品だったと思える。  そんな映画史的にも、個人的にもエポックメイキングな作品の「完結編」と謳われる本作に対して、熱くならないわけがないのだ。 前述の通り、破茶滅茶な映画であり、ストーリーテリング的に破綻している箇所もあるだろう。 ただし、そういう破茶滅茶をまかり通すのが、SF映画であり、娯楽映画であると、私は思う。  SF映画に対して、「科学的ではない」などというクレームをつけるのは、そもそもナンセンスだ。なぜなら、「SF」とは科学的に説明できないことを空想で物語るものであり、そもそも「科学」とは未知なるものを想像し、探求する学問だからだ。 暴論を恐れずに言うならば、「科学的ではないことこそが、科学なのだ」と私は信じている。  “ジュラシック・パーク”の創始者ジョン・ハモンドが、空想し、想像し、巨万の富を駆使して“実現”したのは、まさにそういう世界だった。だからこそ、人々は倫理観を越えて熱狂し、30年間に渡って繰り返し“恐竜世界”を求めたのだと思う。   と、ついつい“空想”と“現実”が入り混じった感情を抱いてしまうが、とにかく私はそれくらいこの映画シリーズが大好きだった。 そして、ついには恐竜たちが世界中に蔓延り、地球上の生命の「種」を混ぜっ返すようなSF世界まで到達してみたこの最新作もとい最終作を私は断然支持したい。  ああ、楽しかった。 映画鑑賞においてその多幸感に勝るものなどない。
[映画館(字幕)] 8点(2022-08-05 23:15:24)(良:1票)
6.  シン・ウルトラマン
まず個人的な立ち位置から言うと、僕自身はいわゆる「ウルトラマン世代」ではなくて、再放送やソフトも含めてちゃんと「ウルトラマン」を観た記憶は殆どない。 特撮映画は大好きであり、ゴジラシリーズを始めとする東宝特撮映画は殆ど鑑賞してきたし、樋口真嗣が特撮監督を勤め上げた平成ガメラシリーズ(特に「G2」)も“崇拝レベル”で何度も観ている。 そんな趣向の者が、「ウルトラマン」に触れてこなかったというのは、自分自身不思議に思う。  本作「シン・ウルトラマン」の公開に先立ち、ベースとなる「ウルトラQ」や初代「ウルトラマン」のTVシリーズで“勉強”しておこうかとも思ったが、門外漢であるならば門外漢なりの楽しみ方もあるだろうと思い、予習なしで“ウルトラマンデビュー”してみることにした。  鑑賞後率直に思った感想は、良い意味でも悪い意味でも“ぶっ飛んだ”映画だったな、ということ。 それは「空想特撮映画」とこれ見よがしに掲げるこの作品の性質に相応しい、とは思った。 ただ、それと同時に、「これは映画として成功しているのか?」と、疑問とモヤモヤも存在していることに気づいた。  鑑賞から一夜明けて一個人として定まった結論は、「失敗作」だった。 決して駄作だとは言わないし、興味深い要素やユニークな表現も溢れた作品だったとは思うけれど、この映画がたどり着くべき姿はコレではなかったんじゃないかと思う。   前述の通り僕自身はウルトラマン世代ではなく、オリジナルシリーズもまともに観ていないので正確なことは言えないけれど、おそらくは「ウルトラマン愛」が各シーン、各描写、各台詞に散りばめられた作品なのだろう。 YouTubeの解説動画で聞きかじった限りでは、ストーリー展開においても、オリジナルシリーズの人気エピソードを軸にして構成されており、それらを未鑑賞の者としても、随所にオマージュやリスペクトが溢れているのであろうことは感じられた。  だが、それ以上の驚きやそれに伴うエモーショナルが感じられなかったというのが正直なところ。 この映画に携わった一流クリエイターたちにとっての“バイブル”とも言える「ウルトラマン」に対する尊敬と憧れ、あまりにも大きな「愛」が溢れ出る一方で、今この時代に「再誕」させるに当たってのテーマ性や価値を追求しきれていないように感じてしまった。 雑な言い方をしてしまえば、それはやはりやや一方的過ぎる「懐古主義」であり、僕のような門外漢や、今この時代の子どもたちにとっては“楽しみづらいモノ”になってしまっていると思える。  また、冒頭のタイトルクレジットでも表現されている通り、本作は「シン・ゴジラ」の同じ世界線ではないものの、一つの並行世界が舞台になっていると思われ、登場するキャラクターや日本政府、社会環境など類似する要素が多い。 それ故にどうしても比較をしてしまうが、本作は圧倒的に予算不足が露呈している。 それは、脇役・端役を含めた出演者数や場面数の少なさからも明らかだが、一番問題なのは、そのことが“映画づくり”そのもののクオリティ低下に繋がってしまっていることだろう。 ドラマシーンのカメラワークが一辺倒だったり、意図的にiPhoneで撮影されたカットが単にチープな映像に見えてしまっているなど、予算の少なさが「丁寧さ」の低減に影響してしまっていることは致命的だ。  予算がないならそれなりに映像作品としてのあり方自体を見直すべきだったのではないかと思う。 過去作のエピソードを連ねて一つの映画としてやや強引にストーリー展開をするくらいなら、オリジナルと同様にドラマシリーズでも良かったのではないか。 それこそ、NetflixやAmazon Prime等で、全6話くらいの構成の配信作品にした方が、潤沢な制作費も得られやすく、より尖った作品に仕上がっていたのではないかと、映画ファンとしては邪な思いも生まれてしまう。  一説によると、「監督」として現場を取り仕切った樋口真嗣と、「総監修」として作品全体の指揮権を持った庵野秀明との間で、「責任」のバランスが取れていなかったのではないかとも聞く。 両者ともバイブル「ウルトラマン」に対する「愛」は強く揺るがないものだったはずだ。それ故に、その表現方法において乖離も生じてしまったのだろう。 「愛」を語るに当たって、やっぱり人任せにしてはいけないし、少しでも思いが離れてしまったその表現は、ちゃんと伝わることはないなと思う。  少なくとも、僕にとっては、ウルトラマンの一連の活躍や、身を挺して孤軍奮闘する長澤まさみよりも、「赤坂さん(仮名)」の登場が最たる激アツポイントだった時点で、「シン・ゴジラ」に遠く及ばない作品であったことは間違いない。
[映画館(邦画)] 5点(2022-05-15 00:31:03)
7.  シャン・チー/テン・リングスの伝説
正直なところ、この映画に対するファーストインプレッションは“微妙”だった。 マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の中に突如登場した東洋人ヒーローには、同じ東洋人としても違和感というか、強引な印象を禁じ得なかったし、チャイニーズマーケットに対するあからさまな“目配せ”のようにも感じてしまい、素直に期待感を高めることができなかった。 カンフー映画も、チャイニーズアクションも幼少期から慣れ親しんでおり大好きだけれど、それがMCUの世界観の中でどう成立するものかと甚だ懐疑的だったことは否めない。  が、しかし、意外にもというか、案の定というか、蓋を開けてみれば、本作はMCUの娯楽映画としてしっかりと楽しく、きっちりと成立していた。勿論ちゃんとした“カンフー映画”として。 もはや何度目か分からないが、MCUというブランドに対して、「流石かよ」と感心せずにはいられない。  MCUが二十数作にも渡って築き上げてきたエンターテイメントの“フォーマット”にチャイニーズアクションを重ねただけと言ってしまえばそれまでだが、世界の映画ファンが見たいアジアンアクションの要素を盛り込み、「娯楽」を追求し、実現していることは映画製作において“正義”だ。  本作が、MCUのフェーズ1とかフェーズ2あたりに挟み込まれていたら、それは流石に作品として浮いてしまっていただろう。けれど、ユニバースを広げ続け、あらゆる価値観や宇宙観をも取り込んでいく「多様性」こそがシリーズ全体のテーマになっている現在のフェーズ4においては、本作が描き出す異文化と異次元のストーリーテリングは、まったくもって許容範囲であり、もはや必然的にすら感じる。 アメリカ社会におけるアジア人の境遇や職業面の描き方も、さり気なく問題意識が提示されていたと思う。  キャストにおいては、主人公シャン・チーを演じたシム・リウが、正真正銘の「無名」の状態からMCUという巨大な映画ブランドの“ニューヒーロー”として登場した経緯がメタ的な要素も含めて非常にエキサイティングだ。 ビジュアル的にも決して華やかさのないこの新人俳優を大抜擢し、ニューヒーローのキャラクター像を文字通り“ゼロ”から構築していく展開が、一映画ファンとしてとても熱かった。  そして脇には、トニー・レオン、ミショル・ヨーらアジアが誇るスーパースターを的確にキャスティングし、作品としての安定感と説得力を高めている。 特に、長らく数々の作品で、トニー・レオンという俳優の色香に酔ってきた映画ファンとしては、危うく、妖しく、脆く、秘められた慈愛が混濁した本作のキャラクター性は、彼の俳優としてのキャラクター性とキャリアに相応しい適役だったと思える。 トニー・レオンが演じたシュー・ウェンウーは、本作で絶命したが、“テン・リングス”の力によって1000年生きてきたことや、そもそも彼が“テン・リングス”を手に入れた経緯など、まだまだ描ききれていない要素は多々あるので、再演を望みたい。  兎にも角にも、カンフー映画を礎にし、“ワイヤーアクション”や“ドラゴンボール”までもフォローして、MCUは益々その世界観を広げていく。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-12-26 23:20:56)(良:2票)
8.  ジェントルメン(2019)
「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」から23年、「スナッチ」から21年も経つのかと、少々感慨深さを感じると共に、「変わらんな、ガイ・リッチーは」とまず思った。 見慣れたスローモーションやスピードランプによるアクション描写はもはや懐古的ですらあったが、この映画監督が生み出す軽妙(悪ノリ)な犯罪映画のテイストは、既に英国映画の文化と言ってもいいだろう。 英国の“悪童”の健在ぶりにひとまず安心した。  マシュー・マコノヒーを主演に迎え、アクの強い個性的な悪党どもが騙し合い、罵り合い、殺し合うストーリーテリングは、やはり「ロック、ストック〜」や「スナッチ」を彷彿とさせた。 大麻王の引退に伴う利権争いを軸にしたストーリーそのものは、シンプルで、特に新鮮味があるわけではなかったと思うが、ヒュー・グラント演じる悪徳私立探偵による虚実織り交ぜられた“狂言回し”よって進行する展開は、その真偽性を含めて面白みがあったと思う。(ヒュー・グラントはこのところ汚れ役がすっかり板についてきて良い) その他のキャラクターでは、コリン・ファレル演じる格闘技ジムの“コーチ”が、人徳者であると同時に実は地味にしっかりとイカれていて良かった。彼が率いるアマチュア格闘技集団の馬鹿っぷりと、彼らによる“騒動”が作品の中の良いアクセントになっていた。  というわけで、“ガイ・リッチーの映画”として、期待した楽しさは備わっていたし、大きなマイナスポイントがあるわけではない。 けれど、かつてこの監督が生み出した前述の傑作たちと比較すると、やはり一抹の物足りなさは残る。 群像劇として登場するキャラクターそのものは良かったけれど、配役的にはもう少し華が欲しかったかもしれない。 マシュー・マコノヒー、チャーリー・ハナム、コリン・ファレル、ヒュー・グラントと、十分の豪華ではあるが、あと一枚か二枚、登場シーンは短くても良いので、大スターが“カード”として揃っていたならばと思う。 例えば、同監督作「シャーロック・ホームズ」主演のロバート・ダウニー・Jrなんかがキャスティングされていたならば、エンターテイメントの質は大きく上がっただろう。  個人的に一つ明確に不満だったのは、主人公の妻役のミシェル・ドッカリー。冷酷な大麻王である主人公が一転して溺愛する愛妻役としては、今ひとつパンチが無かったと思う。ストーリーのキーとなり、大立ち回りもある役どころだっただけに、もっと女優として華やかなキャスティングが欲しかったところだろう。当初はケイト・ベッキンセイルで進んでいたらしいので残念。  と、少々不満があるにはあるが、ガイ・リッチー監督には引き続き彼らしい犯罪娯楽映画を作り続けてほしい。 とりあえず久しぶりに「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」でも観ようかな。
[インターネット(字幕)] 6点(2021-10-31 00:17:53)
9.  資金源強奪
溢れ出る「昭和」のギラつく雑多感。 人からも、服装からも、街並みからも、すべてから放たれるそのギラギラに圧倒される。 展開される犯罪アクションの卓越したエンターテイメント性もさることながら、映し出される「昭和」そのものが揺るぎない「娯楽」だった。  ムショ帰りの主人公(北大路欣也)が、塀の中で知り合った仲間と共に、自身の組が主催する賭場の資金強奪を謀る。 計画は見事に成功するが、そこから報復と裏切りが織りなす容赦ない強奪金争いが始まる。  ハリウッド映画などでは、玉石混交に描きつくされたプロットであるが、それがこの時代の日本映画で、これ程まで娯楽的な完成度の高い作品として存在していたことにまず驚く。 ストーリーテリングのテンポの良さとユニークさ、そして何よりも、登場するキャラクターたちの個性がそれぞれ際立っていて、そのアンサンブルが娯楽映画としての質を高めていると思う。  北大路欣也の決してヒーロー然としてはいない悪党としての男臭さ。梅宮辰夫演じる悪徳刑事の軽妙さと曲者ぶり。そして何と言っても、川谷拓三の泥臭すぎる雑草魂。 最終的に“三つ巴”となって、「金=命」を奪い合う三者のキャラクター性が、俳優本人の個性とも掛け合わさり、特に印象的だった。     匂い立つような昭和娯楽の匂いにクラクラしっぱなしだった。 各種動画配信サービスの普及に伴い、これまでその存在すら知り得なかった“昭和映画”にも容易に触手を伸ばすことができるようになった。今一度、昭和娯楽の真髄を掘り起こす沼にハマっていきそうだ。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-06-05 14:55:59)
10.  仁義なき戦い 完結篇
昼寝から目覚めた土曜日の夕刻、この「完結篇」を鑑賞。 思い返せば、シリーズ第一作目の「仁義なき戦い」を初鑑賞したのは、2004年だった。つまり、足掛け17年でこのヤクザ映画シリーズ5部作を観終えたことになる。 この17年の間で、菅原文太をはじめ、松方弘樹も、梅宮辰夫も、今シリーズに限らず、この国の“ヤクザ映画”という娯楽を彩った名優たちがこの世を去ってしまった。なんとも寂しいことだ。  感傷に浸る一方で、驚かされるのは、この5部作が1973年から1974年の僅か一年半あまりで、怒涛の如く製作され、公開されているという事実だ。 日本映画界そのものがギラギラと隆盛を極めたプログラムピクチャー全盛の時代だったとはいえ、「映画製作」に対するあらゆる意味での今はなき「熱量」を感じずにはいられない。  今シリーズは、本来前作の「頂上決戦」で“完結”する予定で、ストーリー的にも綺麗に収束していたのだけれど、東映社長・岡田茂の一声で、半ば強引にこの「完結篇」が製作されたらしい。 そういう映画会社の権威性やその重役の豪腕ぶりも、この時代ならではのことであり、是非はあろうけれど、今の時代にはないエネルギーが満ち溢れている。  時代劇研究家の春日太一の著書「あかんやつら」などを読むと、当時の東映映画は、その撮影現場そのものが文字通りの“修羅場”であったことがよく分かる。 会社重役も、監督や脚本家をはじめとするスタッフも、俳優たちも、すべての“映画人”たちが血気盛んに入り乱れ、その延長線上に映画作品が結実していたのだろう。  実際、これまでの「任侠映画」の概念を打ち破り、実録映画として実在のヤクザ・暴力団組織をモデルに描いた今シリーズは、“ホンモノ”の方々と密接に繋がりながら製作されており、まさしく“命がけ”の製作現場であったことは想像に難くない。  今作単体としては、シリーズにおける「蛇足」感を拭えないけれど、そういうフィルムに映し出されているもののすぐ裏面に焼き付いている“戦い”を思うと、メタ的かつ重層的な新たな娯楽性が見えてくる。  その壮絶な「内幕」にこそ悲喜こもごもの娯楽性が溢れていることは明らかだ。 当時の撮影現場の空気感をリアルに汲み取って、ぜひとも映画化に挑んでほしいものだ。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-02-13 19:25:26)
11.  新感染半島 ファイナル・ステージ
娯楽映画として、“楽しい”映画ではあったと思う。ただし、「新感染 ファイナル・エクスプレス」の続編として期待したならば、楽しみきれない。  前作は、韓国という国の社会性や人々の人間性を踏まえつつ、このジャンルの映画に相応しい「風刺」を併せ持ったゾンビ映画の傑作に仕上がっていた。列車を舞台にすることによる“パニック”の上乗せ加減も見事だったと思う。 しかし、この続編は、その後の世界を描きつつも、映画的なテイストはリセットされ、まったく別物の映画として作られていた。 前作が持っていた“韓国製ゾンビ映画”としてのフレッシュさを期待していた者としては、正直「思ってたんと違う」感は否めない。  文字通りの「地獄」に取り残された人間たちの狂気と、そこから生まれる恐怖やさらなる絶望を娯楽映画として描き出そうとした試み自体は興味深かったけれど、その世界観の作り込みがありきたりで希薄だったことが、「別物」の映画としても楽しみきれなかった要因だろう。  また、登場するキャラクターの一人ひとりは個性的で魅力的な要素を持っていたと思うけれど、それらをストーリー的にあまり活かしきれておらず、中途半端な人物描写に終始してしまっているとも感じた。  人がゾンビ化するウィルスの蔓延を止めることができず、4年間放置され、韓国国内のみマッドマックス的に崩壊しているという設定は豪胆で潔い。 北緯38度線(南北境界線)により、北朝鮮から先の大陸には感染が広がっていないという設定も無茶苦茶ではあるが、娯楽映画としては許容範囲だろうし、原題「Peninsula(半島)」が表す意図も際立っていると思う。  もう少しその「半島」というテーマが孕むこの国の特異性や、ある意味での孤立感みたいなものを、ストーリーに盛り込むことができていれば、このシリーズの続編としても、ゾンビ映画としても相応しい批評性が生まれたのではないか、と思う。
[映画館(字幕)] 5点(2021-01-10 23:22:10)
12.  シカゴ7裁判
人類史において「正義」というものほど、絶大なパワーを持つ言葉でありながらも、それが指し示す意味と範疇がひどく曖昧で、都合のいい言葉はない。 世界中の誰でもが強い意志を持って掲げられる言葉だからこそ、とてもじゃないが一括にできるものではなく、本来、その是非を裁判なんてもので問えるものではないのだと思う。  今作で描き出された「裁判」においても、それぞれの主張はどこまでいっても平行線であり、折り合える余地などそもそもない。 なぜならば、被告として裁かれる活動家の面々は勿論、悪辣に描かれる裁判官にしても、微妙な立ち位置で己の職務を全うしようとする検事にしても、この映画に登場するすべての登場人物たちは、ただひたすらに己の「正義」を貫こうとしているのだから。  この裁判劇は、様々な側面から「正義」という言葉の意味とその本質を問い、その価値も、その危険性も、平等にあぶり出している。 正義を掲げる者たちが、突発的な怒りによって、いとも簡単に暴力を生み、無秩序な憎しみの螺旋に引きずり込まれるという事実。 すべての争い、すべての戦争も、詰まるところ「正義」と「正義」の衝突であるというあまりにも空虚な皮肉。  エディ・レッドメイン演じる主人公は、その現実に、自分自身が無意識のうちに呑み込まれていたことに気づき、思わず言葉を失う。  だが、それが愚かな人間の拭い去れない本質である以上、もはや絶望しても仕方がない。 自分自身の愚かさと罪を認めつつ、それでもなお、自分自身を駆り立てる「正義」を、自分の言葉で叫び続けるしかないのだ。 ラスト、主人公の“最終陳述”で発されたものは、主張でも、弁明でもなく、彼らを突き動かした「動機」そのものだった。  2020年、全世界的に混迷を極めたこの年にこの映画が“公開”されたことの意義はあまりにも大きい。(コロナ禍の影響による劇場公開断念を受け、いち早く権利を買い取って世界配信したNetflixの功績は大きい!) 大統領選に伴う大国アメリカの分断は、今年の混迷を象徴的に表しており、この映画で描かれた時代の空気感とも類似する。 この映画の主人公の手元にある“リスト”と同様に、今この瞬間も、社会の犠牲者はリストアップされ続けている。 映画の着地点と同じく、今この世界に必要なことは、一方的な「正義」の主張などではなく、大局的な見地で、この酷い「現実」を今一度直視することだろう。  次のメッセージが大衆の声によって高らかに発せられ今作は終幕する。  The whole world is watching !(世界が見ている!)  今まさに、私たち一人ひとりが、自分の目で世界の現実を見て、動き出さなければならないのではないか。
[インターネット(字幕)] 9点(2020-12-19 22:09:32)(良:1票)
13.  新聞記者 《ネタバレ》 
ラスト、彼が示したものは、この国の「限界」か。それとも、未来のための「一歩」か。  8年ぶりに総理大臣が変わった。 だからといって、大きな希望も期待もない。この国の殆どの人々は、諦観めいた視線で国の中枢を眺めている。 いや、「諦観」などと言うとまだ聞こえがいい。自分自身を含め、この国の人々は、無知のまま考えることを諦め、自ら「傍観者」に成り下がってしまっているのではないか。  そういうことを改めて鑑賞者に突き詰め、あまりにも居心地の悪い情感で覆い尽くすような映画だった。  国家の中枢の陰謀と闇に気づいた新聞記者たちが、真実を暴き出そうとするストーリーテリングは、ハリウッドをはじめ数多の映画作品で描かれてきたプロットだ。 ただし、多くのハリウッド映画と異なり、この映画は、主人公たちが明確な危機に陥ることもなければ、胸をすくカタルシスを得ることもできない。 ただ、じわじわと真実に気づくと同時に、じわじわと真綿で首を絞められるようにこの国の闇の本質に追い詰められる。  真実を光のもとに晒そうとする行為が、実のところ、もっと深い闇へと自分自身を引きずり込んでいたという悍ましさ。 溜飲を下げさせないこの映画の顛末が物語るもの、それは今この瞬間の、この国の有様そのものではなかろうか。     “一応”フィクションであるこの映画のストーリーが、現実社会のありのままを描き出しているとは思わない。 或る新聞記者の主観が原案でもある以上、“一つの観点”として捉えるべきものだろうとは思う。 この映画で描かれていることに対して、「偏って考えすぎ」と揶揄したり、「そんな馬鹿な」と嘲笑することも自由だろう。 だがしかし、そういう風に一笑に付することができない現実が、事実としてこの国の社会や政治の愚かな有様に表れてしまっていることは否定できない。  この国の中枢に「巨悪」は存在するのか否か。 もし存在するとするならば、その「闇」を司るのは、私利私欲に走る政治家か、それとも「この国のため」と盲信する官僚組織そのものか。 そう逡巡しながら、はたと気づく。 否、「闇」を拡散し、支配しているのは、「諦観」という言葉の下に考えることを放棄し、「傍観者」に成り下がってしまっているこの国の人々一人ひとりなのではないかと。  「誰よりも自分を信じ、疑え」  新聞記者の主人公の亡き父が遺した言葉が指し示すものは、決してジャーナリズム精神に留まらず、国民一人ひとりのあり方として、我々が刻むべきものではないかと思えた。     主演の韓国人女優シム・ウンギョンの演技は素晴らしかった。日本語のアクセントの問題も、主人公のキャラクター設定が、国際的に活躍したジャーナリストを父親に持つ帰国子女ということを踏まえると、決して違和感ではなくむしろ的を射たキャスティングだったと思う。 一方で、日本人の主人公役に日本人女優がキャスティングされていないことに否定的な意見も見聞きするが、ここにも何かしらの圧力めいたものを感じてしまった。  韓国人俳優の骨太な演技力と存在感は言わずもがなだが、だからといって日本人女優の演技力が劣っているとは思わない。 主人公の記者役に日本人の実力派女優がキャスティングされていたとしても、作品としてのクオリティーが下がることは無かっただろう。  ではなぜ日本人女優はキャスティングされなかったのか。  この映画の主演に日本人女優がキャスティングされなかったのは、日本の芸能事務所が“尻込み”したということに他ならないのではなかろうか。 時の政府をほぼ名指しで糾弾する役柄を演じさせることによる、女優個人というよりも所属する芸能事務所自体のパブリックイメージに対する怯えと、何かしらの忖度。  そういうことがどうしても垣間見れる日本の芸能界には、やはり脆さと限界を感じずにはいられない。 近年、トップランナーの俳優たちの独立が立て続く背景には、そういうこの国の芸能界そのものの脆弱性も影響しているのではないか。     イメージ低下を危惧する芸能事務所に限らず、この国の人々、いや国家そのものが、弱々しく、怯えている。 国全体の怯えと共に、闇は益々深まる。 どうしたって同調圧力から脱することができない国民性であるならば、国民全体が同じ方向に勇気を持った「一歩」を踏み出すことでしか、「未来」は見えてこないのではないか。
[インターネット(邦画)] 8点(2020-09-20 00:09:26)
14.  シャークネード カテゴリー2<TVM>
「1時間に50ミリの“降サメ量”となるでしょう」と、NYのお天気お姉さんが真剣な表情で伝える。 フツーなら「“降サメ量”ってなんやねん!」と突っ込みたくなるところだが、そのシーンの頃にはそんな「大馬鹿」なキラーフレーズすら思わず受けれてしまっている自分がいた。(“積サメ量”というフレーズも続く)  “Z級映画”史上屈指のムーブメントを引き起こし、カルト的に人気を勝ち得た“禁断”のサメ映画シリーズ第二弾。 パート1も確かに言葉を失ってしまうくらいに“どうかしている”作品だったけれど、このパート2にして完全なる“イカれ映画”として堂々爆誕している。 おそらくは、このパート2の弾けっぷりこそが、今シリーズをある意味「神格化」させた起爆剤だったのだろうと思う。  まず、前作と比べると、明らかな映像的クオリティアップに驚く。 勿論、一般的な大作映画と比較すれば、CGにしても特撮にしても“お粗末”の範疇を出てはいないのだが、それでも前作の見るからにチープな映像表現を思えば、バジェット(製作費)が倍増していることも明らかだった。  そういう部分を目の当たりにすると、どんなにクオリティの低いバカ映画だろうと、ヒットした作品には、わかりやすくちゃんと“金”が回ってくるアメリカの映画界は、ある意味健全だなと思う。     バジェットの増大は映像的なクオリティアップに留まらず、キャスト陣の顔ぶれにも大いに影響している。  パート1では、見たことがある俳優といえば、主人公の店の常連客役の故ジョン・ハード(「ホーム・アローン」のパパ役)くらいだったが、本作では、個人的に大好きな「インデペンデンス・デイ(ID4)」シリーズのジャド・ハーシュの出演がアツかった。 主人公たちの焦りや悲壮感をよそに喋りまくるタクシー運転手役は、「ID4」で演じた主人公の父親役を彷彿とさせ、とても懐かしかったのだが、特徴的なキャラ設定のわりに“死に様”はあっさりとしていて残念。  まあ、脇役キャラやモブキャラの死亡シーンの“テキトー”な感じもZ級映画のお約束なのだろうと、だんだん理解してきたよ。  ただキャスト的に最も驚いたのは、主人公の昔の恋人役として登場する黒人女性“スカイ”を演じたのが、ヴィヴィカ・A・フォックスだったということ。 ってそれ誰やねん?と、映画ファンであっても多くの人が疑問だろうけれど、ヴィヴィカ・A・フォックスといえば、これまた「インデペンデンス・デイ」でウィル・スミスの恋人役を演じた女優ではないか。  「ID4」では、キュートな風貌と華奢な体つきで、セクシーなストリップダンサーでもあり、一人息子を持つシングルマザーでもあるヒロイン役を好演していたものだが、あれから20年、随分と巨漢に……いや逞しくなられて。 ウィル・スミスに「君の脚は鶏ガラ」なんてからかわれていたものですが、本作では“セリーナ・ウィリアムズ”並の貫禄で、主人公をバッチリサポートしてくれます(そして切ない!)。     そんなわけで、パニックムービーとしての映像的クオリティも格段に向上し、キャスト陣的にも見応えのある本作であるが、兎にも角にもクライマックスにおける映画作品としての「暴走」が半端ない。  何の因果か知らないけれど、2作目にして完全に“シャークネード”にとり憑かれてしまっている主人公は、“最終決戦”を前にして、ついに脳内のどこかの“線”が切れてしまったようだ。 表面上は、NY市長をはじめとするニューヨーカーたちを前にしてヒーロー然と振る舞っているけれど、その精神状態は完全なる怒れるイカれ野郎。無論、そんな男でなければ、こんなイカれた災害に打ち勝てるわけがないわけで。  意味不明に体を反り返しながら巨大鮫をチェーンソーでぶった切るお約束シーンを皮切りに、バカ、馬鹿、大馬鹿シーンのオンパレード。 前作ではそんなバカシーンの連続に対して開いた口が塞がらなかっただけだったが、本作ではそんな状態を超えて、一抹の「高揚感」を覚えていることにはたと気づいてしまった。  最終的には、元妻の“喰われた左腕”から指輪を抜き取り、エンパイアステートビルのてっぺんで再プロポーズをするという、本当にどうかしているラストシーンをも受け入れてしまっているシマツ。  嗚呼、ズブリズブリと沼に落ち込む音が聞こえる。
[インターネット(吹替)] 6点(2020-03-01 23:40:21)(良:1票)
15.  シャークネード<TVM>
いやはや……。ウワサには聞いていたが、もはやどう形容すべきか分からん。 “Z級映画”とはうまく言ったもので、確かにAとかBとかCとかいうレベルでは測りきれない。 圧倒的なチープさと一抹の魅力が癖になるというムーブメントも分からなくはない。  もはや映像的なチープさや、ストーリー展開の幼稚さを突っ込むべきものではない。 相応の「覚悟」を持って観始めたつもりだったが、それでも特に序盤の低レベル加減には、なかなか耐えきれぬものがあった。 低予算のテレビ映画だとはいえ、よくもまあこの程度の映像作品を大の大人が作り出すものだ。  ただ、逆に言うと、その限られた予算の中でも、何かしら面白味のあるモンスター映画を作ろうという、作り手たちの気概というか、“真剣な馬鹿さ”みたいなものは伝わってくる。  そして、この手の最低レベルのテレビ映画が、アメリカではずうっと昔から量産し続けられているわけで、そこには製作者側にも、視聴者側にも、芳醇で寛容な文化の幅のようなものを感じる。  こういう低予算映画の文化と需要が存在し、売れていない俳優やスタッフらを含めた“映画人”たちに、可能な限り「仕事」が分配され、下支えされているからこそ、彼の国の映画産業は強大なのだとも思う。  全編通してあんぐりと口を開けっ放しにせざるを得ない“サメ映画”だったが、流石Z級映画としては異例のシリーズ化もされ、一つのムーブメントを生み出した作品だけあって、べっとりと拭い去れない娯楽性は感じられた。 特にクライマックスの怒涛のトンデモ展開は、この作品のシリーズ化を確定させた要素なのだろう。  無論、そういうトンデモ映画は嫌いじゃないわけで。 シリーズ最新作のトレーラーを観てみると、更に更に常軌を逸した世界観が広がっていることは明らかだった。 「沼」にハマるのは怖いが、恐る恐る踏み入ってみようか。  こういう低予算映画の文化と需要が存在し、売れていない俳優やスタッフらを含めた“映画人”たちに、可能な限り「仕事」が分配され、下支えされているからこそ、彼の国の映画産業は強大なのだとも思う。   全編通してあんぐりと口を開けっ放しにせざるを得ない“サメ映画”だったが、流石Z級映画としては異例のシリーズ化もされ、一つのムーブメントを生み出した作品だけあって、べっとりと拭い去れない娯楽性は感じられた。 特にクライマックスの怒涛のトンデモ展開は、この作品のシリーズ化を確定させた要素なのだろう。  無論、そういうトンデモ映画は嫌いじゃないわけで。 シリーズ最新作のトレーラーを観てみると、更に更に常軌を逸した世界観が広がっていることは明らかだった。 「沼」にハマるのは怖いが、恐る恐る踏み入ってみようか。
[インターネット(字幕)] 3点(2020-02-24 01:25:35)
16.  ジョジョ・ラビット 《ネタバレ》 
強く美しい母親が、愛する息子に向けてカチッと独特の“ウィンク”をする。 もしかしたら、あのウィンクは所在不明の夫が、彼女に対してよくしていた“仕草”なのかもしれないな。と、思った。  そんなことを暗示する描写は特に何もないのだけれど、非情な戦乱の中、優しく、明るく、息子を愛し、「できること」をし続けるこの気高き女性は、きっと壮絶な経験と、深い愛情に包まれた、濃密な人生の上に立っているのだろうということを想像させた。  そういうことを何よりも先んじて言及したくなるくらいに、スカーレット・ヨハンソン演じる主人公“ジョジョ”の母“ロージー”のキャラクター造形が素晴らしく、この映画の根幹を担っていたことは間違いない。 詰まるところ、彼女の一つ一つの言動こそが、息子に対する“愛情”と“導き”であると同時に、この映画のテーマに対する「真理」であった。  「愛は最強の力よ」と、母親は息子に言う。  戦禍の混乱と、人間の心の闇が渦巻く状況下でのその彼女の台詞は、字面のみを捉えれば、無責任で能天気な印象を受けるかもしれない。 しかし、母親であり、一人の女性であり、信念を持って生きる人間である彼女が放つその台詞には、彼女の「人生」そのものに裏打ちされた言葉以上の重みと意味が内包されていた。 彼女はその言葉を息子に向けて発してはいるが、彼に対して背を向けており、目線はどこか遠くを見ているようでもあった。  その他の数々の台詞や行動においても、その一つ一つが魅力的かつ説得力をもって、息子と、我々観客に突き刺さるのは、それらの言動の裏に見え隠れする彼女の人生に、ドラマ性と真実味を感じるからだ。  劇中、主人公の母親についての描写は、敢えて意識的にぼかされている部分が多い。 2年間音信不通の夫の正体、長女の死の真相、サム・ロックウェル演じるクレンツェンドルフ大尉(最高!)との関係性、そして「できること」をする理由と、“あのようなこと”になってしまった事の顛末。  そこには、メインストーリーとして描かれる主人公の少年の葛藤と並行して展開していたのであろう重厚なサイドストーリーがあるに違いない。 (そのサイドストーリーの映画化も充分にあり得るのではないか。そのためのスカーレット・ヨハンソン起用だったことも充分に考えられる。)  随分と主人公の母親の話を長々と綴ってしまったが、無論この映画は10歳の純粋な少年の目線から描き出される確固たる「戦争映画」である。 ただし、その表現方法はまったくもってオリジナリティ豊かなイマジネーションに満ちあふれていた。 その特異な映画世界には、「マイティ・ソー」を次元を超越した“極彩色映画”に転じさせてみせたタイカ・ワイティティ監督の異才がほとばしっている。  今まで観てきたどの戦争映画よりも“可笑しい”。そして、だからこそあまりにも“悲しい”。  混乱の最果て、“滑稽さ”が極まる戦禍の只中に放り込まれる少年。 戦場シーンは数多の映画で観てきたけれど、少年が信じた全てのものが、脆く、愚かに、崩壊していく様を目の当たりにして、只々涙が止まらなかった。 そこに映し出されていたものは、通り一遍的な激しい戦場の凄惨さではなく、10歳の少年の心を蝕み覆い尽くす「絶望感」そのものだった。  “世界の終わり”を、その小さな身体一つで受け止めて、あまりにも大切なものを失い、深く大きく傷つき、それでも少年は命をつなぐ。 結べなかった靴ひもをぎゅっと結び止め、“独裁的”なイマジナリーフレンドを窓の外に蹴り飛ばす。 それは「鏡」に映った自分が、本当の意味で大人になった瞬間でもあった。  ジョジョよ、さあ踊ろう。好きなだけ、自由に、踊ろう。
[映画館(字幕)] 9点(2020-01-23 22:35:49)
17.  6アンダーグラウンド
“セミプロ版”スパイ大作戦(大暴走)!!by マイケル・ベイ  「007」にしても、「ミッション:インポッシブル」にしても、主人公のスーパー諜報員の超人的活躍が目立つが、その裏ではやっぱり「組織力」が彼らの諜報活動の精度を上げているんだなということを痛感させられる。 それくらい、この映画の主人公(大富豪)が“自警団”的にはじめたスパイチームの暗躍は、綻びだらけで、世界にとっては甚だしく大迷惑だ。  ただし、この映画の大暴走+大迷惑ぶりは完全に確信犯であり、映画作品としての是非以前に、終始一貫して“マイケル・ベイ節”が全開である。 ファーストシーンのカーチェイスから、“ギア”の入れ方が常軌を逸している、というよりも、あるべき“ギア”自体がどこかへ飛んでいってしまっているようだった。 ストーリーテリングなど端から放棄していて、ただただ問答無用の盛々のアクションシーンと、過剰に露悪的なゴア描写が繰り返される。 マイケル・ベイ監督は、「トランスフォーマー」シリーズの後半から既に“開き直っていた節”があったが、「Netflix」というある種の無法地帯に降臨し、益々暴走が止まらなくなっている(ギリギリ褒めている)。  えーと、結局ライアン・レイノルズ演じる主人公がその人間性も含めて何者で、何が“真意”なのかまったく分からないけれど、そんなストーリーの粗なんて突っ込むことすら馬鹿馬鹿しいし、実際どうでもいい。 色々な意味で「非常識」な物量のアクションシーンをあんぐりと口を開けて堪能しつつ、エンドロールが始まった瞬間に何も記憶に残さずに鑑賞を終える。それが今作に対する正しいスタンスだろう。
[インターネット(字幕)] 6点(2020-01-10 23:30:22)(良:1票)
18.  女王陛下のお気に入り
絢爛豪華なイングランドの王室を舞台にしつつも、べっとりと全身に塗りたくられた“何か”の臭いが漂ってくるようだった。 その臭いの正体は、汚物交じりの泥なのか、吐しゃ物なのか、生臭い体液なのか、それとも嫉妬と愛憎に塗れた“怨念”なのか。 いずれにしてもこの映画が描き出すものは、実在の女王を中心に据えた煌びやかな史劇などでは全く無く、3人の女性のあまりにも生々しい「欲望」そのものだった。  情け容赦なく、無情なこの映画の物語性は、普通の映画づくりであれば、もっと鈍重に、ただただ陰惨に映し出されて然るべきだろう。 しかし、この“へんてこりん”な映画のアプローチはまったくもって異質で、まるで観たことがない映画世界を構築し、魅了する。 それは決してビジュアル的にヴィヴィッドな映像表現をしていたり、突飛な演出をしているわけではなく、重厚な史劇描写の雰囲気を保持したまま、時代考証の垣根を越えて、現代的な“軽薄”と“インモラル”を孕ませている。  そんな特異な映画世界の空気感の中で、3人の女優が演じる「女」たちが、見事なまでに怖ろしく、哀しく、息づいている。 オスカーのトリプルノミネートとなった主演女優3人の文字通りの「競演」が本当に素晴らしい。 既に女優賞ウィナーのエマ・ストーン、レイチェル・ワイズは無論素晴らしかった。 が、やはり特筆すべきは、本作で主演女優賞ウィナーとなったオリヴィア・コールマンの圧倒的な存在感と、表現力に尽きる。 彼女が演じたアン女王からは、重く悲痛な運命を背負った哀しみと、女性としての強かさと恐ろしさと醜さ、そして欲望に対する純粋な貪欲さに至るまで、ありとあらゆる感情や情念が文字通りねっとりと全身から溢れ出しているかのようだった。  圧倒的権力を持ちつつも、心身ともに脆く危うい哀しき女王は、幼馴染の聡明で美しい公爵夫人に身を心も委ねることで、何とか“バランス”を保てていた。 しかし、そこにもう一人の“女”が入り込んでしまったことで、バランスは脆くも崩れ、三者三様の欲望は渦となり、彼女たち自身を吞み込んでいく。  泥に塗れ地に堕ちた屈辱を胸に秘め、若き女は、悪魔になることも躊躇わず、ついに“兎”のように女王の寵愛を勝ち取る。 そしてはたと気づく、17匹の兎の寿命は短く、蠢く命の中から常に入れ替わっているだろうことに。 彼女自身、無限に続く「代用」でしかないことに。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2019-10-26 23:49:32)(良:1票)
19.  ジョン・ウィック:パラベラム
本作の撮影中に公開されたキアヌ・リーヴスが射撃トレーニングに勤しむ映像を観たとき、「相変わらずこの人は“ガチ”だな」とほくそ笑んだことを思い出す。本作を鑑賞後に、再びその映像をYouTubeで観て、トレーニング後に散乱しているのだろう大量の薬莢を丁寧にほうきで掃き集める様にまたほくそ笑んだ。  50歳を超えて生み出された主演映画が、彼の豊富なフィルモグラフィーの中でも特別に愛されるアクション映画シリーズに成り得たのは、一にも二にも、キアヌ・リーヴスというスター俳優のたゆまぬ「映画愛」と、その愛すべき人間性故だろう。 勿論、主演俳優が“いい人”だから映画が面白くなるなんてことはないけれど、前述の映像でも明らかな“偽りの無さ”が、唯一無二の説得力を生み出しているのだと思う。  本作でもキアヌ・リーヴスは、冒頭から街中を走り回り、ナイフから何から投げ尽くし、馬で駆け巡り、ひたすらに殺しまくる。 常軌を逸した“殺し屋ワールド”を映し出す映画世界のリアリティラインはとうの昔に振り切られていて、狂気のルールも、理不尽な制裁も、すべてを受け入れて、ジョン・ウィックのサバイバルを手放しで堪能するしか許されない。  一作目は、洗練されたガンアクションが最大の売りだったが、三作目にしてアクションの多様性は“カオス”の域である。 図書館でのまさかの“本アクション”から始まり、古武器商での刃物乱れ打ち、乗馬アクション、バイクアクション、シラットの達人たちとの一騎打ち、と古今東西あらゆるアクションが怒涛のごとく繰り広げられる。 無論、トレーニングに余念のないガンアクションには更に磨きがかかり、「馬鹿」がつくほどのアクションフリークであるキアヌ・リーヴスのマニアぶりにも益々拍車がかかっている。  55歳のキアヌ・リーブスの真摯なアクション愛には毎度ながら頭が下がる。 が、53歳のハル・ベリーのアクションと艶やかさも信じられない。彼女が織りなす“犬アクション”にも燃えに萌えた。 ジョン・ウィックの暴走を咎めておいて、愛犬を撃たれた途端にブチ切れ、武装組織を全滅させてしまうソフィアは、間違いなくこの映画世界の住人だった。
[映画館(字幕)] 7点(2019-10-12 22:23:53)(良:1票)
20.  ジョーカー
少し日にちを空けて、2度劇場鑑賞した。或る疑心を解消するためだ。 即ちそれは、この映画の主人公が放った“ジョーク”の真意とは何だったのかということ。 何が真実で、何が虚構なのか。そもそも真実と虚構の境界など存在しなかったのか。 初回鑑賞後、姿かたちさえも曖昧なその疑いが、日を追うごとに輪郭のみくっきりと浮かび上がってくるようだった。  そうして2度目の鑑賞を終え、“疑心”はむしろ益々深まり、同時に、「悪意」に対する恍惚も益々深まっていることに気付いた。圧倒的な充足感。映し出されるすべてが、禍々しくて、美しい。いや参った。  DCコミックスが生み出した稀代のヴィランのビギニングを描き出すにあたり、ビジュアル、ストーリーテリング、パフォーマンス、そして映画としてあるべき性質と時代性において、この映画の完成度の高さはもはや「異常」だ。  何をおいても、ホアキン・フェニックスが演じる“ジョーカー”が凄まじい。 ジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレッド・レト、名だたる俳優たちがこのヴィラン役に挑み、それぞれが見事なジョーカー像を形作り、体現してきた。 しかし、その全てが本作のホアキン・フェニックスによるジョーカーのためにあったのではないかと思えるくらい、圧倒的だった。 その笑い方、走り方、表情と骨格、もっと言えば、皺の一つ一つ、筋の一本一本に至るまでに、彼が表現する「異常」と「狂気」が絡みつくように纏われていた。 その様は、異質ではあるが、あまりにも自然に見え、彼が劇中で言う通り、本当に狂っているのが一体どちらなのか分からなくなってくる。  奇しくも現実の世界では、この映画の公開と同時進行で、仮面を被った民衆が不満と怒りを突き上げている。 映画の中のピエロの仮面が嘲笑うかのように、我々観客は、虚実の境目を見失いそうになる。 そして無意識のうちに、現実社会の問題に対する答えを、虚構のヴィランに求めようとする。 しかし、“ジョーカー”は、そんな我々の淡く無責任な願望すらも見越して、ヒャーハハハと笑い、蔑む。 「馬鹿か、お前たちは。そんなこと俺に関係あるものか」と。  荒んだ世界と、傷ついた心が何を生み出すのか。 これは決して“ジョーク”ではない。
[映画館(字幕)] 10点(2019-10-06 18:07:36)(良:1票)
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