Menu
 > レビュワー
 > 鉄腕麗人 さんの口コミ一覧
鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
評価順12345678
投稿日付順12345678
変更日付順12345678
>> カレンダー表示
>> 通常表示
1.  ファイナル・カウントダウン
歴史的な“混迷”をリアルタイムに感じずにはいられない昨今、日本国内はもとより世界的規模で“時代”は進むべき方法を惑っているように思わずにはいられない。 そんな折に触手を伸ばした古いポリティカルSF映画が、殊の外面白かった。 前々から某動画配信サービスのマイリストには入れていて、キャスティングの豪華さとあらすじの壮大さに反して、作品としての知名度の低さに懸念を覚えて鑑賞するタイミングを推し量っていたのだが、想像以上にしっかりとしたスペクタクル映画だったと思う。  ハワイ沖を航行していた最新鋭(1980年当時)の原子力空母が、時空乱流に巻き込まれて1941年12月6日にタイムスリップしてしまう。奇しくも時は日本軍による真珠湾攻撃前夜、空母に搭乗していた現代のアメリカ海軍の面々は、日本軍の奇襲を阻止(=歴史介入)して祖国を守るべきか否かを迫られる。  個人単位のタイムスリップにより、歴史の改変に対して葛藤したり、奔走したりする映画は多々あるけれど、数千人の乗組員を有する巨大な原子力空母ごと時間移動してしまうという設定が大胆で嫌いじゃなかった。(似たプロットだと、半村良原作の「戦国自衛隊」や、かわぐちかいじの漫画「ジパング」が思い起こされる) 40年の時を遡って現れた原子力空母は、太平洋戦争当時であれば強大な国が新たに出現したことに等しく、180度歴史を転換してしまう力を有していることへの説得力も大きかったと思う。 様々な立場や歴史観を持つ人物が入り交じる空母艦内だからこそ、歴史を改変してしまうことの是非や、軍人・米国人としての倫理観も多角的に対立し、ストーリー性にも幅があった。 カーク・ダグラス、マーティン・シーンをはじめとして、当時のスター俳優たちの競演にも見応えがあったし、実際に大西洋上に配備中だった空母ニミッツでの撮影や、トムキャット等実機を贅沢に映し出した戦闘機の描写にも迫力があり申し分なかったと思う。  上映時間が104分とこの規模の娯楽大作としてはコンパクトだったこともスマートで好印象だったけれど、一方では、映画としての骨格がしっかりしていた分、もっと掘り下げたストーリー展開があっても良かったかなとも思える。 ストーリー展開がテンポよく進むので鑑賞中はあまり気にならなかったけれど、主要キャラクターたちの人格描写やバックグラウンドは、もう少し丁寧に描き出した方が、彼らの葛藤や対立を軸にしたストーリーに厚みが出たろうと思う。 特にマーティン・シーン演じる重工業会社の社員や、実務の傍らで歴史学を研究している航空隊長(演 ジェームズ・ファレンティノ)の両者においては、言動の理由がやや不明確だったように感じてしまう。 実質的な主人公でもある彼らのキャラクター描写と人間ドラマにもっと深みがあれば、ラストのタイムパラドックス的“オチ”も更にエモーショナルなものになっていただろう。  ともあれ、期待を大きく越えた娯楽映画であったことは間違いない。 世界的な混迷を迎えている現代においても、「ああ、あの時代に戻ってやり直せなたら」と、世界中のあらゆる人間たちが悔恨や憤りを感じていることだろう。 でも、本作で歴史学を愛する航空隊長の台詞にもあるように、「すべての物事は一度しか起きない」ということが真理であり、決してやり直しは効かないのである。 ことの大小に関わらず、どんな物事であっても常に「今」が勝負時であり、もし失敗しなたらば次の機会にその反省を活かして巻き返すしかないのだろう。  現代を舞台にしても十分成立するストーリーだと思われるので、リメイクしてほしいものだ。原子力空母という存在感の大きさを活かして、ドラマシリーズ化して多様なストーリー展開を見せても面白いかもしれない。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-01-21 00:39:24)
2.  ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー
それなりに長く映画を観続けていると、現実世界の俳優の死に伴う喪失感が、映画世界の内外を巻き込んで渦巻くことはままある。 2020年、43歳の若さでこの世を去ったチャドウィック・ボーズマンの死は、近年においてその最も顕著な出来事だったろう。 MCUでブラックパンサーことティ・チャラ役にキャスティングされたことで、一躍世界のトップ俳優の一人となった彼の死は、MCUファンに限らず、世界の映画ファンにとってあまりにも大きな損失だった。  無論、この「ブラックパンサー」の続編も、チャドウィック・ボーズマン続投が大前提のプロジェクト進行が、突然の悲報に伴い、継続そのものを問う岐路に立たされたことは言うまでもない。 普通に考えて、絶対的な主人公を演じていた俳優を失ったヒーロー映画の続編が、そのまま成立するなんてことはあり得ないだろう。 それでもなお、映画の製作を進め、161分の大長編として日の目を見た本作からは、監督のライアン・クーグラを筆頭に、スタッフ、キャストからの、亡き“ティ・チャラ王”に対する尊敬と哀悼が満ち溢れていた。  死に伴う喪失感は、時に残された人間を惑わし、自暴自棄に貶める。 その心情が本作に登場するキャラクターたちに投影され、彼らも大いに惑い、進むべき道を見失いそうになる様が印象的だった。 それをどう乗り越え、その先の時間をどう生きるのか。それはきっと最愛の人間の死に出会うべくしてこの世に生きるすべての人間に課せられた宿命なのだと思う。  最愛の兄と王とヒーローをまさしく“同時”に失った妹のシュリは、映画のラストで光に照らされた美しい浜辺で一人佇む。 その表情からはやはり寂しさと心細さが垣間見える。その一方で、大切な記憶や、兄や母に対する愛情は決して色褪せないことも噛み締めているようだった。  生きろ、そして戦い続けろ。 「エンドゲーム」のクライマックス、ポータルの中から現れたティ・チャラが、満身創痍のキャプテン・アメリカに対して力強く視線を向けた後、援軍を鼓舞するシーンが思い浮かぶ。 偉大なヒーローは死してもなお、映画世界の内外の“アベンジャーズ”を鼓舞し続ける。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-11-12 01:30:22)
3.  フォーカス(2015)
マーゴット・ロビーが好きだ。 いまやハリウッドのトップ・オブ・トップの女優に上り詰めたと言っても決して過言ではないこの俳優の魅力は、リアルな“叩き上げ感”とそこから溢れ出る強かな人間性そのものだろう。 1990年生まれ、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」で、主演のディカプリオの妻役としてマーティン・スコセッシに抜擢されたのが22〜23歳頃だろうから、若くして成功した俳優の一人であることは間違いないが、オーストラリアから裸一貫でのし上がった苦労人でもある彼女には、俳優・映画人としての天賦の才と、生きる上での聡明さが備わっている。  そんな人間的な厚みが備わっているからこそ、マーゴット・ロビーという女優は、セックスシンボルにもなれるし、馬鹿にもなれるし、イカレ女にも、痛い女にも、ミューズにも、ヒーローにもなれる。 本作「フォーカス」で彼女が演じている詐欺師のジェスも、まさにその適性に合ったキャラクターであり、ベストなキャスティングだったとは思う。色仕掛けとスリを得意とし、詐欺師としての才能を開花させていくヒロイン像は、ハマり役と言えよう。  そのヒロインを圧倒的な詐欺師の技量で魅了していくのが、主演であるウィル・スミス演じるニッキー。 常に相手を騙し続ける凄腕詐欺師のキャラクター造形は主人公らしく、ウィル・スミスの多才さとも相まって悪くはなかった。 が、しかし、その完璧だった詐欺師像が、魅力的なヒロインの出現によって乱れ、崩れていく。  まさにその天才詐欺師に生じた不協和音こそが、本作のストーリーにおけるミソなわけだが、最終的にはその綻びが綻んだまま、少々グダグダな展開のまま終着してしまった印象を受けた。 ヒロインに対して恋愛感情を抱いてしまった主人公が、詐欺師道を貫くために、彼女から離れる展開までは良かったが、その後再開してクライマックスとなる大仕事に挑むくだりが、中途半端で盛り上がりに欠けた。  詐欺師映画である以上、映し出されるすべてのシーンに何かしらの意味があって然るべきで、“騙す相手”は、大富豪のボスなどではなく、スクリーンの外側の観客であるべきだと思う。 無論、本作においても、最終的にアッと驚く仕掛けを用意しているつもりであろうが、結局のところ主人公がヒロインに対してただただメロメロになっているようにしか見えず(実際彼女の本質を見抜けていなかったわけだし)、カタルシスを得るまでには至らなかった。  まあ、そういうグダグダな雰囲気は、往年のヨーロッパの娯楽映画を観ているようでもあり、おしゃれでキッチュな落とし所は嫌いではないけれど、主演のウィル・スミスが、作中のキャラクター的にも、俳優としての支配力的にも、マーゴット・ロビーに喰われているなという印象は拭えない。 それならば、マーゴット・ロビー演じるジェス側に、すべてを覆す思惑や計画を持たせて、名実ともに主人公と観客を“支配”してほしかったところだ。
[インターネット(字幕)] 5点(2023-10-29 23:16:07)
4.  FALL/フォール
「高所」という原始的恐怖心にひたすらにフォーカスして、極めてスリリングなスリラーアクションとして仕上げたこのジャンル映画の“立ち位置”は正しい。もし劇場で本作を観られたならば、その恐怖心は最大限に増幅されていたことだろう。  まず舞台となる600メートル超の鉄塔(テレビ塔)の存在感が良い。 荒野の真ん中でひょろりと伸びるその風貌は、あまりにも現実離れしていて、いい意味で馬鹿馬鹿しくもあり、それでいて恐怖の象徴として明確な説得力も孕んでいた。 その常軌を逸した鉄塔のビジュアルと、そこで繰り広げられるサバイバルを、低予算ながらもとても卓越した画作りと編集で映し出したクリエイティブは素晴らしかったと思う。  テンポよく、潔く、メイン舞台に主人公たちを運び、高所でのサバイバルを描き出した展開自体は的確だったと思う。 冒頭部分での細かい描写が、しっかりと後半での伏線として張り巡らされ、下手をすればアイデア一発で内容の乏しい展開になってしまいそうな題材を、終始緊張感を持続させたスリラーへと昇華させていたことは間違いない。  「恐怖映画」として、狙い通りの恐怖を具現化し、限られた予算で一定レベル以上の娯楽を生み出している本作は、褒められて然るべきだろう。  ただ、個人的には冒頭部分からどうしても主人公たちの心情に共感できない要素があり、それが結局最後まで雑音となってしまい、“手放し”で高評価というわけにはいかなかった。  それは、登場自分たちの危機管理の薄さというか、危険回避能力のある種病的な欠如に他ならない。 オープニングの断崖絶壁でのフリークライミングシーンからそう。主人公はそこで夫を亡くしてしまい、それがこのドラマの起因となるわけだが、あのような危険行為にまったくもって魅力も共感も感じることができない者としては、そりゃあそんなことしてたらいつか死ぬだろうよと、鼻白むことしかできなかった。 そのくせ、いざその危険行為によって人を亡くしたら、1年以上も他者を遮断し自暴自棄に落ち込むとうい主人公のあまりにも覚悟の無い心情にも違和感を覚えた。  詰まる所、主人公たちの身体や、精神構造に、あのように危険極まりないクライミングを繰り広げる人物像としての説得力があまりにも欠如していたように思える。 あれほどまで危険なクライミング行為を自らするのであれば、身体的にはもっと鍛え上げれていて然るべきだろうし、自他を含めた人間の「死」そのものに対してももっと達観した思考があるべきだったろうと思う。  1年以上も酒に溺れていたくせに、何の準備もなく親友の誘いに乗って地上600メートルの鉄塔に挑むという言動は、完全に主人公の「自殺願望」の表れだろうと思ったし、そんな無謀な誘いをする親友も何かしらの「思惑」があるに違いないと、訝しくストーリーを追ってしまった。それくらい、彼らの言動には常軌を逸した違和感と不自然さを感じた。 例えば、デヴィッド・フィンチャー監督の「ゲーム」のようなどんでん返し的な“オチ”を、どこかで期待していたのかもしれない。  しかし、親友はある秘密を抱えてはいたが、主人公にとってはかけがえのない普通にいいヤツ。最後には疎遠だった父との絆を取り戻し、地上に生還するという展開は、安直という印象を通り越して、「何だコイツら」と、やはり最後まで理解と共感が及ばなかった。  シンプルではあるが非常にクオリティの高い「恐怖」を創造できていただけに、取ってつけたようなドラマ性や、違和感たっぷりの人間描写が、必要以上に大きな不協和音として鳴り響いてしまった。
[インターネット(字幕)] 5点(2023-10-29 00:07:46)
5.  ブラックアダム
DCコミックスきってのダークヒーローに我らがドウェイン・ジョンソンが扮する。 そりゃあハマるに決まっているし、俳優単体の存在感のみを捉えたならば、数多のアメコミヒーロー映画の中でも指折りの「説得力」を示したと言っても過言ではないだろう。 DC精神全開のケレン味に振り切った描写は、スペクタクル性に溢れ、その絶妙なバカさ加減(好物)も含めて、さながらインド映画の超大作を観ているようだった。  ただ、その主演俳優のドハマリぶりの一方で、新鮮味は皆無だったことも否めない。 MCU、DCと、これだけアメコミ映画が飽和状態の中にあって、あまりにもオーソドックスで豪腕ド直球なストーリー展開が、本作のテイストに相応しいことは理解しつつも、やはり退屈だったことは否定できないところ。  マイナス要因だったのは、主演俳優のド直球なハマりぶりに呼応というか、依存するかのように、周辺のキャラ設定や描写までもが、あまりに工夫なくチープだったというところだと思う。 ダークヒーローの一種のバディとなる少年や、その母親で学者のキャラクター性が類型的で魅力に欠けていたり、主人公と共闘するヒーローチームの面々のオリジナリティが弱かったことが、本作の魅力を底上げすることができなかった大きな要因だろう。  「アイアンマン3」でトニー・スタークを救った少年だったり、トム・ホランド版「スパイダーマン」でマリサ・トメイが演じたメイおばさんのような愛すべきキャラクターを登場させることができていたならば、本作自体がもっと愛すべき作品になっていただろう。  MCUのような世界観の完成度は皆無で、その代わりにケレン味あふれる描写で瞬間的な沸点を追求するDCのアプローチは決して嫌いではない。 次作でこのダークヒーローと対峙するのは、スーパーマンか、それともシャザムか。いずれにしてもこの路線をさらに追求する形でエンターテイメントのクオリティーを爆上げしていってもらいたい。
[インターネット(字幕)] 6点(2023-05-09 15:10:02)
6.  ブレット・トレイン
“ニッポン”は、世界中の外国人にとって、我々日本人が思っている以上に、唯一無二の「娯楽」の塊なんだと思う。 サムライ、ニンジャ、フジサン、アニメ、コスプレ、そしてシンカンセン。時代を越えて積み重ねられたその累々とした娯楽要素こそが、この国を愛する多くの外国人が求めるモノであり、憧れなのだ。  長年、そういった“ニッポン”を愛する外国人が生み出す映画を観ていると、日本人が見せたい“JAPAN”と、外国人が見たい“ニッポン”とでは、そもそものベクトルが異なるということをつくづく感じる。 昔は、そんな“トンデモ”日本描写に対して鼻白むことも多かったけれど、今は、逆輸入の新しい娯楽性として純粋に楽しめるようになったし、それほどまでこの国を愛してくれている海外クリエイターたちに感謝を覚えるようになった。 そう、そこにあったのは、日本文化に対する「無理解」ではなく、圧倒的な「愛」だったのだ。  結論を言うと、本作「ブレット・トレイン」(a.k.a「弾丸列車」)は、想像を遥かに超えた“トンデモバカ映画”だったが、紛れもなく日本がルーツのこの作品は、日本人にとっても圧倒的娯楽だった。 ずばり、エンターテイメント大作として“ケッサク”である。   私は伊坂幸太郎の小説のファンなので、原作「マリアビートル」も既読。 というよりも、ブラッド・ピット主演で映画化という情報を聞き入れてから、一年ほど前に読んだ。 伊坂幸太郎らしい軽妙さと人生観を孕んだ楽しい娯楽小説で、読了時点から本作を鑑賞するのが楽しみだった。 小説のストーリーラインを忠実に映画化しているというわけでは勿論なく、ハリウッド映画化にあたって文字通り大いに「脱線」していることは間違いない。 でも、その「脱線」こそが、ハリウッド映画化の意義であり、ブラッド・ピットが主人公を演じ、デビッド・リーチ監督がクリエイトすることによる付加価値だろう。  小説の語り口と比較すると、全く別のお話のようにも見えるかもしれないが、原作が描くテーマや精神性は、荒唐無稽の映画世界の中でもしっかりと反映されている。 疾走する高速列車の中で、登場人物たちの「悪運」と「幸運」が、絡み合い、鬩ぎ合い、運命を切り開いていく。 殺し屋たちが織りなすその群像劇そのものは、非現実なファンタジーだけれど、現実世界であってもおびただしい人間たちの悪運と幸運が入り混じっていることには変わりなく、その一つ一つの結果が「人生」であるということ。 理不尽な状況下の中で、悪運を撒き散らしながらも、自身の信念を持って存在し続ける主人公の姿こそが、今この世界で「生きる」ということの本質なのかもしれない。   ともあれ、ちょっと珍しいくらいに嬉々として娯楽映画の主人公に扮するブラッド・ピットを堪能しつつ、“トンデモ”が止まらない本作の暴走ぶりを楽しむのがよろしかろう。 本作の舞台となる“弾丸列車”の名称は「ゆかり」。 そう、ほっかほかの“白飯”に、極彩色豊かな“ふりかけ”をたっぷりかけて味わうつもりで。
[映画館(字幕)] 9点(2022-09-17 22:15:49)(笑:1票) (良:3票)
7.  フリー・ガイ
ゲーム(仮想現実)の世界を“救世主”が救う。 そのプロットは、この20年程の間で数々の映画で何度も描き出されてきた。 「マトリックス」を皮切りに、「シュガー・ラッシュ」、「LEGO® ムービー」、そして「レディ・プレイヤー1」に至るまで、主人公たちは広大で果てしないゲームの世界を縦横無尽に巡り、その世界の真理を見出していく。 そしてその救世主となる主人公たちに共通していること。それは、彼らがゲームの中の小さなプログラムの一つ、詰まるところの“モブキャラ”に過ぎない存在だったということだ。  泡沫のプログラムが、世界を構築する巨大なプログラムを“書き換え”影響を及ぼしていく。 それは、一つ一つの小さな生命が蠢き、社会を構築するこの現実(リアル)世界にも直結する要素であり、そこに人々は熱くなるのだろう。 僕自身も含め、世界中の殆どすべての人間たちが、社会という巨大なプログラムの歯車の一つである以上、プログラムの反抗というプロットに熱狂せずにはいられないのだと思う。  そしてここに、“熱狂”不可避の新たな“救世主”が誕生した。 ゲームの中のモブキャラがヒーローになるというストーリーテリングは、「マトリックス」から20数年が経過した現在においては、もはやベタベタであるが、だからこそ娯楽映画としての安定感は保証されているとも言える。  更には、主人公を演じるのがライアン・レイノルズとくれば、このニューヒーローが幾つもの「見えない壁」を越えてくれることは折り紙付きであり、そういう娯楽映画の文脈を踏まえたメタ要素も含めて楽しい映画だった。  ただ、ディズニー資本の影響からか、良い意味でも悪い意味でも毒っ気がないことも否めない。ライアン・レイノルズ主演のコメディ映画なのだから、もっと風刺的な要素も欲しかったところだ。 ベタなストーリーの王道は良しとしても、「想定の範囲」から少しも脱線することが無いので、一定以上の高揚感には欠けたと思う。  そういえば、正規プログラムのヒーロー役にチャニング・テイタムがキャスティングされていが、冒頭シーン以降登場しなかったのは残念。終盤もう少し上手い使い方があったのではないかな。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-01-30 01:57:38)
8.  プロミシング・ヤング・ウーマン 《ネタバレ》 
キャリー・マリガンが好きだ。 類まれな愛らしさと、そこから滲み出るような薄幸と繊細な狂気。「ドライヴ」、「華麗なるギャツビー」、そして「SHAME -シェイム-」、どの作品においても、大スターの主演俳優を喰らう演技と存在感で魅了されてきた。 個人的には、随分と前から「最もアカデミー賞に近い女優」と確信してきたが、しばらく出演作の鑑賞機会がなかった。 久しぶりのキャリー・マリガン。少し年を重ねたその表情には一瞬見紛うたけれど、冒頭のシーン、泥酔(のフリ)からの狂気的覚醒に一気に釘付けになった。  女が、夜な夜な危険を犯してまで酔っ払った男たちへの復讐を無差別に繰り返す理由。それは、男、そして過去に対する終着なき怒りと復讐。 世の中のすべての男たちの過ぎ去った泥酔の夜に、恐怖と後悔と懺悔を。  一人の女の狂気的な怒りを描きぬいた振り切ったストーリーテリングが白眉で、その狂気そのものを体現するかのような主演女優が素晴らしい。 実際、話の筋は突拍子もなく強引だが、それをまかり通しているのも主人公の特異なキャラクター性とそれを演じきったキャリー・マリガンの表現力そのものだろう。  最終的な顛末は、決してハッピーエンドなどではなく、きっぱりと最悪な悲劇だ。(気恥ずかしいくらいの多幸感に溢れたドラッグストアでのデートシーンが「残酷」への前フリであることは明らか……) にもかかわらず、心の中では一抹の爽快感みたいなものがジワジワと広がる。その感覚がとても奇妙でもあり、フレッシュでもあった。   正直なところ、自分自身、思い出すこともはばかられる泥酔の夜は記憶の片隅に存在する。 その薄ぼんやりとしていた後悔を、血みどろの輪郭で浮き上がらせるような、そんなキケンな映画だ。   P.S 主人公の優しい父親役のクランシー・ブラウン、絶対なにかの映画の「悪役」で見たことあるなあと思っていたら、「ショーシャンクの空に」の悪徳刑務官の俳優だった。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-01-29 23:46:23)
9.  ブラック・ウィドウ
兎にも角にも、まずは、「おかえり、ナターシャ」と心の中で唱えずにはいられない。 コロナ禍の影響も重なり、実に2年ぶりのMCU映画の劇場鑑賞。 スクリーンに映し出される「MARVEL」のお決まりのオープニングクレジットを目の当たりにした瞬間、高揚感が一気に高まり、思っていた以上に自分がMCUの新作映画を“欲していたこと”を痛感した。 正直なところ、その高揚感を感じつつ、MCU“フェーズ4”の幕開けを迎えられただけで、一定の満足感は得られたことは否定できない。  このブラック・ウィドウ単独主役作品を、ドラマシリーズとしてではなく単体映画作品として製作し、コロナ禍により数々の映画作品が劇場公開を諦めネット配信に切り替わっていく中においても、何とか劇場公開(+プレミア配信)にこぎつけたのは、何と言ってもブラック・ウィドウ(a.k.a ナターシャ・ロマノフ)というキャラクターのMCUシリーズを通じた貢献度の高さと、演じたスカーレット・ヨハンソンに対するリスペクト故だろう。  MCUシリーズ作の中で都度垣間見えたブラック・ウィドウの過去を踏まえると、彼女を主役にした単独映画が、シリアスな女性スパイ映画になるであろうことは想像に難くなかった。 壮絶かつ残酷な生い立ちや、スパイとしての成長描写を踏みつつ、スタイリッシュなスパイ・アクションを期待していた。 結果的に、その想像と期待は、半分当たり、半分外れたと言える。  まず意外だったのは、思ったよりもコメディ演出が多かったことだ。 主人公のナターシャも、フローレンス・ピュー演じる“妹”のエレーナも、そのあまりにも非人道的な生い立ちに反比例するかのように、自らの半生をシニカルに半笑いで語る。 そして、こちらも壮絶な人生観と業を孕んでいるはずの、“父”と“母”のキャラクター性も、どこか間が抜けていて、思わず吹き出してしまうシーンが多々あった。  その映画的テイストは、近年各国の映画作品で表現されている女性スパイ映画の悲愴や苛烈さというよりも、ずばりスパイ映画の王道である「007」シリーズの系譜だった。 MCUの中で描き出される女性スパイ映画として、そのバランス感は結果的に適していたと思う。 スパイ映画としての娯楽の本流を貫きつつも、現代的な問題意識を根底に敷き詰めたストーリーテリングに対しては、「流石MCU」の一言に尽きる。  ただし、だ。 今作を、MCUの大河の中で、アベンジャーズの面々の中でも常に中心に存在し続けたナターシャ・ロナマノフ(=ブラック・ウィドウ)の映画であることを捉えると、どうしても腑に落ちない要素も大きい。 最も納得できないのは、「インフィニティ・ウォー」の後、「エンドゲーム」冒頭の彼女の孤独感についてだ。  サノスに敗れ去り、完全に崩壊したアベンジャーズが、彼女にとっての“唯一の家族”だとナターシャは孤独感に苛まれつつも、光の見えない可能性を模索していた。 でも、今作の結末を踏まえると、彼女には“もう一つの家族”が確実に存在していたことになり、「エンドゲーム」の冒頭で描かれていた孤独感が揺らいでしまう。 サノスの“指パッチン”により、実は存在していた「家族」たちも同時に失ったという風にも捉えられるかもしれないが、どうしても後付感が拭えない。  要は、今作の結末が、ちょっと“ハッピーエンド”過ぎるのではないかと思うのだ。 今作は、主人公が過去に失った「疑似家族」と再び巡り合うと同時に、そこの孕む罪と罰と向き合い、贖罪を誓う物語であるはずだ。 であるならば、その業を背負った“家族”全員が結果的に無事に存在し続けるというのは、少々都合が良すぎるのではないかと思えてしまう。 特に、“父”と“母”は、どう取り繕ったとしても“悪”の根幹を担っていたことは否定できない事実であり、何かしらの「禊」が描き出されて然るべきだったのではないか。  今作の結末で、その然るべき“悲しみ”を背負っていたのならば、ナターシャの「インフィニティ・ウォー」に臨む悲壮感も、「エンドゲーム」おける孤独感も、もっと説得力のあるものとして高まったと思う。 とはいえ、冒頭にも記したとおり、ブラック・ウィドウの最後の勇姿をしっかりとスクリーンで堪能できたことは満足だ。 どうやらこれで完全にスカーレット・ヨハンソンはMCU卒業ということのようなので、トニー・スターク同様に、ナターシャ・ロマノフにもこの言葉を捧げたい。  Thank you Natasha,3000
[映画館(字幕)] 6点(2021-07-15 23:49:13)(良:1票)
10.  プロメア
“縦横無尽”と“縦横無尽”が掛け合わされたようなアニメーションが、冒頭から怒涛のごとく繰り広げられる。 そして、主人公をはじめとするキャラクター紹介カットのみならず、一つ一つの技名や、悪役の登場シーンにも漏れなく挟み込まれる“大見得”カット。 主人公のキャラクター性を指して、「馬鹿」というワードが連呼されるが、まさしく問答無用の“馬鹿映画”の世界観に順応することに時間はかからなかった。  ストーリーは極めて「類型的」ではある。「馬鹿」がつくほどに真っ直ぐで熱い主人公が、社会と社会から“悪役”と名指しされる側との狭間に立ち、真の正義を見極めて、世界を救う話。 世界中の数多のアドベンチャー映画、ヒーロー映画で描きつくされてきたストーリーライン(型)だろう。 けれど、その「型」こそが、この映画の主人公の美学でもあり、作品としての本質でもあろう。 或る極東の島国の“火消し”の様式を信奉する主人公の生き様と、そのストーリーの性質は、しっかりと合致している。  実際、ストーリーそのものに新しさは無いのかもしれない。 だが、圧倒的にアグレッシヴなアニメーション表現と、臆すること無く馬鹿馬鹿しい娯楽性が、稀有なエンターテイメントを生み出す。 鑑賞者の趣向には大いに左右されることだろうが、ここまで振り切ってくれれば、個人的には大好物であり、終始ニヤニヤが止まらなかった。  声優陣では、元祖キャラクター俳優の松山ケンイチが主人公像にマッチしており、バディとなる早乙女太一との声質の相性も良かった。 そして、珍しく悪役にキャスティングされた堺雅人は、野望と陰謀を振りかざす権力者を嬉々として演じており、キャラクターのビジュアル的な変貌を超越して憑依しているようだった。  「ジャパニメーション」なんて言葉が定着して久しいが、連綿と継承されてきた表現を更に進化させて、新しいセカイを見せてくれるこの国のアニメ制作の現場には頭が下がる。 何百人、何千人、何万人のアニメ制作スタッフの、何十年にも渡る創意と工夫と犠牲の上に、この文化は醸成されてきた。 それは、この映画の主人公と同じく、「馬鹿」がつくほどに愚直で熱い信念によって貫き通されてきた「正義」だと言えよう。 そう、彼らは、これからもアニメで世界を救い続けるんだ。
[インターネット(邦画)] 8点(2020-08-09 23:35:46)
11.  復活の日
驚いた。何という圧倒的なスペクタクルだろうか。 2020年、“コロナ禍”の真っ只中。1980年公開のこの国産超大作を、今このタイミングで鑑賞したことは、極めて稀有な映画体験だと言えよう。 新型コロナウイルス感染症の蔓延とそれに伴う悲劇が、全世界的に収束しない今の時世において、このSF映画が描き出したパニックと世界の“終末”は、決して大袈裟ではない「予言」であり、恐怖であった。  序盤のパンデミック描写はまさに今現在の社会の有様そのものだったし、そこから展開される人類死滅の地獄絵図は、とことん絶望的で遠慮がなかった。 そして、世界の人口が南極に取り残された数百人のみとなっても、さらなる破滅の進行を余儀なくされる人類の行く末には、恐怖や憤りを遥かに超えて、只々虚無感を覚えた。  その“虚無感”は、今作同様に明確な滅亡の最中を生きる人類の顛末を描いた「渚にて(1959・米)」や、冷戦下における核戦争の危機を真摯に描ききった「未知なる飛行/フェイルセイフ(1964・米)」を彷彿とさせる。 両作とも、冷戦時代のアメリカで切実な危機感と共に製作された作品であり、傑作だった。 ソリッドに研ぎ澄まされたこれらの作品と比べると、今作は大味だし、稚拙なウェットさがあることは否めない。 ただし、冒頭に記したとおり、超大なスペクタクルを伴った映画的な圧力が、また別の魅力と価値を生み出していると思った。  地球全体を舞台にしたSF的なパニックと恐怖、それに伴う残酷と慈悲の釣瓶打ちが凄まじい。 それはやはり当時隆盛を極めた「角川映画」だからこそ仕掛けることができ、実現し得た映画企画であったろうし、監督を務めた深作欣二による絶対的な支配力がなし得た結果だと思う。 ロケーション、キャスティング、バジェット、そして映画人たちのエネルギー、映画製作におけるあらゆる規模が今現在の日本映画界の比ではなく、その“スケール感”に圧倒される。  更には、小松左京のSF小説を原作にしたストーリーテリングが、SFパニック映画としての物語性を深め、映画世界を芳醇にしている。 世界の人口が数百人になった時、それまでの人間社会の倫理観や価値観などは、一旦無に帰す。 そこには、“感情”を抑制し、生物として存続することの残酷な真意が明確に映し出されていたと思う。  「戦争」と「疫病」、それはいつの時代においても、人類の最大の“敵”であり、“弱点”そのものであろう。 むしろ人類史自体が、戦争と疫病の繰り返しによって形成されていると言っても過言ではないのかもしれない。 そうであるのならば、非力で愚かな人類には、打ち勝つすべも可能性もそもそも存在しないのではないか……。  燃え盛る巨大な落日を目の当たりにして、“男”は一人、立ち尽くす。  それでも……それでもだ。我々人類が最後の最後まで手繰るべきものは、「希望」であり、「愛」であるという帰着。 落日の絶望感に殆ど押し潰されながら、それでも男は歩み出す。 その様は、巨大な絶望に対してあまりにも無力で、脆弱に映るけれど、どこまでいってもその先に「明日」があるのだと、今この世界に生きる人類の一人として、信じたい。  「Life is wonderful (人生はいいものだ)」と言い続けることが、唯一にして最大の抗いなのかもしれない。
[インターネット(邦画)] 10点(2020-04-26 00:06:47)(笑:1票) (良:3票)
12.  FLU 運命の36時間
「パンデミック」というものが現実に巻き起こっている今、パニックに直面した人間、社会、国、世界の「本質」が如実に表れているように思える。 「危機」に対峙したとき、そのものの“真価”が問われるとは言うが、いざ不安や恐怖に惑い混乱する人や体制の脆さや愚かさを目の当たりにして、虚無感を覚えることは否めない。  それは無論、自分自身に対する「疑心」も含めてのことだ。 もし、突如としてパニックの中心に放り込まれてしまったならば、僕はどれだけ理性や人間性を保っていられるのか。正直言って甚だ疑問であり、そのことが最も恐怖なことかもしれない。  この韓国版“パンデミック映画”は、そういう人間の愚かさとそれに直結する恐ろしさを、盛りだくさんのパニック描写の中で描きぬいている。 決して綺麗事では済まされない人間の「性質」を遠慮なしに描きつけている部分が、非常に韓国映画らしく、ドスンと重い。  文字通り“盛々”に、古今東西あらゆるパンデミック映画やパニック映画の要素を詰め込んだ映画世界は、よく言えば豪快だし、悪く言えば節操がない。 過去作の様々なシーンと類似する部分は多々あるし、詰め込みすぎて冗長になっていることも否定はしない。 詰め込み過ぎてややまとまりに欠けるストーリー展開は、劇中のパニック描写と相まってグワングワンと混乱しているけれど、個人的には、パニック映画としてここまで振り切って観せてくれたなら文句はない。  実際、本作で描かれているような致死率100%のウイルス=恐怖が、このスピード感で襲いかかってきたならば、パニックの積算はこの比ではないだろう。 現実世界には、問答無用に善人すぎる主人公は存在しないし、大国に対して毅然とリーダーシップを取れる政治家も存在しない。そして、唯一の抗体が少女の体に生ずるなどという奇跡もあり得まい。  であるならば、ありとあらゆるパニックの描写をこれでもかと詰め込み、たとえご都合主義的であろうとも、それらがエモーショナルに解決する顛末は、娯楽映画として圧倒的に正しい。  そして、“類似品”であろうが、“パクリ”であろうが、過去の成功作の娯楽性を踏襲し、しっかりと自国のエンターテイメント映画として成立させてみせているのは、やはり韓国映画の実力故であり、その土壌の豊かさを痛感する。 それは同じように“類似品”であった2009年の日本映画「感染列島」の劣悪さと比較すると明らかだ。   2020年4月4日現在、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックの混乱はまだまだ予断を許さない。 ヒーロー不在、リーダー不在、救世主不在の現実世界は、どのような顛末を迎えるのか。 映画ではない現実に対して、“鑑賞者”ではいられない。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-04-17 17:17:06)
13.  フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ
特撮映画好き界隈では必ず名前が上がるカルト的人気の高い作品をようやく鑑賞することができた。 個人的にずっと前から観たかった作品だったので、期待値が高まりすぎていたのかもしれないが、何というか、思ったよりも“トンチキ”な映画だった。  まず怪獣そのものの出自についての説明があまりにも曖昧でいい加減だった。 この映画の前に「フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)」という作品があり、その続編なのかと思いきや、設定や描写が若干異なっており、正確には平行世界を描いた“姉妹作品”という位置づけらしい。 だから、劇中で水野久美演じる博士が語る“サンダ”の出生秘話も取ってつけたような描写になっており、結局どういう経緯でこの怪獣が生まれたのか全く不明である。  故に観客は人間側の一人として、どういうスタンスでこの怪獣を捉えていいものか戸惑ってしまう。 当然ながら、“サンダ”の細胞から派生した兄弟怪獣“ガイラ”に対しても同様で、いきなり登場してきて人間を食い散らかされても、恐ろしさは感じるもののただそれだけで、怪獣としてのキャラクター性があまりにも希薄だった。  そういった肝心の怪獣たちの存在感が薄いことに対して、逆に目を向けざるを得なかったのは、人間たちのエゴイズムに対する嫌悪感だった。 一応の主人公的立ち位置の研究者側も、怪獣の脅威に対応する自衛隊(政府)側も、「飼育すべし!」「抹殺すべし!」と、双方がそれぞれに人間のエゴイズムに溢れた主張を繰り返す。  この映画における“メインマッチ”は、悲しき兄弟怪獣の対決などではなく、人間の“エゴ対エゴ”だった。 そして、化粧の濃い水野久美のめくるめく衣装チェンジを目の当たりにする映画でもある。  想像していたものとだいぶ違って残念だったが、当時の東京という街の風俗描写はなかなか味わい深く、色々な意味で「時代」を感じられるという点では、鑑賞の価値はあったと思う。
[インターネット(邦画)] 4点(2019-12-22 00:45:32)
14.  ブライトバーン/恐怖の拡散者 《ネタバレ》 
僕の子どもは、まだ8歳と5歳だが、それでもごくたまに「あれ、この子こんな顔だったかな?」と毎日見ているはずの我が子の表情に違和感を覚える瞬間がある。 またふいに発動される思いにもよらない発言や行動にびっくりすることもある。 それらは詰まるところ「成長」というごく普遍的な一言で説明がつくことなんだけれど、親たちは、あまりの唐突さに驚き、慄き、時に理解不能でうろたえてしまう。 そのある種の「恐怖」との邂逅自体は、子どもを育てる親にとっては必然的なことの一つであるわけだが、この映画に登場する夫婦が不幸だったのは、子どもがあまりにも「特別」過ぎたということ。  世界中の親にとって、自分の子どもは誰よりも「特別」だろう。 そこに血の繋がりは必ずしも関係なく、養子をもらおうが、森で拾おうが、桃から生まれようが、「自分の子どもだ」と認識した時点で、「特別」であることに変わりは無い。  ただし、その「特別」が、必ず良い方向ばかりに向くかというと、実際そんなことはないわけで。 カンザス州の“ケント家”の事例があまりにもセンセーショナルだったため、特に映画に登場する「特別な子」はすべからく“スーパーヒーロー”になるものだと世界中の映画ファンは高を括っていたが、本作は僕たちのその甘い認識を“全否定”する。 そりゃそうだ。現実世界のすべての凶悪犯も、極悪人も、生まれた時は「特別な子ども」の一人だったはずなのだから。  とにもかくにも、この映画は、スーパーヒーロー映画の王道的な導入から端を発し、「オーメン」や「エスター」のような「子どもが怖いホラー映画」のこれまた王道的恐怖展開を容赦なく見せつけてくる。 ヒーロー映画は大好きだが、ホラー映画は大の苦手なので、「久しぶりに映画館でホラー映画を観ているな」とビクビクしながら鑑賞していたが、“子ども”の自我の目覚めと共に恐怖の拡散が益々エスカレートしてくると、「恐怖」は徐々に「高揚感」へと転じてくる。  その「高揚感」の正体は、あまりにも禍々しい最凶“ヴィラン”のビギニングを目撃したことに他ならない。 “アンチヒーロー映画”の体で、露悪的でぶっ飛んだホラーを紡ぎ、最終的にはヒーロー映画の世界に再接続してみせたジェームズ・ガンの“悪だくみ”がたまんない。  エンドクレジットでは“DCエクステンデッド・ユニバース”との連携が“非公式”に臭わされた程度だったが、どうせなら正式参画してもらって、「シャザム!」との“悪ガキ対決”が観たいぞ。
[映画館(字幕)] 7点(2019-12-11 21:14:17)
15.  ブラック・クランズマン
愚かな憎しみと、悲しみ、怒り、その蓄積と連鎖。 もはや、レイシスト(人種差別主義者)を非難して、否定すれば済む問題でもなければ、そんな時代でもないのではないか。 映画の中のブラックジョークが、全く冗談になっていない今現在の現実社会を想起して、言葉が無かった。  こういう映画を観て、“分かったつもり”になること程愚かなことはない。 スパイク・リー監督による映画的なバランスを度外視したメッセージ性は強烈に突き刺さる。が、だからと言ってそれを一方的に丸呑みすることも違うだろうと思う。 「アメリカの闇」なんて便利な言い回しで片付けるのも違うし、「闇」と言うならば、これは世界中全ての国と人間が共通して孕む暗部であろう。 対岸の火事と客観視できるわけもなく、まずは突きつけられたこの現実を直視するしかないと思う。まさにアメリカの国民に限らず、全世界に対して「目を覚ませ!」ということなのだろう。  映画内では、白人のレイシストたちがおぞましく、滑稽に、糾弾すべき対象として描かれているけれど、同時に彼らの悲哀も炙り出されている。 教養もなく、富もなく、ステイタスもない“団体”の面々は、せめて自らの存在価値を繋ぎ止めるために、必死になって創り上げた差別意識と被害妄想の中でしか生きる意義を見出だせない。 なんて悲しいのだろう。 差別される黒人の悲しみを越えて、差別をする白人の悲しみが描き出されているように見える。そんな愚の骨頂を目の当たりにして、結局、どちらが本当の意味で“可哀想”なのか分からなくなった。  主人公を含む刑事たちは「KKK」への潜入捜査を“一応”成功させる。 しかし、痛快なラストの顛末も束の間、主人公は「闇」の果てしなさを垣間見せられる。 結局、何も解決していないし、長い年月の中で闇雲に広がった憎しみは、虚無的に増殖し続けている。   映画の最後には、現実社会の悲痛な実映像が映し出される。 この実映像挿入の是非については議論の余地がある。個人的にも、こういう形で最後に実映像を加えてくる作品は、映画表現としてアンフェアなような気がしてあまり好きではない。 ただし、本編撮影終了後に実社会で起こったあの事件の実映像を、映画的なバランスを崩してでも挿入した、いや挿入せざるを得なかったスパイク・リーの意図もよく分かる。 それは即ち、この映画が、70年代のノンフィクションを題材にした実録映画ではなく、「現在」の映画であることの“宣言”なのだろう。 映画史における将来的な評価よりも、今この瞬間に対する問題提起と怒りを示すことの重要性と必要性を、スパイク・リー監督は最優先にしたかったのだと思う。  差別意識の問題は、アメリカ社会に限らず、全世界の現代社会における最重要課題だ。 それは社会に蔓延しているよりも、私達人間の一人ひとりの内面に蔓延る病原菌のようなものだと感じる。 根本の解決策などその存在の有無すら懐疑的だけれど、これまでとは違うアプローチが必要なのは明らかだ。  そういう意味で、この確固たる「娯楽映画」が、エンターテイメントの中で表現してみせたことは、この先の時代に向けて意義深い。
[映画館(字幕)] 8点(2019-04-18 09:45:24)
16.  ファースト・マン
これは褒めているのだが、想像よりもずっと陰鬱で、地味な映画だった。 人類史に残る「偉業」と共存していた“心の傷”と“孤独”。光と闇を等しく抱えたまま、「偉大な一歩」を残した“最初の男”の人生そのものを、俯瞰するようなシビアな目線で、リアルに映し出していた。  「アポロ計画」を題材にした映画作品といえば、筆頭として挙げられるのは「アポロ13」だろう。絶望的なトラブル(=ミッション失敗)からの奇跡的な生還を描き、王道的な感動で世界を包み込んだ1995年の傑作は今尚色褪せない。 普通に考えれば、歴史的成功をおさめた「アポロ11号」を描いた今作は、「アポロ13」以上の“大感動”を与えてくれそうなものだ。 だがしかし、その安易な想定は全くの見当はずれだった。「失敗」を描いた「アポロ13」の華々しい達成感に対して、「成功」を描いた今作がこれほどまでに重く苦しい映画に仕上がっているとは。 その意外な後味が、何とも興味深かった。  ただ、よくよく考えれば、その苦々しい後味は至極当然のことだ。なぜなら今作は、デイミアン・チャゼル監督の映画なのだから。 「セッション」、「ラ・ラ・ランド」と立て続けに、映画的な熱量と、人間のほとばしる情念に溢れた作品を生み出し、一躍ハリウッドのトップに駆け上がったこの若き名匠が、ストレートに感動的な伝記映画など撮るわけがないのだ。 「人類史上初の月面着陸」という偉業を描くのではなく、ニール・アームストロングという現代の偉人の半生と、彼のインサイドを深く深く抉り出すようなアプローチにより、この映画は極めて繊細で、危うさを秘めた作品に仕上がっている。  一人の男を描いたストーリーテリングの中で刻み付けられたのは、明確な「死」と「喪失」の連続だった。 幼い娘を亡くし、志を共にした仲間を亡くし、ミッションに向き合い、緊張と恐怖が深まると共に、主人公は盲目的な使命感と際立つ孤独感に苛まれる。その様は、誰よりも勇敢ではあるが、何とも心もとなく見え、痛々しさすら感じる。 そんな彼の生き様を映画を通じて追想することで、50年前の偉大な冒険が、いかに危険で絶望的なものだったかを思い知った。  ラストシーン、地球に帰還した主人公ニール・アームストロングは、感染予防のため隔離された部屋のガラス越しに妻と再会する。 今生の別れを覚悟した夫婦の再会シーンなのだから、もっとわかりやすく感動的に描けたはずだが、ここも極めて抑えたトーンで描き出される。 それは、月に辿り着き帰還したことで、この二人が抱え続けてきた喪失感が、少しずつ埋まり始めたことを噛み締めているようにも見えるし、全く逆に、一度離れ始めた心と心はもはや簡単に重なり合うことは無いということを示しているようにも見える。(因みにこの夫妻は38年の結婚生活を経て離婚しているそうだ)  ふと思う。苦々しく、辛らつな後味の正体は、あまりに普遍的な或る夫婦の物語だったのではないかと。
[映画館(字幕)] 8点(2019-02-11 21:47:02)
17.  ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅
「ハリー・ポッター」シリーズは、全8作を“一応”鑑賞している。最終作「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2」は満を持して劇場で鑑賞したが、結局最後の最後まで乗り切れなかったというのが正直なところだ。 児童文学の映画化シリーズとして致し方ないし、むしろ真っ当なことなのかも知れないが、話運びや登場人物たちの言動に対して“子供向け”の範疇を超えたものを感じることが出来ず、シリーズを通じて成長した主人公がどんなに必死の形相で呪文を唱えても、滲み出る“お遊戯感”を受け入れることが出来なかったのだと思う。 ただし、この映画シリーズが、老若男女世界中の人々に愛され人気を博した映画史に残るシリーズであることは否定しようもないし、原作ファンでも無い者が否定する余地はないと思う。  そんな個人的なスタンスのため、このスピンオフ作品についても、それほど興味を持てぬまま続編となる最新作の公開を間近に控えた今の今までスルーする形になっていた。 本シリーズに通づる“お遊戯感”にプラスして、ファンタジックな生き物たちが登場するファミリー向け映画なのだろうと高を括っていた部分もあった。  が、しかし、実際に観てみたならば、いやいやどうして想像よりもずっと好きな映画だった。 珍妙な魔法生物たちが続々登場するファンタジックな映画であることは間違いないけれど、映画全体のテイストが決して子供だましなわけではなくて、“オトナの可愛らしさ”が随所に散りばめられた良いファンタジー映画だった。  思うに、「ハリー・ポッター」シリーズは、「子供」が主人公であることによる避けられない幼児性や稚拙さが、話運びのまどろっこしさに繋がっていたのではないかと思う。 しかし今作は、主人公のニュート・スキャマンダーをはじめ、登場人物たちはみな既に何かしらの人生の機微を味わっている「大人」たちだ。 大人ゆえのまどろっこしさも勿論あるが、そういう部分も含めて、彼らが織りなす人生模様が物語の奥ゆかしさとして表れている。 1920年代の古式ゆかしきニューヨークの物語舞台と魔法との相性も極めてよく、秀麗なビジュアルを見せてくれていると思う。  一転して、公開を控える最新作が俄然楽しみになってきた。 今作でサプライズ登場したジョニー・デップに加え、若きダンブルドア役にジュード・ロウ!パリ・ロンドンを舞台にした映像世界にハマらないわけがない。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-07-17 00:07:58)
18.  フリー・ファイヤー
“いかにも”な倉庫街で繰り広げられる悪しき交渉と、その「決裂」と同時に巻き起こる愚か者たちによる愚かな銃撃戦。 このあらゆるアクション映画で飽きるほど描かれてきた“ワンシーン”のようなシンプルなプロットただそれのみで、映画を構成する潔さと豪胆さは「良し」と思えた。  キャスティングも、アカデミー賞女優のブリー・ラーソンをはじめ、キリアン・マーフィ、アーミー・ハマー、シャールト・コプリーと、巧さと、華やかさと、クセの強さを併せ持った魅力的なスター俳優が顔を揃えており、イントロダクションのチープさに反して、“掘り出し物”を観られるんじゃないかという期待感は膨らんだ。 そして、製作総指揮にはマーティン・スコセッシの名が。そりゃあ一定の期待はしてしまう。  結果としては、決して観られなくはないが、アクション映画として面白いとは言い難いと言ったところ。 一流どころの演者を揃えているだけあって、一人ひとりのキャラクター性には興味をそそられる。 何かしらの思惑を孕んだクセのあるキャラクターたちが、徐々に本性を表しながら、愚かにも死屍累々を築いていくという作品の方向性自体は間違っていなかったと思う。 場面場面においては、ブラックユーモアやシュール性も併せ持ちつつ、ユニークなシーンを見せてくれたとも思う。  では何が悪かったのか。ずばり「脚本」だろう。基本的な話運びがあまりにも雑でチープすぎる。 何だか気の利いた台詞を言わそうとしていることは伝わってくるが、それらが尽く上手くないので、キャラクター全員がただただ“馬鹿”に見え、娯楽的なカタルシスがまるで生まれない。 必然的に、延々繰り広げられる馬鹿たちの撃ち合いにダレてしまった。  「レザボア・ドッグス」的な暴力描写と会話劇の妙を織り交ぜたストーリーテリングをしたかったのだろうけれど、遠く遠く及んでいない。 マーティン・スコセッシがどういうスタンスで「製作総指揮」に名を連ねているのか知らないが、これだけビッグネームを揃えられたのであれば、クエンティン・タランティーノにもお願いするべきだった。 まあ、タランティーノがこんな「二番煎じ」に参加するとは思わないけれど。
[CS・衛星(字幕)] 4点(2018-06-10 22:45:30)
19.  ブラックパンサー
争いを繰り返す愚かな世界の中で、一線を引いて「傍観者」であることは賢い選択であろうし、それが出来る国があったとしたならば、それはその国が真の意味で恵まれた強い国家であることの証だろう。 だけれども、憎しみが憎しみを呼ぶ負の連鎖が益々深まる「世界」に対して、背を向け続けることが、果たしていつまでも己の身を守ることになるのか。  若き王は苦闘し、決意する。  若く屈強な黒衣の王が、ソウル・ミュージックの重低音と共に、世界の中心で立ち上がる。 新たな英雄の誕生譚にまた高揚せずにはいられなかった。   言わずもがなマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の大ファンではあるが、「シビル・ウォー」で突然登場した“ブラックパンサー”の単独映画が製作されることを最初に知った時は、「さすがに地味過ぎるんじゃないか」と不安感を禁じ得なかった。 だがしかし、実際に公開初日に鑑賞に至ってみたならば、成る程この作品がこのタイミングで製作されることは様々な角度から意義深いものだったのだと思い知った。  現実世界のありとあらゆる場面で差別と格差は益々広がり、それに伴う諍いは深刻に泥沼化している。 ただしそれは、一概に弱者と強者のパワーバランスを均せばいいとか、どちらが搾取しどちらが搾取されていると安易に擁護したり否定できるものでもない。 マクロからミクロに至るまで、あらゆる関係性の中で、欲望や思惑や妬みや怒りが渦巻いている。  その現実を目の当たりにし、この世界の真理を垣間見たからこそ、若き王は苦悩したのだ。 与えられたその鋭い爪を向けるべき相手は何なのか? 彼が抱えた苦悩は、今この世界全体が抱え込む出口の見えない葛藤に他ならない。  自身の無知の裏側で生じていた哀しき怨念の権化と対峙し、一度は奈落の底へ落とされたものの、ついに打ち勝ち、彼は「国王」として「英雄」として進むべき路を見出す。 それは、「シビル・ウォー」において生じた“耐え難い対立”を孕んだまま「インフィニティ・ウォー」を迎えなければならない“アベンジャーズ”にとっても、必要不可欠なニューヒーローが生まれたことを意味する。  ファンとしては、ワカンダに滞在していたことは明らかである“キャップ”の登場が無かったことは残念だったけれど(バッキーかよ!)、そこは公開間近の三度の“大祭”に期待するとしよう。
[映画館(字幕)] 7点(2018-03-01 23:24:42)
20.  ブレードランナー ブラックアウト2022
「ブレードランナー2049」の公開に先立ててWeb公開された短編3作品の内の一作。 リドリー・スコットの息子ルーク・スコットが監督した他2本は、あくまでも本編に入り切らなかったシーンの補足といったところだったが、このアニメーション短編のクオリティと立ち位置は全く別物。 15分の短い尺の中で、日本人のアニメクリエイターが渾身の「ブレードランナー」を表現している。 本編でも重要なキーワードとして度々登場した「大停電」を描いた今作は、充分に一本の長編になり得るプロットとキャラクター設定を備えている。 この短編をパイロット版とした、長編アニメーション映画の製作を期待。
[インターネット(字幕)] 6点(2017-11-14 15:49:59)
0160.62%
1592.28%
2762.93%
31415.44%
41716.59%
52439.37%
637214.35%
752720.32%
852220.13%
929611.42%
101706.56%

全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS