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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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201.  レッド・スパロー
女優の肢体が艶やかに烈しく躍動し、映画世界の内外で見ている者を“虜”にする。 “ハニートラップ”を極めたスパイを描くにあたり、今のハリウッドで“彼女”以上に相応しい女優は思い浮かばない。 即ちこの映画は、“ジェニファー・ローレンス”という名の現在のハリウッドが誇る映画的芸術、映画的娯楽を堪能すべき一作だ。「辛抱たまらない」とはまさにこのことである。  「冷戦」の空気感が色濃く残る時代に暗躍する“女スパイ”を描いた映画というと、昨年(2017年)の「アトミック・ブロンド」の鮮烈が記憶に新しい。 シャーリーズ・セロンが圧倒的な女優力で主演を務めた「アトミック・ブロンド」と、今作はあらゆる面で類似している。しかし、その類似性と、だからこそ際立つ独自性が興味深く、両作はある意味「対」となる“女スパイ映画”だと思う。  シャーリーズ・セロンがぐうの音も出ないアクション性と美貌で、映画世界を「支配」したのに対し、今作のジェニファー・ローレンスも全く別の「支配力」で魅せる。  かの“大国”同士の水面下での血で血を洗う鬩ぎ合いの中では、「正義」という言葉は意味を成さない。その見紛うことなき“修羅場”を「女」という唯一無二の武器一つで越えていく。 彼女が進みゆく道には、浅はかなフェミニズムなど無論存在せず、人道的な道理すら存在しない。ただひたすらに、その与えられた武器のみで死屍累々を超えていくしか、彼女に許された道は無かった。 文字通り体を張り、文字通り丸裸にされる全く新しい女スパイ像を、ジェニファー・ローレンスがこれまた圧倒的な女優力で、“惜しみなく”魅せてくれる。  この1990年生まれのまだまだ若い女優が、トップ・オブ・トップになり得ているのは、その“惜しみなさ”故だ。 この女優は、常に自分がその時にし得る「表現」に対して、出し惜しみがない。 ありふれた言い方をするならば、それは女優としての「覚悟」が群を抜いているということだと思う。 若い女優ではあるが、既に彼女は、自分がいつまでもそのままではいられないということをよく理解している。 だからこそ、今この瞬間の「美貌」を最大限に活かし得るこの役に挑んだように思える。  ストーリーテリング的に踏み込みが浅い部分は確かにある。“ハニートラップ”という要素をもっと深掘りした心理戦の妙が、具体的にストーリー上に含まれていたなら、映画的な価値は更に高まっていただろう。 しかし、そんなマイナス要因など補って余りある「女優」という娯楽性によって満足感は揺るがない。   ただ、映画として非常に面白かった反面、もろに冷戦時の危機感を引き起こすかのごとく、東西の軋轢を描く意欲作が立て続いているあたりに、映画世界を越えて、現実世界から漂ってくる“きな臭さ”を禁じ得ない。 主人公の悪しき叔父さんの造形を完全に“某大統領”に寄せていたのには、背筋が凍った。
[映画館(字幕)] 8点(2018-04-18 23:00:52)
202.  お嬢さん(2016) 《ネタバレ》 
極めて「純粋」な映画だと思った。 人間の、ほとばしる欲望、溢れ出る性欲、入り乱れる情愛と憎悪、そして変態的嗜好。 この映画に登場する人間たちは、只々純粋に、自らの抑えきれない衝動に駆り立てられ、ひたすらに埋没していく。 その様は、あまりに利己的で醜い。だがしかし、同時にとてつもなく淫靡な美しさに溢れかえっていることも否定できない。 それは、この映画を観ているすべての人間たちに共通する本質であり、拭い去れない人間そのものの「業」なのだろう。 蜘蛛の糸のように映画全編に張り巡らされた“インモラル”が、絡みつき、徐々に、確実に、映画世界の奥底に引きずり込まれる。  映し出される映画世界は極めて異質。パク・チャヌク監督の容赦のない演出と、禍々しくも美しいビジュアルは、背徳感に溢れクラクラさせられる。 彼の監督作を観たのは、2003年の「オールド・ボーイ」以来だったので、芳醇な韓国映画界の中でも屈指の映画作家である彼の他の作品を今一度しっかり観なければならないと思う。  一方で、サスペンスとしてのストーリーそのものは、案外オーソドックスだったとは思う。 二転三転はするけれど、それが想定外の展開だったかと言うとそんなことはなく、驚きはあまりない。 ストーリーテリング自体も、良い意味でも悪い意味でも「寓話的」であり、リアリティラインが低い分、描き出される物事の烈しさの割には、キリキリとするような緊迫感はそれ程感じなかった。 むしろ、ある程度狙いだったのだと思うが、烈しく過剰過ぎる演出は、時にユーモラスにも映り、それもまた独特だったと思える。  明確な難点としては、韓国人俳優たちが時々発する“日本語”の精度が低かったことだ。 決して聞き取れなくはないけれど、キャラクターの設定上ネイティブレベルの日本語力があって然るべきだったので、その聞き取り辛さは、日本人鑑賞者としてどうしても“雑音”となってしまった。 もう少し適切な日本語指導の下で丁寧なトレーニングをしていれば、きっと解消出来ていた筈なので、その部分に関しては少々残念だ。  また濡れ場シーンでの雑なボカシも大いに気になった。大昔のアダルトビデオじゃあるまいし、もう少し何とかならないものか。 確固たる「芸術作品」に対する国内の規制の価値観は、もうそろそろ見直されるべきだと思う。   下劣な男たちは地下で朽ち果て、純粋なる欲望を貫き通した彼女たちは、そのまま世界の果てに突き進む。 ありとあらゆる意味で、体の奥底が熱くなる映画であることは否定しようもない。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2018-03-17 00:31:38)(良:1票)
203.  グレイテスト・ショーマン
サーカスが好きである。世界各国から集められた芸達者な精鋭たちが、あの限られた閉鎖的な空間の中で、無限にも感じるイメジネーションを繰り広げるエンターテイメント性は勿論、彼らが当然抱えているであろうパフォーマーとしての人生の機微や、決して綺麗事ばかりではないであろうショービジネス界の苦悩も含めて、圧倒される。  そんな“サーカスの祖”とも言える稀代の興行師の人生を軸に、“ショー”の中でしか生きる術が無かった者達の人生讃歌が、圧倒的な歌唱とダンスで映し出されていた。 ミュージカル映画好き、そしてサーカス好きとして、問答無用の高揚感に包み込まれたことは言うまでもない。  だがしかし、この映画のストーリーラインと語り口は、“空中ブランコ”のように極めて危うい。 その最たる要因は明確で、ヒュー・ジャックマン演じる主人公P・T・バーナムが、決して清廉潔白な品行正しい人間ではないからだ。 彼はあくまでも私利私欲のために(勿論、愛する家族を守るという大義名分はあるけれど)、いわゆる“フリークス(奇人)”を集め、笑いものにするための「見世物小屋」を始めたのだ。 その様をどんなに成功譚的に描き、“好人物”の世界屈指の代表格であるヒュー・ジャックマンが演じようとも、この主人公に対して非倫理観や不道徳性を感じてしまうことは否めない。  無論、そんなことはこの映画の製作陣は充分に理解している。理解した上で、それでも敢えて短絡的に思える語り口を貫き、ただただシンプルに主人公をはじめとするショーの中で生きる者達の生き様を歌い上げている。 この映画が素晴らしいのは、まさにその映画として潔い「態度」だ。 ほんの少し演出のバランスが悪かったり、別のキャスティングだったならば、主人公は勿論、他の登場人物たちの言動も決して受け入れられず、非難の的となっていたことだろう。  フリークス達は、「綺麗事」ばかりを振りかざして生きていくことなどできないこの世界の闇の深さを、他の誰よりも知っている。 倫理に反しようが、不道徳だろうが、そんなもの知ったこっちゃない。 誰に笑われ、誰に罵られようとも、「生きていく」という覚悟の上に、彼らの歌声は響き渡る。  ミュージカルシーンの華やかさと力強さは紛れもなく素晴らしい。ただそれによる娯楽性が、ストレートな多幸感には直結しない。終始一貫して、薄くへばりつくような居心地の悪さを感じる。それは即ち、この現実世界にはびこる居心地の悪さそのものなのだろう。 その映画としての試みが完全に成功しているとまでは言わないが、このミュージカル映画の目指した「表現」と「着地点」は、圧倒的に正しいと思える。  演者としては、ゼンデイヤ嬢が「ホームカミング」に続いて魅力的だった。彼女の溢れ出る魅惑的な異端性は、女優として今後益々唯一無二のものとなっていくだろう。 蛇足だが、ミシェル・ウィリアムズとレベッカ・ファーガソンに挟まれては、流石のヒュー・ジャックマンも辛かろうな。
[映画館(字幕)] 8点(2018-03-15 08:04:21)(良:2票)
204.  パーティで女の子に話しかけるには
もっと若い頃にこの映画が公開されていたなら、人生の何かしらを変えられてしまったかもしれない。 この作品は、そういう類いの映画だ。  勿論、年齢に関係なく、“ボーイ・ミーツ・ガール”の新たな傑作として溢れるエモーションを堪能できる映画だと思う。 ただ、この映画世界の中で、儚くも美しい短い時間を過ごす登場人物たちと歳感覚が近ければ近いほど、そのエモーションは殊更に特別なものとなり、燦然と記憶に刻まれるのではないかと思えてならない。  僕自身は、決して音楽そのものに明るくなく、当然ながら「パンク」なんて概念にも傾倒があるわけではないけれど、それでもこの映画の中の若者たちが、その“表現方法”を通じて自らのアイデンティティを確立させようとする思いはよく理解できる。 そして、性別も、種族も、環境も、常識も、文化も、死生観すらも超えて、心から愛した人と奇跡的な「共鳴」を果たしたことによるほとばしる「恍惚」が、スクリーンから溢れ出んばかりの“光”と“音”で脳に直接突き刺さる。 それはまさに、「映画」というありとあらゆる表現が入り混じった「不完全な性行為」による“オーガズム”の瞬間だった。  あらゆる意味で、“変わった映画”であることは間違いない。極めて倒錯的だし、不完全で歪だ。 しかし、それは、まだ「何者」でもない少年と少女の純粋な混濁を描き出す上で、真っ当な映画の在り方だったと思う。 そういった「言葉」のみでは到底表しきれない彼らの姿を映し出したジョン・キャメロン・ミッチェル監督の才気に感服する。  そして、主人公の二人を演じたエル・ファニング、アレックス・シャープの若い俳優たちが本当に素晴らしい。 若い二人が出会い、瞬間的に恋に落ち、束の間の逢瀬に戯れる。 その様は、エル・ファニング演じるザンの台詞の通り、美しくもカラフルでもないけれど、あまりにも愛おしい。  脇を固めるニコール・キッドマンがかつてないエキセントリックなキャラクターで存在感を放ちサイコーすぎる件など、随所で様々な味わいと快感に満ちた作品でもある。 繰り返しになるが、今この映画を“大人”になる前に観ることができ、その「快感」を初体験できる若者たちがとても羨ましい。  というわけで、今年アラフォーに突入したばかりの36歳には、映し出される世界観が美しく眩い程に、ある意味つらい映画だった。 何と言っても、エル・ファニングが文字通りに“宇宙レベル”で可愛くてつらい。 宇宙広しと言えども、キスの最中にゲロを吐かれて許せちゃうのは、エル・ファニングくらいではなかろうか。と、思う。
[映画館(字幕)] 8点(2017-12-13 08:01:23)(良:2票)
205.  ジャスティス・リーグ(2017)
「王道」というベタで愚直な「大正義」。 この映画には、「アメコミ」という文化そのものを創り上げたDCコミックスの「意地」が貫かれている。 アメコミヒーローの「元祖」たちが、“チーム”となり、悪を叩く。ただそれだけ。はっきり言って、それ以外のことは何も描かれない。 むしろ、「アメコミ映画においてコレ以上に何が要るんだ?」と、分かったように安直な批判を浴びせようとする輩を蹴散らさんばかりに問うてくる。  結集するヒーローたちは、存在そのものにおいて、“綻び”だらけである。 中年のバットマンは色んな意味で満身創痍で老体に鞭打ちやっとこさ超人たちを率いる。ルーキーのフラッシュは自称“逃げ足が速いだけ”の青二才。隠れ王族のアクアマンは酒飲みの無頼漢。悩めるサイボーグは制御不能の人間デジタルデバイス。美しきワンダーウーマンは只々格好良すぎる豪腕姐さん。そして、「鋼鉄の男」はあまりに“寝起き”が悪すぎる。  彼らの佇まいは、揃いも揃ってバタ臭くて、現代的ではない。 ただし、言わずもがなその綻びや時代錯誤感を含めて、このヒーローたちを愛さずにはいられない。 詰まるところ、このDCコミックスが誇るヒーローたちを一つの画面の中で揃い踏みさせ、愛すべき「チーム感」を成立させた時点で、このエンターテイメント映画の価値は揺るがないと思える。  この映画世界を撮り上げたザック・スナイダーがプライベートの不幸により途中降板を余儀なくされ、その後を“ライバル”である「アベンジャーズ」を成功させたジョス・ウェドンが引き継いだことは、幸運だったと言える。 恐らくは膨大な物量だったであろうザック・スナイダーによる“撮れ高”を、ジョス・ウェドンは流石の手際の良さで纏め上げたと思う。この職人監督が大幅なカットを含めて最終的な仕上げをしたからこそ、この映画は単純明快で王道的なアメコミ映画として成立しているのだと思う。 一方で、ストーリーテリングが唐突で散文的になっていることは否めない。一説によると編集により60分近くもカットされたと言うから当然といえば当然だろう。 その編集力があったからこそ相応しいテンポ感も生まれたのだろうから決して否定は出来ない。 またその唐突さも、“アメコミ”が元来持つ味わいと言えなくはない。限られたページ数、コマ数の中で描き出されるヒーローたちの大活躍を、行間もとい“コマ間”の読み取りも含めて楽しむことがアメコミの醍醐味と言えよう。 即ち、ヒーローたちのバックグラウンドや、チーム感を構築するに至る細かいプロセスを、与えられたピースから“想像”で繋ぎ合わせていくことは、この映画において楽しむべき要素なのだと思う。  けれど、結果論として、この“チーム”に対して絶大なる愛着が生まれた今となっては、ザック・スナイダーによる「全長版」も是非観てみたいものだ。   様々な紆余曲折はあったろうが、結果として、この映画の存在感は圧倒的に“強い”。 綻びも、雑多さも、唐突さも、自虐的な自己批評性も、ブラックユーモアも、そして、力強い“決め画”による絶大な高揚感も、すべてが「アメコミ」という文化そのものの「映画化」であることを堂々と貫き通したことの証明だと思う。 映画としての「完成度」が高いとは到底言えない。けれど、そういう類型的な価値観を越えて、満足させる存在感の強さ。 それこそが、アメコミ文化の祖としてDCエクステンデッド・ユニバースが導き出した誇り高き「娯楽性」なのだろう。それは、“MCU”には無いものだ。  惜しむらくは、エンドロール後のお決まりのシークエンス。 ジェシー・アイゼンバーグ版レックス・ルーサーの再登場は嬉しい限りだったが、彼が邂逅する相手があの“マッドピエロカップル”だったなら、鑑賞後のテンションは問答無用に更に振り切っていたことだろう。
[3D(字幕)] 8点(2017-11-29 23:35:57)
206.  マイティ・ソー/バトルロイヤル
詰まるところ、「マイティ・ソー」シリーズは、神々たちの壮大な「家庭崩壊劇」だったわけで。 ただ、古今東西、「神話」と名がつくものは、大概、親子同士だったり、兄弟同士だったりの諍いを表したものが大半である。そういう意味でこのシリーズのストーリーラインは、ベタと言えばベタに違いないが、まさしく王道的だったと言えよう。 そして、どんなにベタでありきたりな話運びであったとしても、この最新作くらい「馬鹿」に振り切ってくれれば、否が応でも楽しめるというもの。  もはや大フランチャイズと化したマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の作品群の中においても、この「マイティ・ソー」シリーズは最初から「異質」だった。 その理由は明らかだ。主人公が「神」であることに他ならない。 “ソー”という圧倒的に異次元の存在感を放つスーパーヒーローのキャラクター性が、アイアンマン、キャプテン・アメリカらその他の“地球在住”ヒーローとは、元来一線を画している。 逆に言えば、この特異なヒーローの立ち位置をしっかりと確立し、“アベンジャーズ”の一員としてすんなりとまかり通したことが、MCU全体の大成功の大きな要因の一つであることは間違いない。  そういう意味では、決して輝かしいヒット作となったわけではなかったけれど、ケネス・ブラナーが監督したシリーズ第一作が残した功績は実は大きいと、今となっては確信する。 前述の通り、主人公のキャラクター性の異質さを踏まえると、そもそもリスキーな企画であったことは容易に想像できる。 にも関わらず、ヒロイン役にアカデミー賞を獲ったばかりのナタリー・ポートマンを呼び寄せ、アンソニー・ホプキンス、レネ・ルッソら大御所をキャスティング出来たことは、映画人ケネス・ブラナーの人脈の確かさが大いに影響しているに違いない。 そして、今やれっきとしたハリウッドスターとして輝きを放っている主演のクリス・ヘムズワース、更にはその弟役として“兄”以上の成功を遂げたと言っていいトム・ヒドルストンを抜擢したことこそが、第一作「マイティ・ソー」の最大の功績だろう。 (勿論、日本人映画ファンとしては、日本人俳優唯一のMCU参戦となっている浅野忠信のキャスティングも嬉しかった)   シリーズとしては「最終作」と銘打たれているこの第三弾は、前二作とは完全にテイストを違えた最新作として仕上がっている。 前二作は、神々たちの戦いという神話的な世界観が先行するあまり、良く言えば厳かだが、悪く言えば古臭くて鈍重な雰囲気が、今ひとつ乗り切れない要因だったとも言える。 しかし、テイストが刷新された今作では、神々たちの戦いにおける文字通りの神々しさを際立たさせつつも、もはやしっかりと周知された主人公の“脳筋キャラ”を全面に押し出した愛すべき馬鹿っぷりが、そのまま愛すべき映画世界を構築している。 その指揮官に、殆ど目立った監督実績のないタイカ・ワイティティなる人物を大抜擢しちゃうMCUの豪胆さと先見の明の確かさには、毎度のことながら感服する。  “ゲストスター”として降臨したハルクは、問答無用にエンターテイメント性を高めてくれている。ハルクの暴れっぷりに“トラウマ”で顔面蒼白となるロキの様なんてMCUファンとしては最高である。 ソーと「別れた」らしいナタリー・ポートマンのヒロイン降板は残念に思うが、そのかわりに女王・ケイト・ブランシェットを“最凶の姉”として召喚するとは、まったくもってあまりに抜け目がない。   華々しい馬鹿馬鹿しさと神々しさに満ち溢れた映画世界ではあるが、最終的に紡がれたストーリーは実は極めて暗く重い。 偉大な親父は最後の最後で闇の遺産を残して死に、骨肉の争いの果てに、母星は木っ端微塵に消え去る。 ヒーロー自身、髪の毛と片目を失う。 だがしかし、その救いの無い顛末を「何とかなるさ」とニカッと笑ってやり過ごし、流浪する“脳筋ヒーロー”。 あらゆる意味で「異質」なヒーローに対する愛着が益々深まるシリーズ最終作だった。
[映画館(字幕)] 8点(2017-11-23 17:46:35)(良:1票)
207.  アシュラ(2016)
冒頭の主人公自身のモノローグにもあるように、この映画の主人公は、権力者に尻尾を振る「犬」だ。 主人公だけではない、登場する主要人物の全員が、欲望と狂気に塗れた「犬畜生」だ。 何のためらいもなく全ての人間が私利私欲を追い求め、薄汚れた街、血塗られた人間関係の中で、凄惨な“サバイバル”を繰り広げる。 骨太の韓国映画らしく、その描き出し方に、躊躇や遠慮はまったくない。 だからこそ、胸糞悪い描写の連続でカタルシスなど生まれるわけもないはずなのに、最終的には妙な清々しさすら覚えた。  架空の都市アンナム市を舞台にして、汚職刑事、悪徳市長、傲慢検事らが欲望の渦の中で入り乱れ、文字通り阿鼻叫喚の地獄絵図を作り上げる。 その血みどろの人間模様を表現している韓国映画の俳優たちが、相も変わらず、みな「素晴らしい」の一言に尽きる。 架空都市を舞台にしていることからも明らかなように、今作は決して現実世界に対してリアルな映画世界を追求しているわけではない。 だがしかし、そこで息づく人間たちの有様は実在感に溢れ、あまりに生々しい。 彼らが辿り着く“阿鼻叫喚”は、明らかにフィクショナルなはずなのに、我々が巣食うこの世界と地続きであると感じさせ、殊更に背筋が凍る。  見事な韓国人俳優たちの中でも特に圧倒的だったのは、「映画史上最凶の“市長”」と言って過言ではない悪徳市長・パク・ソンベを演じたファン・ジョンミン。個人的には、2013年の韓国ノワールの傑作「新しき世界」でのチョン・チョン役も記憶に新しい。この実力派俳優の映画全体における「支配力」があったからこそ、この映画は特別なものになり得ていると思う。全く見事だった。   また中盤における、まさしく「縦横無尽」のカメラワークを見せるカーチェイスシーンをはじめ、随所に挟み込まれるアクションシーンもすべてがハイクオリティーでフレッシュ。 改めて韓国映画の芳醇さを感じずにはいられなかった。  バイオレンス映画としての高い娯楽性を携えつつ、味わいの深さと絶妙な軽妙さをも併せ持つ佇まいは、マーティン・スコセッシの映画世界をも彷彿とさせる。 御大本人によるリメイクも十分あり得るんじゃなかろうか。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-11-20 17:05:45)
208.  ノクターナル・アニマルズ 《ネタバレ》 
エイミー・アダムスの美しいグリーンの瞳になにか不吉な予感がよぎる。 あのラストカットが暗示したものは何だったのだろうか。鑑賞から数日が経つが、明確な結論が出ない。  鑑賞直後は、待ち合わせ場所に現れないことが、主人公に対する元夫の復讐の終着点なのだろうと思った。 紛うことなき深い愛ゆえに生まれた深淵な復讐心を「小説」という形で具現化した上で、本当に愛すべき人を失うという残酷を改めて彼女に知らしめることで、元夫は復讐を果たしたのだと。  ただ、段々と、別の真相が見え隠れしてきた。  そもそも、富と名声を得ながらも満たされない鬱々とした日々を送る主人公が居て、彼女がたまたま昔のことを思い返していたタイミングで、都合よく元夫から出版前の小説が届くなんてことが、あり得るだろうか。 また、夫婦関係だったといっても、20年前の学生時分の頃である。 確かに、深くて重い“裏切り”はあったけれど、20年にも渡って執拗に憎愛を抱き続けるだろうか。そして、わざわざその思いを小説に書き連ねて、相手に送りつけるなんてことをするだろうか。 確かにジェイク・ギレンホール演じる元夫は、耐え難い裏切りを受けたけれど、彼がそれ程まで怨みに執着する人間には見えなかったし、客観的に見れば、彼らの夫婦関係崩壊のあらましは普遍的なことであり、「よくあること」と言ってしまえばそれまででもある。  元夫が「小説」を送ってきたということ自体が、不自然に思えてならなくなってきた。 では、あの「小説」は何なのか?誰が生み出し、誰が送ってきたものなのか?  「小説」は確かに送られてきた。 ただしそれは、主人公が自らに宛てて送りつけたものだったのではないだろうか。 そう考えると、劇中劇で描かれる「小説」の内容もより一層理解が深まる。 妻子を殺された男の復讐劇ではなく、男から妻子を奪った自分自身に対しての懺悔の物語だったのだ。  「罰を受けずに逃すものか」  「小説」の中で主人公の男はそう言い放ち、妻子を殺害した犯人を追い詰める。 その台詞は、堕胎し、不倫し、男の元を去った自らに対する「自戒」だったのだと思う。  自らの中で生まれた生命を打ち消した後悔と、何も生み出せない自分への苦悩、それらが入り交じった自らに対する憎しみが20年という年月の中で膨らみ、形となったものが、あの「小説」だったのではないか。   とはいえ、明確な答えなどはないし、つくり手としても唯一つの答えを導き出してほしいわけではないだろう。 単純に、元夫にすっぽかされただけかもしれないし、巨漢の半裸女たちが踊り戯れるあの“悪夢”のような展覧会からその先すべてが、主人公の妄想なのかもしれない。  ただ一つ言い切れることは、夜行動物(ノクターナル・アニマルズ)は、これからも眠れぬ夜を迎え続けるだろうということだ。
[映画館(字幕)] 8点(2017-11-16 08:06:05)(良:2票)
209.  ブレードランナー 2049
「切ない」なんて一言では言い表せないくらいに、切ない。 ただこの切なさこそが、伝説的前作から引き継がれたこの映画世界が持つ根幹的な“テーマ”そのものであろう。 それは即ち、すべての「生命体」が持つジレンマであり、前作で、強力なレプリカントの“ロイ”が最期まで抱え続けた苦悩だ。  「我々は 何のために生まれ どこから来て どこへ向かうのか」  レプリカントたちの苦悩と葛藤は続く。 きっと、彼らが「生命」として存在した瞬間から、そのた闘いに終わりはない。 そう、まさしく人間と同様に。   世界中の映画ファンからある種カルト的な「偏愛」を博している前作に対してのこの「続編」のハードルは極めて高かったろう。 監督を担ったドゥニ・ヴィルヌーブ自身が漏らしたように、ある意味常軌を逸した企画であり、一歩間違えば「誰得」な映画になってしまうことは容易に想像できる。 それでもこの続編に挑み、確固たる価値を持ったSF映画として仕上げてみせたドゥニ・ヴィルヌーブ監督をはじめとする製作陣を先ず賞賛したい。  今作を「リブート」ではなく、「続編」として、30年余りのリアルな時間を経て繋ぎとめたことの価値は大きいと思う。 前作から通ずるテーマ性を確実に引き継ぎつつ、映画世界の内外で幾つもの時代を越えてきたからこそ生じる新たな価値観と葛藤を加味し、今この時代に語られるに相応しい「ブレードランナー」の世界観を構築してみせている。   この映画は、ライアン・ゴズリング演じるレプリカント「K」の物語である。 「K」は、まさしく我々現代人を象徴する存在として描き出されている。 彼の存在性のすべてから醸し出されれる哀しさ、弱さ、脆さ、無様さ、そして苦悩と葛藤は、今この世界を生きる現代人に通じ、非常に身につまされる。 だからこそ、彼が辿る切なすぎる旅路が、あまりにもダイレクトに我々の感情に突き刺さるのだろう。  そういう観点を重要視するならば、前作に引き続きハリソン・フォードが演じるデッカードの登場と一連のシーンは、「続編」だからとはいえ、必ずしもあそこまで必要ではなかったのではないかと思える。 往年のカルトファンに限らず、デッカードの登場は、多くの映画ファンを熱くさせる要素ではあったけれど、彼の登場シーンがサービス精神旺盛に展開される程に、主人公である「K」の物語がぼやけてしまったようにも感じた。  勿論、今作のストーリーテリング上、前作のラスト以降のデッカードの物語を辿ることは必要不可欠なわけだけれど、御大ハリソン・フォードにクライマックスの展開であんなに出張られては、「K」の立場が益々ぞんざいに追いやれているように見え、「そりゃないだろう」と思えてしまう。 まあそういう“やるせなさ”も含めて、この映画の「切なさ」に繋がっているといえば、確かにそうなんろうけれど……。  個人的には、「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」におけるルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)よろしく、最後の最後に1シーンだけデッカードが登場して「彼女」との邂逅を果たすくらいのバランスの方が、更にエモーショナルに今作が伝えるべき物語性を表せたのではないかと思う。   「生命」として存在した以上、誰もが己の「存在価値」を追い求める。 ミミズだってオケラだってアメンボだって、人間だって、レプリカントだって、その「価値」と「意味」を求める旅路の本質は変わらない。 “或る役割”を果たし、降りしきる雪のもとで静かに「生命」を終えようとするレプリカントの心に、ほんの少しでも“温もり”が生じしていたことを願ってやまない。
[映画館(字幕)] 8点(2017-11-05 00:23:16)
210.  エイリアン:コヴェナント 《ネタバレ》 
創造主によって創られた人類が、新たな創造主となりアンドロイドを創った。 優秀なアンドロイドは、創造主に対して屈折した憧れと自らの存在に対するジレンマをこじらせる。 アンドロイドは、ある意味“対”の存在とも言える「生命体」と邂逅したことで、抱え続けてきたジレンマを解き放ち、彼もまた創造主になろうとする。 それは、見紛うことなき創造主に対する“レイプ”。 ああ、なんて禍々しい。   前作「プロメテウス」は、「エイリアン」の前日譚というイントロダクションを単純に捉えすぎた観客の多くが、その想定外の“語り口”に対して面食らった。 “エイリアン”という映画史上屈指のモンスターを“アイコン”として崇拝する者ほど、「こんなのはエイリアンじゃない!」と落胆したようだ。 個人的には、「エイリアン」シリーズに対してそれ程愛着があるわけではないけれど、それでも「プロメテウス」が紡いだストーリーテリングに困惑したことは否定できない。 SF映画として、決して面白くなかったわけではなかったけれど、粗の目立つストーリー構造にテーマに対する詰めの弱さと脆さを感じ、つくり手が描き出したかったことを掴みきれていない“消化不良”感を不快に感じた一作だった。  そして5年の年月を経て放たれたこの“前日譚第二弾”は、御年79歳のリドリー・スコット監督の趣向が、概ね良い方向に押し出された最新作として仕上がっていると思う。 執拗に引用される聖書や各種古典からのセンテンスや思想、科学的空想を踏まえた哲学性は、この大巨匠が過去のフィルモグラフィーの中で繰り返し語りつけ、映し出してきたことと尽く重なる。 自身の過去作で描き続けてきた事のある種の“焼き直し”に対して、ためらいもなければ、てらいもない。 そこに存在するのは、リドリー・スコットだからこそ許されるクリエイターとしての矜持と確信だ。   愛を知り、絶望を知ったアンドロイドは、凶暴無垢な胎児を引き連れ宇宙の果てに向かう。 果たして、“王”を気取ったアンドロイドが辿り着く姿は、神か、悪魔か。  僕たちは、大巨匠の赴くままの旅路をただ見届けるだけだ。戦々恐々と。
[映画館(字幕)] 8点(2017-10-20 23:44:22)(良:1票)
211.  アウトレイジ 最終章
「全員悪人」と銘打たれた第一作目から7年。渾身の最終章。  許されざる者たちの鬩ぎ合いの様は、恐ろしさを遥かに通り過ぎ、愚かさを通り過ぎ、滑稽さをも通り過ぎ、もはや「悲哀」に溢れている。 どんなに息巻き、意地と欲望渦巻く勢力争いを繰り広げたとて、彼らが辿り着く先はただ一つ。 生きるも地獄、死ぬも地獄。そんな真理を知ってか知らずか、この映画に登場する悪人たちの眼には、諦観にも似た虚無感が漂っていた。  この映画で描き出される“outrage=暴虐”の世界に生きるすべての人間たちが、自らの生き方に疲弊しきっているように見える。 血管を浮かび上がらせ、怒号と暴力を浴びせつつも、同時に「何故こんなことになったのか?」と己の生き様自体に疑問と虚しさを抱えているようだった。  故に、今作は、前二作と比較すると明らかに地味で、枯れているように見えるだろう。 当然である。描かれるキャラクターたちの血気そのものが薄まり、あらゆる意味で衰退の一途を辿っているのだから。 しかしそれは、前二作と比べて今作の映画的魅力が落ち込んでいるということでは決して無い。 娯楽映画としての分かりやすい迫力は抑えられているが、その分、前二作を礎にした映画作品としての芳醇さに満ちている。  前二作のハードな暴虐性が反動となり、この「最終章」のある種静的な境地へと辿り着いている。 そこに見えたものは、「動」と「静」。別の言い方をするならば、「フリ」と「オチ」。 それはまさに北野武という映画監督の真髄であり、芸人、役者、監督、あらゆる意味での「表現者」としての矜持だと思えた。   シリーズ三作通じて共通することだが、「悪人」としての“雁首”揃えられたキャスト陣は皆素晴らしい。 特に今作においては、塩見三省が凄まじかった。実際に重病を患い、その後遺症が残る中での迫真の存在感。 前作で見せた方幅の広い関西ヤクザの恐ろし過ぎる迫力は消え去り、かわりにフィクションの境界を超えて人生そのものを焼き付けるような老ヤクザの気迫が凄い。 痩せ細り、足が不自由な様子で、呂律も回っていない。それは、前作の風貌と比較すると非常にショッキングな変貌だった。 しかし、以前実際のヤクザ組織の実態を追った或るドキュメンタリーを観たことがあるが、ああいう老いさらばえたヤクザは現実に沢山いる。 時代が変わり、社会が変わり、ヤクザなんて生き方がまかり通らなくなった昨今においては、塩見三省が演じた老ヤクザの醸し出す雰囲気こそが、むしろ限りなくリアルに近いのではないかと思う。   繰り返しになるが、「アウトレイジ」シリーズは、北野武による壮大な「フリ」と「オチ」だったのだと思う。 椎名桔平が演じた格好良い武闘派ヤクザや、加瀬亮が演じた分かりやすいインテリヤクザの描写は、“非現実的”だった。だからこそ「フリ」として、ジャンル映画の娯楽性の中で派手に殺される。 一方で、西田敏行や塩見三省が演じた知略と謀略の限りを尽くす無様で姑息な老ヤクザの描写は、“現実的”だった。彼らがヤクザとして最後まで醜くしがみつき、生き残る様こそが、北野武が用意した「オチ」だったのだろう。   映画は、食べさせる相手がもういない“釣り”の哀しさを映し出して終幕する。 全編通して、「これぞ北野武の映画」だと痛感する見事な一作だ。
[映画館(邦画)] 8点(2017-10-18 16:00:23)(良:2票)
212.  ザ・コンサルタント
オモテとウラの世界に通じる“天才会計士”、その正体は、元軍人の“凄腕の殺し屋”で、実は“高機能自閉症”の男。 いわゆる“ジャンル映画”だとはいえ、あまりにも強引で荒唐無稽なキャラクター設定過ぎるのではないかと所感を抱いたことは否めない。  そしてそれを演じるのはベン・アフレック。  多くの映画ファンにとって、このハリウッドスターが“信頼”に足る「映画人」であることは、もはや周知の事実ではあるが、それでも尚、得体の知れない危うさというか不安定さみたいなものを感じてしまうことも、この人の「特性」である。 果たしてこの奇抜で“盛り過ぎ”なキャラクターをどう演じているのか、一抹の不安は確実に存在していた。  結論としては、「ごめんなさい」と、この主演俳優に対する謝罪の一言に尽きる。 この映画を評する観点は多岐に渡るだろうが、先ずは何よりも、主演俳優の“ハマり具合”が圧倒的な娯楽性を生み出しているということを挙げるべきだろう。 過去最高のベン・アフレック。やはりこの映画人は、不屈であり、信頼に足る。改めてそう思う。   「自閉症」という、極めてナイーブなバランス感覚を要求される要素を、ジャンル映画の主人公に加味したことは、とても挑戦的で、有意義で、価値のある独創性を生んでいる。 その描かれ方について多大な反感も生んでしまったようだが、個人的には、この映画における主人公と自閉症の関係性の描き方に対して、決して的が外れているとは思わなかった。  高機能自閉症という障害を抱えた主人公の男が一種の“ヒーロー”として活躍することと、彼が歩んだ(歩まされた)人生を美化することは、イコールで繋がってはない。 数多の価値観の中から選び取られた「選択肢」の一つとして、主人公の男は人生を歩み、結果として「普通」ではない人物造形に至ったということであり、結論としてその是非を明確にしているわけではないと思う。  むしろ、この想定外にヘンテコリンな娯楽映画が導き出そうとすることは、まさしくそういう一般的な価値観からの脱却だったのではないかと思う。  圧倒的に「普通」じゃない主人公キャラクターを造形し尽くし、その「特性」にバッチリと適合するスター俳優を当てはめ具現化することで、そもそも「普通」とは何なのかということを我々に問う。  これほどまでに普通じゃないことのオンパレードの中においては、「自閉症」などありふれた一つの「個性」だと捉えざるを得なくなってくる。 その個性を、普通じゃないものとして、一般的な価値観の中の既定路線に縛り付けることが、果たして正しいのかどうか。  現代社会においては「68人に一人が自閉症である」とも伝えられる。  繰り返すが、主人公の選択した(選択された)人生が正しかったとは言わない。闇の世界に身を落としている以上、人間らしく幸福な人生を歩んでいるとはとても言えないだろう。 しかし、そんな彼によって救われたものがあることも絶対的な事実。 であるならば、誰もそれを否定することは出来ない。  「ため息だわ」という台詞が口癖の“謎のエージェント”の正体も含め、この娯楽映画の顛末が伝えることの意味と意義は、ジャンルを超えた非常に興味深いテーマと奥行きを醸し出している。 当然、続編希望。なんならベン・アフレックが自ら監督したっていいんじゃない?
[インターネット(字幕)] 8点(2017-09-10 00:56:18)
213.  ベイビー・ドライバー
無垢な暴走の果てに“BABY”が辿り着いた場所は、天国か地獄か。 この映画は、純真故に「犯罪」という名の道なき道を走らざるを得なかった男の「贖罪」の物語である。  主人公は少年のような風貌の若き“getaway driver(逃し屋)”。 子供の頃の事故により始終耳鳴りが鳴り止まない彼は、音楽でそれを掻き消した時のみ天才ドライバーに変貌する。 彼の聴く音楽が全編に渡って映画世界を彩り、すべての音という音が音楽に支配される。 エンジン音も、銃声も、怒号ですらも、彼が聴く音楽に合わせて“ビート”を刻む。  ビートに彩られた痛快なアクションの連続によって、当然ながら観客は最高の高揚感に包まれる。 エドガー・ライト監督による問答無用にエキサイティングで、ハイテンションな映画を堪能している、ように確かに感じる。 監督の過去作、「ショーン・オブ・ザ・デッド」や「ホット・ファズ」のように、彼の“映画愛”によって、エキサイティングなコメディが益々加速して、多幸感溢れるエンターテイメントへ昇華されるのだろう。と、高を括っていた。  しかし、そうではなかった。先に記した通り、「贖罪」というテーマを孕んだこの映画は、幸福なストーリーラインを許さず、主人公をじわじわと確実に「地獄」へと引き込んでいく。  それは、今作の最大の見どころであったはずの主人公によるドライビングシーンの変遷からも明らかだ。 主人公“BABY”による天才的ドライビング技術のハイライトは、実は冒頭の一番最初のシーンに集約されてしまっている。 その後の逃走シーンは常に何かしらの“障害”が発生し、彼の“見せ場”とそれに伴う“高揚感”はどんどん削ぎ落とされていく。 ついには車からもはじき出されて自らの足で無様に逃走する始末。  ハイセンスな娯楽性に彩られていたように見えた映画世界が、凄惨な暴力と血によって塗り固められていく。 そうして、通り名の通りに“BABY”だった主人公は、ようやく自分自身が辿ってきた道程の「罪」に気付き、対峙する。 ついに、逃げ道も、後戻りも出来ないことを理解し、“耳鳴り”を塞いできた音楽を止める。 そう、幼き頃に「傷」を負った彼にとって、音楽を聴くということこそが、“getaway driver”としての生き方そのものだったのだ。  想定していた映画世界とは随分と異なり、想像以上にエドガー・ライトという監督のこれまで見せてこなかったタイプの「野心」に溢れた作品だったと思う。 ただし、やはりこの監督ならではの“映画愛”は溢れかえっている。主人公も、ヒロインも、悪役も脇役も端役ですら、気がつけばみんな愛おしく感じる。  SONYの映画なのに、iPodを愛用し使い倒すその心意気や良し!
[映画館(字幕)] 8点(2017-08-23 23:59:26)
214.  スパイダーマン:ホームカミング
新しいスパイダーマン=MCU+学園モノ! 今作は、アベンジャーズの世界観に降り立った“15歳”の“新スパイディ”の立ち位置を、絶妙なバランス感覚で成立させている。 三度リブートされた新スパイディは、過去2シリーズのどのスパイディよりも若く、故に最も未成熟だ。 「ハイティーン」と言うよりも、きっぱりと「子供」と言ってしまっていいだろう。 だからこそ、軽快で、楽しい。  アイアンマンとキャプテンによる悲壮な“殴り合い”の裏側で、一人の少年が喜々として“見習いヒーロー”としての活躍を繰り広げていく様は、問答無用に楽しく、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)のストーリーラインの「本流」対して、一服の清涼剤ともなる魅力的な「支流」を見事に生み出してみせたと言える。   この映画は、愉快な学園コメディであり、二つの疑似父子の関係性を通じて成長する少年の青春映画でもある。 父親がいない15歳のピーター・パーカー(スパイダーマン)にとって、全く相反する二人の大人、トニー・スターク(アイアンマン)とエイドリアン・トゥームス(バルチャー)の存在は、それぞれ異なる「父像」の投影だと言えるだろう。 それぞれの「父」と対峙し、反発し、学ぶことで、少年は大人への階段を一つ上がる。 最後の最後で傲慢な大人たちの思惑を超えて、小憎らしいくらいに「成長」して歩んでいく若きヒーローの姿がとても小気味いい。  個人的には、2000年代以降の2つのスパイダーマンシリーズ(サム・ライミ版&マーク・ウェブ版)には、それぞれ愛着を持っていた。 特にマーク・ウェブ版の第二弾「アメイジング・スパイダーマン2」は、ヒーロー映画としてはあまりに衝撃的なラストの顛末も含めて、アメコミヒーロー映画の一つの“エポックメイキング”とも言える傑作だと思っている。 興行成績が振るわなかったことで、「アメイジング〜」の第三弾の製作が頓挫したことは非常に残念だった。  故に、今回の再リブートについては、いくら待望の“スパイディMCU参戦”とはいえ、素直には喜べない部分も大きかった。 ただし、結果的には「流石はマーベル」と賞賛しないわけにはいかない仕上がりだったと思う。  アベンジャーズシリーズ全体の流れを踏まえた上で、“年代”や“社会的地位”といったカテゴリの相違によって生じる多角的な「価値観」と「主張」を物語構築の主軸に据えて描き出すことで、シリーズの世界観を更に多層的に深めてみせたと思う。 そして、燦然たるヒーロー映画であると同時に、学園映画としても、少年青春映画としても、純粋に魅力的な映画であった。   さあいよいよ「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」への助走も加速し始めている。 “戦友”との決別に傷つき、打ちひしがれていた“大人=アイアンマン”にとっても、本物のヒーローとして成長していく“子供=スパイダーマン”の姿は、ヒーローという生き方の本質を思い起こさせる“救い”となった筈だ。 そういうシリーズの流れの導き方も、悔しいくらいに巧い。   最後に、一つだけ。 付き合いはじめの彼女の父親と突如として狭い車内で二人っきりにされては、“彼ら”のような特別な関係性ではなくとも、ああいう空気になるさね……。
[映画館(字幕)] 8点(2017-08-22 12:49:58)(良:1票)
215.  オクジャ/okja 《ネタバレ》 
韓国が生んだ巨匠ポン・ジュノの最新作は、Netflixによる世界同時配信映画であるに相応しく、非常に触れやすく見やすいエンターテイメント性に富んだ楽しいアクション・アドベンチャーである……ように見えるが、勿論そんな映画ではない。 当然ながら、ポン・ジュノがそんな分かりやすく楽観的な映画を作るはずもない。 この作品は、おそらく、「食品」として肉を食べている地球上の人間総てにとって、居心地の悪い映画となることだろう。  この“居心地が悪い”とは、「気持ち悪い」とか「見ていられない」とかそういう類のものではない。 冒頭に記した通り、この映画はエンターテイメント性に溢れていて、愉快だし、高揚する。それは間違いない。 けれど、そういった映画としての「娯楽性」を感じた瞬間に、はたと気づく。 「あれ…、自分はこのシーンに対して楽しんでいい立場の人間ではないぞ……」 現実を突きつけられて、途端に居たたまれなくなる。 極めて「意地悪」な映画であり、だからこそ流石だと苦笑いをしつつ感嘆する。  不可思議な巨大生物と幼気な少女のハートウォーミングな交流シーンから、突如として、この世界の「食」が抱える闇と真理が、「肉採取機」のように容赦なく抉り出される。 その様は、あまりに残酷で無慈悲に見えるけれど、観客はそれを心の底から否定できない。 そして、映し出される描写が滑稽であるほどに、徐々に確実に笑えなくなってくる。  ティルダ・スウィントンが相変わらず演技派女優らしからぬぶっ飛んだ演技で「悪役」姉妹を一人二役で怪演している。 しかし、結果として、彼女たちは何も裁かれることはない。むしろきっちりと計画的に当初の目論見を成し遂げる。 何故ならば、彼女たちの悲願である“ビジネス”は決して悪事ではなく、現代社会の食文化の「理」そのものだからだ。  愛する“オクジャ”を救うために、身ひとつで巨大企業に挑んだ少女は、その「理」に跳ね返され、打ちのめされる。 彼女が唯一携えていた「現実」によって、すんでのところで“オクジャ”は救い出せたように見えるけれど、それは自分が愛する巨大な生物をついに「食品」として受け入れざるを得なかったことに他ならない。 そうして彼女は、おびただしい数の虚無と絶望に文字通りに覆い囲まれながら、暗い暗い帰路を辿る。   世界の食糧事情を解消するために「遺伝子操作」をすることは罪か? それでは、美味しい食肉を生産するために「品種改良」をすることは罪ではないのか?  その身勝手で曖昧なラインが明確にならない限り、この映画の「居心地」は益々悪くなり続けるだろう。 そういうことを感じながら、今日も僕は、この世界の何処かで“作られた”肉を食べている。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-07-18 13:29:21)(良:1票)
216.  ハドソン川の奇跡
出張で羽田行きの機内に乗り込む最中、10日前に観たこの映画のことを思い出した。 日々の行いだとか、常日頃の危機意識だとか、事故に遭遇しないための言い様は色々とあるけれど、事故に遭うか否かは詰まるところ「運」次第だろう。 しかし、同時に、不運にも起こってしまった事故に対処する人物が誰であるかということも、「運」次第だと思う。 この映画で描かれた事実を率直に受け取るならば、あの航空事故は、「不運」と「幸運」が同時に邂逅した出来事であり、そのことが即ち「奇跡」と呼べるのだろうと思う。  原題は「Sully」。事故機の機長チェスリー・サレンバーガーの愛称である。 原題が表す通り、今作は「奇跡」の顛末ではなく、サレンバーガー機長の事故前後の心情描写と葛藤、ベテラン機長としての矜持がつぶさに描かれている。  パイロットとして30年以上に渡り飛び続けてきたからこそ抱えた一抹の不安。 彼は、航空において「絶対」が無いということを、他の誰よりも知っていたのだろう。それがたとえ自分自身が生み出した奇跡と、それに対する疑念であったとしても。 紛れもない「一流」だからこそ抱えた葛藤の行く末に心がふるえた。  主演のトム・ハンクスは、「キャプテン・フィリップス」「ブリッジ・オブ・スパイ」そして今作と、実際に起こった事件・事故に対峙した実在の人物を立て続けに演じ、流石の存在感を放っている。 すっかり“アメリカの良心”を象徴する大俳優になった印象を覚える。  そして、監督のクリント・イーストウッドは、映画人として極まった円熟味に更に拍車をかけるか如く、あまりにも手際よく良作を仕上げてみせている。 この題材となった事故は、確かに奇跡的な出来事ではあるが、あまりにも突発的で短時間で収束した事故だっただけに、映画として膨らませることは困難だったはずだ。 しかしながら、イーストウッド監督は、紛れもないキーパーソンであるサレンバーガー機長の深層心理にまで的確に表し、同時にこの奇跡が機長一人の功績ではなく事故に関わったすべての人達による最善の対応結果であったことまで拾い上げ、それぞれの描写を手際よく描ききっている。   冒頭機長は、対応の是非を追求してくる国家運輸安全委員会の「墜落」という表現に対して、断固として「着水」だと言い放つ。 勿論結果として、機長の主張は正しかったわけだが、この映画が伝えることはその正誤そのものではない。 或る英雄的行動も、一つ視点を変えれば、蛮行として捉えられることもある。 事故に関わった様々な人間たちの多角的な視点こそが、この映画のテーマだろう。  そこには、この世界の理、アメリカという国の真の姿を冷静に見続け、表し続けるクリント・イーストウッドの本領が如実に表れている。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-07-09 22:50:08)
217.  スプリット
冒頭、文字通りに“恐怖”と隣り合わせになった少女の一寸の逡巡。 あまりにも突然な危機との遭遇に対して硬直してしまっているようにも見えるが、どこか逃げ出すことをためらっているようにも見える。 孤独な少女は、逃げることが出来なかったのではなく、直感的に“恐怖”の正体に“何か”を感じ、一人抱え続けてきた地獄を切り裂いてくれる“何か”に期待したのではないか。 即ち、この映画は、主人公の少女が恐怖から逃げ切る物語ではなく、恐怖に対して向かい合うことで、自分自身が抱える恐れを曝け出す物語だったのだと思う。  ある意味予想通りではあるが、変な映画である。 M・ナイト・シャマランの最新作に対して“真っ当さ”を期待することがそもそもナンセンス。鬼才監督の思惑通りに、恐怖と奇妙なカタルシスに覆い尽くされる。  アルフレッド・ヒッチコックの「サイコ」を皮切りに、「多重人格」を描いたサスペンスは世界中の映画シーンで数多く製作されている。 今作も、そういった過去作のテイストを踏まえた類似点やオマージュは見受けられるが、本質的には、そのどの作品とも一線を画する映画に仕上がっていると思う。(好き嫌いは別にして……)  多重人格を描くにあたり、最もキーポイントになってくるのは、やはり演者の力量だろう。 今作で“多重人格者”にキャスティングされたジェームズ・マカヴォイがどうだったか、まあ圧倒的である。 いまやハリウッドきっての芸達者と言えるこのスター俳優が、流石に素晴らしいパフォーマンスを見せる。 そもそもが、人間の光と闇を同時に醸し出す雰囲気を持つ俳優なので、この映画での色々な意味で“新しい”多重人格者役は、まさにハマり役だったと言えよう。 終盤以降、複数の人格がワンカットの中で矢継ぎ早に現れては入れ替わる様は凄まじかった。   この映画は、異常な多重人格者に囚われた少女たちが、絶体絶命な危機的状況から逃げ出そうとする恐怖映画としてイントロダクションされている。 しかし、ある意味当然ながら、それはシャマラン監督による“ミスリード”である。 「恐怖」を描いた作品であることは間違いないが、主人公の少女が対峙する「恐怖」は、それを通じて自らが抱え続けてきた恐れと向き合うことで、強大な力に対しての崇拝のようなものも孕んだ「畏怖」へと変化していく。  その心理の変化は我々観客にも与えられる。 だんだんと、ジェームズ・マカヴォイ演じるこの“異常”な多重人格者が気になって仕方なくなる。恐怖を越えて、何か愛着めいたものすら覚えてくる。 「あれ?何かがおかしい」と心のそこでふと気づく。 主人公の少女の顛末よりも、この“超人的”な多重人格者のこの先が観たくなっている。  「え?どういうことだ」 と、思った瞬間に現れる最終カットのまさかのアイツ! 思わず吹き出し、溢れ出る笑みを抑えきれず「すげえ」と呟いてしまった。 シャマラン好きにはタマラン異常で反則的な展開力。 そして、“あのシャマラン映画”が大好きな者としては、殊更にタマラン結末だった。 いやあ、参った。
[映画館(字幕)] 8点(2017-06-14 23:03:03)(良:1票)
218.  美しい星
ぶっ飛んでいる。 この理解と賛否が分かれることは間違いない映画が、大都市のみならず、地方都市のシネコンにまでかかっていることが、先ず異例だろう。 「桐島、部活やめるってよ」、「紙の月」と立て続けに日本映画史に残るであろう傑作を連発した吉田大八監督の最新作というブランド力が高騰していることが如実に伺える。 そして、その高騰ぶりにまったく萎縮すること無く、この監督は過去のフィルモグラフィーを振り返っても随一にヘンテコリンな映画を作り上げている。無論褒めている。 (亀梨くんの出演のみを目的にした女性客などは大層面食らったことだろう)  三島由紀夫の原作は未読だけれど、あの稀代の小説家が健在の時代であったとしても、たぶん同じように時代を超越したエネルギーに満ち溢れた映画が作られただろうと思う。 そういう意味では、同じく三島由紀夫が江戸川乱歩の小説を戯曲化した「黒蜥蜴」の映画化作品も彷彿とさせる。 即ち、この映画の在り方はまったく正しく、吉田大八監督はまたしても原作小説を見事な“新解釈”を多分に盛り込みつつ素晴らしい映画世界を構築してみせたのだと思う。  この映画は、冒頭から最後の最後まで、SFと幻想の境界線を絶妙なバランス感覚で渡りきる。 そのバランスの中心に描かれるのは、人間の営みの中に巣食う可笑しさと、表裏一体に存在する恐ろしさと愚かさ。 その時に暴力的で破滅的ですらある「滑稽」が、ありふれた一つの「家族」に描きつけられる。  終始、可笑しくて、笑いが止まらない。 ただ、だからこそ、この世界の危うさの核心を鷲掴みにされているような痛さとおぞましさも感じ続けなければならなかった。  人間社会の滅亡を開始する“ボタン”は空洞だった。 人類は許されたのか?勿論、違う。 謎の宇宙人がその強大な力を振るうまでもなく、人類は勝手に滅亡に向けて突き進んでいる。 “ボタン”など端から必要なかったのだ。  優しい火星人が「美しい星だ」と名残惜しんでくれているうちに、なんとかしなければ。
[映画館(邦画)] 8点(2017-06-03 23:30:52)
219.  ワイルド・スピード/ICE BREAK
冒頭、「Fast & Furious 8」とタイトルが掲げられ、いつものようにストリートレースを挑まれた主人公がハバナの街を激走する。 シリーズ8作目にして、公開されるやいなや喜び勇んで映画館に足を運び、お決まりのレースシーンに早速高揚させられた時点で、この映画を否定する余地は微塵もなかった。勿論端からそのつもりはないのだけれど。 言わずもがなこのカーアクション映画シリーズの大ファンである。 決して自動車自体に強い興味があるわけではない僕を虜にして久しい今シリーズの稀有なエンターテイメント性はもはや奇跡的であるとすら思う。  ただし、この最新作に対して不安が無かったわけではない。 前作「SKY MISSION」は、ヴィン・ディーゼルと共に主人公を演じてきたポール・ウォーカーの急逝を乗り越え、彼と彼が存在したこの映画世界に対する多大な慈愛に満ち溢れたまさに奇跡的なアクション映画だった。 傑作の後を受け、必然的に新たなキャラクターバランスの構築を余儀なくされたこの最新作が、果たしてどんな仕上がりになっているのか、期待と不安は入り混じっていたと言える。  しかし、様々な苦難を乗り越えながら“PART8”まで作られてきた今シリーズの底力は伊達ではない。 これまで幾度も「強引」という言葉を覆い隠す「豪快」な展開により、映画世界そのもののテイストやキャラクター設定すらも変革してきた今シリーズだからこそ許される「前作までのキャラ設定ほぼ無視」の展開力により、新たな娯楽性の付加に成功している。 過去作での出来事を振り返れば、「さすがに強引過ぎる」という意見も分からなくはないけれど、もはやそんなことに目くじらを立てていては、目の前で繰り広げられる圧倒的娯楽性に対して勿体無いと思える。 そして、ジェイソン・ステイサムのファンとしては、アレほどこのアクションスターに相応しいアクションシーンを見せられては、諸手を挙げてニヤニヤするしかなかった。  おそらくは次回作以降もラスボスとして存在するのであろうシャーリーズ・セロンの“絶対悪”感も最高だった。 いよいよ筋肉バカだらけになってきた熱苦しい映画世界の中で、まさに氷の女王のような冷ややかな美しさと悪意がほとばしるこのアカデミー賞女優の存在感は、見事に新たなキャラクターバランスを構築していると思う。  キューバ・ハバナを激走するファーストシーンで明らかなように、この地球上に走っていない場所がある限り、このシリーズは新たな娯楽性を生み出し続けられるとすら思う。 アクション映画として体感は10点満点。さあ、次はどこを走るのか。
[映画館(字幕)] 8点(2017-05-10 23:10:41)
220.  パッセンジャー(2016)
“Starring  Jennifer Lawrence Chris Pratt” エンドロールのクレジットで、先ず表示されたのは主演俳優二人のクレジットだった。 それはハリウッド映画において大して珍しくないことのように思えるかもしれないが、往年の娯楽大作ならいざ知らず、昨今の映画において、「〜の主演映画である」という情報を、エンドロールでわざわざ真っ先に伝えてくる作品はあまり記憶にない。  製作陣が意図的にそのクレジットで表したかったことは、詰まるところこのSF超大作が貫いた“スタンス”であり、即ちこの映画が“スター・システム・ムービー”であることへのてらいのなさだと思う。 昨今の価値観に合わせるならば、“スター・システム”という姿勢は、安易に主演のスター俳優に頼っただけの映画だとも捉えられかねないため、極力避けるのが普通だ。  しかし、この映画は、主演俳優の絶大なスター性を臆面もなく全面に押し出し、美しさと格好良さを表現することに対しての「逃げ」がない。 結果として、美しいスター俳優同士の共演が、ハリウッドの古き娯楽大作にも通ずる堂々たるエンターテイメント性を醸し出していたと思う。  ジェニファー・ローレンスはすべてのシーンが尽くエロ……いや艶っぽいし、クリス・プラットは無精髭が伸びっぱなしだろうが尻を丸出しだろうが格好良い。それぞれの振る舞いがそれだけで娯楽要素になり得ている。  と、ここまでであれば、この映画は結局のところ今をときめくハリウッドスターの華やかさを追求しただけの作品で、ストーリー性には乏しい映画だと思われるかもしれない。  でも、実はそうではない。  “スター俳優の華やかさ”は、このSF映画が「娯楽超大作」としてのバランスを成立させるために必要不可欠な要素だったのだと確信する。 もしこの映画のキャスティングにおいて、もっと地味で堅い印象が“売り”の俳優をチョイスしていたならば、それはそれは重々しく破滅的な全く別物の映画に仕上がっていたことだろう。  なぜならば、このSF映画の持つ「罪と赦し」にまつわるストーリー性とテーマ性は、想定外に深く辛辣であるからだ。  もっと重苦しいキャスティングによって、このストーリーが孕む人間の業を深掘り、丸裸にしたならば、それはそれで傑作に成り得たかもしれない。 ただ今作の製作陣はそういう選択をしなかった。華やかなキャスティングによる娯楽性を優先したのだ。  そしてその選択は決して間違いではなかったと思える。  この物語が伝えるべき人生観と哲学性を表現しつつ、娯楽大作として様々な観点から楽しみがいのあるエンターテイメントに仕上がっている。 そしてそれは、主演の両ハリウッドスターが華やかさだけではなく、演技者として押しも押されもせぬ実力を備えているからこそ成し得ていることだ。 両者が演じたキャラクターの瞳にふいに垣間見える“狂気性”がそのことを雄弁に表している。   当初、“デートムービー”推しの安直な国内プロモーションを目の当たりにして、鑑賞意欲が大いに削がれたのだが、某映画評の冒頭で「賛否両論」という情報を聞くにつけ、一転して食指が動いた。 “賛否両論のSF映画”は、大概の場合観ておいて損はない。その持論は幸いにも的中した。  そして、結果として“デートムービー”としてのプロモーションはある意味的を射ているのだと思う。 このSF映画で描かれるストーリーは極めて特異な状況のように見えるが、実のところとても普遍的な男女関係の機微や不自由さを孕んでいる。 美しい二人の美しいデートシーンにうっとりすると同時に、男女関係における地獄のような居心地の悪さを感じることも必至。 この映画を共に観ることで、二人の付き合い方には波紋が広がることだろう。 それがデート中の二人にとって良い方向に繋がるか、悪い方向に繋がるかは知ったこっちゃないが、二人の将来を推し量る上では重要な「材料」になり得るだろう。  これこそ“デートムービー”と呼ぶに相応しいではないか。
[映画館(字幕)] 8点(2017-04-06 23:59:55)(良:3票)
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