441. 猿の惑星:新世紀(ライジング)
《ネタバレ》 傷ついたシーザーは街中に運び込まれるが、特徴的な窓を持った家の前で 車を止めさせる。 手術後、ソファを抜け出した彼は屋根裏部屋で通電しているホームヴィデオを見つけ その再生画面に見入る。 それまでの展開にしても、前作を踏まえずとも物語の流れを理解できるような 最小限の補足がされているが、ここで映し出される小さな一つの画面は、それだけで 彼の生い立ちと思想形成の背景の雄弁な描写となる。 この小さな画面が感動的なのは、無論そこに彼のノスタルジアに対する共感があり、 エイプたちが不要としていた電気の生み出す肯定的な光の感動があり、 かつ幾度も繰り返されてきた「HOME」の語の響きがあり、 『そして父になる』のデジタルカメラのような「他者が撮ってくれた自分」が 映し出されるエモーションがあるからなのだが、 加えて、ここではそれが再生装置たるムーヴィー(映画)に対する ささやかな讃歌ともなっているからだ。 『カイロの紫のバラ』のような、『ニューシネマパラダイス』のような、 映画の映写光の反射を受けながら画面を見つめる者の表情が生み出す情感という 美しい細部がそこにある。 そして、映画はその画面をラストに反復する。モニターが映し出していた ジェームズ・フランコとシーザーの抱擁は、その位置を置き換えて ジェイソン・クラークとの間に交わされる。 この小道具の活用法は見事だ。 そして人間は暗闇の中に消え、エイプたちは陽光の中に出て行く。 このシーンも光と闇の画面によって物語を語っている。 前半の露出アンダー気味の曇天や薄闇が、怒りの炎や爆発、夜明けの光を活かす 後半のためにあったことがわかる。 [映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2014-09-21 21:17:17) |
442. いのちの食べかた
いずれのショットも画面にパースをつけ、厳格すぎるくらい厳格に構図を決めている。 その画面領域の中で動植物・人間・メカニックそれぞれがせめぎ合う様が スペクタキュラーだ。 その奥行きを強調したカメラ移動は、その産業の構造的スケール感を否応なしに 感じさせる。(延々と続く厩舎、延々と下るエレベーター等など) そしてここには「機械的で規則的な運動のリズム」(長谷正人 『映像という神秘と快楽』)がある。 映画に登場するベルトコンベアー作業の数々は一見、単調で「無機質」でありながら、 それは無意識に規則正しく心拍運動し生命を維持する人間とも通じ合う。 ゆえに、そこには心情に拘らず、 リズミカルな反復運動に同調する「映画的快楽」が逆説的に伴う。 その規則の中に不意に現れる小さな不規則の面白さがまた引き立つ。 音楽を一切廃すること、言語解説による意味付けを一切廃すること。 それによって観客は反復のリズムを体感し、動植物の肉声・質感を感受し、 意味から開放される。 動植物への同情や憐憫や感謝。それらの単純な感情を喚起する自由を保障しつつ、 作り手はまず、様々な運動と色彩と音にあふれた画面そのもの、つまりは 本源的な映画の面白さを受け取ることを 求めているに相違ない。 断片的なショットに、奥行を意識した構図。機械と動物と、食事する人物。 まさに映画の定義に適った、リュミエール的な映画じゃないか。 [DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2014-09-19 00:21:59) |
443. ハンナ・アーレント
《ネタバレ》 ハンナ・アーレント(バルバラ・スコヴァ)は、モニターの中の アドルフ・アイヒマンをひたすら凝視する。 ソファに身体を横たえながら煙草をふかしつつ、思索にふける。 学生への講義の際も、煙草は手放せない。 そうした身振りと対話のうちに、人物が象を成していく。 夜の書斎の美術や照明も、思考と執筆について映画表現する 難題に対して、よく補助している。 ラストが独演会での長広舌で、さらに賞賛の拍手というのでは少々 安直だが、中盤とラストで彼女の講義に聞き入る学生たちの 真剣な表情と眼差しがいい。 前半でアイヒマンの裁判を傍聴する彼女の批評的な眼差しからの継承の シーンとなっている。 冒頭とラストの夜景も印象的だ。 [DVD(字幕)] 6点(2014-09-16 15:42:30) |
444. 舞妓はレディ
観光名所の絵葉書ショットも題材も、海外マーケット狙いの思惑が見え透いて辛い。 そうなると、赤いワンポイント小道具や、上白石萌音と富司純子が正座しての 正対切り返しや、そこでの富司の台詞中に挟まれる6つの空ショットといった 周防監督の小津趣味も、海外への目配せと勘ぐってもしまう。 常連組の馴れ合いじみた箇所も余計に感じるし、ミュージカル部分も各役者に無理に 割り当てていないか。この作品なら二時間を切るのが妥当と思う。 オープンセットではないだろうが、長谷川博己と上白石が連れ立って歩く橋の横手の柳 が風にそよいでいたり、水遣りのあとか、雨のあとか、石畳が湿って 光を反射していたりといった細やかな仕事は基本に忠実である。 草刈民代が上白石に化粧を施し、竹中直人が初お披露目に同伴するシーンの 厳かな美しさも良いが、何より富司純子のショットには常に敬意が払われている のも美点だ。 [映画館(邦画)] 6点(2014-09-15 20:01:28) |
445. 俺は善人だ
悪女と聖女の両面を演じさせて女優を売り出すパターンが 当時からあるが、これはその男優版である。 エドワード・G・ロビンソンが小心で実直なサラリーマンと 凶悪なギャングを巧みに演じ分ける。 双方がそれぞれの役を演じるシーンもあるので、計4パターンの芝居となるが、 善人役の愛嬌のある芝居が実に萌える。鏡への反射を使ったギャグや、 酒に酔って社長室から出てくる場面の陽気な振る舞いなどは傑作だ。 この後、その対照的な二人が同一ショット内で共演することになるのだが、 このツーショットがどのような仕掛けで撮られたものなのか。 その違和感のない画面つくりには様々な知恵や工夫が凝らされたのだろう。 様々な箇所でシーンの省略が効いていて、テンポもいい。 欲をいうなら、後半もっとジーン・アーサーの活躍が欲しかった。 [DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2014-09-13 16:42:52) |
446. エレニの帰郷
『カサブランカ』や『嘆きの天使』などは少々サービス過剰かとも思う。 米国マーケット他をかなり意識したのか、どうか。 濃霧の中、抱き合うイレーヌ・ジャコブとウィレム・デフォーの周囲を 旋回しかけるデ・パルマまがいのカメラなどには冷や冷やしてしまいそうになる。 被写体サイズの大きさも有名俳優起用によるものだろうが、 そうした大御所俳優らを配しながらも曇天への妥協の無さは一貫している。 ブルーノ・ガンツの乗った船が橋梁をくぐると、彼に影が落ちスッとシルエット可する ショット。その黒と彼を包む曇天の鈍い白が異様な迫力で迫ってくる。 夜の国境検問所、暗闇とそこに浮かびあがる人物に当たる照明の加減も素晴らしい。 シベリヤの工場群の吐きだす白煙、ジグザグ階段の造形などもアンゲロプロス ならではの壮観であり、ロングテイク内での転調(パイプオルガンの演奏、 警官隊の突入など)も驚きこそないが、楽しめる。 [DVD(字幕)] 7点(2014-09-12 16:06:54) |
447. フライト・ゲーム
《ネタバレ》 携帯画面の文字情報と、それを読むリーアム・ニーソンのリアクションを 同じ画面内に乗せながら物語を畳み掛けていく。 観客は双方に視線を配りながらの視聴を要求されるが、それぞれのショットを 定番的に分断させるよりも断然テンポとリズムがいい。 その意味でも「NON STOP」である。 犯人とメール交渉をしつつ、相手の反応を機内の複数の監視カメラを通して 女性二人にチェックさせていく。 そこに同時進行で機外との通話が重なる、といった具合に複雑な シチェーションを的確に処理しながらテンションを上げていく手際がいい。 主人公を陥れていくマスメディア、謎解きに一役買う携帯動画メディア。 各種映像媒体の提示も現在的で面白い。 閉所での格闘アクションは相変わらず煩雑でぶつ切りなのが玉に瑕だが。 割れた鏡面に歪む主人公の像などは、もはや監督のトレードマークといえる。 [映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2014-09-11 23:59:05) |
448. オーソン・ウェルズ/イッツ・オール・トゥルー
第一話『ボニート』、第二話『カーニバル』は断片のみだが、 羊の群れや人々を小さく捉えた教会の鐘楼からの俯瞰ショットや 子牛と戯れる少年の表情が瑞々しい。 サンバに興じる群衆の熱狂が力強い。 そして主体となる第三話『4人のいかだ乗り』。 材木運びから、魚籠つくり、カンナ掛けと 、筏作りのプロセスが丹念なショット の積み重ねによって描写される。 RKOの制作中止決定、予算不足によって白黒35mmフィルム撮りであり、 肝心な航海シーンもわずかだが、画像はシャープで鮮やかだ。 幾多の筏が水面を滑るように出帆するシーンも躍動感は満点、海は眩しく輝いている。 カメラに撮されるのは初めてだろう浜辺の女性たちの笑顔も初々しい。 結婚・事故・葬儀・船出のドラマが現地の人々によって演じられるのだが、 台詞は一切なく佇まいと表情と身振り、構図と陰影、若干の効果音と音楽によって 紡がれていく。 それらの映像による語りがことごとく素晴らしい。 とりわけ人々のクロースアップは、芝居を超えて味わい深い。 ウェルズが彼の地と人々とに如何に接し、密な関係作りをしたかの証左である。 ラストは撮影初期に撮られた『カーニバル』のカラー映像だ。 現地ロケ及びセット再現によって撮られたサンバの熱狂は、 色彩の鮮やかさと人々の陽気な笑顔が相乗し、ひたすら美しい。 [DVD(字幕なし「原語」)] 9点(2014-09-07 23:51:17) |
449. 周遊する蒸気船
アン・シャーリーを連れ戻しに来た男たちを、「甥の嫁は渡さん。」と撃退し、 粗末な身なりの彼女に妹の形見のドレスをプレゼントするウィル・ロジャース。 口の悪い彼に反発していた彼女も、その一件を境にいっぺんに彼を大好きに なってしまう。 彼の右頬にキスし、もらったドレスを大事そうに抱きかかえる彼女の仕草の 何と可憐なことか。 その心変わりを大いに納得させる彼女の素直な瞳が美しい。 絞首刑判決となり護送されるジョン・マクガイアとの別れの際、 駅の丸柱に寄り掛かって悲しむ 彼女の左手の薬指にはめられた指輪をさりげなく映し出すカメラは、 その表情以上に彼女の心情を語る。 偉人の蝋人形を窯にくべていく、といったアナーキーな賑やかさの一方で ヒロインの心情を繊細に演出する細部の気遣いが尚のこと光る。 文句のない傑作だが、ダン・フォードの『ジョン・フォード伝』によると、 就任間もないダリル・ザナックが、すでに完成していた本作の「編集にハサミ を入れてテンポを速め、野放図な所作が見受けられるギャグシーンのあれこれ を切り捨てた」らしい。 確かに映画は展開が早く、グリフィス的救出と大団円後の 後日談などはわずかに2ショットだ。 現在の主流シネコン映画とは真逆の潔く鮮やかな〆具合の現行版も悪くないが、 本来のいわゆる「ディレクターズ・カット版」はどんなものだったのか。 興味はつきない。 「脇道にそれたり、道草を食って筋に関係ない何かに焦点を合せたり、そんな 類のことを軽くやるのが好きだった」(ナナリー・ジョンソン) それがJ・フォード作品の魅力なのだから。 [DVD(字幕)] 10点(2014-09-06 15:33:49) |
450. 肉弾鬼中隊(1934)
偵察隊のメンバーが単発で狙撃されていく際の簡潔であっけない音響が逆に怖い。 隊員達の間で交わされる対話は、故郷の家族のことであったり、 マレーシアの思い出であったり、12時間後に祖国英国を照らすだろう月の 美しさであったりするが、それらの回想場面は一切入ってはこない。 映画はひたすら現地現在進行形で進み、観客は俳優の表情や語りから その会話内容に思いを馳すことになる。 が、この人数でこの尺ではやはり無理があったか。 隊員個々のプロフィール描写も淡白にならざるを得ない。 砂漠に立てられた6本のサーベルの墓標も、欲をいえば逆光で撮って欲しかったところ。 やはり相応の尺を獲得してこそ、『七人の侍』の墓標は強烈な イメージとなったのだろう。 [DVD(字幕なし「原語」)] 6点(2014-09-05 21:12:19) |
451. プリースト判事
ここでのウィル・ロジャースは特に判事の業務を行うわけでもない。 トム・ブラウンとアニタ・ブラウンの仲を取り持とうと、 ゴルフボールを飛ばし、茂みの陰で一人芝居をし、飴を伸ばしと、 ひたすら具体的に行動する。二人を物理的に近づけるために。 その周囲を、ステッピン・フォチェットら味のある黒人俳優が 音楽的なイントネーションで語らい、歌う。 さらには、ヤギやアヒルや鳥たちも視覚と聴覚を賑わかし、 大合唱が大団円を盛り上げる。 そんな飄々としたウィル・ロジャースが暗闇の部屋にランプを灯すと、壁に 飾ってあった妻と息子らしき肖像写真が明りの中に浮かび上がり、 それを静かに見つめる彼の顔が写真の家族と重なり合う。 こうした何気ない静かなひとときのうちに、 彼が若い2人のために世話を焼く心中までが 滲み出てくるようで、愛おしい。 [DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2014-09-05 17:06:21) |
452. 紙屋悦子の青春
セット中心の撮影と長回しによって、あえて戯曲を忠実になぞる試みである。 それによって、メインとなる見合いシーンはほぼ実時間に近いのだろう。 時刻に関する会話や時計音の演出もあって、ぎこちなくも切実な一瞬一瞬の 「時間」が印象づけられる。 冒頭約10分間にわたる現代パートのロケシーンを配置して映画を回想形式にしたのも、 夕刻の光の推移と共に、約60年間という二人の戦後の時間を意識させるための ものだろうか。 舞台を限定し、松岡俊介の手紙の件りなど伝聞スタイルを活用すること。 紙屋邸前の石段のセットや、襖奥での会話といったオフ空間をよく利用していること。 それら観客の想像力に訴える手法は効果的で『永遠の0』の山崎貴なども 見習ったらどうかと思うが、これは単に舞台劇演出の援用でもある。 ならば肝心な原田知世の慟哭シーンこそ、襖の奥の悲痛な哭き声だけを 聴かせなければならなかったのではないか。舞台では間違いなくそうしたはずだ。 このシーン、映画の多角的な視点が逆に仇になってしまっている。 [DVD(邦画)] 6点(2014-08-31 22:27:14) |
453. 剃刀の刃(1946)
タイロン・パワーがインドの山上で啓示を受ける。 物語的に肝心であるべき箇所で描写を怠り、 その悟りを口頭説明で済ませてしまうことで映画への興が醒めてしまう。 全般的に過剰気味の台詞と対話芝居の重視、そして徹底したパンフォーカスの カメラはきわめて舞台的な演出だ。 その上で施された映画的演出の一つが、アーサー・C・ミラーによる 縦横無尽のカメラワークだろう。 パーティ会場やレストラン、パブなど多彩なエキストラが多数入り乱れる 躍動的なモブシーンを後景に、主要人物が画面手前で会話をしている。 と、背後の群衆の中から不意にアン・バクスターやらクリフトン・ウェッブらが 画面手前に入ってきて話者が連鎖的に入れ替わっていく。 その嫌味なくらい統制のとれた人物の出し入れのタイミングとフレーミングが圧巻だ。 パン・フォーカスのシャープで密度の高い縦構図と、そこにさらに奥行きを加える 流麗な移動画面。 その背後の群衆の中から何時どのように主要人物を中心化させるのか、 手前の複数の人物をどう出し入れし、どう移動させて構図を決めていくのか。 そしてどこで俳優の表情芝居にクロースアップするのか。 物語映画でありながら、その説話展開以上に画面展開の緊張で見せていく映画である。 そのキッチリしすぎた段取り感がやはり仇ではあるが。 [DVD(字幕)] 7点(2014-08-26 22:44:39) |
454. ラストミッション
西部劇への目配せからしてヘイリー・スタインフェルドを抱き上げる ケヴィン・コスナーはなるほどナタリー・ウッドを抱き上げるジョン・ウェインなの だが、スーツ姿への衣装変化と故ホイットニー・ヒューストンを抱え上げた 『ボディガード』も経由して重ね合せるなど、ポイントごとに 映画的感慨を刺激してくるのも悪くない。 父娘が『明日に向かって撃て』的に自転車を二人乗りする坂道や、 ラストの白い崖と入り江の別荘に至るまで 勾配や高低をドラマに活かしたロケーションの数々が印象的であり、とりわけ 父が娘に自転車を教えるシーンは高台から見下ろす街並みの景観と自然光あっての 情趣だ。 そして開始早々は彼女が主役かと思いこまされる、アンバー・ハード。 以降、思い出したように登場するのみでありながら、それでいて彼女の放つ妖しさ・ クールビューティぶりも鮮烈だ。 携帯の着信音のギャグなど、何とか携帯電話を映画的に活用しようとする意欲も買う。 [映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2014-08-21 23:46:22) |
455. 青天の霹靂
タイトルに適っての、天候変化による光の推移や 盛大な水漏れでショートする裸電球などなど、、 照明や小道具・効果音を以て心情を画面に置き換える術は心得てはいるようでありながら 肝心なところではストレートに超クロースアップの泣き顔芝居に陥ってしまう。 そのテレビ演出ははっきりと大きなマイナス点だが、 照明を駆使してヒロイン:柴咲コウを美しく撮ることにかけての 意識の高さは画面からはっきり窺える。 大泉と柴咲の視線と手の所作を巧く繋ぎ合わせたクライマックスの クロスカッティングも見事に決まっている。 [映画館(邦画)] 6点(2014-08-17 07:02:00) |
456. ノア 約束の舟
景観のショットは景観としてフィクスで抑えておけばよいのに、 CGには死角はないとばかりにあちらもこちらもとカメラが嬉々として飛び回る。 だから画面内の世界が小ぢんまりしたCG的箱庭スケールに堕してしまう。 合戦シーンの縦横無尽に「目移り」するカメラワークは、それだけで安っぽい。 CGをそのままCG的に提示してしまうセンスの無さは『ブラック・スワン』から まるで進歩がない。 自制を欠いたCG画面は単に無節操なだけの視点を生み、 無機質な物量に対する不感症を生む。 手作りミニチュアワークのほうが却って文化的な驚きと感動をもたらすだろう。 映画はただただ非映画的観念論議に明け暮れ、 また一方では虚仮威しの空虚なスペクタクルに堕する。 そして肝心な主人公一家の生活の細部は一向に描写されることはない。 労働でも娯楽でもいい、そうした暮らしぶりのディティールの積み重ねなくして 人間の描写はなかろうに。 そこから逃げている。 [映画館(字幕なし「原語」)] 3点(2014-08-16 22:23:03) |
457. MONSTERZ モンスターズ(2014)
地図マニアの設定であるとか、加湿器の白い蒸気とか。 何かの伏線かというような思わせぶりな配置が、結果的には 何らドラマに寄与しないのに拍子抜けする。 友人たちとの入浴などにしても、スポンサー絡みかどうか知らないが、 映画的に面白い寄道なら余興として大歓迎だが、間延びさせるだけの無駄なら要らない。 ひたすら顔を強ばらせ、眼力で演技せざるを得ない藤原竜也は、 文字通り力演ではあっても、映画の面白さにはならない。 その力に操られての黒沢清的「人体落下」が動きのモチーフとなる。 スペクタクルとなるべきクライマックスの劇場での群衆シーンが 単なる烏合の衆であり、緊張が持続しないのも残念なところ。 物量が単なる物量でしかなく、逆にサスペンスを削いでしまっている。 [映画館(邦画)] 5点(2014-08-16 20:59:38) |
458. オール・ユー・ニード・イズ・キル
敵方の動きを想定した訓練機器に何度も激しく弾き飛ばされるスタントも トム・クルーズ本人がチャレンジしているのだろう。 その果敢なアクション魂が彼への好感度を一層高める。 重火器装備で動きやスピードが制限されかねないスーツを纏いながら、よく動く。 反復学習によって、練度を上げていく主人公のアクション。 その予測動作とリアクションの面白さを、例えば一連の長廻しショットの中で 捉えていくなどすれば、よりキートン的な活劇になっただろうに。 この映画では、それがカッティングのリズムの面白さに留まっている。 その意味で、火器としての見せ場も少ない上、 トム・クルーズの動きを鈍重にしてしまうスーツはさして映画に貢献していない。 その装備を外し、肉体アクションが弾むべきクライマックスが 大状況の物語の側に収斂し、失速しているのも惜しい。 [映画館(字幕なし「原語」)] 5点(2014-08-13 15:06:59) |
459. るろうに剣心 京都大火編
《ネタバレ》 佐藤健と武井咲が別れを交わす水路沿いのシーン。 背後には加藤泰的な素晴らしい水路の美術がセットされているのに、 映画は二人の会話をひたすら平坦なクロースアップでしか捉えない。 もちろん、人物の背後はソフトフォーカスでぼやけている。 抱擁の瞬間に至っては、カメラはさらに寄って画面を占拠してしまう。ダサい。 せせらぎの照り返しとか、木々のざわめきとかの情景を以て語るという ことを知らない。敵方の「炎」と対比しての静かな「流水」でもあろうに。 ハリウッドシステムであろうクロースアップ偏重が あらゆるシーンで、せっかくの美術をむざむざ殺している。 前作に対するすぺるま氏の批判がそのまま通用してしまう。 つまり、まったく進歩がない。相変わらずの下手糞。 脚本を兼ねる監督は、台詞もロクに削れない。 「薬はお前が持っていけ」で十分に意図は通じるところを、 わざわざ「癒してやるのはお前の役目だ」と 気障な蛇足台詞を付け足さずにはいられない野暮。 このパターンの繰り返しである。ゆえにダラケる。 主人公の長広舌など論外だろう。 それでなくても、時代劇的に違和感満載だというのに。 派手なチャンバラも、寄って(編集で)切って、単なる派手に終始する。 [映画館(邦画)] 3点(2014-08-08 14:21:47) |
460. 思い出のマーニー
スケッチブックに押しつけられて折れる鉛筆の力感や、ナイフで鉛筆の芯を 乱暴に削る動き。トマトや西瓜に包丁が入るその質感など。 巧いアニメーションではあっても、それが単なる現実の模写に留まってはいないか。 紅花摘みのリアリズムを見せつける『おもひでぽろぽろ』にしても、 幼少時代のシーンでは空を泳ぐといった奔放なアニメーションが しっかり活かされているのに対し、 こちらが志向するのは向地性とでもいうべきものだ。 映画は重力を強調し、ヒロインは幾度も地面に突っ伏す。 それはいいが、アニメーションであるべき必然性はやはり低い印象である。 何よりも肝心の「動き」の面において。 和洋のキャラクター・舞台を違和感なく 共存させた世界はアニメならではの強みだろうが、 あの大波と風のシーンだけではいかにもアニメーションとして弱い。 そして、「美少女ヒロイン」以外のキャラクターの何と魅力の薄いことか。 世話になる夫婦も無口な男も、いくらでもドラマに絡ませようがあるだろうに。 登場意義すら見いだしづらい。 絵描きの婦人も、単なる種明かし説明の道具に過ぎないだろう。 成長のドラマならせめて、他者との関わりあいの中で主人公の成長を描いて欲しい。 ヒロインの「碧い瞳」への言及の段取りも、こうすればより映画的なのに、 という代案が簡単に浮かんでくる。 それでいいのか。 [映画館(邦画)] 5点(2014-08-05 15:38:31) |