41. 真実の瞬間(1991)
《ネタバレ》 メリルという架空の人物(たぶん)を通して、マッカーシズムが人権を無視して人々の幸福を侵害したという事実の再確認と記録を行うとともに、圧倒的な国家の暴力に対して個人がどのような姿勢で生きるべきかという普遍的な課題を二人の子持ち男性を対比させることで描いている。 第二次大戦後、特定の思想信条を仮想敵と見立てた大規模な弾圧は中国(文革)でも日本(レッドパージ)でもあったことだし、マッカーシズムについてアメリカという国の特性が生んだ暴力という決め付け方は私はできない。告発された人の中に実際にスパイが含まれていたらしいので、マッカーシズムの功績はゼロとはいえないのであろう。 しかし、映画「マジェスティック」やこの映画で描かれているメリルや周辺の人々の味わった苦難は明らかに行きすぎ、暴力であるのだがこの時点では誰も止めることができなかった。 それで「個人」対「圧倒的な国家の暴力」の問題にもどるわけだが、メリルとラリーという二人の父は「優先順位」を決めなければならぬという究極の選択を迫られ、正反対の行動を取った。 メリルはもともと仕事優先でそのために離婚までしている。「映画バカ」という言葉がぴったりの男で、我が子に淋しい思いをさせるのは辛いが、仕事を犠牲にすることだけはできない。 が、そんな彼にも仕事より大事なものがあることがこの事態で判明してしまった。友人や知り合いの名を売ることがどうしてもできなかった。 干されたメリルが、仕事恋しさに苦しむシーンをデニーロが熱演している。一日だけの身代わり監督であっても、現場に立った彼が水を得た魚のように生気を取り戻す姿は見事。 いっぽう、メリルを売ったラリーは妻を失い息子から母親を永遠に奪ってしまった。ラリーの選択は「子供と仕事」であった。 この後メリルは短期間刑務所に入り、その後10年以上仕事が出来なかったであろうから、メリル一家の生活は嫁頼みで細々と営まれることになる。 ラリーは罪の意識に苦しめられながら、いずれ再婚でもして映画界で生き残り、時折非難されても耐えて生きる。 そんな二人の息子たちが、どんな大人になったのか、父が息子に与えたものはそれぞれ何だったのか、冒頭かラストで息子たちの邂逅シーンがあってもよかったのではと思う。 海外脱出役でのスコセッシ出演がご愛嬌。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2008-08-01 13:52:28)(良:1票) |
42. インパルス
《ネタバレ》 デブ寸前のテレサ・ラッセルが、タイトなセクシー衣装に無理やり体を押し込んで撮った息苦しい(そういう面では)一作。そんな腹回りでボディラインを見せて大丈夫かとハラハラさせられていまいちノレない。 「デブラウィンガーを探して」では本格的なデブと化していたので、太りやすい体質なんだろう。 女性監督らしく、セクハラ問題を盛り込んでいるのだが、公私においてありとあらゆる男性に触られまくるロティーは、すでにちょっと触られたぐらいでは拒否すらしなくなっていて、囮捜査の売春婦役と現実が区別つかなくなってしまったのがペロンにのこのこついていった大きな理由。 検事に「(触られるのは)それは正しくない」と言われても「そういう男なんでしょ」と動じないふりをする。「いちーち抗議するほど大したことじゃないじゃない」と思っている。 小さな間違いを最初のうちに糺しておかないと、つもりつもってセクハラOK女から売春婦の真似までするようになってしまう。カウンセラーとの会話でそのへんの心の問題が解決されるのかと思いきや、フツーに二流サスペンスとして終わらせてしまったあたりがうーん、不発だ。 彼女がセクハラに対して不感症になっていることが事件に絡んでいるわけだから、もっと突っ込んで描いて欲しかったと思う。だいたい初対面の仕事仲間とすぐ寝る事自体が壊れているが、こういう展開はもううんざりだなあ。せっかくの女性監督作品なのにさ。とにかくもう仕事仲間に手を出すのはやめましょう。仕事中にキスするのもやめましょう。承諾なしに触られたら訴えましょう。 [CS・衛星(字幕)] 3点(2008-07-23 17:20:14) |
43. ロード・オブ・イリュージョン
《ネタバレ》 イヤな予感はしていたがやっぱりその通りだった。 クライブ・バーカーの原作脚本監督、というのに話題性が全くなかったではないか。 2時間も使っていながら、恐るべき内容の薄さ。扱っている材料はカルトとか悪魔の憑依とか悪くない題材なのに、ちょっともコワくないというお粗末さ。要りもしないエロシーンをサービスしてしまう志の低さ。 思い出してみても、ホメるところがどこだかわからない。この調子では、バーカーはもう才能が尽きたのかもしれない。成仏してほしい類の作品。合掌。 [CS・衛星(字幕)] 0点(2008-07-06 15:59:47) |
44. 宋家の三姉妹
《ネタバレ》 土地を持たず、商業や教育などもっぱら第3次産業に従事して、「中国のユダヤ人」といわれるほど流動的に生きた宋家。彼らが最も頼りにしたものは、持ち運び可能な財産であったろう。ごっそり貴金属を持っていたに違いない。土地や家なんか持って逃げられない。 宋家の三姉妹を美化したとんでもない幇間映画である。中国史に疎い私ですら、ツバをはきたくなるほどひどいと思う。まるで、宋家の女たちが歴史を左右してきたかのような安易な描き方に唖然とする。軟禁された蒋介石のもとに、美齢が単身向かって説得するとか、飛行場の場面とかね。 生涯金満生活を送ったような宋姉妹を、なぜ映画まで作って建国の母のごとく賛美するのだろうか。この女たちは、「中国人」では全然ないではないか。 メイベル・チャンというのは女性監督だが、こんなものを作っているうちは中国人女性(といっても香港だけど)の撮るものを信用できない。見る価値なし。 [CS・衛星(字幕)] 0点(2008-06-22 15:19:43)(良:1票) |
45. 推定無罪
《ネタバレ》 シドニー・ポラックの追悼放送。 しかしオチ割れの状況で見直してみると、妻の態度がソラ恐ろしいこの作品。法廷ものとしては、個人ベスト10に入れていい。 私はキャロラインを単なる悪女として切り捨てることができない。キャロラインはもしかすると究極のフェミニストといえるかもしれないと思う。 その理由を説明すると、まずキャロラインはおそらく20代後半~30前半の年齢。その若さですでに6年半前に卵管結索手術を受けている。 避妊手術を受けた理由は間違いなく、望まない妊娠により中絶手術を余儀なくされ、完全な自衛手段に打って出たということ。未婚の女性が避妊手術を受けるということは、「私は結婚していませんが、セックスはしますから」と宣言したに等しい。キャロラインの場合は「目的」のためにセックスを濫用するつもりでいたからこそ、合理的に考えて手術に踏み切った。なんたる思い切った女性だろう。とても真似はできぬ。 さてその「目的」は、多くの男性と同じように「ポストを伴った権力」のゲットであった。キャロラインの権力に対する執着ぶりはちょっと異常なほどに強い。私は冗談抜きに彼女の最終目標は女性大統領だったのではないかと思っている。 彼女の方法は「正攻法では得られぬポストの奪取のために権力を持った男と寝る」で、次に「まわりの男がポストを得たことに嫉妬して足を引っ張るので、黙らせるためにその男とも適当に寝ておく」というちょっとすごいことになり「適当に寝ておいたまわりの男の中から、次の権力者になりそうな有望株が居たらそいつをプッシュして自分も引き上げてもらう」というものだった。罵られても差し支えないような小物は無視して寝ていない。 キャロラインの計画では、これで問題はないはずだった。 キャロラインは道徳観念がゼロなのではなく、「利用していいのは権力をもった男性と犯罪者だけ」という内なるルールを守っていた。 けれど、「グロウ アップ」していなかったラスティのせいで、前途洋々たるキャロラインの人生は突然終わった。一撃必死の矢は予想外の方向から飛んできた。皮肉なことに、「女の足は女が引っ張る」ことに。 ただ、グレタ・スカッキは微妙に違うかなあ、と思う。キャロラインはセクシーなだけではなかったという気がする。私の嫌いなハリソン・フォードが、色ボケストーカー中年を好演(キモいという意味で)。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2008-06-15 16:02:09) |
46. ひかりのまち
《ネタバレ》 この感じ、意地でもクリアに見せたくないこの感じ、そおかあ、「CODE46」のカントクさんだったわけか。なんとなく納得。 一言であらわすなら「ロンドンの労働者階級の人々それも中より下・ダメな男たちと働く女たち」というのがあまりにもしっくりくる。 出てくる男出てくる男、老いも若きもみな壊れていてマトモなのが全然居ない。居たと思ったら遊び人で女をモノのように扱う。 かたや女たちは、身の回りにマトモな男が居ないということがよくわかっていて、それでもダメな男と共存していく。ダメな男しか居ないんだから、少しでもマシな生活ができるように祈るしかないじゃないの。こいつが私や子供に及ぼす災難が、少しでも小さくなるよう祈るしかないじゃないの。 結婚しようが子供が生まれようが男がお金を持って帰ってきてくれることの保証はどこにもなく、何回恋人募集をしようがマトモな男が現れることはなく、ダメな夫と別れても子供が居るから縁が切れないうえ金の無心までされる。身内の男は父親も弟も現実から逃げている。まったく、どちらを向いても男が当てにならない。いろんなトラブルは女だけで解決するしかない状態。 なにか女にとっては身も蓋も無く救いのない世界…というところで、ひきこもり黒人青年と次女が接近するエピソードでラストを迎え、一筋の光明が示されたかに見える。 こういう美しくない現実を美しくない出演者によって見せるにあたり、「クリア」な映像で見せない、というのが一つの方法だったのだろう。 個人的には可もなく不可もないが、「日常を切り取って見せる」というだけで映画として成立するのかどうか疑問だ。もちろん脚本もあって演出もしたのだろうが、「美しくない出演者」「どれも中途半端に終わるエピソード」ときて、「(あえて言うけど)汚い映像」とくると、「…どうしてもそれを見なきゃいけませんか」という気になる。「映画ってなに」。 最も驚いたのは妊娠中の三女の無化粧の顔のシミのドアップではなくて、次女の前歯全面差し歯で思い切りスマイルだった。前歯が差し歯の女優が主役…イギリスだなあ、と思った(正直それが映画の感想)。 [CS・衛星(字幕)] 4点(2008-06-12 16:55:45) |
47. スリー・リバーズ
《ネタバレ》 火サスのような後味だがそれでもハリウッド映画なんだな。 カーアクションはちょっとすごいけど、それはそれ、という感じで終わってしまう。 なんといっても脚本がダメ。 サラ・ジェシカ・パーカーがハミ乳ミニドレスというハダカ同然の衣装でいきなり色気を出して迫ってくるところ、あまりの不自然さにプロの脚本とは思えない気がする。何をどうすればあの状況から迫る女が発生する?バツ一子持ち女があまりにもわかりやすいハミ乳ドレスで? 2人でさんざんシケこんだあと、お約束の「女の裏切り」を持ってくるところも、作り手の頭の中が「火サス状態」であることの証拠だなあ。「どうだ、驚いただろ?」とうれしそうに聞かれても、「火サス的には常道を踏んでいる」としか感想を述べようも無い。 帰ってきた怪しい弟をウロウロさせて注意を引かせておいて、犯人が死んだはずの男、というのはズルだし私は感心しない。この場合は犯人を当てられなかったから脚本が優れているというものでもない。 唯一の収穫はパーカーのハミ乳ではなくブルース・ウィリスの短パン姿であると私は断言する。 [CS・衛星(字幕)] 4点(2008-06-10 14:59:02) |
48. ペリカン文書
《ネタバレ》 長いっ。 ストーリーの面白さというグリシャムの職人技に頼り切った冗長な作品。 ジュリア・ロバーツは相当にやる気がなかったようで、本人がアクターズスタジオのインタビューで言っていたように場当たり的な演技。モノローグにおいてはほとんど棒読みという適当さ。デンゼル・ワシントンは出番が少なく、相手が白人女性であることで、観客に対する配慮からであろうが、あっても当然のラブ・シーンすらなし。 ベストセラーの映画化というのは、うまいくほうが珍しいのだなあやっぱり。 ペリカン文書の内容とか弁護士の死を追ったTV番組とか宣誓証書だというビデオの内容とかいう核心部分をすぐに観客に見せず、気をもたせてひっぱるあたりは単に的外れな演出というほかはない。。 なんとなく全体に名作「ジャッカルの日」的な演出を感じたので、映画ジャッカルへの憧れがあったのかもしれないが似ても似つかぬ駄作となった。 [CS・衛星(字幕)] 4点(2008-06-08 19:46:38) |
49. マイ・ハート、マイ・ラブ(1999)
《ネタバレ》 群像劇もやたらと乱発されるようになって、その質が問われる時期になってきたと思う。 群像劇といえばヒューマンドラマ。ヒューマンドラマといえば「心温まる」が枕詞。 しかし、「心温まれば」それでいいのかというと、やはり群像劇にもピンキリある。作り手の方々は、心温まって適当にお茶をにごして終われば合格点とは思わないでいただきたいものだ。 さてキャストだけを見れば超豪華版の本作はいかがなものかというと、「不発」とか「良すぎる素材を使って適当に調理」とかいう言葉がぴったりくると私は思う。 ジーナ・ローランズとOO7の夫婦ゲンカが見られるのはなかなか嬉しいものだし、全然似ていない3人の有名女優が姉妹という強引さも悪くはない。 大型犬を飼うのが家風だとか、「おこりんぼさん」という共通の口癖だとか、3人が姉妹だということをなんとなくわからせるあたりも、洒落た演出といえなくもない。 3人と007夫婦が親子なのかなあというあたりも、なんとなくわかってきて、ラストで全員集合させて終わりというのもありがちだ。父親の葬式でなかっただけマシというところ。 そう、これといって目新しいものが見つからない映画なのだなあ。 3人の中では、スカリー捜査官の無理が目立ったと思う。ジリアン・アンダーソン本人は、明るくサバサバした性格だそうだから、あのような役は想像を超えていただろうに。モルダー捜査官同様、何に出てもスカリーとモルダーでしかないのだから、もう映画で一発当てることなどあきらめたほうがいい。 それから、エイズについてイージーに扱いすぎていないか? 片や、末期で死んでいくゲイ青年、片や、感染者と知りながら愛が芽生えてハッピーにベッドインて、どうなのか。その感染者くんも、死期のせまった感染者の彼女からエイズを貰いたくてわざわざ貰ったと。それってどうなのよ。 ジョジョは、この先彼氏の発病の兆候にびくびくしながら暮らすわけですね。それと自分への感染の危険に細心の注意を払いながら。 それって、「愛してるから」ですべて片付く問題なのか? …やっぱりエイズについてはイージーに扱ってはならないと私は思う。 [CS・衛星(字幕)] 5点(2008-06-08 19:43:24) |
50. わが街(1991)
《ネタバレ》 スルメのような味わい深い映画だ。 冒頭では暴力の匂いが充満し、ひたすら暗い画面で危機感をつのらせる。通り魔に撃たれるフィルムメーカー、捨て子を拾ってうっとりしている危ない雰囲気の主婦。ほほう、これはきっとハギスの「クラッシュ」みたいな、人種間の亀裂をえげつなくバイオレンスタッチに描いた作品であろう。 と、思っていると、後半45分くらいの部分に、作り手の主張したいことが次々に現れる。 たぶんこうだ。暴力は憎しみから生まれる。憎しみは、持たざる者が持てる者に対して抱く。これをどう攻略すれば良いのであろう。 カスダンは、「人生を投げ打つような捨て身の福祉活動」とか普通の人に実現不可能なことではなく、身の回りで行う「見返りを全く期待しないふとした親切」こそ、それぞれの人が取り得る最良の方法、と言いたいようだ。 たとえばマックはジェインをサイモンに紹介するが、これはふとした偶然の思いつきで、後日サイモンに「感謝」されてしまうマックは意外に思うのだ。 マック夫婦が捨て子を引き取る事にも、見返りは何もない。 「広げよう親切の輪」それも無意識にね、という感じ。 私は特にサイモンとジェイン(若き日のアルフレ・ウッダード!)のラブストーリーが気に入っている。 英語には「(男女が)つきあっている」という意味の言葉がなく普通は「ゴー アウト」とか「デイティング」とかいう。まさに、「連れ出って外に出る」のが男女交際なんだなあ。確立されたデート文化である。 その形式は厳格に決まっていて、男性が女性の家の「玄関まで」迎えに行って、連れ出す。帰りは、「玄関まで」送り届ける。これが紳士的なデートの手順であって、「どっかで待ち合わす」ということばかりされたらそれは女性がバカにされている、お手軽に扱われているということになる。 わがサイモンも、手順どおりにジェインを迎えに行く。そして…あちらの男性にとって「デート文化」がいかに大切な存在であるかは、サイモンに見るとおり。 バツ一で大学生の娘がいて40超えであろうと、初デートでは高校生のように緊張する。 もしも、デートがうまく行って、帰りがけに彼女がキスのひとつでもしてくれればもう、天にものぼる気持ち…。 サイモンのデレデレ顔を見ていると、「デート文化」ってなかなかいいものだなあ、と思うのだった(日本には存在しない)。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2008-04-11 18:16:06) |
51. グリーン・カード
《ネタバレ》 大嫌いなマクダウェルとべつにどうでもいいドパルデューが演じるラブコメだ。 マクダウェルは「セックスと嘘とビデオテープ」「フォーウェディング」と何を見ても不快だし、顔はともかくスタイルが悪すぎる=ますます女性に好かれないタイプ。 と、ズルズルしたスカートで体型をごまかすマクダウェルに鋭い視線を送りながら見るのだった。 が、かたやドパルデューもいいかげんメタボだし、そういう意味では釣り合いが取れていると言えなくもない。(「美女と野獣」などとは決して認めん。) ラストまで見て思った。この映画はドパルデューにしてやられていますね。メタボなうえに鼻がデカすぎハンサムとはとても言えず英語もヘタな彼。…どこもいいところはなさそうだが、それをラストで観客を泣かせてしまうという離れ業。 特に、渋滞してタクシーを降り公園を走る二人、別々の部屋で質問に答える二人、肝心な所でヌケているドパルデューや、自信に満ちたマクダウェル、エンディングに向けて盛り上げ方の演出はうまい。そして感動のラスト。移民局の役人を背に抱き合う二人。「ふり」が「本物」に変わる瞬間の爽快さ。 しかしフランス男はこれだから侮れないなあ。マチュー・アマルリックとかチビなのに色気があったりするし。フランス男は規格外の魅力、なのかもしれない。なんかちょっとくやしいわー。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2008-04-09 18:54:47)(笑:1票) |
52. 天使にラブ・ソングを・・・
《ネタバレ》 ストレスを極力排除した楽しいコメディ。別の言い方をすればご都合だらけ。なんだけど、こんなに愛される映画となった理由の第一はもちろんウーピーだろう。あと、「カソリックの尼さん」ネタをうまーく扱ったところ。 「尼さんは撃てない」とか「尼さんの要求は断れない」とか「尼さんだらけで見分けがつかない」とか…非常にうまいと思う。尼さんギャグをいくつも考えるのはさぞ楽しかっただろう。 非カソリックどころか非キリスト教国である極東日本の観客としては、「カソリックの尼さん」の位置、意味について、興味深く学べるところがある。あのお衣装には「禁欲」以外にも「威圧」とかいろんな意味がありそうだなあとか。「坊さん」より「尼さん」のほうが「より聖なる」存在とされているようだなあとか。それは禁欲と深い関係がありそうだなあとか。 カソリックの尼僧の衣装というのは、いついかなる時でもすべてのエクスキューズになるみたいだなあ。それを本作は最大限に生かしている。 「デッドマンウォーキング」という映画で、スーザン・サランドンがとある宗派の尼僧を演じていたことを思い出す。そこの宗派では、尼僧は例の衣装を着ないのだ。普通の私服なんである。…普通の格好で刑務所に乗り込む彼女に、飢えた囚人たちの無遠慮な視線が浴びせられる。刑務官も迷惑そうに「なぜ尼僧の格好をしないのか。囚人には目の毒だ」と言う…なんて場面がありました。あの衣装は、「禁欲」と引き換えに、尼さんたちをすべての世俗的な害から守る役割があるみたいです。 非美人女優のウーピー・ゴールドバーグが堂々の主役を張り、しかもマフィアのボスの愛人…有り得ないような気がするが、最初から最後まで出ずっぱりでも「非美人」がマイナスにならず楽しめてしまうという本当にふしぎな女優さん。「包容力」という言葉が最もふさわしいと思う。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2008-04-07 13:01:57)(良:1票) |
53. 有罪判決/法廷に隠された真実
《ネタバレ》 ひさびさに見ごたえのある法廷ものを見た。 これは殺人事件とか法廷に場所をとっているというだけで、本来は心理モノとして見るのがいいと思う。ハリーが3人を殺害するについては、事前準備や殺害の詳細についてさえ全く描写されない。観客は「罪を犯した」という動かぬ事実として知らされるのみ。事件モノでは全然ない。 主人公の弁護士ロイが、自宅に帰らずあちらこちらを忙しく往復する様子を時間軸に沿って描く話だが、その訪問先の空気感の違いに注目したい。 ロイ対ハリーの場面では、交わされる言葉は少なく、すべてが深く重く、心の奥に突き刺さる。教会とか、病院のカウンセリング室とか、そういう空気感がする。 ロイ対「俗悪にまみれた勝ち組の人々」の場面では、すべての会話が「利益」を中心に回っていて、「利益」を超える価値観はそこには無い。ハリーとの対話で「神」とか「罪」とか「償い」とか「慈悲」についてしみじみ語り合った後に、思い切り脂ぎって「次の検事選に」とかいう会話をしているわけだ。この落差が見事である。 そしてもうひとつ、忘れてならないのはロイ対メル(事務所の手伝いのおっさん)だ。 メルの役どころとは何か。それは「俗悪にまみれて勝ち組を目指しているロイの心に埋もれた良心」である。ロイは、己の行動に自信が無くなったとき、メルに「これでいいのか」とたずねている。 バーでのウィスキーによる「洗礼」場面は、奇異に感じられるだろう。ロイに「これでいいのか」と聞かれていたメルの答えは「洗礼」だった。洗礼を受けるということは、メルの言うとおり、「天国へ行くか、地獄へ行くか、どちらかしかなくなる」ということで、メルは「ここから先は、常に〝何が正しいか〟を意識して行動しろ。さもなくば地獄行きだ」と言っているのだ。自分で決めるしかないのだ。 ハリーの妻との密会については、法廷でハリーに妻を責めさせる材料とするための強引な設定だったと思う。ハリーの無念さをそそってドラマ性を高めるための材料とはいえ、主役がアレック・ボールドウィンなのだから、依頼人の妻を食ってしまうなんてあまりにも当たり前に過ぎて、気に入らない。これは非常に残念だ。 が、全体としては見事な脚本とキングズレーの怪演で良作に仕上がっている。私には、ハリー、ロイ、ハリーの妻、メルのセリフは、ひとつひとつ深く心に落ちるものだった。なかなかそういう作品はない。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2007-12-17 14:30:51) |
54. 犯罪の系譜
お手上げです。どうしたらいいのかわからない。 今までに見たフランス映画の中でも、ダントツの難物だった。 これに比べたら、フランソワ・オゾンなんて分かりやすいと言ってもよい。 いわゆる「映画」を期待して臨むと間違います。私は見たことは無いが「前衛演劇」とかが近いのではないだろうか。そんでもって「前衛演劇」と「退屈」というのは近距離なのではないかしら。 なにしろいわゆるハリウッド映画の演出とは全く違う。ベルイマンの映画とかはワケわからないが、ベルイマンのほうがはるかにマシと思う。 衛星の解説によればルイス監督は巨匠という触れ込みだが、日本では3本くらいしか知られておらず、知名度がイマイチなのだという。が、この一本だけを見ても、「他のも見てみたい」とは全く思わせないから日本で受けていないのもあながちマチガイではないのではないか。なんだかワケのわからない文章になってしまった。 たとえば一瞬でも早送りしてしまったら話がわからなくなってしまうほど、会話に重きを置いた映画なのだと思う。が、残念ながら、私はフランス語が全然分からない。必死に字幕を追っていくと、およそ映画とは思えぬ哲学的な、そして小説的なセリフがバンバン続く。深読みしようとがんばってみるがすべての登場人物がおよそ異常な言動しかしないのでとても疲れる。疲れるだけ。 どなたか、この映画が面白かったという方の話を聞いてみたい。どこがどのようにウケたのだろうか。 ドヌーブがキレイなのは間違いない。50過ぎているにしてはあまりにもイケているので、お金を払うとしたらドヌーブに対してのみ。ドヌーブが出ただけでなく、マチュー・アマルリック(ミュンヘンとかキングス&クイーンの)とメルヴィル・プポー(「ぼくを葬る」の主役をやった)が出ているので、伸びる役者を見抜くという目はあるのかもこの監督。 [CS・衛星(字幕)] 3点(2007-12-09 20:04:14) |
55. クラッシュ(1996)
《ネタバレ》 ハギスの「クラッシュ」と間違えて見てしまった方にとっては、噴飯ものでありましょう。そりゃ災難でした。 どっこい私は衛星で放送を楽しみにしていたクチで、ひいきのスペイダー全盛期の美しさを堪能しようと…。や、スペイダーの美しさにはマチガイは無かった。確かにどの角度から見ても美男である。今のように太ってもいない。衣装がダサすぎるが、スペイダーのような美男であればそれもまた…。 が、この作品はスペイダーの美しさではカバーしきれないほど気色悪かったのであった。 基本はブラックジョークなんだと思う。悪趣味なコントなのだと思う。ラストシーンがあのように終わるのであるから、コントでいいのだと思う。 しかし全編に溢れて収まりきらないほどのえげつないセックスシーンは、私のような枯れ木状態の負け犬にはキツすぎた。ここまでエロを露出しないとダメかなあ。もう満腹なんですけど。 もともとコメディの素質があるスペイダーであるから、事故や障害によって性欲が刺激されハアハアとガッついていく様は笑えないこともない。でも、私は笑顔が凍りついて素直に笑えないのだー。 エロシーンの合間にブラックな笑いをはさんでいく、という試みは激しく観客を選ぶと思う。クローネンバーグにとって大爆笑のネタというものは、一般人が見ると笑顔が凍りつくレベル。…天才は孤独だなあ。 [CS・衛星(字幕)] 4点(2007-12-02 17:15:02)(笑:1票) |
56. 洗濯機は俺にまかせろ
《ネタバレ》 80年代を背景とした作品だという。そのころ確か、世の中はバブリーな景気にあふれていた、ように記憶している。「新しければ新しいほど良し」「高価なものほど良し」という価値観が、乱立する各種新店舗や、ビルや、都内にあふれる外車にもあらわれていた。と思う。 この映画には、ツルピカした新しいものや、ゴージャスなものが、全く出てこないし、人間もそうだ。そういう確かな美意識に裏打ちされ、新しいものを慎重に排除して、作られている。 で、出てくる人は誰も彼もなんとなく貧乏な雰囲気で、「バブルはどうなっていたのか?」とも思うのだが、そういうリアリティを求めた映画ではないんだろうたぶん。 富田靖子も「きれいな人だから」では全然なかったし、ラブシーンとて不発。各登場人物も、裏ビデオで拘留とか借金まみれとか不景気な話が続く。 では「ツルピカしたものやゴージャスなものが無い状態を楽しむ」以外に何かいいところがあるのかというと…なんていうか筒井道隆の木崎を見ていると、「過去に自分の知っていたいろんな男性(恋愛感情の有無問わず)」のことを、筒井が何かするたんびに思い出してしまった。「そうそう、こういうこと言う(男って)」「そうそう、こういう態度とるよね(男って)」。 木崎っていうのは、「次にこうする(言う)だろう」という予想をことごとく裏切らないやつなんです。木崎ってのは、いわば「男の最大公約数」なヤツ。「ザ・普通の男」。 ほのぼのしてていいんだけれど、私はこれはわざわざ映画にしなくても、という気もする。TVドラマで充分な内容ではないだろうか。なぜ映画化したんだろう…?というくらいドキドキも発見もない映画。 [CS・衛星(邦画)] 5点(2007-11-10 20:14:09) |
57. グッドフェローズ
《ネタバレ》 このくらいテンポよく軽妙に見せてくれれば文句はない。 スコセッシは、話を面白くする要素をいくつも盛り込んでいる。まず、ジミーとヘンリーがアイリッシュであること、そのため裏社会で生きるに「第2市民」のごとき位置から一生抜け出せないであろうこと、それなのに仲間内で最も異常な人物であるトミーを「生粋のイタリア人」にしたこと。 トミーがマザコンで、ママは変な犬の絵を描くことや、ヘンリーが文字通り〝女難〟で破滅していくこと。 これらのどこまでが実話なのか知らないが、なんとも面白い話に仕立てたものだ。 ヘンリー自身はギャングとしては大した人物ではないのだが、こいつは何しろ実力者へのゴマすりがうまいということを武器に、コバンザメ式に成り上がる。そして最後には、俗な言い方をすると「命根性が汚い」ために裏切って司法取引する。法廷で突然観客に向かって語り出すというけったいなシーンは、法治主義である現代社会を鋭くついている。「法律なんてものは空洞だ。すべての他人はアメとムチでどうにでもなる。」でも、もうやめたんだ、〝殺されたくないから〟。 〝順番を待たないですむ〟ことや、〝より良い席を用意してもらえる〟ことって、それ自体は大したことじゃないように見えるけど、己にその「価値」がないのにそれを望んでしまったら、その〝代償〟はとても大きい。大きいんだ。普通の人は「アメ」か「ムチ」がなければ、他人にサービスなどしないんだから。 そして、ヘンリーに群がった女(妻を含め)たちというのは、とても頭が悪いか、そうでなければ自分に対して誠実でない。なぜなら彼女たちは、ヘンリーにくっついていることで〝おこぼれ〟を享受しながら、〝順番を待たないですむ〟〝より良い席を用意してもらえる〟の担保を見極めようとしなかったか、見ないふりをしたか、どちらかであるからだ。 これは古今東西の女性に共通する重要課題であり、軽視してはいけないと思う。あなたはどうですか?「なぜこんなに良い待遇が受けられるのか?」と冷静に判断できますか?それとも見ないふりをしますか? なんてことを考えてしまいました。ヘンリーと女たちについて。「グッドフェローズ」は面白いです。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2007-11-07 18:11:05) |
58. セレブリティ
《ネタバレ》 どうやらこればっかりは、年齢とか経験とかで「客を選ぶ」映画だったようだ。 というのは数年前、まだ40の大台まで若干の余裕があり、ゆえに煩悩多き負け犬ライフを送っていたころに見た際は、「おもしろくない」という感想しか持てなかったからだ。が、今回「スカパーだから」というケチな理由により見直したところ…なんだ、とんでもなくおもしろいじゃないかあ。 とにかくジュディ・デイビスだ。中野翠によれば白人女優にしては珍しく〝お直し〟の入っていないという優雅なシワ顔、白黒映像によって、〝とびきりの美人〟でもなくブスでもないという、絶妙な映り具合となっている。そして、コメディエンヌとしてこれ以上ないというような愛らしいボケ連発、私は好きだ。 何よりロビン本人が、常に〝超のつくマジメ人間〟であることが、作品全体を通してずっと効いている。コメディだ。 白黒の理由は他にも、本物のセレブを何人も出演させることによるリアリティの低下を防ぐ意味と、色を排すことにより、客に考える暇を与えずドタバタと話を進めケムにまく、という効果を狙ったものと私は思う。「あっセロンじゃん」とか「あっディカプリオだ」という客の先入観を、少しでも薄めたかったのだろう。 アストンマーチンクラッシュ後のセロンの切れっぷりは、吹き替えを排してぜひとも耳で味わってもらいたいし、ディカプリオの壊れっぷりと王子風ヘアスタイルも、突き抜けた面白さがあった。 40を超えて夫に見捨てられたバツイチ教師の女性が、〝運命のいたずら〟であれよあれよと「セレブ」になっていく…そんな万に一つのとびきりの幸運を掴んだ女が、ジュディ・デイビスでなくしては「ケッ」という女性客の顰蹙を買わずにはいられないだろう。本当に不思議な女優さんだ。そして、女性にとっては勇気の出る映画である。 ケネス・ブラナー、ウッディ・アレンの役どころを引き受けたが、今回はジュディ・デイビスに完全に喰われたと思う。死ななきゃ治らないバカ…な「リー」なる男性は、当然憎めない。なぜだか美女に構われる。でも、また浮気する。ロビンよ、別れて本当に良かったね。 それにしても、監督アレンは、女性がキレるところを描くのが抜群にうまい。実体験によるのか。 トニー役の俳優さんが安倍晋三に見えて仕方がないのがただひとつの難であった。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2007-09-10 16:37:18)(笑:1票) |
59. WHO AM I?
《ネタバレ》 最後までしっかり鑑賞するつもりで見始めたら、嫌になってやめてしまう映画というのがある。こないだスカパーでやっていた「ライアー」がそれだった。あんなに魅力的なキャストだというのに、30分も見ないうちに、どうにもこうにも辛抱ならず。 さて逆に、最後まで見る気などないのに、やめられなくなって、しっかりエンディングを迎えてしまう映画というのもある。本作がそうだった。 「興味はないがたまにはジャッキー・チェンの顔を3分くらい見てみるか」というノリで見始めて、エンディングロールまで見てしまった。恐るべしジャッキー・チェン。 これは脚本・監督もジャッキーが参加しているから、ジャッキーの本音が色濃く出ていると思っていいのだろう。それで、私はジャッキー・チェンという人がいかに「言葉」に重きを置かないか、ということについて改めて気付いたのだった。 ジャッキーは英語なんぞで大事な言葉を語ったりしない。や、べつに山本未来より英語が下手だとか、そういうことはジャッキーにとっては重要ではなくて、ジャッキーにとって英語はやっぱり自分の言葉ではないんだ。 ジャッキーは執拗に、英語を否定する状況を生み出し続ける。英語の通じないアフリカ原住民、せっかく英語の達者な山本未来と巡りあえても、薬草を噛んだせいでずっとしゃべれない。 アフリカ原住民のセリフに字幕をつけなかったことは、明らかにジャッキーの意図であろう。彼はこう言いたい。「言葉以外の要素で、この映画を味わってくれ」。 私はこの映画には「英語、それがナンボのもんじゃ」というジャッキーの反骨心を強く感じる。もちろん、小谷野敦の言うような、英語を母国語とする人々の「英語万能主義」を前提としての。 0.2秒しか映らなかったけど本人は嬉しかったであろうケイン・コスギには笑ったし、山本未来の英語はネイティブに近いと感心したし、ジャッキーのアクションも「スタント有り得ず」という「安心感」をもって堪能できる。 ジャッキー・チェンは言葉によって人間の真実を伝えようとする方法を否定し、どんな窮地に陥ってもシリアスに突入することを拒否し、この映画を撮った。自ら演じた。大したもんだ、と言っとく。 *アフリカの砂漠に突如「三菱石油」、「ふそう陸送」が大写し。シュールだなあ。CM料もらっているだろうな。ま、許す。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2007-08-29 12:31:11)(良:2票) |
60. ブレイン・スナッチャー/恐怖の洗脳生物
《ネタバレ》 しょうこりもなくまたスカパーを見ている。 SFやホラー系はBC級まで幅広く網羅しているつもりだったが、これは未見。 ちょっと邦題に悲惨さを感じる。原題は原作どおりイカしているのになあ。 ヒロインの髪型や服装に時代を感じる。が、男性にはほとんど時代を感じなかった…。 さて、本作は13年前の凡庸な監督の作品としては、なかなかの出来と思った。 見せ方もそうダサいものとは感じられず、アクションも悪くないと思う。 私は寄生生物のキモさに目をそむけたくなった。触手が、触手がプルプル…。 黒人の友達がカメラ目線で「あいつにだけは寄生されたくないぜ」と言ったり、アンドリューの不自由な足がラストでちゃんと効いてくる、などのあざとい演出はあるが、まあそういったお約束どおりの展開のわりには、飽きさせず、最後まで楽しめる。 何よりサザーランド父の存在感には脱帽した。彼も今では「キーファーのお父さん」と呼ばれるようになってしまって、嬉しいのか淋しいのかどちらだろ。 しかしまあ、父はすごい俳優さんなのであった。エイリアンから「お前は手ごわい人間だ」と言われるに足る人物を、余裕しゃくしゃくで演じきった。 善玉であるにもかかわらず、「この人何か悪いこと企んでいるのでは」と思わせるのは難しそうだ。サザーランド父はそういったキャラに本当にぴったりだ。あの意地悪い目、他人を嘲笑うかのような口元、やー、サザ父の存在感はすごい。 息子役の俳優がイマイチ無名でパンチに欠ける役者さんであったため、なおさら父が強調され、父に始まり父に終わる作品となったのであった。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2007-08-20 11:14:38) |