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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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61.  イニシェリン島の精霊 《ネタバレ》 
「何だったのだろうか」 という一言が、エンドロールが流れ始めた瞬間に大きな疑問符と共に脳裏を埋め尽くす。正直なところ、正確な理解は追いつかなかったし、良い映画だったのかどうかの判別すらも、その時点ではつかなかった。 鑑賞から1日以上だった現時点においても、その心境に大きな変化はなく、「困惑」の域を抜け出せてはない。 ただ、その「困惑」を覚えることは、本作の鑑賞体験において極めて正しいことだったと思う。  年を食った二人の男が織りなすとても可笑しくて、笑えないお話。  何もない、何も変わらないことに対する終わりのない閉塞感が、突如としてある“衝動”を生む。 周りの人間たちから見ると、それはあまりに突然の変化に見え、とてもじゃないが理解が追いつかない。特に、前日まで楽しく時間を共有していたと信じていた“親友”にとっては、あまりに理不尽で悲劇的な“心変わり”であったろう。  前述の通り、鑑賞者として主人公二人がその奥底に孕んでいる心情の正体を正確には理解できていない。でも、薄っすらと見え隠れする心の機微は何となく感じ取れる。  それが、アイルランドの内戦下でありながらまるで蚊帳の外な環境的な疎外感によるものか、そんな環境で凡庸な人生を終えようとする老齢の焦りなのか、はたまた長年の親友への友情を越えた感情に対する困惑からなのか、いずれにしてもその理由を他人が断定することはできないし、する必要もないだろう。 感情の理由も正体も、それは彼らだけのものだ。  自分自身、40歳を越えた頃から心の中に小さな点のような“焦燥感”が生まれ、それが徐々に大きくなっていることを感じている。 それが、今後の人生観に少なからず影響を及ぼしていることも否定できない。 そう、世界の果てのようなアイルランドの孤島でなくとも、本作で描き出された焦燥や衝動や狂気は、世界中の誰しもが実は孕んでいる感情なのだと思う。   本作の最後、コリン・ファレル演じる主人公は、変わらない、終わらない現実を理解し、受け入れ、改めて親友と向き合う。 数日間の小さく静かな“内戦”により、二人はそれぞれ決して小さくないものを失ったが、改めて人間として付き合い続ける覚悟が生まれているように見えた。  果たして彼らがまた親友に戻れたかどうかは不明だけれど、14時の時報が鳴る頃にはパブでビールを酌み交わしている姿をせめて想像したい。
[映画館(字幕)] 8点(2023-02-09 22:16:08)
62.  THE GUILTY ギルティ(2018) 《ネタバレ》 
鑑賞後、映画情報サイトで本作の詳細を確認したところ、“出演”の項目が主演俳優のヤコブ・セーダーグレンの表記のみで、残りのキャスト情報は“声の出演”になっていた。 当然認識していたことではあったけれど、本作が極めてミニマムなキャスティングによるアイデアに溢れた密室サスペンスであったことを再確認した。  とある業務上の問題行為による謹慎処分で緊急通報司令室に飛ばされているらしい刑事の男が、現場復帰前夜の職務で受けた一つの緊急通報により、人生の岐路に立たされる。 緊急通話の“会話劇”のみで紡ぎ出される或る事件が、緊迫感たっぷりに描き出されると同時に、主人公の置かれている立場や彼の人間性が浮き彫りになっていく様が、とても巧みだった。  主人公が偶然にも受けてしまった事件そのものの真相もサスペンスフルだったが、その顛末によって突如として彼本人に突きつけられた“罪と罰”の描写が非常にスリリング。 映し出される舞台は一貫して緊急司令室内のみであり、1カットも“外”の様子が挟み込まれることはない。故に映画的な絵面は地味なはずなのに、その緊張感をキープし続ける映画術は見事だった。   人間誰しも、自分が犯した過ちに対して気づかないふりをしてみたり、必死に正当化したりして、自分自身に対して「嘘」をついている。 ただ、ふとした瞬間に、その嘘を自ら暴かなければならなくなったとき、どういう言動に至るのか。そこに、人間としての本質が現れるのかもしれない。  本編を通じて、主人公は方々に電話をかけつづける。 ラストカット、彼は誰に最後の電話をして、外への扉を開けたのか。 (最後に扉を開ける映画は大体傑作説を本作は証明している)  デンマーク産のなかなか妙味な作品だった。 あと、本作ほど自室のPCモニターで“ヘッドホン”をして鑑賞するスタイルに相応しい映画も他に無いだろうと思う。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-02-04 00:03:03)
63.  マイマイ新子と千年の魔法
「この世界の片隅に」の衝撃的な感動から6年あまり、片渕須直監督のアニメーションの真髄は、そのさらに7年前に製作された本作の中に既に息づいていたことを、今更ながら思い知った。ある平日の深夜に気軽に鑑賞したのだが、想像以上に傑作だった。  山口県防府市の農村に生まれ育った主人公の新子と、東京から転校してきた貴伊子との出会いと育まれた友情。 共に過ごしたその日々は、一年にも満たない短い期間のできごとではあるけれど、深く、瑞々しく描き出される。 不可思議ながらも安らぐアニメ世界。澄み渡るように深い情感と、膨大な時間を超えた邂逅が、ちょっと味わったことの無い感動を生んでいる。  何やらファンタジックなタイトルではあるけれど、実際に描き出されるできごとは、実は決して特別なものではない。 この時代の日本のどこにでも存在していたであろう少年少女たちの他愛もない日々と、時代がもたらす普遍的な悲しみや苦労、そしてすべての子供たちが一度は巡らせたであろう“空想”によって、本作の物語は紡がれている。  ただ、描かれるできごとが普遍的であるからこそ、本作は形容しがたい情感を生み出しているのだと思える。 決して誰もが裕福ではない時代の中で、子どもたちは時に寂しさや悲しさを覚えつつも、それでも笑って、明日もまた会う“約束”をする。 その一日一日の積み重ねが、間違いなく「今」に繋がっているということを、千年という膨大な時の流れを引用しつつ、本作は雄弁に物語っている。  それはまさに「この世界の片隅に」で描かれた“すずさん”の人生模様に通じるアプローチだった。 そして、“すずさん”が生き抜き、命を継いだその先に、本作の時代と少女たちの人生が存在するのだということを“空想”すると、より一層芳醇な感慨を覚えた。   空想する喜びを既に知っていた新子は、生活の傍らにあった「現実」の悲しみを知る。 現実の悲しみを既に知っていた貴伊子は、新たな環境の中で「空想」する喜びを知る。 そこには時代に対する真摯な視点と共に、少女たちの成長に対する慈愛が満ち溢れていたように思う。  エンディング、コトリンゴが奏でる楽曲に包み込まれながら、「ああ、いい映画だ」と確信した。
[インターネット(邦画)] 9点(2023-01-30 23:14:22)
64.  非常宣言
航空機パニック×感染パニック×韓国映画、その触れ込みから想像し得る映画の構図は、予告編の段階で極めてエキサイティングで鑑賞意欲を掻き立てられた。 ソン・ガンホ、イ・ビョンホンというもはや国際的映画俳優である2大スターのキャスティングも、古くからオースター映画の代表格だった航空機パニック映画の系譜であり、期待感を煽った。 結果的に、想像通りにエキサイティングな映画であったことは間違いない。  ただし、注意しておくと、本作は決して褒められた仕上がりの映画ではない。 ストーリー展開は、娯楽映画であることを踏まえても、リアリティに乏しく想像以上に破茶滅茶だった。主人公らをはじめ、登場人物たちの言動や心理描写も、割と大雑把でありお粗末。 限りなく“トンデモ映画”に近い映画世界のテンションには、ときに閉口してしてしまうことは避けられないだろう。  が、しかし、それでも成立させてしまうのが、やはり韓国映画の“地力”の強さだ。 強引だろうがなんだろうが、積み重ねられた二重三重の絶望的パニックが、すべての人間が実は孕んでいる悪意と脆さ、そして尊厳をあぶり出している。  タイトルでもある「非常宣言」を発した上で、領空侵犯を犯す韓国の民間機に対する自衛隊機の対応の様など、日本人鑑賞者として色々な感情が渦巻くシーンもあり、文字通り二転三転する不安定なストーリーテリングには、浮遊感と居心地の悪さを存分に感じる。 ただ、その“乗り心地”の悪さこそ、このパニック映画のテーマに相応しいと思った。  往年のハリウッドの航空機パニックとは異なり、ハッピーエンドではありつつも、明確な“傷み”をしっかりと映し出す姿勢も、韓国映画らしく味わい深い。
[映画館(字幕)] 7点(2023-01-30 23:10:50)(良:1票)
65.  RRR
2022年の終盤に映画好き界隈の中で熱狂的な話題になっていたインド映画が、地元のIMAXシアターでリバイバル上映されていたので、これを逃す手はないと勇んで観に行った。 一定以上の満足は想定していたけれど、この映画を映画館で観られたことに対して、想定以上の大正解を得られた。  S・S・ラージャマウリ監督の前作「バーフバリ」を鑑賞したときも、その圧倒的なスペクタクルにクラクラしたものだったが、今回はその時を完全に上回る鑑賞体験だった。 作品的な好みもあろうが、やはりこういう映画は劇場鑑賞するかしないかで雲泥の差が生まれ得るものだろう。(「バーフバリ」は自宅鑑賞だった) 今回、IMAXで鑑賞できたことは本当にラッキーなことだったのだと痛感した。  “漢”同士のぶつかり合い(とじゃれ合い)をこれでもかと見せ続けるストーリー展開には、躊躇もなければ、遠慮もない。 ニッコニコの友情シーンから、キレッキレのダンスシーン、バッチバチの対決シーン、そしてガッチガチの共闘シーンに至るまで、二人の主人公の存在感のみで描き、映画という舞台に叩きつけている。  荒れ狂う大海原のように展開するストーリーも物凄い。 大英帝国支配下のインドを舞台とした友情劇と復讐劇と逆襲劇が、幾重にも折り重なり、インド映画でしか成立しないような豪胆なストーリーテリングを見せる。 そのストーリーは、中途半端な規模や心意気の映画であれば、とてもじゃないが成り立たないだろう。 あらゆる常識の範疇を超越して、ただただひたすらに大娯楽を追求した映画世界にのみ許される文字通りの「神話」であった。  もうそこに、既成の理屈なんてものは存在しない。 2時間を超える映画は流行らないとか、映画は配信の時代になるなんていう浅い固定概念なんて蹴散らし、映画という娯楽の楽しさが爆発しているようだった。   究極の力技映画。その圧巻の3時間は、「幸福」と呼んでいい。
[映画館(字幕)] 10点(2023-01-21 21:45:13)(良:1票)
66.  クライシス(2021)
“オーバードーズ(Overdose)”というキーワードで伝えられる薬物中毒に関する事故や事件に対して、遠い国の生活環境や価値観が異なる人たちの中で起こることだと、認識が浅い自分のような者にとっては、本作が描き出そうと試みた「危機感」を正しく理解するために、時間と知識が必要だったと思う。  アメリカの現代社会の中で蔓延する合成鎮痛剤にまつわる犯罪や陰謀、実害を3人の異なる環境の主要登場人物の視点から紡ぎ出すストーリーテリングは、かつてスティーヴン・ソダーバーグ監督が描いた「トラフィック」と酷似していた。 「トラフィック」は、取り扱われる題材がコカインの密輸ルートであり、ある意味分かりやすい麻薬犯罪とそれに伴う暴力や悲劇が描きされるので、危機感の実態も認識しやすく、映画としても娯楽性を高めやすかったと思う。  だが、本作で題材とされる合成鎮痛剤オピオイドは、あくまでも合法の薬剤であり、その問題の実態を理解していない無知な者には、ストーリーに張り込みづらかったことは否めない。 事実に対する無知は、鑑賞者側の責任が大きいと痛感する一方で、同時に本作のストーリーテリング自体も、決して上手くは無かったと思う。  本作の一番大きな弱点は、3つのストーリーラインが、最終的に上手く絡み合ってこないことだろう。 前述の「トラフィック」には、国境や生活環境を超えた全く異なる数々の人生がまさに“交錯”することに、ストーリ展開の面白さがあった。 しかし、本作の3つのストーリーラインは、ラストの顛末において、部分的に重なり合う部分もあるが、そこに物語としての必然性やロジックがなく、強引な印象を受けた。 ゲイリー・オールドマン演じる大学教授のストーリーラインについては、結局絡むこともなく、他の2つのラインとは題材自体が微妙に異なっているようにも感じてしまった。  主要キャラを演じたゲイリー・オールドマン、アーミー・ハマー、エヴァンジェリン・リリーは、それぞれ熱演していただけに、ストーリー的な充足感に欠ける帰着は残念だった。(エヴァンジェリン・リリーって何の映画に出てた人だっけと思いつつ鑑賞を終えて、“ワスプ”か!と後で気づいた) みんな大好きミシェル・ロドリゲスの出演や、ジョニー・デップの娘リリー=ローズ・デップが麻薬中毒者役を印象的に演じていることなど、出演陣のトピックは豊富だったので、もっと脇役を含めたキャラクターたちの顛末をしっかり描いて群像劇としての見応えを深めてほしかったとも思う。   映画作品としての仕上がりには難点があるが、本作が描くテーマ自体は、自分自身をはじめ無知な者にとっては事程左様に重要なものだったとは思う。 違法薬物ではない麻薬問題だからこそ、この映画が伝える危機感は、より身近なものとして着実に私たちの生活に忍び寄っている。いや、もはや蔓延していると認識すべき事象なのかもしれない。
[インターネット(字幕)] 6点(2023-01-15 00:12:26)
67.  アバター:ウェイ・オブ・ウォーター
映画を観たときの、面白い、面白くないの判別は、当然のことながら鑑賞者一人ひとりの「価値観」に委ねられることが普通だろう。 どんな映画であっても、その是非を判別し支配するのは、個々の鑑賞者だ。 もちろん、本作も一映画作品としてその立ち位置は変わらないはずだけれど、私は鑑賞中、その立ち位置が逆転しているような感覚を覚えた。  圧倒的な映画世界が、個々人の小さな価値観や人生観なんて一旦意識の範疇から弾き飛ばし、文字通りのその世界観に「支配」されている感覚を覚えた。 そうして映画世界の中を巡り巡って、最終的には、彼方に追いやられていたはずの鑑賞者一人ひとりの精神世界にたどり着く。 そういう「映画体験」を、ジェームズ・キャメロンは、また私たちにもたらしてくれていると思えた。   しかし、映画作品としての評価は賛否両論で、酷評が多いことも十分理解できる。 本作鑑賞後に、改めて13年前の前作を再鑑賞してみたけれど、続編である本作の描き出したストーリー性は希薄と言わざるを得ない。 敢えて意図的なことだとは思うが、ストーリー展開は前作の焼き直し的な要素が多く、親子関係や環境問題(捕鯨問題)を描いた全体のテーマ性もありきたりであり、新鮮さや、新たな価値観の発見はほぼない。  前作においては、主人公ジェイク・サリーが、身体的にも精神的にも不遇の状態の中で、“アバター”を介してまさしく「再誕」していく様が、ストーリーの核心であり、ドラマ性を生んでいた。 だがしかし、本作のジェイクは、複層的な意味ですっかりナヴィ族の「顔」となっており、彼が元地球人であることの葛藤や苦悩がまったくと言っていいほど描かれていない。それが主人公のキャラクター的にも希薄さに繋がっていたと思う。  その一方で、新登場するジェイクの4人子どもたちのキャラクター造形には、それぞれドラマ性があり、魅力的で、今後の可能性も期待できた。 生物の“種”を超えたハーフであることや、出生が明らかではないという“特異性”を持った彼らの存在性は、多様性極まる現代社会にも通じる要素だったと思う。 同世代の地球人“スパイダー”も含め、彼らの今後の生き様が、次作以降の本シリーズの価値を決定づけるのではないかと思える。  というわけで、傑作とは言い難い脆さも多い超大作ではあるが、Web配信も入り乱れる昨今の映画産業の中において、本作ほど映画館での鑑賞が「必須」な作品もなく、少なくとも、192分の上映時間の間、“異世界”にトリップできることは間違いない。 そして、ジェームズ・キャメロンが追求し続けるその映画表現の可能性と価値は、やはり揺るぎないものだと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2023-01-08 23:44:06)
68.  花と嵐とギャング
「バカヤロー」と高原の只中で叫ぶ高倉健の悲しみとも喜びとも受け取れる表情で本作は終幕する。 正直、唖然としてしまうというのが健全な印象だと思う。 おおらかというか、テキトーというか、1960年代の昭和真っ只中の国産娯楽映画のエネルギーが、良い意味では満ち溢れ、悪い意味ではダダ漏れしている。  鬼才・石井輝男監督作で、端から「喜劇」と割り切っている作品なので、破天荒なストーリーテリングに対して真剣にダメ出しをするのは野暮だろう。 登場するギャングの面々の滑稽さも含めて、ハットとスーツに身を包んだその佇まいを堪能するべき作品だと思う。  ただ、とは言っても、あまりにもキャラクター造形やストーリー展開がおざなりには見えてしまい、娯楽映画として「楽しい!」とは、中々思えなかった。 主演の高倉健、鶴田浩二の当代きっての二大俳優は、その風貌は流石に渋く、格好いいけれど、演じているキャラクターの人間性が浅く、魅力的に思えなかった。 そういう演出なのか、意図的な演技プランなのか判別がつかなかったが、彼らの演技自体もあまりにも“大根”で、終始半笑いを禁じ得なかった。  まあそれらも含めてキュートに感じたり、60年以上前の時代を感じて、カルト的な楽しみ方をする作品なのだろう。
[インターネット(邦画)] 3点(2023-01-07 23:07:51)
69.  グッドフェローズ
暴力と虚栄を振りかざして、傍若無人な人生を謳歌するギャング稼業の面々は、揃いも揃って狂人揃いであり、愚かしく、人間的に同調できる要素は皆無だ。 ただ、その虚無的な人間模様が、まさに映画でしか味わうことが許されない情感と感触を生み出していることも事実。 マーティン・スコセッシ監督によるあまりにも有名なギャング映画は、その知名度に相応しく紛れもない傑作だった。  3年前の年明けにNetflix映画「アイリッシュマン」で、スコセッシ監督の巨匠ぶりと、彼がそのフィルモグラフィーにおいて培ってきたギャング映画の文脈を心ゆくまで堪能した。 そして未見だったこの30年以上前のギャング映画の金字塔を初鑑賞して、すでにその礎が凝縮されていることを思い知った。 「アイリッシュマン」にも出演していたロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシは、本作撮影時は40代後半で俳優としても脂が乗り切っていて、映画世界の中で文字通りギラついている。彼らの発する狂気性が、このギャング映画を唯一無二のものにしていることは明らかだった。  そしてその両名優に負けずとも劣らないギラつきを発する主人公を演じるレイ・リオッタの存在感も抜群だった。 本作以降の幾つもの作品で、レイ・リオッタという怪優は絶妙な気味悪さと共に数々の悪役やサイコパスを演じ続けていたが、本作の出演によりその映画俳優としての地位を確立したのであろうことを痛感した。昨年(2022年)の訃報を改めて残念に思った。  「グッドフェローズ(原題「Goodfellas」)」は、スラングで「信頼のおける仲間たち」という意味。 ギャング映画において、溜まり場で「こいつは良いやつだ」「俺達の仲間だ」と紹介し合うシーンはよく描かれる。ただし、その信頼関係は、あまりにも軽薄で表面的なものであり、彼らの人間関係の脆さと危うさを多分に孕んでいる。 本作においても、主人公のモノローグで「Goodfellas」の意味が説明された後、急速に彼らが築いた人間関係は虚無的に崩壊していく。  そこには、ギャングたちの愚かさが如実に表されると同時に、彼らが暴力と虚栄によって必死に塞ぎ込み抗ってきた貧しさや人種的差別、生まれ持ったヒエラルキーが顕になっていた。 前述の通り、ギャングたちの生き様に同調も同情もできないけれど、結局、自分が心の底から忌み嫌った体制に“フェラ”をすることでしか、生き延びる術を見い出せなかった主人公の顛末は、あまりに悲しく、あまりにも虚しい。
[インターネット(字幕)] 9点(2023-01-03 00:38:21)
70.  新・男はつらいよ
今年も正月は“寅さん”からスタート。元日の夜半、シリーズ4作目にしてしっかりと定番化したキャラクター描写とお決まりの喜劇が心地よく身にしみる。  前作(第3作「男はつらいよ フーテンの寅」)は、舞台設定やストーリーテリングがやや脱線気味でまとまりがない印象があったが、本作は「新」という冠のもとで、原点回帰というか、本作以降も続くであろう定形が固まった印象を受ける。  決して特別に感動的な話が展開されるわけではないが、渥美清演じる車寅次郎の特異なキャラクター性を軸にしてベタな喜劇が安定していたと思う。  ヒロインの描写がやや表面的で、彼女が抱える人生模様に踏み込みきれていないようにも思うが、自身の実父の死に対する悲しみを、とらやの面々の滑稽な様を目の当たりにしつつ深めて、自分の中の本当の思いに気づく様は印象的だった。  寅次郎は相変わらず馬鹿で迷惑な男だけれど、人間誰しも素直になれない不器用さや愚かさは内包しているもの。これからも、時代を越えて、この国の人たちは寅さんに思いを重ね続けるのだろう。
[インターネット(邦画)] 7点(2023-01-01 23:57:45)
71.  ナイブズ・アウト:グラスオニオン 《ネタバレ》 
ジェームズ・ボンドから解放されたダニエル・クレイグが名探偵ブノア・ブランに扮するNetflixオリジナルミステリーシリーズ第二弾。 二作目にして、名探偵役がすっかり板についているダニエル・クレイグ。この無骨な俳優が、このウィットに富んだ名探偵役にこれ程ハマるとは思わなかった。 まず言いたいのは、引き続きシリーズ作を展開していってほしいし、クレイグには長くこのキャラクターを演じ続けてほしいと思う。  前作は、大富豪の豪邸を舞台にした血族同士の諍いが、ミステリの王道よろしく描き出されていたが、続編となる本作でも、孤島でのバカンスに集められた旧友たちの確執と復讐が描き出され、これもまたミステリの王道的展開だった。  最新のミステリ映画として、斬新な設定やアイデアばかりを散りばめるのではなく、アガサ・クリスティやコナン・ドイルの推理小説の世界観を引用して、現代劇として描き直すという趣向がこのシリーズの特徴であり、ユニークな点だと思う。 そこにブノア・ブランという新たな名探偵キャラーを創造し、現代的な視点や価値観を盛り込みながら物語を紡いでいくことで、フレッシュな娯楽性を生んでいる。 「古典的」と言ってしまえば確かにそうかもしれないが、それ故のミステリの芳醇さがあり、また一方では単なる古典のリメイクでは味わえない新旧混在の味わい深さがあると思う。  ストーリー上のキーワードでもある“グラス・オニオン”。「天才」という金づるに群がる人間たちの空虚な関係性が、このタイトルと、劇中登場するガラス張りの玉ねぎ型ペントハウスに象徴されている。 人間の虚しさや、愚かさの本質を描き出すに当たって、時代性なんてものは関係なく、古いミステリのフォーマットでこそ際立つものなのかもしれない。  大豪邸、孤島、とくれば次はいよいよ“特急列車”かな。期待大。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-12-25 13:52:14)
72.  罪の声 《ネタバレ》 
昭和の大事件や未解決事件を題材、モチーフにした社会派サスペンス映画は好きだ。 戦後の高度成長期を経て貧富の格差が大きくなるに連れ浮き彫りになる社会の病理と、それに伴って巻き起こった数々の大事件は、現代社会向けて警鐘を鳴らし続けていて、その歪がふとしたはずみで裂けて顕になっているように感じる。そこには、多様な時代的転換と、人間ドラマを孕んでいる。  本作も、物語の題材になっているのは、1984年から1985年にかけて発生した「グリコ・森永事件」であり、実在する企業名こそ架空のものに差し替えられているが、その他諸々の要素は比較的多く用いられている。 私自身は、事件当時3歳で、当然ながら事件についての記憶はほぼ無いが、青酸ソーダが混入されたというグリコ社のお菓子もよく食べていた年頃だろうから、自身の記憶以上に身近な事件だったのかもしれない。  また本作のキーポイントとなる“声の主”の登場人物らとはほぼ同世代であり、彼らが辿った人生模様や、時代感は想像しやすく、感情移入しやすかったことも間違いない。 特に、妻子を持つ身として、星野源演じる曽根俊也に突きつけられた衝撃の事実と陥った苦悩と葛藤は如実に伝わってきた。  「グリコ・森永事件」という事実に着想を得て、フィクションを肉付け、展開していったストーリーテリングも巧みで引き込まれた。 過ぎ去った時間と真相に翻弄されつつも、現代を生きる当人たちが、かつて「闘争」という名目において掲げられた「正義」の浅はかさと、それが取り返しのつかない不幸を生み出したという事実を突き付ける帰着はとても良かったと思う。 非常に重厚な物語構造であり、ぜひ原作小説も読んでみたいと思った。  ただ、ストーリーの重厚さを認める一方で、映画的はどこかあっさりとした印象も否めない。 一つ一つの演技や演出が稚拙だったとは決して思わないし、それぞれが適切なパフォーマンスを見せていたとは思うのだが、この物語に相応しくない“軽さ”を感じてしまった。  その理由として考えられる要素が二つ。 一つは、土井裕泰監督がどちらかと言うとテレビ畑寄りの作り手なので、良い意味でも悪い意味でもテレビドラマ的なライトさが垣間見えてしまっているのかもしれない。  もう一つは、主演俳優の存在感の軽さ。 主演の小栗旬は、決して悪くなく、役柄に合った役作りで真っ当な演技をしていたと思う。しかしながら、演じた阿久津英士というキャラクターに深みを感じることができなかった。 バックボーンを映し出す描写がないことなど、そもそもキャラクター描写が薄かったこともあるが、いずれにしても主人公としての厚みが足りなかったように感じる。  ラストシーンで、テーラーの曽根俊也が、阿久津の着ていた背広のサイズが合っていないことをずっと気にしていたと言う。確かに、劇中小栗旬の容姿がいつもと比べて何か格好悪いなという違和感は付きまとっていた。 でも、もっと存在感が“重い”俳優であれば、サイズの合わない背広を着ていてそれが不格好に見えたとしても、その不格好さも含めて“役に似合わせる”ことができるのではないかと思う。 そういう実在感が、本作の小栗旬には表現しきれていなかったように思った。  星野源の配役がマッチしていただけに、小栗旬の役に対する適性が余計に際立ってしまっているのかもしれない。 最後に、配役という点で言うと、過去の復讐心を思い出す曽根俊也の母親役に梶芽衣子をキャスティングしているのはナイスだと思った。「修羅雪姫」の主題歌が聴こえてきそうだった。
[インターネット(邦画)] 6点(2022-12-24 17:53:18)(良:1票)
73.  バイオレンスアクション
チープなアクション表現と、安っぽくて素人臭いカット割りに編集。冒頭数分のシーンのみで、絶望的な「これじゃない感」を感じると共に、「駄作」であることを確信した。 既刊の単行本を前作保有しているれっきとした原作ファンとして、このあまりにもお粗末な映像化は噴飯ものだった。  そもそも本作の制作陣は、この原作漫画の魅力を全く理解していない。 ピンク髪のゆるふわカワイコちゃん銃を振りかざしてアクションを繰り広げればいいと思っているようだが、まったくもってお門違いだ。  主人公ケイを実写化するに当たって、最も注力すべきは、そのビジュアル的なキュートさ以上に、溢れんばかりの狂気性とサイコパス性だ。 ケラケラしながら「現場」にデリバリーされ、まるで散歩でもするかのように苛烈な“殺し”を遂行するその異常な様こそが、原作漫画の醍醐味であり、ヒロインの魅力だろう。 タイトルが端的に示している通り、ゆるふわの描写の中で急角度に挟み込まれる“バイオレンス”が、この作品の核心でなければならなかったと思う。  そういった表現が殆ど皆無なまま、アイドル女優による只々ゆるいばかりのアクションを見せられては、原作ファンとしてがっかりせずにはいられなかった。 百歩譲って、上映規模の問題から、バイオレンス描写を抑えてレイティングを広げなければならなかったのだとしたら、せめてアクション描写のクオリティは一定以上のレベルを備えてほしかった。 昨今、「ザ・ファブル」や「ベイビーわるきゅーれ」等、同じく殺し屋が主人公の国産アクションの良作が生まれ続けている中で、本作のレベルの低さは明らかに制作陣の怠慢だろう。  漫画よりもマンガみたいなバカバカしいアクションシーンの羅列、滑りっぱなしのギャグ描写、期待していた映画化が散々な仕上がりであまりにも残念。 この映画化は無かったことにして、Netflixあたりで遠慮なしのバイオレンス映画に再挑戦してくれないかなと、希望を持ちたい。
[インターネット(邦画)] 2点(2022-12-24 17:48:40)
74.  トロール 《ネタバレ》 
北欧の寓話に登場する“トロール”が、現代のノルウェーに出現してパニックを引き起こすというプロットを半笑いで見ながら、一体どんな映画だと懐疑的に鑑賞を始めた。 が、割と早々に本作の立ち位置は判明する。 ああ、なるほど、これは北欧ノルウェー産の“怪獣映画”なんだなと。  想定外に真っ当な怪獣映画であったことは、嬉しい驚きだった。 「ゴジラ」シリーズをはじめとする日本が誇る特撮映画を愛好してきた者のとしても、本作には充分に楽しみがいのある“特撮精神”の心得があり、日本の特撮に対するリスペクトも存分に感じられた。 無論、本作そのもののクリエイティブに特撮技術が用いられているわけではないけれど、きっとこの映画の制作陣は、日本の「ゴジラ」や、ハリウッドの「キングコング」を愛し、憧れているのであろうことはしっかりと伝わってくる。  そういうリスペクト精神を前提として、北欧の寓話や神話ではお馴染みの“トロール”を、未知なる巨大生物として描き出し、ノルウェー産怪獣映画に仕上げてみせたことはユニークだったし、独自性のあるエンターテイメントを生み出していたと思える。  また、個人的には、おそらく初鑑賞だと思われる“ノルウェー映画”に対する新鮮味も感じられることができた。 どこまでリアルなのか分からないが、ノルウェーの国防総司令部的な施設が洞窟を利用した秘密基地みたいな場所だったり、広大な自然環境や、公用語であるノルウェー語の響きの新鮮さだったりと、随所に垣間見える“お国柄”が、なかなか馴染みの薄い国の映画らしくで印象的だった。   ストーリーが収束する最終盤に至るまで、独特の雑多感も含めて楽しい映画だったことは間違いないし、最後の最後まで自分の中での高評価は確信されていた。 が、しかし、最終的な物語の帰着と、登場人物たちの言動の描かれ方が、ラストあまりにも残念だった。  人間のかつての蛮行や、現代の人間社会の自然破壊に起因して、目覚め、怒りの進行を展開するトロールが、太陽の光を浴びて絶命するクライマックスの展開自体は極めて良かった。 それは、「ゴジラ」や「キングコング」など、怪獣映画史の数々の傑作を踏襲するものであり、王道的とも言える描写だったと思う。 だが、それを目の当たりにした人間たちの描写があまりにもお粗末だった。 大怪獣の悲しい最期を見て、人間たちが自分たち自身の過ちを認め、悔い改めてこそ、映画的な余韻が深まるというものだが、本作のノルウェー人たちはそういう感情がほぼ皆無で軽薄に見えて仕方がない。 せめて主人公だけは、浮かれる人々の中で、悲しみに沈むなり、虚無感を感じるなりの描写で終わってほしかった。  そういう人間たちの情感も“お国柄”と言ってしまえばそうなのかもしれないが、もう少しで愛すべき怪獣映画として記憶に残りそうだっただけに、ラストの数カットのせいでそうならなかったことが、ただただ残念だ。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-12-24 17:45:53)(良:1票)
75.  アダムス・ファミリー(1991)
まさかこの映画を観ていなかったとはな。 Netflixのオリジナルシリーズ「ウェンズデー」が面白そうだったので、元ネタである本作を復習しようと思ったら、なんと続編の「アダムス・ファミリー2」だけ観ていて、本作は未鑑賞だったという事実が発覚。 ちょうどクリスマス時期にも相応しいと思い、まさかの初鑑賞。 キャラクター造形も、テーマ曲も、その世界観も、初鑑賞でありながらももはや「懐かしい」映画世界だった。  もっとチープで子供向けのファミリームービーの印象だったが、冒頭からしっかりと作り込まれた美術やカメラワークが秀逸で、想像よりもずっとレベルの高いクオリティを誇る娯楽映画の世界観に引き込まれた。  本作が娯楽映画として世界的人気を得た最大の要因は、何と言ってもファミリーを演じる個性的な俳優陣によるキャラクターにマッチした表現力だろう。 主演のラウル・ジュリアを筆頭に、個性派俳優たちが嬉々として奇妙なキャラクターを演じきっている。  個人的に最も印象的だったのは、やはり“フェスター伯父さん”に扮するクリストファー・ロイド。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズで“ドク”を演じ終えた直後の出演作だけあって、その表情をはじめとするアクトパフォーマンスのそこかしこに“ドク”が垣間見えて、楽しい。  そして何と言っても、クリスティーナ・リッチ演じる“ウェンズデー”の特異なキュートさがたまらない。弟を処刑ごっこの実験台にし続けたり、首がちょん切れた人形を大切にしていたり、学芸会の舞台では大量の血しぶきをぶちまけながら熱演を繰り広げたりと、その言動のすべてが常軌を逸しつつも、ひたすらにブキミでカワイイ。  本作のストーリーそのものは、ベタなコント的なものであり、あってないようなものだけれど、そんなマイナス要因を補って余りある奇怪で愉快な映画世界は、やはり魅力的だ。 30年の時を経て蘇る「ウェンズデー」には、クリスティーナ・リッチも出演するらしい。益々楽しみだ。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-12-16 23:54:41)
76.  THE FIRST SLAM DUNK 《ネタバレ》 
実際に映画鑑賞に至るまで、正直懐疑的だったことは否めない。 「完成」されている原作漫画を四半世紀以上経過した今(1996年連載終了、え、マジ?)、敢えてアニメーション化することの意義があるのだろうかと思ったし、原作者本人の手によってそれを侵害するようなことになれば、悲劇でしか無いと思った。  が、鑑賞し終えた今となっては、多大な満足感とともにこう断言したい。 紛れもない、完全な、「漫画の映画化」だった、と。  それはかつてのTVアニメシリーズでは遠く到達する余地も無かった領域だった。 桜木花道の跳躍、流川楓の孤高、宮城リョータの疾走、三井寿の撃手、赤木剛憲の迫力……、「SLAM DUNK」という漫画世界の中心で描きぬかれた“バスケットマン”たちの一コマ一コマの“躍動”を、まさしくコマとコマとの間を無数の描写で埋め、繋ぎ合わせ、動かす(Animation)という崇高な試み。 敢えて語弊を恐れずに言うならば、この映画作品に映し出されたものは、いわゆるアニメーションではなく、稀代の“漫画家”が己のエゴイズムを貫き通した先に到達した漫画作品としての極地だったのではないかと思える。  「THE FIRST」と銘打ち、まさかの“切り込み隊長”のバックボーンを描いた本作。 殆どすべての原作ファンにとって、そのストーリーテリングは、是非はともかく驚きであったことは間違いないだろう。 賛否が大きく分かれていることからも明らかなように、その追加要素が雑音として響いてしまったファンも少なくないのだろうと思う。  ただ、個人的には、この加えられた物語こそが、連載終了から四半世紀経った今、井上雄彦が描き出したかった物語であり、「SLAM DUNK」という漫画をもう一度クリエイトする理由に他ならなかったのだと思う。 例えばもっとシンプルに「山王戦」のその激闘のみを精巧に描き出した方が、特に原作ファンのエモーションは更に高まったのかもしれない。 でもそれでは、井上雄彦本人が監督・脚本を担ってまで本作に挑む価値を見い出せなかったのだろうし、そもそもこの企画自体生まれていなかったのだろう。  井上雄彦は、時代と価値観の変化と混迷の中で、「バガボンド」、「リアル」という彼にとってのライフワークとも言える作品を、その終着点を追い求めるかのように描き続けている。 漫画家という立ち位置を崩すことなく、ただひたすらにその表現力を進化させ、思想を発信し続けるクリエイターの矜持が、本作には満ち溢れていた。  そのすべてを井上雄彦自身が生み出している以上、無論これは後付などでは決してなく、原作漫画「SLAM DUNK」の研ぎ澄まされた1ピースであろう。 いや、四半世紀前から知っちゃいたけど、「天才」かよ。
[映画館(邦画)] 9点(2022-12-12 21:37:35)
77.  THE BATMAN-ザ・バットマン-
「バットマン」の映画化において最も重要で、取り扱いが難しい要素は、“リアリティライン”の引き方だと思う。 架空の超犯罪都市の大富豪が、夜な夜な真っ黒なコウモリのコスチュームに身を包み、街の悪党たちを殲滅する。元来アメコミであることを鑑みても、圧倒的にマンガ的であり、どう言い繕っても“馬鹿っぽい”設定である。 それでも、ほとんど絶え間なく映画化されてきたのは、この“馬鹿っぽい”世界観が、多様な創造性を孕んでいるからだろうと思える。 マンガ的な物語世界を実写映像化するにあたって、リアリティラインをどのように引くか。 あくまでも寓話的なダークアクションに振り切るのか、現実社会の鬱積や病理性を盛り込んだ哲学的なストーリー展開を深堀りするのか、はたまた筋肉隆々の“冷凍男”が主人公を押しのけて登場するようなエンタメに突っ切るのか、その「線引き」によって映画作品の印象は大いに変わるし、その分幅広い層に熱狂し得る。  そういった観点からは、新たなリブート作品として製作された本作も、明確な意図によって他のシリーズとは異なるリアリティラインが引かれているとは思う。 ただ、個人的には本作のその線引きは、ややアンバランスだったと感じた。  現実路線で、どこか映画「セブン」を彷彿とさせる猟奇サスペンス要素との融合は面白い試みだった。過去シリーズにおいては異世界の象徴として存在感を出すヴィランたちの風貌やキャラクター性も、極めて現実的な造形に振り切って、リアリティラインをより現実に近い位置に寄せていると思う。 主人公バットマンに“探偵”の役割を与え、他のアメコミヒーロー映画とは一線を画した作風に仕上がっていることは間違いない。  が、しかし、その現実路線のテイストがバランス良く成立しているとはどうしても思えなかった。 その最たる理由は明らかで、舞台である犯罪都市“ゴッサム・シティ”のあり方自体がファンタジーすぎるからだと思う。 あれだけ常軌を逸したレベルで治安が悪く、景観や公共サービスが崩壊しているとしか思えない劣悪な環境下において、今更政治家や警官の汚職がどうとか、薬物が濫用されていたり、マフィアが裏で糸を引いているとか言われても、「そりゃそうだろうよ」と正直鼻白んでしまう。 故に、そんな中で、バットマンや、真っ当な警察や政治家たちが、「正義」や「人生」をかけて苦闘するしている事自体が“非現実的”に感じてしまい、どうにも乗り切れなかった。  主演のロバート・パティンソンのバットマンぶりは悪くはなかったと思うが、徐々に解明されていく事実に対して総じて思慮が浅く、バットマンである以前に人間的に未熟な主人公の姿はやはり魅力的ではなく、必然的に映画的な魅力の欠如に繋がっている。 用意されていたストーリーテリングについても、稚拙で、ただ鈍重であったことを否めない。 リブート作品として、特別なバッググラウンド描写や、新機軸の展開があるわけでもなく、この内容でほぼ3時間の上映時間はさすがに冗長すぎた。  一方で、ビジュアル的なクオリティは過去最高レベルで素晴らしかったと思う。 “重さ”までを表現するバットマンのコスチュームや、臨場感の高い迫力あるカーチェイスシーンなど、印象強いカットやシーンは全編通して散りばめられている。 もっと作り込まれたストーリーさえ備えていれば、もっと素晴らしい「バットマン」に仕上がるであろうことは明白なので、次作に期待したい。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-12-12 00:51:40)(良:1票)
78.  タイトル、拒絶
東京のど真ん中の、猥雑で、ありとあらゆる欲望に塗れた薄汚れた雑居ビルの風俗店の一室で、切なく蠢く女性たちの感情が、乱暴なまでに生々しくべっとりと描きつけられる。 その様は、果たして阿鼻叫喚の地獄絵図のように進展していくけれど、このような人間模様は、きっとこの街のそこかしこで当たり前のように繰り広げられていることに過ぎないのだろう。  格差是正だとか、ジェンダーレスだとか、サステナビリティだとか、美辞麗句を並び立てることがこの社会は大好きだけれど、実際のこの世界は、女性が一人生きていくにはあまりにも息苦しくて、あまりにも醜い。  出張風俗店の息苦しい待機部屋を燃やしたって、憎い男性店長を刺したって、たとえこの街がドカンと爆発したって、明るい未来なんて見えるはずもない。 モラハラやDVに耐え忍んで、ほんの小さな愛にしがみついてみたところで、その次の曲がり角では理不尽で卑劣な暴力の餌食になるかもしれない。  なんて過酷。なんて醜悪。  それでも、それなのにだ、雑居ビルの屋上から見える狭い空の燃えるような夕焼けを見て、思わずお腹がすいてくる。なんて切ないんだろう。なんて悲しいんだろう。   「伊藤沙莉」目当てで鑑賞して、やっぱり伊藤沙莉が素晴らしかった。 あの絶妙なビジュアル、表情の作り方、そして声質、この女優の演技とそのたたずまいは、文字通りに味わい深く、どんなに他愛もないシーンであっても観ていて飽くことがない。  そして伊藤沙莉演じる主人公を翻弄し続ける風俗嬢の面々を演じた女優たちもみな素晴らしかった。 ベテラン嬢を演じた片岡礼子以外は、本作の撮影時点ではそれほど名の通っていない若手女優ばかりだったと思うが、表情や立ち振る舞いの実在感がことごとくリアルで、殆どデリヘル店の一室で展開されるこの映画の小さな空間を見事に彩っていたと思う。(特に劇中バチバチにやり合う恒松祐里と佐津川愛美は、この一年間の朝ドラ出演で知った女優だっただけに、そのギャップが印象的だった)   自分のしょうもない人生にドラマなんて期待しないし、そんなものにタイトルを付けるなんて反吐が出る。 無記名の大学ノートに、日々の“つらみ”をただ刻みつけるかのように、無理やり笑って、無理やり泣いて、ゴミ溜めのような今日を、彼女たちは生きていく。 そんな決して綺麗事ではない女性たちの生き様が、時にどうしもようなく、美しい。
[インターネット(邦画)] 9点(2022-12-10 00:08:01)
79.  シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション
ふいにレコメンド表示された「シティーハンター」のこのフランス実写版を、半ばザッピング感覚で鑑賞し始めた。 ところが想像以上に原作漫画に対して忠実で、クオリティの高い“実写化”に少々驚いた。 単行本を全巻揃えていて、北条司のイラスト集も保有していたくらいの原作ファンとしても、遠いフランスでの愛ある実写化に多幸感を覚えたと言っていい。  「シティーハンター」の漫画世界が孕む唯一無二のハードボイルド性までが完璧に表現しきれていたとは言えないが、それ以外の多くの要素、コメディ性、アクション性、そしてセクシー描写と“下ネタ”は、きっちりと再現されていたと思う。 一つの映画作品として傑作と言えるような見応えがあったとは言わないけれど、「シティーハンター」の1エピソードの映像化としては充分に及第点のクオリティだったと思えるし、率直に「シティーハンター」らしい世界観だと思えた。  本作オリジナルのストーリー展開の肝となるある要素についても、主人公冴羽獠の特性をよく理解した上で、現代のフランスで描き出されるに相応しい新しいアイデアによる“危機”をユニークに描いていると思った。  一方、せっかくのフランス人キャストなので、冴羽獠と槇村香のビジュアルが、もっとマンガ的にスタイルの良い美男美女だったならば更に高揚感は高まったかもしれないなと、一寸思う……。 と、思いきや、どうやら主演俳優のフィリップ・ラショーなる人物が、監督と脚本も務めているようで、紛れもなく「シティーハンター」及び主人公・冴羽獠に対する愛を持って演じ、この映画世界をクリエイトしてくれたようだ。 映画全体のテイストがコメディに振り切っていたことを考えると、主人公以外も含めてキャスティングされたフランス人俳優たちはよく頑張ってくれていると思い直した。  そして、お決まりのエピローグ描写からのエンドクレジットで流れる「Get Wild」。重ね重ねオリジナルに対する「愛」に感謝。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-11-19 22:50:59)
80.  すずめの戸締まり
「脅威」に対する人間の無力と儚さ。だけれども、一時でも長く生き続け、存在し続けていたいという切望。 廃すてられた場所に眠る思いを汲み取り、悔恨が漏れ開きっぱなしになっていた“戸”を締めるという行為が織りなすファンタジーは、想像以上に「現実的」で「普遍的」だったと思う。 現実社会における災害やそれに伴う悲劇を果敢に題材として取り込み、秀麗なアニメーション表現の中で描いた試みと、ストーリーテリングの方向性自体は、間違っていなかったと思う。 ただし、その結果が、映画としての面白さや、オリジナリティとして結実していたかというと、必ずしもそうではなかったと思う。  我が子二人と連れ立って劇場鑑賞して、決して残念な映画ではなかったし、無論観たことを後悔する類いの作品ではない。 この国のアニメーション監督として紛うことなきトップランナーである新海誠の作品である以上、見逃すべきではない。 ただそれ故に、その新作に対しては、高いハードルが用意されることは避けられない。  社会現象ともなった「君の名は。」、そして個人的にはそれ以上の傑作だと確信した「天気の子」。 本作は、その過去2作とも時代背景を共有しており、「災害」という共通のテーマを扱っている点を踏まえても、三部作の一つとして捉えられる作品だろう。そしてより直接的なファンタジー描写や、アドベンチャー展開など、三作の中でも最もエンターテイメント性の高い作品だったと思う。 ただ、何かが圧倒的に物足りなかった。それが映画的なエネルギー不足に直結しているように思えた。  それは何だったか? 上手く言葉を選べていないかもしれないが、個人的な感覚から浮かんだことは、“エゴイズムの欠如”だった。  僕が新海誠の過去2作品から得たエモーショナルは、主人公たちが発し貫き通す圧倒的な“エゴ”によるところが大きい。 流星が町に降り注ぐその間際であろうとも、ようやく訪れた焦がれた相手との逢瀬に没頭し、過ぎ去った時間すらも覆す。 この世界の理も仕組みも無視して、無責任だろうが、独善的だろうが、世紀の我儘を押し通す青臭さ。 不可逆を覆そうとも、世界が水没しようとも、それでも「大丈夫だ」と言い切る若い生命の猛々しさと瑞々しさ、それをまかり通すアニメーション映画のマジックに僕は感動したのだと思う。  そういった映画的なエゴイズムが、本作からは薄れてしまっているように感じた。 それはもちろん、現実世界の災害や悲劇を取り扱ったことによる真摯な態度とも言えよう。 でも、それによって映画的な面白さが表現しきれないのであれば、本末転倒であろうし、その題材を取り扱う意味が果たしてあったのかとも思う。  自然災害をはじめとする脅威に対して人間は為す術もない。特にこの十年あまりの時代の中で、この国の人々は改めて痛感している。 そういう現実がある以上、安易なハッピーエンドなどは描くべきではないだろう。 しかし、それが現実だからこそ、せめて映画世界の中では強烈なエゴイズムを貫き通す人間たちの姿を見たいという思いも、今この世界の多くの人が秘める思いではないか。  本作の主人公たちが何も成し遂げていないなどというわけではもちろん無い。 けれど、悲劇的な現実を超越するほどのマジックは、この映画から感じることはできなかった。
[映画館(邦画)] 6点(2022-11-15 22:21:24)
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