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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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141.  昭和残侠伝 人斬り唐獅子
丁寧な風俗描写、あるいは薄暗い賭場のシーンの美しさ、障子に映る影。やはり一級の満足感を与えてくれる作品だ。義理と人情の葛藤はどちらかというと池部良のほうにあるわけで(もちろん健さんも「急所をはずしなすったね」はあるけど)、それだけこっちのほうが印象深い。仁侠映画内での任侠の道徳律は、すじを通す・カタギに迷惑をかけない・女を売るようなことはしない(→利益追求を第一にするのはみっともない)といったところで、現実のヤクザの対極としての「そうであるべきはずだったヤクザ像」なわけ。『仁義なき戦い』の暴力団より歌舞伎の白波ものに近い。唐獅子牡丹の1番と2番の間で合流するってのも、もう様式としての決まりになってるし。時代劇でチャンバラが始まるとけっこう退屈することも多いんだけど、仁侠映画ではまず引き込まれる。音楽が鳴らないストイシズムもいいんだろうな。
[映画館(邦画)] 8点(2009-10-03 11:50:26)
142.  ウエスト・サイド物語(1961) 《ネタバレ》 
欠点を先に言っちゃうと、後半、踊りのボルテージが下がること。ストーリー上、群舞しづらくなってて仕方なくはあるんだけど、前半の圧倒的な迫力があったもんだから、冷える。そのかわりアニタが泣かせてくれるけど(自分の恋人を殺した男を助けに行くとこなんか、長谷川伸っぽい)。この映画、音楽もいいけど、踊りだよね。個人の至芸より群舞の迫力にミュージカル映画の活路を探っている。「ことば」を「ダンス」に置き換えて説明するだけじゃなく、もっと多面性を持った表現になっている。ファーストシーンなんか、たしかに踊りによる会話なんだけど、それ以上の雄弁さがあるでしょ。シャーク団がフィンガースナップを始めるところなんか、あのやろう、とか、こんちきしょう、とか言うより、ずっと「語って」いる。和解させようというダンスパーティで、パートナーをやっぱり自分の団から選んですぐマンボに移る気合い。ここは何度見てもゾクゾクさせられる。後半で唯一の群舞の見せ場「クール」は、直接には窓から「うるさいぞ」と叫んだおじさんに向けられた歌だったんだね。ガレージの中で頭を冷やしてからまた外に出て「パォ」ってやるわけ。そのときカメラは窓の位置にある。個人の恋をタップで表現するより、集団の鬱屈をフィンガースナップで描く時代になってしまったわけだ。
[映画館(字幕)] 9点(2009-09-18 12:01:49)(良:1票)
143.  アントニオ・ダス・モルテス 《ネタバレ》 
教師・牧師らが途中までよく分からなかったし、状況も十分把握していたとは言えないので、つまり「良くわかんなかった映画」の部類に入るのだが、しかし不思議な面白さのある作品だったなあ。こういう作品がすでにあったとすると、アンゲロプロスの評価は少し割り引いといたほうがいいのかもしれない。伝説と現実の混交、幻想とリアリズムの隣り合わせ、といった南米文学でも見られる特徴に加え、心理の排除、技法的には音楽効果(儀式のスタイル)の重視、長回し、などなど。ギリシャとブラジルというかけ離れた土地で似たような世界が作られている。ブラジルにもギリシャに劣らぬ古い南米文化の蓄積があるわけだ。ストーリーだけを取り出してしまうと単純で、政府のイヌだった殺し屋が民衆の一員としての己れを自覚し、雇い主を殺すというもの。ちょっと設定を変えれば、そのまま日本の任侠映画にもなる。ここに伝説的な要素を加味し、逆に現実の政治状況を重ね合わせている。これどうも現代の話らしいんだ。アントニオのセリフに「神が世界を作り、悪魔が柵を作った」ってのがあった。
[映画館(字幕)] 7点(2009-08-26 12:03:47)
144.  ケス 《ネタバレ》 
パブのシーンがあり、ののしり声が聞こえる家庭のシーンがあり、もうこの人の映画の環境がすぐに決まっていく。そういうウンザリする環境の中でも、なんとかウンザリせずに生きていく子どもの強みが描かれていく。サッカー授業のシーンのユーモア感覚。露骨に自分勝手にふるまい、しかもそれをカバーする無邪気さもない救いのない教師を、映画は笑いのめす。画面に得点が出るのもおかしい。ゴールを入れられるとシャワー攻め。あるいは学校での朝礼後の校長のオシオキ。ポイントは伝言に来た少年で、巻き添えにされていく経過が、厳しいユーモアになる。事実とフィクションの授業、ビリーがハヤブサについて語っているうちに次第に熱を帯びてくるさまを、少年の映像だけで描ききる勇気。そういうふうにビリーはいろんな種類の大人たちと関わり、それでも損なわれないものが浮き出されてくる。結末は、象徴的に捉えると暗く閉じたものに見えるが、映画の印象はそうでもない。なんとか彼はやっていくだろう、ケスの魂を抱いたままで、って感じ。「砂嵐の中のラクダのケツの穴みたいに締まり屋だ」ってセリフは、いつか使うために覚えておこうと思ったものだが、まだ使っていない。
[映画館(字幕)] 8点(2009-08-25 12:16:53)
145.  魂のジュリエッタ
ジュリエッタ・マシーナって、俳優としてはそれほどうまい人じゃないと思う。“嫉妬”なら“嫉妬”とそれだけをデジタル的に表現して、あんまり膨らみがない。ジェルソミーナが良かったのは、その単純さが効果を出したからだろう。ただこの作品での彼女は、ひとつひとつの演技はそういった型通りの表現なんだけど、演技以前の「オスマシしている女の子がそのまま大人になった」感じとか、「ビクビクしているのを覚られまいとしてる女の子がそのまま大人になった」感じ、といった、おそらく彼女の地なんだろうが、少女時代をそのまま引きずってるようなとこが生きていて、いいの。亭主の監督が知り尽くしていて、それを生かすドラマに仕立てたからだろう。まだこれは『サテリコン』『ローマ』といった完全なフェリーニレビューではなく、レビューのような幻想と“普段”とが拮抗した世界にとどまっている。でもそのために幻想性の効果は高まった。祖父のサーカス、火刑芝居、隣家のパーティ、庭での心理劇…。ストーリーの軸にあるのは“相談”。降霊術とか、宗教家とか、探偵とか、彼女は相談して回る。相談することで記憶や夢や妄想といった幻想の世界から普段の世界へ戻りたいのに、ますます幻想に捕えられ、ついにラス、室内に幻想が雪崩れ込む場を迎えるわけだ。そして最後のカットは退場したはずの幻影の呼び声でさまよい出すヒロイン、これ以後のフェリーニ映画は何か吹っ切れたように、幻想を何の遠慮もなく展開していくことになる。そういうきっかけの映画として、やはり忘れ難い作品だ。
[映画館(字幕)] 8点(2009-06-30 12:08:59)
146.  ある機関助士 《ネタバレ》 
映画としてのヤマは後半、3分の遅れを取戻しつつの上り急行で、ダイヤを乱さずに上野に行けるかという設定(厳密に言えばヤラセなのだが、労働内容の記録として私はドキュメントの範囲内だと思う)。夕刻迫りやがて夜の訪れ、と時間も緊迫感を盛り上げ、ひたすら疾走する映像で押さえていく。飛んでいくホーム。青信号へのズームアップ。ピリピリとした緊張が伝わってくる合い間に、ふっと車掌の背中越しに捉えた客車のカットが入り、到着までくつろいでいる乗客が対比される。このくつろぎを機関士の緊張が支えているわけだ。東京に近づくにつれ、ネオンが輝き出し、飛び去るホームの人数も増えていく。映画が誕生して以来、幾多の汽車が観客を興奮させてきたが、これなんか本当に疾走の充実が味わえる。JR西日本事故後の今だったら時間遅れと労働管理の問題に突っ込まなければならないところだが、ここでは労働ルポルタージュ的に押さえ、そのため労働の緊張とその充実を描いた傑作になった。到着後、気軽にボール投げのポーズをするあたりで、機関士にとってのくつろぎの時間が訪れたところを捉えている。水戸での仲間うちのシーンも興味深く、先輩が「飛び込み自殺は、警笛鳴らすとかえって踏ん切りつけちゃうことがあるんだよな」なんて話しているのを、後輩が横になって洗ったばかりの髪を(髪はすぐ汚れる)かき上げながら聞いているあたり、専門の職場内ならではの雰囲気がそのまま記録されている。あるいは発煙筒持って走る訓練と、その息切れ。
[映画館(邦画)] 8点(2009-06-28 12:11:26)
147.  甘い夜の果て 《ネタバレ》 
元太陽族も、いつまでも遊んでいられるわけがなく、しぶしぶデパートの店員に納まって、でも、いつかデカイことしてやるんだ、と鬱屈しながらイキがってる。そんなリアリティがあった。自分ではいっぱしのワルのつもりで狼のようにのし上がってるイメージなんだろうが、外からはバレバレで座談の笑いにされてしまう。鋳物工場社長未亡人にも嵯峨三智子にも簡単に嘘をバラされ、そして自分自身は「結婚してあげる」の嘘に引っかかって笑われる。自分がからかわれること・馬鹿にされることに過敏なのに、ここにいない年寄りを笑うことでしかその鬱屈をはらせない。別に元太陽族に限らず、いつの時代どこにでもいた若者のタイプであろう。「むしゃくしゃしたのでやった」となったりする連中のひとり。自分では成功したつもりの勝利感に酔う場所が、デパートの屋上のちゃちな観覧車ってのがお似合いか。観覧車の回転性は、無人の競輪場でオートバイでぐるぐる回るところにもあって、外に向かえないエネルギーの空回りを思わせる。太陽族のシンボルだったモーターボートも、湖上で止まってしまうし。画面の外の音が神経をいらだたせるように強調されて入ってくるのが、効果的。
[映画館(邦画)] 7点(2009-06-26 12:01:20)
148.  涙を、獅子のたて髪に 《ネタバレ》 
飼いならされた野良犬が、最後に主人を噛むという話。主人を信じて疑わぬチンピラってのは『酔いどれ天使』にも通じるが、ロカビリー歌手藤木孝の反抗とナイーブさという売りが、こういう役に起用するには合うわけだ。いくつか篠田らしい写真的な構図があったりしたけど、どちらかというと音のほうが面白かった。音楽は武満、後の『燃える秋』にちょっと似ている弦の響きで、彼のメランコリーが溢れている。途中フガートめいたところもあり、実に丁寧。日本の映画音楽は作曲家の道場として、いろいろな実験やら練習やらを自在に試みられる場として役立っていたのだ。木場のシーンでは、音響処理を施した木やり唄のようなものも聞こえてくる。主人公の藤木が上流パーティ(ドボルザークの「アメリカ」が流れている)の席でロカビリーをソロで歌わされるシーン、この歌がまた見事だった。正直ロカビリーなんて、ギターのコードとドラムのリズムがないと、聞けたもんじゃないだろうと思っていたが、藤木の声は堂々と自立していた。ゴダールの『ワン・プラス・ワン』では、ローリング・ストーンズの録音風景からバックの音を抜いてしまうシーンがあり、声だけのロックはなんとも心細いものになったが、そこいくと藤木、あんたは偉い。
[映画館(邦画)] 6点(2009-06-22 12:04:57)
149.  左ききの狙撃者 東京湾 《ネタバレ》 
『東京湾』というタイトルだが、舞台は荒川沿いが主で、あそこらへん下町好きの人にとっては嬉しい映画だろう。山の手から麻薬犯罪が千住・立石・小岩に広がっていった、という設定。浅草松屋の屋上での金渡しから、押上までの逃走もある。街の喧騒から遠く離れておばけエントツの見える川辺にひっそりと暮らしている戦友。これらの町の捜査シーンを、ドキュメントタッチで見せていく。捜査官がこっそり撮影していた8ミリの映像なども出てきて、今でこそ珍しくないが、こういう映画内映像が緊張感を出すために使われ出した最初のころではないかな、『天国と地獄』よりも早い。仕事熱心で妻に逃げられた刑事がその戦友と繋がれるってのも、穏やかな家庭生活よりもまだ戦争の影のほうが濃かった時代を思わせる。サスペンス映画としてはもひとつ鮮やかなシーンが欲しい気もするが、いい映画でした。一番嬉しかったのはベテラン脇役のオンパレードで、タイトルが出る前に死んでしまう役が浜村純だったりと贅沢。最近の映画は脇役に魅力が乏しく、これは俳優のせいではなくてシナリオが痩せてきているのだろう。主人公とその周辺数人でドラマを閉じてしまう。社会を全体で捉えようという意思がなく、登場する他者とは、カーチェイスのとき逃げ惑うだけの個性のない他人の群れになってしまっている。これってかなりまずい傾向なんじゃないか。
[映画館(邦画)] 7点(2009-06-21 12:03:25)
150.  若い季節(1962) 《ネタバレ》 
テーマ曲に乗って、皆が明朗に笑いながら並んで歩いてくる。いい感じ。空撮の日比谷から赤いスポーツカーを捉え、淡路社長の出社。ますますいいノリ。そして植木等が出ただけで場内が浮きたつのは、東宝映画の常とは言いながら、たいしたものである。バカ踊りの、あのいかにも宴会芸的な安っぽさの魅力を何と言ったらいいのだろう。腹が据わってる、とか、頼りがいがある、とかいった古い美徳をすべてコケにした痛快さ、というか。ホレボレする。この時代の映画は何かというとすぐビルの屋上に上がりたがる。会社の一同を集めての訓辞、そして軍艦マーチに乗って宣伝部員らがヘラヘラと踊る。いいなあ。銀座通りにはまだ都電が走っていく。団令子はおそらく現代の基準で言えば“デブ”だろうが、この時代は“グラマー”の範疇だった。健全な時代だった。人見明がズーズー弁で笑わせる。由利徹といい若水ヤエ子といい、当時はズーズー弁が笑いの重要な要素だった。植木等と坂本九が持ち歌を交換し、九が「サラリーマンとは気楽な稼業と~」とやれば、植木が「上を向ういて~」とやる。まったく見終わって何も残らない映画だが、何か朗らかになってたな、という気分の記憶だけは持続する。
[映画館(邦画)] 6点(2009-06-12 12:06:09)
151.  裏切りの季節
ベトナムでのアメリカ軍の暴虐と、SMとが対比されているらしい。60年代とは、政治と性を一緒に語るのが好きな時代だった(というより昭和40年代かな)。公の極限と私の極限。ただそれが一つの形式になってしまって、とりあえず政治と性を並べておけばサマになる、ってところもあった。その安直さを許す気分自体もあの時代っぽさ。今見ると、渋谷を初めとした都市のロケに資料的価値がある。室内の場になるとマダラな照明になるのは、『胎児が密猟する時』もたしかこんなだったが、カール・テホ・ドライヤーのタッチを模倣したというような美的効果より、写っちゃまずいところを不自然でなく見えなくする手段だったのではないか。あるいはもっと単純に照明費の節約だったかもしれない。またこの時期のこの種の映画ではSMが多く扱われるのだが、男の時代・暴力の時代であったというより、カラミを描くには制限が多すぎ面倒なので、映画の存在理由である女体を簡単に見せるのはSMが一番やりやすかったという面もあったかもしれない。ジャンルの様式とは、内的な芸術的必然性より、案外そんな外的要素に左右されてるとこがありそうだ。でもそういう職人仕事がかえって時代ならではの気分を反映するもので、全体に漂う息苦しさ・閉塞感はマガイモノではなかった。ラスト、風でズッていく広げた傘なんかに、つい時代を深読みしたくなってしまう。
[映画館(邦画)] 5点(2009-06-08 12:04:17)
152.  燃えつきた地図
この映画の興味の一つは、『座頭市』の勝新太郎と『男はつらいよ』の渥美清という二大プログラムピクチャースターが安部公房の世界でどう動いたか、というところにあったが、率直な感想を言えば「失敗」の一言。どちらも天才的な役者だが、合わない世界というものはあり、これはどうにも合ってない。どちらも粘着型の演技で、またそれが魅力なのだけど、公房が描きたかったのはそういうものを取り去った世界なのだろう。彼らの味わいであった余分な情緒が、ここでは邪魔になる。『影武者』のときのように仲代達矢に変更されていたら、このケースではそっちのほうが良かったかも知れないし、同じ喜劇役者なら渥美よりフランキー堺のほうが合ってたかも知れない。ヌードスタジオで渥美と長山藍子が語るシーンは、テレビ版「男はつらいよ」のトラとさくらが会ってる気分。キャスティングでは市原悦子のミステリアスぶりが一番良かった。鏡像とかコップ越しの渥美とか凝った映像が、今見ると薄っぺらに見える。砂の変化する表情をあれだけ新鮮に捉えた監督だったが、都市を描くと意外と陳腐になってしまった。ただこの時代の変貌する東京とその近郊の記録としては価値が残る。公房は、公式には出来映えに満足している文章を宣伝用に残してるけど、全集に収録されたドナルド・キーン宛て私信では不満たらたらだった。4本続いた作家と監督の蜜月はこれを最後に終わる(だが公房は監督の次回作『サマー・ソルジャー』は評価していた)。都市の響きをアレンジしたタイトル曲は武満には珍しいが、そのなかから古曲が浮かんでくるあたりがあの人のタッチ。
[映画館(邦画)] 6点(2009-06-03 12:08:34)(良:1票)
153.  いそぎんちゃく 《ネタバレ》 
カラーのポスターの印象が強かったけど、白黒映画だったんだ。白黒だと最初のクリーニング屋なんか70年代直前とは思えない昔の風景に見え、それとも高度成長期と言っても木場のあたりはまだこんな感じだったのか。この映画ではミ♯レ♯レミという音楽が流れると、男はムラムラッとして渥美マリに悪さをするキマリになっていて、それを見つけた亭主の妻が「あたし、出ていく、いいのっ!」って怒ると、亭主が「すまん、いいよ」って言うのがおかしかった。そしてとにかく男を渡り歩いていくの。大辻伺郎はもちろん、加藤嘉や牟田悌三ですら、ミ♯レ♯レミが流れ出すと、ムラムラッとする。強調されているのは渥美マリの食欲で、ラーメンをズズズーッとすするわ、別れるときもモリモリ食って「ご馳走さまでした」と去っていくわ、眼をギラギラさせてる老人の接待の料理屋でもパクパクするわ、と色気より色気以前の動物的食い気を強調、男に対してはただただ不貞腐れている。思えば渥美マリとは、60年代の今村昌平の春川ますみの食欲から、70年代の神代辰巳の伊佐山ひろ子の不貞腐れへとつないだ存在のようである。田舎の貧困や世間への怨みがモチーフとしてあるが、とりあえず掲げたという感じで、60年代末ではあまり説得力がなかったのではないか。
[映画館(邦画)] 6点(2009-06-02 12:15:44)
154.  雲の上団五郎一座
戦後喜劇史の本によく出てくる三木のり平の「切られ与三」は、現在この映画でしか見られないらしい。その記録としてだけでも重要な映画となった。で、もちろん三木のり平はいいのだが、のり平の笑いを引き出す八波むと志(こうもり安)のキレの良さにうなった。脇でじれったがって悶える八波のツッコミが素晴らしい。初期の渥美清にもあった凶暴さを秘めた魅力。のり平と八波の芸質の違いが見事に噛み合って、掛け合いの笑いとはこうでなければならない、という見本のような出来だった。あと佐山俊二も懐かしかった。田舎から出てきて都会で戸惑ってるおとっつぁんというような、オドオドした笑い、この種の笑いを受け継いでいる人はいないのではないか。というより喜劇人という人種が表舞台から消えてしまっているんだな。由利徹はあまり出番がなく勿体なかったが、西部劇のならず者タイガーがまあまあ。これらベテランに対してフランキー堺も頑張ってはいたけど(弁慶でデタラメ言う、旅の衣はスズカケの~、がスズカケの小径になったり)、やはり長年舞台で鍛えた喜劇人の粘度と比べると、サラサラして感じられる。切られ与三とドドンパ・カルメンでは落差ありありだった。舞台上で十分に練り上げられた時間の蓄積の違いもあろう。劇中の一座の芝居のあまりのひどさに、小屋主のアチャコがヨイヨイになってしまう。「笑わせようとしてないのに客を笑わせてしまう笑い」を、芸達者な人々が見せるから芸のある笑いになるのであって、現在はこれがそのまま通っちゃってるからなあ。とにかく喜劇人俳優名鑑のような映画で、エノケンからフランキーまでの豪華な顔が一堂に揃って見られるだけでも、お得な作品です。 
[映画館(邦画)] 7点(2009-05-31 12:11:13)
155.  笛吹川
この映画、特殊なカラー効果が印象に残るが、音もいいのではないか。主人公たちの家に“政治”がかかわってくるときは、橋の板を踏むバタバタいう音が、まるで歌舞伎の、あれ何て言うの、舞台の端に座ってて板を打つヤツ、あのように響いてくる。原泉の御詠歌のチリンチリンが、戦闘場面の間にも鳴り渡る。まあ原作が傑作なんだけど、傑作文学を映画化して傑作になった稀有の映画だ。やたら被害者意識のみが蔓延してた中で、戦争で生き生きとする庶民て視点が新鮮なんだろうな。つらい日常を忘れさせてくれる祭りの興奮であって、親方様にさんざん痛めつけられても、先祖代々御恩になって…、っていうとこほど戦争における庶民を批判したものはない。けっして庶民は一方的な被害者ではなく、戦争を盛り上げた当事者でもあった。一方、親方様への怨みだけで生きている荒木道子もすごく、息子ともども山門で火に包まれながら、親方様の滅びに歓喜するところ。ラストで高峰秀子が行列に着いていってしまうとこのみ、やや湿り気を帯びたが、あれは思えば『陸軍』の母親にそのまま一緒に行かせてやったものだな。一家が戻ってきたらどこに住もうか、と老夫婦が相談してる場のほうがゾクッとくる。ともかく戦争における庶民を批判する映画で、これほど厳しいものはあんまりなかったと思う。やがて『心中天網島』で夫婦をやる二人が、ここではういういしく兄妹をやってた。
[映画館(邦画)] 8点(2009-05-21 12:06:27)
156.  縞の背広の親分衆
おそらく同時代に見ていれば、3日たてば記憶からきれいに消える映画だろうが、今見ると東宝系コメディの懐かしさが匂いたって、へんに嬉しい。スリー・バブルズでしたか、ああいうのの存在とか、だいたい団令子が出るとそれだけで懐かしい。あそこまで丸々としたスターってのは、この時代以外にいただろうか(次点で京マチ子と薬師丸ひろ子)。フランキーと西村晃が小金治の店の入り口でにらみ合うとこ、若き愛川欽也(なぜか出ているのだ)以下チンピラ三名を鍛える東京タワー下・愛宕山の階段界隈の場とか、森繁が苦情係(象屋デパート)で各家庭を回るとことかに、はずみがある。ジェリー藤尾ら一党が出入りに出ていこうとして行進になるあたりも、実に東宝的。べサメムーチョから浪花節になるテーマ曲、森繁は当たり役森の石松の子孫という設定なのだ。
[映画館(邦画)] 6点(2009-02-25 12:17:10)
157.  股旅 三人やくざ 《ネタバレ》 
どじょっこふなっこのコーラスで季節を分ける。「秋」が仲代達矢、股旅もののシルエットが土手を枯れ枝ごしに歩いていく典型的なカットから始まる、秋空から曇天へと。これだけで観客は股旅ものの世界に没入できる。桜町弘子の憎悪で噛んだ口が愛情を込め出す演出。ちょい役だが、人情家のまかない浪花千栄子がいい。「冬」は一転、志村喬・松方弘樹で室内劇のおもむき。一人もん同士、子を求めるものと父を求めるもの、が家庭を夢見かけ、松方の笑いが崩す。任侠道ってのは、己れの心のなかに幸せを求める気持ちを認めてはならないのだ。とストイックで渋い秋冬のあとで、明るく菜の花が咲く「春」、中村錦之助が自ら任侠もののパロディをやる。子どもの小便の下流で水を飲んだりして、錦ちゃんかっこいい役ではないと最初から分かる。腹すかせて農民に一宿一飯の恩義を受け、コロシを頼まれるの。「で、それどういう人?」なんてあたりの口調がうまい。相手のサッと蝶を斬る手腕に、錦ちゃんもカチャカチャッとまねるあたりも笑わせる。追いつめられれば意地を見せるってとこが、任侠ものの型で、いくじなしの主人公でも同じ、ワーワー刀を振り回し、奇跡の逆転に向かう。剣豪宮本武蔵演じた直後にこういう役をやらせる東映の洒落っ気も嬉しいじゃないか。
[映画館(邦画)] 7点(2009-02-22 12:14:41)
158.  恋の片道切符 《ネタバレ》 
60年の新宿を、それも大通りではない新宿をたっぷり見せてくれる。ロカビリー歌手をめぐる物語。ポスターの多用。人の通行と直角に立っている、壁に貼られた薄っぺらの人間。時代のイケニエとして消費されることを自覚している若者たち。現在から見るとそのナイーブさが滑稽と紙一重なんだけど、そのじれったいぐらいのナイーブさがラストで弾け、若者同士が傷つくという構図。やはり、怒りの映画の時代なのである。人間関係から逃げていた小坂が、ラストで急速にピストル犯になるところがサプライズで、社会的成功を軽蔑していたはずの者の底にも、わだかまりが眠っていて、それが一気に顕在化した、というか。テープが飛びくる通路を歩く小坂のあおり、ステージ前まで来て、ふと煙草を口にくわえる、彼の内面が切り替わっていくところの描写が的確。篠田のデビュー作。助監督に山田洋次。
[映画館(邦画)] 6点(2009-01-09 12:17:33)
159.  黒い画集 あるサラリーマンの証言 《ネタバレ》 
児玉清が学生役、当時は小玉と表記していたのか。日本映画がお得意とした小市民ものの陰画のような作品で、小市民がそのささやかな地位を保身するためには、他者に対して最も残酷になれる、ってな話だ。あの男は真犯人が見つかれば助かるけど、こちらは浮気がバレれば破滅だ、と主人公小林桂樹が破滅の場面を妄想していくあたりの心理は、だれでもぐっとリアリティを持って迫ってくるのではないか。小市民映画は、そうそう、と自分たちの暮らしを微笑ましく振り返るものが多かったが、これは、あるある、とぞっとしながら振り返る小市民映画。小林がアリバイづくりのために映画を見たことにする訓練、インディアンが駅馬車を狙っておりました、と内容を頭に叩き込んでおくと、客の入りを訊かれてドキッとさせられたりする。そうまでしても、けっきょく彼はささやかな一家団欒の多摩動物園へは行けないのであった。東宝の名脇役、織田政雄が、その“影の薄い実直さ”を充分に発揮した代表作でもある。
[映画館(邦画)] 8点(2009-01-06 12:23:14)(良:1票)
160.  育ちざかり
内藤洋子って映画から出た正統アイドルの最後の人かなあ(突然変異的な角川娘はいたけど)。と言っても微妙なところで、たしかにデビューは『赤ひげ』と映画だが、名前を売ったのはテレビの「氷点」で、そういう面では過渡期の人。映画ではさかんにおでこを強調して、アイドルとしてのセールスポイントにしている。でもこういう「愛くるしい系」の時代は終わりつつあり、次は秋吉久美子のようなちょっとスネた不良性を漂わす感じが70年代の主流となっていくのだった。時代に間に合わなかった哀しみが、この人にはある。一生懸命プロモーション映画としていろいろやっている。乗馬姿あり、水着姿あり、テニスもやって、レモンもかじるし、定番中の定番、海岸をスローモーションで走ったりもする。こういう不良性のないアイドルは、次からは完全にテレビへと、たとえば天地真理にバトンされていったのだろう。
[映画館(邦画)] 6点(2009-01-05 12:10:09)
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