1. エイリアン:ロムルス
リドリー・スコット監督が生み出した「エイリアン」は、言わずもがなSFホラーの金字塔であり、いまなお世界中の映画ファンやクリエイターを虜にし続ける傑作である。時代を越えて、映画表現そのものが刷新されていくほどに、その価値は高まり、映画史に深く刻みつけられている。 その稀代の人気シリーズの最新作は、御大リドリー・スコットが監督ではないものの、オリジナルの世界観と恐怖感をきちんと継承し、エンターテイメントとして上質で精度の高い作品に仕上がっていた。
1979年の「エイリアン」と、ジェームズ・キャメロンが監督した「エイリアン2」の間の時間軸として描かれるストーリーと映像世界は、リドリー・スコットが生み出した美術デザインや空間デザインのエッセンスが色濃く反映されていた。敢えて粗い粒子感を持たせた映像美も、オリジナルのルックへの敬意が表れており、地続きの世界線であることを丁寧に表現していたと思う。 個人的には、リドリー・スコット自身が監督した“前日譚”である「プロメテウス」と「エイリアン:コヴェナント」のその後のストーリー展開を待ち望んでいたため、今回の最新作がまた別の時間軸であることにがっかりし、劇場鑑賞をスルーしてしまった。
だが、実際に本作を鑑賞してみると、そのストーリーテリングにおいて、「コヴェナント」や「プロメテウス」が紡ぎ出したストーリーの要素も少なからず盛り込まれており、本作が決して安易なリブートではなかったことに納得した。 「エイリアン:コヴェナント」では、新たな“創造主”になろうとするアンドロイドが、「生命」そのものに対する“レイプ”を犯す。その顛末は、「エイリアン」と冠されたSFシリーズの前日譚としてはあまりにも異質で、禍々しく、一部のファンにとっては大いなる失望を招いた。
しかし、それは「エイリアン」という映画が、実は生命そのものの抗いと、純粋な暴力、それに伴う圧倒的な恐怖を描き出した作品であったことを追求した結果だったようにも感じた。 この最新作においても、そのテーマを踏襲するかのように、異なる生命体による“レイプ”とその“産物”が、さらに禍々しく描き出される。
非常にショッキングでえげつないその展開は、またしても多くのシリーズファンを失望させたかもしれないが、「エイリアン」という映画世界が孕む「真意」に対して、相応しいストーリーテリングだったと思えた。 「生命」そのものが犯した“禁忌”を目の当たりにしながら、生き延びた新たなヒロインは、先の見えないあまりにも不確かな旅を続ける。その先に待ち受けるものは何か。かつて創造主が宇宙の星々に撒いた企みなのか、それとも創造主に憧れたアンドロイドが作り出した新たな世界なのか。
分岐し広がった「エイリアン」が織りなす宇宙観が、一つの場所へ収束していくような期待感と、まだ見ぬ恐怖感が同時に押し寄せてくるような新章に感嘆した。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-01-27 08:32:49) |
2. MEG ザ・モンスターズ2
鑑賞から一週間以上経ってしまい、本作における細かいストーリーテリングについての記憶は薄れ始めている。ストーリー性の薄い、雑多な映画であることはまず断言したい。
しかし、だからと言って、本作に対して低評価のレッテルを貼るつもりは毛頭ない。なぜなら、どれだけ大雑把で馬鹿馬鹿しい映画であったとしても、本作がモンスター映画として、サメ映画として、そしてジェイソン・ステイサム映画として、真っ当に面白い映画であったことは間違いないからだ。 個人的に、昔からB級モンスター映画が大好きで、数多の同ジャンル映画を観てきた。
名作「トレマーズ」を筆頭に、「ザ・グリード」、「アナコンダ」、「ピラニア3D」など、伝説的なB級モンスター映画は数多い。 そして、その中でも最も人気の題材であり、それだけで一つのジャンルとして派生しているのが、“サメ映画”の系譜だろう。 1975年、スティーヴン・スピルバーグ監督の「JAWS/ジョーズ」以来、“サメ映画”はモンスター映画の代名詞となり、A級からZ級までおびただしい数の作品が生み出され続けている。
「JAWS/ジョーズ」は映画史的な価値が高い純粋な大傑作なので、サメ映画界におけるB級モンスター映画の筆頭はやはりレニー・ハーリン監督の「ディープ・ブルー」だろう。人類の叡智(?)が生み出した超巨大で知能の高いモンスター鮫と人間たちの攻防を描いたその設定とストーリーテリングは、B級モンスター映画史の一つの金字塔と言える。 そして、本作は、そのB級モンスター映画史、サメ映画史の連綿たる系譜にしっかりと降り立つ、大仰で馬鹿馬鹿しい“見事”な作品だった。
無論、前作の段階でもその映画史的な文脈はしっかりと受け継がれた作品ではあったけれど、作品内のテイストがもう一つアンバランスで踏み込めていない要素があり、手放しで興奮できなかった。 しかし、続編である本作は、前作のマイナス要素を完全に呑み込み、融合させ、オリジナリティへと昇華させてみせている。
すなわちその要素とは、本作の主演が“ジェイソン・ステイサム”であるということだ。“サメ映画”でありながら、同時に“ジェイソン・ステイサム映画”でもあることが、前作時点ではもう一歩うまく馴染んでいない印象があったが、本作においてはその2つが文字通り噛み合い、B級モンスター映画としての魅力が爆上がりしている。 普通、サメ映画の場合、絶対的弱者である人間たちがモンスターであるサメからどのように生き延び、もしくはどのように死んでいくかということを固唾をのんで見守るものだ。しかし、本作の場合はその様相が逆転する。
人間に襲いかかるモンスター鮫が、同様にモンスターであるジェイソン・ステイサムによってどのように撃退され、滅殺されるかをニヤニヤしながら堪能する映画となっている。 それは、モンスター映画としては反則的展開であるけれど、ジェイソン・ステイサムだからこそ許されるストーリーテリングだろう。 そんな反則的主人公を主軸においた登場人物たちのキャラクターも良い。
中国資本の映画なので、前作から中国人キャラが多い作品だが、本作では主人公らが所属する企業の社長キャラが印象的だった。早々に死亡フラグが立てられた惨殺要員かと思いきや、本人の台詞通りにしぶとく生き残り、最終的には主人公顔負けのヒーロー像を半ば強引に仕上げていく様がユニークだった。
また、90年代のハリウッド映画で育った者としては、前作に引き続きキャスティングされ、存在感を放つクリフ・カーティスの活躍も嬉しい。 続編として幾つかの違和感や不安定さを改善し、ある部分では強引の呑み込ませ、鑑賞者に許容させることに成功している。“サメ映画✗ジェイソン・ステイサム映画”の正しいアップデートだったと思える。 つらつらと駄文を綴ってしまったが、それくらいB級モンスター映画ファンの琴線を揺さぶる作品であったということ。評価点以上に満足度は高い。 [インターネット(字幕)] 7点(2025-01-22 22:27:44) |
3. ヘルドッグス
長らく韓国映画に後塵を拝していたバイオレンスアクションにおいて、負けずとも劣らない快作。 [インターネット(邦画)] 8点(2025-01-03 23:53:01) |
4. フェイブルマンズ
なぜ私は3年前に公開されたこの映画を、映画館で鑑賞せず、今の今まで放置してしまっていたのか。自分自身のことながら、まったくもって理解に苦しむ。 2025年2本目の鑑賞作品にして、最高得点、フェイバリットの上位に入り得る、私にとっては最高で最愛の映画作品だった。 --- 夢と狂気の世界に囚われたフェイブルマン家の人々 --- 暗闇を恐れて映画館に足を踏み入れることを嫌がっていた年端もいかない少年が、両親に連れられて観た「地上最大のショウ」に心を奪われることから、フェイブルマン一家の物語は始まる。それは「映画」という“夢と狂気の世界”への入口だったのだろう。 主人公の最たる理解者である母親から8mmフィルムカメラを渡され、彼は目に映るもの、そして頭の中に浮かんだイメージを、次々に写し撮り、「映画」を生み出していく。 イマジネーションと映画作りの才能に富んだ少年の眼差しは、明確な意志が満ち溢れていると同時に、ほとばしる才気が抑えきれないような危うさや、現実世界でも夢の中を浮遊しているような不安定さも感じ取れる。 そして、その眼差しは、本作の創造者であり、主人公の実像でもあるスティーヴン・スピルバーグのあの眼差しに重なり、入り交じるようだった。 世界最高の映画監督と言って無論過言ではないスティーヴン・スピルバーグが、そのキャリアの最終盤において描き出したこの半自伝的映画は、「映画」というものがもたらす奇跡と呪縛を等しく映し出した素晴らしい作品だった。 映画ファンのはしくれとして、そしてかつて映画製作を志した者の一人として、個人的な人生観にも染み渡る特別な作品だった。 --- スピルバーグだからこそ描き出せた映画製作にまつわる愛と憎しみ --- あのとき、幼い少年に、映画の中で映し出されたスペクタクルを見せなければ、“衝突”に対する衝動は起こらず、彼はもっと平凡に生きられたかもしれない。 あのとき、彼に8mmフィルムカメラを渡さなければ、この家族は表面的には波風が立つことなく、離散せず、幸せに過ごし続けられたかもしれない。 あのとき、興行の世界に身を置く大叔父を家に入れなければ、彼は普通に進学し、就職し、父親同様にビジネスで成功したかもしれない。 「映画」に出会わなければ、主人公は平穏で安らかな幸せな人生を歩めたのかもしれない。 しかし、母親が強く発し、子どもたちにも復唱させたように、「すべての出来事には意味がある」。 母親が衝動的に追いかけた竜巻の道を阻まれたことにも、主人公が撮った家族フィルムに母親の浮気心が映り込んでいたことにも、ユダヤ人差別をする同級生たちにいじめを受けたことにも、その出来事自体には悲痛が伴っていたとしても、その先に意味は生まれ、それが人生の価値となる。 そういうことを、決して幸福とは言い切れない少年時代を通じて深く理解した主人公、もといスティーヴン・スピルバーグは、それを具現化して表現する手段として「映画」を撮り続けてきたのだと思う。 人生は上に昇るか、下に降るかの連続であり、ど真ん中の平坦な地平線に向き合うことは死ぬほどつまらない。 スティーヴン・スピルバーグは、これまでも、これからも、スクリーンに映し出される世界の地平線を上へ下へと大きくずらし、面白き映画世界を生み出し続ける。 [インターネット(字幕)] 10点(2025-01-03 23:51:09) |
5. ナポレオン:ディレクターズ・カット
年末の日曜深夜に158分の劇場公開版を観終えて、床に就いた。 翌日の月曜日は有休を取っていて、年末の大掃除やら、買い物やらと、頭の中のToDoリストは数日前からひしめいていたのだけれど、そこに新たな“やるコト”が急遽飛び込んできた。 そう、「『ナポレオン』のディレクターズ・カットを観るコト」だ。 午前中、最低限の大掃除をこなしながらも逡巡した。何せこのディレクターズ・カット版の尺は「206分」である。年末のこの気忙しいタイミングで、3時間半近くの時間を割くことにはさすがに躊躇したけれど、結果的に言うと大正解だった。 (現状Apple TV+のみでしか観られないことを踏まえると、本作を観ずに試用期間を終了していたとしたらと思うとちょっとゾッとした。) 前置きが長くなってしまったが、結論としては、本作こそが御大リドリー・スコットが描き出したかった「ナポレオン」映画であったことは間違いない。まあ“ディレクターズ・カット”なんだから当然なのだが。 前夜に劇場公開版を観終えた時点で僅かに感じていたことではあったが、このディレクターズ・カットを観た後では、劇場公開版は158分のボリュームにも関わらず、要点を押さえた“総集編”に見えてくる。 あまりにも重要すぎる幾つものシーンによって、このディレクターズ・カットは、より立体的に、よりドラマティックに、ナポレオンという偉人の異様な人間模様を表現し尽くしていた。 タイトルは、「ナポレオンとジョセフィーヌ」にすべき このディレクターズ・カットにおいて最も重要なポイントは、本作の第二の主人公とも言える、ナポレオンの妻・ジョセフィーヌの人生と人間描写がより明確に映し出されていることだろう。 劇場公開版では、ジョセフィーヌは“ある状況”から既に解放された状態で登場し、ナポレオンと出会う。しかし、本作ではその前段となる彼女が置かれた悲痛な境遇と、そこから連なる“思惑”がしっかりと描き出されていた。 正直言って、このジョセフィーヌにまつわる数々のシーンが有ると無いとでは、彼女のキャラクター自体に対する印象はもちろん、映画作品全体の印象が全く異なってくる。 彼女の歩んだ人生と人生観がより克明に描き出されることで、この映画が映し出す時代背景もより明確になり、何よりもナポレオンが彼女を愛し、心酔した理由がより強く伝わってきた。 ナポレオンを演じるホアキン・フェニックスは言うまでもなく圧倒的な存在感で、歴史上最も有名な偉人の一人の演じきっている。 そしてその主人公像に勝るとも劣らない存在感で本作を“支配”するジョセフィーヌを演じたヴァネッサ・カービーが素晴らしかった。彼女のときに高圧的な視線、艶めかしい肢体、崇高なプライドに溢れたその佇まいは、ナポレオンのみならず本作の鑑賞者すべてを魅了している。 そしてその男は、遠い彼方の地で、一人彼女を想い続ける。 やはり、リドリー・スコットが本作で本当に描き出したかったことは、ナポレオンの英雄譚でもなければ、支配者像でもなく、とんでもない大人物ではありながらも、滑稽で愚かで人間臭い一人の男のあり様だったのだと思える。 一人の女性を愛し、支配しようと懸命になり、依存し、また依存され、別れ、遠い彼方の地で一人孤独に彼女を想い続ける男の一生。 それこそが、現役最強の大巨匠が創造したナポレオン像だった。 [インターネット(字幕)] 10点(2024-12-29 08:31:33) |
6. レッド・ワン
今年の12月は“クリスマス映画”をしっかり観ようキャンペーン第2弾。 先週末鑑賞した「バイオレント・ナイト」に続き、今宵のクリスマス映画も、強烈なサンタクロースが登場した。 本作の場合は、人知れず実在していて、正真正銘の唯一無二の存在であるサンタクロースが誘拐されてしまい、我らがザ・ロックとキャプテン・アメリカが共闘を組んで挑む救出劇。クリスマスシーズン向けのファミリー向け娯楽ムービーとして、申し分なく面白かった。 30年前だったら主人公役はアーノルド・シュワルツェネッガーが演じていたのだろうなと思いつつ、主演ドウェイン・ジョンソンのアクションスターぶりがまずもってエンターテイメント性に溢れ、安定している。 そのバディとなるのが、最近マーベル映画復帰も発表されたクリス・エヴァンス。キャプテン・アメリカ役の聖人君子像からの反動か、「エンドゲーム」以降の出演作は、意図的に“汚れ役”ばかりを演じているようにも思うが、元来この俳優はそういう役柄が合っているように思う。本作でも、“悪い子リスト”掲載必至の賞金稼ぎ+父親役を好演している。 サンタクロースの存在が、実は国際的な「機密事項」であり、彼とその“仕事”=“クリスマス”を徹底的に守る秘密機関と各国の協力体制があるという設定がユニーク。 米国大統領ばりに大勢のSPに守られ、戦闘機のエスコート付きで各国を飛び立てば、専用機(巨大なトナカイたち)の速度は超音速を凌駕する。 世界一有名な伝説のキャラクターを軸にした大空想が問答無用に楽しい。 主人公は、“ボス”であるサンタクロースを尊敬、崇拝し、彼を守る自らの職務に誇りを持ちながらも、プレゼントを送り届ける対象である人間自体に絶望している。そんな彼がこの救出劇を通じて、人間の性善説を再確認していくというストーリーテリングは、ベタで王道的だけれど、それがクリスマスらしく、率直に良いと思えた。 注文をつけるとするならば、サンタクロースの存在とその組織(国?)の功績を、世界中の国家機関が機密事項として認識しているという設定なのだから、もう少し“世界各国のクリスマス描写”があると良かったなと思う。 言語も歴史も宗教観も気候も季節も異なる中で、それぞれの国で異なるクリスマス文化があり、それでも共通して愛されるサンタクロースという絶対的な存在が、世界を一体にする。そういう描写があれば、本作の帰着である「性善説」にもっと説得力と、意義が備わったのではないかなとは思う。 今この瞬間も、世界のあちこちでは争乱が収まらず、子どもたちは泣き続けている。そのことを暗に言及し、“クリスマス”という行事の価値を高められることができていれば、本作はファミリームービーをの枠を超えた究極のクリスマスムービーにもなり得たと思える。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-12-26 22:36:49) |
7. フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン
スカーレット・ヨハンソンの60年代コスチュームが美麗。もっとくだけたコメディかと思いきや、アポロ11号の発射シーンなど、映像的にもしっかりと作り込まれており、映画の作り自体がとてもリッチだった。フェイクニュースに対する見極めを、個々人に求められる今だからこそ、今なお陰謀論が根強く残る月面着陸の捏造を題材にした本作のテーマは、社会の本質をついているとも思えた。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-12-22 16:26:28) |
8. ナポレオン(2023)
私が「ナポレオン」について知っていたことといえば、小学生の頃に学校の図書室で読んだ学研まんがの伝記シリーズに描かれていた通り一遍の生涯と、ナポレオンを「英雄」として推していたベートーベンが、彼が皇帝になったことに失望し激怒したという逸話くらいだった。
本作を観終えてまず思ったことは、「ナポレオンってやっぱりとんでもない人間だったのだな」ということ。そして、「世界史(ヨーロッパ史)ってえげつなくて、残酷で、なんて面白いんだ」ということだった。 御大リドリー・スコットが、相変わらず年齢的な限界をまるで感じさせない熱量で描き出すこの映画は、重厚な歴史モノでありながら少しも鈍重ではなく、あらゆるタイプの映画作品を創り上げてきた巨匠ならではの軽快さや軽妙さも備えていた。ナポレオンという偉人の特異な“人間味”に溢れた、濃厚でエキサイティングなドラマであった。
映画史の文脈における、エネルギッシュとフレッシュの最高到達点を齢87歳にして更新し続ける現役最強巨匠のクリエイターとしてのパワーには、驚嘆を越えてただただ感嘆する。 本作はナポレオンの伝記映画ではあるが、必ずしもこの大人物の英雄伝や支配者としての功罪を歴史になぞって描き出した映画ではない。
そこには映画的なフィクションやサービスが多分に盛り込まれており、この作品単体を観てナポレオンの人物像を決定づけるべきではないし、リドリー・スコットもそんなことを求めているわけではない。 ただし、ナポレオンがあまりにも“普通じゃない”人間であることは明らかであり、それは歴史が語る事実としても証明されている。
この映画は、その普通じゃない人物のただならぬ半生を、卓越しつつも野心的な映画表現によってこれでもかとキャンバスに塗りたくるように描き出した、まあ控えめに言って傑作だと思う。 正直に言えば、この映画世界のボリューム感に対して、158分という尺はあまりにも短すぎた。
前述の通り重厚なドラマを全編通して感じつつも、やはり濃密すぎる彼の人生の“総集編”を観ているような感覚をどこかで否定できなかった。 年末の週末深夜に本作を観終え、寝床に潜り込んだ私は、翌日の何かと忙しい休日を犠牲にしてでも、3時間半の“ディレクターズ・カット”を観るか否か逡巡しながら眠りに落ちた。 つづく。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-12-16 00:38:42) |
9. バイオレント・ナイト
12月、今年は“クリスマス映画”をしっかり観ようと思い、まずは昨年末からキープしていた本作を満を持して鑑賞。 アメリカの伝統的なクリスマス文化を踏襲し、ブラックジョークとバイオレンスに満ち溢れた映画世界は、世界中のボンクラ映画ファンに愛されるに違いない。 「ダイ・ハード」+「ホーム・アローン」+「バッド・サンタ」 1980年代生まれの映画ファンにとっては、特にツボにハマる要素が連発される映画だった。 ストーリー展開としては、ほぼ「ダイ・ハード」の主人公ジョン・マクレーンをサンタクロースに置き換えたと言っていい。とある大富豪の豪邸で“仕事”に取り掛かろうとしていた酔いどれサンタが、武装集団による急襲に巻き込まれる。 ユニークだったのは、主人公は正真正銘のサンタクロースではあるものの、それほど超人的な身体能力を持ち合わせているわけでもなく(1000年前は戦士だったらしいが)、割と血みどろになりながら戦う一連のアクションシーン。 その様子は、まさに「ダイ・ハード」でブルース・ウィリスが演じたジョン・マクレーンそのもの。未対面のバディとの無線でのやり取りなど、同作を多分に意識したオマージュも愉快だった。 様々なクリスマスデコレーションをはじめとして、たまたま手に取ったあらゆるものを武器にして、“悪い子”たちを血祭りに上げていくサンタの活躍が痛快である。(その咥えたキャンディーまで凶器にしてぶっ刺すなんて、遠慮がなくてとても良い) 主演のデヴィッド・ハーバーも、ベストキャスティングで、粗雑&粗暴だけれど魅力的で格好いい“バッド・サンタ”を喜々として演じていた。悪オジキャラ俳優の代表格として近年出演作が目白押しだが、本作を見て愛される理由がよく分かった。 子どものキャラクターによる「ホーム・アローン」展開もしっかりとバイオレントに描き切り、タイトルに相応しい“一夜”を過ごさせてくれるこの映画は、まさに最強(最狂)のクリスマス映画であろう。 そのくせ最後にはしっかりとハートウォーミングに帰着させる、想像以上に隙のない作品だった。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-12-15 07:54:36)(良:1票) |
10. デッドプール&ウルヴァリン
過去2作でも強く感じてきたことだが、「反則技」こそがデッドプールという独創的なヒーローの最大の武器である。「そんなのアリ!?」という数々の設定や言動をまかり通してしまう唯一無二のヒーロー像が、このキャラクターの存在感を絶対的なものにしていることは言うまでもない。 そして今回、ディズニーによる20世紀フォックス買収という、ある意味での“大反則技”によって、デッドプール、さらにはウルヴァリンまでもが“MCU参戦”という世界線を構築したのは、このキャラクターが存在していたからこそ成し得たミラクルだといえるだろう。 世界中の映画ファンにとってすでに食傷気味だった“MCU”において、“俺ちゃん”の乱入は、まさしく起死回生の反則技だ。 本作の劇中、デッドプール自身が言及する通り、“フェーズ4”以降のMCUが各作品で描き続けてきた“マルチバース”は、飽和状態となり収拾がつかなくなっていることは明らかだ。世界観に対する興味深さは尽きないものの、その苦痛を伴う“満腹感”によって、MCU離れが生じていることも否定できないことだろう。 そのMCU全体の窮地を、多元宇宙どころか“第四の壁”を突破し、映画世界と現実世界を自在に行き来するデッドプールが“救う”という構図は、結果としてあまりにも的確で、映画史そのものを巻き込んだ見事な文脈だったと思うのだ。 さらに、その「救世主」としての役割を、“デッドプール&ウルヴァリン”というこれまた奇跡的なタッグに担わせたことが、圧倒的な娯楽性と強い説得力を生み出していた。 “ウルヴァリン”というキャラクターは、「X-MEN」シリーズの中で時代と時空を縦断し、苦悩と絶望を抱き続けるヒーローとして描かれてきた。 そのヒーローとしての特徴や能力、性格や背景は、デッドプールと両極端のようにも見える一方で、同時に極めて似通っているようにも感じられる。 本作でも描かれているように、彼らが対峙すれば、勝負は一晩どころか永遠に決着がつかないだろう。しかし、いざタッグを組めば、これ以上強力で魅力的なペアはないということを痛感させられた。 加えて、ウルヴァリン登場の世界線が2017年の「LOGAN/ローガン」に通じるものだったことも、本作の完成度と満足度を大いに高めた要因だった。 他の誰でもなく己自身に傷つき、絶望し、年老いた“オールドローガン”ことウルヴァリンが、最後の戦いと逃避行の果てに“死”という安らぎを迎えるさまを描いた「LOGAN/ローガン」は、個人的に大傑作だったと思う。その“オールドローガン”が死を賭して守り抜いた世界と少女が、本作の多様性と世界観を一層深めていた。 デッドプールという愛すべき反則野郎のもとに集まった“世界に忘れられたヒーロー”たちとの邂逅も、胸熱な展開だったことは言うまでもない。 世界中の映画ファンが「そっちかい!」と突っ込まずにはいられなかったであろうクリス・エヴァンスの某ヒーロー再演や、年老いてもなお格好良すぎるウェズリー・スナイプスのブレイド復活など、MCUが存在しなかった時代からアメコミヒーローを観続けてきた者にとっては、まさに奇跡的な時間だった。 その高揚感は、「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」における歴代スパイディの大集合にも勝るとも劣らないものだった。 マルチバースに行き詰まったMCUに対しても、自らを生み出した20世紀フォックスに対しても、劇中で大いにディスり、軽口を叩き続けつつ、デッドプールとこの映画は、最終的にはすべてを許容し、感謝し、愛し、そして前進する。 「過去が今の彼を作った 修正する必要はない」 ラストシーンである人物が放つこのセリフは、過去の失敗や過ちも、それを否定したり無きものにする必要はないというメッセージをダイレクトに伝えている。 その映画としての着地点が、玉石混交のあらゆる世界線を股にかけ、現実世界のメタ的要素も多分に盛り込んだ本作の立ち位置として、とてもとても素晴らしかった。 [インターネット(字幕)] 9点(2024-12-02 16:03:17) |
11. 十一人の賊軍
「とても良いから、とても惜しい」というのが、鑑賞後、一定の満足感と共に生じた本音だ。 幕末という時代を背景に、小藩や中間管理職の悲哀と狂気、そして崩壊寸前の武家社会の愚かさを描いた本作は、久しぶりにエネルギッシュな娯楽時代劇を観たという満足感を与えてくれた。 本作の物語に描かれる群像劇は時代劇の枠を超え、現代社会の多様な人間関係や、あらゆる組織構造、さらには現在進行中の国際的な軋轢の数々とも重なる。 どの選択肢を選んだとしても、誰かにとっては「地獄」となるというジレンマは、どの時代においても普遍的であり、すべての人間が完全に満足する世界は存在しないという現実を改めて突きつけてくる。 物語構造上、十一人の罪人たちは絶体絶命の苦境を乗り越え、「生」を見出そうとする英雄のように描かれている。しかし、これは人間社会における狭小な一側面に過ぎない。 復讐のため冒頭で主人公にあっさり殺される侍や、砦を攻める倒幕軍の兵士たちにも、それぞれ親や子、家族がいるはずだ。名前もなく散っていくキャラクターたちにも、それぞれの正義や思いがあったことは想像に難くない。 その象徴的な存在が、阿部サダヲ演じる家老・溝口だ。 ストーリー上では悪役として描かれているが、彼の言動のすべては「家老」という職務に準じたものだと言える。確かに彼の謀略や非道な行為の数々は狂気的ではあるが、それも城下を取り仕切る“位”にある侍としては当然の行動だったのだろう。城下での戦を避け、町民から慕われる姿はそれを物語っている。 町民らに向けて乾いた笑顔を見せた後に訪れる彼自身の最大の「悲劇」が、この男が背負っていた中間管理職としての苦悩を何よりも雄弁に物語っていたと思う。 また、山田孝之や仲野太賀をはじめとする“賊軍”の面々を演じた俳優陣のパフォーマンスも見事だった。彼らは一面的なヒーローとしてではなく、それぞれが抱える罪や愚かさ、悲しみを通じて、社会とそこに巣食う人間の本質を体現していた。このアプローチが、本作の奥行きを大きく広げ、娯楽性に深みをもたらしていたと思う。 だからこそ「惜しい」と思うのだ。 映画全体に漂うエネルギー、現代にも通じる物語性、俳優たちの見事な演技、そして的確な演出力が光るだけに、一人ひとりのキャラクターに対する描き込みがもっと深ければ、さらに印象的な作品になったはずだ。 特に賊軍のキャラクターたちの背景描写が物足りなかったように感じた。 それぞれがとても人間臭く、魅力的な存在感を放っていたからこそ、彼らがどのようなバックグラウンドを経て、あの牢の中に閉じ込められていたのか。そのドラマ性がもう少し丁寧に描きこまれていたならば、彼ら最後に放つ命の灯火、その熱さと輝きが、さらに深く刻まれたことだろう。 [映画館(邦画)] 8点(2024-11-16 17:25:05) |
12. ルックバック
わずか58分という短い尺に凝縮された青春の輝き、そしてクリエイターとして生きることの覚悟と矜持。喜びの苦悩が入り交じる狂気の世界で、光と闇は共存し、互いがその輪郭を際立たせるために存在していることを雄弁に伝える極めて濃い58分間。 Amazonプライムで配信されたばかりの本作を満を持して観て、思わず2回連続で鑑賞してしまった。初めの58分間では整理がつかなかった、というよりも、作品世界から抜け出せず“ループ”してしまったという感覚が強い。 この夏、劇場での鑑賞を見送ってしまったことを激しく後悔した。しかし、その一方で、配信鑑賞だからこそ衝動的に2周目の鑑賞に至れたことも、また幸福だったと思える。 映画を観終えた深夜、感情の整理が追いつかぬまま、手中のスマホで原作漫画を注文した。そして、原作を読んで、この映画がなぜ58分という短い時間の中に収められたのか、その意図を深く理解した。 映画世界同様、漫画世界もまた、濃縮された密度とソリッドな描写で構成された表現だった。このタイトな映画が、原作漫画が伝える物語と、登場人物たちの心象風景を丁寧に汲み取り、そのすべてを表現しきったものであったことを、思い知った。 雪深い田舎町で出会った二人の若きクリエイター(藤野と京本)が、小さな世界の中で互いに肩を寄せ合い、互いの才能を補い伸ばし合い、広い世界への「道」を開いていく様は、藤子不二雄Aの「まんが道」を彷彿とさせる。この物語は、令和の時代に生まれたもう一つの「まんが道」とも言えるだろう。 短くシンプルな物語でありながら、その解釈や捉え方、揺れ動く感情の在り方は、無限に広がる。きっと鑑賞者一人ひとりの経験や価値観、生きてきた時代や環境、その他その人を象る様々な要因によって、この映画や彼女たちから受ける心象は大きく変わるだろう。 初鑑賞から一週間が経ち、私自身の感情においても様々な思いが駆け巡り、今なお作品世界から抜け出しきれずにいる。 あくまでも現時点で、私の心の中で帰着したものは、本作の作者自身の根幹に存在するのであろうクリエイターとしての覚悟、漫画家としての矜持だった。 作中でプロ漫画家となった主人公(藤野)は、掛け替えのないかつてのパートナー(京本)の喪失に伴い、多大な罪悪感に苛まれると同時に、クリエイターとしての存在意義を見失いそうになる。 そんな藤野の元に、異なる世界線から送られてきた一つの4コマ漫画が届く。それは、これまで“ストーリー”を紡ぎ出すことはなかった京本が、初めて生み出した“ストーリー”だった。 そのまるで自分自身の漫画の作風を模したような軽妙な4コマ漫画『背中を見て』が伝えるものは、本当は代わりなんて存在するはずものなかったかつてのパートナーからのメッセージであり、同時にこれからも生き続け、描き続けなければならない自分自身への叱咤でもあったように見えた。 小学校の卒業式のあの日、もし彼女の部屋の前まで行かなければ、思いつきのまま4コマ漫画を描いたりしなければ……。 主人公の部屋に飾られていた映画「バタフライ・エフェクト」のポスターが象徴するかのように、「もしあのときこうしていたら」という悔恨は尽きない。 それでも、それでもだ。 辛いことも、苦しいことも、悲しいことも、そのすべてを“糧”にしろ、そして“ネタ”にしろ。 「そして、どうか、どうか藤野ちゃんの漫画を描き続けて」 そんな京本の声が聞こえてくるようだった。 空白の4コマを窓に貼り付け、狂気の世界で、再び終わりなき創作活動に向き合う主人公の背中には、そんな声なき声に対する、プロ漫画家としての覚悟が滲み出ていた。 自室から抜け出せず、唯一絵を描き続けることでしかアイデンティティを見出だせなかった少女時代の京本にとって、ふいに届いた4コマ漫画は“救い”であり、それを生み出していた同級生の作者は、紛うことなき「神様」だった。 彼女は、最初から最後までその背中を見続け、世界を広げ、幸福な時間を生きた。(絶対にそうだと信じたい) 冒頭とラストにおいて、時間をかけて映し出される主人公の背中を“見続ける”カットは、彼女の視線そのものだったのかもしれない。 [インターネット(邦画)] 10点(2024-11-16 07:16:06) |
13. ARGYLLE/アーガイル
殆ど事前情報を得ずに鑑賞を始めたので、冒頭のスパイアクションシーンに対して、「なんだこの嘘っぽい世界観」はと、落胆というよりも少々唖然としながら観ていた。 それが中年の女性作家が執筆するスパイ小説の作品世界の描写であったことが分かり、一転して興味が掻きたてられた。小説世界に登場する、ヘンリー・カヴィル、ジョン・シナによるザ・脳筋キャラ的な造形もナイスなキャスティングだったと思う。 主人公の小説家が突如として善玉・悪玉双方のスパイたちの標的となり、殺し合いの大騒動に巻き込まれるアクション・コメディの展開もスムーズで良かった。 効いていたのは、主演のブライス・ダラス・ハワードのビジュアルだろうと思う。 適度に“お肉”の付いたザ・中年女性の風貌が、戯れに書いたスパイ小説が売れて一躍人気作家となった女性像を説得力たっぷりに体現していた。 そして、その主演女優の風貌が、その後の展開においてさらに“効果てきめん”だったことは間違いないだろう。 作品のキービジュアルは、ヘンな髪型をしたヘンリー・カヴィルを矢面に立たせて、分かりやすそうなスパイコメディであることをミスリードすることで、本作の“企み”をうまく隠していたと思う。 「キック・アス」「キングスマン」のマシュー・ヴォーン監督らしい、遊び心と悪戯心に溢れたスパイコメディ映画だったことは間違いなく、秋の夜長にふと配信で鑑賞するにあたっては満足度の高い作品だったとは思う。 ただ一点、決して小さくない苦言を呈するならば、尺が長過ぎるという点だろう。 この手のアクションコメディ、そして世界観で、上映時間139分はあまりに長過ぎる。 実際、ストーリー展開上のテンポがあまりに悪かったり、内容が乏しかったりして、途中ダレてしまう時間帯が随所にあったことは否めない。 少なくとも30分程度は短くして、90分〜100分くらいの尺でスマートにまとめるべきだったろう。そうすれば、もっとスタイリッシュで体感速度の早いスパイコメディを堪能できたと思う。 エンドクレジット前後のシークエンスでは、続編への“含み”や、「キングスマン」の映画世界とのクロスオーバーも示唆されていたので、何らかの企画はあるのだろう。 キャラクター描写やアイデアはユニークだったので、よりブラッシュアップされるのであれば、続編も期待したい。 [インターネット(字幕)] 6点(2024-11-09 09:04:01) |
14. 猿の惑星/キングダム
「猿の惑星」は、1968年の第一作から始まるオリジナルシリーズ5作品をはじめ、全作品を鑑賞してきた。各作品ごとの完成度にばらつきはあるものの、シリーズ全体としてSF的な機知に富んだエキサイティングな映画シリーズだと思っている。 “シーザー三部作”とも呼ばれる2011年からのリブートシリーズは、諸々の設定の違いからオリジナルシリーズとは世界線を共有しないパラレルワールドとして認識している。 オリジナルシリーズでは“猿”に完全支配され、果てには核爆弾によって消滅してしまった地球が、この世界線ではどのような運命を辿るのかを、主人公シーザーの英雄譚と共に興味深く追った。 そしてシーザーの死去から300年後の世界を描く新作。 前作「猿の惑星:聖戦記」から7年も経っていたこともあり、正直なところ「まだ続くのか」という思いが先立ち、劇場鑑賞をスルーしてしまっていた。 しかし、鑑賞後の率直な印象としては、「ああ、また楽しみな新たなサーガが始まった」という期待感が高まったと言える。 リブートシリーズの過去3作品は、“シーザー三部作”の呼称の通り、“猿の惑星”の起源となったシーザーを主人公とした英雄譚だったわけだが、個人的にはその物語構造自体に、“「猿の惑星」らしくなさ”を感じてしまい、完全にのめり込めない要因となっていた。 個人的にはオリジナル5部作で表現されたSFシリーズとしての機知や衝撃性こそが、「猿の惑星」の醍醐味だと思っているので、一人の“英雄”の誕生と闘いに終止した“シーザー三部作”に対しては一定の面白さは感じるものの、愛着を持つことができなかったのだ。 でも、新たなサーガの始まりとして描き出されたこの最新作は、“「猿の惑星」らしい”科学的空想の妙、すなわち“SF”としてのエンターテイメントを多分に孕んだものだった。 英雄シーザーの闘いの記憶すら風化してしまった300年後の世界において、エイプたちは様々に枝分かれした思想や文化の中で生命を継ぎ、進化・発展している。 そこには新たな支配構造や、エイプ同士の対立や抗争も生じていて、「まるっきり人間の歴史を繰り返しているみたい」(by しずかちゃん)である。 そして、その傍らでは、弱々しくひっそりと息を潜める人間たちが、かろうじて生命を継ぎ、“何か”の機会を虎視眈々と狙っている。 “ノア”という名を与えられた新たな主人公の目線を軸にして、新たに描きされた世界が、この先どのような運命を辿り、どのような結末を迎えるのか。 本作で映し出された、人類が残した軍事施設は、オリジナルシリーズの第2作「続・猿の惑星」で描き出された核爆弾を崇拝するミュータント化した人類たちの神殿を彷彿とさせた。 そして、天体望遠鏡を覗くノアの視界には、この先何が映り込んでくるのか? オリジナルシリーズとは異なるはずの世界線が、どこかをミッシングリンクとして繋がってくるような展開をも予感される今後のノアたちの物語に高揚感が高まる。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-11-05 21:55:46) |
15. ザ・クリエイター/創造者
今年はあまりSF映画を観ていないなあと思い、Disney+で本作を鑑賞。 ギャレス・エドワーズ監督の大バジェット映画なので一定のクオリティは担保されているのだろうと、“マイリスト”に登録してから数ヶ月。なかなか鑑賞に至らなかった要因が、溢れ出る「既視感」だった。 “AIとの終末戦争”、“対立と共存の葛藤”、そして“未来の鍵を握る少女”、本作を彩る様々な要素は、過去のSF映画の踏襲の範疇を出いていないことは明らか。 ギャレス・エドワーズ監督によるクリエイティブも、彼の過去作「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のトレース的な色合いを感じたことは否めない。 ただし、映画作品として決して面白くないということではない。 過去作の二番煎じだろうが、焼き直しであろうが、作品としての仕上がりそのものは高水準で、SFエンターテイメントとして見ごたえは充分だったろう。 全体的な世界観に対する既視感はやはり禁じ得なかったけれど、一つ一つのキャラクターの造形や、AIを含めた彼らの心情描写には、この映画世界ならではのオリジナリティがあったように思える。 特に印象的だったのは、主題となる「AI」のキャラクターたちの“人格描写”が多様性に溢れ、人類と並列の新しい“種族”としての存在性を表現できていたことだ。 人工知能としての進化を極め、人間と同じように、喜び、怒り、哀しみ、楽しむ描写が、マクガフィンであるAI少女のみならず、脇役、端役に至るまでちゃんと演出されており、彼らが「生命」を全うする姿が、本作のテーマに対する説得力として機能していたと思う。 まあこのあたりの描写も「スター・ウォーズ」のスピンオフ作品を担ったギャレス・エドワーズ監督ならではのアイデアなのだろう。 133分という上映時間はやや長すぎるし、ストーリー展開としてやや唐突だったり、逆に冗長なシークエンスもあった。全体的にもう少し映画的な精度を高めた編集がされていれば、王道SFとしてもっと高評価を得られる素地のある作品だったと思う。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-11-05 21:54:09) |
16. ゴジラ×コング 新たなる帝国
「馬鹿映画」、「クソ映画」、本作を観始める前に用意していた、そういう安直なレッテルを問答無用にぶち破り、突き抜けたカタルシスに気がつくと包みこまれていた。 前作「ゴジラVSコング」は、その馬鹿馬鹿しさに辟易してしまい、個人的には酷評を禁じ得なかったのだけれど、確実に、その前作以上に超馬鹿馬鹿しい本作で、湧き上がる高揚感を抑えることができなかった。 「一線を超える」というキャッチコピーに相応しい、ゴジラとコングのあの“猛ダッシュ”に対して予告編の段階で「唖然」としてしまい、つい劇場鑑賞をスルーしてしまった。 が、今はそれを激しく後悔している。こんな文字通りの“お祭り映画”は、大スクリーンで観なければ始まらないという話。結果的に酷評となろうとも、やっぱり映画館で鑑賞すべきだったのだ。 “モンスター・ヴァース”と称される当シリーズ作は勿論、東宝のゴジラ映画シリーズを含めて、全ゴジラ映画を鑑賞してきた一ファンだからこそ、本作に対して「こんなのは“ゴジラ映画”じゃない」なんてことは決して言うことはできない。 本作のすべての創作物とその根底に敷かれた精神は、東宝が生み出した昭和ゴジラ映画シリーズの、「純血」とも言える系譜であり、その世界観を純粋に愛し、多大なリスペクトを持って踏襲しているからに他ならない。 前作は、1962年の東宝特撮映画「キングコング対ゴジラ」を、その“駄作ぶり”も含めて充実に汲み取り、世界最高峰の「物量」でリメイクした作品だったと言える。 故に、その出来栄えも必然的に“駄作”であり、ある種の“ゴジラ映画らしさ”を大いに感じると共に、落胆を禁じ得なかった。 が、この最新作においては、その昭和ゴジラ映画シリーズの伝統的なチープさや荒唐無稽をしっかりと受け継ぎつつも、更に圧倒的な「物量」と、娯楽性の追求で、大エンターテイメントを築き上げている。 個人的には、ストーリーの基軸に存在するキャラクターを、ゴジラではなく、コングに据えたことが、最も功を奏していた要因だったのではないかと思える。 やはりゴジラは、日本が生み出した崇高な大怪獣でもあり、「核」にまつわるその誕生の背景も含めて、アメリカ映画の“主人公”として描くことに難しさがあるように感じる。 当シリーズに登場する“怪獣王ゴジラ”に対して、その強大さに高揚感を覚えつつも、最終的に一抹の違和感や雑音を感じてしまったのも、その要因が大きかった。 一方で、“キングコング”は逆にアメリカ映画が生み出した歴史ある大怪獣であり、その描き方が熟成されていることを改めて感じた。 コングを主人公に据えて、深淵な地下世界における彼の闘いをストーリー展開の主軸として描き、ゴジラはあくまでも強力なライバル&助っ人として絡ませていたことが、余計な雑音無く、シンプルに大仰な娯楽を堪能できたポイントだったと思う。 あの予告編時点で開いた口が塞がらなかった日米が誇る大怪獣たちの“猛ダッシュ”に対して、手放しで歓声を送れる状態になるとは思わなかった。 畏怖の象徴としてのゴジラ映画は、「ゴジラ -1.0」に続き山崎貴監督ら日本のつくり手たちに任せてもらい、ハリウッドには引き続き昭和ゴジラシリーズのリブートに挑み続けてほしい。 個人的には、前作であまりにも中途半端だった“メカゴジラ”の「逆襲」に再トライしてほしいものだ。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-11-03 10:23:50)(良:1票) |
17. がんばっていきまっしょい(2024)
愛媛県松山市出身・在住の者としては、やはり「がんばっていきまっしょい」という作品はちょっと特別だった。 少女たちの人間模様にしても、彼女たちがたたずむ風景にしても、決して何か劇的なものが映し出されるわけではないけれど、自分たちが住んでいる街は「ああ、ちょっと良いんだな」と、思い出させてくれる。 すごく良いわけではないけれど、ちょっと良い。それは、“この街”の性質そのものをよくあらわしている。 思い出されるのは、1998年に公開された実写映画版だろう。 僕自身が高校生時分だったこともあり、主演の田中麗奈のフレッシュさも手伝って、とても瑞々しくて、愛らしい作品だった。 この映画が、その後の「ウォーターボーイズ」や「スウィングガールズ」、「シムソンズ」、「ちはやふる」など、マイナースポーツの運動部や文化部を題材にした青春映画の系譜に繋がっていることからも、存在感のある作品だったと思う。 そしてこのアニメ映画化。題材的にも、映し出されるビジュアル的にも、アニメーション化に相応しいものであることを容易に想像できる。むしろ今の今までアニメ化されていなかったことが不思議に思える。 舞台設定を現代に変え、秀麗なアニメーションで映し出された映画世界は、やはり瑞々しく、画面から爽やかな風が吹き抜けるようだった。 原作の世界観や、実写映画の系譜を踏まえた真っ当なアニメ映画だったとは思う。ただ、これはもはや個人的な趣味嗜好によるところが大きいが、CGアニメーションの“タイプ”が好みではなく、その部分がどうしても世界観にのめり込めない要因となってしまった。 とはいえ、前述の通りこの街の在住者としては「嬉しい」映画作品であることは間違いない。 今週末は、久しぶりに、あのきらめく水面を見に行こうと思う。 [試写会(邦画)] 6点(2024-10-27 15:25:31) |
18. ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ
《ネタバレ》 果てして「彼」は何者だったのか? この“続編”は、ただそのことのみを、哀しく、惨たらしく、そして容赦なく描き出す。 そこにはもはやエンターテイメントと呼べるような要素はほぼない。映画の上映時間いっぱいに「苦痛」が満ち溢れていると言っても過言ではないだろう。 正直言って、素直に「面白い」と言える類の作品ではないし、世界が賛否両論で湧いているのも納得できる問題作だ。 ただ、「ジョーカー」のPART2として、本作の在り方と目指すべき方向性は正しかったと思う。 というよりも、続編をどうしても作れと言われれば、こうするより仕方なかったというのがつくり手側の本音であり、多くの非難、否定、落胆すらも、宿命的なものとして「覚悟」していたようにも思える。 故に、「傑作」だと私は思う。 冒頭に映し出されるアニメーション、そして、肩甲骨が隆起するほどに削げ落ちが主演俳優の肉体が、この映画のすべてを物語っていたと言っていい。 オープニングから十数分の、ブラックジョークと、禍々しいまでの悲壮感が、「彼」の正体を明確に示していた。 それは、前作からこの男が放ち続けてきた“ジョーク”の真意だったと言ってもいいだろう。 前作では、不幸と不遇に打ちのめされる主人公が、自ら放つ“ジョーク”を発端として、取り巻く社会を狂気と混沌の渦に巻き込んでいく。 ただし、映し出される映画世界内では、真実と虚構が曖昧な境界線上で表現されていて、私たち観衆は最後まで、彼の存在性に対する「疑心」を拭い去れぬまま終幕した。 その曖昧で不確かな主人公の存在感が、一言では言い表せない特異な魅力を生み、この鬱積する現代社会への「悪意」と「怒り」の象徴として、観衆一人ひとりの“ジョーカー”を生み出したのではないかと思える。 無論、大多数の健全な映画ファンは、新たなダークヒーロー像の誕生に狂喜し、その狂気性を多分に孕んだ娯楽を楽しんだのだが、その一方で、浅はかな“模倣”により社会問題や犯罪行為に及ぶ者たちを生み出してしまったことも事実として存在する。 前作の時点で、この“ジョーカー”は、「馬鹿か、お前たちは、これは“ジョーク”だ」と、現実世界のそんな輩の蛮行を見越すかのようにヒャーハハハと笑い、蔑んでいたのだけれど、本作では愚直にもさらなる明確な“アンサー”を突きつけているかのようだった。 前作では曖昧にぼかされていた真実と虚構の境界線を、本作では、主人公の精神世界を歌唱シーン(ミュージカルシーン)で表現し、あからさまな虚構を映し出すことで、くっきりと浮かび上がらせていた。 それはすなわち、精神病棟で看守たちに心身ともに虐げられ、法廷では自分自身の存在証明を突き詰められるその哀れな一人の男の姿こそが、紛れもない実像であることの明示だった。 連作を通じて表されたものは、本作が世界で最も有名なヴィランの誕生秘話では“なかった”ことの衝撃。 そして、一作目で全世界を虜にしたダークヒーローのすべてを自己否定し、その「正体」を白日の下に晒すという残酷。 それは、正直、誰も得しない映画的アプローチだったと言えよう。 そんな“誰得?”な映画世界を、圧倒的に秀麗な映像世界と、繊細で大胆な演出、そして前作以上に素晴らしい演技表現によってクリエイティブした本作の製作陣は、「どうかしている」とすら思える。 狂気的なまでの映画製作への造詣と、浅はかで愚かなこの社会全体への強烈なアンチテーゼ。真の“ジョーカー”は、「彼」ではなく、この映画そのものだったのかもしれない。 [映画館(字幕)] 9点(2024-10-27 11:38:18)(良:1票) |
19. ゴールデンカムイ
「ゴールデンカムイ」は、今年原作漫画を“大人買い”した作品の一つ。 もちろん、数年前からその独自性とスペクタクルな世界観についての評判はよく聞いていたのだが、例によってふと読み始めた漫画アプリの無料配信分にドハマリしてしまった。 漫画表現ならではの緊張と緩和、バイオレンスとグルメ(和み)、そして明治時代末期の北海道を舞台にした歴史観と冒険譚のバランスが絶妙で、抜群の娯楽性を創出していると思う。 私は、映画好きであるが、それと双璧を成す漫画好きでもあるので、漫画の映画化が必ずしも幸福に至らないことをよく知っている。いやむしろ、漫画作品としての完成度高まれば高まるほど、その映画化の辿り着く先は「地獄」であることが必然であろう。 だから、この手の漫画の映画化作品は、基本的に観ないようにしている。 それでも、そんな私を本作の鑑賞に至らしめた要因は、何と言っても実写化におけるキャラクターの造形力だ。原作の極めて“マンガ的”なキャラクターたちを、過不足無く、そして違和感無く、見事にクリエイトしていると思えた。 実際に鑑賞してみると、一人ひとりのキャラクターのヘアメイクや衣装の極めて高い精度が、本作の最大の成功要因であることがよく分かる。 そして演者たちも、制作スタッフたちの高い技術力に呼応するように、原作を読み込み、リスペクトした上でのキャラクター造形に努めていたと思う。 不安だったのは、主人公である“不死身の杉元”と“アイヌの少女アシㇼパ”を演じた、山崎賢人と山田杏奈だったのだが、この二人のキャラクターへのフィット感が、個人的な想定を大いに越えて良かった。 特に“アシㇼパ”は、原作漫画ではもっと見た目にもわかりやすく「少女」なので、大人の女優が演じる以上、違和感は禁じ得ないと思っていたが、演じた山田杏奈はそんな印象をほぼ感じさせず見事に演じきっていた。 本作全体の白眉なポイントでもあるが、この漫画に無くてはならない“グルメ描写”を丁寧にちゃんと映し出し、山田杏奈演じるアシㇼパの「ヒンナヒンナ」を多幸感溢れる“和み”と共に表現しきったことが、何よりも素晴らしかったと思う。(エンドクレジット中の“オソマ”入り鍋を食べるシーンなど最高じゃないか!) あとは、過去最高の怪演を見せる玉木宏をはじめ、金塊争奪戦の群像を彩る各キャラクターたちの造形と表現もみな原作ファン納得の仕上がりだった。 これからの展開に登場するありとあらゆるキャラクターたちのクリエイトも当然期待できる。 が、個性豊かな囚人たちが続々登場する“囚人争奪編”は、なんとWOWOWドラマ化とな。 憎らしいくらいに“上手い”戦略に、WOWOW再加入を悩み始める今日このごろなのは言うまでもない。(桜井ユキ扮する家永が見たすぎる) [インターネット(邦画)] 7点(2024-10-20 09:49:56) |
20. シビル・ウォー アメリカ最後の日
昔読んだ村上龍の小説のいくつかを思い出す。まさに、今そこにある危機。 リアリティラインの境界線を絶妙に引いて、シビアに渡る「現在」の戦争映画。 [映画館(字幕)] 8点(2024-10-14 17:47:24) |