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マーチェンカさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 206
性別 男性
ブログのURL https://www.jtnews.jp/blog/22117/
年齢 43歳

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1.  シン・仮面ライダー 《ネタバレ》 
アクションエンタメとしての仮面ライダーを前提に、予備知識や先入観なしで評価するなら恐らく「5~6点」ぐらいではないかと正直思うのですが、僕は庵野監督の描く世界観(特に最近のもの)が好きなのと、陰はあるが誠実な本郷1号のキャラ造形が良かったこと、また素直に「かっこいい」と思える瞬間が確実にあったことなどから、僕としては最終的に「見て良かった」と思えました(ちなみに自分は仮面ライダーで言うと Black 世代です)。  まず「5~6点」と書いたのは、思った以上に庵野監督のカラ−が色濃く出ており、純粋に「仮面ライダー」としてこの映画を見た場合に付いていけない人が確実に出てくるだろうなと思ったからです。一方でモチーフや視覚イメージなど、個人的には「エヴァ」や「ナディア」を連想させる(つまり過去の庵野作品の中で既に見たことがあるような)展開も多く、そう言う意味では庵野作品をある程度見てきた僕のような観客にとっても、あまり大きな驚きはありませんでした。また全体的に「オーグ(怪人)を倒しに行く」ことを基軸にした、よく似た印象のエピソードを数珠繋ぎで連続させていて、「大きな起伏もなく淡々と劇が進んでいった」という印象であり、またそのことによって自分が意識無意識に「シンゴジラ」のような衝撃を期待していたのだということにも気づきました。「シン」シリーズに連なるものとして、例えばそれこそ「シンゴジラ」みたいな映画を期待すると、「付いていけない」度合いはより大きくなるのではないかと思います。  とはいえ、恐らく第一作ライダーへのリスペクトに基づいたダークな(陰のある)展開は好みでしたし、交流を深めるにつれてお互いに対する信頼が増していく本郷とルリ子との関係性は、見ていてそれなりに心暖まるものでした。また個人的には、西野七瀬さん演じるハチオーグのエピソードが、アクション映画としての「シン仮面ライダー」のハイライトとして、最ものめり込んで見ることができました(ハチオーグの造形は、多数出現したオーグの中でも一際スタイリッシュだと思いました。また日本刀によるバトルは仮面ライダーのアクションとしては非常に新鮮で素直にカッコいいと思えたし、短いエピソードの中でも垣間見えるルリ子とハチオーグとの屈折した、複雑な関係性や、完全な咬ませ犬だったサソリオーグのエピソードが綺麗に伏線として回収されていたのもとても面白かったです)。  全体としては、「仮面ライダーという箱を使って表現された庵野的世界観の総決算」だったというのが、この映画に対する僕の最終的な印象です。見る人は間違いなく選ぶでしょうが、庵野作品ファンで、かつ多くの少年と同様にかつて仮面ライダーが好きだった自分としては、しっかり楽しむことができました。
[映画館(邦画)] 8点(2023-03-19 22:18:21)
2.  ゴーストバスターズ/アフターライフ 《ネタバレ》 
過去作については子供の頃に「ゴールデン洋画劇場」などで放送されていたのをよく見ていた程度のライトな観客なので、レビューを書くのも少々おこがましい気もしますが (^^;)、こうやってわざわざ正式な続編を見に行く程度にはファンであるということで一筆書かせていただきます。  かつてのゴーストバスターズの孫たちが、ゴースト捕獲機やプロトンパック、ECTO-1 などお馴染みのガジェットを「発見」していく序盤の展開は非常に丁寧で、最後にシリーズを見てから長いブランクのある僕みたいな観客にとっても「そうそうこんな感じだった」と思い出しながら作品世界に入っていけたとともに、程よいノスタルジーも感じることができました(このような丁寧な展開は、恐らくシリーズ初見の観客を意識してのことでしょう)。  またその序盤におけるジュブナイル展開など、本編で活躍する子供たちの様子は、個人的に「グーニーズ」や「インディージョーンズ 魔宮の伝説」を連想させるものであり、これはこれで今や「古き良き」ものとなった 80 年代ハリウッド映画(の一部)の牧歌的な雰囲気が感じられました(とは言え、家賃を払えなくなった主人公親子が家を追い出される展開はなかなかに現代的でヘビーですが)。  ただし、そこは 2020 年代の「今」に蘇ったゴーストバスターズです。あくまでコメディが主体だった印象の過去作とは違い、今作ではゴースト要素にまつわるホラー的な展開がなかなか強調されており、いわゆる「ビビり」である僕にとっては割と本気でドキドキさせられました(あくまでホラー「的」という程度であり、そこはさすがにゴーストバスターズとしての一線は守っていると思いますが)。  序盤は比較的丁寧(ゆったり)だった展開も、ゴーストが本格的に登場する中盤辺りからは一気に加速し、過去作ファンにはお馴染みのラスボスと、ベタベタかもしれないもののやっぱり出てくると胸が熱くなる「彼ら」の登場には、少しでも過去作に触れた人なら恐らく「待ってました」と思えるのではないでしょうか。それでいて今作では、世代を超えてリブートしたことをうまく使ったホロリと来る展開や、過去作のコアなファンなら間違いなくニヤリとできるオマージュ要素も仕込まれており、古くからのファンにも初見の観客にも見やすい現代の「ゴーストバスターズ」としてとても楽しめました。
[映画館(字幕)] 8点(2022-02-13 22:44:38)(良:1票)
3.  ボヘミアン・ラプソディ 《ネタバレ》 
アルバムや楽曲の発表の順番、またバンドの、そしてフレディの伝記的な部分については、映画を盛り上げるための割り切りと思うにしても余りにフィクションが多すぎる点が、個人的に目に付きました。この点は、正直言って2回目の鑑賞を終えた今に至っても全く評価できません。  何より、フレディのエイズ発症とその自覚、そしてメンバーへのその告白が、少なくとも通常伝えられている時期よりも早められてしまったことが、僕には受け入れられません。その結果、本来はフレディ含むメンバーたちも何ら悲壮な覚悟を持つことなく、ただただ稀に見る大舞台を心底楽しんでいただけだったはずのライブエイドのステージに、「不治の病に冒されているのを承知で死を覚悟してステージに上がったヴォーカリストと、それを支えるメンバーたち」という強烈な「色」が付いてしまったからです。  ライブの迫力と音楽そのものの高揚感からは外れた過度の感傷が、自分たちの音楽に持ち込まれてしまったことを、音楽監修を行ったブライアンとロジャーは本当に良しとしているのかという疑問すら、僕は一瞬湧きました。  しかしそういった疑問も、例のライブエイドのシーンが始まった瞬間に吹っ飛んでしまっていました。  ライブエイドのシーンを見たからと言って、僕の中でそういった「伝記的事実の改変」が受け入れられない(一部に至っては許しがたい)ものであるのに変わりはありません。  しかしそういった改変は所詮は「フィクション」でしかなく、それは実際のライブエイドの舞台で演じられた、クイーンのメンバーによる迫真の演奏と音楽の前には、どうでも良いようなものでしかありません。そしてメンバーのステージ上の動きを忠実に再現した俳優たちの演技や、大観衆で埋め尽くされた会場の臨場感に溢れるカメラワークにより、映画の観客もまたウェンブリーでのクイーンの演奏を(その場で聴いているかのように)肌で感じることになるのです。そこには何らの感傷も悲壮感もなく、ただただ圧倒的な高揚感、そしてクイーンという唯一無二の音楽の「力」があるだけなのです。  伝記的な部分の扱いについては、未だに僕の中では大きな疑問符を拭い去れません。しかしクイーンの音楽が持つ力をほとんどダイレクトに映画の観客に伝えるこのライブエイドのシーンのおかげで、僕は最終的に「やっぱり見て良かった」と心底思うことができたのです。
[映画館(字幕)] 8点(2018-12-13 01:20:15)(良:1票)
4.  スター・ウォーズ/最後のジェダイ 《ネタバレ》 
「自分が好きだったスターウォーズは今後もう二度と作られることは無いのだ」・・・この『最後のジェダイ』を見終わったときに感じたのは、ある種の寂しさを伴ったこのような感慨でした。  僕の理解では、ルーカス時代の6つのスターウォーズに関しては多かれ少なかれ「おとぎ話」、もっと言ってしまうと「神話」的な要素が相当程度含まれていると思います。それも「フォースをフックとした善と悪の闘争」の神話としてです。  「神話」が物語の大枠ですから、そこに登場する人物たちも当然「神話的」、「伝説的」とならざるを得ません。900年間も指導者の立場にあったジェダイマスター・ヨーダ、彼を筆頭にしたジェダイの英雄たち、圧倒的な悪であるダース・シディアスと彼が率いる帝国軍、善と悪の間を揺れ動く「選ばれた者」としてのアナキン=ダース・ベイダー、そしてそんな「血統」を受け継いだルークとレイア・・・いずれも人間の体臭を感じさせない、「神話的」という表現に恥じない特権的な人物たちです。そして「フォース」もまた、そんな「神話的」な彼らにのみ使うことを許された特権的なものであり、必然的にそこで描かれる「善と悪」の葛藤も、どこか浮世離れした抽象的なものとなっていました。  この『最後のジェダイ』では、過去のスターウォーズにはあったそんな「神話性」や「特権性」がことごとく打ち破られているように僕には見えました。戦争の英雄たちよりも無名のレジスタンスたちにフォーカスするその手法、泥臭いレジスタンスたちの奮闘とその失敗、「神話」からは程遠い俗世的なカジノのシーン、貧乏くさい旧同盟軍の施設、あっさり退場するスノーク、堂々としたジェダイぶりからは程遠いルークの姿、子供っぽさの抜けないカイロ=レン、そして何ら「神話的な」バックグラウンドを持たなかった「何者でもない」レイ・・・過去の作品の「大柄さ」「神話性」からすると、これらのスケールの小ささは全てスターウォーズとしては「禁じ手」と言い切ってしまっても良いでしょう。そしてこれらの「禁じ手」は、過去のスターウォーズの枠組みを破壊するために、製作者側によって意図的に選ばれたものだと僕は感じました。  これだけの「過去の破壊」を通して目指されているのは、個人的には「今の自分たちに合った『善と悪』の物語」ではないかと思います。  例えばエピソード4~6が制作された当時(及びその後しばらくの間)は、そこで語られる大柄な「善と悪」の葛藤が観客にリアルなものとして共有されていたのではないかと思います。だからこそ、見る者はそんな大きな「善と悪」の物語を理解し、それに対してワクワクできたのだと思います。  しかしそんな「大柄な」物語は、残念ながらより混沌とした状況である現代では、もはや生き生きとしたものとして共有しにくいものとなっていると思います。登場人物皆が皆、まるで等身大の自分たちであるかのように泥臭く試行錯誤し時には失敗し、「何が善で何が悪か」を手探りで見つけようとしているようにも見えるこの『最後のジェダイ』は、そんな今の時代の「善と悪」、そしてその先にある「希望」のありようにとてもふさわしいように見えます。  そのような『最後のジェダイ』の方向性を最もよく体現しているのが、作中のルークではないかと思いました。過去の偉大なジェダイ達とは違って、その姿はどこか頼りなさそうですが、最終的には彼自身もまた、苦労の末にようやく、「持てるものを次の世代に受け継ぐ」という、自分の取るべき道を見出したようです。  そんな「旧世代」の彼が、「新世代の主人公たち」がいる別の惑星に「実体としては」存在しなかったのは極めて象徴的です。もはや彼は「生身を伴った」主人公ではなく、従ってその「舞台」にも立っていない(立つことはできない)・・・新しい時代を迎えるにあたり、ルークはこの作品で退場すべき必然性を持った人物だったのかもしれません。  そんな彼がフォースと一体になっていく時に、どこかほっとしたような、懐かしいようなまなざしで見つめる「二つの太陽」は、そんなルーク(そして旧作を愛するオールドファン)に対する製作者側のせめてもの「はなむけ」ではなかったかと、個人的には思います。
[映画館(字幕)] 9点(2018-02-07 01:14:52)
5.  ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー 《ネタバレ》 
作りは非常に重厚、人間ドラマの厚みについても(前半の説明的な展開を除いて)申し分なし、ベイダー卿の冷酷な強さの描写も文句なしにかっこ良かった(ジェイムズ・アール・ジョーンズが引き続き担当していたのが本当に嬉しい)・・・一言でいうと、この『ローグ・ワン』という作品を「単独で」評価するなら、非常に良くできたSF映画と言えると思います  ・・・しかしそれでも、あるいはむしろそのような「重厚さ」のゆえに、僕自身は「ルーカス時代の6部作」を基準に考えた際に、ある一点だけについては、ある種の「違和感」を拭い去れません。  それを一言でいうなら、ルーカス時代のSW作品に存在した、ある種の「軽さ」が、この『ローグ・ワン』には(そしてもしかしたらエピソード7にも)欠けていると思えてならないのです。  その「軽さ」をより詳しく言うと、「おとぎ話・ファンタジー的な軽さ」ということになりかもしれません。  僕自身の感想を言うと、ルーカス自身が制作に関わっている時代のスターウォーズを仮に「正典」と捉えるなら、「主要なスターウォーズらしさ」の一つとして「汗臭さを全く感じさせない非現実感」が挙げられると思うのです。  そのような「非現実感」を、必ずしも評価しないファンがいらっしゃるのは事実ですし、それを否定するつもりも全くありません。  ただし個人的に、今現在もこれだけのファンをスターウォーズが惹きつけ続けているのは、今自分たち(観客)が生きているこの時代や周囲の環境からは全く隔絶した、人間の体臭を全く感じさせない浮世離れした物語があるからこそ、という側面もあると思うのです。  それを言い換えるなら、観客が思い思いに「遠い昔、はるか彼方の銀河系で」の物語を、好きなように想像して鑑賞することができるのも、この「非現実感」があってこそ、という気がするのです。  そのような(いちSWファンである僕自身から見て決して見過ごしてはならないと思える)軽さが全く感じられないこの『ローグ・ワン』については、「エピソード3と4をつなぐ重要なピースの一つ」という意義や、あるいは作品自体の力の入りようとクオリティの高さを決して認めない訳ではありませんが、それでも「これが本当にスターウォーズか」と言われると個人的には素直に「そうだ」と断言できないものを感じさせるのです。  それは(非常に厳しい、あまりフェアではない指摘であるのは承知の上であえて言わせてもらうと)ラストシーンの、それまでさんざん重厚な(まるで現代の中東における対テロ市街戦を彷彿とさせるような)「リアル」な戦闘を描写した上で、デススターの情報を受け取るレイア姫が登場するシーンに顕著に表れていると思うのです。  このたったワンシーンに僕が感じた違和感を、ある種の例えで一言で言うなら、「それまで夏目漱石ばりの純文学を読んでいたつもりだったのに、最後のワンシーンでその作品がハリー・ポッターのようなファンタジーだったことが判明した」といったものです。  それなりにスターウォーズを追いかけて来たいちファンとしては、このような「ルーカス版SW」が余り注目してこなかった「汗臭さ」や「リアルさ」を追求するのももちろん意義のあることではあるが、それでもその「ルーカス版SW」が持っていた「ファンタジー的軽さ」の要素は、できるだけ疎かにせず保持して欲しいと、どうしても思ってしまいます。
[映画館(字幕)] 8点(2016-12-25 01:18:53)(良:3票)
6.  スター・ウォーズ/フォースの覚醒 《ネタバレ》 
それなりにスターウォーズを追いかけて来た一人のファンとしては、主要製作者としてルーカスの名前がクレジットされていない本作に対して、多少とも懐疑的・・・と言うより「本当にこの映画はきちんと『スターウォーズになっている』のだろうか」という不安な気持ちを持って本作の鑑賞に臨んだのですが、幸いなことにこの不安は、個人的には杞憂に終わりました。過去の6作と比べると当然より現代的にスタイリッシュになっている部分はあるものの、目の前の映画は、僕にとっては間違いなくスターウォーズでした。  僕がそう感じたのは、ハン・ソロやチューバッカにレイア、そして懐かしいドロイドたちといった見知った面子が出てきてるからといったこまごまとした部分だけによるのではなく、このシリーズ全体を貫く、フォースという要素をフックとした「善と悪の葛藤」が、この一作にして既にしっかりと語られているように見えたからです。  それを前提としてまず強く印象に残ったのが、この作品は単なるファンサービスというレベルに留まらない次元で、明確な意思を持って第4作「新たなる希望」になぞらえられているということでした。つまり、例えばファルコン号のレーザー砲の照準装置や同船内のモンスター・チェスのテーブルを登場させたり、シーンの構図や展開の所々にEp4を彷彿させるものを差し挟むといった、旧来のファンの心を快くくすぐるレベルに留まらず、そもそもの話の大まかな流れ自体が、Ep4を強く思い起こさせるものになっていると思うのです。  この部分を、一人のSWファンとして好意的に、作品の物語に即して捉えるなら、それは「歴史は繰り返す」ということがこの事によって描かれているのではないかということです。この作品においては、銀河は再び動揺の時代を迎えています。そしてそのような動揺の時に、まさしく再び「新たなる希望」が生まれつつある・・・このEp7でその様子を描くにあたって、過去にあった「新たなる希望」の誕生の時(すなわちEp4)が、運命とも予言ともつかない形で二重写しに重ねられているのではないかと、見ていてそう思いました。  しかし、大まかな話の流れはEp4に則っているように見えつつ、細かな部分では当然のことながらEp4とは大きく相違しています。  一番大きな違いは、ジェダイ側も暗黒面の側も、双方の戦士の状態がひどく不安定であるという点です。カイロ・レンは早々にそのマスクを外して「光の側にまた戻るかもしれない」と危惧しますし、一方のレイは、終盤の「覚醒」の時に至って、暗黒面の力に身を委ねたのではないかと見間違える程に闘争心をむき出しにしてレンを圧倒します。そしてレン(その正体はハンの息子であるベン・ソロ)の指導に失敗したと思われるルークは自ら表舞台から身を引き、ヨーダやオビ=ワンに見られたような自信も感じさせず、どうやら指導者としての自分の力量に疑問を感じている様子です。  この作品における、このようなある種の「不安定さ」の表現は、恐らく製作者側の明確な意図であるだろうと僕は思っています。ヨーダ率いるジェダイ騎士団、あるいは皇帝ダース・シディアス率いる銀河帝国という、明確な「善や悪」が存在した過去の6作とは違い、このEp7の舞台で前提となっているのは「善も悪も戦い尽くし、過去の秩序が崩壊した=新たに秩序を作り直していく世界」です。そしてその秩序の立ち上げの段階において、「新たなる希望」であるレイも、暗黒面に堕ちたレンも、そして新たな指導者としてのルークも、皆がみな「手探り」の状態なのだろうと思います。  光の側にせよ闇の側にせよ、それらに関わる人物たちの「当事者」としての生々しい「不安定さ」が、僕自身はこの作品の欠点ではなくむしろ「持ち味」であるように見えて、とても魅力的でした。またこの「手探りの不安定さ」がどのような方向に転んでいくのかという点が、今後の展開において重要になるのではないかと僕には思われて、非常に楽しみになりました。  全体としては、過去6作からの「継承」と、それに留まらない「新機軸」が、しっかり見られる作品となっていたと思います。
[映画館(字幕)] 8点(2016-01-03 02:25:32)(良:2票)
7.  思い出のマーニー 《ネタバレ》 
一度見た後に、杏奈とマーニーの本当の関係を思い起こしながら劇中の二人の様子を反芻し、二度目見る事があれば、その時には二人の関係を念頭に置きつつリアルタイムで彼らの内面に注目しながら見返す・・・そんな楽しみ方ができる映画だと思います。  劇中杏奈が見せるような「愛されていない」「見捨てられた」という意識は、まだまだ未成熟な年若い精神にとって、とても辛い、孤独で切実なものだと思います。  また冒頭の、公園で描いた絵を杏奈が先生に見せようとする時に、頬を赤らめながら、しかし何か期待するようにその絵を先生に差し出そうとした場面を考えると、杏奈は最初から「誰かに受け入れられること」を求めていたのではないかという風にも見えます。  その事と、養母が自分を養育するのに市から交付金を受け取っているという事実に深く傷ついた様子を考え合わせると、彼女は「誰かから愛され、また自分も愛したいのに、それが裏切られるのが怖い、そしてそんな裏切りを犯した対象を許せない」というメンタリティを持っていたようにも見えます。  そんな未成熟ながらも一生懸命に悩んでいる若い精神にとって、例えば劇中でのマーニーとの関係を通して杏奈が得たような「無条件に愛され、そして愛している、そしてその上で裏切られたと自分が感じても相手を許し、愛し続ける」という経験は、そのような辛さや孤独、そして「誰かを愛そうとして裏切られることへの怖れと怒り」を乗り越えるために必要な物だったのだと思います(実際杏奈は、マーニーと貴重な関係を築き、最終的に彼女を許すという経験を通して初めて、養母の愛に気付くことができました)。  「太っちょブタ」と杏奈から罵られたあの娘が傍から見れば普通に良い子であるはずなのに明確に美醜を基準にして悪者のように表現されているという手つきの安易さや、あるいは痛ましい虐待事件がしばしば報道される今の時代状況を考え合わせた上での、杏奈の「幸せさ」とその悩みの「生温さ」を指摘することも、もしかしたらできるかもしれません。  しかし僕自身はそれでも、この作品の中にある杏奈の悩みは、決して少なくない人たちが経験するものであり、そして彼女がその悩みを克服するうえで通過した「愛し愛される、そして相手を許す」という経験は、間違いなく人間にとって不可欠なものだと思います。この映画では、そのような「葛藤と浄化の過程」が、「祖母と孫の時を超えた交流」というドラマチックな要素も含めて、静かに、しかし確実に感動的に表現されていると思います。
[映画館(邦画)] 9点(2014-08-10 23:21:56)(良:2票)
8.  劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語 《ネタバレ》 
僕が見た限りでは、多くの映画作品の中には、「本当は死にたがっているのに『生きる事』を語る振りをしている」ようなもの、または「作品自体は『閉じた世界』を志向しているのに口先では『開いた世界』を語っているように見える」ようなものがあると思うのですが、その点このまどマギ劇場版に関しては、最初から「閉じた世界」を志向していることを明確に看板に掲げているだけ、そういった作品群より誠実だと思えました。ただし、そういった「閉じた(完結した)世界」の甘美さで観客に訴えかけようとすることによって、場合によっては観客もまたその「閉じた世界」の虜になってしまうのではないかという警戒心も感じるのですが。そしてこの作品に関しては、その「閉じた世界」の構築が極めて巧妙かつ魅力的になされているだけに、なおさらそう感じるのです。  個人的な話になってしまいますが、そのような「甘美さ」をここでことさら指摘するのも、恐らく僕自身が心の奥底ではそういう「閉じた世界の甘美さ」が大好きで、少しでも気を許したら自分自身がそのような世界にいつまでも中毒的に耽溺したがってしまうからなのだろうと思います。そんな自分にとってこの『叛逆の物語』は、はっきり言って「僕自身が一番見てはいけない類のもの」だと思わせる作品です。  細かい設定に関しては正直言って僕の中で消化しきれなかった部分があるものの、少なくとも作品に存在する感情面に関しては、ある程度受け止める事ができたのではないかと思っています。TV版の時もそうでしたが、この作品のベースにあるものは「報われなかった願い」や「優しさへの希求」を基調としたある種の渇望感であり、それに対する「自己犠牲」を基調とした甘美極まりない(言ってしまうと現実離れした)「善意」であり「思いやり」です。そしてそれらの要素に加えて、最後までその願望が完全に報われることの無いほむらという少女の個人的な渇望感が強烈に観客に焼き付けられるために、余計に劇中に存在する、まどかという少女に象徴される「優しさ」への渇望感もまた掻き立てられるのです。見当違いな例えである可能性を認めたうえであえて僕の感じた通りのことを言わせてもらうなら、それはちょうど劇中存在する「円環の理」という表現と対応するかのように、「優しさ・甘美さ」と「それへの渇望感」がまさに円環構造をなしているように見えます。  ここまで独特な世界を構築したその手腕は本当に凄いと率直に思うものの、見る者にただただ強烈な「渇望感」を植え付け、その上で「閉じた・完結した世界」を見せつけるその手法に関しては、僕は素直にそれを受け入れる気にはなれません。はっきり言って製作者の意図を測りかねる部分もあるのですが、少なくとも僕自身は、劇中ほむらが選択したような円環的な「閉じた世界」に留まっていたところで、結局どこにも行く事はできないと思うからです。自分自身とても楽しめたという事実と、その「甘さ」に耽溺してはいけないという警戒心と自戒の双方を込めて、この点数とさせてもらいました。
[映画館(邦画)] 5点(2014-01-02 03:29:15)(良:1票)
9.  かぐや姫の物語 《ネタバレ》 
高畑監督による力強い「生命賛歌」だと思います。ここには人が感じる喜怒哀楽や「生きる事の喜び」、そして「人に『生命』が与えられ、それぞれの生命を『生きている』」ということの根源的な不思議さや貴重さが、「自らの生を貫き全うすることの難しさ、罪深さ」というものも巻き込んだうえで、これ以上無いと思えるほどに高い純度で表現されていると思います。  劇中でのかぐや姫の「成長ぶりと月への帰還」、ひいては映画全体と二重写しにされているのは、まさに我々人間の「生と死の様相」そのものではないかと見ていて思いました。  人間に与えられた生命は余りにも短くはかないものであるにもかかわらず、我々はしばしば、「人は何のために生きているのか、そもそも生きるとはどういうことなのか」ということを見失いがちです。  そんな中、この映画は本来人間が持っているはずの「生きる事」の根源的な手触りというものを、繊細かつ奔放なアニメーション表現によって、とても鮮やかに観客に示します・・・と言うよりも、劇中あるようなあのアニメーション表現「そのもの」が、生き生きとした「生命感」の純粋な表現である、ということなのかもしれません。  エンドロールに流れる二階堂和美さんの歌は、情熱的な盛り上がりと共存するその静かさや真っ黒なエンドロールの背景も相まって、まるで将来闇に返っていく事を避ける事のできない我々の生命を、闇に灯る一筋の煌めきとして歌い上げるかのようです。そこに僕は同時に「死の影の静寂と冷たさ」(それは個人的には劇中ラストの、姫の月への帰還と重なるのですが)を感じる思いがしますが、そのような忍び寄る「死の影」をも含めて「人間の命」であるのだという事を、それまで見ていた生命感溢れる映画は同時に指し示しているように感じます。  そのような冷たい「死の感触」も含めて、我々は力を尽くして生きねばならないし、またそのように生きるに値するという、静かだがしっかりした思いを観客に残していく映画だと思います。個人的には、今はただただ「日本人で良かった」としみじみ思います。
[映画館(邦画)] 10点(2013-11-24 19:21:31)(良:3票)
10.  じゃりン子チエ 《ネタバレ》 
高畑監督の人間への目線の暖かさが感じられる作品だと思います。  主人公であるチエちゃんの、大人びたところと子供らしいところの混在した人物造形はもとより、あのテツでさえ、作中では何とも人間味に溢れる愛すべきろくでなしといった趣です。そして作品は、そんな型破りなテツの生き方をも、「こいつはそういう人間なんだ」といった風に、大らかに受け入れているかのようです。  恐らくテツは、何かにつけて人並み以上に「過剰」なのでしょう。だから堅気の生活は、彼には余りにも窮屈過ぎるのです。バクチやケンカへののめり込み方も過剰なら、一人娘であるチエへの溺愛振りもまた過剰です。  自分の考え方でしかチエを愛せないテツにとって、「ワイはこんなにチエのことを愛してるのになぜチエは怒っているのか」と、チエが考えていることをしばしば理解できません。そしてそんな不器用なテツの愛情を知ってか知らずか、チエちゃんは時に腹も立てつつ、「しゃあないな、ウチがおらんとテツはどないもならんねん」といった趣で受け入れているのです。  そんな愛すべき人々とは別に、過剰なテツの生き方のその破天荒さや、エネルギッシュな大阪の下町の人々(それとたくましいネコたち)の様子を見ていると、そういう荒々しさを痛快な思いで眺めつつ、それに対してどこか憧れの気持ちを持ってしまいます。  一応関西育ちではあり、TV版の再放送もしょっちゅうされていたので、子供の頃は好んで良く見ていたものの、劇場版についてはラストの小鉄とジュニアの対決が子供心に痛々しく感じられたという印象も手伝って今まで特に見返す事もなかったのですが、こうして見てみると本当に良い作品だと思います。
[ブルーレイ(邦画)] 9点(2013-10-18 23:41:03)(良:1票)
11.  冷たい熱帯魚 《ネタバレ》 
人間の幸せや平穏というのはある種の暴力を前にすると木端のように砕け散ってしまい、人間の存在そのものも何も高尚なものではなく所詮はただの肉片でしかないという、普段は意識しない(忘れようとしている)ことを改めて見せつけられるような、強烈な映画でした。  人が辿る人生と言うのは決してお花畑ではありえず、それも一皮むけば(半歩でも間違えようものなら)こういう暴力や悲惨が蠢いている(あるいはこういうものに自分も足を突っ込んでしまう)という事を改めて思い知らされたような気がします。そんな暴力や悲惨に妙なカタルシスを感じてしまうのがまた始末が悪いのですが・・・。やってることの良し悪しはともかく、本能のままに行動する村田達や(後半の)社本のその様子が、とことん突き抜けまくった解放感を見る者に与えるからでしょうか。  「人生ってのは痛いもんなんだよ」と社本は命を懸けて娘に言葉を絞り出しますが、それを向けられた娘は「やっと死にやがったかクソジジイ!」と彼を足蹴にし嘲笑します。あの救いようもないラストによって、この映画は観客の心にその「人生の痛み」を具現化してザックリと刻み付けたのだろうと思います。  そこに「人生と言うのはとことん冷たく、人間は脆いものなんだよ、仕方がないもんだね」とそっと教えてくれているような「制作側の愛情」を見る思いがするのは、僕自身の弱い心がそこにあるはずのない希望を見ようとしているせいなのか、それはわかりません。しかし僕自身はこの映画の中に、「人間という脆く弱い存在への愛」を確かに感じました。
[DVD(邦画)] 9点(2013-03-11 00:12:43)
12.  ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 《ネタバレ》 
<2014・9・17、内容を全面的に書き換えました。また点数を9点から10点に変えました>  本当に我ながらおこがましいことだとは思うのですが、庵野監督は一貫して、ご自身のその時その時の率直な「心情」と言うものを、その時その時で携わっておられる作品に惜しみなくさらけだすような作家なのだなと思います。それは例えば、この一連の新劇場版を作られる前の段階、つまり旧作のエヴァンゲリオン(二つの劇場版を含む)を作っておられた頃から全く変わっていないのではないかと、僕自身は思うのです。  ではこの『Q』において率直に現れている心情とは何かという事になりますが、個人的にはそれは、庵野監督自身における、「旧作エヴァ劇場版(特に『まごころを、君に』)の頃と比べて大いに変わったその心境」ということになるのではないかと思います。  具体的に作品に即して言うなら、例えばシンジを徹底的に「ガキ」扱いし、ゲンドウやミサト、そしてアスカたちといった、一言も泣き言を言わずに「やるべきこと」をやっているだけで実は何ら「シンジ」を敵対視しているわけではない人々をただ「やるべきことをやっているだけの人」として描写している点において、庵野監督自身大いに「旧作エヴァ」の頃から心境が大きく変化したのだなと、個人的には思うのです。  新劇場版に関しては、「シンジ自身が一体どうしたいのか」という事は、実は最終的には誰もシンジ自身に強制してはおらず、一貫してシンジ自身の意志に委ねられています。確かにそもそも論としてシンジはエヴァに乗るためにネルフに連れてこられたという事実は存在しますが、だからと言って最後までそのような生き方がシンジに「強制」されている訳ではありません。  またシンジがやらかしてしまったことに関して、誰も「元に戻す」ことを求めてはいません。ただただ彼に求められているのは、シンジが選択したことを「起こってしまったこと」として受け入れたうえで(つまり誰もシンジの選択そのものは否定していないのです)、その延長線上において発生した状況に対してシンジ自身が「なすべき最善の態度」を取る事なのです。そしてこの場合、シンジに求められているのは、いみじくもミサトやアスカが言ったように「何もしない」事であり、鈴原サクラが言ったように「エヴァにだけは乗ら」ないという事なのだったと思います。  それに対して、シンジは自分のやらかしてしまったことに対してうまく向き合うことができず(つまり自分が「選択」したことに対して、その選択したことを主体的な自分自身の行動と捉えて「不可逆な物」として受け入れたうえでどう対処するべきかという事を考えず)、ただただ退行的に「間違った選択であったのならやり直せばいい」という安易な方法に逃げようとしてしまいました。この点において、彼はこの新劇場版に登場する人物と比べて誰よりも「ガキ」であるとしか言いようのない人物となるのです。またこのようなシンジ自身の「弱さ」が、結果的に一番取ってはならない「エヴァに乗る」という選択をこの『Q』において取ってしまった直接的な原因ではないかと思うのです。  この点、つまり「ある種の選択に対してそれを自分自身のものとして受け入れたうえで、それに対して主体的に向き合って次にどう対処するべきかを考える」という点に関して、庵野監督の認識はとても深まっており、その結果としてこの『Q』における「バカガキとしてのシンジ」の描写が徹底されたのではないかと僕は思うのです。  シンジ君(と、ここで僕は君付けで彼の事を呼びたいと思うのですが)は、この『Q』において自分自身の「ガキさ」加減を嫌と言うほど自覚させられたと思います。そして願わくば、このように徹底的に心を折られ、頭をかち割られたシンジ君が、次作である完結篇において、何らかの「向き合い」、すなわち「自覚」に辿り着いてくれればと、自分自身の弱さを棚に上げても思わずにはいられません。
[映画館(邦画)] 10点(2012-11-18 16:56:17)
13.  ダークナイト ライジング 《ネタバレ》 
結果的にはそれなりに楽しめたのですが、個人的に残念だった部分も多い作品でした。点数は正確には6点+端数という感じで、何だかんだ言っても楽しませてもらったという意味で切り上げ7点としています。  まず(それなりにこの監督の作品を見てきた者として言わせてもらうと)「長台詞の多用」や「シーンを素早く切り替える」というこの監督独特の手法が、この作品の場合裏目に出ている部分が多いのではと思いました。前作『ダークナイト』では、ジョーカーというカリスマ的な悪役の存在により映画全体がそもそも引き締まった重みのあるものとなっていたため、そういった手法が説得力を持ったり(長台詞)、作品に一定のテンポを与えていた(シーンの切り替え)と思うのですが、今作に関しては肝心の悪役ベインにそこまでの求心力が無かったために、そういった手法が作品にテンポを生む前に「それぞれのシーンに存在するアクションやタメの『重み』を殺いでいる」部分が多いのではないかと思いました。要するにそれぞれのシーンが妙に軽く、また繋がりも良くないように感じました。  またそのベインが思ったほどの深みのある悪役ではなかったことと、その背後にあるどんでん返しが単なる「父なるものの呪縛」に終始してしまったことも、少なからず残念だった点です。  何より釈然としなかったのは、前作で問うたはずの「ダークヒーロー」像、あるいは「善と悪」に関する問いと言うものが、この作品で最終的に「単なるヒーロー像」や「単純な善悪の構図」に戻ってしまったことと、そういう中途半端な「復帰」のせいで劇中に無用な混乱を招いてしまっているように見えてしまったことです(例えばウェインが劇中でバットマンとして初めて復帰する一連の場面。ただしこれは劇中でアルフレッドが指摘していることでもあるので、「織り込み済みの流れ」でもあるのでしょうが、それでも)。  ただし相変わらず映像はスタイリッシュであり、贅を尽くしたアクションにはやはり圧倒されもしたので最終的に楽しむことはできました。またこういう不満も個人的には(ある一定の作家性を発揮してくれるだろうという)期待値の高さの裏返しでもあると思っています。今作は少々残念な部分もあったとはいえ、やはりそのような期待を持たせてくれる監督の存在は貴重だと思います。
[映画館(字幕)] 7点(2012-08-12 23:47:09)
14.  プロメテウス 《ネタバレ》 
「人類の起源」や、中でも「創造者(創造神)」といった考え方は多分にキリスト教的だと素人ながらに思うのですが、そういう考え方にあまり馴染みのない僕としては、頭ではそのような考え方や疑問を理解できても、切実にそれを実感するのは難しいというか、「本当にたった一つの絶対的な『創造者』だけを想定しなければならないのか?」という感慨がどうしても勝ってしまいます。  そのような僕にとってそういう「扱われているテーマへの馴染みのなさ」は、たとえて言うなら他のホラー映画で登場するような「さびれた洋館」や「廃墟となった病院」が自分にとって馴染みがないのと全く同一でした。そしてそれらの意匠が自分にとって馴染みがないからといって、それを基に構築された悪夢的な世界観を魅力的に感じることを一切妨げません。それは完全に「実際に構築された世界の出来具合」によるからです。  そして実際にそのようにして作り上げられたこの映画の世界観を見てみると、これは十分に魅力的であると僕は思いました。人間側の一方的な淡い期待が、次々とその意味不明かつ恐ろしい実態によって裏切られていくさまは、「人類の起源や創造者をめぐる一つの悪夢的な仮説」たりえていると思います。何よりリドリー・スコットらしい生々しさによって、その「恐ろしい仮説」が生き生きと映像化されている点が素晴らしいと思います。劇中説明もなされずほとんど意味不明であるにもかかわらず、質感ばかりがやたらリアルな現象の数々も、そんな「悪夢的」という印象を強めます。  思えば第一作の『エイリアン』も、広大な宇宙と、そこにぽつんと漂う巨大な宇宙船内を、エイリアンという恐怖の対象によって悪夢的な空間として再提出した映画でした。そしてリドリー・スコットは、このエイリアンの前日譚という形を利用して再び、今度は「人類の起源」という題材を基に「リアルで魅力的な悪夢」を作り上げたのではないかと思います。
[映画館(字幕)] 9点(2012-08-12 18:13:34)
15.  ゲド戦記 《ネタバレ》 
あくまで個人的な感想として採点をさせてもらうと、「劇場公開当時にしっかり2度見に行き、その後DVDも買い、また最近TV放送で見返してもある種の感銘を受けた」くらい好きな作品であるという意味で、この点数としました。  作品の内容やテーマといった事以前に、僕自身はこの映画に関して何より「作品世界の構築のなされ方」それ自体が大好きなのです。例えばゲドとアレンがたどり着くホートタウンや、テナーとテルーが住む家、そして畑の描写など、いずれも「街」としての、あるいは「村中の家」としての生活感が漂う、「生々しい」とも言えるほどの精緻な造形がとても印象的でした。  そして僕自身は、それらの丁寧な作品世界の構築により、見ていて実際にその土地を踏み、その空気を吸っているかのような臨場感を得ることができました。何よりそれら一つ一つの「街」や「村」を含めた、一つの世界としての「手触り」が、作品から感じられる点が素晴らしいと思います。  もちろんこのような「世界観の構築」にあたっては、ル=グウィンによる原作の存在や、あるいは原案としての『シュナの旅』(作者は他ならぬ宮崎駿監督)の存在が、大いに参考になっている面もあるとは思います(例えば上記ホートタウンの描写など)。しかしそういった「オリジナル」があるとはいえ、最終的にそれを映像化し、一つの「世界」としてのまとまりを与えるのは、他ならぬ監督の手腕によるのではないかと思います。  それは恐らく、上記「原作」の注意深い吟味と、そして吟味する側のある種の「主体性」といったもの無しには、成し遂げられないものでしょう。そして吾朗監督は、宮崎駿やル=グウィンといった「偉大な先人」の手による原作に臆することなく取り組み、「自分自身でそれらから読み取ったもの」を、やはり臆さずに作品に注ぎ込んでいると思いました。そしてその結果としての、あの「独自の手触りのある世界観の造形」なのだと思います。  また肝心の「内容そのもの」に関しても、僕自身はその「生と死の認識」に、ある種の感銘を受けました。原作にも存在するこの重要なテーマを吾朗監督は正確に読み取り、それをジブリらしい少年少女の物語に置き換えることにより、印象的に表現していると思います。あるいはその表現の仕方の「強度」からすると、こういう「生と死」の問題意識は、もともと吾朗監督の中にも存在していたのかもしれません。  ただし表現に教条的な部分があったり、言葉での説明に重きが置かれ過ぎている部分が存在する一方で、ある部分では内的イメージが何の説明もなく全面的に打ち出されていて作りがかなりアンバランスであるなど、僭越ながら「未熟」という言葉がちらついてしまう瞬間があるのも事実です。  そして個人的に現状のこのような激しい批判・非難の原因として、こういう内省的(あるいは内向的)な作風を一本の娯楽映画の中で、よりによって「ジブリ映画」という看板を背負いながら貫いてしまった点があるのではないかと思います。  しかし個人的には、「二世監督」といった世間の目や、あるいは原作「ゲド戦記」の偉大さといった要因をものともせずに、泥臭く真摯に原作と取り組み、自分なりの表現で作品を完成させた吾朗監督に、無条件で敬意を表したいと思います(「ぐるぐる」さん、締めの段落が微妙にかぶってしまいました・・・どうしても言いたかったことなので申し訳ないです(^^;))
[地上波(邦画)] 9点(2011-08-09 15:19:20)
16.  コクリコ坂から 《ネタバレ》 
大変爽やかな映画だと思いました。作中で発生する、とある(俊言うところの「メロドラマみたい」な)展開も、この爽やかな物語に起伏を持たせるためにはある意味相応しかったと、個人的には思います(以下原作未読でレビューします)。  僕自身はこの映画で描かれている時代を経験しているわけではありませんが、それだけに作中の風物や、あるいは登場人物の物の言い方なども、結構新鮮に見ることができました。  例えば作中、カルチエラタンの取り壊し反対のための討論集会の場面など、恐らく見る方の世代によっては「このシーンは学生運動を経過した頃の時代の空気を反映している」という風に受け取る方もいらっしゃるかと思います。僕も一応知識としては「そういうことがあった」という事を知ってはいますし、中にはそんな作中の描写を「単なる懐古趣味だ」と批判的に受け取る方もいらっしゃるかもしれません。  もちろんそういう意見を否定するつもりは全くありません。そしてそのシーンに対する、(知識としてしかそういう時代が存在したことを知らない)僕自身の感想を言えば、その集会のシーン全体からは、「我は我である」といった一癖ある人物たちが、何の屈託も無く自分の足場に立って自己の主張を展開し、また周囲もそんな曲者を「個人」として認め、その存在を許容しているという、何とも鷹揚な清々しさを感じました。それはまたあの印象的なカルチエラタンの個性的な住人たちが初めて紹介される一連のシーンでも感じたことでした。  こういう「楽天的な鷹揚さ」や、あるいは海と俊の爽やかな恋愛模様といった内容は、もしかしたら今のような時代に望むのは困難なものかもしれません。あるいはまた、上記一連のカルチエラタンのエピソードに代表される「屈託のない理想主義」といった内容は、実際にかつての1960年代の日本に(あるいは世界中、人類の歴史始まって以来延々と)人々から望まれ、あるいは挫折してしまった事柄かもしれません。  しかし過去に一度存在した(そして挫折してしまった)からと言って、「それを現代で望んでいけない」という決りは無いと思います。そして何より、過去に材を取ろうが、挫折をしていようが、「何かを望み、実現する」という様子を、どんな形であれ映像化し、またそれを目の当たりにするのは、いつの時代も変わらず心地よく、また感動的なのではないかと思います。  「自分自身宮崎駿作品のファンだった」と公言する吾朗監督だけに、端々に過去の宮崎駿作品へのオマージュと見られるシーンがありますが、そんなシーンの存在と、高校生の青春映画としての体裁、そしてスムーズな物語展開といった要素が相まって、僕はまるで一編のファンタジーを楽しむかのように、この別時代(別世界)の爽快な物語を楽しみました。
[映画館(邦画)] 9点(2011-07-24 16:43:02)(良:1票)
17.  アバター(2009) 《ネタバレ》 
<『特別篇』を見た上でのレビューです。3D上映で鑑賞しました>  映像の革新性は言うまでも無いと思いますが、その一方で物語には(偉そうな言い方になってしまいますが)悪い意味での「アメリカ娯楽映画的な安易さ」がちらついてしまう瞬間が少なからずあるのも事実だと思います。個人的には、そもそも「既に人間が資源を求めて異星を略奪している」という設定からして、「今の時代いい加減そういう『無批判に侵略を描く』という態度は無いだろう」という違和感を感じてしまいます。  しかしそれにも関わらず、この映画は魅力的だと感じました。僕自身はあまり熱心なキャメロン・ファンではありませんが、ただ折に触れて彼の作り出す「生々しい臨場感」はそれなりに楽しんできましたし、そういう「臨場感へのこだわり」が、「強い女性」というモチーフと並んでキャメロン監督の持ち味だと感じてきました。そして個人的にはこの「臨場感へのこだわり」という点に関して、この作品はある種の到達点にたどり着いたと思います(個人的には、あの「翼竜」を手なずける儀式のために訪れた高地の底知れなさが見事だと思いました)。  またキャメロン監督が、この作品に関して宮崎アニメ(特に『もののけ姫』)からの影響を公言してはばからないだけあって、ナヴィたちやパンドラの生物(つまり「自然」)とジェイク(人間)との「交流」の描き方も、かなり印象的だと感じました。例えば(アバターになっている)ジェイクが自分の翼竜を手なずけた直後の様子など、一宮崎アニメ好きとしてはニヤリとしてしまいます。ただし森や生物とナヴィ(そして当然人間)との関係に、どこか「人間の現世的な利害の一致の関係」の影を振り払いきれないところなど、深遠極まりない宮崎アニメをそれなりに見続けてきた一ジブリ・ファンとしては「もう一歩かな」という気持ちを拭い去れないのですが。  しかしそういう宮崎アニメを髣髴させるシーンばかりでなく、例えばラストの「人間のままのジェイクとネイティリとの始めての出会い」という、単なる宮崎アニメの模倣ではないこの映画独自の魅力を持ったシーンも存在すると思います。「大きく猛々しい女性」が「小さくか弱い男性」をやさしく労わる様子など、ある意味「究極のキャメロン節」ではないかとも思いますし、僕自身このシーンが大好きです。  そして僕にとって、何よりジェイクが「足を治す」という選択肢を蹴ってまで自分の意志を貫いたその様子が、強く印象に残りました。このジェイクの決断に関しては、「足も治そうと思えば治せた」という点が劇中できちんと示されているだけに、説得力があると感じました。  先にも書いたようにこの作品には「独自の魅力」と「ありきたり・安易な部分」が混在していると思いますし、僕自身、今後この作品を見返したときに、もしかしたら評価を下げることもあるかもしれません。しかしそういう「ありきたりな部分」の存在にもかかわらず、それ以外の「魅力」といったものがより大きな比重を占めていると僕は感じますし、また映画館の大画面でこの作品の迫力を感じることができた満足感が現時点では加わっていますので、 この点数ということにしたいと思います。
[映画館(吹替)] 9点(2010-10-24 20:35:23)
18.  エイリアン2/完全版 《ネタバレ》 
過去にこの作品の「劇場公開版」(と表現するべきなのでしょうか)に対してレビューを投稿したのですが、今回見直してみたのがこの「特別版」でした。従って特別版に今回投稿するこのレビューに関しては、過去に投稿した「劇場公開版」の修正レビューという位置づけにしたいと思います。  まずはこまごまとした不平めいたものを先に書いておきたいと思います。訳のわからないもの(エイリアンたち)にまともに対峙してようやくその「怖ろしさ」を思い知る海兵隊員たち、というその姿がたいへんリアルに感じられたのに対し、その「リアルさ」を、果たして「リアルであるから」というその理由のみによって無条件に評価して良いものかどうか、個人的には迷ってしまうところです。と言うのもこういう心理と言うのは、例えばイラクに駐留する米軍兵士たちにとっては、いまだに決して絵空事ではないであろうという連想も働くと同時に、「そもそもそういう状況に立ち至った『経緯』自体、検証が必要なのではないか」という点を見過ごしたままで、その「リアルさ」を受け入れて良いのかとも思ってしまうからです。  また(自分自身短絡的な考えだとは思うのですが)簡単に「核爆弾でやつらを一掃してしまおう」と作中人物が口に出してしまう点も、反射的に警戒心を抱いてしまいます。  とは言えそういう点を仮に考慮に入れたとしても、この作品が依然として大変な傑作であることには変わりないと思います。観客を物語に引きずり込むサスペンス性、エイリアンの造形の生々しさ、そして何より観客たちにも基地の中を歩き回らせているように感じさせる生々しい臨場感・・・全く非の打ち所のない面白さだと思います。  そして(既にこの作品のレビューページで取り上げている方もいらっしゃいますが)作中に存在する「女性(と言うか「母性」)の強さ」を感じさせる点が、今回見直してみて印象的だと感じました。それは何も主人公のリプリーだけではなく、個人的にあの「女王エイリアン」からも感じられたということも、告白しておきたいと思います。重ねて書いておくと、ラストのあのリプリーとエイリアンの一騎打ちシーンから、「母と母の闘い」とでも表現するしかない妙な迫力も感じました。
[DVD(字幕)] 9点(2010-09-05 02:42:12)
19.  スカイ・クロラ The Sky Crawlers 《ネタバレ》 
押井作品に関しては、『天使のたまご』は見ているものの『ビューティフル・ドリーマー』は見ていないという中途半端なフォローしかしていませんので、この作品にコメントをするのもおこがましいとは思うのですが、あくまで「この作品を見た限りにおいて感じたこと」として、レビューをさせてもらいたいと思います。  まず個人的な感想として、「明らかにこれまでの押井作品と比べて、前進しようとする『意志』は強く感じられる」と思いました。誰しも「日々の生活の『ループ感』」と言うのは、程度の大小こそあれ感じることだとは思うのですが、「それを耐えられるようになってこそ大人なんだ」という風にばっさりと切り捨てるのではなく、ドン・キホーテ的な無益さを承知の上で「そうではない」とはっきり言っているところに、押井監督の「真剣さ」といったものを感じました。この点に関しては、僕は何も言うつもりはありませんし、無条件で敬意を表したいと思います。  しかし僕が気になるのは、そういう「ループ感」に捉われている人々の描写と言うのが、あまりにも「その状況に耽溺しすぎている」という風に見えてしまい、それがまた劇中BGMの切なさも相まって何とも甘美に感じられてしまう点です。具体的に言うなら、前~中盤のそういう「状況に捉われた」描写が、「結局は何をやっても負け戦になる」という前提になっているように見えてしまい、それゆえに終盤のあの展開に否応なく「敗者の美学」みたいな、何か危険な「甘さ」のようなものが付いて回るように見えてしまうのです。  ここからは完全に(未経験な若輩者である)僕のわがままになってしまうのですが、せめて映画の中では(と言うより現実をはるかに飛び越える可能性もある映画の中だからこそ)、そういう「甘美さ」を抜きにして、「敗者になること」を前提とした勝ち目の無いものではなく、せめて拮抗しているか、あるいはそういう「勝ち負け」をポンと飛び越した状況を経た上で、「人間性の勝利」みたいなものが垣間見える瞬間を見てみたいのです・・・と言うより、今現在の僕の個人的な嗜好として、製作者自身も「何とかそういう方向を手放さずに格闘する」ような作品をより多く見てみたいと思います。  (とは言え、こういう種類の「甘さ」と言うのは、僕が見てきた数少ない押井作品の数々(とりわけ『天使のたまご』)の中からも感じられた、言ってみれば「押井作品の持ち味」と言っても良いものなのかもしれませんが・・・)  そういう意味では、この作品は僕にとって「決して駄作ではないが、かといって無条件に礼賛するのも危険な作品である」という位置づけになります。  しかしそうは言いながらもこういう「甘美さ」には、個人的に抗いがたい魅力を感じますし、また最後まで見てみれば、この作品が決してそういう風に「耽溺する」つもりで終わっているわけではない事も窺えます。従って僕自身は、この映画に備わる「甘美さ」に関しては、ごくたまに味わう高級なお酒みたいなものとして捉える事にし、ラストに存在する「前進する意志」だけを、極力心に留めておきたいと思いました。   そういう「前進する意志」という意味において、ラストでスイトが煙草を吸わなかったシーンが大変力強く印象に残ります。それまでの「日々のルーティン」から意識的に抜け出し「煙草を吸わなくなった」上司として、この後新たにカンナミの後任に就いた人物に対して、彼女が一体何を言おうとするのか、想像したくなります。
[ブルーレイ(邦画)] 8点(2010-08-17 00:30:53)(良:3票)
20.  宇宙戦争(2005) 《ネタバレ》 
この映画、本当に大好きです。個人的に、  1:グロ過ぎない(何にせよ「飛び散らない、千切れない、痛がり過ぎない」) 2:突然びっくりさせない  というネガティブ基準に加え、  1:雰囲気が好奇心(怖いもの見たさ)をそそる 2:出てくるものが何だか訳がわからない 3:上記2点があくまで「徐々に」漂う・姿を見せる  というポジティブ基準を満たしていればSF・ホラー・サスペンスにせよ大好きになるのですが(どれだけ気が小さいのかと^^:)、そういう基準で言うとこの作品は完全に僕の好みに直球で訴える作品でした。  冒頭の謎の雷やトライポッド襲来の様子などといった正統派SF的な「掴み」の上手さが何とも面白く、安心して楽しめる作品だと思うのですが、そんな中にあって微妙にうまくいっていない家族関係、パニックに陥る人間たちといった、バックグラウンドとなる人間たちの描写が意外にしっかりしているのも見どころだと思います。  個人的にはティム・ロビンスの異常ぶりが、「敵は決して外部だけにいるとは限らない」という点に関して妙にリアルに感じられました。   <追記(H22/9/4)>改めて見直してみたのですが、ティム・ロビンス演じるオギルビーの扱いがさすがにちょっと安易と言うか、「異物は死をもって排除する」という姿勢があからさまに出すぎていて、この点だけは安易に見過ごしてはいけないような気がしました。この一連の場面に限らず、この映画には「仕方なしに他人を死地に見捨てる」場面が多々存在しますが、このオギルビーに関わる場面以外に関しては、そういう状況に他人を捨てておくのに相応な「理由」や「状況」というものが(あくまで「映画的に」、ということですが)示されるのに対し、この場面に限ってはそういう「やるだけのことはやった」といった「選びようの無さ」というものが余り見えてこない気がしました。  しかしそれにも関わらず(と言うかその点のみを、個人的な「受け入れるべきでない点」として考慮したとしても)、作品全体で見れば依然として大好きな映画であることに変わりはありません。スピルバーグらしい、「ツボはすべて心得ている」といった趣の娯楽性はもとより、トム・クルーズ演じるレイのダメぶり・不器用ぶりが、個人的に何とも共感を覚えてしまい、それだけにその不器用さを通してしか表現できない「愛情」といったものが、際立って印象的だと感じました。オギルビーの地下室にかくまわれた当初に、子守唄をレイチェルからねだられて何一つ彼女の希望の歌を歌えず、ようやく自分の知っている歌を歌って精一杯の愛情表現を行うレイの姿が、今回見直してみて特に印象深く感じました。   個人的には、最初の方であれだけ子供たちにダメぶりを見せ付け、子供たちも言うことを聞こうとしなかったレイに対し、ロビーが自主的に「お父さん」と呼ぶようになったあのラストシーンこそ、まさにこの映画にふさわしいカタルシスの備わった場面だと思いました。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2010-08-15 15:51:58)
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