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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  ジョーカー
少し日にちを空けて、2度劇場鑑賞した。或る疑心を解消するためだ。 即ちそれは、この映画の主人公が放った“ジョーク”の真意とは何だったのかということ。 何が真実で、何が虚構なのか。そもそも真実と虚構の境界など存在しなかったのか。 初回鑑賞後、姿かたちさえも曖昧なその疑いが、日を追うごとに輪郭のみくっきりと浮かび上がってくるようだった。  そうして2度目の鑑賞を終え、“疑心”はむしろ益々深まり、同時に、「悪意」に対する恍惚も益々深まっていることに気付いた。圧倒的な充足感。映し出されるすべてが、禍々しくて、美しい。いや参った。  DCコミックスが生み出した稀代のヴィランのビギニングを描き出すにあたり、ビジュアル、ストーリーテリング、パフォーマンス、そして映画としてあるべき性質と時代性において、この映画の完成度の高さはもはや「異常」だ。  何をおいても、ホアキン・フェニックスが演じる“ジョーカー”が凄まじい。 ジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレッド・レト、名だたる俳優たちがこのヴィラン役に挑み、それぞれが見事なジョーカー像を形作り、体現してきた。 しかし、その全てが本作のホアキン・フェニックスによるジョーカーのためにあったのではないかと思えるくらい、圧倒的だった。 その笑い方、走り方、表情と骨格、もっと言えば、皺の一つ一つ、筋の一本一本に至るまでに、彼が表現する「異常」と「狂気」が絡みつくように纏われていた。 その様は、異質ではあるが、あまりにも自然に見え、彼が劇中で言う通り、本当に狂っているのが一体どちらなのか分からなくなってくる。  奇しくも現実の世界では、この映画の公開と同時進行で、仮面を被った民衆が不満と怒りを突き上げている。 映画の中のピエロの仮面が嘲笑うかのように、我々観客は、虚実の境目を見失いそうになる。 そして無意識のうちに、現実社会の問題に対する答えを、虚構のヴィランに求めようとする。 しかし、“ジョーカー”は、そんな我々の淡く無責任な願望すらも見越して、ヒャーハハハと笑い、蔑む。 「馬鹿か、お前たちは。そんなこと俺に関係あるものか」と。  荒んだ世界と、傷ついた心が何を生み出すのか。 これは決して“ジョーク”ではない。
[映画館(字幕)] 10点(2019-10-06 18:07:36)(良:1票)
2.  シェイプ・オブ・ウォーター
なんて醜いんだろう。なんて悍ましいんだろう。なんて妖しいんだろう。 そして、なんて美しいんだろう。  ファーストカットからラストカットに至るまで、すべてのシーンにおいて、あらゆる形容が感嘆と共に押し寄せてくる。終始一貫して、ギレルモ・デル・トロ監督の「偏執的」な愛と狂気が渦巻いている。 いわゆる「怪獣映画」を好んで、古今東西の色々な作品を観てきたけれど、あらゆる怪獣映画の魂を引き継ぎ、それでいてそのどれとも異なる類まれな作品と成っていることは間違いない。  その創成期より、怪獣映画にはそれを生み出す「人間」のあらゆる“業苦”と、社会の“歪”が込められてきた。 「怪獣」たちの姿は、苦しみ、怒る我々人間たち自身の権化と象徴だった。 だからこそ、僕たちは、作り物の怪獣が織りなす恐怖や悲哀に、恐れおののき、心を揺さぶられてきたのだと思う。  この醜く、美しい相反する形容が同時に存在する映画が素晴らしいのは、そういった怪獣映画の真髄を真正面から組み込みつつ、時代と社会を超えた映画世界の中で、現代社会の怒りと悲しみを訴えているからだ。  この現実世界に「強者」は存在しない。 大国を動かす権力者も、長者番付のトップに君臨する金持ちも、絶対王者の格闘家も、只一人で完全無欠に生きられる人間など居ない。 この映画の人間描写はそのことを如実に物語る。 声を持たないヒロインも、ゲイの隣人も、黒人掃除婦の友人も、権力者に使い捨てられる敵役も、そして“異形の君”も、この映画に登場する誰もが「弱者」であり、何かに寄り添って、必死に生きようとしている。 “ゆで卵”一個の悦びに生きる価値を見出し、耐え難い苦しみから抜け出す勇気を得るのだ。  彼らのその姿は、とても脆くて儚いけれど、あまりにも愛おしい。 社会が勝手に貼り付け、押し付けたレッテルと価値観を超えて、ただ「存在」し続けることの勇気と愛を堂々と示したこの生命の讃歌を愛さずにはいられない。
[映画館(字幕)] 10点(2018-03-02 23:40:46)(良:1票)
3.  ジャンゴ 繋がれざる者
燃え盛る巨大な炎をバックに黒い肌のヒーローがニカッと笑う。 そこには、ありとあらゆる葛藤を超えた映画的カタルシスが満ち溢れ、「ああ僕は“映画”を観たのだ」という真っ当な満足感に包み込まれた。  正直、何をまずピックアップすべきかどうか非常に迷う。 歴史に虐げられた黒人たちのすべての怨念が凝縮し爆発したようなヒーローの存在感か、確固たる歴史的事実として存在するアメリカ奴隷制度の目を覆いたくなる残虐性か、稀代の映画作家が生み出した個性的なキャラクター達を文句の付けようも無く演じ切っている俳優たちの素晴らしさか。 どの側面から捉えても、この映画の価値は高く、揺るがない。  ただやはり、これがクエンティン・タランティーノの映画である以上、特筆すべきは「会話劇」の妙だと思う。 今なお鎮まるはずもない歴史的な“怒り”を礎にした荒ぶるバイオレンスアクションでありながら、この映画の構造の中心に存在するものは、最初から最後まで登場人物たちの「言葉」のやり取りだ。 あらゆる思惑の人間たちの対峙から生まれる会話によって、娯楽性に溢れた緊張と緩和が繰り広げられる。 それはもちろん、デビュー作以来貫き通しているタランティーノのスタイルであり、彼が映画史に残る“脚本家”でもあることの証明に他ならない。  「憎しみは何も生まない」だとか「憎しみの連鎖に終わりはない」ということを描いた映画は今とても多いし、僕自身本当にそう思わなければならないと思う。 しかし、結局そんなのは、自分自身が本当の憎しみを抱いていない者が言える綺麗事に過ぎないんじゃないかとも思う。 本当に深い憎しみや怒りは、ただ一人の人間の中で断ち切れるようなものではない。 この映画が生んだカタルシスのすべては、詰まるところそういう人間の純粋な感情に端を発している。  裁かれない悪に対して正義の鉄槌を下す。 あまりにありふれたそのプロットは、世界中の人々が映画をはじめとする愛すべき“作り物の世界”に求め、そして唯一許された「復讐」の手段なのかもしれない。  “映画”という娯楽の何が面白いのか、人々が観たい“映画”は何なのか、そういうことを誰よりも良く知っていて、誰よりも追求し続けているクエンティン・タランティーノという人間の真骨頂。 今、この時代に生きていながら、その彼の最新作を映画館で観ないのは、あまりに勿体ない。
[映画館(字幕)] 10点(2013-04-13 16:31:48)(良:1票)
4.  J・エドガー
思い切り殴られた口元を押さえつつ、部屋を出て行く部下の背をやや虚ろな目で追う主人公のジョン・エドガー・フーバー。 彼は痛みを感じているのではない。殴られた直後に奪われた唇の感触に恍惚としているのだ。 映画中盤に用意されたこのクライマックスとも言える衝撃的なシーンの余韻が、この風変わりな伝記映画を唯一無二のものにしている。  この映画を悪名高いFBI元長官フーバーの人生を描き出すことで、当時のアメリカという国の「正義」に対する真実を導き出した社会派ドラマだと高を括って観たならば、きっと大いに面食らってしまうことだろう。 なぜならこの映画は、見まがうことなき“ラブストーリー”なのだから。  米国の政府内外のほぼすべての人間からから忌み嫌われ続けた男が、なぜ約50年に渡りFBIの最高権力者の地位に君臨し続けることが出来たのか。 ジョン・エドガー・フーバーという人間の行為、発言、思想、人格、人間関係、彼の人生を象ったそれぞれの要素を努めて冷静にフラットに描き連ねることで、この人物の悪行と功績、闇と光が一対となって見えてくる。  悪しき伝説に溢れたこの元FBI長官の人生をベースにすることで、社会の裏側をえぐり出していきある意味サスペンスフルな娯楽性に溢れた映画を導き出すことは容易だった筈だ。 しかし、イーストウッド監督はそれをせず、非常に挑戦的で危ういまったく別の試みに挑み、映画を完璧に仕上げてみせている。  人々に忌み嫌われ、謎にまみれ、闇にまみれ、それでもこの男が貫き通したかったものは何だったのか。そして、彼が本当に“隠したかったこと”は何だったのか。 映画はあくまでもこの人物のパーソナルの深淵へと突き進むように進行していき、人間としての“闇”のさらにその奥まで踏み込んでいく。  むしろ醜ささえ感じる地味な描写で映画は終焉する。 しかし、そこには言葉には表しづらい複雑な人間そのものの余韻を感じる。  「正義」という“闇”の中を突き進んだ男が、最期に辿り着いたものなんだったのか。何処まで行っても変わらない闇だったのか、一寸の光だったのか、それとも虚無だったのか。 捉え方は人それぞれだろうけれど、少なくとも個人的には“救い”が見えた気がする。 そして、その“救い”こそが、まさに愛だったのではないか。 それは、すべての人間に与えられた免罪符のようにも思え、感極まった。
[ブルーレイ(字幕)] 10点(2012-07-16 15:47:45)(良:1票)
5.  情婦
「情婦」という言葉の意味を、辞書で調べてみた。 辞書によると、“男の情人である女”、“色女”とあり、あまり良い意味合いではない。  アガサ・クリスティの原作の原題が「Witness for the Prosecution(検察側の証人)」であることに対して、この邦題が作品にふさわしいかどうかには、いささか疑問が残る。  ただ、この映画で描かれる“女”の愚かしさ、そして儚さを何とか表現しようとした時、「情婦」という言葉は、決して意味合いが一致するとは言えないが、ある視点から捉えればあながち外れてはいないのかもしれないと思った。  ビリー・ワイルダー監督が、エンドクレジットでわざわざ結末の「他言無用」を掲げていることが、この上なく理解出来るほど、ラストの顛末が総てだと言える映画だった。  古い映画らしく、全編通してカメラワークの動きが少ない淡々とした法廷サスペンスが展開される。 この淡々とした法廷サスペンスに、どれほどの“驚き”が含まれるものだろうか。 疑心暗鬼な思いが大いに膨らんできた頃、ビリー・ワイルダーが他言を禁じた「結末」が訪れた。  いや参った。素晴らしい。“驚き”に対して充分に構えた上で、それでも驚かされた。  素晴らしいのは、その衝撃の展開においても、映画のテンションが劇的に転じるというわけではなく、一貫して淡々としたままであるということだ。 場面も変えず、登場人物の台詞のみでこの作品の核心である衝撃を表現し切っている。 「結末」を得ると、それまでの淡々とした展開も、敢えて観客に感情の焦点を絞らせない深い計算によるものだったのだと思い知る。  アガサ・クリスティの原作の高尚さもさることながら、ビリー・ワイルダーの卓越した映画術が如実に表われた結果だと思う。  「真実」の表と裏、男と女の愚かさと切なさ、そして、それらを総て含めた人間の感情の妙に溢れた結末に身震いした。 中盤、深夜の鑑賞には堪え難い眠気に包み込まれそうになったが、用意されていた顛末によってそれは一気に消し飛んだ。 更には、観終わった直後に再びクライマックスを観直してしまった。  ようやく涼しくなってきた秋の夜長、襲ってきた睡魔を見事に返り討ち、「映画鑑賞」の本質的な充足感と幸福感を与えてくれたこの映画は、「名作」の名に相応しい。
[DVD(字幕)] 10点(2010-09-12 10:25:22)
6.  シャッター アイランド
心労による偏頭痛がじっとりとまとわりつく土曜日のレイトショー。 仕事終わり、わざわざ隣街の遠い映画館まで車を走らせて、この映画を観に行った。 なぜそんな苦労をしなければならなかったか。理由は、近場の3つの映画館では揃って「超吹替版」という得体の知れないバージョンでしか上映をしていなかったからだ。  吹替版を一方的に非難するつもりはないのだが、個人的には、言語が分からないのであれば外国映画はやはり字幕で観るべきだと思う。 字幕として翻訳することで誤訳や微妙なニュアンスの相違が生じていることは知っている。スクリーン上に表現されている様々な要素を見逃さないためには、字幕を追うことはマイナス要因だとは思う。 ただし、だからと言って「吹替版を観た方が良い」ということにはならない。  俳優本人が発する台詞のトーンや息づかい、そういうものを無視することは、映画という表現に対する一種の冒涜だとさえ思ってしまう。  結論として感じたことは、吹替版しか上映していなかった3つの映画館に対する多大な嫌悪感だった。この映画を吹替なんかで観ていたらと思うと、ゾッとする。  非常にまわりくどくなってしまったが、マーティン・スコセッシとレオナルド・ディカプリオが四度タッグを組んだこの作品は、絶対的に凄い映画である。  この映画の絶対的な価値は、「謎」そのものに対する安直な衝撃ではなく、本当に優れた映画監督と映画俳優が緻密に創り上げた、ミステリアスに溢れた上質な映画世界そのものであると思う。  いかにもおどろおどろしい孤島の犯罪者専門の精神病院で、主人公がミステリーの渦に呑み込まれていく。それはむしろ予定調和とも言えるほど王道的な展開である。 その必然性に真っ向から臨み、単なる驚きを超えた緊迫感を生み出す。 それは、本当に「映画」を知り尽くした者たちのみが成せる業だと思う。  スコセッシが描き出す陽炎のような映画世界。そこに圧倒的な存在感で息づくディカプリオ。光の屈折、音の響き、漂ってくる匂い、その「空気」の動きこそ、この映画で感じるべきことだと思った。  それは、「吹替版」ではやはり味わえない。
[映画館(字幕)] 10点(2010-04-11 01:10:57)(良:2票)
7.  シン・シティ
どこまでも果てしなく“遠慮”がない映画というものは、それだけで素晴らしく、偉大である。 徹底的に造り込まれ、限りなくキワどく、限りなくクールな映画世界に圧巻という言葉すら出ない。ひたすらに血生臭く、非道なこの街の空気感を彩る豪華な俳優陣それぞれのパフォーマンスと、悪趣味とスタイリッシュさとの絶妙な塩梅をこれでもかと見せつける映像感覚が凄まじい。 圧倒的なテンションの連続を見たかと思うと、描かれるストーリーは極めて繊細で切ない。まさに「こんな映画みたことない!」と断言するにふさわしい映画が誕生したと思う。スゴイ。 これは、ロドリゲス流超ハード“パルプフィクション”だ!!
[映画館(字幕)] 10点(2005-10-01 19:01:43)(良:1票)
8.  ショーシャンクの空に
数多くの映画を観てきて何十本かに1本とてつもなく大きな衝撃を受ける映画に出会うけど、今作は紛れもなくその1本だった。こういう映画の感想は言葉にするとあざとくなって嫌なんだけど、あえて言うならば、今作ほど「爽快感」を真に感じる映画は他にない。もう、ただそれだけです。
10点(2003-10-14 15:13:37)
9.  シンドラーのリスト
「感動を押し付けている」というような批評がちらほらと見受けられるが、そんなことは決してない。むしろ、この題材をここまで真摯に捉え、変にドキュメンタリーっぽくならず観客のための映画として昇華させていることが驚きである。今作はエンターテイメントではないが、娯楽映画を信念をもって作り続けてきたスピルバーグだからこそ生み出すことができた映画だと思う。いろいろな意味をもってこの映画は完璧であり偉大である。
[ビデオ(字幕)] 10点(2003-10-06 13:36:57)
10.  ジュラシック・パーク
最新作「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」の劇場鑑賞前に、シリーズ全作を見返してみようと思いたち、1993年の第一作を久しぶりに鑑賞。 劇場での初鑑賞から二十数年あまり、幾度も見返していると思うが、映画史に残る娯楽超大作のエンターテイメントは決して色褪せない。 巨大な恐竜たちを造形するCG技術は、当然ながら最新技術のそれと比べると見劣りはするけれど、映像としての見せ方、映画としての表現方法の巧さは、むしろこの時点で完成されていて、見劣るものではない。 スティーヴン・スピルバーグが映画の神様として、今なお数十年以上に渡って映画界の頂点に君臨し続ける理由が凝縮されている。  本作を彩る魅力は映像技術、演出、キャスト様々だと思うが、今回改めて鑑賞して特に感じたのは、子役二人の多彩な表現力だ。 多感で活発な姉弟を演じたアリアナ・リチャーズとジョセフ・マッゼロが、本作のアドベンチャー性の根幹を担っていると言っても過言ではないだろう。 夏休みのレジャー感覚でパークに訪れた二人が、突如恐怖とパニックのるつぼに放り込まれ、泣き、叫び、決死の冒険の果てに、勇気を身につける。そのジュブナイル描写もスピルバーグ監督の十八番であり、ホラーとアドベンチャーのバランス感覚が絶妙である。 そんな中で、泥と血に塗れながら、主人公のグラント博士(サム・ニール)と共にサバイバルを生き抜く姉弟を体現したこの二人の子役の存在感は何にも代えがたい価値を放っていた。  勿論、サム・ニールをはじめ実力者揃いのキャストの布陣にも隙はなく、当時まで黎明期だったCGによる映画製作の中であっても、安定感がありかつ魅力的な演技をそれぞれが見せてくれている。(ブレイク直前のサミュエル・L・ジャクソンの存在も見逃せない)  そんなオリジナルキャストも揃うらしい最新作。そりゃあ楽しみだ。
[映画館(字幕)] 10点(2003-09-28 17:06:38)
11.  シカゴ7裁判
人類史において「正義」というものほど、絶大なパワーを持つ言葉でありながらも、それが指し示す意味と範疇がひどく曖昧で、都合のいい言葉はない。 世界中の誰でもが強い意志を持って掲げられる言葉だからこそ、とてもじゃないが一括にできるものではなく、本来、その是非を裁判なんてもので問えるものではないのだと思う。  今作で描き出された「裁判」においても、それぞれの主張はどこまでいっても平行線であり、折り合える余地などそもそもない。 なぜならば、被告として裁かれる活動家の面々は勿論、悪辣に描かれる裁判官にしても、微妙な立ち位置で己の職務を全うしようとする検事にしても、この映画に登場するすべての登場人物たちは、ただひたすらに己の「正義」を貫こうとしているのだから。  この裁判劇は、様々な側面から「正義」という言葉の意味とその本質を問い、その価値も、その危険性も、平等にあぶり出している。 正義を掲げる者たちが、突発的な怒りによって、いとも簡単に暴力を生み、無秩序な憎しみの螺旋に引きずり込まれるという事実。 すべての争い、すべての戦争も、詰まるところ「正義」と「正義」の衝突であるというあまりにも空虚な皮肉。  エディ・レッドメイン演じる主人公は、その現実に、自分自身が無意識のうちに呑み込まれていたことに気づき、思わず言葉を失う。  だが、それが愚かな人間の拭い去れない本質である以上、もはや絶望しても仕方がない。 自分自身の愚かさと罪を認めつつ、それでもなお、自分自身を駆り立てる「正義」を、自分の言葉で叫び続けるしかないのだ。 ラスト、主人公の“最終陳述”で発されたものは、主張でも、弁明でもなく、彼らを突き動かした「動機」そのものだった。  2020年、全世界的に混迷を極めたこの年にこの映画が“公開”されたことの意義はあまりにも大きい。(コロナ禍の影響による劇場公開断念を受け、いち早く権利を買い取って世界配信したNetflixの功績は大きい!) 大統領選に伴う大国アメリカの分断は、今年の混迷を象徴的に表しており、この映画で描かれた時代の空気感とも類似する。 この映画の主人公の手元にある“リスト”と同様に、今この瞬間も、社会の犠牲者はリストアップされ続けている。 映画の着地点と同じく、今この世界に必要なことは、一方的な「正義」の主張などではなく、大局的な見地で、この酷い「現実」を今一度直視することだろう。  次のメッセージが大衆の声によって高らかに発せられ今作は終幕する。  The whole world is watching !(世界が見ている!)  今まさに、私たち一人ひとりが、自分の目で世界の現実を見て、動き出さなければならないのではないか。
[インターネット(字幕)] 9点(2020-12-19 22:09:32)(良:1票)
12.  ジョジョ・ラビット 《ネタバレ》 
強く美しい母親が、愛する息子に向けてカチッと独特の“ウィンク”をする。 もしかしたら、あのウィンクは所在不明の夫が、彼女に対してよくしていた“仕草”なのかもしれないな。と、思った。  そんなことを暗示する描写は特に何もないのだけれど、非情な戦乱の中、優しく、明るく、息子を愛し、「できること」をし続けるこの気高き女性は、きっと壮絶な経験と、深い愛情に包まれた、濃密な人生の上に立っているのだろうということを想像させた。  そういうことを何よりも先んじて言及したくなるくらいに、スカーレット・ヨハンソン演じる主人公“ジョジョ”の母“ロージー”のキャラクター造形が素晴らしく、この映画の根幹を担っていたことは間違いない。 詰まるところ、彼女の一つ一つの言動こそが、息子に対する“愛情”と“導き”であると同時に、この映画のテーマに対する「真理」であった。  「愛は最強の力よ」と、母親は息子に言う。  戦禍の混乱と、人間の心の闇が渦巻く状況下でのその彼女の台詞は、字面のみを捉えれば、無責任で能天気な印象を受けるかもしれない。 しかし、母親であり、一人の女性であり、信念を持って生きる人間である彼女が放つその台詞には、彼女の「人生」そのものに裏打ちされた言葉以上の重みと意味が内包されていた。 彼女はその言葉を息子に向けて発してはいるが、彼に対して背を向けており、目線はどこか遠くを見ているようでもあった。  その他の数々の台詞や行動においても、その一つ一つが魅力的かつ説得力をもって、息子と、我々観客に突き刺さるのは、それらの言動の裏に見え隠れする彼女の人生に、ドラマ性と真実味を感じるからだ。  劇中、主人公の母親についての描写は、敢えて意識的にぼかされている部分が多い。 2年間音信不通の夫の正体、長女の死の真相、サム・ロックウェル演じるクレンツェンドルフ大尉(最高!)との関係性、そして「できること」をする理由と、“あのようなこと”になってしまった事の顛末。  そこには、メインストーリーとして描かれる主人公の少年の葛藤と並行して展開していたのであろう重厚なサイドストーリーがあるに違いない。 (そのサイドストーリーの映画化も充分にあり得るのではないか。そのためのスカーレット・ヨハンソン起用だったことも充分に考えられる。)  随分と主人公の母親の話を長々と綴ってしまったが、無論この映画は10歳の純粋な少年の目線から描き出される確固たる「戦争映画」である。 ただし、その表現方法はまったくもってオリジナリティ豊かなイマジネーションに満ちあふれていた。 その特異な映画世界には、「マイティ・ソー」を次元を超越した“極彩色映画”に転じさせてみせたタイカ・ワイティティ監督の異才がほとばしっている。  今まで観てきたどの戦争映画よりも“可笑しい”。そして、だからこそあまりにも“悲しい”。  混乱の最果て、“滑稽さ”が極まる戦禍の只中に放り込まれる少年。 戦場シーンは数多の映画で観てきたけれど、少年が信じた全てのものが、脆く、愚かに、崩壊していく様を目の当たりにして、只々涙が止まらなかった。 そこに映し出されていたものは、通り一遍的な激しい戦場の凄惨さではなく、10歳の少年の心を蝕み覆い尽くす「絶望感」そのものだった。  “世界の終わり”を、その小さな身体一つで受け止めて、あまりにも大切なものを失い、深く大きく傷つき、それでも少年は命をつなぐ。 結べなかった靴ひもをぎゅっと結び止め、“独裁的”なイマジナリーフレンドを窓の外に蹴り飛ばす。 それは「鏡」に映った自分が、本当の意味で大人になった瞬間でもあった。  ジョジョよ、さあ踊ろう。好きなだけ、自由に、踊ろう。
[映画館(字幕)] 9点(2020-01-23 22:35:49)
13.  女王陛下のお気に入り
絢爛豪華なイングランドの王室を舞台にしつつも、べっとりと全身に塗りたくられた“何か”の臭いが漂ってくるようだった。 その臭いの正体は、汚物交じりの泥なのか、吐しゃ物なのか、生臭い体液なのか、それとも嫉妬と愛憎に塗れた“怨念”なのか。 いずれにしてもこの映画が描き出すものは、実在の女王を中心に据えた煌びやかな史劇などでは全く無く、3人の女性のあまりにも生々しい「欲望」そのものだった。  情け容赦なく、無情なこの映画の物語性は、普通の映画づくりであれば、もっと鈍重に、ただただ陰惨に映し出されて然るべきだろう。 しかし、この“へんてこりん”な映画のアプローチはまったくもって異質で、まるで観たことがない映画世界を構築し、魅了する。 それは決してビジュアル的にヴィヴィッドな映像表現をしていたり、突飛な演出をしているわけではなく、重厚な史劇描写の雰囲気を保持したまま、時代考証の垣根を越えて、現代的な“軽薄”と“インモラル”を孕ませている。  そんな特異な映画世界の空気感の中で、3人の女優が演じる「女」たちが、見事なまでに怖ろしく、哀しく、息づいている。 オスカーのトリプルノミネートとなった主演女優3人の文字通りの「競演」が本当に素晴らしい。 既に女優賞ウィナーのエマ・ストーン、レイチェル・ワイズは無論素晴らしかった。 が、やはり特筆すべきは、本作で主演女優賞ウィナーとなったオリヴィア・コールマンの圧倒的な存在感と、表現力に尽きる。 彼女が演じたアン女王からは、重く悲痛な運命を背負った哀しみと、女性としての強かさと恐ろしさと醜さ、そして欲望に対する純粋な貪欲さに至るまで、ありとあらゆる感情や情念が文字通りねっとりと全身から溢れ出しているかのようだった。  圧倒的権力を持ちつつも、心身ともに脆く危うい哀しき女王は、幼馴染の聡明で美しい公爵夫人に身を心も委ねることで、何とか“バランス”を保てていた。 しかし、そこにもう一人の“女”が入り込んでしまったことで、バランスは脆くも崩れ、三者三様の欲望は渦となり、彼女たち自身を吞み込んでいく。  泥に塗れ地に堕ちた屈辱を胸に秘め、若き女は、悪魔になることも躊躇わず、ついに“兎”のように女王の寵愛を勝ち取る。 そしてはたと気づく、17匹の兎の寿命は短く、蠢く命の中から常に入れ替わっているだろうことに。 彼女自身、無限に続く「代用」でしかないことに。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2019-10-26 23:49:32)(良:1票)
14.  シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ 《ネタバレ》 
キャプテンの拳がアイアンマンを叩く、アイアンマンの拳もキャプテンを叩く。 悲愴感しかない絶え間ない“殴り合い”を目の当たりにして、ただただ心が痛かった。 愛するヒーロー同士が傷つけ合っているという悲しさもさることながら、この「正義」と「正義」のぶつかり合いの根底にあるものが悲しい報復の螺旋であることが、現実世界の混沌そのものを表しているようで、殊更に悲しく、この世界に生きる者としての虚無感を感じにいられなかった。  マーベル映画のヒーローたちは、「悪」と戦い続けてきた。「悪」を叩き、打ち勝つことが、彼らが司る「正義」の存在意義だった。 しかし、この映画に限っては、明確な「悪」は存在しない。真に憎むべき悪への矛先が見当たらなくなり、ヒーローたちは揺らぎ、対立する。 動揺するヒーローたちの姿は、自国の正義を主張し、ぶつかり合い、傷つけ合い、混迷を突き進むこの世界そのものではないか。  ついに彼らは、相容れぬまま袂を分かつ。 己に対する無力感と復讐心に苛まれ続けるアイアンマンは、キャプテンの象徴である「盾」を奪った。 憧れのヒーローが、この愚かな世界と同様に怒りと悲しみに屈して膝をつく様には、失望と絶望が渦巻く。   この重く、悲しいストーリー展開の中で、マーベル映画らしさを保ってくれたのは、頼もしい“新人”二人。 “アリ男”の“大”活躍と、“クモ男”の軽妙なティーン節によって、映画ファンがいろいろな意味で救われたことは間違いない。 両者の存在感が光った空港での“大乱闘シーン”は、「馬鹿馬鹿しい」と言われればそれまでだけれど、諸手を上げて楽しかったのだから何の問題もない。 えげつないまでに痛々しいストーリーテリングを描きながらも、決してスーパーヒーロー映画そのものの“楽しさ”を忘れていないのがマーベルのエライところだ。(そういう部分で“DC”は大きく溝を開けられている‥‥)   スティーヴ・ロジャースも、トニー・スタークも、スーパーヒーローである前に一人の人間である。道を見誤り失墜することもそりゃあろう。 でも、「復活」こそが、ヒーロー映画の醍醐味でもある。この世界が抱える混沌の答えを彼らは見出してくれるはずである。 きっとその時には、再び“スターク”から“スティーヴ”へ「盾」が手渡されることだろう。  心の痛みは残る。この痛みを抱え続けて、ただひたすらに“彼ら”が率いるチームの帰りを待とう。   (2018.5.27 再鑑賞)  タイトル的な位置づけは「キャプテン・アメリカ 3」だが、むしろ、「アベンジャーズ 2.5」。  下手な監督が撮ったならきっと酷く馬鹿みたいなシーンになったであろう、飛行場での“陣取り合戦”を、圧倒的な娯楽シーンとして成立させてみせたルッソ兄弟の手腕は見事。このシーンに限らず、全編に渡って散りばめられたアクションシーンとしてのアイデアが、“VSサノス戦”に活かされていることも明らかだ。  トニーとスティーブは、この“殴り合い”以来、「インフィニティ・ウォー」を経てもなお、「対面」していない。 「アベンジャーズ4」の“胸熱”に向けての布石は、十分過ぎる程に打たれている。
[映画館(字幕)] 9点(2016-05-07 23:36:47)
15.  七年目の浮気
マリリン・モンローが、マリリン・モンローである理由が、この映画には満ち溢れている。 その理由は、即ち当時世界中の男が“彼女”に恋をした理由と全く同義と言える。  マリリン・モンローといえば、時代を越えて、“セックスシンボル”というスキャンダル性に溢れたイメージが先行しがちの女優である。 しかし、「お熱いのがお好き」に続き彼女の映画を観て感じたことは、滲み出る“女優魂”だった。  この女優から醸しだされるフェロモンと、惜しみないセクシーショットは、当時としてみれば「常識」の範疇を大きく超えていて、故に揶揄を含めたスキャンダルに伴ったイメージが先行してしまったのだろう。 今作にしたって、何と言っても60年前の映画である。彼女の存在そのものがいかに“センセーショナル”だったかは、想像に難くない。 それがいつしか“伝説化”し、敬愛と嫉妬を込めて、“セックスの象徴”として語り継がれてきたのだろうと思う。  でも、この伝説的女優の存在がなければ、その後に登場したすべての女優の“表現の幅”は随分と狭まったままだったと思う。 アンジェリーナ・ジョリーも、スカーレット・ヨハンソンも、今のような魅力を発揮することが出来なかったと思うし、スター女優として存在すらし得なかったのではないだろうか。   主演女優の時代を超越した存在感、その一方で、“浮気”をテーマに描き出される喜劇のストーリー性も、しっかりと深く面白い。 中年男性の根底にある浮気心と止まらない妄想。 過剰なまでに妄想を繰り広げる主人公の“一人相撲”は、可笑しさに溢れると共に、同じく既婚者として身につまされる。 留まらない妄想を突き抜けて、家族の元へ走る主人公の姿には、同じ男として、夫として、父として、渦巻く感情を鷲掴みにされた。  流石はビリー・ワイルダー。些細な仕草や、細やかな小道具つかいに至るまで、緻密で巧い演出が随所に光り、最上級のコメディ映画に仕上がっている。 主人公役のトム・イーウェルの、可笑しさと、哀愁と、愛らしさに溢れたパフォーマンスも素晴らしかったと思う。  今作は、映画史上最高の監督による卓越した映画術を随所に堪能出来る映画である。 が、しかし、結局、あらゆる場面で目がいってしまうのは、ただ“一点”。 やはり、世界中の男の中の一人として、“彼女”に釘付けにならずにはいられなかった。 “彼女”に対する思いは、欲情を越え、憧れを越え、もはや尊敬の念に達する。   さて、僕自身は、“7年目”まであと一年半ほど……。くれぐれもセンセーショナルな“お隣さん”が現れないことを、切に願う。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-05-03 01:06:59)
16.  深夜の告白(1944)
不倫、殺人、保険金詐欺、今やあまりに使い古されたサスペンスの古典的展開。その先駆けであり、源流となったとも言える70年前の映画。映し出される映画世界は当然古臭い。しかし、退屈感など微塵も感じさせず、フィルム・ノワールの世界に観る者を没頭させる。  ビリー・ワイルダー監督の作品を幾つか観てきているが、驚く程にハズレが無く、みな傑作である。 真っ当な映画ファンからすれば、この映画史上最高の映画監督の作品が傑作揃いであることなど至極当然のことなのだろうけれど、50年以上前の映画の殆どにおいて、今観ても退屈に思う部分が無く、むしろ新しさすら感じてしまうことは、奇跡的なことだと思える。  そのビリー・ワイルダーと、ハードボイルド小説の偉人レイモンド・チャンドラーが組んで脚本が執筆された本作。当人同士の関係性は決して良好では無かったらしく、脚本の執筆は難航したらしい。 それでも書き上げられたこの映画の脚本の質の高さは素晴らしく、これまた奇跡的に思える。  原題は「Double Indemnity」。劇中でもキーポイントとなる「倍額保険」の意。 欲を重ねた人間たちの愚かさと虚しさ、その末路がしなやかに映し出されていた。  良心の呵責、友人に対しての裏切り、情愛のもつれ……描き出されるテーマ性も、今や当然の如く使い古されている。しかし、それらもあたかも初めて触れる人間模様かのように心に染み入ってくる。  脚本の素晴らしさは前述の通り、その世界観を映し出す秀逸なカメラワークと演出、その中で息づく俳優たちの存在感、「映画」を彩るすべての要素が「上質」の一言に尽きる。 いやあ、名作だ。ビリー・ワイルダーの映画を観ると、いつも「名作」という言葉の意味を知ることになる。
[インターネット(字幕)] 9点(2014-05-10 13:59:24)(良:1票)
17.  シャーロック・ホームズ/シャドウ ゲーム
綴られた文章の最後に、あまりに小気味良い「?」が追記され、エンドロールが流れ始めた瞬間、正直言って殆ど「完璧」に近い娯楽映画だと思えた。 前作も充分に面白かったので期待感はそもそも大きかったけれど、その期待をひょいっと超えてくれたエンターテイメントに対して嬉しい興奮の連続だった。  文句なしにそう思えるほど、現代において新たに焼き直されたある意味まったく「別物」のシャーロック・ホームズというキャラクターと、この元祖問題児俳優と、この英国人監督との相性は前作に引き続き抜群で、二作目として一つ二つ高いレベルのエンターテイメント映画として昇華されていると思った。  ガイ・リッチー印とも言えるアクションシーンでのスローモーションの多用や、「推理」シーンの表現方法に対して、“シャーロック・ホームズ映画”としてどうなのか?という違和感を覚える人もいるのかもしれない。 しかし、もはやこれは趣向の問題で、違和感なんて覚える前に独特の映像表現と世界観に対してワクワクできた者の“勝ち”だと思う。  相変わらず映像技術は日々爆発的に進化していて、ただ派手なだけでは興奮すらしなくなってしまった中で、これほど全編通して「娯楽映画を観ている!」という高揚感に支配される映画も珍しく、それがこの映画における最高の価値だと思う。  このレベルのバジェットの映画としては脚本も極めて巧く、最後の最後に至るまでの細やかな伏線の回収が、殊更に高揚感を高めてくれている。 アーサー・コナン・ドイルの原作に対して程遠い人物描写と世界観に見えるけれど、シャーロック・ホームズをはじめとする主要キャラクターの本質に対して実は真に迫っている部分も多いようで、世界一有名な探偵小説に対して勇気と尊敬をもって挑んでいるとも言えると思う。  さて、小気味良いエンディングに表れているように、当然の如くまだまだ続編への意欲は高い様子。 “敵対するもの”に対してもしっかりと伏線は残されている。 前作を観た後は、“シャーロック・ホームズ”と"ガイ・リッチー”のまさかの組み合わせの妙に嬉しい衝撃を受けるばかりだったが、二作目にしてより一層に“最新作”が楽しみなエンターテイメントシリーズに見事な進化を遂げたと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2012-03-24 23:47:28)
18.  地獄の黙示録 特別完全版
通常版では分かりにくかった戦争の真の狂気というものが今作では怒涛のごとく表現され、その圧倒的なスケールはまさに衝撃的だった。その凄まじいほどの熱情と、リアルな生々しさは、この映画をひとつの生命体と呼ぶにふさわしい存在感だったと思う。異色的ではあるが、映画史上もっとも存在意義のある戦争映画と言えるのではないか。
9点(2004-01-09 13:41:49)
19.  シックス・センス
取りざたされたハーレイ・ジョエル・オスメントの演技にはあざとさを感じて少しも巧いとは思わなかったけど、映画自体の出来栄えはやはり素晴らしかった。もちろんストーリーの顛末を知っているといないとでは面白さは大いに違うだろうが、巧妙な作り込みは衝撃を覚えるにふさわしかったと思う。結末を知ってから感じるブルース・ウィリスのどこか不安定なたたずまいも良かった。陰影の付け方など、この監督の只者じゃ無さは感じざるをえない。
9点(2003-11-26 13:01:35)
20.  シンプル・プラン
主人公のダメ兄貴役を演じたビリー・ボブ・ソーントンが素晴らしい。彼がこの役を演じたからこそ、この映画は一見地味なストーリーではあるが相当に濃厚なサスペンスに仕上がっている。大金を前に少しずつ狂っていく登場人物たちがたどり着く切な過ぎるラストシーンには言葉が出ない。圧倒的な緊張感と映像美にサム・ライミ監督の手腕が光る。
[映画館(字幕)] 9点(2003-11-25 18:07:42)
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