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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
“あなた”を理解したいのにすべてが混沌として理解不能。これは全世界、いや全宇宙すべての母娘と夫婦と家族と隣人、そして「私」自身の物語。   評判に違わず、なかなか“トンデモナイ”映画だった。 文字通りに破茶滅茶であり、映し出される各シーン、各カットの性質はチープで下品でグロくてワケわからんのに、結果的に心が充足し、涙が溢れている。 古今東西のあらゆる映画のオマージュが乱れ打たれる描写に対して“既視感”を覚えつつも、気がつくと、まったく新しい映画世界に放り込まれていた。それは、まさしく“新しい”映画のマジックと言っていい。  自宅兼用のコインランドリーと税務署のみで繰り広げられる極めてミニマムな舞台設定が、無秩序に広がる多元宇宙と、めくるめく精神世界を自由闊達に描き出していた。 近年“マルチバース”というキーワードが市民権を得ているが、藤子・F・不二雄の漫画で育ってきたものとして、この映画が描き出したそれは“パラレルワールド”という言葉のほうがしっくりくる。(F先生の短編漫画の傑作「パラレル同窓会」を読んでいると、本作の世界観と真理がもっと腑に落ちやすいだろう)  ともあれ、漫画よりもマンガ的な本作の表現方法はちょっと常軌を逸していて、決して万人受けする類いの映画ではないことは明らかだ。僕自身、そのフリースタイルぶりに半笑いを通り越して唖然としてしまった瞬間があることも否めない。 ただ、そのあまりに自由な振れ幅こそが、本作が表現するマルチバースもといパラレルワールドの本質だとも思える。  何もかもがうまくいかないストレスフルな生活を送る世界線もあれば、ふとしたきっかけでカンフー映画の世界的スターになるきらびやかな世界線もあり、一方では指がソーセージの世界で同性愛に思い悩むことも、子供が作った拙いボロ人形で終わる人生も、はたまた生物が存在しない世界の“石ころ”として日々を送る世界線もあり得るということ。 そして、その無限に分岐した世界線は、すべて繋がっていて、今この瞬間も、均衡(バランス)を保ち続けているということ。  「私」が今この人生を歩んでいるからこそ、同時に成されていないすべての可能性が存在し、そのすべては平行して流れ続けている。 ラストで主人公は、互いの気持ちをぶつけ腹を割った娘と別の道を歩むことを「選択」しかける。きっとその瞬間、それをそのまま選択した宇宙(バース)も生まれたのだろう。でも、この映画で映し出されている主人公はその選択を回避して、恥ずかしがる娘を抱きしめる。 それが「正解」ということではないし、その先が必ずしも「幸福」という話でもない。 ただそういう無数の選択の連続の上に、私たちのこの世界線は存在しているということ。そしてそれは唯一無二であるということ。  僕自身は、今年42歳になる。当然満足できることばかりではなく、年齢に応じた不安やストレスは尽きることはないけれど、相対的に見れば充分に“マシ”な世界線を生きているのだろうと思う。 決して裕福ではないけれど、家族がいて、好きな映画を見て、写真を撮って、お酒を飲む。そういうことをわりと自由にできるこの日々は、もはや代え難いとも思える。  ぽっかりと穴が空いたベーグルをそのまま食べるか、チーズを一枚はさむか、ハムをはさむか、ベーグルが見えなくなるくらいに何もかもを盛り込むか、もしくは食べきらずに途中で捨ててしまうか。 実際、それをどう食べるかは人それぞれだし、その人の自由だ。でも、そのベーグルが一つしか無いことが、変わることはない。 ならばやっぱり、たとえお腹いっぱいなることがなかったとしても、せめてやさしい気持ちで美味しく食べたいなと、至極普通のことを思うに至った。   分かっちゃいたけど、容易に語り尽くせるタイプの映画ではない。それこそパラレルワールドの数だけ、この映画に対する僕の感想も存在するのだろう。 1992年の「ポリス・ストーリー3」のミシェル・ヨー、1994年の「トゥルーライズ」のジェイミー・リー・カーティス、自分自身が小学生の頃に何度も見た両作で、主人公の世界的アクションスター以上の印象を残した二人の女優が、30年の年月を経てこのような形で共演(名演)したことにも、個人的に大きな感慨深さを覚えた。
[映画館(字幕)] 10点(2023-03-05 23:26:17)(良:1票)
2.  エターナル・サンシャイン
離れたくない映画に対する余韻。“映画を観る”という幸福は、まさにこの余韻のためにあると思う。 もはやハリウッドにおいて“天才”“気鋭”の名を欲しいままにしているカウフマン×ゴンドリーの、この類まれなるラブストーリーの余韻をぼくはしばらく忘れることができないだろう。さりげなく、大胆に、そして淡々と奇抜に描かれるその絶妙な映画世界の奇蹟に心が震える。恋愛にまつわる切ない“代償”と美しい“価値”を、まさに永遠なる輝きの中に表現してみせたまったく新しい視界に、自分の脳裏まで一掃されたような感覚だった。 しかし、奇妙で革新的な映像世界ではあるが、描かれる物語は実に普遍的な感情だ。“何気ないこと”から深まる愛情と亀裂。そして、記憶の消去という衝動的な行為から見えてくる何気ない日々(しかしそれこそが“幸福”なのだ)の輝き。それを消されてたまるかと逃げ回る主人公の純粋な感情。さらに秀逸なのは、すべてを経て、すべてを知ってしまっても、互いを愛さずにはいられないという、ある種滑稽でだからこそ素晴らしい愛の本質である。 そうこう書いているうちに、またじわりじわりとこの映画に“脳ミソ”が侵食されていく……ああたまらない。 
10点(2005-03-27 01:44:25)(良:2票)
3.  エド・ウッド
エド・ウッド、ベラ・ルゴシ…彼らは哀れだったのだろうか?ティム・バートン独特のオブラートに包まれて描き出される彼らの生き様はとても愉快であると同時に、悲痛なまでに厳しく切ない。きっと実際にはもっと悲惨な現実があったに違いないと思う。でも、ユーモラスな映画の中に溢れる締めつけられる想いは、決して彼らのあらゆる意味での“不遇さ”に対してではない。環境はすこぶる劣悪だ。しかしそれでも映画を作り、夢を撮る。そしてそこに自らが生きる喜びを見出す。その不器用なまでに頑なで直向な姿に胸がこみ上げるのだ。分かりきったことであろうが、そこに“優秀な者”はいなかった。誕生したものも優れたものではない。しかし、傾きながらも寄り添い、合わさって生み出した彼ら自身の人生は、何よりも価値があるものに違いない。
10点(2003-10-31 12:56:12)(良:1票)
4.  X-MEN:ファースト・ジェネレーション 《ネタバレ》 
過去の「X-MEN」シリーズは一通り観ているが、決して好きなアメコミ映画ではなかった。 面白くないと感じる最大の要因は、主人公のウルヴァリンのキャラクター自体に魅力がなくて、アメコミ映画に必須であろう高揚感を感じることができないことだ。 同シリーズの場合、物語の軸になっているのは主人公の活躍ではなく、プロフェッサーXとマグニートーの積年の対立であり、爺様同士のせめぎ合いになってしまっている点もエンターテイメント映画として華がなかったと思う。  しかし、今作は違った。圧倒的に面白かったと言える。 やはり、そもそも物語の軸であった「対立」の根源を描いている点が、とてもドラマ性に溢れ、プロフェッサーXとマグニートーの若き時代を描いた瑞々しさが、過去の作品にはなかった娯楽性に繋がっていたと思う。  主人公の二人には、それぞれに決して譲ることができない使命感と葛藤があり、信頼と絆を構築しつつも徐々に露になってくる「対立」には、単なる善悪の関係性ではないドラマの深みと説得力があった。 その他のキャラクターにも確固たる存在感があり、初めて「X-MEN」という素材の特徴を生かした群像性とそれに伴うエンターテイメント性を発揮出来ていたと思う。 ジェイソン・フレミングが演じていたと後から知った敵キャラの“アザゼル”が格好良かったり、もう少し活躍させてほしかったがCIAエージェントを演じたオリバー・プラットなど、脇役の存在が魅力的だったことも作品全体の質を高めている。  そして何よりも、ケビン・ベーコンを悪役のボスに起用していることにキャスティングのセンスを感じる。 その悪役が最凶に強くて、主人公のふたりが連携して何とか打ち勝ち、その勝利が皮肉にも彼らの対立を深めるという顛末には、決して短絡的ではないテーマ性とストーリーの緻密さが表れていた。  過去のシリーズ作品を布石にして、ようやくエンターテイメント映画として完成した“センスの良い映画”だと思う。 
[映画館(字幕)] 9点(2011-07-10 12:46:55)(良:3票)
5.  エイリアン4
新作ごとに異なった監督を配し、作風を変えることで上質なシリーズとして昇華させてきたエイリアンシリーズであるが、個人的には同シリーズの中では今作「4」が最も好きだ。一度死んだリプリーを蘇えらしたという時点で、かなりの「危険」をはらんでいたとは思うが、その危惧をジュネ監督は独特の映像美で圧倒してくれた。細胞から蘇えったリプリーは文字通り「別物」であるが、それがシリーズ作として新しさに上手くつながったと思う。ジュネ作品の常連の奇異なキャスト陣に加えて、とても魅力的なウィノナ・ライダーの存在が映画に膨らみをもたらしている。
9点(2003-11-08 02:23:38)(良:1票)
6.  エイリアン
この映画をまともに観るのは何年ぶりだろうか。 いや、実際は、かつて淀川長治氏の日曜洋画劇場で放映された吹替え版を何度が観た程度で、字幕版をしっかりと観るのはこれが初めてだったのかもしれない。(しかも今回はBlu-ray特典のディレクターズカット版)  もちろん、エイリアンがどういう場面でどういう登場を見せるかということは把握しており、ストーリーの顛末も当然知っているのだが、それでも次の瞬間にもエイリアンが襲いくるというシーンでは、恐怖の余り目を背けがちになってしまった。 リドリー・スコットが生み出したこのSFモンスター映画の醍醐味は、何を置いてもやはりその「恐怖」だと思う。  宇宙船という完全に閉鎖された空間に突如として付加された恐怖。 それは、モンスターそのものに対する恐怖というよりは、それから逃げられないという恐怖の真髄だ。 そこにある思惑により隠された真意による不信感が巧みに混じり合い、映画史上かつてない恐怖感を生み出したのだと思う。  今回どうしてもこの映画を再見したかった最大の理由は、今作の前日譚として公開されたばかりの「プロメテウス」を観るため。 改めて今作を見返してみると、エイリアンそのものの出生をはじめ、その発端となるシーンのあらゆる「謎」が気になる。よくもまあリドリー・スコットは、このあからさまな「伏線」を30年も放っておいたなと思う。  そして、30年前の映画にも関わらず、映し出される映像世界のスタイリッシュさに舌を巻く。本編開始前の“20世紀フォックス”のタイトルロゴの古めかしさに「そんなに昔の映画なのか?」と違和感を感じるほどに。  P.S.あたり前だが、シガニー・ウィーバーが若い!終盤の“半ケツ”が、その瑞々しさを極めて分かりやすく表現している。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2003-10-21 00:45:25)(笑:1票)
7.  エグゼクティブ・デシジョン 《ネタバレ》 
カート・ラッセル&スティーブン・セガールの二大スターの「競演」というプロモーションに乗せられて、映画を見始めた束の間、スティーブン・セガールが死ぬ……。 二大スターの競演を叫んでおきながら、この映画のセガールは、なんと映画の序盤で航空機から吹き飛んで、文字通り消えてしまうのだ。あの「無敵」のセガールが大した見せ場もないまま、退場してしまう展開には映画ファンならずとも呆然としてしまう。  そのまま、カート・ラッセルのワンマン映画に転じて終わってしまうようなら、アンフェアなプロモーションで観客を欺いた"クソ映画”と言われても仕方が無いところ。 だが、この映画はそうではなく、セガールが居なくなってからの展開がとても面白い。  テロリストにハイジャックされた旅客機を奪還すべく、非戦闘員のカート・ラッセルとセガール隊長を失った特殊部隊メンバー、コンピューター技術者、そして旅客機のCAが、あの手この手と策を巡らす。 潜入していることすらもテロリストにバレないように隠密的に危機に対峙していく展開が、終始緊迫感を引き出してくれる。  主人公のカート・ラッセルばかりが活躍するのではなく、それぞれのキャラクターが立っていることにも脚本の巧さをを感じる。 そして、そのキャラクターたちのキャスティングが良い。 残された特殊部隊のリーダーにジョン・レグイザモ、コンピューター技術者にオリバー・プラット、他にも「ターミネーター2」のジョー・モートンや悪役俳優のJ・Tウォルシュを脇に配し、90年代のアメリカ映画をよく観ている人には地味に嬉しい配役だったりする。 それに加えて、主人公を終始サポートするCA役には、この映画の5年後に「チョコレート」でアカデミー賞を獲得するハル・ベリーがキャスティングされ、利発で勇敢なヒロインを好演している。 更には、テレビ映画「名探偵ポワロシリーズ」のポワロ役で馴染み深い英国人俳優デビッド・スーシェが、テロリストグループのリーダーに扮し、印象的な悪役ぶりを披露してくれている。  改めて観返すと、やっぱり相当に面白味に溢れたアクション大作だなと痛感した。 アクション映画は一回観れば充分なんてよく言われがちだが、良い映画はやはり何度観ても良いし、面白さがより深まってくる。  主人公とヒロインのお決まりのラストシーンなんて、ベタ過ぎて逆に最高。
[映画館(字幕)] 9点(2003-10-20 21:01:27)
8.  エターナルズ
極めて壮大で、美しく、そして同時に「未完成」な映画作品だと思った。 それは決してこの作品そのものの完成度が“低い”ということではなく、この新たなヒーロー映画を通じて表現し伝えようとした「テーマ」そのものが、この現実世界において未成熟であることの表れではないかと思った。 そして、この世界は常にそういう“不完全な美しさ”の中に存在し続けるものなのではないかとも思えた。  実は7000年前から地球人を見守っていたという“守護者たち”が主人公のこの映画は、これまでのアメコミヒーロー映画の系譜の中でも極めて異質で、“フェーズ4”に突入した“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”の大河の中においても「特異点」となり得る作品だと思う。 異なったあらゆる「性質」を持つヒーローたちが戦い、惑い、運命を体現するこの映画のテーマはまさしく「多様性」。 神か、天使か、それとも悪魔か、いずれにしても存在性そのものが神秘的でファンタジックなヒーローたちではあるが、彼らがそれぞれのキャラクター性を通じて表現していたものは、この星に巣食う「人間」の葛藤と苦悩そのものであり、あまりにも普遍的なものだった。  能力、性格、身体的特徴、得手、不得手、様々な要素が異なる彼らは、不完全で、時に脆い。 ただし、だからこそ、“エターナルズ”として「結束」した時に生み出された力は強固で果てしない。 それは、今まさにこの現実世界で声高に求められ、命題となっている我々のテーマ性と合致する。  だが、その現実世界で命題となっている「多様性」そのものが、まだまだ曖昧で、あるべき世界、たどり着くべき価値観が定まっていないから、その表現方法自体が、ある側面において表面的で類型的になってしまっていることも否めない。 「多様性」を謳う映画であるが故に、そこで表現されるテーマに強烈な違和感や希薄さを覚える人も少なくないだろう。  ただ、未熟で不完全であるからこそ、この新しく難しいテーマをマーベルのヒーロー映画の中で表現しようとした試みそのものは、正しくて、意義深い。   そしてその監督に「ノマドランド」で非白人女性として初めてアカデミー監督賞を受賞したクロエ・ジャオを起用し(オファーはアカデミー賞受賞前)、そのクリエイターとしての資質を存分に発揮させてみせたマーベルの先見性と懐の深さには、あいも変わらず感心する。  テーマ性に相応しい多彩なキャスティングも印象的だった。 年齢や人種、国籍を超えた多様なキャスト陣は、それぞれのキャラクター像を見事に表現し、あたかも「家族」のようなチーム感をこの一作のみで構築して見せていた。 個人的に特に印象的だったのは、文字通り神々しくてそれ故に危なっかしいアンジェリーナ・ジョリー演じる最強戦士“セナ”。 アンジーのMCU初参戦そのものが映画ファンとしては熱いが、最強故に精神を乱していく様は、彼女自身が女優としての地位を確立した1999年のアカデミー助演女優賞作「17歳のカルテ」を彷彿とさせ感慨深かった。(更に、マ・ドンソクとの最強カップルは近年随一のペアリングだった!)   はてさて、MCUが広げる“大風呂敷”は、いよいよ際限がなくなってきたようだ。 原作である数多のアメコミ作品のクロスオーバーの範疇を超えて、現実社会、さらにはこの先の未来世界にまでその視野を広げようとしているようにすら感じる。 量産されるドラマシリーズも含めてすべてを追いきれなくなっていることは、MCUファンとして焦るところだが、決して世界観が破綻しないであろうことに対するMCUへの信頼は揺るがない。  “完璧ではないもの”に対する寛容と、その多様性を愛することの価値。 この「未完成」な映画を新たな特異点として、この「宇宙(ユニバース)」は広がり続ける。
[映画館(字幕)] 8点(2021-11-28 23:12:28)
9.  エイリアン:コヴェナント 《ネタバレ》 
創造主によって創られた人類が、新たな創造主となりアンドロイドを創った。 優秀なアンドロイドは、創造主に対して屈折した憧れと自らの存在に対するジレンマをこじらせる。 アンドロイドは、ある意味“対”の存在とも言える「生命体」と邂逅したことで、抱え続けてきたジレンマを解き放ち、彼もまた創造主になろうとする。 それは、見紛うことなき創造主に対する“レイプ”。 ああ、なんて禍々しい。   前作「プロメテウス」は、「エイリアン」の前日譚というイントロダクションを単純に捉えすぎた観客の多くが、その想定外の“語り口”に対して面食らった。 “エイリアン”という映画史上屈指のモンスターを“アイコン”として崇拝する者ほど、「こんなのはエイリアンじゃない!」と落胆したようだ。 個人的には、「エイリアン」シリーズに対してそれ程愛着があるわけではないけれど、それでも「プロメテウス」が紡いだストーリーテリングに困惑したことは否定できない。 SF映画として、決して面白くなかったわけではなかったけれど、粗の目立つストーリー構造にテーマに対する詰めの弱さと脆さを感じ、つくり手が描き出したかったことを掴みきれていない“消化不良”感を不快に感じた一作だった。  そして5年の年月を経て放たれたこの“前日譚第二弾”は、御年79歳のリドリー・スコット監督の趣向が、概ね良い方向に押し出された最新作として仕上がっていると思う。 執拗に引用される聖書や各種古典からのセンテンスや思想、科学的空想を踏まえた哲学性は、この大巨匠が過去のフィルモグラフィーの中で繰り返し語りつけ、映し出してきたことと尽く重なる。 自身の過去作で描き続けてきた事のある種の“焼き直し”に対して、ためらいもなければ、てらいもない。 そこに存在するのは、リドリー・スコットだからこそ許されるクリエイターとしての矜持と確信だ。   愛を知り、絶望を知ったアンドロイドは、凶暴無垢な胎児を引き連れ宇宙の果てに向かう。 果たして、“王”を気取ったアンドロイドが辿り着く姿は、神か、悪魔か。  僕たちは、大巨匠の赴くままの旅路をただ見届けるだけだ。戦々恐々と。
[映画館(字幕)] 8点(2017-10-20 23:44:22)(良:1票)
10.  エクスペンダブルズ3 ワールドミッション
行ってまいりました三度目の“MATSURI!(祭り!)”へ。 いやあ……凄い。素晴らしい。  前作の時点で思い知ったことだが、もはやこのシリーズに対して「難癖」なんてものはつけられない。 “普通”の映画であれば、卑下の対象になるであろう粗という粗を通り越して、この“普通じゃない”映画の後に残るものは、「感謝」そして「感動」である。  三度、シルベスター・スタローンという“映画人”に惜しみない感謝を捧げなければならない。 この人の映画人としての見地の確かさと、アクションスターとしての生き様を全うする格好良さには、改めて脱帽。そして心の震えが止まらない。  スタローン、シュワルツェネッガー、ステイサム、ラングレンらレギュラーメンバーに、今作新たにキャスティングされたは、ウェズリー・スナイプス!アントニオ・バンデラス!ハリソン・フォード!そして、メル・ギブソン!! こうやって自分で彼らの名前をタイピングしていくだけでも高揚感が半端ないのに、そんな大スターたちが、見紛うこと無くスクリーン上でぶつかり合っているのだ。80年代から90年代にかけてのアクション映画で育ってきた映画ファンにとって、こんな幸福なことはない。  まずもって、あの映画ポスターは何だ!最高すぎるだろうよ! 出演者たちが勢揃いで会心の笑顔を見せているアレだ。 スタローンをはじめとするエクスペンダブルズの仲間たちが笑顔を見せているのはまだ分かる。しかしそこには今回完全なる悪役であるはずのメル・ギブソンまでも、彼らしい素敵すぎる笑顔を見せて並んでいる。 そこには、確実に一世を風靡したスターたちが、それぞれの栄光と挫折、紆余曲折を経て、この場に会せることに対する心からの喜びがほとばしっているようだ。 映画内の敵味方なんてどうでもいい!俺達は嬉しいんだ!!と。    スター俳優として人気が高まれば高まるほど、その後の凋落は決して避けられないものなのかもしれない。 スタローンが集めたすべてのスター俳優たちは、その辛酸を特に舐め続けてきたことだろう。 ただ、そんな彼らが、今一度アクションスターとしてスクリーンに戻り、嬉々として立ちまわっている。 その姿は、もはや涙なしでは見られない。(バンデラス!やったぜ!)   さあ!隊長!もうどこまでも着いていきます! 次の敵は満を持しての“沈黙の無敵男”ですかね!?
[映画館(字幕)] 8点(2014-11-09 23:28:53)(良:2票)
11.  X-MEN:フューチャー&パスト 《ネタバレ》 
“マイノリティー”として生まれ生きることの意味と意義。それに伴う苦悩と苦闘。 その全世界的、全歴史的において普遍的な“苦しみ”を根底に敷き、一貫して描き抜いてきたこの世界観において、分かりやすい高揚感などはそもそも存在し得ない。 なぜならば、そこには明確な「敵」や「悪」が存在するわけではないからだ。  目に見えるすべてのものは、敵にもなり得るし、味方にもなり得る。 自分自身と、己に対峙する他者を寛容し、希望を見出せるかどうか。 それはまさに、ウルヴァリンやマグニートーをはじめこのシリーズに登場するすべての“X-MEN”が苦悩の末に辿り着いた真理だったろう。  そしてそれは、ミュータントではない我々「人間」が最も戒めなければならない最大にして永遠の“テーマ”であるということを、この最新作は強く訴えかけている。  主人公であるウルヴァリンの活躍が殆ど無いこと、明確に魅力的な悪役が存在しないこと、センチネルのただただ絶望的に無慈悲な強さ……今作は、高揚感やカタルシスを意図的に排除している。 その代わりに、差別による狂乱と恐怖の中で敢えて“銃を置く”という「選択」が、大いなる勇気と希望を生み出すということを、驚くほど愚直に描き出している。 その最も重要なシーンでさえ、ウルヴァリンは川底に沈んでいるし、プロフェッサーは瓦礫に埋もれている。 ヒーローが活躍する華々しさなどまるでない。  繰り返される歴史上の悲しみにおいて、本当に必要なものはヒーローではなかった。 必要だったものは、最も厳しい局面において、最良の未来を選び取ることができる「勇気」そのもの。 この高揚感に欠けたアメコミ映画が14年かけて描いてきたことは、そういうことだったのだろう。  チャールズとエリック、そしてローガン、彼らの長い長い苦闘がついに報われ、苦悩が払拭されたラストシーンは、多幸感に溢れている。 タイムパラドックスを主軸においたストーリー展開は少々強引だけれど、ウルヴァリンの悲しみをすべて打ち消す、大胆で慈愛に溢れたこの大団円を見せられては、何も言えない。  このシリーズに、これほどまで愛着を持てるようになるとは思わなかった。 今一度、好きになれなかった第一作「X-メン」から観直してみよう。自分の評価が大いに転じることは、もはや明らかだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2014-06-02 23:43:08)(良:3票)
12.  エクスペンダブルズ2
クライマックス、シルベスター・スタローンの太い腕がナイフを地面に突き立てる。 その“腕の太さ”は、単純な筋肉の誇示ではなく、この映画俳優が長年に渡り培ってきた成功と苦労の象徴のように見えた。  満を持してこの映画を観た翌日の日曜日、実家にて庭作業をする父親を手伝った。自分自身が育った分、当然ながら父親は確実に歳をとっている。その父親の腕と、前日に見た老アクションスターの腕が、見た目的にも、意味合い的にも、何だか重なって見えた。 もちろん良いところばかりではないが、自分がこの“腕”によって育てられてきたことは紛れもない事実であり、感謝をしなければならない。 そして、「映画鑑賞」という人生経験においても、この映画に勢揃ったアクションスターたちの“太い腕”によって育てられたということは、たぶん間違いないことだと思う。  つまるところ、この映画が世界中のアクション映画ファンにとっての「夢」そのものであることは明らかだ。 そんな「夢」の実現、そして彼らがそれぞれに苦心して経てきた映画人生そのものに、まず感謝せずにはいられない。  もちろん「完璧」などという形容が相応しい映画ではない。ただ、敢えて言うならば、「完璧」ではないことが「完璧!」と断言できる。 スタローンとシュワルツェネッガーとウィリスが、見紛うことなくそろい踏み、惜しげもなく銃器をぶっ放す。 ヴァン・ダムが、代名詞のハイキックを見事に繰り出し、極悪非道を演じる。 ステイサムは、洗練された格闘とナイフアクションで、“現トップスター”の意地を見せる。 そして御歳“72歳!”のチャック・ノリスが、“伝説的”な立ち位置でオイシいところをかっさらう。 ストーリーにおける粗なんて本当にどうでもいい。これだけの要素が盛り込まれていて、他に何が要るのかという話だ。 「良い!」と思う全てのシーンにもれなく付随する“ほつれ”も含めて、この映画の不完全な完全さだと思う。  「大人の事情」を感じてしまうジェット・リーの序盤での“里帰り”や、“マギー・チャン”役には何とかマギー・チャンを出してほしかったなどなど細かな物足りなさはあるにはある。 そして、セガールにスナイプスにヴィン・ディーゼル、見たいヤツらはまだまだいる。 「5」あたりで超グダグダになることまで、アクション映画シリーズの“お約束”と想定に入れて、まだまだ“祭り”が観たい!
[映画館(字幕)] 8点(2012-11-18 23:55:26)(良:3票)
13.  エクスペンダブルズ
この映画は、シルヴェスター・スタローンという稀代の映画人による「アイドル映画」と言って間違いないと思う。 ファンを魅了するアイドルが主演する数多の映画は、お世辞にも巧いとは言えない演技や稚拙なストーリーを目の当たりにしても、ある種の“輝き”を燦然と発しファンの脳裏に焼き付く。 そのこととまったく同じように、この映画は、往年の「アクションスター映画」を彩り続けたスタローンをはじめとする“アクションスター”がそろい踏みを見せた瞬間に、決して否定出来ない“輝き”を備えている。 それは、彼らが出演するアクション映画によって「映画体験」の第一歩を刻み、映画ファンになっていった世界中の人たちにとって揺るぎない「夢」であったはずだ。  その夢模様を、シルヴェスター・スタローンが叶えてくれたということに、より一層の感慨深さが加わっていると思う。 “ロッキー・バルボア”、“ジョン・ランボー”という娯楽映画史を代表する二大キャラクターを己の身体一つで演じ切り、アクションスターの頂点に立ったという偉業。 そして、時代の移り変わりとともに次第に忘れ去られ、蔑まれ、明確な「低迷」を経た上で、かつての二大キャラクターを新たな存在感をもって蘇らせてみせた近年の大復活劇。 もはや“シルヴェスター・スタローン”そのものが、アクションスターという存在性自体の一つの「歴史」だと言って過言ではないと思う。  そんな彼が、自らが掴み直したチャンスをもってして実現したこの『消耗品』と冠された映画には、アクションスターとして映画界の非情な荒波を生き抜いた「誇り」と「意地」に満ちあふれている。  そして、この映画において最も印象的だったのは、スタローン自らがお膳立てし、自らが主演を張っているにも関わらず、決して“おいしい”役回りを自らに与えていないことだ。 衰えた肉体を敢えて露呈するように、スタローンはぜいぜい言いながら走りまわる。 作品に集まってくれたアクションスターそれぞれにきちんと見せ場を用意し、映画の中で最も格好良いキャラクターは、今現在アクションスター映画の最後の砦を守っているジェイソン・ステイサムに譲っている。  そこには、自らが築いた「時代」を若い世代に引き継がなければならないという一人のアクションスターの熱い思いがほとばしっている。 その思いが、この映画において何よりも素晴らしい輝きだと思う。
[DVD(字幕)] 8点(2012-02-23 23:42:23)
14.  エリン・ブロコビッチ
スティーブン・ソダバーグならではの下手にクセのない映画世界が物語の質にマッチしており、ジュリア・ロバーツ演じるエリン・ブロコビッチの魅力を助長していたと思う。アカデミー賞を取るほどの演技とは思えないけど、ジュリア・ロバーツの存在感は良く、瑞々しくエネルギッシュな主人公を熱演していた。テンポの良さ、音楽のノリの良さも手伝ってとても爽快感溢れる映画に仕上がっていたと思う。
[DVD(字幕)] 8点(2004-01-09 14:13:54)
15.  エイリアン3
それぞれの作品が、別の監督によって作風の違った秀作に仕上がっているところがエイリアンシリーズの優れたところであるが、今作もデビッド・フィンチャー版のエイリアンとして良作になっている。監獄星を舞台にしたことで全編が密閉感に包まれた熱気と泥臭さに溢れており、明らかに一線を画す世界観は見事だった。シリーズの中では最も派手さはないが、衝撃的なラストシーンなど見応えは大きい。
8点(2003-10-26 03:29:20)
16.  エイリアン2/完全版
完全版しか観ていないので、オリジナルとの比較については何も言えないが、ジェームズ・キャメロンの持ち味が良く出ている映画に仕上がっている。エイリアンシリーズに通じて言えることたが、それぞれ持ち味の違う監督が独自の色合いを出し、「エイリアン」という映画に仕上げていることが、このシリーズの質の高いところだ。今作はシリーズの中では最もアクション基調であるが、キャメロンらしい迫力のあるアクションの中のドラマ性が、見応えのある作品にしている。
[地上波(吹替)] 8点(2003-10-23 16:51:26)
17.  エノーラ・ホームズの事件簿
秋の夜長、赤ワインを傍らに、ある意味において“現代版”の「シャーロック・ホームズ」を鑑賞。 “現代版”と言っても、ベネディクト・カンバーバッチの「SHERLOCK」のように現代のロンドンを舞台にしているわけではなく、コナン・ドイルが描いた19世紀後半のシャーロック・ホームズがそのまま登場する。 異なるのは、シャーロック・ホームズ本人が主人公ではなく、彼の“妹”が主人公であり、彼の“母親”がキーパーソンであるということ。  シャーロック・ホームズに“妹”がいたなんて話は聞いたことがないけれど、彼だって人の子、いくら架空のキャラクターであろうとなんだろうと、当然“母親”は存在する。もしかしたら“妹”もいたのかもしれない。 ただ、もしそういう家族構成だったとしても、原作小説の中で、“母親”や“妹”のキャラクター描写がピックアップされただろうか。 おそらくは、ただ一文節で紹介される程度だったのではなかろうか。 少なくとも、シャーロック本人にも勝るとも劣らない頭脳明晰なキャラクターとしては描かれることはなかっただろう。と、思う。   なぜそう思うのか? それは、“そういう時代”だったからだ。   今この時代に、シャーロック・ホームズ本人を脇に追いやって、彼の“妹”と“母親”を「女性」の代表として、映画世界の中で雄弁に語らせる意義。 それもまた、“そういう時代”だからこそようやく成立し得たテーマだったと思う。 だからこそ、原作同様に19世紀後半のロンドンを描いたこの作品が、“現代版シャーロック・ホームズ”と思えたのだ。  重要なのは、登場人物たちを現代人として描き直すのではなく、あくまでも当時の時代設定のままで、当時の社会の中で生きる人間として描いていることだ。 それは、女性蔑視や性格差に対する問題意識や発言や行動が、何も現代社会に限って巻き起こっているものではないというメッセージに他ならない。 100年前から、いやもっと前から、女性たちは、与えられるべき正当な権利と、認められるべき自由な生き方を主張し続けているのだ。  聡明な母は、「ひどい未来を残すのは耐えられなかった」と、愛する娘が16歳になったタイミングで姿を消す。 それはまさに、過去から現代に至るまで、世界中の女性たちが胸に秘め続ける思いではないか。   この意欲的で独創的な映画もまた「Netflix」映画である。 Netflixで独占配信される作品には、社会的、思想的、政治的なメッセージをダイレクトに強くぶつけてくる作品が多い。 映画作品としては、その主張の強さが時にアンバランスに感じる時もあるけれど、それも、“この時代”が必要とせざるを得ない表現方法であり、手段の一つなのではないかと思う。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-10-17 00:27:50)(良:2票)
18.  エクスティンクション 地球奪還 《ネタバレ》 
まず、95分という尺がSF映画としても、題材としても、適切であり小気味いい。ストーリーラインにおける起承転結が潔くシンプルに構築されているので、必要以上に期待することなく、また勘繰る間もなく、まるで短編のSF漫画やSF小説を堪能したような感覚を覚えた。 決して題材的に“新しい”映画ではなかったけれど、むしろクラシックスタイルなSF性は無論大好物だった。  映画ファンとしては、ハリウッド映画における名バイプレイヤーの一人であるマイケル・ペーニャが主演というところも嬉しいポイントだった。 陽気なラテン系アメリカ人を演じることが多いマイケル・ペーニャが、どこかナイーブで家族愛に溢れた父親役を演じているのはフレッシュだった。  その俳優本人に対するフレッシュさと同時に、主人公の妙な浮遊感と死んだような暗い瞳が序盤から印象的に映し出される。 最初それは、主人公役が珍しい俳優特有のぎこちなさのようにも見えていたが、無論そうではなく、映画世界の設定に起因した演出であり演技プランであった。 主演のマイケル・ペーニャは勿論、妻役のリジー・キャプランや、娘役の子役らも、適切な演技と絶妙な存在感を放っていたと思う。  繰り返しになってしまうが、余計な描写を極力挟まずに、95分という上演時間で簡潔に収めていることが、本作の最大の美点だろう。 ストーリー的にはもう少し映し出すことが可能なシーンはあったろうけれど、描きこみ過ぎていないことによるある種の“物足りなさ”が、鑑賞者に想像の余地を与えてくれ、逆説的な充足感を得られたのだと思う。  “エイリアン(侵略者)”の兵士を演じた若い俳優(イズラエル・ブルサード)の雰囲気も非常に良かったので、「逆視点」の続編を作っても面白いのではないかと思えた。  鑑賞後の感想として言ってしまえば、「SF」として非常にクラシックな題材であり、昔から同じような“ネタ”の映画や小説は溢れている。 ただ、序盤からの描き方が過剰に仰々しくなることなくシンプルに演出されているので、無闇に勘繰ることなく観られたことが、クライマックスの率直な驚きに繋がっている。 振り返ってみれば、家族の朝のルーティーンや、ホームパーティーのシーンで映し出されるべきものが意図的に存在していないなど、細やかな演出も光る。  Netflix映画として、同社の最近のメジャーな作品群と比較すると、もはや「小品」の部類ではあろうが、充分な娯楽性を堪能できるSF映画だった。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-05-19 21:55:45)
19.  エンダーのゲーム 《ネタバレ》 
SF映画とは、作品全体の90%が退屈でも、残り10%で示される顛末と物語に秘められた“真意”によって、その価値を誇示できる娯楽だと思う。  週末の深夜、この映画を観始めたが、6割近く観たところであまりの退屈感に伴う睡魔に勝てなかった。 翌日、惰性と諦めの中で、残りを観た。 これほど、終盤までの絶望的な退屈感を経て、観終わった後の満足感が高い映画も珍しい。  地球の存亡をかけた宇宙戦争の“戦いを終わらせるもの”に指名された少年の物語。 原作を読んだことはないが、おそらく“良い意味”で広く子供向けのSF小説なのだろう。 当然ながらこの物語世界に対して愛着などなかったが、実際この映画化作品を観終わってみると、成る程、これは世界的にファンがいて、シリーズ化されるに相応しいSF作品だと思えた。  映画の大半(というか殆どすべて)は、主人公ら選りすぐりの少年兵たちの“訓練描写”に終始する。 タイトルが示す通り、少年たちはまるで“ゲーム”をひたすらにやり込むように、「戦争」の訓練を続ける。 実際に映像として映し出される描写も、極めてハイクオリティーなゲーム世界を描いているようで、当然現実味がない。 映画がクライマックスに入っても、映し出されるものは、その“ゲーム”のような訓練描写で、僕のこの映画に対する退屈感はピークに達した。  しかし、そこから示された“残り10%”の真意によって、退屈感は一転し、充足感が満ちてくる。  この物語の主人公が子どもたちである意味。 ひたすらに訓練描写に終始する意味。 “ゲーム”の真意。  自分の想像の範囲外から途端に表された普遍的な“戦争”と“大人”の愚かさが、ぐさりと心に突き刺さる。 そして、無垢な才気と凶暴性を孕んだ主人公が選んだ道筋に、“戦いを終わらせるもの”という役割の本当の意味を見た気がした。  と、一転した満足感のもとで今作を振り返ってみると、映像的にもハイクオリティーだったと思うし、観客を敢えてミスリードしたのであろう演出の手際も良かったと思える。  途中、幾度も「もう観るのやめようかな」と思ってしまったが、これだから“SF映画”というジャンルは侮れない。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-03-21 19:57:00)
20.  エルム街の悪夢(1984)
もし、ある程度大きなバジェッドで、再度リメイク化が決定したとして、もし、ティム・バートンなんかが監督に決まった日にゃ、絶ッッッ対にジョニー・デップが“フレディ・クルーガー”を演じるに決まっている!と、勝手な妄想が途中突っ走った。  そんなジョニー・デップの映画デビュー作としてもよく知られている、この超有名なホラー映画を初めて観た。 昔、実家に今作のタイトルがラベリングされていたVHSがラックに並んでいたような記憶もあるが、今なおホラー映画が苦手な僕が観れる筈もなく、現在に至るまでスルーし続けてきた。 三十路を越えて、いい加減誰でもタイトルを知っているような有名なホラー映画は観ておかなければなるまいと思い、先日の「キャリー」に続き、本作を鑑賞。  さすがに描かれるホラー描写は、“お決まり”のもので、ストーリー展開もベタ中のベタなので、恐怖心が煽られてたまらないなんてことは当然なかったが、それでも充分びくついてしまうのは、この映画がその後のあらゆるホラー映画のベースとなった「定番」を生み出しているからに他ならないと思う。  決してストーリーが面白いということはなく、所々において支離滅裂ですらあるこの映画を人気作たらしめたのは、何を置いても、夢とうつつの狭間を行き交うモンスター“フレディ・クルーガー”という稀代のホラー映画スターの誕生に尽きるだろう。  この第一作を観ただけでは、結局のところ何故このモンスターが出現し、若者たちを次々に襲うのかよく分からないが、その存在性と目的の曖昧さが、殊更にこのキャラクターの不気味さと禍々しさを増幅させているようにも思える。 焼けただれたグロテスクな面構えに対して、赤と緑の横縞セーターのダサさが、絶妙なビジュアルセンスを醸し出している。(この造形を考え出した人も、結構キレていると思ってしまう……)  ともかく、ようやく映画史を代表するホラー映画スターの初登場作を観られて良かった。 さて次は「エクソシスト」か「13日の金曜日」か……いずれにしても気が重い。
[インターネット(字幕)] 7点(2013-11-16 14:34:40)
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