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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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21.  フラクチャー
アンソニー・ホプキンス×ライアン・ゴズリングという新旧の個性と実力を兼ね備えた二人の競演作でありながら、日本国内未公開どころか今なおDVDスルーにも至っていないことが、まず腑に落ちない。 内容がお粗末な作品ならまだしも、これほどクオリティーの高いサスペンス映画も昨今なかなか無いので、殊更だ。 どうやら劇中の或る描写が、現実的な倫理観と照らし合わせて問題視されているようだが、まったく何のための「フィクション」という言葉なのかと思う。  とにかく、日本では見る機会さえ無かったかもしれなかったことに憤りを感じるくらい、見応えのある「犯罪劇」であり、「法廷劇」だった。  何より、前述の主演の二人の相性が、思いのほか良かったと思う。 老獪で利口な犯罪者の「策略」に、対峙する若く野心的な検事が振り回されつつも追求していくという構図に、ぴったりと合ったキャスティングだった。  “レクター博士”ほどの強烈さはもちろん無かったけれど、アンソニー・ホプキンスは軽妙な語り口の奥底に秘めた恐ろしさをひしひしと感じさせる存在感を放っていた。 一方で、ライアン・ゴズリングは、若さ故の傲慢さと未熟さを放ちつつ、最後には相手を凌駕する雰囲気を醸し出していた。  この二人、タイプは全く違うように見えるが、俳優としての本質的な部分に何か似通った要素を感じる。 そういった俳優自身の素養を引き出し、混ぜ合わせることに成功した見事なキャスティングであり、演出だったと思う。  ラスト、“真相”の正体そのものには「なあんだ」と一寸肩透かしを食らう。 しかし直ぐさま、この映画ならではの“オチ”で静かに締める顛末がとても巧かった。  冷静で頭脳明晰な犯罪者が、犯行の最後の最後で抑えきれなかった“憎しみ”という感情。 その感情の一瞬の露呈が、完璧だった計画に、小さな小さな綻びを生んでいたのだろう。
[インターネット(字幕)] 8点(2013-06-26 00:10:49)
22.  ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン
数年前、自分自身の結婚式を控えた頃、YouTubeで結婚式のスピーチ関連の動画を検索していて、何処かの誰かの結婚式での花嫁の親友らしい女性のお決まりのテンションのスピーチ動画に、妻共々笑ってしまった。 映画の中で登場する、花嫁の親友同士の“スピーチ合戦”は、そういった結婚式における“女の友情あるある”を彷彿とさせ、笑いが止まらない。  商売には失敗し、恋愛偏差値は下がる一方の“いきおくれ”の主人公が、幼馴染みの親友の花嫁介添人のまとめ役をまかされたことにより、益々精神不安が加速していく。  男性が主人公のこの手の“イタさ”と“下ネタ”オンパレードの極めて“アメリカ的”なコメディ青春映画は多々あるけれど、女性が主人公でここまでぶっ飛んでいる映画はあまりない。 それ故に、男性目線からだと特に、時にえげつくなく、時に際限なく下品ではあったけれど、好事家たちの評判に違わず、サイコーに愉快で、サイコーにキュートな映画だったと思う。  映画として上手いなと思うのは、主人公一人の葛藤だけを描いているわけではないということ。 花嫁の親友たちで構成された5人の花嫁介添人たち(ブライズメイズ)。花嫁自身も含め、立場も生活環境も違う6人の女たちそれぞれが抱える葛藤を、遠慮のないコメディ描写の中でしっかりと描き出し、最終的には6人全員が好きになってくる。 男性として、女性の友情にはどうしても懐疑的な部分があるのだけれど、この映画を観ると、男同士のそれには無いドギツさとコワさを感じる一方で、女同士の友情に初めて羨ましさを覚えた。  とにもかくにも、それぞれがそれぞれに個性的でパワフルな女性が6人も集えば、周辺の男性陣はただただ右往左往するしか無いわけで。観客の男もその一人として、ただ笑い続けるしか無い。  結婚式を控える女性、結婚式を終えた女性、そして特に結婚式の予定なんてない女性、面と向かって勧める勇気はないけれど、そういったすべての女性のための映画だと思う。  この映画は、明らかに相性が悪いのであろう男との爆笑必至のセックスシーンから始まる。 この“笑撃”的なファーストシーンは、主人公が陥っている状況を端的に表すとともに、この映画の“振り切れ具合”を潔く表していた。 それは「この映画、こんなカンジて突っ走るよ?ついてきてね」と観客に対してのある種の宣戦布告だったのかもしれない。
[DVD(字幕)] 8点(2013-03-08 17:17:24)(良:2票)
23.  フェア・ゲーム(2010)
エンドロールで流れる役名の一部が塗りつぶされていた。 この映画の主人公である実在の元CIAエージェントが綴った原作も、CIAの検閲の上で大部分が黒く塗りつぶされたまま出版されているそうだ。 それは、この物語が紛れもない事実であるということを如実に表しているもので、その“塗りつぶし”こそがこの作品の価値を揺るぎないものに高めている。  ブッシュ政権下におけるイラク戦争の勃発。その裏側に確実に存在した数人の権力者の「嘘」と「思惑」が、実に生々しく描かれる。 「ボーン・アイデンティティー」において、リアルなスパイアクションを撮ったダグ・リーマン監督が描くからこそ、“現実”のスパイの実像を描いた今作は、対比的に際立っていたと思う。  「大量破壊兵器は無い」ということを諜報活動によって導き出したCIAの報告が、時の政府によってねじ曲げられるという様には、「恐怖」という言葉では足りないおぞましさが満ちていた。 その絶対的とも言える巨大権力に対して真っ向から立ち向かい、自らの存在を貫き通した主人公夫婦は、勇気ある行動という表現ではおさまらず、やはり「無謀」に見えた。  この映画は、自分たちの“在り方”を守り通すために、敢えて「無謀」に走った夫婦の物語だと思えた。 ナオミ・ワッツとショーン・ペン演じる夫婦の関係性に焦点が絞られてくる後半においては、マクロ的な事の顛末よりも、彼らが夫婦としてどういう道程を選んでいくのかという事の方が気になってしまった。  往々にして、優秀過ぎる妻を持つ夫は、時に愚かな程身勝手に暴走してしまうものだ……。 クライマックス、妻に許しをこうショーン・ペンの情けない表情が、個人的に身に染みた。  そういった具合で、大局的な社会派ドラマの中に、パーソナルな人間ドラマを盛り込んだ構成は、映画的にも非常に巧みだったと思う。  多大な紆余曲折を経てきたとはいえ、実際にこれが映画として公開されている以上、この映画の中で描かれていることのすべてが「事実」であるという認識は間違いかもしれない。 本当に隠さなければならないことは、本当に隠されたままなのだとは思う。  しかし、たとえ真実のほんの一片であれ、当事者らが人生をかけてそれを明るみに出した行為と、映画というエンターテイメントの力で世界中に知らしめた事実は、賞賛に値する。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-09-27 14:29:18)(良:1票)
24.  50/50 フィフティ・フィフティ(2011)
27歳の若さで癌を宣告される主人公。生存確率は50%(インターネット調べ)。 もちろん物語の主軸は主人公の“闘病”だが、この映画が凄いところは、決して病そのものを悲劇とそれに伴う安直な感動を描いているわけではないということだ。  この映画に描かれていたことは、“癌患者初心者”の主人公の姿であり、人生において初めての「経験」における苦しみや葛藤、それについての感動だった。  主人公が癌患者の初心者であれば、主人公の親友は“癌患者の親友の初心者”、母親は“癌患者の母親の初心者”、恋人は“癌患者の恋人の初心者”、そして新米セラピストは“癌患者のセラピストの初心者”なのだ。 一人の男の岐路に立ち会った“初心者”同士が、それぞれに思い悩み、失敗し、傷つき、正解などない行き筋を模索する。  癌に限らず、重い病気を患ってしまうことはそりゃあ大変だし、それが生死に直結するとあらばそりゃあ悲しい。 しかし、生存確率を示されようが、余命を宣告されようが、「死」に至るまでその人が生きていかなければならないことに変わりはないだろう。 ならば、「癌」という新たな“特徴”を持って生きていくしかないし、逆に言えばただそれだけのことなのだ。 それは口で言うには簡単で行動として表すにはとても難しいことだけれど、この映画では、そういうことがセス・ローゲン演じる主人公の親友(悪友)の言動により表現されていた。 この物語自体が、セス・ローゲンの実体験からよるものだとのことで、彼の演じたキャラクター性には、軽薄さと下品さの裏に分厚い説得力が備わっていたと思う。  誰しも、初めて経験することには、大いに戸惑い、大いに悩む。 この映画は、そのあまりに普遍的なことを、癌というこちらも普遍的に重いテーマに対して真摯に向き合って描き出し、そして見事に笑い飛ばしている。
[映画館(字幕)] 8点(2012-04-29 00:53:33)(良:2票)
25.  ブラジルから来た少年
「2年半以内に、94人の65歳の男性を期日通りに殺害せよ」 と、ナチスの残党のマッドサイエンティストが命令する。 そこには壮大で恐るべき計画が秘密裏に進行しており、その陰謀を年老いたナチスハンターが追う。  非常に濃密な面白味を孕んだSF映画であり、サスペンス映画だったと思う。 余分に派手な演出を控えて、鈍く抑えた演出が殊更に見え隠れする恐怖とおぞましさを煽っている。  今でこそ“クローン”なんて題材は様々な作品で使い古されているけれど、1978年当時としてはとても前衛的で、ショッキングだったろうと思う。 今観ても、描かれる陰謀の真相が明らかになるシーンでは、身震いを覚える程の衝撃を感じたのだから、当時の観客にとっては尚更だったろう。 故に賛否両論も激しく、そのことが日本未公開の所以だったのかもしれない。  キャストにおいては、やはりグレゴリー・ペックの演技が圧倒的だった。 あらゆる名作で好漢を演じ続けてきた大スターが、よくもまあこれ程まで狂気的な科学者の役を引き受けたものだ、とまず思った。 そしてそのパフォーマンスは凄まじく、この俳優が本当にグレゴリー・ペックなのかと一瞬疑ってしまったほどだった。  原作の面白さに卓越した映画術が合致した完成度の高い「問題作」だと思う。  ラストシーン、残った“少年”の言葉と眼差しが、追い討ちをかけるようにおぞましい余韻を残す。 そう、94人分の可能性を携えて……。
[DVD(字幕)] 8点(2011-09-23 02:18:09)
26.  フロスト×ニクソン 《ネタバレ》 
この映画を観て、何よりも印象強く残ったものは、「音声」だった。 米国史上最悪の汚名を持つ元大統領と野心溢れるテレビ司会者。二人の男の織りなす会話が、高級ステレオから流れるジャズのように響いてくる。  リチャード・ニクソンという米国大統領についても、彼の転落の発端となったウォーターゲート事件についても、もちろんデビット・フロストという英国人のテレビ司会者のことも、ほとんど詳細を知らない。 キーワードとしての部分的な知識しか無かったので、イメージとして、汚職にまみれた元大統領を、野心家のインタビュアーが最終的に言い負かすというような映画なのだろうと思っていた。  が、実際はそうではなかった。  米国史上初の任期中での退任を余儀なくされ、ホワイトハウスを去りゆくニクソンの一寸の“表情”に瞬間的に惹き付けられ、インタビューを申し込むテレビ司会者。バラエティー番組専門の彼にとって、それはあまりに盲目的な挑戦であったと思う。  センセーショナルなインタビューを通じて、片方は政界への復帰を目論み、片方は名声の得ようと画策する。それはもちろん正直な両者の思惑だったのだろうが、それと同時に二人の男に生じていたものは、現実に対する自身への葛藤と、それを打ち砕くための好敵手の発見だったのではないか。 己の人生に対する自信と失望。「今」から脱却し、次のステージへ進むためには、人生そのものを壊してしまうくらいに強力な起爆剤が必要。 年齢も立場も何もかもが違う二人が、奇しくも同じ思いを互いに感じたのだろうと思う。  結果として、勝利はフロストへもたらされ、ニクソンの思惑は完全に閉ざされる。 しかし、この映画が描いたのは、その勝利にまつわる痛快感などではなく、敗北者であるリチャード・ニクソンという希代の米国大統領の本質的な姿だった。 感情を吐露し、人生を憂う姿に、人間として尽きない興味深さを感じた。
[映画館(字幕)] 8点(2009-06-01 00:24:47)(良:1票)
27.  フォーン・ブース
個人的見解であるが、良質なサスペンス映画であるほど、舞台となる空間は限定され、洗練される。この映画はまさにその良質なサスペンス映画である要因を十二分に備えた作品だったと思う。電話BOXを利用した都会の狭間に隠れる恐怖感は、実に新鮮で巧みであった。「ヤラレタ!」と思ったのは、時間軸をそのままに描き出される映画世界、所々で画面分割を多用するその手法は、まさに今大流行のテレビドラマ「24」ではないか。「ああ、なんだか似てるなあ~」なんて観ていたら、ラストに出てくるのはあの男……。まさにまどろむ様な後味の悪さとブラックなユーモアが漂うこのラストは、この映画の締めとしてふさわしい。
[DVD(字幕)] 8点(2004-08-27 01:04:41)
28.  フロム・ヘル
怪しく、薄暗いロンドンの街並みの情景と空気感が秀逸そのもので、異世界のようなその世界観に引き込まれる。秀逸な空気感に助長された恐怖シーンも見所のひとつであるが、それよりも、今作の場合ジョニー・デップ演じる主人公の曲の強い敏腕警部の哀愁が切なすぎる。特にラストのくだりには上質な感慨深さがあった。
[映画館(字幕)] 8点(2004-01-08 18:45:38)
29.  BROTHER
「その男凶暴につき」「ソナチネ」とバイオレンスの秀作を生み出してきた北野武であるが、今作は北野ワールドにおけるバイオレンス性という点でのひとつの頂点となる作品だと思う。世の中にバイオレンス映画と呼ばれるものは数多いが、この映画ほど狂気的な凶暴性と同時に鮮烈な叙情感を描き出している映画は他にないだろう。その「動」と「静」の絶妙な共存こそ北野武の世界観であり秀逸さに他ならない。展開されるすべてのシーンが衝撃的であり、感慨深い。
[映画館(邦画)] 8点(2003-12-16 01:14:45)
30.  プライベート・ライアン
よくあるタイプの戦争物という視点で見てしまうと、映像の圧倒的迫力は置いといて、なんてくだらないストーリーだと感じてしまう。しかし、やはり巨匠スピルバーグの思惑は崇高だった。二等兵を国家のイメージのために問答無用に助け出すという作戦がこの映画の題材なわけだが、この作戦の愚かさ、滑稽さこそがすなわち戦争という愚行を象徴しているのだ。真意が分かれば、ブラックユーモアにもなりそうなテーマである。そこを本格的な戦争映画として完璧に描き出すことが、スピルバーグのスピルバーグたる所以であろう。
8点(2003-11-12 15:14:43)
31.  プリティ・リーグ
戦争中に発足した女子プロ野球という設定自体が、とてもエンターテイメント性とドラマ性に溢れたものだけに、面白い映画になることは間違いなかったと思う。曲のある監督を演じたトム・ハンクスの演技が非常に良くて、女性だらけのキャスト陣の中で核となる存在感を見せてくれた。
8点(2003-10-17 14:39:54)
32.  フランケンシュタイン(1994)
とてつもなく怖く、とてつもなく切ない映画だった。フランケンシュタインというキャラクターそのものがとても悲しい。全身メイクで演じたロバート・デ・ニーロの存在感はさすがだった。映画全体に漂う不健康で焦燥的な空気感が秀逸。監督ケネス・ブラナーのセンスが光っていた。
8点(2003-10-06 18:33:35)
33.  ファイナル・カウントダウン
歴史的な“混迷”をリアルタイムに感じずにはいられない昨今、日本国内はもとより世界的規模で“時代”は進むべき方法を惑っているように思わずにはいられない。 そんな折に触手を伸ばした古いポリティカルSF映画が、殊の外面白かった。 前々から某動画配信サービスのマイリストには入れていて、キャスティングの豪華さとあらすじの壮大さに反して、作品としての知名度の低さに懸念を覚えて鑑賞するタイミングを推し量っていたのだが、想像以上にしっかりとしたスペクタクル映画だったと思う。  ハワイ沖を航行していた最新鋭(1980年当時)の原子力空母が、時空乱流に巻き込まれて1941年12月6日にタイムスリップしてしまう。奇しくも時は日本軍による真珠湾攻撃前夜、空母に搭乗していた現代のアメリカ海軍の面々は、日本軍の奇襲を阻止(=歴史介入)して祖国を守るべきか否かを迫られる。  個人単位のタイムスリップにより、歴史の改変に対して葛藤したり、奔走したりする映画は多々あるけれど、数千人の乗組員を有する巨大な原子力空母ごと時間移動してしまうという設定が大胆で嫌いじゃなかった。(似たプロットだと、半村良原作の「戦国自衛隊」や、かわぐちかいじの漫画「ジパング」が思い起こされる) 40年の時を遡って現れた原子力空母は、太平洋戦争当時であれば強大な国が新たに出現したことに等しく、180度歴史を転換してしまう力を有していることへの説得力も大きかったと思う。 様々な立場や歴史観を持つ人物が入り交じる空母艦内だからこそ、歴史を改変してしまうことの是非や、軍人・米国人としての倫理観も多角的に対立し、ストーリー性にも幅があった。 カーク・ダグラス、マーティン・シーンをはじめとして、当時のスター俳優たちの競演にも見応えがあったし、実際に大西洋上に配備中だった空母ニミッツでの撮影や、トムキャット等実機を贅沢に映し出した戦闘機の描写にも迫力があり申し分なかったと思う。  上映時間が104分とこの規模の娯楽大作としてはコンパクトだったこともスマートで好印象だったけれど、一方では、映画としての骨格がしっかりしていた分、もっと掘り下げたストーリー展開があっても良かったかなとも思える。 ストーリー展開がテンポよく進むので鑑賞中はあまり気にならなかったけれど、主要キャラクターたちの人格描写やバックグラウンドは、もう少し丁寧に描き出した方が、彼らの葛藤や対立を軸にしたストーリーに厚みが出たろうと思う。 特にマーティン・シーン演じる重工業会社の社員や、実務の傍らで歴史学を研究している航空隊長(演 ジェームズ・ファレンティノ)の両者においては、言動の理由がやや不明確だったように感じてしまう。 実質的な主人公でもある彼らのキャラクター描写と人間ドラマにもっと深みがあれば、ラストのタイムパラドックス的“オチ”も更にエモーショナルなものになっていただろう。  ともあれ、期待を大きく越えた娯楽映画であったことは間違いない。 世界的な混迷を迎えている現代においても、「ああ、あの時代に戻ってやり直せなたら」と、世界中のあらゆる人間たちが悔恨や憤りを感じていることだろう。 でも、本作で歴史学を愛する航空隊長の台詞にもあるように、「すべての物事は一度しか起きない」ということが真理であり、決してやり直しは効かないのである。 ことの大小に関わらず、どんな物事であっても常に「今」が勝負時であり、もし失敗しなたらば次の機会にその反省を活かして巻き返すしかないのだろう。  現代を舞台にしても十分成立するストーリーだと思われるので、リメイクしてほしいものだ。原子力空母という存在感の大きさを活かして、ドラマシリーズ化して多様なストーリー展開を見せても面白いかもしれない。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-01-21 00:39:24)
34.  ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー
それなりに長く映画を観続けていると、現実世界の俳優の死に伴う喪失感が、映画世界の内外を巻き込んで渦巻くことはままある。 2020年、43歳の若さでこの世を去ったチャドウィック・ボーズマンの死は、近年においてその最も顕著な出来事だったろう。 MCUでブラックパンサーことティ・チャラ役にキャスティングされたことで、一躍世界のトップ俳優の一人となった彼の死は、MCUファンに限らず、世界の映画ファンにとってあまりにも大きな損失だった。  無論、この「ブラックパンサー」の続編も、チャドウィック・ボーズマン続投が大前提のプロジェクト進行が、突然の悲報に伴い、継続そのものを問う岐路に立たされたことは言うまでもない。 普通に考えて、絶対的な主人公を演じていた俳優を失ったヒーロー映画の続編が、そのまま成立するなんてことはあり得ないだろう。 それでもなお、映画の製作を進め、161分の大長編として日の目を見た本作からは、監督のライアン・クーグラを筆頭に、スタッフ、キャストからの、亡き“ティ・チャラ王”に対する尊敬と哀悼が満ち溢れていた。  死に伴う喪失感は、時に残された人間を惑わし、自暴自棄に貶める。 その心情が本作に登場するキャラクターたちに投影され、彼らも大いに惑い、進むべき道を見失いそうになる様が印象的だった。 それをどう乗り越え、その先の時間をどう生きるのか。それはきっと最愛の人間の死に出会うべくしてこの世に生きるすべての人間に課せられた宿命なのだと思う。  最愛の兄と王とヒーローをまさしく“同時”に失った妹のシュリは、映画のラストで光に照らされた美しい浜辺で一人佇む。 その表情からはやはり寂しさと心細さが垣間見える。その一方で、大切な記憶や、兄や母に対する愛情は決して色褪せないことも噛み締めているようだった。  生きろ、そして戦い続けろ。 「エンドゲーム」のクライマックス、ポータルの中から現れたティ・チャラが、満身創痍のキャプテン・アメリカに対して力強く視線を向けた後、援軍を鼓舞するシーンが思い浮かぶ。 偉大なヒーローは死してもなお、映画世界の内外の“アベンジャーズ”を鼓舞し続ける。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-11-12 01:30:22)
35.  ブライトバーン/恐怖の拡散者 《ネタバレ》 
僕の子どもは、まだ8歳と5歳だが、それでもごくたまに「あれ、この子こんな顔だったかな?」と毎日見ているはずの我が子の表情に違和感を覚える瞬間がある。 またふいに発動される思いにもよらない発言や行動にびっくりすることもある。 それらは詰まるところ「成長」というごく普遍的な一言で説明がつくことなんだけれど、親たちは、あまりの唐突さに驚き、慄き、時に理解不能でうろたえてしまう。 そのある種の「恐怖」との邂逅自体は、子どもを育てる親にとっては必然的なことの一つであるわけだが、この映画に登場する夫婦が不幸だったのは、子どもがあまりにも「特別」過ぎたということ。  世界中の親にとって、自分の子どもは誰よりも「特別」だろう。 そこに血の繋がりは必ずしも関係なく、養子をもらおうが、森で拾おうが、桃から生まれようが、「自分の子どもだ」と認識した時点で、「特別」であることに変わりは無い。  ただし、その「特別」が、必ず良い方向ばかりに向くかというと、実際そんなことはないわけで。 カンザス州の“ケント家”の事例があまりにもセンセーショナルだったため、特に映画に登場する「特別な子」はすべからく“スーパーヒーロー”になるものだと世界中の映画ファンは高を括っていたが、本作は僕たちのその甘い認識を“全否定”する。 そりゃそうだ。現実世界のすべての凶悪犯も、極悪人も、生まれた時は「特別な子ども」の一人だったはずなのだから。  とにもかくにも、この映画は、スーパーヒーロー映画の王道的な導入から端を発し、「オーメン」や「エスター」のような「子どもが怖いホラー映画」のこれまた王道的恐怖展開を容赦なく見せつけてくる。 ヒーロー映画は大好きだが、ホラー映画は大の苦手なので、「久しぶりに映画館でホラー映画を観ているな」とビクビクしながら鑑賞していたが、“子ども”の自我の目覚めと共に恐怖の拡散が益々エスカレートしてくると、「恐怖」は徐々に「高揚感」へと転じてくる。  その「高揚感」の正体は、あまりにも禍々しい最凶“ヴィラン”のビギニングを目撃したことに他ならない。 “アンチヒーロー映画”の体で、露悪的でぶっ飛んだホラーを紡ぎ、最終的にはヒーロー映画の世界に再接続してみせたジェームズ・ガンの“悪だくみ”がたまんない。  エンドクレジットでは“DCエクステンデッド・ユニバース”との連携が“非公式”に臭わされた程度だったが、どうせなら正式参画してもらって、「シャザム!」との“悪ガキ対決”が観たいぞ。
[映画館(字幕)] 7点(2019-12-11 21:14:17)
36.  ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅
「ハリー・ポッター」シリーズは、全8作を“一応”鑑賞している。最終作「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2」は満を持して劇場で鑑賞したが、結局最後の最後まで乗り切れなかったというのが正直なところだ。 児童文学の映画化シリーズとして致し方ないし、むしろ真っ当なことなのかも知れないが、話運びや登場人物たちの言動に対して“子供向け”の範疇を超えたものを感じることが出来ず、シリーズを通じて成長した主人公がどんなに必死の形相で呪文を唱えても、滲み出る“お遊戯感”を受け入れることが出来なかったのだと思う。 ただし、この映画シリーズが、老若男女世界中の人々に愛され人気を博した映画史に残るシリーズであることは否定しようもないし、原作ファンでも無い者が否定する余地はないと思う。  そんな個人的なスタンスのため、このスピンオフ作品についても、それほど興味を持てぬまま続編となる最新作の公開を間近に控えた今の今までスルーする形になっていた。 本シリーズに通づる“お遊戯感”にプラスして、ファンタジックな生き物たちが登場するファミリー向け映画なのだろうと高を括っていた部分もあった。  が、しかし、実際に観てみたならば、いやいやどうして想像よりもずっと好きな映画だった。 珍妙な魔法生物たちが続々登場するファンタジックな映画であることは間違いないけれど、映画全体のテイストが決して子供だましなわけではなくて、“オトナの可愛らしさ”が随所に散りばめられた良いファンタジー映画だった。  思うに、「ハリー・ポッター」シリーズは、「子供」が主人公であることによる避けられない幼児性や稚拙さが、話運びのまどろっこしさに繋がっていたのではないかと思う。 しかし今作は、主人公のニュート・スキャマンダーをはじめ、登場人物たちはみな既に何かしらの人生の機微を味わっている「大人」たちだ。 大人ゆえのまどろっこしさも勿論あるが、そういう部分も含めて、彼らが織りなす人生模様が物語の奥ゆかしさとして表れている。 1920年代の古式ゆかしきニューヨークの物語舞台と魔法との相性も極めてよく、秀麗なビジュアルを見せてくれていると思う。  一転して、公開を控える最新作が俄然楽しみになってきた。 今作でサプライズ登場したジョニー・デップに加え、若きダンブルドア役にジュード・ロウ!パリ・ロンドンを舞台にした映像世界にハマらないわけがない。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-07-17 00:07:58)
37.  ブラックパンサー
争いを繰り返す愚かな世界の中で、一線を引いて「傍観者」であることは賢い選択であろうし、それが出来る国があったとしたならば、それはその国が真の意味で恵まれた強い国家であることの証だろう。 だけれども、憎しみが憎しみを呼ぶ負の連鎖が益々深まる「世界」に対して、背を向け続けることが、果たしていつまでも己の身を守ることになるのか。  若き王は苦闘し、決意する。  若く屈強な黒衣の王が、ソウル・ミュージックの重低音と共に、世界の中心で立ち上がる。 新たな英雄の誕生譚にまた高揚せずにはいられなかった。   言わずもがなマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の大ファンではあるが、「シビル・ウォー」で突然登場した“ブラックパンサー”の単独映画が製作されることを最初に知った時は、「さすがに地味過ぎるんじゃないか」と不安感を禁じ得なかった。 だがしかし、実際に公開初日に鑑賞に至ってみたならば、成る程この作品がこのタイミングで製作されることは様々な角度から意義深いものだったのだと思い知った。  現実世界のありとあらゆる場面で差別と格差は益々広がり、それに伴う諍いは深刻に泥沼化している。 ただしそれは、一概に弱者と強者のパワーバランスを均せばいいとか、どちらが搾取しどちらが搾取されていると安易に擁護したり否定できるものでもない。 マクロからミクロに至るまで、あらゆる関係性の中で、欲望や思惑や妬みや怒りが渦巻いている。  その現実を目の当たりにし、この世界の真理を垣間見たからこそ、若き王は苦悩したのだ。 与えられたその鋭い爪を向けるべき相手は何なのか? 彼が抱えた苦悩は、今この世界全体が抱え込む出口の見えない葛藤に他ならない。  自身の無知の裏側で生じていた哀しき怨念の権化と対峙し、一度は奈落の底へ落とされたものの、ついに打ち勝ち、彼は「国王」として「英雄」として進むべき路を見出す。 それは、「シビル・ウォー」において生じた“耐え難い対立”を孕んだまま「インフィニティ・ウォー」を迎えなければならない“アベンジャーズ”にとっても、必要不可欠なニューヒーローが生まれたことを意味する。  ファンとしては、ワカンダに滞在していたことは明らかである“キャップ”の登場が無かったことは残念だったけれど(バッキーかよ!)、そこは公開間近の三度の“大祭”に期待するとしよう。
[映画館(字幕)] 7点(2018-03-01 23:24:42)
38.  フューリー(2014)
朝が来る。 朽ち果てた戦車と、そこで闘い果てた屍を越えて、兵たちは歩を進める。 まるで何もなかったかのような俯瞰で、残骸となった戦車を一つ残し、一つのストーリーが終わる。  「戦争」という、繰り返される人間の愚かな歴史の中で、同様のシーンが一体、幾千、幾万、繰り広げられてきたのだろうか。 その無残の極みの様に、胸が詰まる。   僕自身はミリタリー描写にそれほど熱い頓着が無いので、伝説的な戦車とその活躍の様を忠実に再現したという、この映画の触れ込みにもあまり興味を惹かれなかったことは否めない。 ただ、世の好事家たちはこぞって絶賛しているので、全編通して描き出される戦場シーンに一切の妥協はないのだろう。  冒頭に記した通り、戦争そのものに対する普遍的な無残さと、そこに携わった人間たちが抱える虚無感は、きちんと描かれている。 そして、ビジュアル的な説得力も充分に備わっている優れた戦争映画、なのだとは思う。  ただし、ひしひしと伝わってくる映画のクオリーティーの高さに反して、今ひとつ感情的に揺さぶられるものが少なかった。 ラストの決死戦などは、もっとエモーショナルな感覚を持ってしかるべきなのだと思うが、何となく淡々と観れてしまった。  人物描写の描き込みが希薄だったのか、そもそもミリタリー映画自体への愛着が薄いからか、単に精神的なタイミングが悪かっただけなのか。  この虚しさのような物足りになさに、戦争の空虚感を表現していたとしたら、それはそれで大したものだけれど。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-11-01 00:26:37)
39.  フライト・ゲーム 《ネタバレ》 
冒頭、主人公がウイスキーを紙コップに注ぎ歯ブラシでかき混ぜる。 この主人公の男が明らかにうらぶれていて、拭いがたい負い目を抱えて生きていることが一発で分かるオープニングだった。 その主人公を、リーアム・ニーソンがお馴染みの“困り顔”で演じているわけだから、それだけで“リーアム・ニーソン映画”としては太鼓判を押していいのかもしれない。  「シンドラーのリスト」「レ・ミゼラブル」「マイケル・コリンズ」など、かつては歴史大作や文芸大作を主戦場に渋く濃厚な存在感を示していたこの俳優が、“ジャンル映画”のスターとなって久しい。 彼の俳優としての立ち位置に対しては、映画ファンによってその是非が分かれるところだろうが、とはいえ実際ハマっている映画も多いので、「面白い」のであればそれが正義だと思う。  今作にしても、ジャンル映画としての存在価値は充分に発揮している。 ストーリー上の穴や粗など端から無視を決め込むか、それ有りきで楽しむべき立派な“リーアム・ニーソン映画”だ。  ストーリーテリングとしては、ヒッチコックの「バルカン超特急」に端を発する“誰も信じてくれない”系サスペンスで、舞台が航空機内とういこともあり、ジョディ・フォスターの「フライトプラン」にも酷似しているが、リーアム・ニーソンの近年持ち前の“危うさ”巧く機能しており、観客すらも彼に対して疑心暗鬼になってしまう。  ジュリアン・ムーアを初めとして、脇を固める俳優陣も地味に豪華で、主人公と観客の“疑心”を効果的に深めている。 結末を知った後で、オープニングの群像シーンを観てみると、それぞれにキャラクターにおいて細やかな演出がされていて、それはそれで面白かった。   それにしても、思わず口走ってしまった“一年間乗客無料サービス”の約束は果たされるのだろうか。反故にされた場合は、訴訟を起こす輩が一人くらいはいそうでコワい。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-07-15 23:27:55)
40.  ブロブ/宇宙からの不明物体 《ネタバレ》 
宇宙から飛来したアメーバの怪物が小さな田舎町の住人を片っ端から襲っていく。 この一文の説明で全く不足ない映画だが、“B級モンスター映画”として充分過ぎる存在感を放つ作品だと思う。 モンスター映画は大好きなので、1988年に製作されたこの映画の存在価値が極めて高いものだということは明らか。今の今まで存在すらよく知らなかったことを恥じなければならない。  オープニングクレジットで知らない名前ばかりが並ぶ中、“フランク・ダラボン”が脚本にクレジットされているのを発見し、一躍興味は掻き立てられた。 「ショーシャンクの空に」で一躍名匠の一人に名を連ねるに至ったフランク・ダラボンだが、元々感動映画傾倒の映画人ではなく、実はモンスター映画への嗜好が極めて強い人であることはもはや周知の事実。 そんな彼がキャリアの初期に携わった作品だけあって、実に堂々としたモンスター映画ぶりを繰り広げている。  幾つか特徴的なところを挙げるならば、まずは襲われ方のパターンが多岐に渡っていること。 基本的には、知能はほぼ無いと思われる謎の生物が、本能的に人間を呑み込んでいくということの連続なのだが、状況や場所のバリエーションを変えていくことで“殺され方”を多彩に描いている。 小さな排水溝に強引に引きずり込んだかと思えば、クライマックスでは大怪獣よろしく町の人々をまとめて呑み込んでいく。 モンスター映画のにおいて、人が襲われるシーンというのは“華”と言って過言でないので、それが多彩なこの映画はそれだけでも素晴らしい。  あと、“生き残るだろう登場人物”の予測が序盤において尽く外されていくということも、この映画の特徴だろう。 ヒーロー的な活躍をしていくのだろうと思われたキャラクターが老若男女関係なしに、割とあっさりとヤラレていくので、最終的に誰が生き延びるのかという緊迫感を最後まで持続させてくれる。  そしてラストは、実際に製作されるかされないかなど問題にしていない「続編」への布石。これがあるだけで、モンスター映画ファンとしてはかなり満足度が高くなる。 意外に細やかな伏線の回収ぶりも、目を引くところ。  というわけで、クオリティーが高いなんて映画では勿論ないが、B級モンスター映画ファンとしては外すべきではない映画であることは間違いない。
[インターネット(字幕)] 7点(2013-06-03 22:03:51)
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