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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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281.  ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ 《ネタバレ》 
中盤、主人公のエディと“彼に居候”するヴェノムが殴り合い罵り合いの大喧嘩を繰り広げる。 ヴェノムは部屋を半壊させた挙げ句、エディが大切にしていたテレビとオートバイをこれ見よがしに破壊して、なんとエディの体から出ていってしまう。 寄生生物が宿主の体から怒り任せに“家出”してしまうという“反則技”。 ただ、このシークエンスこそが、今作において実はハイライトであり、今作が前作に対して大きく進化したポイントだった。  前作は、マーベル・コミックの中でも人気の高いスーパーヴィランでありダークヒーローでもあるヴェノムを、ファンも納得のビジュアルとキャラクター性で映し出していたとは思う。 主人公エディとヴェノムの両方を演じたトム・ハーディのキャスティングもナイスだった。  ただし、前作には看過できない大きな欠落要素があった。 それは、エディとヴェノムの間に生じてほしかった“キャッキャ感”だ。 主人公の体に無理やり寄生(居候)し、文字通り一人芝居の丁々発止の掛け合いを繰り広げながら、危機に打ち勝っていく。 このダークヒーローの映画化に当たって最も重要な娯楽要素はその部分であり、前作ではそれが無かったとは言わないが、圧倒的に物足りなかった。  前作は新ヒーローの誕生を描く一作目ということもあり、諸々の設定や説明描写に尺を割かざるを得なかったという限界もあっただろう。 だが、続編である今作は、そういった説明的描写はすっとばして、すっかり“共同生活”にも慣れた二人の息のあった掛け合いを序盤から見せてくれていた。  映像技術を駆使した“二人羽織”のようなキャラクターを体現したトム・ハーディのパフォーマンスは前作に引き続き良かった。トム・ハーディは脚本にも参加しているとのことなので、この作品、このキャラクターへの愛着が、鑑賞者にとっても愛すべきキャラクター像として昇華されていたと思う。  そして、監督を務めたアンディ・サーキス。 モーションアクターとして2000年代から現在に至るまで数々のキャラクターを表現し続けてきたこの特異な俳優は、今作で監督としても見事な手腕を発揮している。 撮影開始時の掛け声からも明らかなように、映画監督の仕事において、最も重要なことは、俳優に“アクション”を付けるということだろう。 そのためには、人間がどういう風に動き、そしてどういう風に見えるのかということを熟知していなければならず、その点において、数々の映画で人間のみならず多種多様な生物を演じ続けてきたアンディ・サーキスが秀でていることは明らかだ。 エディ+ヴェノムという特異なキャラクターが、前作にも増して愛着あふれるキャラクターに進化した背景には、そういう監督の適性も如実に反映されていると思う。   俳優とキャラクター、そしてキャラクターと監督、諸々の要素がフィットし、高められ、求めるべき娯楽性に特化した今作は、問答無用に楽しい映画に仕上がっていると想う。 ストーリー的にも、キャラクター的にもまだまだ深まるであろうシンクロ率が、このシリーズのエンターテイメント力を高めていくことは間違いない。 そして、ついには、次元とメタ的なしがらみを超えたあの“隣人”とのクロスオーバー。そりゃワクワクが止まらんよ。
[映画館(字幕)] 8点(2021-12-20 22:31:08)
282.  エターナルズ
極めて壮大で、美しく、そして同時に「未完成」な映画作品だと思った。 それは決してこの作品そのものの完成度が“低い”ということではなく、この新たなヒーロー映画を通じて表現し伝えようとした「テーマ」そのものが、この現実世界において未成熟であることの表れではないかと思った。 そして、この世界は常にそういう“不完全な美しさ”の中に存在し続けるものなのではないかとも思えた。  実は7000年前から地球人を見守っていたという“守護者たち”が主人公のこの映画は、これまでのアメコミヒーロー映画の系譜の中でも極めて異質で、“フェーズ4”に突入した“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”の大河の中においても「特異点」となり得る作品だと思う。 異なったあらゆる「性質」を持つヒーローたちが戦い、惑い、運命を体現するこの映画のテーマはまさしく「多様性」。 神か、天使か、それとも悪魔か、いずれにしても存在性そのものが神秘的でファンタジックなヒーローたちではあるが、彼らがそれぞれのキャラクター性を通じて表現していたものは、この星に巣食う「人間」の葛藤と苦悩そのものであり、あまりにも普遍的なものだった。  能力、性格、身体的特徴、得手、不得手、様々な要素が異なる彼らは、不完全で、時に脆い。 ただし、だからこそ、“エターナルズ”として「結束」した時に生み出された力は強固で果てしない。 それは、今まさにこの現実世界で声高に求められ、命題となっている我々のテーマ性と合致する。  だが、その現実世界で命題となっている「多様性」そのものが、まだまだ曖昧で、あるべき世界、たどり着くべき価値観が定まっていないから、その表現方法自体が、ある側面において表面的で類型的になってしまっていることも否めない。 「多様性」を謳う映画であるが故に、そこで表現されるテーマに強烈な違和感や希薄さを覚える人も少なくないだろう。  ただ、未熟で不完全であるからこそ、この新しく難しいテーマをマーベルのヒーロー映画の中で表現しようとした試みそのものは、正しくて、意義深い。   そしてその監督に「ノマドランド」で非白人女性として初めてアカデミー監督賞を受賞したクロエ・ジャオを起用し(オファーはアカデミー賞受賞前)、そのクリエイターとしての資質を存分に発揮させてみせたマーベルの先見性と懐の深さには、あいも変わらず感心する。  テーマ性に相応しい多彩なキャスティングも印象的だった。 年齢や人種、国籍を超えた多様なキャスト陣は、それぞれのキャラクター像を見事に表現し、あたかも「家族」のようなチーム感をこの一作のみで構築して見せていた。 個人的に特に印象的だったのは、文字通り神々しくてそれ故に危なっかしいアンジェリーナ・ジョリー演じる最強戦士“セナ”。 アンジーのMCU初参戦そのものが映画ファンとしては熱いが、最強故に精神を乱していく様は、彼女自身が女優としての地位を確立した1999年のアカデミー助演女優賞作「17歳のカルテ」を彷彿とさせ感慨深かった。(更に、マ・ドンソクとの最強カップルは近年随一のペアリングだった!)   はてさて、MCUが広げる“大風呂敷”は、いよいよ際限がなくなってきたようだ。 原作である数多のアメコミ作品のクロスオーバーの範疇を超えて、現実社会、さらにはこの先の未来世界にまでその視野を広げようとしているようにすら感じる。 量産されるドラマシリーズも含めてすべてを追いきれなくなっていることは、MCUファンとして焦るところだが、決して世界観が破綻しないであろうことに対するMCUへの信頼は揺るがない。  “完璧ではないもの”に対する寛容と、その多様性を愛することの価値。 この「未完成」な映画を新たな特異点として、この「宇宙(ユニバース)」は広がり続ける。
[映画館(字幕)] 8点(2021-11-28 23:12:28)
283.  ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ
盛夏が過ぎて一気に秋めいてきた夜半、“ヒッチコックライク”なサスペンススリラーに興じる。 例によってコロナ禍の影響で劇場公開中止を余儀なくされた結果、Netflix配信となった今作は、中々掘り出し物的な良作だった。少なくとも秋の夜長のひとときを充分に満たしてくれる作品だったと思う。  前述の通り、サスペンス映画の帝王アルフレッド・ヒッチコックの幾つかの名作(「裏窓」「めまい」「サイコ」...etc)を統合して、現代版にリメイクしたような映画だった。 舞台となるマンハッタンのしなびた高級住宅街の雰囲気も相まって、現代の設定ではありつつも、時に「怪奇映画」や「恐怖映画」と敢えて呼称したくなるようなクラシカルかつアバンギャルドな映画世界が個人的には好みで、秀逸だったと思う。  極めて古典的で懐古的な映画手法やストーリーテリングを全面的に押し出しつつも、随所に斬新で挑発的なカットも挟み込んでおり、そういう映画づくりにおける意欲的な部分も含めて“ヒッチコックライク”だと言えよう。  主演のエイミー・アダムスは大好きな女優の一人だが、明らかに虚ろな瞳や、見るからに不健康でくたびれた体つきも含めて、“病める女性”を内外含めた全方向的に体現して見せており、実力派女優としてのレベルの高さを遺憾なく発揮している。 少ない登場シーンながら、物語のキーとなる女性を演じたジュリアン・ムーアの存在感も言わずもがな抜群だった。 (“別人”として登場する女優の絶妙な不気味さも最高だった) 「女優」という要素が、映画を彩る娯楽の中心にあることもまたヒッチコック映画を彷彿とさせる点だろう。  今作では、作為的に、映し出されるシーンの「時間帯」が即座に判別できないように演出されている。 物語全体が一週間の出来事として曜日のテロップは都度入るものの、主人公が薬と酒の影響で終始微睡んでいるような状態も重なって、「今」が一体いつなのかわけが分からなくなる。 その不安定さと曖昧さにより、主人公の精神状態同様に観客の意識もグラグラと揺らぎ、まさしく本来の意味通りの“サスペンス”を生み出していたと思える。  おそらく、気づいていない描写においても、様々な“仕掛け”が散りばめられているのであろう。 巧みなミスリードや数多くの伏線回収も含めて、良い意味で“混濁”した見応えのあるサスペンス・スリラーだった。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-09-26 22:39:12)(良:1票)
284.  ノマドランド
近年、インターネット環境の普及、発達に伴い、「時間と場所にとらわれず働く」というスタイルを表す言葉として「ノマドワーカー」というフレーズが市民権を得ている。 ただ、今作「ノマドランド」が表す「ノマド」とは、そんな昨今の先進的なワークスタイルを華やかに描くものでは当然ない。 この映画は、現代のアメリカ社会の“ひずみ”の中で、行き場を失い、それでも存在し、必死に生き抜こうとしている人々の生々しい様を、圧倒的なリアリティと説得力で描きつけた力作だった。  自らの人生に打ちのめされ、世知辛い社会から追いやられた人たち(=ノマド)、その多くは高齢者だ。 住処も、財産も、健康も、機会も、急速に先細り喪失していく中で、彼らは期間労働者として、アメリカ各地を転々とする生活を送り続ける。 その生活の様は、「ノマド」の本来の意味である「遊牧民」や「放浪者」という印象がやはり強く、人生の黄昏に、流浪の生活を送らざるを得ない高齢者たちの姿は、率直に身につまされる。  ただし、今作は、そんな現代社会の中で、或る意味“蚊帳の外”に追いやれている彼らに対して、ただ単純に同情を誘ったり、社会システムの是非について安直に問うような作品ではなかった。  本質的な意味合いの“ノマドワーカー”として流浪する高齢者たちの姿は、無論悲壮感に溢れ、とてもじゃないが安閑として見てはいられない。いつ何時吹き消されてしまうかもわからないようなか細い蠟燭の火を、消えないように消えないように必死に灯し続けているように見える。 でも、その生活、その生き方自体は、それぞれ苦慮の果てではあろうが、彼らが選び取った「道程」であることを、理解し、直視すべきであろう。  フランシス・マクドーマンド演じる主人公も、最愛の夫に先立たれた挙句、企業城下町として栄えた居住地が企業の倒産により街ごと消失してしまったという憂き目にあったとはいえ、人生の岐路において他の“選択肢”があったことは明確に描かれている。 ふと遭遇したかつての隣人は敬意と共に手助けを進言してくれていたし、“普通”の結婚生活をしている姉も心から妹のことを心配しているし、道中で知り合った同じノマドの老紳士は彼女のことを好いてくれていた。 主人公は、教養もあり、人徳もある魅力的な人間であり、彼女が、流浪の生活から抜け出すための“きっかけ”は、全編通して散りばめられていたと言っていい。  それでも、彼女がノマドの生活を脱却することは、ついに最後の最後まで明確には描かれなかった。 それは、彼女が人生の黄昏に自らの手からこぼれ落ちてしまったものが、決して物質的なものではなく、精神的な拠り所だったことに他ならない。 そしてそれは、この映画に登場するリアルなノマドの高齢者たちの表情や人生模様からも如実に伝わってくる。  “ノマドランド”に集積し、充満し、やがて儚く霧散していく彼らの存在は、この世界全体が慢性的に孕む「喪失感」そのものだったのだと思った。     僕自身、人生40年、まだまだ若いつもりだけれど、この先の“生き方”というものを最近よく考える。それは10代、20代の頃の青臭いものとは明確に異なっているように思う。  その先にあるものが「死」であることは間違いない。 それでは、僕はこの先、死ぬために生きるのか、生きるから死ぬのか。 40代を経て、50代、60代、さらにその先の道程で、その感覚はより現実的な人生観と共に変わり続けるのだろう。  その感覚の変化そのものが、まさに「流浪」であり、すなわち「人生」なのかもしれないな。と、今は思う。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-09-11 09:28:27)(良:1票)
285.  おとなの恋は、まわり道
高校生の頃、自室に初めてハリウッド女優のポスターを飾った。それがウィノナ・ライダーだった。 あれから20年余りの年月を経て、画面に映る主演女優は、流石に老けてはいたけれど、その分自分自身も老けているわけで、感慨深さを覚えると同時に、久しぶりの主演映画で振り切ったキャラクターを演じる彼女は魅力的だったと思う。  「おとなの恋は、まわり道」なんてユルい日本語タイトルがつけられているけれど、このラブコメが描き出すストーリーと人物描写は、決してユルくもヌルくもなく、極めて痛々しく、辛辣だ。 そしてだからこそこの上なく、可笑しい。  おそらく、映画史上、最も無様であけすけで何のロマンティックも感じさせないSEX。 その様を大笑いで見届けながら、「人間」の動物としての本質的な滑稽さと、イロイロあって「恋」というよりも人間関係そのものに対して面倒になり、臆病になる“おとなたち”の愚かさと愛らしさを等しく感じた。  その痛々しい主人公二人を、30年に渡ってハリウッドきっての美貌を保持しつつも、皆から“変わり者”のレッテルを貼られてきた二人のスター俳優が演じることの醍醐味。そのキャスティングセンスが何よりも見事だったと思える。  キアヌ・リーブスに至っては、風貌的には近年の大ヒット作「ジョン・ウィック」そのままなので、かの映画の劇中でも確実に“変人”の部類であるジョン・ウィックのプライベートを見ているような錯覚にも陥る。 植物に二酸化炭素を吐きかけて「光合成して〜」と語りかけ続けるウィノナ・ライダーの様も、なんだかんだあって精神的に追い込まれた彼女のリアルな私生活を見ているようで、苦笑いが止まらない。  そういう具合に、主演俳優それぞれのメタ的な要因も絡み合いながら、シンプルだからこそ人間模様の芳醇さを感じることができるラブコメに仕上がっていたと思う。  30年に渡ってハリウッド映画を観てきた一映画ファンとして、この映画と、“まわり道”しつつも第一線で輝き続ける主演俳優たちを愛さずにはいられない。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-05-03 23:32:00)
286.  マ・レイニーのブラックボトム 《ネタバレ》 
二人の黒人の若者が、闇夜を逃げ惑うように疾走するオープニング。 そのシーンが彷彿とさせるのは、言わずもがな、逃亡奴隷の悲壮感。 しかし、そんな観客の思惑を裏切るかのように、彼らがたどり着いたのは、ブルースの女王のライブだった。 多幸感に包まれながら、多くの黒人たちが、彼女の歌に魅了されている。 ブルースの起源は、奴隷時代に自由を奪われた黒人たちが労働中に歌っていた音楽らしい。 時代は1920年代。そこには、「人種差別」などという表現ではまだ生ぬるい、「奴隷制度」の名残がくっきりと残っていた。  人類史上に、闇よりも深い黒で塗りつぶされた怒りと、悲しみと、憎しみ。 登場人物たちの心の中に色濃く残るその「黒色」が、全編通して、ブルースのリズムに乗るような台詞回しの中で表現されていく。 その「表現」は、まさに黒人奴隷たちの悲痛の中から生まれた音楽のルーツそのものだった。  テーマが明確な一方で、この映画が織りなす語り口はとても特徴的だった。 前述の通り、時にまるでブルースの一節のように、熱く、強く、発される台詞回しも含め、人物たちの感情表現が音楽の抑揚のように激しく揺れ動く。 あるシークエンスを経て、登場人物たちの感情が一旦収まったかと思えば、次のシーンでは再び抑えきれない激情がほとばしる。 そしてその激しい感情の揺れの様が、ほぼ小さな録音スタジオ内だけで展開される。  今作は、舞台作品の映画化ということで、監督を務めたのも演劇界の巨匠であることが、このような映画作品としては特徴的で、直情的な表現に至ったのだろう。 特徴的ではあったが、その演出方法こそが、“彼ら”の抑えきれない怒りと悲しみを如実に表現していたと思う。  主人公となるのは、“ブルースの母”と称される伝説的歌手と野心溢れる若手トランペッター。 二人の思惑とスタンスは一見正反対で、終始対立しているように見える。ただし、彼らが白人とその社会に対して抱いている感情は共通しており、その中で闘い生き抜いていこうとするアプローチの仕方が異なっているに過ぎない。 そこから見えてくるのは、白人に対して根源的な怒りと憎しみを抱えつつも、それを直接的にぶつけることすらできない彼らの精神の奥底に刷り込まれた抑圧の様だ。  行き場を見いだせない怒りと憎しみの矛先は、本来結束すべき“仲間”に向けられ、物語は取り返しのつかない悲劇へと帰着する。  ようやく開いた開かずの扉の先にあったもの。将来に向けた希望の象徴として購入した新しい靴。 若きトランペッターが抱き、必死につかもうとした“光”は、無残に、あっけなく潰える。  そして、もっとも愚かしいことは、この映画で描きつけられている描写の一つ一つが、決して遠い昔の時代性によるものではないということだ。 交通事故処理に伴う警官とのトラブルも、白人プロデューサーによって奪われる機会損失も、収入格差と貧困も、彼らに向けられる“視線”すらも、今現在も明確に存在する「差別」の実態そのものだ。  アメリカの黒人奴隷制度が生み出した250年に渡る「闇」。時を経てもなお、憎しみの螺旋は連なり、悲劇と虚しさを生み出し続けている。 この映画が本当に描き出したかったものは、100年前の悲劇ではなく、今この瞬間の「現実」だった。   最後に、今作が遺作となってしまったチャドウィック・ボーズマンの功績を讃えたい。 この物語が表現する怒りとそれに伴う虚しさを、その身一つで体現した演技は圧倒的だった。 がん治療の闘病の間で見せたその表現は、文字通り「命」を燃やすかのような熱量が満ち溢れていた。 この世界が、若く偉大な俳優を失ってしまったことを改めて思い知った。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-16 23:43:41)(良:1票)
287.  ポーラー 狙われた暗殺者
まずは、マッツ・ミケルセンの“佇まい”一発で、ノックアウトは必至だ。 これまでも出演作を幾つか観てきたつもりだったが、どうやら私は、彼の本当の魅力を理解していなかったらしい。 「北欧の至宝」と称されるその俳優としての存在感は、通り一遍な男前感やダンディズムでは収まりきらない「異質」なものを感じた。 それはもはや変質的と言っても過言ではなく、その特異な雰囲気が、今作の引退間際の最強暗殺者“ブラックカイザー”役と奇跡的なマッチングを見せていたと思う。   会社組織化された暗殺者集団という馬鹿みたいな設定(好き)や、引退予定の伝説的暗殺者に集団で襲いかかるという展開に対しては、言わずもがなキアヌ・リーブスの「ジョン・ウィック」が頭に浮かぶ。 主人公のキャラクター性や、対峙する暗殺者集団のエキセントリックさ、諸々の小ネタに至るまで、「ジョン・ウィック」との類似点は多く、下手を打てば「二番煎じ」と揶揄されることは避けられなかっただろう。   しかし、確かに「ジョン・ウィック」をはじめとするこの手のジャンル映画と似通っている作品ではあるけれど、同時に圧倒的な独創性も揺るがない娯楽映画だったと断言したい。   主演俳優の稀有な特異性に牽引されるかのように、映画そのものが少々、いや随分と常軌を逸している。 バイオレンスアクションとハードボイルド、そしてブラックユーモア、それらがミックスされた破綻気味なアンバランス感が、オリジナリティを創出している。   そして、やはり何と言っても主人公“ブラックカイザー”ことダンカン・ヴィスラのキャラクター性が抜群だった。 圧倒的に強く、全身からほとばしる男の色香は、言うまでもなく魅力的。 その一方で、ただ渋くて格好良いだけではなく、悪夢にうなされ飼い始めたばかりの愛犬を撃ち殺してしまったり、渋ってた割には小学生相手にドヤ顔で世界を股にかけた暗殺講座を繰り広げちゃったり、とっくにハニートラップであることは気付いているにも関わらずギリギリの瞬間までヤルことはヤッちゃったり……。 “ジョン・ウィック”もどこか頭のネジが抜け落ちている男だが、それ以上にこの人も何本もネジがぶっ飛んでしまっていることは明らかだ。   ストーリーの収束の仕方も的確であり、忘れがたきエンターテイメントを堪能した充足感と、まだまだこのイカれた殺し屋の暗躍を観たいぞ!という期待感に包まれる。 ここまで似通ったキャラクター性と世界観であれば、「ジョン・ウィックVSダンカン・ヴィスラ」という夢の競演を妄想してしまうな。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-04 17:16:01)(良:1票)
288.  アップグレード 《ネタバレ》 
得体の知れない「悪意」によって、愛する妻と自身の体の自由を失った不遇な男が、“機械”を体に埋め込み、文字通りの“殺人マシーン”と化して復讐に挑む。 翌日への憂鬱を抱えた休日の夜に観るには相応しい、B級SFの娯楽性を存分に堪能できる映画だった。日曜洋画劇場と淀川長治氏が健在な時代であれば、きっと何度も放送されたであろう。  サイボーク化の悲哀、AIの人格化と暴走、隠された陰謀……、この映画の娯楽を彩るテーマは、過去の幾つもの作品でもはや使い古されたものかもしれないが、描き方、映し出し方がとても丁寧でフレッシュなので、終始飽くことがなかった。 「機械」という悪魔に見初められてしまった男の過酷で壮絶な運命が、「寄生獣」や「ヴェノム」を彷彿とさせるある種の“バディ感”と共に展開していくストーリーが、とてもユニークだったとも思う。  決して、全てが目新しい映画ではないけれど、オリジナル作品として、監督と脚本を務めたリー・ワネルという監督の手腕と創造性は中々のものだ。先日観た現代版「透明人間」でも監督・脚本を務めたこの映画人には今後も期待したいと思う。  映画は、この手のダークSFに相応しい辛辣なエンディングを迎える。 それがただ後味の悪い悲劇に見えるのではなく、現代の社会に対する警鐘として妖しき光の中に浮かび上がってくることが、この映画が“質の高いB級SF映画”であることの証明だろう。  この世界に喜びを見いだせず、苦しみに耐えかねる人類は、そのうち皆、仮想現実に押し込められてしまうのではないか。 そう考えると、この映画が「マトリックス」の前日譚のようにも見えてくる。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-02-23 23:29:16)
289.  ナポレオン・ダイナマイト
推しの“アイドル”が、自身がボーカル&ベースを務めるバンド名に「PEDRO」と名付けた理由が、今作に登場する主人公の唯一の友人の名からとったと知り、鑑賞。 ああ、なるほど、彼女がその名を付けた意味がよくわかった気がする。  さえない容姿、さえない友人、さえない家族、さえない生活、人生は往々にして“クソったれ”だけれど、それでも人生は、何かささやかなきっかけで、いくらでも光り輝く。 その輝き方は人それぞれで、他人の“眩しさ”と比べてみたって意味はない。  決して劇的な存在でなくとも、自分にとってはかけがえのないモノは必ず存在する。 それは、気になる同級生かもしれないし、転入してきた友人かもしれないし、下手くそなマンガかもしれないし、荒削りな音楽かもしれない。  そう、人生に必要なのは、ささやかだけれど何にも代え難い心の“拠り所”なのだ。  この青春コメディ映画は、国籍や年齢、性別にとらわれない普遍的な人間の馬鹿馬鹿しさと、それに伴う愛らしさをオフビートなユーモアの連続の中で、ワリとストレートに伝えてくる。  スクールカーストの底辺で、日々フラストレーションを溜めつつも、自分の“在り方”をブラさない主人公は、決して格好良くはないけれど、不思議な魅力を備えていた。 そして、前述の友人“ペドロ”をはじめ、主人公の周囲を取り巻くキャラクターたちも皆独特でクセが強い。 彼らが織りなすおかしな人間模様は、アメリカの片田舎の開放感と閉塞感が入り混じったような何とも言えない空気感も手伝って、どこか哀愁めいたものも感じる特異な喜劇を構築していた。  久しぶりにこの手のアメリカンコメディを観て、何だかフレッシュな気持ちにもなり、満足度は高い。 明らかにお金がかかっていないチープな映画だけれど、ランチの皿で表現したオープニングクレジットの愛らしさからも伝わってくるように、愛着を持たずにはいられない作品だった。  「VOTE FOR PEDRO」のTシャツ欲しい。アレを着て、「PEDRO」のLIVEに行きたい。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-02-23 00:12:33)
290.  透明人間(2020)
深夜、自室で今作を鑑賞後リビングに入ると、薄暗いいつもの室内が何だかとても恐ろしく感じた。 ぽっかりと空いた何もない空間に“何かがいる”かもしれないという感覚。それはまさしく、この恐怖映画が描き出した「恐怖心」そのものだ。 全編通して、主人公のみならず、観客にもそういう“怯え”を生み出したこの映画のアプローチは、“透明人間”という怪奇映画の伝統を引き継ぎつつ、圧倒的にフレッシュだった。  この新機軸の透明人間映画が、これまでの透明人間映画と異なる最たる点、それは「視点」だろう。 伝統的な透明人間映画が、透明人間となってしまった人物自身の恐れや悲哀、または透明人間としてのモンスター性を描き出してきたことに対して、今作は透明人間に襲われ、「凝視」し続けられる女性を主人公に配し、徹底的に彼女の「視点」でストーリーが展開される。  「何かに見られている」という不安やおぞましさをシンプルかつ洗練された映像表現で徹底的に描きつけ、“何もない空間”に恐怖を生み出した映画的手法が見事だったと思う。 主人公の背後に浮かび上がる“吐息”や、バスルームの“手形”など、ヒタヒタという物音すら全く立てずに主人公に歩み寄る恐怖演出も巧みだった。 主人公の女性の愛称が“シー(see)”であることも、シチュエーションスリラー「ソウ」を生み出した作り手らしいこの映画のテーマ性に対する隠喩であろう。   ただし、この映画が描き出す「恐怖」の真髄は、そういう映像的に表現されている要素のみには留まらない。  夫から支配的なハラスメントを受け続けていた主人公は、その夫婦生活から逃げ出した後も彼の精神的支配から脱却することができずに、苦しみ続ける。 夫の死を知らされても、一人それを信じることができず、見られ続けていることに恐怖し、究極的に追い詰められる。 結果的に方法としての“透明人間”は存在し、夫は死を偽装してまでも妻である主人公を支配し続けようとする……。  が、果たして本当にそうだったのだろうか? “透明人間”による凶行は現実だったけれど、それが本当に夫による策略であったかどうかは最終的に明確にならない。 凶行はすべて夫の兄によるものだったかもしれないし、夫にまつわる恐怖心のすべては心を病んだ主人公の誇大妄想だったかもしれないという可能性が、最後の最後まで拭い去れない。  そういったまた別の「視点」を生む演出も見事だし、主人公を演じたエリザベス・モスの演技と、狂気性を孕んだ表情も素晴らしかったと思う。   人間同士の関係性、もっと言い切ってしまえば「夫婦」という関係性から生じた綻びが導き出してしまった憎しみと怖れ。 この恐怖映画が最終的に紡ぎ出したものは、その普遍的な人間関係が内包する“危うさ”だったのではないか。  そういうふうに、この映画の結末を捉えると、同じく“恐怖夫婦映画”の傑作である「ゴーン・ガール」的なゾクゾクとしたおぞましさに包まれ、思わずこう呟きたくなった。 「こ、怖えぇ」と。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-02-21 00:07:08)(良:2票)
291.  ミッドナイト・スカイ
世界の終末。放射能汚染によって住むことができなくなった地球を残して、人類は宇宙へと逃げ出す。 だが、人類が生き残るための道筋を誰よりも早く見出していた科学者は、一人北極の観測所に居残る。 彼が自らの命をとしてその選択をした理由が、淡々と、そして情感的に描き出される。  「メッセージ」や「インターステラー」など、壮大なSFの上で綴られる普遍的な人間ドラマが大好物な者としては、とても好ましく興味深い映画だった。 人類が滅亡の危機に瀕している具体的な理由などの細かい状況説明を意図的に廃して、ジョージ・クルーニー演じる主人公の残された時間と、それと並行して展開する帰還船の描写に焦点を絞って映し出されることで、より一層登場人物たちの「孤独」と「絶望」が浮き彫りになっていくようだった。  そう、この映画が表現しようとすることは、まさにそういった人間の孤独感と絶望感、そして悔恨だった。  恐らくは核戦争によって地球を捨てざるを得なくなってしまった人間全体の愚かさ。 宇宙への望みを追い求めるあまり、結果的に愛すべき人を捨てることになってしまった一人の男の哀しさ。 人間という生物全体の後悔と、その中の一個体の後悔が入り交じり、この映画全体を覆っている。 それは、決して遠くない未来の現実の有様のようにも見え、鑑賞中とても安閑とはしていられなかった。  地球全体を覆い尽くすような99%の絶望。そんな中で、ただ一つの“光”が描き出される。  ただ一人残ったはずの主人公の前に突如現れた“少女”は、彼にとって、悔恨と希望そのものであり、同時に、人類が存続するために与えられた最後の奇跡だったのだと思う。     ジョージ・クルーニー自身が監督も担った作品だけあって、登場人物の感情を主軸にした極めて内面的な映画に仕上がっている。 前述の通り、ストーリーテリングの上で論理的な説明が無い分、話自体のシンプルさのわりに分かりにくい映画になっていることは否めない。 難解という程ではないけれど、これほど主人公の内情に焦点を当てるのであれば、ジョージ・クルーニーは俳優業に専念すべきだったのではないかとは思う。 彼の豊富な監督実績を否定はしないし、今作においてもそつない仕事ぶりを見せてくれてはいるが、監督か俳優どちらかに専念したほうが、もっと深い映画表現にたどり着いたのではないかと思えた。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-01-02 00:26:34)(良:1票)
292.  ザ・フォーリナー 復讐者
終始無表情のまま、あまりにも大きな悲しみと怒りを膨らませ爆発させるジャッキー・チェンが、哀しく、怖い。 “なめてた相手が殺人マシーン”モノのエンターテイメント性と、スパイ映画のスリリングさと、ジャッキー・チェン映画のアクション性が見事に融合した映画世界はとてもエキサイティングだった。  アジアを代表する国際的アクションスターも60代後半に差し掛かり、流石にその風貌は老け込んでいる。 特に今作では、役柄的にも“隠居”状態で唯一の家族である愛娘と残された幸せを噛み締めつつ生きている初老の主人公という設定。 ジャッキー・チェンらしい、“やりすぎ”と“下手”の間をゆく役作りもあり、足元もおぼつかない様子を序盤からくどいほどに見せる。  そんな主人公が理不尽極まる娘の死を目の当たりにして、己の中の眠れる狂気を目覚めさせていく様には、荒唐無稽はあるけれど、それ故の独特の不気味さもあり目を見張るものがあった。 主人公の男が“ジャッキー・チェン”であることを十分に理解しつつも、こんなしょぼくれた爺さんがどうやって復讐を果たすのかと思わせてくれ、観客の興味の持続が非常に巧みだったと思う。 このあたりは、「007」シリーズでも手腕を発揮してきたマーティン・キャンベル監督のなせる業だろう。  そして、眠れる“ドラゴン”が短期間でその能力を呼び起こさせるくだりにおいては、律義にも“トレーニングシーン”を挟み込んでおり、その演出においてはジャッキー・チェン自身の変わらない愚直さが溢れ出ているように思った。 その短い「特訓」のシークエンスは、思わず笑ってしまったけれど、主人公を演じているのがジャッキー・チェンだからこそ、妙な納得感を持たせてくれ、その後の格闘シーンを違和感なく観ることができたと思う。  また、今作とは全く関係ない娯楽映画史の文脈を辿ると、“元・香港国際警察(ジャッキー・チェン)” VS “元・英国秘密情報部(ピアース・ブロスナン)”というスーパースター同士の構図も見えてきて、映画ファンとしては殊更に高揚感が高まった。  主人公は、驚異的な身体能力と破壊工作技術で、テロリストチームを追い詰めていく。 ただし、初老の元特殊部隊エージェントという主人公の設定がこなすアクションとしては、ちゃんとく抑制が効いており、彼が対決し撃滅する相手側のレベルとしても、決して非現実的ではなかった。 ラストの顛末においても、ポリティカルサスペンス的なシビアなスリリングさが加味されていて、映画全体の精度は極めて高いと思えた。  ジャッキー・チェンにおいては、「アクション映画引退」という報をこの十数年の間で何度も聞いた気がするが、まあこの映画で見せる程度のアクションは彼にとってはその部類に含まれないということだろう。 それならば、稀代のアクションスターの“非・アクション映画”における新境地には今後も期待できる。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-11-08 00:02:58)
293.  ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密
“ミステリ”好きには堪らなく楽しい映画だった。 現代に蘇った“アガサ・クリスティー”的なストーリーテリングを、オールスターキャストで織りなす映画世界は決して華美ではないが芳醇で、多様な娯楽性が満ち溢れていた。 “007”のダニエル・クレイグと、“キャプテン・アメリカ”のクリス・エヴァンスが、それぞれ代名詞である人気キャラクターとは全くイメージを違えた登場人物を好演しており、殊更に映画ファンとしての充足感は高まった。  ミステリーというジャンルは、古今東西問わず映画史においても、文学史においても、描きつくされていて、新たな傑作を生み出すことが最も難しいジャンルではないかと思う。  今作にしても、ミステリーのネタ自体が抜群に新しいということはなく、ストーリーの形式そのものは、前述の通り“アガサ・クリスティー”が描いた推理小説の基本構成をベースにしていることは間違いない。  ただ、その“オールドスタイル”を丁寧に磨き上げ、きちんとオリジナル要素を盛り込み、現代的なアレンジで仕上げているからこそ、この映画はちゃんと面白いのだと思う。  気鋭の映画監督であるライアン・ジョンソンが、本人によるオリジナル脚本で今作を描き出した意義もとても大きい。 シリーズものやリメイクが横行するハリウッドの映画産業において、オリジナリティをもった脚本を書いて映画化することができるこの監督の存在感は、今後益々大きくなるのではないかと期待している。(「最後のジェダイ」も僕は大好きだ!)  キャスト陣においては、やはり前述の通りダニエル・クレイグとクリス・エヴァンスの両スター俳優が、長年演じ続けてきた代名詞的なキャラクターのイメージを脱ぎ捨てて、新境地を開拓していることが興味深く、フレッシュだった。 特に主人公の名探偵を演じたダニエル・クレイグは、彼にとっての「007」最終作の公開を前にして、また新たな人気キャラクターを獲得したのではないかと思える。  秋の夜長、上質な推理小説を読み終えた時のような充足感に包まれる。 こういう王道ミステリーは最近少なくなっていたので、ぜひともシリーズ化してほしい。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-10-25 00:07:59)
294.  ザ・ファイブ・ブラッズ
世界は相も変わらず混迷している。 黒人男性銃撃による世界的波紋と怒り、トランプ政権への信を問われ二分するアメリカ、そして、チャドウィック・ボーズマンの突然すぎる訃報。  一体“何”に向けてこの鬱積を晴らしたらいいものか分らぬまま、この映画を観た。 スパイク・リー監督の映画なので、良い意味でも悪い意味でも“一つの方向”に偏り、振り切った作品ではある。 が、同時に、今このタイミングで観なければどうしようもない映画であることも間違いない。 社会に対する怒り、歴史に対する怒り、世界に対する怒り。夥しい悲しみの累積の上に渦巻く黒人もとい“すべての人間”の怒りがぶちまけられている。  ベトナム帰還兵の老人4人が、数十年ぶりに再度ベトナムに集い、かつての戦場に残された埋蔵金と戦死した隊長の亡骸を探す冒険に挑むというくだりは、娯楽性に溢れており、楽しい。 しかし、かつての戦場を辿るアドベンチャーは、徐々に確実に彼らの心の奥底に巣食うトラウマと、今なお生々しく残る現地の災禍を呼び起こしていく。  黒人兵たちは、ベトナムの過酷な戦場で、自分たちが白人に良いように使われ、都合よく使い捨てられている現実に気付き、憤る。 だがしかし、数十年ぶりの“行軍”によって目の当たりにしたものは、自分たち自身の「罪」と「罰」だった。 戦時を振り返る回想シーンにおいて、4人の老人が画像加工なくそのままの風貌で描き出されている意図は、彼らが「罪」を抱えたまま老いてしまったことの象徴なのだろう。  黒人の人種、社会に対する差別、迫害は、アメリカのみならず、人類史の汚点であり、人類全体が恥ずべき闇であることは間違いない。 ただし、だ。 だからといって、黒人が常に歴史における“被害者”であったかというと、無論そんなことはない。 肌の色に関わらず、すべての人種、すべての人間は、“被害者”であり、“加害者”でもある。それが、歴史の紛れもない事実であろう。  虚無的にすら感じるその憎しみの連鎖と、終着点がない怒りの螺旋こそが、人類の本当の闇なのだと思う。  想像以上に過酷な行軍の果て、年老いた黒人帰還兵たちが掴み取ったものは、黄金でも、亡き隊長の尊厳でもなく、戦地に置き忘れてきた「罪」そのものだったのかもしれない。   2020年8月28日。誇り高き“ワカンダ国王”の訃報が、多大な悲しみと共に世界中を駆け巡った。 享年43歳、スター俳優のあまりにも早過ぎる死をいまだ受け入れることができない。 聞けば、2016年から闘病を続けていたというから、本作はもちろん、“ブラックパンサー”として登場したすべてのMCU作品も大病の只中で演じ切っていたということだ。  悲しみは尽きないけれど、今はただ、戦い切った偉大な戦士の安らかな眠りを祈りたい。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-09-02 23:45:19)
295.  ザ・ランドロマット -パナマ文書流出-
「パナマ文書」とは結局のところ何なのか?  その知見を得ることを目的としてこの映画を観たならば、もしかすると逆効果かもしれない。 なぜならば、ストーリー展開に伴いその「真相」が詳らかになるほどに、関連する人物や物事はぐちゃぐちゃに入り組んで、わけが分からなくなることが必至だからだ。 それくらいに、この「パナマ文書」と称される機密文書に絡む一連の租税回避行為は、悪意に溢れた巧妙な責任転嫁の上に成り立っていて、その実態が見えてくればくるほど、怒りを超えた虚無感を覚える。  世界を股にかけたペーパーカンパニーを用いたマネーロンダリング。 その“合法行為”がもたらした「悲劇」と「裏切り」に対する怒りと虚無感が、稀有な映画手法で見事に描きつけられている。 呆れて失笑してしまうくらいに煩雑な相関関係も、それ故に入り乱れるストーリー展開も、本作の狙い通りであり、そこには明確な「意思」があった。  ラストカットでは、主演のメリル・ストリープが、劇中で演じたキャラクターを“二段階”で越え、更には“第四の壁”までも越えて、大女優メリル・ストリープとして断固たるメッセージを発する。 彼女は、観客である我々に向けて「まずは疑問を紐解くこと」の重要性を諭す。そして、自由のシンボルを模した姿と強い眼差しで、今この瞬間にも蔓延る“危機”を訴える。     事件当事者である実在の人物と狂言回し、そしてメッセンジャーとしての女優本人が、次々と立ち代わり入り乱れるストーリー展開は、前述の通り非常に分かりづらい。 ただし、だからこそ生じる愚かさや可笑しみも含めて、この映画のつくり手達の目論見通りであろう。 この世界の“真相”に対しては、大女優と同様に怒りに打ち震えるが、その感情も含めて面白味に溢れた作品だった。  それにしても、こんなにも時事的であると同時に実験的な映画を、こんなにも豪華なキャストで作り上げた監督は誰だ? と、思いきや、なんだスティーブン・ソダーバーグか。只々納得。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-04-07 22:53:06)
296.  1917 命をかけた伝令 《ネタバレ》 
まさしく、「臨場感」の境地。  戦場の瞬間を途切らすことなくつぶさに映し出した映画世界にあらわれたものは、虚無と望郷、そして幻想が入り交じった一人の兵士の“混濁”だった。  実寸規模の何kmにも及ぶ巨大セット(というか“戦場”そのもの)を作り出し、“ワンカット風”の演出で描き出した映像世界は流石に凄い。 “戦場の臨場感”という観点から言えば、クリストファー・ノーラン監督の「ダンケルク」も記憶に新しいところ。 あの作品も「本物」の撮影にこだわり抜いた意欲作であり、傑作だったと思うけれど、本作も、サム・メンデス監督が全く異なるベクトルの“主観”によって映し出した戦争映画の新たな傑作だと言えるだろう。  「臨場感」という表現を用いたが、この映画におけるその言葉の意味は、映像的な“没入感”のみを指すものではない。  「全編ワンカット映像」という触れ込みがイントロダクションとして大々的に伝えられていたので、映像的に「見せる」映画なのだろうというイメージが先行していた。 勿論、前述の通り超巨大セットによる映像的な迫力と説得力の高さは言わずもがなだが、この映画の醍醐味は、視覚的な体感を超えて、画面に映り続ける「兵士」の心理状態や精神状態をも体感できるということだろう。  この映画は、休憩中に微睡んでいる或る兵士がふいに上官に起こされるカットから始まる。 わけも分からず司令官に呼び出された兵士は、或る重大な指令を受け、すぐさま最前線に直行し、突如として明確な「死」に直面する。  その間、時間にしてわずか数十分。  “微睡み”から“死”まで、リアルタイムに映し出されたこの数十分に、一兵士の心理と戦場の無慈悲が表れている。  サム・メンデス監督がこの映画で示したかったことは、戦場のリアルを単に映像的に「見せる」ということではなく、そこに渦巻く兵士たちの無数の感情を含めて「魅せる」ことだったのだと思う。  それを表すように、“ワンカット風”、“リアルタイム風”に映し出される映像世界は、終盤に差し掛かるにつれ、幻想的に、非現実的に表現される。  敵兵の銃弾を受けブラックアウトした主人公の兵士が目覚めた時、彼が目にしたものは、戦火に照らされた幻想的な廃墟の街並みだった。  厳かで、神々しいまでに美しく照らされたあの光景は、果たして「現実」だったのか? もしかしたら、彼は敵と相討ち、その場で絶命してしまったのかもしれない。  あの光景の先で描かれる、母子(疑似)との慈愛に満ちた邂逅も、絶体絶命のアクロバティックな逃走も、砲弾をかいくぐる奇跡的な疾走も、すべては死後の幻想であり、我々は彼の深層心理を垣間見ていたのではないか。と、そんな思いに駆られる。     某映画評論でも触れられていたが、この映画で描き出されたような「伝令」が実際に実行され、無意味な突撃が阻止されたなんてことは無かったに等しいだろう。現実の戦場では、無意味な作戦と、無駄死にが延々と繰り返されていたに違いない。  本作では、ベネディクト・カンバーバッチ演じる最前線の指揮官が、「伝令」を素直に受け入れるけれど、劇中マーク・ストロング演じる将校が示唆していたように、実際は軍人の「意地」で愚かな突撃を強行した指揮官が殆どだったのだろうとも思う。  そういう「現実」や、垣間見える兵士の「幻想」を思うと、この映画には表面的な感動の裏に、極めて混濁した真理が潜んでいるように感じるのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2020-02-15 19:29:43)(良:2票)
297.  スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け 《ネタバレ》 
「キスもせずに死ねるか」by カイロ・レン(心の声※フォース)  “厨二病+童貞こじらせ系シス男子”の愛すべき悪役を、主人公の対となる存在として貫き、描ききったことが、この新しいSWサーガの最大の価値だったかもしれない。 決して揶揄したいわけではなく、そういう新しいキャラクター性と新しい価値観を、SWという伝説化した世界観の中で果敢に示し、新しい「時代」の物語として紡いだこと(もしくは紡ごうとしたこと)を、僕は心から称賛したい。  「エピソード7」からこの「9」までの三部作は、主人公レイと、彼女と対峙し続けるカイロ・レンの両者が、あたかも思春期の男女のようにひたすらに「自分さがし」を繰り広げる物語だった。 物語の構成上、彼らは「正義」と「悪」という立ち位置を与えられてはいるけれど、隠された“生い立ち”や“資質”も含め、二つの運命は入り交じり、まさしく「対」の存在として、激しく反発すると同時に、激しく惹かれ合い続けていた。  「スター・ウォーズ」というあまりにも壮大なスペースオペラの締めくくりを、ある種普遍的な若者たちの「成長譚」として描いた試みは、充分に、チャレンジングでありフレッシュだった。 だがしかし、このシリーズが本来目指した“到達点”は、もっと新しい境地だったのではないかとも思う。  賛否がぱっくりと分かれた「エピソード8」が、まさにシリーズとしても分岐点となったことは間違いない。 ある意味での“暴走”を見せた「エピソード8」に対して多くのSWファンは落胆し、激怒した。旧シリーズの定型的なクラシック性を愛するオールドファンほど、その憤りは大きかったようだ。 僕自身は、「エピソード3」の、あの絶望と希望が同時に生まれたラストシーンを目の当たりにしてようやくSWの面白さに目覚めた不埒者なので、「エピソード8」の定石に対する“型破り”なストーリーテリングはむしろとても好ましく、興味深かった。 「旧三部作(4〜6)」から「新三部作(1〜3)」に渡り、常に物語の中心に存在した“スカイウォーカー”という「名前」と「血脈」の束縛から脱却し、止めどなく続く光と闇の争いの根幹に存在する「真理」に到達するのではないかという期待感が「エピソード8」にはあった。  当たり前のように、レジスタンスが「正義」、帝国軍が「悪」かのように大別されているけれど、実際は両軍それぞれに若者たちの生と死があり、戦争に身を捧げる「理由」や「大義」があるという事実。 そして、“ジェダイ”と“シス”という物語の根幹に存在し対立し続ける二つの要素が、常にその曖昧で脆い境界線上で“悲劇”を生み続けてきたということ。 (ならば、その境界線など何の意味があるのか?) 「エピソード8」でのストーリーの積み重ねとキャラクターたちの描き方は、まさしくSWシリーズが培ってきた「光」と「闇」の関係性そのものを反転させかねない要素で溢れていた。  しかし、多くのSWファンにとって、それはやっぱり許容できない“暴走”だったようだ。 無論、その拒否感はとてもよく理解できる。 もしこの「続三部作(7〜9)」が、「エピソード8」の流れのままに、新しい時代の新しい価値観をSWの結末として描ききってしまったならば、到達したテーマは、そのまま旧シリーズに対する“アンチテーゼ”となっていただろう。 ルーク・スカイウォーカーやハン・ソロ、そしてレイア・オーガナが、決死の覚悟で獲得した「勝利の価値」を、年老いた彼らも登場する同じ物語の延長線上で、新しい「時代」の“ものさし”によって一方的に「否定」してしまうことは、乱暴だし、そんなことを望むSWファンはやはり一人もいないだろう。  だからこそ製作陣は、大多数のファンの“悲痛”を理解し、強引なまでの「方向転換」をすることを選んだのだと思う。 そうして描き出された今作のストーリーラインとその終着は、極めて普遍的で王道的なSWのスタイルそのものだった。 ストーリー展開にも、明らかになる真相にも、“驚き”と呼べるものは殆どなく、大スペクタクル伴った大団円と、収まりの良い美しいラストシーンによって改めて“スカイウォーカー”の名に帰着する。  そこにストーリーテリング的な冒険は無かったけれど、冒頭に記した通り、アイデンティティを模索する二人の若者を、善悪の両端に配し、SWの物語性の中で表現してみせたことは新しく、充分に価値があったと思う。 個人的には相当に好きだった「エピソード8」も勿論含めて、あらゆる側面的な“付加価値”や“別視点”も持ち合わせた(決して描ききれてはいないけれど)、色々な意味で見応えあるエンターテイメントシリーズだったと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2019-12-21 02:23:54)
298.  search サーチ 《ネタバレ》 
公開時から話題で、劇場で観たかった映画の一つだったが、スクリーンで観られなかったことはむしろラッキーだったかもしれない。 多くの場合、この表現は映画が“面白くなかった”ことを意味するが、この映画は違う。 文句なしに“面白い!”映画だった。 その上で、これからこの映画を観る人は、ソフトを購入するにしてもレンタルするにしても、またはインターネットの配信サービスを利用するにしても、いずれにしても絶対に「PC」で観るべきだと断言したい。  僕自身、レンタルしてきたDVDをテレビで観始めたが、冒頭のシークエンスではたと気付き、「PC」での鑑賞に切り替えた。 この映画は、主人公である父親が行方不明になった娘を、PCの履歴やHDD、SNSの投稿や交友関係を追いながら見つけ出そうとする。その様が、終始一貫して彼が使用しているPCの画面上で映し出され、展開するわけだ。 即ち、鑑賞者は今作をPC(Macなら尚良)で鑑賞することで、あたかも主人公の主観でストーリー展開を追うことができる。 POV方式の主観ショットを全編通して駆使したアクション映画や、カメラを持つ撮影者の視点で映し出されるファウンド・フッテージ映画など、文字通り“視点”を変えた映画手法が広まって久しいが、この映画の“視点”はまた新しく、未経験の映画体験を得られることは間違いない。  勿論、決して“アイデア一発”だけの映画ではなく、しっかりと練られたストーリーテリングと、主人公を含め、登場人物の全員がどこか怪しく見える描写も絶妙だったと思う。  この“視点”のアイデアを生かしたプロローグ描写も「見事」の一言に尽きる。 PCの利用履歴や画面動作のみで主人公家族の営みや、思い出、そして失ったものを、効率よく効果的に映し出すことに成功している。 主人公と同じく娘を持つ父親の立場で映画鑑賞をしていると、プロローグのみで早々に涙腺が潤んでくる。  娘を愛する父親だからこその“惑い”や“妄信”が、事件の本質を時にぼやかし、時にミスリードに導いてしまう。しかし、最後の最後、すんでのところで事の解決を導き出したのも、父の愛情だった。 ストーリーとして上手いのは、「事件」を巡る攻防の表裏に存在したものが、共に「親の愛」であったという悲哀。 両者の感情は、人の親であれば誰しも理解し得ることであり、もしかしたら主人公の父親が“反対側”の立ち位置にいた可能性もあり得なくはないということ。  一人の親として、自分自身がそれぞれの立場に置かれたとき、果たしてどのように「行動」できるか。きっとパニックは避けられないだろうし、決して理屈的に明言できるものではないと思う。 そういった普遍的かつ、微妙な人間心理も踏まえた上で、極めて身近な恐怖を描き出した優れたサスペンス映画だった。  それにしても、警察の電話受付の女性が“おしゃべり”で本当に良かった。
[DVD(字幕)] 8点(2019-10-29 00:20:11)(良:2票)
299.  ミスター・ガラス 《ネタバレ》 
「スプリット」のポストクレジットで突如示された怪作「アンブレイカブル」のその後。 まるで想像していなかった奇跡的な連なりと、「特異」そのものの3人のキャラクターたちの再登場に際し、両作推しのシャマラン映画ファンとしては、鑑賞前から高揚感は膨れ上がっていた。 無論、映画館で鑑賞したかったのだが、公開規模が大作映画としては小さく、地方では劇場公開されず落胆。どうやら、そもそも「アンブレイカブル」と「スプリット」とでは製作会社が異なっており、両作の続編である本作は異例の二社共同製作となっていたことが、日本国内でのは配給制限に影響したのではないかと想像する。  色々な意味で「異質」な映画であることは間違いなく、それがシャマラン映画として初めての“シリーズもの”となったわけだから、普通の映画に仕上がっているはずもない。 そして、「アンブレイカブル」から19年の長き月日を経て展開されたこの続編は、過去の二作両方に対しての見事なそして特異なアンサーとして成立していると思う。  この映画の特異な終着点は、「ミスター・ガラス(Glass)」というタイトルが掲げられた時点で、ある意味明確だったのかもしれない。 「アンブレイカブル」がそうであったように、このシャマラン流“アベンジャーズ”は、画一的な“ヒーロー”の活躍を描き出したいわけではない。 あまりに不遇な自らの人生を呪い、心からコミックに登場するスーパーヒーローに憧れ、その存在を渇望するあまりに、自分自身が最凶最悪なヴィランになるという狂気にたどり着き、それを成し得てみせたイライジャ・プライスというキャラクターの信念こそが、3作通じたこのシリーズの主題だったと言えよう。  「アンブレイカブル」のラストシーンにおいて、イライジャ・プライスは「ヴィランには皆あだ名がある。私はミスター・ガラス」と悲しく言い放ち、ようやく見つけ出したスーパーヒーロー(デヴィッド・ダン)を見送る。 彼はその直後逮捕され、ずっと収容施設に閉じ込められていたわけだが、その“ヴィラン”としての立ち位置と、信念が揺らぐことは微塵もなかったのだろう。 表現として矛盾するが、彼はひたすらにヴィラン即ち「悪」としての“純真”を保ち続け、只々機会を待ち続けた。 そしてついに、不遇を極めた自らの人生の「意味」を勝ち取ったのだ。最期の彼の瞳に宿っていたものは、正義と悪の混濁だった。  極めて「変」な映画シリーズである。ただし、このシリーズが伝える「価値観」は一貫している。 「正義」と「悪」を等しく対なものとして捉え続け、両者に共通する「異質」さを、“普通”とされるこの世界に問うている。 それは即ち、「正義」とか「悪」とか関係なく、普通と異なるものを、この世界は受け入れられるのかということ。  この映画の終着点の論理は極めて“屈折”していて、多くの普通の人間には理解し難いものかもしれない。 それでも、本作の主人公は、ひび割れたガラスの屈折した光を通して、ヒーローにも、ヴィランにも姿を変えて、その難問を問い続ける。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-08-17 23:32:58)(良:1票)
300.  トイ・ストーリー4 《ネタバレ》 
ちょうど大いに散らかっていた子供部屋を子どもたちと共に片付けたばかりのタイミングで鑑賞した。 そういえば、自分自身に子どもが生まれてから初めて観る「トイ・ストーリー」だった。  傑作だった前作「3」において描かれた、ウッディたちが選び取った「選択」で、「トイ・ストーリー」という物語は見事な“終着”を見せたのだと思っていた。 たとえ更なる続編が製作されたとしても、それはきっと多くのファンを失望させてしまう“蛇足”になるだろうと思っていた。 だがしかし、9年の年月を経て生み出されたこの続編は、僕たちの想像を芳醇なイマジネーションで大胆にも超えてみせた。 それを成し得たのは、このアニメーションに登場するキャラクターに対するクリエイターたちのあまりにも深い愛だったと思える。  “おもちゃ”として生まれたウッディをはじめとするキャラクターたちの「運命」と「役割」。 前作「3」で描き出されたそのテーマは、キャラクターたち自身にとっての誇りであり、尊厳であった。 我々観客も、そういった「運命」を見出したキャラクターたちを称賛し、物語の終着として納得し、満足していた。  「トイ・ストーリー」の中のキャラクターたちでさえ納得していたはずのその結論めいたものに対して、誰よりも彼らを愛するクリエイターたちは「いや、待てよ」と思ったのだろう。 “おもちゃ”として生まれた以上、その相手(持ち主)が誰であれ、楽しませ続けることこそが本懐。 でも、だからといって、すべてのおもちゃたちを、一方的にその「運命」=「おもちゃ箱」にしまい続けていいのか。 この映画のクリエイターたちは、あらゆる意味で「役割」を果たしてくれた愛すべきキャラクターに、新しい選択肢と可能性、即ち「未来」を与えたかったのだと思う。  それは、本来“生無きもの”に生命を吹き込んだこのストーリー(世界)において、あまりに相応しい多層的な新しい着地点だった。 この着地によって、このストーリーは永遠に続くだろう。そうまさに「無限の彼方へ」。   片付けたばかりの子供部屋は、またすぐに散らかり始めている。 この機に乗じて、うちのおもちゃたちも少しずつ旅立っているのかもしれない。
[映画館(吹替)] 8点(2019-07-31 23:43:57)
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