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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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301.  ビッグ・アイズ
あまり気持ちのいい映画ではなかった。というのが正直な感想。 「実話」だからこその、決して避けられない登場人物たちの人生における“短絡さ”が、何だか無性に居心地の悪さを感じさせる映画だった。  「創作」に携わる者のジレンマによる闇の深さは、当事者にしか分からない。 しかし、その闇を抱えるのは、必ずしも“真の作り手”だけのものではないということ。 何も生み出すことが出来ない者が犯した愚かな罪。 “夫”は間違いなくロクデナシで、同情の余地はないけれど、彼がもたらした「功罪」により、“ビッグ・アイズ”という芸術が世に広まったことも事実。  彼の「悪意」が一体どの段階から存在していたのか、それは実際のところ誰にもわからない。 どこかのタイミングで何かが間違っていなければ、この夫婦は、もっと幸福な道を共に歩めたのかもしれないし、そうではないかもしれない。  子どもの大きな瞳で見据えられ続けた苦悩の日々は、観ている側としても苦しいものがあった。  そのリアルな苦しさを抱えた人間の無様さこそが、ティム・バートンが珍しく実話を題材にしたこの映画で描きたかったことだろうし、そういう意味ではしっかりとティム・バートンらしい映画に仕上がっていると言えるのだとは思う。 でも、この監督の一ファンとしては、これまでの作品群においてどんなにダークな世界観を描いたとしてもあり続けた小気味よさが無かった今作が、映画として単純に楽しくなかった。
[ブルーレイ(字幕)] 6点(2015-11-13 07:30:58)
302.  フューリー(2014)
朝が来る。 朽ち果てた戦車と、そこで闘い果てた屍を越えて、兵たちは歩を進める。 まるで何もなかったかのような俯瞰で、残骸となった戦車を一つ残し、一つのストーリーが終わる。  「戦争」という、繰り返される人間の愚かな歴史の中で、同様のシーンが一体、幾千、幾万、繰り広げられてきたのだろうか。 その無残の極みの様に、胸が詰まる。   僕自身はミリタリー描写にそれほど熱い頓着が無いので、伝説的な戦車とその活躍の様を忠実に再現したという、この映画の触れ込みにもあまり興味を惹かれなかったことは否めない。 ただ、世の好事家たちはこぞって絶賛しているので、全編通して描き出される戦場シーンに一切の妥協はないのだろう。  冒頭に記した通り、戦争そのものに対する普遍的な無残さと、そこに携わった人間たちが抱える虚無感は、きちんと描かれている。 そして、ビジュアル的な説得力も充分に備わっている優れた戦争映画、なのだとは思う。  ただし、ひしひしと伝わってくる映画のクオリーティーの高さに反して、今ひとつ感情的に揺さぶられるものが少なかった。 ラストの決死戦などは、もっとエモーショナルな感覚を持ってしかるべきなのだと思うが、何となく淡々と観れてしまった。  人物描写の描き込みが希薄だったのか、そもそもミリタリー映画自体への愛着が薄いからか、単に精神的なタイミングが悪かっただけなのか。  この虚しさのような物足りになさに、戦争の空虚感を表現していたとしたら、それはそれで大したものだけれど。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-11-01 00:26:37)
303.  オールド・ボーイ(2013)
2003年の韓国映画版が、世界的な評判に反してどうしようもなく受けつけられなかったことは、今でも“生々しく”覚えている。 「妥協のない凄まじい映画」だとは思ったが、それ以上に明確な嫌悪感が自分自身の価値観の中で際立ち、あまりに不快で救いがないラストの顛末に対して、ラストの主人公の心情とシンクロするように、嫌悪感を超えて反吐が出そうだった。 それなりに数多の映画を観てきているが、これほど明確に“嫌い”と言い切れる映画もなかなかなかった。 それ故に、このハリウッドリメイク版に対しても、高まる興味と相反して拒否感が先行してしまい、随分と遅れた鑑賞となってしまった。  結果としては、ストーリーに対する「嫌悪感」は、当然ながら韓国映画版と相違なかった。 だが、映画として同じように「嫌いか?」どうかと問われると、そうでもない。 むしろ、結構心に残る映画として鑑賞直後の心象が混乱とともに渦巻いている。  「衝撃的」とされる顛末を知っていたため、描き出される“禁忌”に対しての耐性はあったのかもしれない。 ただそれ以上に、韓国映画版に比べて随分と“受け入れられる”映画としてエンドロールを迎えたことが、不思議だった。 ストーリー展開自体は殆ど同じであるはずなのに、ちょっとした描かれ方の違いでこうも印象が変わるものなのか。 実際に何がどう違うのかということは、映画の詳細を忘れてしまっている韓国版を再度観直して検証したいものだが、こういう部分でも映画というものはつくづく奥深いものだと思える。  韓国映画版ではあまりに救いのない物語性に対して、テーマ的にも、登場人物の行動原理的にも、“アンフェア”に感じずにはいられなかったことが、嫌悪感の最たる要因だった。 ただこのリメイク作においては、同じラストの顛末において一抹の救いを感じることができた。  主人公が実は背負っていた罪と、その代償として背負わされた罪。 それが符号するとは決して思えないけれど、復讐する者と復讐される者それぞれの行動原理は理解できるような気がした。 それは、この映画における登場人物たちの描き出され方が“フェア”だったからに他ならない。  繰り返しになるが、今一度傑作とされる韓国映画版を再鑑賞して、両作品の真価を見極めたいと思う。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-10-08 23:09:32)
304.  アントマン 《ネタバレ》 
アントマン=“蟻男”って、なんだその地味なヒーローは……。と、この新ヒーロー登場に触れそういう嘲笑を含んだ印象を拭えなかった。 今夏公開された「アベンジャーズ2」は、非常に満足のいくマーベル映画の集大成的な作品だった。 が、その映画的物量の凄まじさにより、スーパーヒーロー映画そのものに対して“お腹いっぱい”だったこともあり、今作においては劇場鑑賞をスルーしようと思っていた。 と、そんな矢先、某友人からふいに絶賛メッセージが届き、一転して映画館へ足を運んだ。 正直、実際に鑑賞に至るまで半信半疑なところもあったが、何の事はない、序盤から心の中の“親指”が立ちっ放しだった。  最高。傑作。マーベル映画史上最も“楽しい”映画であると断言してしまっていいとさえ思える。  何よりも楽しかったポイントは、「蟻男」が想像以上に「蟻男」だったことだ。 ただ単に新開発された奇想天外なスーパースーツを身に付けた主人公がミクロサイズになり、“一寸法師”的な活躍をするだけの新ヒーローだと想像していたが、そうではなかった。 「蟻男」は文字通り、“蟻”のリーダーとして無数の蟻軍団を率いて巨悪に立ち向かうのだ。 その想像を超えたあまりにマンガ的な展開が、決して馬鹿馬鹿しくなく、エンターテイメント性に溢れ、感動的な程に楽しかった。 (アリンコ一匹の死にこれほど悲しみを覚えた記憶も無い!)  有名なハリウッドスターがトップクレジットに据えられていなかったことも、イントロダクションの段階で今作が娯楽大作として地味に映ってしまった一因だったが、キャスティングされている俳優たちも皆素晴らしいパフォーマンスを見せている。 主演のポール・ラッドは、コメディ畑の俳優らしい表現力で、軽妙な映画世界の中での軽妙な新ヒーローに見事にフィットしていた。 脇役ではマイケル・ペーニャが最高に良い。近年様々な作品で印象的なバイプレーヤーぶりを見せる俳優だが、彼の「語り口」がなければ、今作は色々な意味で成立しなかったろうとすら思える。 そして唯一のビッグネームであるマイケル・ダグラス。この重鎮俳優独特の怒りと憂いと狂気に満ちた存在感があったからこそ、下手をすればただ軽々しいだけに仕上がっていただろう今作に一本の筋が通っていたと思える。  今作は、「アベンジャーズ2」という“大祭”が終わったばかりのマーベル映画シリーズにおけるシーズンオフ前の最後の作品でもあるらしい。 次のシーズンに向けての区切りとなる作品として、マクロ的に肥大しある意味においては食傷気味だったアベンジャーズの世界観を、一旦ミクロの世界へ凝縮させることにより、魅力を増大させてみせたと思う。 それは、まさに“アントマンスーツ”とまったく同じ論理であり、見事だという他ない。   幼い愛娘のファンシーな部屋の中で、ラスボスとの死闘を繰り広げるスーパーヒーローがいまだかつていただろうか。もちろん、いるわけがない。 “マクロ”から“ミクロ”へ、ヒーロー映画の視点そのものを見事な塩梅で転換してみせたこの映画の優れたエンターテイメント性に脱帽だ。
[映画館(字幕)] 9点(2015-10-06 22:59:02)(良:3票)
305.  ビフォア・サンセット
イーサン・ホークの眉間に刻まれた“シワ”が、9年という時の流れをあまりに雄弁に物語る。 「時間」を自由に操作できることは、映画という表現方法ならではのマジックであるはずだが、それを排し、実際に9年の時を刻んで描き出すことによるまた別のマジックが、この映画には溢れている。 リアルタイムに過ぎ去った時間を経た二人が、映画の中のリアルタイムで邂逅する。 この映画の80分という時間は、まさに映画表現が生み出した奇跡だ。  映画世界の中で、リアルに歳を重ねた主演俳優の二人がやはり素晴らしい。  素人感覚だと、映画のキャラクターと同様に実年齢を重ねられたことで、よりリアルな演技がしやすくなるのではとも考えてしまうが、実際はそういうわけではないだろう。 両者とも一流俳優として9年間で幾つもの役柄を演じ続け、幾つものキャラクターの人生を辿った上で、再びかつて演じたキャラクターの人生に戻ってくるというアプローチは、きっと素人が考える以上に困難なことだったと思う。 その上で、9年ぶりに出会った二人が再会し与えられた時間である“80分間”を、そのままの時間で“会話”のみで演じてみろというのだから、一流俳優であっても極めて高い要求だったに違いない。  その高いハードルを阿吽の呼吸で越えてみせた両俳優の技量は流石だと思うし、そこには技量の高さを越えた俳優同士の肌感覚の相性の良さがあったのだろうと思う。 それはこの二人の俳優のキャリアにとっても、とても幸福な出会いだったろうと思える。 その一方で俳優の実生活においても多大な影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。  前作においても、二人の男女の微妙な心情がそのまま表れる名シーンが数多く存在したが、今作でもそれは随所で観られる。 ヒロインが抑えてきた感情をさらけ出す白眉の車中シーンは、1テイクで撮ったらしく、映画史においてもまさに奇跡的なシーンと言えるのではないか。 またヒロインのアパートの階段を二人が一歩ずつ上がっていくシーンには、再び深まっていく二人の情愛と、月日を経たからこそ生まれるためらいがせめぎ合い渦巻いているようだった。  そして、あまりに印象的なラストシーン。  「Baby you're gonna miss that plane.」 「I know.」  きっと男は、搭乗時刻が迫る飛行機には乗らなかっただろう。 きっと二人は、再会した瞬間に、大きな「期待」とそれと同等の「覚悟」と共に、別々に歩んできた9年間との決別を決めていたのだろう。   さあ、次はまた9年後。 一時の感情を努めて抑えて離れ、今度はその時の後悔を胸に一時の感情に従うままに結ばれた二人が、どういった9年間を送り、また何が変わり、何が変わらなかったのか。 “覚悟”をして観たい。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-10-01 23:52:29)(良:1票)
306.  恋人までの距離(ディスタンス)
この映画を観た誰しもは、“美しすぎる一夜”は、美しいままの「思い出」にすべきだと、考えることだろう。 この映画の主人公の男女も、ちゃんとした“大人”なので、一時の“甘美”に溺れることなく、「朝」の訪れとともにちゃんと一旦断ち切って、それぞれの旅路に戻っていく……一応は。  そのまま付き合って、結婚しても、きっとこんなにも幸福な夜は二度と味わえないことはきっと二人共分かっている。 それでも「再会」の約束をせずにはとてもいられなかった。 失望することが分かりきっている選択をすることは、愚かなことなのだろう。 けれど、その愚かで、滑稽な様こそが、「恋愛」であり、結局人間にとって、それ以上に優先されるモチベーションなんて有りはしないのだと思える。  僕自身は現在結婚5年目で、まだまだ酸いも甘いも経験値としては序の口程度だろう。 ただ、もしこの映画の二人のような美しすぎる思い出の夜があったとして、その綺麗なままの思い出を、時に辛辣な現実と比較して、ただただ「今」を悲観することほど不幸なことはないと思う。 そんな一夜を過ごせたならば、その思い出を抱えて、二人、たとえ罵り合い続けてでも共に生きたほうが、やっぱり幸せなのではないかと思える。   見知らぬ外国人夫婦の日常的に繰り広げられているのだろう喧嘩がきっかけで、この映画の二人は出会う。 それは、この二人に向けての何かの暗示なのかもしれない。 それでも、冷静を装った“大人”を理由にただ離れることなんて出来ない。 それが恋愛、それが人間、残酷で、だからこそ眩い。   ふいに出会った愛しい人と、夜通しを歩き通したことによる疲労感と多幸感の中でまどろみに沈んでいくラストシーンのヒロイン。 目覚めた時、彼女は何を思い、どういう人生を歩んでいくのか。  20年前の公開時にこの映画を観たならば、この後の彼らの人生に思いを巡らせつつ、気になってやきもきしたことだろう。 それはそれでこの恋愛映画の醍醐味だったことだろうと思う。  しかし、幸か不幸か、2015年のタイミングで今作を初鑑賞した僕は、彼らの人生をあと映画2作品に渡って確認することができる。 “美しくすぎる一夜”の後、残酷な時の流れを経て、一体二人の何が変わり、何が変わらなかったのか。 それを確かめることは、とても恐ろしくもあるが、やはり楽しみでならない。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-09-29 23:36:23)
307.  キングスマン
“英国王”もとい“英国紳士”然としたコリン・ファースが、いかにもスパイ映画風の魅力的なギミックを駆使して小悪党どもを小気味よく打ちのめす。 この白眉のアクションシーンをはじめ、映し出される映像の娯楽性は極めて高く、楽しい。  この映画が、マシュー・ボーンという英国出身の新人監督のデビュー作というのであれば、娯楽映画史におけるエポックメイキング的な作品として手放しで評価できたのかもしれない。 しかし、そういうわけにはいかない。マシュー・ボーンという名前はもはや大きくなり過ぎている。 「キック・アス」で大出世を果たし、「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」を成功に導いた今最も最新作が期待される映画監督の一人となった彼の最新作として、「駄作」と言わざるをえない。  ハリウッドの超大作のしがらみに疲れた映画監督が、その鬱憤を晴らすかのように母国で自由に作った“悪ノリ”映画なのだと思う。 “ジョーク”として笑い飛ばす映画なのだろうし、そのブラックでキツいジョークの部分は確かに笑えた。 “悪ノリ”が過ぎる映画は、時に傑作になり得る。「キック・アス」はその顕著な例だろう。  でもね、悪ノリが過ぎるからと言って、ストーリーテリングそのものの雑さが許されるわけではないと思う。ストーリーが雑な映画は、当然ながら傑作にはなり得ず、きっぱり駄作だと思うのだ。  コリン・ファースの“退場”の仕方があまりに雑だったり、主人公が“キングスマン”として認められるための最終試験の顛末はおざなりだし、大体他のキングスマンは何をしているんだといったように諸々の設定があまりに大雑把で腑に落ちない。 主人公が裏切り者を出し抜くくだりや、そこから始まるクライマックスの“面白げ”な雰囲気も、引いて見てしまうと特段の新鮮味はなく、ただのマスターベーションに見えてしまう。  悪ノリの中で暗に国際的な批判精神を盛り込んでいるからこそ、ストーリーの些細な部分が引っかかってしまい、非常に気持ち悪かったのだと思う。  世間的には好評の様子でどうやら世界的にも大ヒットしているようなので、続編の製作は既に確定しているのだろう。 根本的な悪ノリ自体は決して嫌いではないので、次作はストーリー的にも練り込んだ問答無用の悪ノリスパイ映画に仕上げてほしいものだ。
[映画館(字幕)] 4点(2015-09-22 22:51:18)(良:1票)
308.  イコライザー
実は“殺人マシーン”だった主人公が、憎き悪党と真向かい、直接的に、淡々と、「宣戦布告」する。 それを演じるデンゼル・ワシントンの“目”がヤバい。“ヤバい”とはいかにもチープな表現だが、本当にヤバいのだから仕方がない。 正義の鉄槌を振るうことを心に決めた主人公のその“目”は、完全に異常者のそれであり、主演俳優のその表情を観ることこそが、この映画を観る価値だと断じてしまっても過言ではない。  何かしらの過去を背負いつつ、平穏に暮らす主人公が、突如として復讐鬼と化すというこの手のジャンルムービーは昨今目立つように思う。 いわゆるビジランテ(=自警団)ものが流行らざるを得ないのは、真っ当な正義が存在しないこの社会の病理性の表れだろうか。 誰も守ってくれない。誰も裁いてくれない。誰も怒ってくれない。 ならば自ら鉄槌を振るうほかないではないか。 という悲鳴がそこかしこから聞こえてくるようだ。  と、まあ、そんな悲観的な考察は抜きにして、流行りのジャンルムービーの中でもこの映画のクオリティーの高さは確かなものだと思う。  やはり魅力的なのは、デンゼル・ワシントン演じる主人公のキャラクター性だろう。 日々眠れぬ夜を近所のダイナーで過ごす主人公、観客としては当然ながら彼の正体がいかなるものかということを大体知っているわけだが、それでも物静かなこの男が、文字通りの殺人マシーンへと変貌する様は娯楽性に溢れている。 それは、この映画のストーリー自体がこの先どう転じていくのかという娯楽性とも合致し、楽しい。  過去に捨て去ったはずの血塗られた仕事を再開することで、自分の生きる価値を改めて見出し、みるみる活き活きとしていく主人公の様は、実は笑えない。  ただ、そういう役を演じるデンゼル・ワシントンはいつも大体「最高」である。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-09-22 22:46:11)(良:2票)
309.  ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション 《ネタバレ》 
予告編をはじめとするプロモーション映像で散々映し出されていた“あのアクションシーン”が、冒頭でいきなり展開され、それが今作の贅沢な“つかみネタ”であったことを知った時、「やっぱこの人は馬鹿だ」と思った。「トム・クルーズは、本物の映画馬鹿だ」と。  シリーズ最高傑作だった前作「ゴースト・プロトコル」同様に、今作においても何よりも賞賛すべき対象は、“トム・クルーズ”その人をおいて他にない。 前作から4年の月日を経て、今年(2015年)53歳になるハリウッドスターが、今回も全力で走りまくり、跳びまくり、潜りまくり、闘いまくる。 映像的なマジックは多分にあるのかもしれないが、それでも、五十路を優に超えて“半裸”で全力疾走は、なかなか出来るものではない。 ただ走るだけならそりゃ出来るかもしれないが、5作にもおよぶスパイアクション映画の絶対的な主人公として、相も変わらず“格好良く”疾走する様に、もはや尊敬せずにはいられない。  ここ数年のトム・クルーズの“仕事ぶり”には、特に目を見張るものがある。 主演映画、製作映画のほぼ総てが確実に見応えのある作品に仕上がっている。 その理由は明らかで、冒頭に記した通り、この人の“映画馬鹿”ぶりに益々拍車がかかっているからに他ならない。 おそらく他の誰よりも、沢山の映画を観て、沢山の脚本を読んで、自らの目で才能に優れた監督や俳優を見出し、自分の主演作に最高の陣営を揃え続けているからだ。 そして、その最高のスタッフ、キャストに応えるために、彼は主演する自分自身の鍛錬と挑戦を惜しまない。 他の誰よりも、トム・クルーズは、トム・クルーズを格好良く見せる方法を知っていて、それを実践している。 その在り方は、映画スターとして、プロデューサーとして、本当に素晴らしいことだと思える。   さて「ミッション:インポッシブル」シリーズ5作目となる今作。前作に負けず劣らずアクション映画として傑作だと思う。 前作ほどのアクションシーンにおいてビジュアル的な派手さや新しさはない。その代わりに、お決まりの王道的展開を真正面から堂々と描き切り、最高の品質でブラッシュアップしている。 時に気品さえ感じる骨太なアクションシーンの連続は、とても見応えがあり、ただただ楽しい。  そういう意味では、冒頭の派手なアクションシーンはある種前作のテイストを引き継いだ“サービス”であり、それと同時に「こっから先は私の趣向でやらせていただく」という監督のプライドと自信の表明だったように思えた。  ヒロインに抜擢されたスウェーデンの女優レベッカ・ファーガソンも最高。謎めいた二重スパイ役を魅力的に演じきっていた。 かつての愛妻ニコール・キッドマンを見初めた頃から発揮し続けられるトム・クルーズの“審美眼”の確かさにも頭が下がる。  この誰よりも自分が大好きな努力家のハリウッドスターは、まだまだ続編を製作する意欲に溢れているに違いない。その資格は充分にあるし、期待せずにはいられない。   そんな満足感を携えつつ、仕事帰りのレイトショーを観終えた。 そして、スーツの襟を正し、スパイ気分で少し慎重に周囲に目を配りながら映画館を後にした。
[映画館(字幕)] 9点(2015-08-20 23:22:26)(良:2票)
310.  ジュラシック・ワールド
「ジュラシック・パーク」の過去作を観たことがない人たちにとっては、存分に楽しめる夏休みに相応しい映画だったのだろうとは思う。 ただし、やはり1993年のオリジナル作品を公開当時に“驚き”と共に目の当たりにした観客にとっては、ワンランク下の焼き直し作品に見えてしまったことは否めない。  映像技術としては随分と進化しているはずで、もちろん襲いくる恐竜たちの迫力は凄かったけれど、映像的なインパクトそのものは20年以上前のオリジナル作品と比較してそれほど大差を感じられなかった。つくづくスティーブン・スピルバーグの偉大さを感じずにはいられない。  映画史上に残る傑作である第一作目の映画的完成度の高さに及ばないことは、当然致し方ない。 でもそれならば、個人的には大好きな「Ⅲ」くらいに振りきれた娯楽性は備えて欲しかった。 ほぼB級映画に成り下がりながらも、“モンスター映画”としての存在感を誇った「Ⅲ」並みの娯楽性は充分に展開できるだけの要素が、今作には散りばめられていただけに勿体無いと思えた。  過去にあれだけの惨劇が繰り返されながらも、結局パークをオープンさせてしまっている時点で、既に“やっちゃってる”設定で、その上で遺伝子操作によるハイブリッド種なんていう更なる惨劇が必然のようなモンスターを登場させているわけだから、リアリティラインは充分に下がりきっている。 製作陣は、続編というよりも、偉大なオリジナル作品のリメイク的な意識の方が強かったのだろうし、そのチャレンジ精神は買うけれど、ストーリー設定のスタートラインを踏まえれば、端から大バジェットでのB級ノリで突っ走ってくれた方が、愛すべき娯楽映画に仕上がっていたろうにと思えてならない。  娯楽性が高まりきらなかった最大の原因は、登場人物のキャラクターの弱さだと思う。  主人公役のクリス・プラットは、「ガーディンアンズ・オブ・ギャラクシー」で一躍スターダムにのし上がったばかりなので、フレッシュなスター性がヒーロー役にマッチしていたとは思う。 ただ、なぜ彼があの凶暴なヴェロキラプトルを手なずけられているのか今ひとつ納得できない。野生児的な感覚で済ますことはできようが、やはり今シリーズの主人公としては「知性」が足りないように感じた。 彼は彼でいいとして、過去作と同様に別に博士的な役割の人物が必要だったと思う。  ヒロインは、惨劇の元凶となるハイブリッド種を現場で作り上げた責任者の一人で、そのキャラクター性は名作「ジョーズ」を良い意味でB級モンスター映画化した傑作「ディープ・ブルー」のヒロインに類似しており期待が持てた。 クライマックスでの“ある決死の行動”はなかなか熱いものがあったが、結局最後は取ってつけたような母性とロマンスに落ち着いてしまい、とても物足りなかった。 「ディープ・ブルー」のように命を捧げろとまでは言わないが、犯してしまった過ちに対して何らかの代償は負ってほしかったと思う。  その他にも、悪役(殺され役)のスタンスも中途半端だったし、時代性に合わせてキャスティングされた“インド人CEO”もとても雑な死に方を用意されており、勿体無かったと思う。 オリジナルと比較するならば、子役の存在感にも随分と差があったように思える。どの国の映画においても同様だが、優れた監督は子役使いも上手いものだ。  とどのつまり“オイシイ”キャラクターが不在なのだ。 それはこの手の娯楽映画において、あまりに痛い欠落だろう。   とはいえ、ジョン・ウィリアムズのあの勇壮なメインテーマと共に恐竜の楽園を再び目の当たりにさせられては、映画ファンとして、恐竜ファンとして、高揚感は抑えきれなかったけれどね。 この長い長い駄文が、何だかんだ言って結局この映画を楽しんだことの表れなのかもしれない。
[映画館(字幕)] 7点(2015-08-18 23:41:24)
311.  アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン
マーベルの“大祭・第二弾”。 3年前の大祭・第一弾が、奇跡的な大成功を収めただけに、この続編へのハードルは残酷なまでに高まっていたと思う。 これ程までに濃ゆいメンツを一つの映画作品に詰め込むことだけでも、その苦労は半端ないものである筈で、そこに続編ならではの難しさも加わり、大き過ぎる期待の反面、クオリティーの低下を覚悟していた部分はあった。 が、何の事はない。高すぎるハードルを華麗に越え、エンターテイメント超大作としてきっちりと仕上げている。見事だ。  「アイアンマン3」、「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」の流れを汲み、描き出されるストーリーは、決して終始高揚感溢れるものではなく、時に陰鬱で破滅的ですらある。 アベンジャーズを構成するヒーローそれぞれの心の闇と葛藤が浮き彫りにされるストーリー展開は、映し出されるアクションシーンが派手になればなるほど、彼らを包む渇いた空気感を際立たせるようだった。  この“苦い”味わい深さは、この“大祭”に至るまでの各作品を観ていなければ到底理解できるものではなく、そういう意味では完全に“一見さんお断り”映画であることは間違いないだろう。  ただし、そういった苦味の中でも、アメコミヒーロー映画の究極として、アゲるべきところはしっかりとアゲてくる。 各ヒーローの弱みを露わにするからこそ、それぞれの見せ場も存分に見せてくれる。 そして、彼らが“アベンジャーズ”として「結束」することによる無敵ぶりをきちんと映画のピークに合わせてくる。  そして、今回キャラクターとして特筆すべきは、アイアンマンでもキャプテンアメリカでもハルクでもなく、まさかの“ホークアイ”だろう。 生身の人間であるこのキャラクターは、超人的な能力を誇る他のメンバーに対して明らかに浮いていた。 スカーレット・ヨハンソン演じるブラック・ウィドウはまだ紅一点という明瞭な存在意義があったが、ジェレミー・レナー演じるホークアイは、あまりに存在感が薄かったと言える。 が、今作においては、極めて重要な存在感を見せてくれる。  ロボットの軍勢が襲いかかり入り乱れる非人間的な戦闘の中で、「俺の武器は弓、笑えるだろ?」と自嘲するホークアイ。 それでも一歩戦いの場に踏み出れば、彼はアベンジャーズとして信念を持ってひたすらに弓を引き続ける。 その様は最高に格好良い。 そのホークアイの姿にこそ、アベンジャーズの真価が表れていたと思う。 ジェレミー・レナーという一流俳優がこの地味な脇役を担い続けた意味がようやく結実している。   さて、大きければ大きいほど祭りのあとはいつも寂しい。 ハルクは南の海に去り、ホークアイは家族の元へ帰ってしまった。トニー・スタークとソーは戻ってくるだろうか。 祭りのあとの空虚感を携えつつ、エンドロールを見送った。 そして、「アベンジャーズは帰ってくる」というお決まりのテロップをしっかりと確認し、少し安心して映画館を後にした。   (2018.5.14 再鑑賞)  劇場公開以来の再鑑賞。なんだよ、やっぱり最高かよ。  “S.H.I.E.L.D.”という文字通りの「後ろ盾」を失ったヒーローたちが、絶大なパワーとそれ故の恐怖との狭間で苦悩する。 この映画単体としてのプロットは、意地悪な見方をすれば、ヒーローたちの“独り相撲”であり、それにほぼ巻き込まれる形で実害を被る世界の人々からすれば、そりゃあ恨み節も言いたくなろうし、危険視するムーブメントも避けられまい。 今作におけるヒーローたちの「失敗」が、この後の「シビル・ウォー」の悲劇へと直結していくわけで、その顛末を知った上での再鑑賞では、ヤキモキ感が増長したことは言うまでもない。  ただだからこそ、前作「アベンジャーズ」を遥かに凌駕したヒーローたちのアクションシーンの連続が、ひたすらに熱い。 自ら招いた危機によって打ちひしがれようとも、傷つこうとも、倒れようとも、彼らは何度でも立ち上がり、新たな仲間を伴い、「復讐者」となる。  その様は、まさに“独り相撲”の極みかもしれないけれど、そんな小賢しい理屈なんて超えて、ただただ熱狂せざるを得ない。  実は誰よりも“人間臭い”最凶人工知能“ウルトロン”のユニークな悪役性、ホークアイを筆頭とする脇役の見せ場、スカーレット・ウィッチ、そしてヴィジョンら一線を超えた新キャラクターを問答無用に「有り」にしたMCUの巧みさに、改めて脱帽。
[映画館(字幕)] 9点(2015-08-07 00:28:23)(良:2票)
312.  ターミネーター:新起動/ジェニシス
“今更”になって新シリーズ化される「ターミネーター」というコンテンツに何を期待すべきか。 この映画を楽しむためには、その前提となる価値観をどこに設定するかが重要になってくると思う。 個人的な結論を言うと、僕自身はしっかりと楽しむことが出来た。今夏を彩るエンターテイメント大作の一つとして、充分に満足に足るものだったと思う。  今作において、期待すべき価値観は、一つだ。 それは、アーノルド・シュワルツェネッガーというアクション映画スターが、再び「ターミネーター」という世界観の中で息づいているという事実そのもの。 完全に風貌が衰えようが、アーノルド・シュワルツェネッガーが“T-800”として躍動するその様を観た時点で、映画ファンとしてあまりに感慨深いものがあった。  「ターミネーター」シリーズとして捉えたならば、確かにストーリーテリングは粗く突っ込みどころも満載である。 「教育中」とはいえ、あまりに人間臭くなりすぎている“T-800”のキャラクター性の変化は、もはやセルフパロディに近く、時にコメディ映画にすら見えてくる。 しかし、その破綻ぶりすらも、稀代のアクション映画スターがそこに帰ってきたという喜びに凌駕される。  こんなものは「ターミネーター」ではないという批判はごもっともだ。  ただし、この映画シリーズが、幾重にも枝分かれした時間軸を描いてきたこともまた事実。 1984年にボディービルダー上がりの俳優がロサンゼルスに降り立った瞬間から、「未来」は幾つもの可能性を秘めたパラレルワールドを孕んだのだ。 ならば、感情を持たない筈のターミネーターが不器用にニカッと笑う世界があったとしても、何ら不思議ではないと思える。
[映画館(字幕)] 7点(2015-07-26 22:44:07)(良:1票)
313.  トランセンデンス(2014)
世界随一の科学者の頭脳がインストールされた人工知能。 そこには、オリジナルの“人格”が生きているのか、全く別物なのか。 人類を遥かに凌駕する程に進化した人工知能の“暴走”は、一体誰の思いが結実したものだったのだろうか。  社会構造の機械化、コンピューター化が進む世界における危機意識は、昔からSF映画で描き出されてきたことで、今作もその潮流を汲む作品の一つと言える。 愛する者の頭脳をインストールした人工知能を渦中に置き、人類とコンピューターとの関係性を抉り出そうとした興味深いSF映画だったとは思う。  今作を観ていて思い出されたのは、「地球爆破作戦」(1970年製作)という映画だ。 超高性能の人工知能が、プログラミングされた「目的」=「平和」を遂行するために、人類を支配下に置こうとする恐怖を描いた傑作SF映画である。 人類と人工知能との攻防を描くという点はもちろん、真の意味で世界を滅亡させようとしているのは一体どちらかというテーマ性も極めて類似していると思う。  今作ではそのテーマ性に、普遍的な夫婦愛が加味され、より多感なドラマ性が生まれていたと思う。 繰り返しになるが、興味深いSF映画であったことは間違いないし、決して嫌いな映画ではなかった。 が、しかし、映画としての芳醇さというか、観客を引き込む本質的な魅力みたいのものが、大事なところで足りなかったと思う。  この映画の主人公は、人工知能に生前の頭脳をインストールされた天才科学者の夫ではなく、彼を誰よりも愛し失意の中で“禁断”の進化を選んだ妻であろう。 であるならば、もっとこの妻の愛情とそれ故の狂気を深く描き出すべきだったと思う。 そうしたならば、ジョニー・デップ演じる“人工知能”の夫の中の「人格」の有無がもっとスリリングに、もっとエモーショナルに際立ったのではないか。  実際、そういう風に描き出そうとはしていたのだとは思う。 ただそれに見合う演出力とイマジネーションが、長編デビュー一作目の今作の監督には明らかに備わっていなかった。 監督のウォーリー・フィスターは、クリストファー・ノーラン組でずっと撮影監督をしてきた人物なので、その技量は申し分ない。当然ながら今作でもビジュアルセンスの確かさは光っていたと思う。  ただし、映画として人々の記憶に焼き付けるためには、撮影技術とは違うベクトルの創造力が必要不可欠だということだろう。 例えば、人工知能の「意思」が雨粒となって地上に降り注ぐシーンなどは、クリストファー・ノーランならば、これまで観たことがない新鮮味と神々しさに溢れるシーンに仕上げたに違いない。 また夫が妻の“嘘”を見破るシーンが、序盤と終盤で対比的に描き出されるのだが、その差異の描き方もちょっと中途半端で分かりづらかった。こういう部分も、一流の映画監督であれば感動のポイントとして逃さないだろう。  もしくは、ジョニー・デップをキャスティングしていなければ、もっと適正なバランス感覚で仕上がったのかもしれない。 人工知能の夫としてのビジュアルは殆ど映し出さないくらいの低予算方針で撮ったならば、逆に味わい深いSF映画として仕上がったのではないだろうか。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2015-07-15 23:32:05)
314.  フライト・ゲーム 《ネタバレ》 
冒頭、主人公がウイスキーを紙コップに注ぎ歯ブラシでかき混ぜる。 この主人公の男が明らかにうらぶれていて、拭いがたい負い目を抱えて生きていることが一発で分かるオープニングだった。 その主人公を、リーアム・ニーソンがお馴染みの“困り顔”で演じているわけだから、それだけで“リーアム・ニーソン映画”としては太鼓判を押していいのかもしれない。  「シンドラーのリスト」「レ・ミゼラブル」「マイケル・コリンズ」など、かつては歴史大作や文芸大作を主戦場に渋く濃厚な存在感を示していたこの俳優が、“ジャンル映画”のスターとなって久しい。 彼の俳優としての立ち位置に対しては、映画ファンによってその是非が分かれるところだろうが、とはいえ実際ハマっている映画も多いので、「面白い」のであればそれが正義だと思う。  今作にしても、ジャンル映画としての存在価値は充分に発揮している。 ストーリー上の穴や粗など端から無視を決め込むか、それ有りきで楽しむべき立派な“リーアム・ニーソン映画”だ。  ストーリーテリングとしては、ヒッチコックの「バルカン超特急」に端を発する“誰も信じてくれない”系サスペンスで、舞台が航空機内とういこともあり、ジョディ・フォスターの「フライトプラン」にも酷似しているが、リーアム・ニーソンの近年持ち前の“危うさ”巧く機能しており、観客すらも彼に対して疑心暗鬼になってしまう。  ジュリアン・ムーアを初めとして、脇を固める俳優陣も地味に豪華で、主人公と観客の“疑心”を効果的に深めている。 結末を知った後で、オープニングの群像シーンを観てみると、それぞれにキャラクターにおいて細やかな演出がされていて、それはそれで面白かった。   それにしても、思わず口走ってしまった“一年間乗客無料サービス”の約束は果たされるのだろうか。反故にされた場合は、訴訟を起こす輩が一人くらいはいそうでコワい。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-07-15 23:27:55)
315.  マッドマックス 怒りのデス・ロード
「マッドマックスは何日から上映開始よ?」と、父親からメールが入った。 既に上映開始の第一週目だったので、「もう始まっているよ」と返した。  公開間際になって世間の好評がビンビンと伝わってきていたので、映画館に足を運ぶべきだと思ってはいたが、実父から届いたそのメールが劇場鑑賞の“決め手”となったことは間違いなかった。   映画館に映画を観に行くということが日常となったのは、小中学生の頃に父親に連れられて行ったことがきっかけである。ただ時は経ち、父親はめっきり映画館に足を運ぶことは少なくなった。 そんな父親からのそのメールからは、彼らの世代の映画ファンにとって「マッドマックス」がいかに特別なものなのかということを強く感じることができた。  実は、僕は「マッドマックス」を観たことがなかった。 この“最新作”の直接的な元となった「マッドマックス2」は1981年公開。僕自身が生まれた年である。 曲がりなりに“映画ファン”を自負するものとして、「マッドマックス」を観たことがないということは情けない限りだと思う。  今夏(2015年)のエンターテイメント大作事情は、例年以上にリメイク&リブートを含めたシリーズ最新作の色調が濃いラインナップとなっている。 「ターミネーター」「ジュラシックパーク」「ミッション:インポッシブル」etcとそうそうたる顔ぶれの中で、“マッドマックスの最新作”という触れ込みに対しては、正直なところ食指の動きが鈍かった。 その要因としては、ずばり「世代ではない」ということが最たる理由だったと思う。 自分自身が生誕した年前後に公開された映画というものは、新しくもなければ、古過ぎもせず、映画ファンとして遡って干渉するにはとても中途半端なものである。   随分と前置きが長くなってしまったが、この映画に対して言いたいことはただ一つ。  “激アツ”  あまりにチープなことは認めるが、その一言に尽きる。 熱い!熱苦しい!いやもう凄いよ!と言わざるをえない映画の熱量に圧倒される。   終末戦争後の世紀末。荒廃し枯渇した世界に残されたものは、果てしない飢えと、狂気。 留まっても地獄、進んでも地獄、ならばどうする? 常識や倫理観など存在すらしない世界の中で繰り広げられる“生”と“死”の止めどない攻防を、ただただ目の当たりにしたという“感触”。  手放しで絶賛したい。が、“オリジナル世代”であれば、もっともっと楽しめたのではないか?という疑問符が残った。 それは、単に過去作を観たことがあるかないかということではなくて、「マッドマックス」という映画体験が、人生の中に刷り込まれているかどうか。 その“体験”の有無によって、今作の価値は大いに変わるような気がしてならない。 そのことが、映画ファンとして、なんか悔しい。
[映画館(字幕)] 9点(2015-06-26 23:37:14)(良:1票)
316.  くもりときどきミートボール2 フード・アニマル誕生の秘密
前作の「エイリアン」「インデペンデンス・デイ」オマージュに続き、今回は完全に「ジュラシックパーク」! 正々堂々とパクって……いや、オマージュを捧げている娯楽性がまず楽しい。それだけで、アニメーション映画としての及第点は満たしていると思える。  前作は、過剰なほどにポップなビジュアルにそぐわぬ「飽食」に対しての意外にも深いテーマ性と、シニカルなブラックユーモアの連続で彩られた万人向けというよりも、むしろオトナ向けとも言えるアニメーション映画の傑作だった。  食べ物が“災害”として襲ってきた前作は、その描写の下品さに対して文化的に若干引いてしまう部分もあったが、今作はありとあらゆる食べ物が大なり小なりの“アニマル”として登場し、ただただ愉快で可愛らしい。  前作と同様のテーマ性なりを期待しすぎてしまうと、この続編への拍子抜けは避けられないかもしれない。 けれど、今作はメインとなるテーマを主人公を中心とした普遍的な人間関係に絞り、敢えて良い意味での子供向け路線にシフトチェンジしているのだと思う。 そして、これはこれで充分過ぎるほどのクオリティーを備えたアニメーションだったと思う。
[CS・衛星(吹替)] 6点(2015-06-26 23:33:06)
317.  トゥモローランド
この映画を観る前の日中は、愛娘の幼稚園の行事に参加してきた。梅雨の合間の炎天下、我が娘も含めて、数百人の子どもたちがわらわらと駆け回っていた。 そんな日の夜に観たからこそだったのかもしれないけれど、僕はこのSF映画が伝えるメッセージを素直に受け止めることが出来た。 それは、映画ファンとして、子を持つ父親として、とても幸福なことだったと思う。   映画の冒頭、少年時代の主人公が、自作したジェットパックで未来都市を飛び回る。 このシーンをはじめとする「未来」を目の当たりした問答無用の高揚感こそが、この映画の総てだと言っていい。 映し出された未来像に対して“ワクワク”するというあまりに普遍的なSF映画の本来あるべき姿がそこにはあり、同時にそれを素直に肯定することが出来ない現代社会の病理も表しているように思えた。  無邪気だろうが、浅はかだろうが、「明日」を夢見なければ「未来」はない。 未来に希望を持てないなんて悲しすぎるし、希望を持てないことを誰かのせいにして、ある意味開き直って、あたかも絶望を抱える方が当たり前だと言わんばかりに、世界の退廃を受け入れるなんてまっぴらだ。  この映画が導き出したテーマを、「選民意識」の表れだと批判する人が多いらしい。なんて見当違いで、愚かなんだと思わずにはいられない。 確かに、この映画のラストでは、より良い未来を担うべき者の選抜が描かれてはいる。 そこに、未来という次のステージに今この瞬間の全員を連れていけるわけではないというある種の非情さが表れていることは確かだとは思う。 ただしそれは、才能に秀でた者が、才能に秀でた者を選民しているわけでは決してない。  「未来」という夢と希望を担うべき人材を、「才能」ではなく、それを諦めない「意志」で選ぶことを理想として導き出したこの映画を、僕は決して戯れ言だとは思いたくない。 それを「選民意識」なんて捉え方をすることこそが、未来に対しての逃げ口上だと思えてならない。  もちろん、困難や問題は尽きない。特別な才能があろうが、なかろうが、絶望することは容易だろう。 しかし、自らとそれに追随する若い命のために、「明日」という世界を作り続けなければならない。 そのために必要な物が夢や希望だと言うのならば、何がなんでも、僕はそれを追い求めたい。
[映画館(字幕)] 7点(2015-06-21 23:27:26)(良:1票)
318.  パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間
劇中、“二つの棺”が運ばれていくシーンが、序盤と終盤に対比的に描かれる。 一つは、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの棺。そしてもう一つは、“JFK”暗殺の実行犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドの棺だ。 両者の棺を運ぶ者の心情は大いに異なるはずだが、その様はどちらもややぞんざいに扱われているように見える。 そこには、「この棺を運びたくなんてなかった」という、同じ言い回しだけれど全く真逆の意味合いを持つ、それぞれの死に関わった人々の感情が漏れているように見えた。  英雄の暗殺と、その実行犯とされる者の暗殺。この二つの死が人々に与えた影響はいかなるものだったのか。 今作は、偶然にもそれに関わってしまった人たちの心の損失を描き出している。 「JFK暗殺」を描いた映画は多々あるが、この作品の視点は意外にも新しく、それでいて真っ当だったと思う。 他の多くの作品が暗殺にまつわる陰謀説を主軸に描いているのに対して、今作はあくまでも事件現場となった街に居合わせた市井の人々の様を描いている。 そういう意味では、JFKの実弟であるロバート・ケネディ上院議員の暗殺事件を描いた作品「ボビー」にとても良く似た映画だったと思う。  稀代の英雄の死を目の当たりにした人々にとって、本当の犯人が誰かなんて追求する余裕はなかっただろう。 自分たちが住んでいる場所で、世界で最も重要と言って過言ではない人物が殺されてしまった。 ただひたすらに、その悲しみとショックに打ちひしがれるしかなかったのだろうと思える。  その人々の動揺と混乱の中で、もう一人の男が“真相”と共に闇に葬られた。 その男にも勿論家族がいて、市井の人々以上の動揺と混乱を強いられていた。  彼らの死から50年が経過した。 数多くの疑惑と陰謀説は渦巻き続けるが、いまだ真相は闇の中。 いつの日か時代は真実をさらけ出すことが出来るのだろうか。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-06-13 00:35:40)
319.  トランスフォーマー/ロストエイジ
165分の取り留めのない映像的物量の「羅列」を、グッと耐えるように観終えて思う。 これは、マイケル・ベイ監督渾身の「自虐」だと。  前三部作を撮り終え、身を引く予定だったマイケル・ベイが、敢えてこの新作でも監督を引き受けた理由は何なんだったのか。 勿論、単に自分が培ってきた人気シリーズを他人の手に任せたくないという思いもあったのだろうとは思うが、この映画の仕上がりを見たところでは、それ以外の明確な「意思」があるに違いないと思う。  もはや突っ込むことも馬鹿らしく思えるほどに、今作は「中国資本」による「広告」のオンパレードである。クライマックスを含めた後半は、完全に中国映画であり、中国のPRビデオである。  当然ながら、映画は“お金”がなければ作ることは出来ない。 そんな中で潤沢な資金力を誇る中国市場に、ハリウッドの映画産業が集中していくことは、もはや必然だろうと思える。 昔から映画の作品内で“スポンサー”の威光が示されることは決して珍しいことではない。  ただし、その“威光”が、今後更に度を越していくことを、稀代のブロックバスター映画監督であるマイケル・ベイは、この映画で示したかったのではないか。  嘲笑を携えながら、165分の広告映画を観終えた。 しかし、この映画が歴代最高額の興収をたたき出したという現実を知り、嘲笑すらも消え失せた。  明確に生じたこの「危機感」は、ある意味、映画史上において「貴重」なことなのかもしれない。
[CS・衛星(字幕)] 0点(2015-05-24 22:47:43)
320.  ザ・イースト
「ミイラ取りがミイラになる」というあまりに有名なことわざ一つで済まそうとすればそれまでなのだが、映画のストーリーテリング自体はオーソドックスだったと思う。 ただ対象となる素材が、過剰なテロまがいの行為を展開する正体不明の環境保護集団であるという点は、極めて時事的で興味を引いたポイントだった。  そういう時事的な要素を用いれているだけに、描き出される現代社会の病理性はリアルで、実際世界中が注視しなければならない問題だったと思う。 主人公は、元FBIの民間警備会社調査員の女性で、前述のことわざの通りに、謎の集団の在り方にシンパシーを感じ次第にのめり込んでいく様は、スリリングであった。 決して盛りすぎることなく抑えた緊張感を持続させた演出も高水準だったとは思う。  ただし、だ。結局、最終的に得られた映画の印象は「軽薄」という一言に落ち着いてしまった。  この映画における最大の欠落は、主人公のバックグランドがあまりに描かれていないことだと思う。 展開されるストーリー上では、主人公の感情はしっかりと描かれているし、演じているブリット・マーリングの演技も良かったと思う。(彼女は今作の脚本も手がけているらしく、とても才能豊かな人なのだろう。)  しかしながら、この主人公がなぜこの「仕事」に執着するのか、そもそもなぜにFBIに入り、退職し、得体のしれない民間の警備会社に在籍しているのか。 ここまでに至った主人公の人生模様がまるで見えてこないことが、全編を通して彼女の言動の理由付けを曖昧にしてしまっていて、結果として映画全体において感情移入できない要因となってしまっている。  その他の環境保護集団の面々の人物描写もどこか浅はかだった。それぞれが自らの人生を賭して環境破壊に対しての過激な警鐘活動に取り組んでいるわけだが、彼らの行動原理についても語られ方が浅く、そこにあるべき悲壮感が伝わりきらなかった。  そして、最後の“オチ”の見せ方があまりに粗末過ぎる。  「だいたい分かるでしょ?」と言いたいのだろうけれど、一介の調査員の一人に過ぎない彼女があの後どうやって巨悪を陥れていったのか、あまりに説明不足で腑に落ちない。  このところ益々“不気味”な存在感を高めているエレン・ペイジをもう少し有益に使うべきだったとも思う。あの段階でのフレームアウトは少々勿体無い。  非常に興味深い作品だっただけに、根本的な部分での欠落があまりに勿体無く、映画としての価値を大いに下げてしまっている。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2015-05-24 01:39:36)(良:1票)
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