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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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301.  15時17分、パリ行き
何という豪胆で巧い「映画的話法」だろうか。 キャスティングにおける「特異性」は当然認識した上で鑑賞していたが、現実のフランス大統領本人から勲章を授与されるラストシーンを観ながら、思わず「うまく合成してんなー」と思ってしまった。 「あ、いやいや本人だ」と一寸遅れて思い直すくらいに、主人公らを演じたこの事件の“当事者”たちの演技には違和感がなかった。  2015年、実際にヨーロッパの高速鉄道タリス内で発生した銃乱射事件を描くにあたり、その現場に遭遇し、事件に立ち向かったアメリカ人の若者3人をはじめとする当事者(無論演技素人)たちを主演に起用するというあまりに常軌を逸した映画企画を立案し、成立させ、きっちりと良作を生み出してしまうクリント・イーストウッドという“映画人”は、本当に本当に映画に愛されているなと思う。  イーストウッド監督は、「アメリカン・スナイパー」、「ハドソン川の奇蹟」、そして本作と、この数年特に現実世界の中で実際に起こった社会的事件を精力的に映画化している。 題材の種類自体はバラバラだけれど、その根幹にある性質と、描き出そうとするテーマ性には揺るがないものを感じる。  それは即ち、現代社会における「アメリカ人」の在り方を問うということに尽きる。 それぞれの映画の主人公たちは、みな一つの「正義」や「信念」を背負って生きている。 ただし、彼らは一様に惑いと脆さを孕み、あらゆるしがらみや重圧に耐えながら苦闘する。 そこには、様々な側面でアンビバレントな理想と現実を抱える現代のアメリカ社会の中で生まれ、生きるアメリカ人の生き辛さのようなものが如実に映し出されているように感じる。  それはまさに、クリント・イーストウッド自身が今現在何よりも強く感じている、自国に対する憤りと悲しみなのだろう。 だからこそ、この御年89歳(2019年8月現在)の巨匠は、実際の事件発生から間髪を入れず、アメリカという国と、アメリカ人の「今現在」を映画として描き出すことに情熱を注ぎ続けているのだと思える。  そして、アメリカ映画史を代表するスター俳優でもあるクリント・イーストウッドは、観客に対して「娯楽」と「希望」を提示することを忘れない。 息が詰まりそうな世の中(アメリカ)だけれど、それでもこの国の人々は、何時だって誰だって“英雄(ヒーロー)”になれるんだ。ということを映画の主人公たちを通してひたすらに伝え続ける。 本作の主人公に演技経験がまるでない「素人(ただのアメリカ人)」を起用したのは、まさにそのメッセージの具現化に他ならない。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2019-07-28 00:23:32)(良:2票)
302.  スカイスクレイパー
コレは非常に良い“タワーリング・インフェルノ+ドウェイン・ジョンソン”映画だ。想定外の大満足感に高揚した。  どうせ、例よって超高層ビルで大火災が起きて、我らがロック様が超人的に救出劇を繰り広げるのだろうと高を括っていた。そして、その通りの映画だった。 まったく想定通りのストーリーテリングだったにも関わらず、想定外の満足感を得られたことが凄いことだと思う。  言うなれば、この手の“ジャンル映画”を好んで観ようとする輩は、映画的に新鮮な驚きなど端から求めていない。 ただ、過去の映画遍歴を踏まえて、押さえておいてほしい“娯楽ポイント”が幾つかあって、そのポイントを幾つ稼がせてくれるか、興味はそこに尽きる。 もちろん、その娯楽ポイントは、人それぞれなのだが、個人的には、この手の娯楽映画に必要な要素を漏れなく網羅した「お手本」のような作品だったと思う。  監督のローソン・マーシャル・サーバーはきっと自他ともに認める“ボンクラ映画ファン”なのだろう。 随所に過去の数多の傑作映画から引用された要素が散りばめられていて、こちらも一ボンクラ映画ファンとしてニヤニヤしっぱなしだった。 香港を舞台にした「燃えよドラゴン」オマージュは言わずもがな、「ダイ・ハード」から「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」に至るまで古今東西のあらゆるアクションエンターテイメント映画を彷彿とさせる数々のシーンは、決して安直な“パクリ”というわけではなく、愛情と尊敬をもって演出し表現されていたと思う。 だからこそ、ひたすらに楽しく、興奮することができた。  そして、やはりドウェイン・ジョンソンの圧倒的な存在感も無視できない。 何かのインタビューでも彼自身が語っていたが、ドウェイン・ジョンソンがドウェイン・ジョンソンであり続けることを貫き通したからこそ、このプロレスラー出身の俳優は、ハリウッドというバトルロワイヤルの中で勝ち残り、アクションスターの地位を確立したのだと思う。 様々な映画で全く違う人間を演じているのに、彼の左半身にはルーツであるサモアを象徴するタトゥーが刻み込まれている。普通に考えれば、それは鑑賞者にとって違和感であり、映画俳優にとってデメリットでしかない。 だが、世界中の多くの映画ファンはその象徴であるタトゥーも含めて、ドウェイン・ジョンソンという俳優を受け入れ、愛している。もはや、ドウェイン・ジョンソン主演映画であのタトゥーを見られなければ、逆に物足りなさすら感じてしまうと思う。 それこそが、彼が「自分」というアイデンティティを貫き通した証であろう。 そういったアクション俳優の存在感も含めて、このパニックアクション映画は「ザ・王道」だと思える。素晴らしい。  あ、そうだ、“粘着テープ”を買いに行かなくちゃ。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-06-30 11:49:21)
303.  ジオストーム
予告編からひしひしと伝わってくる愛すべき“B級感”から、「劇場鑑賞すべき」という嗅覚は利いていたのだけれど、結局見逃してしまったことを只々後悔。  90年代からの災害パニックムービー(ディザスター映画)ファンとして断言できるが、これは良い災害パニックムービーだ。 作り手は、この手のジャンル映画の何たるかをよく分かっている。と、思えば、監督はディーン・デヴリンか。 90年代にローランド・エメリッヒ監督とのコンビで、「インデペンデンス・デイ」「GODZILLA」を生み出したこの映画人であれば、今作の良い意味で馬鹿馬鹿しくて大仰な災害パニックの構築は激しく納得できる。  また、エド・ハリス、アンディ・ガルシアら90年代に活躍したスター俳優のキャスティングもツボを心得ている。 そして主演のジェラルド・バトラーが異常気象並みの熱波を発しつつ、剛健な主人公像を体現している。  ムンバイでの大寒波に始まり、地震、火山噴火、巨大竜巻、巨大雹害、雷災害、巨大津波、と世界中のあらゆる都市で、通常は気候的に起こりえない大災害のオンパレード。それはまさに、“天変地異”のオールスター映画である。 その一つ一つの災害シーンを決して手を緩めることなく、とことん大袈裟に、とことん絶望的に映し出してくれる。 その様を見ているだけで災害映画として満足するしかなく、更にはそこにアメリカ政府の陰謀論と、宇宙空間からの絶体絶命のサバイバル劇まで、ストーリーの具材を盛りに盛ってくる。  いやあ、これは頭を空っぽにして、映画館の大スクリーンで鑑賞すべきだったとつくづく思う。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2019-05-04 17:25:01)
304.  ブラック・クランズマン
愚かな憎しみと、悲しみ、怒り、その蓄積と連鎖。 もはや、レイシスト(人種差別主義者)を非難して、否定すれば済む問題でもなければ、そんな時代でもないのではないか。 映画の中のブラックジョークが、全く冗談になっていない今現在の現実社会を想起して、言葉が無かった。  こういう映画を観て、“分かったつもり”になること程愚かなことはない。 スパイク・リー監督による映画的なバランスを度外視したメッセージ性は強烈に突き刺さる。が、だからと言ってそれを一方的に丸呑みすることも違うだろうと思う。 「アメリカの闇」なんて便利な言い回しで片付けるのも違うし、「闇」と言うならば、これは世界中全ての国と人間が共通して孕む暗部であろう。 対岸の火事と客観視できるわけもなく、まずは突きつけられたこの現実を直視するしかないと思う。まさにアメリカの国民に限らず、全世界に対して「目を覚ませ!」ということなのだろう。  映画内では、白人のレイシストたちがおぞましく、滑稽に、糾弾すべき対象として描かれているけれど、同時に彼らの悲哀も炙り出されている。 教養もなく、富もなく、ステイタスもない“団体”の面々は、せめて自らの存在価値を繋ぎ止めるために、必死になって創り上げた差別意識と被害妄想の中でしか生きる意義を見出だせない。 なんて悲しいのだろう。 差別される黒人の悲しみを越えて、差別をする白人の悲しみが描き出されているように見える。そんな愚の骨頂を目の当たりにして、結局、どちらが本当の意味で“可哀想”なのか分からなくなった。  主人公を含む刑事たちは「KKK」への潜入捜査を“一応”成功させる。 しかし、痛快なラストの顛末も束の間、主人公は「闇」の果てしなさを垣間見せられる。 結局、何も解決していないし、長い年月の中で闇雲に広がった憎しみは、虚無的に増殖し続けている。   映画の最後には、現実社会の悲痛な実映像が映し出される。 この実映像挿入の是非については議論の余地がある。個人的にも、こういう形で最後に実映像を加えてくる作品は、映画表現としてアンフェアなような気がしてあまり好きではない。 ただし、本編撮影終了後に実社会で起こったあの事件の実映像を、映画的なバランスを崩してでも挿入した、いや挿入せざるを得なかったスパイク・リーの意図もよく分かる。 それは即ち、この映画が、70年代のノンフィクションを題材にした実録映画ではなく、「現在」の映画であることの“宣言”なのだろう。 映画史における将来的な評価よりも、今この瞬間に対する問題提起と怒りを示すことの重要性と必要性を、スパイク・リー監督は最優先にしたかったのだと思う。  差別意識の問題は、アメリカ社会に限らず、全世界の現代社会における最重要課題だ。 それは社会に蔓延しているよりも、私達人間の一人ひとりの内面に蔓延る病原菌のようなものだと感じる。 根本の解決策などその存在の有無すら懐疑的だけれど、これまでとは違うアプローチが必要なのは明らかだ。  そういう意味で、この確固たる「娯楽映画」が、エンターテイメントの中で表現してみせたことは、この先の時代に向けて意義深い。
[映画館(字幕)] 8点(2019-04-18 09:45:24)
305.  キャプテン・マーベル
“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”は、最終章「エンドゲーム」公開を直前に控えたこのタイミングで、唯一欠けていた“ピース”を埋めてきたのだと思った。 多種多様なスーパーヒーロー達を描き連ね、「正義」という概念に対する様々な価値観と、それに伴う結束と決裂と崩壊を、MCUは大エンターテイメントの中で映し出してきた。 そんな中において、唯一にして明確に欠けていた要素があった。それは映画企画としては後発の“DC”では先に表されていたものでもある。  それは即ち、「時代」に即した、圧倒的に強く魅力的な女性ヒーローの存在だ。 無論、これまでのMCUの作品群の中でも、強くて魅力的な女性キャラクターは数多く登場する。 ブラック・ウィドウ、スカーレット・ウィッチをはじめとするアベンジャーズメンバーは勿論、ペギー・カーターやマリア・ヒルなどS.H.I.E.L.Dという組織を支えてきた面々、ガモーラやワスプなど主人公キャラをも凌駕する強さを発揮するキャラクターも幾人も登場している。 だがしかし、彼女たちはすべてスーパーヒーローやリーダーをサポートする役割であり、物語の“主人公”にはなり得ていなかった。 新たな時代の価値観を踏まえて、それぞれの作品のストーリーを紡いできたMCUであるが、その女性キャラクターの偏った立ち位置においてはあまりに前時代的だったと言わざるを得ない。  そんなシリーズの文脈の中でついに登場した女性ヒーローが、今作のキャロル・ダンヴァース=“キャプテン・マーベル”なのだと思う。 それはまさに、ライバルDCエクステンデッド・ユニバースが、起死回生の傑作となった「ワンダーウーマン」で成し得たことそのものであり、作中の類似性も含めて「ワンダーウーマン」が無ければ、今作は誕生しなかったのではないかとすら思える。  ただ単に強い女性ヒーローを誕生させただけであれば、それこそ「ワンダーウーマン」の真似事に過ぎないところだが、そこは流石のMCU、しっかりと大河の本流に組み込ませつつ、想定を大いに超える圧倒的な無双ぶりを展開させ、問答無用の高揚感を与えてくれる。 若きニック・フューリー(aka サミュエル・L・ジャクソン)を“相方”とすることで必然的に生じる軽妙な台詞回しとユーモアも全編通して気が利いており巧い。   「感情的」で何が悪い? 怒り、悲しみ、泣き、笑い、「女」は何度だって立ち上がる。 その神々しいまでの勇ましさは、「インフィニティ・ウォー」によるあまりに大きな絶望感に対してようやく生まれた一筋の光だ。 とにもかくにも、ニック・フューリーが最後の最後まで隠し持った“切り札”はとんでもなかった。
[映画館(字幕)] 8点(2019-03-23 13:18:42)(良:1票)
306.  スパイダーマン:スパイダーバース
アメコミ映画最盛期の現在において、「スパイダーマン」こそがそのムーブメントの発端だったと思う。 2002年のサム・ライミ監督による「スパイダーマン」の成功を皮切りに、数多のコミックのスーパーヒーローたちが実写化され、それぞれの物語が映画文化の中で綴られてきた。 「スパイダーマン」自体は、この十数年に渡るムーブメントの中で、実に三度リブートされ、いずれも絶妙に異なったキャラクター造形と共に、それぞれが「親愛なる隣人」の魅力的な活躍を描き出してきた。  つまるところ、我々はこの十数年間の中で、知らず知らずのうちに“スパイダーマンたち”が織りなす多元世界を「体験」していたと言えるのではないか。 トビー・マグワイア演じるピーター・パーカーも、アンドリュー・ガーフィールド演じるピーター・パーカーも、トム・ホランド演じるピーター・パーカーも、みなパラレルワールドの中で同時に存在する“スパイダーマン”なのだという認識が今となってはしっくりくる。  無論、各シリーズの映画企画においてそんな相互意識は存在しないのだけれど、結果的に殆ど間髪入れずに製作された三様の「スパイダーマン」シリーズの根底には、この愛すべきスーパーヒーローがそもそも携えていた“多様性”が存在していたのだと思える。 その“多様性”が具現化したものこそ、並行世界(=パラレルワールド)の“スパイダーマンたち”を描くという“アイデア”だったのだろう。  あらゆる領域と世界観を超えて展開されるストーリーテリングが素晴らしい。 それは即ち現実社会においても並行して存在するコミック文化の融合でもあり、様々なアニメーション手法を縦横無尽に行き来するような自由闊達な表現が脳内を駆け巡る。  “ボーダーレス”の実現を掲げ、それ故の軋轢の拡大が止まらない現代社会において、この映画が「表現」するものの価値は大きく、だからこそ今この映画が生まれた理由もよく分かる。 どんなに孤独で苦しい闘いを強いられていたとしても、「一人ではない」ということに気づくだけで、大きな勇気を得られる。そして、声援を送ってくれる「隣人」は必ず存在する。 このクールでセンセーショナルに見えるアニメーション映画が伝えるものは、あまりにも普遍的で熱い真っ直ぐなメッセージだった。
[映画館(吹替)] 8点(2019-03-21 18:31:54)(良:1票)
307.  ファースト・マン
これは褒めているのだが、想像よりもずっと陰鬱で、地味な映画だった。 人類史に残る「偉業」と共存していた“心の傷”と“孤独”。光と闇を等しく抱えたまま、「偉大な一歩」を残した“最初の男”の人生そのものを、俯瞰するようなシビアな目線で、リアルに映し出していた。  「アポロ計画」を題材にした映画作品といえば、筆頭として挙げられるのは「アポロ13」だろう。絶望的なトラブル(=ミッション失敗)からの奇跡的な生還を描き、王道的な感動で世界を包み込んだ1995年の傑作は今尚色褪せない。 普通に考えれば、歴史的成功をおさめた「アポロ11号」を描いた今作は、「アポロ13」以上の“大感動”を与えてくれそうなものだ。 だがしかし、その安易な想定は全くの見当はずれだった。「失敗」を描いた「アポロ13」の華々しい達成感に対して、「成功」を描いた今作がこれほどまでに重く苦しい映画に仕上がっているとは。 その意外な後味が、何とも興味深かった。  ただ、よくよく考えれば、その苦々しい後味は至極当然のことだ。なぜなら今作は、デイミアン・チャゼル監督の映画なのだから。 「セッション」、「ラ・ラ・ランド」と立て続けに、映画的な熱量と、人間のほとばしる情念に溢れた作品を生み出し、一躍ハリウッドのトップに駆け上がったこの若き名匠が、ストレートに感動的な伝記映画など撮るわけがないのだ。 「人類史上初の月面着陸」という偉業を描くのではなく、ニール・アームストロングという現代の偉人の半生と、彼のインサイドを深く深く抉り出すようなアプローチにより、この映画は極めて繊細で、危うさを秘めた作品に仕上がっている。  一人の男を描いたストーリーテリングの中で刻み付けられたのは、明確な「死」と「喪失」の連続だった。 幼い娘を亡くし、志を共にした仲間を亡くし、ミッションに向き合い、緊張と恐怖が深まると共に、主人公は盲目的な使命感と際立つ孤独感に苛まれる。その様は、誰よりも勇敢ではあるが、何とも心もとなく見え、痛々しさすら感じる。 そんな彼の生き様を映画を通じて追想することで、50年前の偉大な冒険が、いかに危険で絶望的なものだったかを思い知った。  ラストシーン、地球に帰還した主人公ニール・アームストロングは、感染予防のため隔離された部屋のガラス越しに妻と再会する。 今生の別れを覚悟した夫婦の再会シーンなのだから、もっとわかりやすく感動的に描けたはずだが、ここも極めて抑えたトーンで描き出される。 それは、月に辿り着き帰還したことで、この二人が抱え続けてきた喪失感が、少しずつ埋まり始めたことを噛み締めているようにも見えるし、全く逆に、一度離れ始めた心と心はもはや簡単に重なり合うことは無いということを示しているようにも見える。(因みにこの夫妻は38年の結婚生活を経て離婚しているそうだ)  ふと思う。苦々しく、辛らつな後味の正体は、あまりに普遍的な或る夫婦の物語だったのではないかと。
[映画館(字幕)] 8点(2019-02-11 21:47:02)
308.  アノマリサ
冒頭から、強烈な“違和感”を突きつけられる。 或る都市へ向かう飛行機内の乗客たちの何気ない会話音のはずだが、なんだか物凄く気持ちが悪い。 その理由が、乗客の声がすべて同一の無機質な男の声であることに気づくのに時間はかからないけれど、なぜそんな奇妙な設定になっているのか、得体の知れない世界観に突如放り込まれたような感覚を覚えた。  カスタマーサービス業における啓発で名声を得た主人公は、見るからに憂鬱な眼差しを携えつつ、講演のため異国の街に降り立つ。うつ病を患っているらしい彼は、自分以外の周囲の人間がすべて同じ顔に見え、同じ声に見える。 ストップモーションアニメによる絶妙に悪趣味な造形も手伝って、人形とは思えないリアルな描写が妙に生々しく、痛々しく、居心地の悪さに包み込まれる。  某動画配信サービスのラインナップの中から、特段予備知識も入れないままに鑑賞を始めたこともあり、「何を見せられるのか?」という期待と不安が入り混じった感情が、展開とともに、徐々に確実に大きくなっていった。  ストーリー展開自体は極めてミニマムだ。 翌日の講演のために前泊したホテルでの一夜を、過剰とも言える細やかさで描き連ねている。 主人公の一挙手一投足を並べ連ねていくことで、彼が抱える鬱積と闇が自然に見え隠れする。 そして、この男の、生々しく痛々しい様を見るにつけ、彼が何故ゆえ世界から孤立し、奇妙な環境の中で生きざるを得なくなっているのかが見えてくる。  主人公の正体、そして映画の正体の輪郭が見え始めた頃、「ああ、そうか、これがチャーリー・カウフマン(の映画)だったな」と思い出した。 「マルコヴィッチの穴」しかり、「アダプテーション」しかり、“こじらせオヤジ”を描かせたら、やはりこの人の右に出る者はいない。  ラスト、自宅に帰り着いた主人公は、再び孤立し、“玩具屋”で土産に買った壊れた奇妙な絡繰人形と対峙する。 まさかの「桃太郎」を歌う(気持ち悪い!)その人形を前にして、果たして彼は己の愚かさに気づいたのだろうか。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-02-07 23:30:25)
309.  The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ
何とも言えぬ後味。感情の深い部分にねっとりとへばりつくような余韻も残しつつ、潔さも感じる。 監督はソフィア・コッポラ。そう、彼女の映画はいつだって痛々しいほどに、潔い。  南北戦争の最中、負傷し南部の森の中を彷徨う北軍兵士の男が、自給自足の暮らしを営む女学院にたどり着く。女性の園に突如として現れた異分子(=男性)をめぐり、恐怖と、疑心と、抑えきれない欲望が渦巻く。 序盤から、ソフィア・コッポラらしい繊細かつ艶めかしい女性描写が際立っている。 森の中で鼻歌交じりに“キノコ”採取に勤しむ少女の描写からはじまり、溢れ出る欲情を抑え込みながら負傷兵の体を丹念に拭く校長(ニコール・キッドマン)、鬱積した人生からの解放を望む教師(キルスティン・ダンスト)、早熟で積極的な少女(エル・ファニング)、一人ひとりの女性の押し隠してきた感情が徐々に確実に露わになっていく様が、丁寧に描き出される。  この映画を「潔い」と感じたのは、まさにその女性たちの感情の変化に焦点を絞り、他の要素を極力排除していることだ。 舞台となる女学院の背景や、負傷兵の人物像については、敢えて表面的な表現に留め、不要なドラマ性を避けているように見えた。 そうすることで、女性たち個々人の人物像と感情が、シンプルに際立っていたのだと思う。  恐怖と疑心を経て、女性たちはときめき、欲情し、葛藤と嫉妬が次第に憎悪へと変遷していく。 その感情の流れのみに焦点をあて、没入していくことが、この映画で堪能すべき要素であり、この映画世界の魅力であろう。  今作は、1971年公開の「白い肌の異常な夜」のリメイクとのこと。同作が主演のクリント・イーストウッドが演じた負傷兵(男性)の目線で描き出されたのに対し、今作は女学院の面々の目線から描き出したことで、リメイクの価値、改変の価値を高めたのだと思う。 最初からソフィア・コッポラ自身が主導した企画だったのだと思うが、極めて的確なチョイスだったと思える。
[DVD(字幕)] 8点(2018-11-29 23:27:56)
310.  タリーと私の秘密の時間 《ネタバレ》 
長女7歳、長男4歳を持ち、共働きの妻とともに、“子育て”をしてきたつもりの父親(自分)にとっては、問答無用に身につまされる作品だったことを、先ずは認めなければなるまい。  日本語タイトルに「時間」という言葉が使われているが、子を育てる、つまりは「親」という立場で生活を送ることにおいて、母親と父親ではまさに「時間」という概念の在り方と、体感が全く異なるのだと思う。 それくらいに、子育てにおける母親と父親の負担は、アンバランスだ。 僕自身そうなのだが、恐らく世界中の殆どの“父親”は、そのことを半分気がついてはいるけれど、目を伏せ、耳をふさぎ、気がつかないふりをしている。  この映画は、シャーリーズ・セロン演じる主人公の母親と、とある“ナイトシッター”との交流を描く物語だ。 日本では殆ど聞き馴染みがないが、“ナイトシッター”とは文字通り母親の就寝時間に乳幼児の見守りと世話をしてくれるベビーシッターとのことで、欧米ではポピュラーになりつつあるらしい。  ナイトシッターの“タリー”は、毎晩22時過ぎに訪れる。そのため、今作は必然的に「夜」のシーンが圧倒的に多い。 だがしかし、この映画の各シーンは、「夜」であるという“意識”を意図的に避けるかのように、明るく、温かく、色鮮やかに映し出される。 したがって、観客は知らず知らずのうちに、育児ノイローゼで疲弊した主人公の心労が、“タリー”の存在によって癒やされ、回復していっているものだと、疑う余地もないくらいに……“刷り込まれる”。 結果、観客にも、主人公本人にすら、夜を夜と感じさせないことが、逆説的にこの物語が孕む普遍的な深刻さと問題の重さを表していた。  監督は、「JUNO/ジュノ」、「ヤング≒アダルト」のジェイソン・ライトマン。両作とも脚本を担ったディアブロ・コディとの三度のタッグによる作品世界の安定感は抜群で、ストーリーテリングは勿論のこと、映画作りが流石に巧かった。 序盤から、“上手な映画”の心地よさを堪能することができた。  そしてなんと言っても、シャーリーズ・セロン姐さんの、演技力、存在感、役作り、それらすべてをひっくるめた「女優力」が相変わらず物凄い。 彼女は、3人目の子を妊娠・出産する母親役を演じるにあたり、約20kg増量したという。 前作が昨年公開の大傑作アクション映画の「アトミック・ブロンド」だっただけに、その“体格差”に只々愕然とせざるを得ないし、見事すぎる程に体を仕上げ、全く異なる女性像を体現しきった様には、感嘆するしかない。   驚きの顛末と共に描き出された「真相」の正体が、あまりにも普遍的でありふれた課題だったからこそ、この映画表すテーマ性は非常にヘヴィーだ。 親になり、子育てという営みに向き合う以上、きっとこの課題が丸々解消されるなんてことはあり得ない。 ただし、それを分かち合い、共有することはできる。  閉鎖的なヘッドホンを外し、隣り合ってイヤホンを共有するだけで、たぶん大抵のことはうまくいく。ということを心に刻み、ひたすらに猛省&猛省。
[映画館(字幕)] 8点(2018-10-25 20:37:17)
311.  アンダー・ザ・シルバーレイク
久しぶりにイカれた映画を観たな。と、新宿バルト9を後にした。 “ヒッチコック+リンチ=悪夢版ラ・ラ・ランド”的な寸評コメントは、やや安直にも聞こえるが、確かにそう感じずにはいられない空気感が随所に感じられた。 二十歳になったばかりの頃に観たデヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」鑑賞後の困惑を彷彿とさせられた。  ただ、「マルホランド・ドライブ」ほど難解で手がつけられないということではなかった。 ストーリーテリングはいかにも混沌としているけれど、紡ぎ出された事の真相と顛末は意外にシンプルだった。  三十路を過ぎて、恋に破れ、夢に破れ、己の人生を見いだせないまま空虚な生活を送る主人公が、不意に訪れた出会いと喪失に端を発して、盲目的に、破滅的に、人生の意義を掴み取ろうとする話。 主人公は、或る種の強迫観念にせっつかれるように、世の中に渦巻く(かもしれない)陰謀論と暗号の解読に、自分の“居場所”を見出そうとするわけだ。 結果として、確かに暗号はあった。そして、主人公は自分の知り得なかった世界を垣間見る。 しかし、それだけだ。 暗号を解き、この世界に隠された理を知ったところで、そこに彼の居場所はなかった。彼はその真理を思い知り、打ちのめされる。  果たして、彼は、この淫靡で妖しい冒険を経て、何かを得られたのだろうか、空虚な自室を出て、新たな世界を踏み出せたのだろうか……。 当然ながら、このヘンテコリンな映画が分かりやすいハッピーエンドを描くわけもなく、熟女とのセックスの後に気だるく佇む主人公の姿を映し出し終幕する。  カオス。しかし、この“混沌”は映画世界と現実世界の境界線を、フクロウ女のように奇妙に、強引に、越えてくる。
[映画館(字幕)] 8点(2018-10-25 01:52:04)
312.  ミッション:インポッシブル/フォールアウト
このスパイ映画シリーズが、アクションエンターテイメントの最先端となって久しい。 毎年、数多のアクション映画が量産され続けているが、特に2011年の「ゴースト・プロトコル」以降は、“THE 娯楽活劇”のトップランナーであることは間違いないだろう。 そして、その要因はあまりにも明確だ。 唯一無二の主演俳優であり、製作者でもあるトム・クルーズが、心からの敬意を込めて「馬鹿」と付けたくなるほど、映画人としての努力と挑戦を惜しまずに、このシリーズ作を作り続けているからだ。 前作「ローグ・ネイション」で、彼と、今シリーズに対する信頼性は極まり、スタッフとキャストがほぼ続投となったこの最新作も、必然的に信頼に足る最高級のアクション映画に仕上がっている。  サブタイトル「Fallout」は、“仲違い”や“悪いことが起こる”、そして「死の灰」という意味を持ち、ストーリー展開をうまく表現したものだったと思うが、シンプルに「落ちる」というニュアンスも含まれているように思う。 そのサブタイトルが示す通り、「落ちる」という演出に固執したアクションとストーリーテリングが、もはや“偏執的”ですらあり、ひたすらに盛り込まれる“落下アクション”の連続には、相変わらず“映画馬鹿”な大スターの気概を感じずにはいられない。  シリーズ過去作をきっちりと踏まえたストーリーはよく練られており、主人公イーサン・ハントというスパイの男が持たざるを得ない宿命と辿らざるを得ない運命を、哀しく、切なく、ドラマティックに紡いでいると思う。 前作の顛末と地続きのストーリーラインも上手く作用しており、IMFメンバーとのチーム感、敵役との関係性等、より深い描き込みが胸熱だった。  ただし一方で、前作「ローグ・ネイション」の映画としての纏まりがあまりにも素晴らしかっただけに、その見事さと比較すると大仰でとっ散らかっているようにも感じる。 個人的には、目新しいギミック描写が殆ど無く、お約束のドレスアップシーンも無かったことは、マイナス点として挙げざるを得ない。  とはいえ、55歳を超えた稀代のスター俳優が、またもや全力で疾走し、実際に大怪我をする程のアクションを体現し、満身創痍になりながら、最後には世界を救って笑ってみせる。 その笑顔一発で、些細な難点などは霧散し、最終的には映画人としての尊敬と、圧倒的娯楽に対する感謝しか残らない。
[映画館(字幕)] 8点(2018-08-15 21:20:10)
313.  ジュラシック・ワールド/炎の王国
ラスト、貫禄たっぷりに年老いたマルコム博士が、「ようこそジュラシック・ワールドへ」と強い眼差しで言い放つ。 前作では「テーマパーク」の呼称だった“world”が、真の意味の“world”に転じた瞬間、前作で生じていた消化不良感は消化され、シリーズを通じた高揚感を覚えた。 原題「fallen kingdom」が指し示す真意がラストに際立ち、腑に落ちる。多少トンデモ展開であることは否めないけれど、こういうSF的暴走は、個人的に大好物なのだ。  至極当然なことではあるが、「ジュラシック・パーク」シリーズは「SF映画」であるべきだと思っている。 SF作家のマイケル・クライトンが著し、スティーヴン・スピルバーグが蘇らせた「失われた世界」には、常にSF的主観があり、物語に登場する科学者や博士の目線によって綴られるからこそ、あたかもフィクションの境界を超えた“実像”として、僕たちの目に映ったのだと思う。 その“博士の目線”が薄れ、単純なヒーロー&ヒロインもののアドベンチャーに終始していたから、僕は世界的大ヒットとなった前作に今ひとつ乗り切れなかったのだと思う。  今作も、主演コンビが続投となり、主要キャラクターの中に明確な科学者や博士は存在しないが、前述の通り、冒頭とラストのみにカメオ出演的に登場するマルコム博士の存在感が利いている。 彼が如何にも意味ありげに博士的見解を発するからこそ、良い意味でB級的なSF映画色が際立っている。流石はジェフ・ゴールドブラム(ファン)である。  また、日本語タイトルの「炎の王国」を軽くいなすように展開される“舞台チェンジ”も見事だ。 噴火する孤島を舞台に大仰だけれどありきたりな大スペクタクルが展開されるのだとばかり思っていたが、“ゴシック屋敷”への大胆な舞台変更により、映画のテイストはまさかの“ゴシック・ホラー”に転じる。 改造人間ならぬ“改造恐竜”が、大屋敷内を所狭しと暴れまわったかと思えば、雷光を浴びた恐ろしげな影がじわりじわりと少女に迫りくる。 前半の火山島シーンも含めて、映画的なビジュアルセンスに優れた気鋭のスペイン人監督(フアン・アントニオ・バヨナ)に、この最新作の舵取りを担わせたことは、大ファインプレーだったと思える。   生命の理を超越して蘇り、生き延び、進化した恐竜たちは、生命として進むべき新たな道を辿る。 一度放たれた生命を“檻”で囲うことなど不可能だ。 T-REXの咆哮は、その真理を高らかに宣言しているようだった。   かつて偉大な恐竜映画は、一人の恐竜ファンの少年を興奮で包み込んだ。 あれから25年、36歳になった少年は、彷彿とされる興奮と共に、あの1993年の夏を思い出す。
[映画館(字幕)] 8点(2018-07-21 22:01:28)
314.  犬ヶ島
「日本」という国は、なんて奇妙で、ユニークで、興味深い国なんだろう。と、思う。 日本人でありながら、この映画を観ていると、この国の「異質」さに頭がクラクラしてきた。 それは、決してこの映画がいわゆる“トンデモ”日本描写に溢れているというわけではない。 日本の文化と風土を愛してくれている稀代のクリエイターが、懇切丁寧にこの国の本質を表す描写を積み重ねている。 その結果として、こんなにもエキセントリックな映画が出来上がるのだから、それは即ち、やはりこの国そのものが本当にエキセントリックということなのだろう。  “今から20年後”という時代設定も巧い。この表現により、この先いつどの時代に今作を観たとしても、近未来を描いたディストピア映画のように見える。 そして、映し出される映画世界は、過去も未来もあらゆる時代が混濁している。それは、この物語がどの時代にも当てはまる悲哀と戒めを秘めていることの暗示でもあろう。  権力と暴力により虐げられる対象を「犬」としてこの物語は綴られているが、その光景はまさに今なお続く人間の負の歴史そのものだった。 もしこれがそのまま「人間」が虐げられる話として描き出されていたならば、とてもじゃないが直視できない。 けれど、人間の“隣人”である「犬」に置き換えて、独特の風合いのストップモーションアニメで映し出すことで、映画としての可笑しみが生まれ、同時に胸に刺さる悲しみや辛辣さも孕むことに成功している。  ウェス・アンダーソン監督ならではのフェティシズムに溢れたユーモラスでブラックな快作である。 コレ程偏執的な「日本愛」を示されては、日本人として、映画ファンとして、ニマニマしながら観るしかなかった。
[映画館(字幕)] 8点(2018-06-21 09:23:39)
315.  レッド・スパロー
女優の肢体が艶やかに烈しく躍動し、映画世界の内外で見ている者を“虜”にする。 “ハニートラップ”を極めたスパイを描くにあたり、今のハリウッドで“彼女”以上に相応しい女優は思い浮かばない。 即ちこの映画は、“ジェニファー・ローレンス”という名の現在のハリウッドが誇る映画的芸術、映画的娯楽を堪能すべき一作だ。「辛抱たまらない」とはまさにこのことである。  「冷戦」の空気感が色濃く残る時代に暗躍する“女スパイ”を描いた映画というと、昨年(2017年)の「アトミック・ブロンド」の鮮烈が記憶に新しい。 シャーリーズ・セロンが圧倒的な女優力で主演を務めた「アトミック・ブロンド」と、今作はあらゆる面で類似している。しかし、その類似性と、だからこそ際立つ独自性が興味深く、両作はある意味「対」となる“女スパイ映画”だと思う。  シャーリーズ・セロンがぐうの音も出ないアクション性と美貌で、映画世界を「支配」したのに対し、今作のジェニファー・ローレンスも全く別の「支配力」で魅せる。  かの“大国”同士の水面下での血で血を洗う鬩ぎ合いの中では、「正義」という言葉は意味を成さない。その見紛うことなき“修羅場”を「女」という唯一無二の武器一つで越えていく。 彼女が進みゆく道には、浅はかなフェミニズムなど無論存在せず、人道的な道理すら存在しない。ただひたすらに、その与えられた武器のみで死屍累々を超えていくしか、彼女に許された道は無かった。 文字通り体を張り、文字通り丸裸にされる全く新しい女スパイ像を、ジェニファー・ローレンスがこれまた圧倒的な女優力で、“惜しみなく”魅せてくれる。  この1990年生まれのまだまだ若い女優が、トップ・オブ・トップになり得ているのは、その“惜しみなさ”故だ。 この女優は、常に自分がその時にし得る「表現」に対して、出し惜しみがない。 ありふれた言い方をするならば、それは女優としての「覚悟」が群を抜いているということだと思う。 若い女優ではあるが、既に彼女は、自分がいつまでもそのままではいられないということをよく理解している。 だからこそ、今この瞬間の「美貌」を最大限に活かし得るこの役に挑んだように思える。  ストーリーテリング的に踏み込みが浅い部分は確かにある。“ハニートラップ”という要素をもっと深掘りした心理戦の妙が、具体的にストーリー上に含まれていたなら、映画的な価値は更に高まっていただろう。 しかし、そんなマイナス要因など補って余りある「女優」という娯楽性によって満足感は揺るがない。   ただ、映画として非常に面白かった反面、もろに冷戦時の危機感を引き起こすかのごとく、東西の軋轢を描く意欲作が立て続いているあたりに、映画世界を越えて、現実世界から漂ってくる“きな臭さ”を禁じ得ない。 主人公の悪しき叔父さんの造形を完全に“某大統領”に寄せていたのには、背筋が凍った。
[映画館(字幕)] 8点(2018-04-18 23:00:52)
316.  グレイテスト・ショーマン
サーカスが好きである。世界各国から集められた芸達者な精鋭たちが、あの限られた閉鎖的な空間の中で、無限にも感じるイメジネーションを繰り広げるエンターテイメント性は勿論、彼らが当然抱えているであろうパフォーマーとしての人生の機微や、決して綺麗事ばかりではないであろうショービジネス界の苦悩も含めて、圧倒される。  そんな“サーカスの祖”とも言える稀代の興行師の人生を軸に、“ショー”の中でしか生きる術が無かった者達の人生讃歌が、圧倒的な歌唱とダンスで映し出されていた。 ミュージカル映画好き、そしてサーカス好きとして、問答無用の高揚感に包み込まれたことは言うまでもない。  だがしかし、この映画のストーリーラインと語り口は、“空中ブランコ”のように極めて危うい。 その最たる要因は明確で、ヒュー・ジャックマン演じる主人公P・T・バーナムが、決して清廉潔白な品行正しい人間ではないからだ。 彼はあくまでも私利私欲のために(勿論、愛する家族を守るという大義名分はあるけれど)、いわゆる“フリークス(奇人)”を集め、笑いものにするための「見世物小屋」を始めたのだ。 その様をどんなに成功譚的に描き、“好人物”の世界屈指の代表格であるヒュー・ジャックマンが演じようとも、この主人公に対して非倫理観や不道徳性を感じてしまうことは否めない。  無論、そんなことはこの映画の製作陣は充分に理解している。理解した上で、それでも敢えて短絡的に思える語り口を貫き、ただただシンプルに主人公をはじめとするショーの中で生きる者達の生き様を歌い上げている。 この映画が素晴らしいのは、まさにその映画として潔い「態度」だ。 ほんの少し演出のバランスが悪かったり、別のキャスティングだったならば、主人公は勿論、他の登場人物たちの言動も決して受け入れられず、非難の的となっていたことだろう。  フリークス達は、「綺麗事」ばかりを振りかざして生きていくことなどできないこの世界の闇の深さを、他の誰よりも知っている。 倫理に反しようが、不道徳だろうが、そんなもの知ったこっちゃない。 誰に笑われ、誰に罵られようとも、「生きていく」という覚悟の上に、彼らの歌声は響き渡る。  ミュージカルシーンの華やかさと力強さは紛れもなく素晴らしい。ただそれによる娯楽性が、ストレートな多幸感には直結しない。終始一貫して、薄くへばりつくような居心地の悪さを感じる。それは即ち、この現実世界にはびこる居心地の悪さそのものなのだろう。 その映画としての試みが完全に成功しているとまでは言わないが、このミュージカル映画の目指した「表現」と「着地点」は、圧倒的に正しいと思える。  演者としては、ゼンデイヤ嬢が「ホームカミング」に続いて魅力的だった。彼女の溢れ出る魅惑的な異端性は、女優として今後益々唯一無二のものとなっていくだろう。 蛇足だが、ミシェル・ウィリアムズとレベッカ・ファーガソンに挟まれては、流石のヒュー・ジャックマンも辛かろうな。
[映画館(字幕)] 8点(2018-03-15 08:04:21)(良:2票)
317.  カーズ
ずうっと前に某有料BSチャンネルで放送されたものを録画していて、自分の子どもたちと一緒に観ようと、今まで何度も「再生」はしてみたのだけれど、現時点では彼らの好みに合っていないらしく、最後まで観通せないまま頓挫する日々が続いていた。 今年の正月三が日の最終日の午後、休み疲れが最高潮の中での子守の傍ら幾度目かの再生をして、ようやく最後まで見終えることができた。   ストーリーは、「王道」と言えばその通りだが、ベタ中のベタ。何度も途中まで観ていたことも影響し、ストーリーの顛末はほぼ寸分の狂い無く想定通りだった。 己の能力に過信し調子こいている“青い”主人公が、ふとした出会いにより、物事の真価を知り、成長を遂げる。 古今東西のあらゆる青春映画、スポーツ映画で見てきたあまりにありふれたプロットである。   だがしかし、主人公が真の「勝利」を得るクライマックスのレースシーンでは当たり前の様に高揚させられ、当たり前の様に涙が出た。 「王道」をベタベタに映し出して、それでも泣かせるエンターテイメント力がすごい。     当然ながらPIXAR映画の“恐ろしい”までのクオリティーの高さは熟知しているし、この「カーズ」シリーズ以外の作品はほぼすべて観ている。そしてその殆どの映画の大ファンだ。 それなのに、なぜこの作品だけ積極的に観ようとせず、HDDの中に録りっぱなしになっていたのか。   その要因は、今作のキャラクター造形に尽きる。 あの“クルマくん”的ないかにも子供だまし風な造形を長年受け入れられなかったのだ。 勿論、PIXARが単なる子供だましなものを創り出すわけがないことは分かってはいたのだが、公開当時の「何だコレ(嘲笑)」という第一印象がしつこく残り続けていた。   今回、改めてじっくりと鑑賞してみて、10年以上前のアニメーション技術に舌を巻いた。 主人公をはじめとする「車体」の光沢の美しさとメタリック感がまず凄い。 そして、その金属体を愛らしいキャラクター(=生物)として息づかせるという「矛盾」に溢れた所業はまさに「神業」の一言に尽き、それをさも当たり前の様に映し出していることが殊更に凄すぎる。   更には、車体そのものをキャラクターとすることで、この作品が伝えるべきテーマ性と娯楽性がよりダイレクトに伝わるようにもなっている。   分かっちゃいた。分かっちゃいたけど、子供だまし風に見せて全然子供だましじゃない作品クオリティの高さが、やっぱり恐ろしい。
[CS・衛星(吹替)] 8点(2018-01-03 23:36:25)
318.  パーティで女の子に話しかけるには
もっと若い頃にこの映画が公開されていたなら、人生の何かしらを変えられてしまったかもしれない。 この作品は、そういう類いの映画だ。  勿論、年齢に関係なく、“ボーイ・ミーツ・ガール”の新たな傑作として溢れるエモーションを堪能できる映画だと思う。 ただ、この映画世界の中で、儚くも美しい短い時間を過ごす登場人物たちと歳感覚が近ければ近いほど、そのエモーションは殊更に特別なものとなり、燦然と記憶に刻まれるのではないかと思えてならない。  僕自身は、決して音楽そのものに明るくなく、当然ながら「パンク」なんて概念にも傾倒があるわけではないけれど、それでもこの映画の中の若者たちが、その“表現方法”を通じて自らのアイデンティティを確立させようとする思いはよく理解できる。 そして、性別も、種族も、環境も、常識も、文化も、死生観すらも超えて、心から愛した人と奇跡的な「共鳴」を果たしたことによるほとばしる「恍惚」が、スクリーンから溢れ出んばかりの“光”と“音”で脳に直接突き刺さる。 それはまさに、「映画」というありとあらゆる表現が入り混じった「不完全な性行為」による“オーガズム”の瞬間だった。  あらゆる意味で、“変わった映画”であることは間違いない。極めて倒錯的だし、不完全で歪だ。 しかし、それは、まだ「何者」でもない少年と少女の純粋な混濁を描き出す上で、真っ当な映画の在り方だったと思う。 そういった「言葉」のみでは到底表しきれない彼らの姿を映し出したジョン・キャメロン・ミッチェル監督の才気に感服する。  そして、主人公の二人を演じたエル・ファニング、アレックス・シャープの若い俳優たちが本当に素晴らしい。 若い二人が出会い、瞬間的に恋に落ち、束の間の逢瀬に戯れる。 その様は、エル・ファニング演じるザンの台詞の通り、美しくもカラフルでもないけれど、あまりにも愛おしい。  脇を固めるニコール・キッドマンがかつてないエキセントリックなキャラクターで存在感を放ちサイコーすぎる件など、随所で様々な味わいと快感に満ちた作品でもある。 繰り返しになるが、今この映画を“大人”になる前に観ることができ、その「快感」を初体験できる若者たちがとても羨ましい。  というわけで、今年アラフォーに突入したばかりの36歳には、映し出される世界観が美しく眩い程に、ある意味つらい映画だった。 何と言っても、エル・ファニングが文字通りに“宇宙レベル”で可愛くてつらい。 宇宙広しと言えども、キスの最中にゲロを吐かれて許せちゃうのは、エル・ファニングくらいではなかろうか。と、思う。
[映画館(字幕)] 8点(2017-12-13 08:01:23)(良:2票)
319.  ジャスティス・リーグ(2017)
「王道」というベタで愚直な「大正義」。 この映画には、「アメコミ」という文化そのものを創り上げたDCコミックスの「意地」が貫かれている。 アメコミヒーローの「元祖」たちが、“チーム”となり、悪を叩く。ただそれだけ。はっきり言って、それ以外のことは何も描かれない。 むしろ、「アメコミ映画においてコレ以上に何が要るんだ?」と、分かったように安直な批判を浴びせようとする輩を蹴散らさんばかりに問うてくる。  結集するヒーローたちは、存在そのものにおいて、“綻び”だらけである。 中年のバットマンは色んな意味で満身創痍で老体に鞭打ちやっとこさ超人たちを率いる。ルーキーのフラッシュは自称“逃げ足が速いだけ”の青二才。隠れ王族のアクアマンは酒飲みの無頼漢。悩めるサイボーグは制御不能の人間デジタルデバイス。美しきワンダーウーマンは只々格好良すぎる豪腕姐さん。そして、「鋼鉄の男」はあまりに“寝起き”が悪すぎる。  彼らの佇まいは、揃いも揃ってバタ臭くて、現代的ではない。 ただし、言わずもがなその綻びや時代錯誤感を含めて、このヒーローたちを愛さずにはいられない。 詰まるところ、このDCコミックスが誇るヒーローたちを一つの画面の中で揃い踏みさせ、愛すべき「チーム感」を成立させた時点で、このエンターテイメント映画の価値は揺るがないと思える。  この映画世界を撮り上げたザック・スナイダーがプライベートの不幸により途中降板を余儀なくされ、その後を“ライバル”である「アベンジャーズ」を成功させたジョス・ウェドンが引き継いだことは、幸運だったと言える。 恐らくは膨大な物量だったであろうザック・スナイダーによる“撮れ高”を、ジョス・ウェドンは流石の手際の良さで纏め上げたと思う。この職人監督が大幅なカットを含めて最終的な仕上げをしたからこそ、この映画は単純明快で王道的なアメコミ映画として成立しているのだと思う。 一方で、ストーリーテリングが唐突で散文的になっていることは否めない。一説によると編集により60分近くもカットされたと言うから当然といえば当然だろう。 その編集力があったからこそ相応しいテンポ感も生まれたのだろうから決して否定は出来ない。 またその唐突さも、“アメコミ”が元来持つ味わいと言えなくはない。限られたページ数、コマ数の中で描き出されるヒーローたちの大活躍を、行間もとい“コマ間”の読み取りも含めて楽しむことがアメコミの醍醐味と言えよう。 即ち、ヒーローたちのバックグラウンドや、チーム感を構築するに至る細かいプロセスを、与えられたピースから“想像”で繋ぎ合わせていくことは、この映画において楽しむべき要素なのだと思う。  けれど、結果論として、この“チーム”に対して絶大なる愛着が生まれた今となっては、ザック・スナイダーによる「全長版」も是非観てみたいものだ。   様々な紆余曲折はあったろうが、結果として、この映画の存在感は圧倒的に“強い”。 綻びも、雑多さも、唐突さも、自虐的な自己批評性も、ブラックユーモアも、そして、力強い“決め画”による絶大な高揚感も、すべてが「アメコミ」という文化そのものの「映画化」であることを堂々と貫き通したことの証明だと思う。 映画としての「完成度」が高いとは到底言えない。けれど、そういう類型的な価値観を越えて、満足させる存在感の強さ。 それこそが、アメコミ文化の祖としてDCエクステンデッド・ユニバースが導き出した誇り高き「娯楽性」なのだろう。それは、“MCU”には無いものだ。  惜しむらくは、エンドロール後のお決まりのシークエンス。 ジェシー・アイゼンバーグ版レックス・ルーサーの再登場は嬉しい限りだったが、彼が邂逅する相手があの“マッドピエロカップル”だったなら、鑑賞後のテンションは問答無用に更に振り切っていたことだろう。
[3D(字幕)] 8点(2017-11-29 23:35:57)
320.  マイティ・ソー/バトルロイヤル
詰まるところ、「マイティ・ソー」シリーズは、神々たちの壮大な「家庭崩壊劇」だったわけで。 ただ、古今東西、「神話」と名がつくものは、大概、親子同士だったり、兄弟同士だったりの諍いを表したものが大半である。そういう意味でこのシリーズのストーリーラインは、ベタと言えばベタに違いないが、まさしく王道的だったと言えよう。 そして、どんなにベタでありきたりな話運びであったとしても、この最新作くらい「馬鹿」に振り切ってくれれば、否が応でも楽しめるというもの。  もはや大フランチャイズと化したマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の作品群の中においても、この「マイティ・ソー」シリーズは最初から「異質」だった。 その理由は明らかだ。主人公が「神」であることに他ならない。 “ソー”という圧倒的に異次元の存在感を放つスーパーヒーローのキャラクター性が、アイアンマン、キャプテン・アメリカらその他の“地球在住”ヒーローとは、元来一線を画している。 逆に言えば、この特異なヒーローの立ち位置をしっかりと確立し、“アベンジャーズ”の一員としてすんなりとまかり通したことが、MCU全体の大成功の大きな要因の一つであることは間違いない。  そういう意味では、決して輝かしいヒット作となったわけではなかったけれど、ケネス・ブラナーが監督したシリーズ第一作が残した功績は実は大きいと、今となっては確信する。 前述の通り、主人公のキャラクター性の異質さを踏まえると、そもそもリスキーな企画であったことは容易に想像できる。 にも関わらず、ヒロイン役にアカデミー賞を獲ったばかりのナタリー・ポートマンを呼び寄せ、アンソニー・ホプキンス、レネ・ルッソら大御所をキャスティング出来たことは、映画人ケネス・ブラナーの人脈の確かさが大いに影響しているに違いない。 そして、今やれっきとしたハリウッドスターとして輝きを放っている主演のクリス・ヘムズワース、更にはその弟役として“兄”以上の成功を遂げたと言っていいトム・ヒドルストンを抜擢したことこそが、第一作「マイティ・ソー」の最大の功績だろう。 (勿論、日本人映画ファンとしては、日本人俳優唯一のMCU参戦となっている浅野忠信のキャスティングも嬉しかった)   シリーズとしては「最終作」と銘打たれているこの第三弾は、前二作とは完全にテイストを違えた最新作として仕上がっている。 前二作は、神々たちの戦いという神話的な世界観が先行するあまり、良く言えば厳かだが、悪く言えば古臭くて鈍重な雰囲気が、今ひとつ乗り切れない要因だったとも言える。 しかし、テイストが刷新された今作では、神々たちの戦いにおける文字通りの神々しさを際立たさせつつも、もはやしっかりと周知された主人公の“脳筋キャラ”を全面に押し出した愛すべき馬鹿っぷりが、そのまま愛すべき映画世界を構築している。 その指揮官に、殆ど目立った監督実績のないタイカ・ワイティティなる人物を大抜擢しちゃうMCUの豪胆さと先見の明の確かさには、毎度のことながら感服する。  “ゲストスター”として降臨したハルクは、問答無用にエンターテイメント性を高めてくれている。ハルクの暴れっぷりに“トラウマ”で顔面蒼白となるロキの様なんてMCUファンとしては最高である。 ソーと「別れた」らしいナタリー・ポートマンのヒロイン降板は残念に思うが、そのかわりに女王・ケイト・ブランシェットを“最凶の姉”として召喚するとは、まったくもってあまりに抜け目がない。   華々しい馬鹿馬鹿しさと神々しさに満ち溢れた映画世界ではあるが、最終的に紡がれたストーリーは実は極めて暗く重い。 偉大な親父は最後の最後で闇の遺産を残して死に、骨肉の争いの果てに、母星は木っ端微塵に消え去る。 ヒーロー自身、髪の毛と片目を失う。 だがしかし、その救いの無い顛末を「何とかなるさ」とニカッと笑ってやり過ごし、流浪する“脳筋ヒーロー”。 あらゆる意味で「異質」なヒーローに対する愛着が益々深まるシリーズ最終作だった。
[映画館(字幕)] 8点(2017-11-23 17:46:35)(良:1票)
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