Menu
 > レビュワー
 > 鉄腕麗人 さんの口コミ一覧。5ページ目
鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
【製作国 : アメリカ 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637383940
4142434445464748495051525354555657585960
616263646566676869707172
投稿日付順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637383940
4142434445464748495051525354555657585960
616263646566676869707172
変更日付順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637383940
4142434445464748495051525354555657585960
616263646566676869707172
>> カレンダー表示
>> 通常表示
81.  007/ノー・タイム・トゥ・ダイ 《ネタバレ》 
ダニエル・クレイグの、そして“ジェームズ・ボンド”の“青い瞳”が、今作では特に印象的に映し出される。 その瞳は、時に怒りを滲ませ、時に強い決意を表し、そして時に愛する人を慈しんでいた。 “ブルーアイズ”こそが、ダニエル・クレイグが演じたジェームズ・ボンドの象徴であり、アイデンティティだった。  2005年に新ジェームズ・ボンドに、ダニエル・クレイグのキャスティングが発表された際には、金髪で青い瞳という従来の“ボンド像”からかけ離れたその彼の風貌に対して批判が殺到したらしい。 ただ、その固執されたイメージからの乖離、古い時代性からの脱却こそが、この俳優を起用した最も大きな狙いだったのだろう。 クレイグ版007第一作「カジノ・ロワイヤル」から足掛け15年経った今、改めてこのキャスティングは大英断だったと言えると思うし、少なくとも僕にとっては、この無骨で厳しい主演俳優こそが「007」だった。   そのダニエル・クレイグ版007の最新作にして、最終作。パンデミックによる1年半以上の公開延期を経て、ようやく日の目を見た今作は、自分の想定以上に印象的な映画作品として、心に残り続ける作品となった。 初回鑑賞後、あまりにも衝撃的でエモーショナルな今作の顛末を思いながら、しばらく思考をまとめることができなかった。 その間、頭の中では、ビリー・アイリッシュが歌唱する今作の主題歌が繰り返し流れ続けていた。 自分が思っていた以上に、ダニエル・クレイグが演じたジェームズ・ボンドと、彼の「007」シリーズが特別であったことを思い知った。 気持ちの高ぶりが収まらず、居ても立っても居られなくなり、今作の感想を綴る前に、クレイグ版007の過去4作すべてを再鑑賞することにした。  過去4作を見返すと、改めてこのシリーズが、それ以前の過去の「007」シリーズとは一線を画する革新的なアプローチの連続であったことを痛感する。 それは主演俳優のビジュアルなどに留まらない。作品世界そのものに対する是非、ジェームズ・ボンドというキャラクターに対する解釈、そしてそれらが今この現代社会に存在した場合に求められる視点と価値観、そういうことをシリーズ通じて真摯に追求し、挑戦し続けていた。 その象徴であり、顕著な結果が、ダニエル・クレイグという俳優が演じた荒々しく、生々しく、故に極めて“人間らしい”ジェームズ・ボンドだったのだと思う。   今作も含めた5作品において、ジェームズ・ボンドは傷つき続け、悲しみ続けてきた。そしてその「傷跡」は、決して単作で消え去ることは無く、シリーズを通じてしっかりと残り続けてきた。 そのさまは、時に悲壮感に溢れ、重々しいけれど、それは、ジェームズ・ボンドという架空のキャラクターが「人生」を得たことの証明だったと思える。  「人生」を得たからこそ、人間には、必ずその“終わり”が訪れる。 今作のタイトル「NO TIME TO DIE」が表すものは、即ち「今は死ぬ時ではない、けれど、いずれ死に相応しい時が訪れる」ということだったと思う。  シリーズ第2作「慰めの報酬」で、ボンドは敵から『手を触れる相手がみな死んでしまう』と罵られる。 彼はその事実と真理を誰よりも深く噛み締め、苦悩し続けていたのだろう。 自分が存在し続ける限り、トラブルは起き続け、大切な人はみな死んでいく。  かつての敵の台詞が全く直接的な意味合いで伏線となり、ジェームズ・ボンドはあまりにも厳しく悲しい顛末を迎える。 ただ、そこにあったのは必ずしも「悲劇」ではなかったと思う。 苦しみと悲しみの果てにようやく得た本当の「愛」。それを守り通すために、彼は自らの苦悩の螺旋を断ち切る。「死ぬにはいい日だ」と言わんばかりに、これまでで最も穏やかな表情で、その時を迎える。 それはやはり、「悲劇」なんかではなく、闘い続けてきた男に相応しい「解放」の瞬間だった。  過去4作を観終えた後、再びこの最終作を鑑賞し、その悲しみと慈愛にむせび泣いた。 寂しいけれど、今はダニエル・クレイグ版「007」をリアルタイムで映画館で観られた世代であったことを幸福に思う。   “007”は去った。でも、これで彼が消え去ってしまうわけではない。 彼が守り通した世界、そして大切な人たちによって、彼の存在は語り継がれ、残り続ける。 そう彼の名は、「Bond, James Bond」
[映画館(字幕)] 10点(2021-10-16 09:12:16)(良:1票)
82.  メン・イン・ブラック:インターナショナル
「メン・イン・ブラック」を初めて映画館で観た1997年から24年も経ったかと、勝手に感慨深い。 同シリーズは、トミー・リー・ジョーンズ演じる“K”と、ウィル・スミス演じる“J”によるバディ感のバランスが抜群で、そのキャスティングが成功要因の大部分を占めていると言って過言ではなかろう。 そして、肩の力を抜いたアクションコメディを大映しにしつつも、きちんとSF的なアイデアも盛り込み、「映画」としてしっかりと仕上がっていることを観るたびに噛みしめることができる。 流石は、スティーヴン・スピルバーグを筆頭にした当時のハリウッドのトップランナーたちが集結してクリエイトされた大エンターテイメントだと思う。  パート2もパート3もそれぞれ面白く、クオリティーの高い人気シリーズだったが、パート3にて“K&J”のストーリーは綺麗に収束していたので、この新作においてキャストが一新されたこと自体に否定的な気持ちは無かった。 むしろ、クリス・ヘムズワース&テッサ・トンプソンという、“アスガルドの神々”コンビのキャスティングに対して、MCUファンとしてニヤリとせずにはいられなかった。 “K&J”が、人種と年の差を超えたバディムービーを構築していたことに対して、今作の“H&M”は、人種と男女差を超えたバディムービーを構築するという趣向も、新世代の「MIB」として相応しかったと思える。  オープニングクレジットのフォントスタイルをはじめ、久方ぶりの「MIB」の世界観は懐かしさもあり、楽しかったとは思う。 ただし、映画全体としての完成度を俯瞰すると、あらゆる面における“中途半端感”が否めない。  新しい主人公コンビは、前述の通りフレッシュで魅力的だったけれど、それぞれのキャラクター性があまりにも弱い。 比較するのはお門違いだろうが、エージェントHは“ソー”と比べると「脳筋バカ」な愛らしさに欠けているし、エージェントMも“ヴァルキリー”と比べると王子を凌駕するほどの颯爽さに欠けているなど、キャラ的な物足りなさが際立ってしまっている。 その点においては、旧シリーズの“K&J”がいかにバランス良くふざけきった名コンビであったかを思い知った。  脇を固める配役も中々豪華なのだが、リーアム・ニーソンにしても、レベッカ・ファーガソンについても、おざなりなキャラクター造形を否めず、両俳優のファンとしては残念だった。  ストーリー展開においても、「インターナショナル」というタイトルが示すように、スパイ映画よろしく世界中を駆け巡りはするが、そこにストーリーテリング上の必要性を感じず、無駄な場面展開で製作費と尺を浪費しているように感じてしまった。  どうやら、製作過程において、監督とプロデューサー間で揉めに揉めた現場だったようで、当初の脚本から大幅に様変わりしてしまっているらしい。 当初の脚本では、昨今の「移民問題」に対する提起も含まれていたというから、そういうテーマがしっかり描ききれていたならば、世界を股にかける話運びも効果的に機能したのであろうし、“アスガルドからの移民”である主演コンビによるメタ的な面白味も増幅されていたに違いない。  巨額の製作費を扱う大バジェット映画になればなるほど、それに携わる人間同士の問題が、作品の出来栄えにむしろ顕著に表れるのかもしれないなと、一組織人としては身につまされたり。 さて、気を取り直して、1997年の第一作でも見直そうかなと。
[インターネット(字幕)] 3点(2021-10-16 01:02:43)
83.  ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結
「観たかったのは、コレコレー!」 と、中指、イヤイヤ親指を終始立てっぱなしだった。 終始一貫して、ジェームズ・ガンのイカれた映画愛が躊躇なく爆発している。 まずは、過去の不適切ツイートによって映画界の第一線から追放されかかっていた彼を今作の監督として起用してくれたDCに「ありがとう!」と唱えずにはいられなかったし、強引に“この場所”に引き戻した世界中のボンクラ映画ファンの力に改めて感嘆した。  振り返ること5年前、新進気鋭のデヴィッド・エアーが監督を務めた“最初”の「スーサイド・スクワッド」は、極めて勿体ない作品だった。 何をおいても“サイコー”なマーゴット・ロビー演じる“ハーレイ・クイン”というキャラクターを生み出したことについての「価値」は揺るがないけれど、正直なところそれが賞賛でき得る唯一のポイントだったことは否めない。 チープなストーリーの上で薄っぺらい映画世界が展開する何とも期待ハズレでザンネンな映画だった。 登場する全員が「悪役(ヴィラン)」だという、作品にとって最大の特徴を全く活かしきれていなかった映画の仕上がりには、「コレジャナイ感」が充満していた。  そんな前回作品をほぼ無かったことにしてリブートされた今作「ザ・スーサイド・スクワッド」は、登場するキャラクターたちこそ一部続投されているが、そのヴィランたちに相応しい“悪ノリ”が冒頭からフルスロットルで展開され、悪趣味で露悪的な“圧倒的娯楽性”を全面に打ち出し、見事に振り切っている。 リミッターの外れたブラックユーモアとバイオレンスが全開で描かれるプロローグシーン(ザ・捨て駒シーン)が、とにかく容赦なく、一気にジェームズ・ガンの映画世界に引きずり込まれる。 劇場の後方シートで鑑賞していた僕は、ニヤニヤを抑えきれず、居ても立っても居られなくなって、前方の空きシートに移動せずにはいられなかった。  その冒頭シーンを支配していたのは、ガン監督の盟友マイケル・ルーカー。 「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の“ヨンドゥ”を彷彿とさせる悪役としての風格と物々しさを携えて、作品のファーストシーンから登場しながら、完全なる“噛ませ犬”としてキャラクターを全うする様は、その無様な顛末を通り越してむしろ格好良かった。(そして、「GOG2」に続いて超間接的ではあるがシルベスター・スタローンとの共演に気づくと「クリフハンガー」が観たくなる!)  そして、マーゴット・ロビーは、スピンオフ作品を含めて3回目の“ハーレイ・クイン嬢”を益々狂気的なキュートさで演じてみせる。 今作ではついにジョーカーの“ジョ”の字も発しないけれど、相変わらず惚れやすく、相変わらずブチギレたアクションで敵(男ども)を蹴散らしていく様は、破滅的で、可憐で、べらぼうに悪カワイイ。  その他にも新旧すべてのキャラクターが、あまりにもマンガ的で、馬鹿馬鹿しさに溢れつつも、それぞれユニークさとチャーミングさが振り切れており、愛さずにはいられない。 それは、この映画に登場するすべてのヴィランたちにおいて、ジェームズ・ガンの映画愛と精神が注ぎ込まれ、キャラクターとして造形されているからだと思う。 クライマックスでは、この世界で最も蔑まれ、忌み嫌われている或る存在が、脅威的な“KAIJU”を覆い尽くし、世界を救う。 それは、紛れもなく、この世界の最底辺からの強烈な“ワンスアゲイン”だった。   この世界は、相も変わらずクソッタレで、痛々しくて、愚かしいけれど、それでも時折、たまらなくキュートで美しい。 ジェームズ・ガンは、頭の中の狂気的な“お花畑”で舞い上がる花びらを世界中に振り撒きながら、オンリーワンの映画世界を創造し続ける(切望)。
[映画館(字幕)] 9点(2021-10-16 01:00:04)(良:1票)
84.  MINAMATA ミナマタ
「写真」を撮ることが、昔から好きだ。 “趣味”とも大きな声では言えないくらいのスナップ撮影だけれども、自分が目にしたもの、接した人の表情、過ごした時間と視界を、写真によって切り撮り、残すというプロセスと産物には、決して数値化できない価値があると思う。 今年、少しいいカメラを買って、写真を撮るということがもっと楽しくなり、そのプロセスが自分にとって益々意義深いものになりつつある。 そんな頃合いに、この映画を観たことは、自分の人生において、中々印象的なトピックスだったと思える。  ユージン・スミスが撮る「写真」と、自分が趣味レベルで撮る「写真」とは、意味も価値もまったく「別物」であることは理解しつつも、彼が人生の黄昏に宿命的に遭遇してしまった遠い異国の「事件」の渦中で語った写真を撮るということに対する覚悟と戒め、そして悦びは、強烈に突き刺さった。  僕は、日本人としてこの国に住んでいながら、「水俣病」について学校の教科書以上のことを殆ど知らないし、ユージン・スミスというフォトジャーナリストの存在も殆ど知らなかった。 ほんの50年ほど前の出来事であり、今なお訴訟が続いているにも関わらず、「無知」であることを恥ずべきだし、正確な知識と情報が流布されていないこの国の社会に在り方も、やはり問題視すべきだろう。  ただ、その「無知」を劇的に補完し、知るべきことを知らしめてくれるのも、「写真」というものが持つ「力」であることを、この映画はあまりにも雄弁に物語る。 ユージン・スミスをはじめ、フォトジャーナリストたちがファインダー越しに見つめ、残した数々の写真によって、我々は過ぎ去った事件、出来事の真実に触れ、深く知ろうとすることができる。 そして、そこにはフォトジャーナリスト一人ひとりと、被写体一人ひとりの、相当な覚悟と勇気も含めて焼き付けられているということ。その事実に、ふるえた。  感嘆を込めて、思わずため息を漏らしてしまうくらいに、素晴らしい映画だった。 すべてのシーン、カットが美しくて意義深い。それは伝説のフォトジャーナリストを描くに相応しい映画的アプローチだと思った。 “ドキュメンタリー映画”ではなく、劇映画である以上、“非現実”である描写も多分に含まれているのだろうが、そういう創作の部分も含めて、この“MINAMATA”というテーマに対する映画の作り手たちの思いとスタンスは真摯だったと思える。 きちんとこだわってキャスティングされた日本人俳優たちもみな素晴らしく、アメリカ映画ではあるが、この国のアイデンティティを示してくれていた。  そして、映画の製作・主演を担ったジョニー・デップが本当に素晴らしかった。 「エド・ウッド」「ブレイブ」「フェイク」……、数々の傑作の中でこの俳優は、時代の反逆児たちを演じ続けてきた。 30年近くこの映画俳優の大ファンで、作品を観続けているが、危ういまでに挑戦的で、反骨精神に溢れたジョニー・デップが帰ってきた。と、思った。  「写真」は、撮られる方も、撮る方も、「魂」を持っていかれると、ユージン・スミスは自戒を込めて語る。 それはすなわち、一枚の写真には、被写体と撮影者双方の人格が宿るということだと思う。 人間が「生」を全うするための時間は限られる。でも写真によってその一部を残すことができるのであれば、やはりそれは素敵なことだ。 と、自身の心に刻みつつ、今日も僕は、シャッターボタンを拙くも押し続ける。
[映画館(字幕)] 9点(2021-10-03 20:22:35)(良:3票)
85.  ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ
盛夏が過ぎて一気に秋めいてきた夜半、“ヒッチコックライク”なサスペンススリラーに興じる。 例によってコロナ禍の影響で劇場公開中止を余儀なくされた結果、Netflix配信となった今作は、中々掘り出し物的な良作だった。少なくとも秋の夜長のひとときを充分に満たしてくれる作品だったと思う。  前述の通り、サスペンス映画の帝王アルフレッド・ヒッチコックの幾つかの名作(「裏窓」「めまい」「サイコ」...etc)を統合して、現代版にリメイクしたような映画だった。 舞台となるマンハッタンのしなびた高級住宅街の雰囲気も相まって、現代の設定ではありつつも、時に「怪奇映画」や「恐怖映画」と敢えて呼称したくなるようなクラシカルかつアバンギャルドな映画世界が個人的には好みで、秀逸だったと思う。  極めて古典的で懐古的な映画手法やストーリーテリングを全面的に押し出しつつも、随所に斬新で挑発的なカットも挟み込んでおり、そういう映画づくりにおける意欲的な部分も含めて“ヒッチコックライク”だと言えよう。  主演のエイミー・アダムスは大好きな女優の一人だが、明らかに虚ろな瞳や、見るからに不健康でくたびれた体つきも含めて、“病める女性”を内外含めた全方向的に体現して見せており、実力派女優としてのレベルの高さを遺憾なく発揮している。 少ない登場シーンながら、物語のキーとなる女性を演じたジュリアン・ムーアの存在感も言わずもがな抜群だった。 (“別人”として登場する女優の絶妙な不気味さも最高だった) 「女優」という要素が、映画を彩る娯楽の中心にあることもまたヒッチコック映画を彷彿とさせる点だろう。  今作では、作為的に、映し出されるシーンの「時間帯」が即座に判別できないように演出されている。 物語全体が一週間の出来事として曜日のテロップは都度入るものの、主人公が薬と酒の影響で終始微睡んでいるような状態も重なって、「今」が一体いつなのかわけが分からなくなる。 その不安定さと曖昧さにより、主人公の精神状態同様に観客の意識もグラグラと揺らぎ、まさしく本来の意味通りの“サスペンス”を生み出していたと思える。  おそらく、気づいていない描写においても、様々な“仕掛け”が散りばめられているのであろう。 巧みなミスリードや数多くの伏線回収も含めて、良い意味で“混濁”した見応えのあるサスペンス・スリラーだった。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-09-26 22:39:12)(良:1票)
86.  ノマドランド
近年、インターネット環境の普及、発達に伴い、「時間と場所にとらわれず働く」というスタイルを表す言葉として「ノマドワーカー」というフレーズが市民権を得ている。 ただ、今作「ノマドランド」が表す「ノマド」とは、そんな昨今の先進的なワークスタイルを華やかに描くものでは当然ない。 この映画は、現代のアメリカ社会の“ひずみ”の中で、行き場を失い、それでも存在し、必死に生き抜こうとしている人々の生々しい様を、圧倒的なリアリティと説得力で描きつけた力作だった。  自らの人生に打ちのめされ、世知辛い社会から追いやられた人たち(=ノマド)、その多くは高齢者だ。 住処も、財産も、健康も、機会も、急速に先細り喪失していく中で、彼らは期間労働者として、アメリカ各地を転々とする生活を送り続ける。 その生活の様は、「ノマド」の本来の意味である「遊牧民」や「放浪者」という印象がやはり強く、人生の黄昏に、流浪の生活を送らざるを得ない高齢者たちの姿は、率直に身につまされる。  ただし、今作は、そんな現代社会の中で、或る意味“蚊帳の外”に追いやれている彼らに対して、ただ単純に同情を誘ったり、社会システムの是非について安直に問うような作品ではなかった。  本質的な意味合いの“ノマドワーカー”として流浪する高齢者たちの姿は、無論悲壮感に溢れ、とてもじゃないが安閑として見てはいられない。いつ何時吹き消されてしまうかもわからないようなか細い蠟燭の火を、消えないように消えないように必死に灯し続けているように見える。 でも、その生活、その生き方自体は、それぞれ苦慮の果てではあろうが、彼らが選び取った「道程」であることを、理解し、直視すべきであろう。  フランシス・マクドーマンド演じる主人公も、最愛の夫に先立たれた挙句、企業城下町として栄えた居住地が企業の倒産により街ごと消失してしまったという憂き目にあったとはいえ、人生の岐路において他の“選択肢”があったことは明確に描かれている。 ふと遭遇したかつての隣人は敬意と共に手助けを進言してくれていたし、“普通”の結婚生活をしている姉も心から妹のことを心配しているし、道中で知り合った同じノマドの老紳士は彼女のことを好いてくれていた。 主人公は、教養もあり、人徳もある魅力的な人間であり、彼女が、流浪の生活から抜け出すための“きっかけ”は、全編通して散りばめられていたと言っていい。  それでも、彼女がノマドの生活を脱却することは、ついに最後の最後まで明確には描かれなかった。 それは、彼女が人生の黄昏に自らの手からこぼれ落ちてしまったものが、決して物質的なものではなく、精神的な拠り所だったことに他ならない。 そしてそれは、この映画に登場するリアルなノマドの高齢者たちの表情や人生模様からも如実に伝わってくる。  “ノマドランド”に集積し、充満し、やがて儚く霧散していく彼らの存在は、この世界全体が慢性的に孕む「喪失感」そのものだったのだと思った。     僕自身、人生40年、まだまだ若いつもりだけれど、この先の“生き方”というものを最近よく考える。それは10代、20代の頃の青臭いものとは明確に異なっているように思う。  その先にあるものが「死」であることは間違いない。 それでは、僕はこの先、死ぬために生きるのか、生きるから死ぬのか。 40代を経て、50代、60代、さらにその先の道程で、その感覚はより現実的な人生観と共に変わり続けるのだろう。  その感覚の変化そのものが、まさに「流浪」であり、すなわち「人生」なのかもしれないな。と、今は思う。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-09-15 22:44:51)(良:1票)
87.  21ブリッジ
2020年8月に43歳の若さでこの世を去ったチャドウィック・ボーズマンの“遺された”主演最新作は、80年代〜90年代の良い意味で雑多な娯楽性に溢れたポリスアクションであり、今この瞬間の時代性を根底に敷いた骨太なサスペンスでもあった。  幼き頃に殉職した父親の面影と無念を追うように警察官となった主人公は、「正義」の名の下に、凶悪犯を射殺し続ける職務経歴を問題視されていた。そんな折、真夜中のコカイン強奪に絡み警察官8人が殺害される凶悪事件が発生する。 殉職した父親への想いと、自らが掲げる「正義」の正当性を信じて、犯人を追う主人公だったが、次第にくっきりとあらわになっていく陰謀の輪郭に反するかのように、信じ続けた「正義」に対する焦点がぼやけていく様が印象的。現代社会の「闇」を描くドラマとして面白かったと思う。  劇中で登場するホテルの名前が「パララックスホテル」となっていることからも明らかなように、この映画が伝えるテーマは、この社会における「視差(parallax)」であり、異なる視点で見ると浮き上がってくる社会の「真実」そのものであろう。  浮き上がった真相に失望し、絶望しながらも、主人公は己の正義を貫き通す。 しかし、事件解決という“夜明け”と共に帰路につく彼の表情は暗く沈み、その虚ろな瞳に光は無かった。  自分が幾人もの犯人の射殺も厭わず貫いてきた「正義」とは一体何だったのか? 殺害された8人の警察官たちや、欺き陰謀に巻き込んだ地元の警察官たちと同様に、もしかすると、殉職した父親にも表沙汰にならなかった“真実”が存在するのかもしれない。 そんな主人公の思い疑念に包み込まれるように、映画は幕を閉じる。  「正義」とは何か? 視点や立場によってその形は都度様変わりしてきた。 今この瞬間も、異なる正義と正義がいがみ合い、傷つけ合い、悲劇を生み出し続けている。  主人公と同じ虚しさを感じると共に、その主演俳優がもうこの世に居ないことに、喪失感が深まる。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-08-30 23:47:38)(良:1票)
88.  ブラック・ウィドウ
兎にも角にも、まずは、「おかえり、ナターシャ」と心の中で唱えずにはいられない。 コロナ禍の影響も重なり、実に2年ぶりのMCU映画の劇場鑑賞。 スクリーンに映し出される「MARVEL」のお決まりのオープニングクレジットを目の当たりにした瞬間、高揚感が一気に高まり、思っていた以上に自分がMCUの新作映画を“欲していたこと”を痛感した。 正直なところ、その高揚感を感じつつ、MCU“フェーズ4”の幕開けを迎えられただけで、一定の満足感は得られたことは否定できない。  このブラック・ウィドウ単独主役作品を、ドラマシリーズとしてではなく単体映画作品として製作し、コロナ禍により数々の映画作品が劇場公開を諦めネット配信に切り替わっていく中においても、何とか劇場公開(+プレミア配信)にこぎつけたのは、何と言ってもブラック・ウィドウ(a.k.a ナターシャ・ロマノフ)というキャラクターのMCUシリーズを通じた貢献度の高さと、演じたスカーレット・ヨハンソンに対するリスペクト故だろう。  MCUシリーズ作の中で都度垣間見えたブラック・ウィドウの過去を踏まえると、彼女を主役にした単独映画が、シリアスな女性スパイ映画になるであろうことは想像に難くなかった。 壮絶かつ残酷な生い立ちや、スパイとしての成長描写を踏みつつ、スタイリッシュなスパイ・アクションを期待していた。 結果的に、その想像と期待は、半分当たり、半分外れたと言える。  まず意外だったのは、思ったよりもコメディ演出が多かったことだ。 主人公のナターシャも、フローレンス・ピュー演じる“妹”のエレーナも、そのあまりにも非人道的な生い立ちに反比例するかのように、自らの半生をシニカルに半笑いで語る。 そして、こちらも壮絶な人生観と業を孕んでいるはずの、“父”と“母”のキャラクター性も、どこか間が抜けていて、思わず吹き出してしまうシーンが多々あった。  その映画的テイストは、近年各国の映画作品で表現されている女性スパイ映画の悲愴や苛烈さというよりも、ずばりスパイ映画の王道である「007」シリーズの系譜だった。 MCUの中で描き出される女性スパイ映画として、そのバランス感は結果的に適していたと思う。 スパイ映画としての娯楽の本流を貫きつつも、現代的な問題意識を根底に敷き詰めたストーリーテリングに対しては、「流石MCU」の一言に尽きる。  ただし、だ。 今作を、MCUの大河の中で、アベンジャーズの面々の中でも常に中心に存在し続けたナターシャ・ロナマノフ(=ブラック・ウィドウ)の映画であることを捉えると、どうしても腑に落ちない要素も大きい。 最も納得できないのは、「インフィニティ・ウォー」の後、「エンドゲーム」冒頭の彼女の孤独感についてだ。  サノスに敗れ去り、完全に崩壊したアベンジャーズが、彼女にとっての“唯一の家族”だとナターシャは孤独感に苛まれつつも、光の見えない可能性を模索していた。 でも、今作の結末を踏まえると、彼女には“もう一つの家族”が確実に存在していたことになり、「エンドゲーム」の冒頭で描かれていた孤独感が揺らいでしまう。 サノスの“指パッチン”により、実は存在していた「家族」たちも同時に失ったという風にも捉えられるかもしれないが、どうしても後付感が拭えない。  要は、今作の結末が、ちょっと“ハッピーエンド”過ぎるのではないかと思うのだ。 今作は、主人公が過去に失った「疑似家族」と再び巡り合うと同時に、そこの孕む罪と罰と向き合い、贖罪を誓う物語であるはずだ。 であるならば、その業を背負った“家族”全員が結果的に無事に存在し続けるというのは、少々都合が良すぎるのではないかと思えてしまう。 特に、“父”と“母”は、どう取り繕ったとしても“悪”の根幹を担っていたことは否定できない事実であり、何かしらの「禊」が描き出されて然るべきだったのではないか。  今作の結末で、その然るべき“悲しみ”を背負っていたのならば、ナターシャの「インフィニティ・ウォー」に臨む悲壮感も、「エンドゲーム」おける孤独感も、もっと説得力のあるものとして高まったと思う。 とはいえ、冒頭にも記したとおり、ブラック・ウィドウの最後の勇姿をしっかりとスクリーンで堪能できたことは満足だ。 どうやらこれで完全にスカーレット・ヨハンソンはMCU卒業ということのようなので、トニー・スターク同様に、ナターシャ・ロマノフにもこの言葉を捧げたい。  Thank you Natasha,3000
[映画館(字幕)] 6点(2021-07-31 22:37:28)(良:1票)
89.  名探偵ピカチュウ
日曜日の昼下がり、インドア派(出不精とも言う)の小1の息子と映画鑑賞をすることが多くなってきた。 親としては、好奇心旺盛に外に出かけたがってほしいとも思うが、映画ファンとしてはもちろん嬉しい。 外に出るばかりが好奇心旺盛ではなかろうし、アニメや映画を観たがることだって無論立派な「好奇心」だろう。  とはいえ、放っておくとこれまた同じアニメ映画ばかりを観る我が息子(それはそれで悪いことではないけれど)。「スポンジ・ボブ」の映画を知らぬ間に5回以上観ていたのには驚いた。 もう年齢的に実写映画もイケるんじゃないかと思案し、自分自身も未鑑賞だったこのハリウッド版ポケモン映画をチョイス。 現在配信中のTVシリーズも毎週楽しみにしていて、目下ポケモンブーム真っ只中の彼にとっては、丁度いいエンタメ作品なのではないかと思った。実際、良好なハリウッド映画初体験になったのではないかと思う。  自分の子ども時代にも既に「ポケモン」は存在していたけれど、僕自身は全くと言っていい門外漢で、“ピカチュウ”以外のモンスター名も、子どもたちがハマっているのを横目で見ながら最近ようやくその幾つかを認識しだした程度だ。 ただ今作のエンターテイメント映画としてのクオリティーは、正直想像よりもずっと高く、ハリウッドのファミリームービーとして充分に及第点だったと思う。  ちょっと驚くくらいに、フルCGを駆使した映像的クオリティーは高品質だった。そして何と言っても、体毛のモフモフ感がたまらないピカチュウが可愛すぎた。 動物的なアニメキャラクターの実写化って大体失敗するものだけれど、ピカチュウをはじめとする今作のキャラクターたちは、リアル化によって気持ち悪くなることはなく、同時にアニメーション時のキャラクター造形も崩さない極めて絶妙なクリエイトに成功していると思う。  そんな可愛らしいピカチュウが、その風貌に反して“おじさん”の声で話すというアイデアも結果的には中々良かった。 最初に「ライアン・レイノルズがピカチュウを演じる」と聞いたときは、「なんだそりゃ」と一笑に付したけれど、今作のテーマに直結するその設定は、ストーリー的な整合性もあり、娯楽性も高めていたと思える。 今回は6歳児との鑑賞のため必然的に日本語吹き替え版で観たので、ライアン・レイノルズのピカチュウ役は楽しめなかったのだけれど、日本語版の西島秀俊も、殊の外ピカチュウ役を楽しんで演じていて良かった。  さて、次は何を観ようかな。子どもと一緒に観るための映画を考えるのもまた楽し。
[インターネット(吹替)] 7点(2021-07-14 20:30:37)
90.  トゥモロー・ウォー
「Amazon Prime Video独占配信映画」として、連日TVCMでパワープッシュされているこのSF超大作は、クリス・プラット主演&製作に相応しい“脳筋馬鹿”なブロックバスター映画だった。 元従軍科学者(現高校教師)というキャラ設定にも関わらず、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の“スター・ロード”まんまな愛され馬鹿にしか見えない主演俳優のキャラクター性も相まって、なんだか憎めない娯楽映画に仕上がっていたと思う。  エイリアンに侵略されて滅亡の危機に貧している未来の人類が、時間を逆行し、過去の人類に救いを求めるという導入から、全人類総動員のSFサバイバルが展開される。 そのプロットからも伝わってくる通り、ストーリーテリングは極めて大味で雑多だ。もはやさもありなんと言わんばかりに、“ツッコミどころ”のオンパレードだ。 そもそも、時間移動を可能にしたテクノロジーを手にしていながら、導き出された戦略が、人口密度が高い時代に遡っての「地球人総動員」て、第二次世界大戦当時の大日本帝国よりも酷い。 時間移動という“反則技”を使えるのだから、地球規模の「徴兵」なんてせずとも、もっと本質的な解決策はいくらでもありそうなものだ。  という難癖を終始巡らせながらも、全編通して飽きること無く、また白けることもなく、エンドロールを迎えることができたのは、今作が娯楽映画として抑えるべきポイントをきちんと携えているからだろうと思う。 それは、前述の主演俳優の魅力であろうし、エイリアンの絶妙に気持ち悪く悍ましい造形だったり、馬鹿馬鹿しくも大胆でユニークなアクション描写だったり、一転して普遍的な父娘のドラマだったりと多岐にわたる。  何と言っても、クライマック前に訪れる、父親と未来の娘が迎える終着。 膨れ上がった絶望と一抹の希望が介在するあまりにも恐ろしくて、あまりにも美しいあの圧倒的なビジュアルを映し出したことが、今作のハイライトだろう。   例によってコロナ渦の影響を受け、劇場公開に至らず、Amazonが権利を買い取った今作。 大仰なスペクタクルシーンの数々をスクリーンで鑑賞したかったとも思うが、このクラスの大バジェット映画を独占配信で観られるという贅沢感は存分に堪能できたなと。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-07-12 22:11:46)
91.  スポンジ・ボブ/スクエアパンツ
「僕はグーフィーグーバーさ♪君もグーフィーグーバーさ♪」と、息子(小1)が謎の歌を歌っていた。 何の歌かと聞いてみると、“スポンジ・ボブ”の映画だと言う。 息子はこの映画を既に5回以上観ているらしく、一部の台詞を空で言えるようになっていた。 日曜日の午前中、また観ると言うので、一緒に観てみることにした。  「スポンジ・ボブ」は、テレビ放映を何度か観たことがある程度で、アメリカのアニメらしい不条理でナンセンスなコメディだなという印象だった。 数話しか観ていないけれど、社会風刺や下ネタも散りばめられたブラックユーモアの強烈さは明らかで、NHKも中々攻めるなあと思っていた。  キャラクターのビジュアルや、キャラクター性も当然ながら強烈で、クセが強いので、「コレ、日本の子どもにウケるのか?」と懐疑的な印象も持っていたが、何のことはない我が息子がハマっているのだから、子どもの向けアニメとしてのコンセプトも間違っていないのだろう。  どうしても“大人”は、「子どもはかわいくてふわふわしたものが好き」というレッテルを貼りがちだけれど、実際そうとも限らない。 もちろん、“ふわふわしたもの”も大好きだけれど、もっと別の“ギラギラ”したものも、“トゲトゲ”したものも、区別せずにどんどん触れていくし、広く興味を持って大好きになり得るのだ。 そういう嗜好性の柔軟さと広さが、子どもの可能性そのものなんだなと思える。  で、今作はというと、主人公のスポンジ・ボブが、窮地に陥った仲間のために冒険に旅立ち帰ってくるという王道的なお話。 ベタなストーリーテリングではあるけれど、やはりそこにはこのアニメらしい毒々しさと禍々しさが随所に溢れている。 息子が「好きだ」という、前述の“グーフィーグーバー(パブ的なレストラン)”でアイスクリームを食い漁るシーンなど、スポンジ・ボブが完全に酔いつぶれたジャンキーと化していて、「これ子どもに見せていいのか?」と自問しつつも笑ってしまう。  アメリカでは日本以上に大人気のアニメらしく、キャスト陣も想定外に豪華だ。 今回は当然ながら吹替版での鑑賞だったが、オリジナル版では声の出演にスカーレット・ヨハンソンやアレック・ボールドウィンという名だたるハリウッドスターも名を連ねていた。 そして、実写との融合シーンにおいては、往年のスター俳優デヴィット・ハッセルホフが本人役で登場し、スポンジ・ボブらアニメキャラの強烈さを凌駕するほどの破天荒な役柄を演じてくれている。  繰り返しになるが、全編通してブラックユーモアに溢れ毒々しいので、必然的に大人でも充分に楽しい。 そして、息子は歌唱シーンやダンスシーンになると意気揚々と歌って踊っていた。 日本で「子どもから大人まで楽しめる作品」という触れ込みだと、大体そのテイストは「感動」という方向性に絞り込まれてしまう。 しかし、アメリカの娯楽作品の場合は、只々「楽しい」というエンタメの本質を追求している。 そういう懐の“深さ”、そして“吸収力”の強さが、この作品にも内包されていると思った。 深海に住むスポンジが主人公のアニメだけにね。
[インターネット(吹替)] 6点(2021-07-04 09:29:04)
92.  おとなの恋は、まわり道
高校生の頃、自室に初めてハリウッド女優のポスターを飾った。それがウィノナ・ライダーだった。 あれから20年余りの年月を経て、画面に映る主演女優は、流石に老けてはいたけれど、その分自分自身も老けているわけで、感慨深さを覚えると同時に、久しぶりの主演映画で振り切ったキャラクターを演じる彼女は魅力的だったと思う。  「おとなの恋は、まわり道」なんてユルい日本語タイトルがつけられているけれど、このラブコメが描き出すストーリーと人物描写は、決してユルくもヌルくもなく、極めて痛々しく、辛辣だ。 そしてだからこそこの上なく、可笑しい。  おそらく、映画史上、最も無様であけすけで何のロマンティックも感じさせないSEX。 その様を大笑いで見届けながら、「人間」の動物としての本質的な滑稽さと、イロイロあって「恋」というよりも人間関係そのものに対して面倒になり、臆病になる“おとなたち”の愚かさと愛らしさを等しく感じた。  その痛々しい主人公二人を、30年に渡ってハリウッドきっての美貌を保持しつつも、皆から“変わり者”のレッテルを貼られてきた二人のスター俳優が演じることの醍醐味。そのキャスティングセンスが何よりも見事だったと思える。  キアヌ・リーブスに至っては、風貌的には近年の大ヒット作「ジョン・ウィック」そのままなので、かの映画の劇中でも確実に“変人”の部類であるジョン・ウィックのプライベートを見ているような錯覚にも陥る。 植物に二酸化炭素を吐きかけて「光合成して〜」と語りかけ続けるウィノナ・ライダーの様も、なんだかんだあって精神的に追い込まれた彼女のリアルな私生活を見ているようで、苦笑いが止まらない。  そういう具合に、主演俳優それぞれのメタ的な要因も絡み合いながら、シンプルだからこそ人間模様の芳醇さを感じることができるラブコメに仕上がっていたと思う。  30年に渡ってハリウッド映画を観てきた一映画ファンとして、この映画と、“まわり道”しつつも第一線で輝き続ける主演俳優たちを愛さずにはいられない。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-05-07 23:09:44)
93.  マ・レイニーのブラックボトム 《ネタバレ》 
二人の黒人の若者が、闇夜を逃げ惑うように疾走するオープニング。 そのシーンが彷彿とさせるのは、言わずもがな、逃亡奴隷の悲壮感。 しかし、そんな観客の思惑を裏切るかのように、彼らがたどり着いたのは、ブルースの女王のライブだった。 多幸感に包まれながら、多くの黒人たちが、彼女の歌に魅了されている。 ブルースの起源は、奴隷時代に自由を奪われた黒人たちが労働中に歌っていた音楽らしい。 時代は1920年代。そこには、「人種差別」などという表現ではまだ生ぬるい、「奴隷制度」の名残がくっきりと残っていた。  人類史上に、闇よりも深い黒で塗りつぶされた怒りと、悲しみと、憎しみ。 登場人物たちの心の中に色濃く残るその「黒色」が、全編通して、ブルースのリズムに乗るような台詞回しの中で表現されていく。 その「表現」は、まさに黒人奴隷たちの悲痛の中から生まれた音楽のルーツそのものだった。  テーマが明確な一方で、この映画が織りなす語り口はとても特徴的だった。 前述の通り、時にまるでブルースの一節のように、熱く、強く、発される台詞回しも含め、人物たちの感情表現が音楽の抑揚のように激しく揺れ動く。 あるシークエンスを経て、登場人物たちの感情が一旦収まったかと思えば、次のシーンでは再び抑えきれない激情がほとばしる。 そしてその激しい感情の揺れの様が、ほぼ小さな録音スタジオ内だけで展開される。  今作は、舞台作品の映画化ということで、監督を務めたのも演劇界の巨匠であることが、このような映画作品としては特徴的で、直情的な表現に至ったのだろう。 特徴的ではあったが、その演出方法こそが、“彼ら”の抑えきれない怒りと悲しみを如実に表現していたと思う。  主人公となるのは、“ブルースの母”と称される伝説的歌手と野心溢れる若手トランペッター。 二人の思惑とスタンスは一見正反対で、終始対立しているように見える。ただし、彼らが白人とその社会に対して抱いている感情は共通しており、その中で闘い生き抜いていこうとするアプローチの仕方が異なっているに過ぎない。 そこから見えてくるのは、白人に対して根源的な怒りと憎しみを抱えつつも、それを直接的にぶつけることすらできない彼らの精神の奥底に刷り込まれた抑圧の様だ。  行き場を見いだせない怒りと憎しみの矛先は、本来結束すべき“仲間”に向けられ、物語は取り返しのつかない悲劇へと帰着する。  ようやく開いた開かずの扉の先にあったもの。将来に向けた希望の象徴として購入した新しい靴。 若きトランペッターが抱き、必死につかもうとした“光”は、無残に、あっけなく潰える。  そして、もっとも愚かしいことは、この映画で描きつけられている描写の一つ一つが、決して遠い昔の時代性によるものではないということだ。 交通事故処理に伴う警官とのトラブルも、白人プロデューサーによって奪われる機会損失も、収入格差と貧困も、彼らに向けられる“視線”すらも、今現在も明確に存在する「差別」の実態そのものだ。  アメリカの黒人奴隷制度が生み出した250年に渡る「闇」。時を経てもなお、憎しみの螺旋は連なり、悲劇と虚しさを生み出し続けている。 この映画が本当に描き出したかったものは、100年前の悲劇ではなく、今この瞬間の「現実」だった。   最後に、今作が遺作となってしまったチャドウィック・ボーズマンの功績を讃えたい。 この物語が表現する怒りとそれに伴う虚しさを、その身一つで体現した演技は圧倒的だった。 がん治療の闘病の間で見せたその表現は、文字通り「命」を燃やすかのような熱量が満ち溢れていた。 この世界が、若く偉大な俳優を失ってしまったことを改めて思い知った。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-18 10:03:09)(良:1票)
94.  ポーラー 狙われた暗殺者
まずは、マッツ・ミケルセンの“佇まい”一発で、ノックアウトは必至だ。 これまでも出演作を幾つか観てきたつもりだったが、どうやら私は、彼の本当の魅力を理解していなかったらしい。 「北欧の至宝」と称されるその俳優としての存在感は、通り一遍な男前感やダンディズムでは収まりきらない「異質」なものを感じた。 それはもはや変質的と言っても過言ではなく、その特異な雰囲気が、今作の引退間際の最強暗殺者“ブラックカイザー”役と奇跡的なマッチングを見せていたと思う。   会社組織化された暗殺者集団という馬鹿みたいな設定(好き)や、引退予定の伝説的暗殺者に集団で襲いかかるという展開に対しては、言わずもがなキアヌ・リーブスの「ジョン・ウィック」が頭に浮かぶ。 主人公のキャラクター性や、対峙する暗殺者集団のエキセントリックさ、諸々の小ネタに至るまで、「ジョン・ウィック」との類似点は多く、下手を打てば「二番煎じ」と揶揄されることは避けられなかっただろう。   しかし、確かに「ジョン・ウィック」をはじめとするこの手のジャンル映画と似通っている作品ではあるけれど、同時に圧倒的な独創性も揺るがない娯楽映画だったと断言したい。   主演俳優の稀有な特異性に牽引されるかのように、映画そのものが少々、いや随分と常軌を逸している。 バイオレンスアクションとハードボイルド、そしてブラックユーモア、それらがミックスされた破綻気味なアンバランス感が、オリジナリティを創出している。   そして、やはり何と言っても主人公“ブラックカイザー”ことダンカン・ヴィスラのキャラクター性が抜群だった。 圧倒的に強く、全身からほとばしる男の色香は、言うまでもなく魅力的。 その一方で、ただ渋くて格好良いだけではなく、悪夢にうなされ飼い始めたばかりの愛犬を撃ち殺してしまったり、渋ってた割には小学生相手にドヤ顔で世界を股にかけた暗殺講座を繰り広げちゃったり、とっくにハニートラップであることは気付いているにも関わらずギリギリの瞬間までヤルことはヤッちゃったり……。 “ジョン・ウィック”もどこか頭のネジが抜け落ちている男だが、それ以上にこの人も何本もネジがぶっ飛んでしまっていることは明らかだ。   ストーリーの収束の仕方も的確であり、忘れがたきエンターテイメントを堪能した充足感と、まだまだこのイカれた殺し屋の暗躍を観たいぞ!という期待感に包まれる。 ここまで似通ったキャラクター性と世界観であれば、「ジョン・ウィックVSダンカン・ヴィスラ」という夢の競演を妄想してしまうな。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-08 08:21:58)(良:1票)
95.  星の王子ニューヨークへ行く2
30年ぶりの続編。30年の月日を経ても変わらない“エディ・マーフィ”というエンターテイメント力が圧巻で、懐かしさを存分に携えた爆笑は、次第に週末の夜のささやかな多幸感へと変わっていった。  30年後の続編という企画において、敢えて新しいことに積極的に挑まず、オリジナル作品のキャラクター性や映画的な雰囲気の「再現」に努めた制作陣の意向は正しかったと思う。 必然的に“新しさ”なんてものはなく、ほぼオリジナル作品のファン層のみをターゲットにした“同窓会映画”であることは否めないが、そうすることが、この映画が持つエンターテイメント性を過不足無く引き出していると思える。  何よりも嬉しかったのは、エディ・マーフィをはじめとするオリジナルキャストが勢揃いしていたことだ。 主人公の親友役セミを演じたアーセニオ・ホールは勿論、ヒロインのシャーリー・ヘドリー、父国王のジェームズ・アール・ジョーンズ、バーガーショップ経営者(義父)役のジョン・エイモスら、懐かしい顔ぶれが見られただけでも、感慨深いものがあった。 そして勿論、エディ・マーフィとアーセニオ・ホールによる“一人四役”も健在で、楽しかった。  新キャラクターでは、主人公の婚外子として登場するラヴェルのビジュアルが、完全に「ブラックパンサー」の“キルモンガー”パロディで愉快だったし、3姉妹の娘たちもフレッシュな魅力を放っていたと思う。 そして、隣国の独裁者として登場する“イギー将軍”に扮するのはウェズリー・スナイプス。鑑賞前にクレジットを見ていなかったので、90年代を代表する黒人アクションスターの登場には、益々高揚感を高められた。演じるキャラクターのバカぶりも最高すぎた。   繰り返しになるが、二つほど時代を越えて制作された「続編」として、何か新しい発見や挑戦がある類いの映画ではないし、オリジナル作品のファン以外が観てもピンとこない要素も多いのかもしれない。 ただ、かつて週末の民放ロードショーで「星の王子ニューヨークへ行く」を観て、エディ・マーフィというエンターテイメントを楽しんだ世代としては、問答無用に爆笑必至だった。  今作はパンデミックの影響で劇場公開が断念され、Amazonでの配信と相成ったとのこと。 制作陣やキャスト陣にとっては残念なことだっただろうけれど、かつてオリジナル作品を観たときと同様に、週末の夜、自宅で、“日本語吹替版”で観られたことは、ファンにとってある意味幸福な映画体験だったと思うのだ。
[インターネット(吹替)] 7点(2021-03-15 12:14:15)(良:1票)
96.  アップグレード 《ネタバレ》 
得体の知れない「悪意」によって、愛する妻と自身の体の自由を失った不遇な男が、“機械”を体に埋め込み、文字通りの“殺人マシーン”と化して復讐に挑む。 翌日への憂鬱を抱えた休日の夜に観るには相応しい、B級SFの娯楽性を存分に堪能できる映画だった。日曜洋画劇場と淀川長治氏が健在な時代であれば、きっと何度も放送されたであろう。  サイボーク化の悲哀、AIの人格化と暴走、隠された陰謀……、この映画の娯楽を彩るテーマは、過去の幾つもの作品でもはや使い古されたものかもしれないが、描き方、映し出し方がとても丁寧でフレッシュなので、終始飽くことがなかった。 「機械」という悪魔に見初められてしまった男の過酷で壮絶な運命が、「寄生獣」や「ヴェノム」を彷彿とさせるある種の“バディ感”と共に展開していくストーリーが、とてもユニークだったとも思う。  決して、全てが目新しい映画ではないけれど、オリジナル作品として、監督と脚本を務めたリー・ワネルという監督の手腕と創造性は中々のものだ。先日観た現代版「透明人間」でも監督・脚本を務めたこの映画人には今後も期待したいと思う。  映画は、この手のダークSFに相応しい辛辣なエンディングを迎える。 それがただ後味の悪い悲劇に見えるのではなく、現代の社会に対する警鐘として妖しき光の中に浮かび上がってくることが、この映画が“質の高いB級SF映画”であることの証明だろう。  この世界に喜びを見いだせず、苦しみに耐えかねる人類は、そのうち皆、仮想現実に押し込められてしまうのではないか。 そう考えると、この映画が「マトリックス」の前日譚のようにも見えてくる。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-03-01 13:16:11)
97.  Mank マンク
「ハリウッドは人を噛んで吐き捨てる」  これは、映画「エド・ウッド」の劇中で、実在の悪役俳優ベラ・ルゴシを演じたマーティン・ランドーの台詞だ。 エド・ウッドは、奇しくもオーソン・ウェルズと同時代に“史上最低監督”として悪名を馳せ、ウェルズとは対照的な立ち位置で、今もなおカルト的な人気を博している映画監督である。  ティム・バートン監督作の「エド・ウッド」は個人的なオールタイムベストの上位に長年入り続けている大好きな作品なのだが、今作を観ていて、その“悪役俳優役”の台詞を思い出さずにはいられなかった。  それは、この映画が、時代を超えて、業界や、社会や、もしくはもっと大きな“仕組み”の中で使い捨てられる人々の苦闘と反抗を描いているからに他ならない。 今、このタイミングで、今作がWeb配信主体で全世界公開された「意図」は明らかであり、現代社会に対する社会風刺的かつ政治的なメッセージも強い作品だったと思う。  まさに今の時代も、ハリウッドの内幕に留まらず、社会全体が人を噛んで吐き捨てている。  巨大な組織、社会、国家に対して、「個」の力は小さい。そして、脆弱な「個」は、この世界の傲慢さに都合よくないがしろにされ、“消費”されている。 でも、だからと言って、「会社が悪い」「社会が悪い」「国が悪い」などと、ただ愚痴を並べたところで何も好転はしない。 状況を打開するのは、いつの時代も、小さくも強かな「個」の力なのだ、と思う。  「市民ケーン」の共同脚本を担った主人公ハーマン・J・マンキーウィッツ(マンク)は、業界に対する失望とアルコール依存に押し潰されそうになりつつも、後に映画史の頂点に立つ作品の脚本を書き上げる。 それはまさしく、業界に使い捨てられた者の意地と抗いだった。    80年前の時代を懐古的な映像表現で精巧に描き出しつつも、前述の通り、そのテーマ性は極めてタイムリーな作品だった。 Netflix配信の映画らしく、忖度しない踏み込んだ表現ができたことは、デヴィッド・フィンチャーとしても監督冥利につきたことだろう。 デヴィッド・フィンチャー監督に限らず、マーティン・スコセッシやスパイク・リーなど、多くの巨匠が「Web配信」へと映画表現のフィールドを変えていっていることはある意味致し方ないことだろうと思える。 作家性が強い映画監督であればあるほど、その主戦場を「劇場公開」から「Web配信」へ移行しようとする潮流は、もはや止められないとも思う。  ただ、その一方で、今作が映画作品として完璧に「面白い!」と思える「作品力」を備えているかというと、一概にそうは言えないと思う。 その他のWeb配信映画にも総じて言えることだが、作り手の作家性やメッセージ性が強くなる半面、ともすれば独りよがりになっていたり、作品時間が長すぎるなど、小さくないマイナス要因も見え隠れする。  新作映画のWeb配信が活性化することで、映画表現の幅が広がることは、映画ファンの一人として複雑ではあるが、喜ぶべきことだろう。 しかし、何事においても、“「自由」になればなるほど「自由」ではなくなる”、という矛盾した真理を孕んでいるものだ。 「自由に作ってくれ」と言われて、喜ばない映画監督はいないと思うが、その上で、結果として万人が面白い映画を生み出すことができる映画人は相当限られるだろう。 映画表現の幅が広がるということは、同時に、これまで「制限」の中で才能を発揮してきた映画人たちの新たな資質を問われるということなのだと思う。  「映画」という表現が、その形態を変えざるを得ない時代において、この先どのように進化していくのか。 それこそ、80年前にオーソン・ウェルズが成したような「革新」が今まさに求められているのかもしれない。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-02-26 12:56:16)(良:1票)
98.  ナポレオン・ダイナマイト
推しの“アイドル”が、自身がボーカル&ベースを務めるバンド名に「PEDRO」と名付けた理由が、今作に登場する主人公の唯一の友人の名からとったと知り、鑑賞。 ああ、なるほど、彼女がその名を付けた意味がよくわかった気がする。  さえない容姿、さえない友人、さえない家族、さえない生活、人生は往々にして“クソったれ”だけれど、それでも人生は、何かささやかなきっかけで、いくらでも光り輝く。 その輝き方は人それぞれで、他人の“眩しさ”と比べてみたって意味はない。  決して劇的な存在でなくとも、自分にとってはかけがえのないモノは必ず存在する。 それは、気になる同級生かもしれないし、転入してきた友人かもしれないし、下手くそなマンガかもしれないし、荒削りな音楽かもしれない。  そう、人生に必要なのは、ささやかだけれど何にも代え難い心の“拠り所”なのだ。  この青春コメディ映画は、国籍や年齢、性別にとらわれない普遍的な人間の馬鹿馬鹿しさと、それに伴う愛らしさをオフビートなユーモアの連続の中で、ワリとストレートに伝えてくる。  スクールカーストの底辺で、日々フラストレーションを溜めつつも、自分の“在り方”をブラさない主人公は、決して格好良くはないけれど、不思議な魅力を備えていた。 そして、前述の友人“ペドロ”をはじめ、主人公の周囲を取り巻くキャラクターたちも皆独特でクセが強い。 彼らが織りなすおかしな人間模様は、アメリカの片田舎の開放感と閉塞感が入り混じったような何とも言えない空気感も手伝って、どこか哀愁めいたものも感じる特異な喜劇を構築していた。  久しぶりにこの手のアメリカンコメディを観て、何だかフレッシュな気持ちにもなり、満足度は高い。 明らかにお金がかかっていないチープな映画だけれど、ランチの皿で表現したオープニングクレジットの愛らしさからも伝わってくるように、愛着を持たずにはいられない作品だった。  「VOTE FOR PEDRO」のTシャツ欲しい。アレを着て、「PEDRO」のLIVEに行きたい。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-02-25 22:31:53)
99.  透明人間(2020)
深夜、自室で今作を鑑賞後リビングに入ると、薄暗いいつもの室内が何だかとても恐ろしく感じた。 ぽっかりと空いた何もない空間に“何かがいる”かもしれないという感覚。それはまさしく、この恐怖映画が描き出した「恐怖心」そのものだ。 全編通して、主人公のみならず、観客にもそういう“怯え”を生み出したこの映画のアプローチは、“透明人間”という怪奇映画の伝統を引き継ぎつつ、圧倒的にフレッシュだった。  この新機軸の透明人間映画が、これまでの透明人間映画と異なる最たる点、それは「視点」だろう。 伝統的な透明人間映画が、透明人間となってしまった人物自身の恐れや悲哀、または透明人間としてのモンスター性を描き出してきたことに対して、今作は透明人間に襲われ、「凝視」し続けられる女性を主人公に配し、徹底的に彼女の「視点」でストーリーが展開される。  「何かに見られている」という不安やおぞましさをシンプルかつ洗練された映像表現で徹底的に描きつけ、“何もない空間”に恐怖を生み出した映画的手法が見事だったと思う。 主人公の背後に浮かび上がる“吐息”や、バスルームの“手形”など、ヒタヒタという物音すら全く立てずに主人公に歩み寄る恐怖演出も巧みだった。 主人公の女性の愛称が“シー(see)”であることも、シチュエーションスリラー「ソウ」を生み出した作り手らしいこの映画のテーマ性に対する隠喩であろう。   ただし、この映画が描き出す「恐怖」の真髄は、そういう映像的に表現されている要素のみには留まらない。  夫から支配的なハラスメントを受け続けていた主人公は、その夫婦生活から逃げ出した後も彼の精神的支配から脱却することができずに、苦しみ続ける。 夫の死を知らされても、一人それを信じることができず、見られ続けていることに恐怖し、究極的に追い詰められる。 結果的に方法としての“透明人間”は存在し、夫は死を偽装してまでも妻である主人公を支配し続けようとする……。  が、果たして本当にそうだったのだろうか? “透明人間”による凶行は現実だったけれど、それが本当に夫による策略であったかどうかは最終的に明確にならない。 凶行はすべて夫の兄によるものだったかもしれないし、夫にまつわる恐怖心のすべては心を病んだ主人公の誇大妄想だったかもしれないという可能性が、最後の最後まで拭い去れない。  そういったまた別の「視点」を生む演出も見事だし、主人公を演じたエリザベス・モスの演技と、狂気性を孕んだ表情も素晴らしかったと思う。   人間同士の関係性、もっと言い切ってしまえば「夫婦」という関係性から生じた綻びが導き出してしまった憎しみと怖れ。 この恐怖映画が最終的に紡ぎ出したものは、その普遍的な人間関係が内包する“危うさ”だったのではないか。  そういうふうに、この映画の結末を捉えると、同じく“恐怖夫婦映画”の傑作である「ゴーン・ガール」的なゾクゾクとしたおぞましさに包まれ、思わずこう呟きたくなった。 「こ、怖えぇ」と。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-02-23 12:19:27)(良:2票)
100.  ミッドナイト・スカイ
世界の終末。放射能汚染によって住むことができなくなった地球を残して、人類は宇宙へと逃げ出す。 だが、人類が生き残るための道筋を誰よりも早く見出していた科学者は、一人北極の観測所に居残る。 彼が自らの命をとしてその選択をした理由が、淡々と、そして情感的に描き出される。  「メッセージ」や「インターステラー」など、壮大なSFの上で綴られる普遍的な人間ドラマが大好物な者としては、とても好ましく興味深い映画だった。 人類が滅亡の危機に瀕している具体的な理由などの細かい状況説明を意図的に廃して、ジョージ・クルーニー演じる主人公の残された時間と、それと並行して展開する帰還船の描写に焦点を絞って映し出されることで、より一層登場人物たちの「孤独」と「絶望」が浮き彫りになっていくようだった。  そう、この映画が表現しようとすることは、まさにそういった人間の孤独感と絶望感、そして悔恨だった。  恐らくは核戦争によって地球を捨てざるを得なくなってしまった人間全体の愚かさ。 宇宙への望みを追い求めるあまり、結果的に愛すべき人を捨てることになってしまった一人の男の哀しさ。 人間という生物全体の後悔と、その中の一個体の後悔が入り交じり、この映画全体を覆っている。 それは、決して遠くない未来の現実の有様のようにも見え、鑑賞中とても安閑とはしていられなかった。  地球全体を覆い尽くすような99%の絶望。そんな中で、ただ一つの“光”が描き出される。  ただ一人残ったはずの主人公の前に突如現れた“少女”は、彼にとって、悔恨と希望そのものであり、同時に、人類が存続するために与えられた最後の奇跡だったのだと思う。     ジョージ・クルーニー自身が監督も担った作品だけあって、登場人物の感情を主軸にした極めて内面的な映画に仕上がっている。 前述の通り、ストーリーテリングの上で論理的な説明が無い分、話自体のシンプルさのわりに分かりにくい映画になっていることは否めない。 難解という程ではないけれど、これほど主人公の内情に焦点を当てるのであれば、ジョージ・クルーニーは俳優業に専念すべきだったのではないかとは思う。 彼の豊富な監督実績を否定はしないし、今作においてもそつない仕事ぶりを見せてくれてはいるが、監督か俳優どちらかに専念したほうが、もっと深い映画表現にたどり着いたのではないかと思えた。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-01-02 00:26:34)(良:1票)
全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS