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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2010年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  21ブリッジ
2020年8月に43歳の若さでこの世を去ったチャドウィック・ボーズマンの“遺された”主演最新作は、80年代〜90年代の良い意味で雑多な娯楽性に溢れたポリスアクションであり、今この瞬間の時代性を根底に敷いた骨太なサスペンスでもあった。  幼き頃に殉職した父親の面影と無念を追うように警察官となった主人公は、「正義」の名の下に、凶悪犯を射殺し続ける職務経歴を問題視されていた。そんな折、真夜中のコカイン強奪に絡み警察官8人が殺害される凶悪事件が発生する。 殉職した父親への想いと、自らが掲げる「正義」の正当性を信じて、犯人を追う主人公だったが、次第にくっきりとあらわになっていく陰謀の輪郭に反するかのように、信じ続けた「正義」に対する焦点がぼやけていく様が印象的。現代社会の「闇」を描くドラマとして面白かったと思う。  劇中で登場するホテルの名前が「パララックスホテル」となっていることからも明らかなように、この映画が伝えるテーマは、この社会における「視差(parallax)」であり、異なる視点で見ると浮き上がってくる社会の「真実」そのものであろう。  浮き上がった真相に失望し、絶望しながらも、主人公は己の正義を貫き通す。 しかし、事件解決という“夜明け”と共に帰路につく彼の表情は暗く沈み、その虚ろな瞳に光は無かった。  自分が幾人もの犯人の射殺も厭わず貫いてきた「正義」とは一体何だったのか? 殺害された8人の警察官たちや、欺き陰謀に巻き込んだ地元の警察官たちと同様に、もしかすると、殉職した父親にも表沙汰にならなかった“真実”が存在するのかもしれない。 そんな主人公の思い疑念に包み込まれるように、映画は幕を閉じる。  「正義」とは何か? 視点や立場によってその形は都度様変わりしてきた。 今この瞬間も、異なる正義と正義がいがみ合い、傷つけ合い、悲劇を生み出し続けている。  主人公と同じ虚しさを感じると共に、その主演俳優がもうこの世に居ないことに、喪失感が深まる。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-08-30 23:47:38)(良:1票)
2.  トランス・ワールド
手塚治虫や藤子・F・不二雄のSF短編にありそうなサスペンスとホラーとエモーショナルがギュッと詰まった“小話感”が小気味いい。 舞台設定から編集作業の詰めの粗さに至るまで、“低予算感”は否めないけれど、それ故の“掘り出し物感”もあり、満足度は高かった。  キャストも少人数で地味だが、やはりクリント・イーストウッドの息子であるスコット・イーストウッドが印象的。 ハンサムではあるが、独特の何だか“嘘くさい”風貌が、今作のキャラクター性に合致している。 善人か?悪人か?と中々判別がつかない雰囲気が、序盤の緊張感を高めていたように思う。  偶然にも、今年指折りの話題作「TENET テネット」に続いて“タイムパラドックス”ものを続けてみてしまった格好。 映画の規模やクオリティのレベルは比べ物にならないけれど、アイデアと表現方法の工夫で、タイムパラドックスを巡るサスペンスとドラマを生み出す映画的な巧みさは、決して勝るとも劣らないものだったと言えよう。  まさしく“親殺しのパラドックス”を逆説的に描いた顛末が導いた未来はどうなったのか? 果たして「彼」の存在はどうなってしまったのか?  “切なさ”も含めて、そういうことをつらつら考えていくのも、この手の映画の醍醐味だろう。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-10-04 00:12:37)(良:1票)
3.  トイ・ストーリー4 《ネタバレ》 
ちょうど大いに散らかっていた子供部屋を子どもたちと共に片付けたばかりのタイミングで鑑賞した。 そういえば、自分自身に子どもが生まれてから初めて観る「トイ・ストーリー」だった。  傑作だった前作「3」において描かれた、ウッディたちが選び取った「選択」で、「トイ・ストーリー」という物語は見事な“終着”を見せたのだと思っていた。 たとえ更なる続編が製作されたとしても、それはきっと多くのファンを失望させてしまう“蛇足”になるだろうと思っていた。 だがしかし、9年の年月を経て生み出されたこの続編は、僕たちの想像を芳醇なイマジネーションで大胆にも超えてみせた。 それを成し得たのは、このアニメーションに登場するキャラクターに対するクリエイターたちのあまりにも深い愛だったと思える。  “おもちゃ”として生まれたウッディをはじめとするキャラクターたちの「運命」と「役割」。 前作「3」で描き出されたそのテーマは、キャラクターたち自身にとっての誇りであり、尊厳であった。 我々観客も、そういった「運命」を見出したキャラクターたちを称賛し、物語の終着として納得し、満足していた。  「トイ・ストーリー」の中のキャラクターたちでさえ納得していたはずのその結論めいたものに対して、誰よりも彼らを愛するクリエイターたちは「いや、待てよ」と思ったのだろう。 “おもちゃ”として生まれた以上、その相手(持ち主)が誰であれ、楽しませ続けることこそが本懐。 でも、だからといって、すべてのおもちゃたちを、一方的にその「運命」=「おもちゃ箱」にしまい続けていいのか。 この映画のクリエイターたちは、あらゆる意味で「役割」を果たしてくれた愛すべきキャラクターに、新しい選択肢と可能性、即ち「未来」を与えたかったのだと思う。  それは、本来“生無きもの”に生命を吹き込んだこのストーリー(世界)において、あまりに相応しい多層的な新しい着地点だった。 この着地によって、このストーリーは永遠に続くだろう。そうまさに「無限の彼方へ」。   片付けたばかりの子供部屋は、またすぐに散らかり始めている。 この機に乗じて、うちのおもちゃたちも少しずつ旅立っているのかもしれない。
[映画館(吹替)] 8点(2019-07-31 23:43:57)
4.  トレイン・ミッション 《ネタバレ》 
この監督×主演俳優コンビの映画を観るのもこれで3作目。実際は通算4回目のタッグであり、余程この両名は気が合うのだろうと思う。 そして、毎度のことながら、このタッグによる映画、掴みは良い。 過去、「アンノウン」「フライト・ゲーム」と観てきたが、導入部分、特に冒頭シーンのシークエンスは両作とも白眉だった。主演リーアム・ニーソンの持ち前の物憂げな表情と、不穏を煽るビジュアルセンスが相まって、一気に引き込まれる。 今作では、老サラリーマンの日々の出勤前のシーンが幾年分も折り重なるように映し出され、このオープニングの数分間の描写で、主人公の男が積み重ねてきた「日常」の価値と、それと表裏一体の鬱積めいたものが伝わってくる。  ああ、何か良質なサスペンスが観られるかもしれない。と、期待は最高潮となる。 が、そんな期待感は、ストーリー展開と共に、アクション性が暴走し、事の真相が詳らかになると共に、徐々に確実に「脱線」していく……。  さすがに4度も共に仕事をするだけあって、この監督と主演俳優の相性自体は決して悪くはない。 ジャウマ・コレット=セラ監督のビジュアルセンスは長けているし、どんなにアクション俳優化したとしてもリーアム・ニーソンが名優であることは揺るがない。両者が表現者として持つ繊細な波長はよく合っていると思える。  となると、致命的なのはやはり脚本のまずさだろう。過去作も含めて、ストーリー展開がチープでお粗末だ。 同じようなジャンル映画であっても、もう少しだけ気の利いた脚本が備わっていれば、正真正銘に「面白い」映画になり得ると思う。現状でも充分に「観れる」娯楽映画ではあるだけに、勿体無い。  阿呆な陰謀チームの肩を持つわけじゃないけれど、最終的にそこまで無茶苦茶するんなら、ごちゃごちゃと面倒でリスキーなことをせずに、最初から“脱線プラン”でいけよという話だ。 まあその場合、主演俳優はリーアム・ニーソンではなく、スティーヴン・セガールになってしまうがね。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2019-05-04 17:25:54)(良:1票)
5.  ドント・ブリーズ
“最凶盲目爺さん”が織りなす恐怖と狂気。貧困による若者の絶望と犯罪。 デトロイトを舞台にして、現代社会が抱える“病”とそれに伴う“鬱積”が、一軒の古屋敷の中で渦巻き、恐怖と悲劇のるつぼと化しているようだった。 両者に同情の余地はあり、だからこそ両者ともに罪と罰を叩きつけられる。完全に是となる者が存在しないサスペンスホラーの構成が新しい。  盲目の屈強な老人が、暗闇の中で襲ってくる様は、恐怖体験としてフレッシュであり、その“モンスター性”にも独自性と魅力があったと思う。 “悪しき者”のアンチヒーロー化は、実にサム・ライミ(製作)らしいと思えた。 盲人役を演じたスティーヴン・ラングは、「アバター」で悪役軍人を憎らしく演じた様が印象的に記憶に残っているが、あの軍人が盲目になって襲ってくると想像すると、そりゃあ恐ろしい。  というわけで、盲目の老人が襲ってくるというアイデアを礎にして、アクション性とサスペンス性を散りばめた上で、確固たるホラー映画として成立させていることは、映画作品としてとても独創的だったとは思う。 ただし、ストーリー展開的には、どうしても粗というか、無理が生じていることを否めない。  逃げ場がないとはいえ、舞台は一般的な家の中なわけだから、いざとなったら如何様にも脱出は可能に見える。 盗み目的で侵入した若者たちが、自ら積極的に袋小路に入り込んでいるように見え、序盤から「お前らは馬鹿なのか?」やや鼻白んでしまった。 そして、最凶爺さんの方も、流石に超人的すぎてリアリティラインの境界を見失ってしまった。 元軍人という設定で、身体的な能力の高さや、玄人的な銃器の取り扱い、殺人に対する躊躇いのなさ等は理解できるが、盲目の状態であのような異様で綿密な“企み”を遂行できるわけがない。 ただシンプルに、実は何人もの侵入者を返り討ちにしていたということであれば許容範囲だったが、あそこまでいっちゃうともはやファンタジーだ。  まあしかし、そのぶっ飛び方が良い意味でも悪い意味でも常軌を逸しているポイントであることは確かで、それが老人のモンスター性を高めているとも言える。 もはや彼は、憎しみの権化として「人間」という領域を逸脱した悪魔的な存在であり、それを劇中で速やかに呑み込めさえすれば、心ゆくまで楽しむことができる恐怖映画だと思う。  僕自身は、そのリアリティラインの境界を呑み込みきることが出来なかったので、完全にこの映画を楽しみきるには至らなかった。 けれど、悪魔的な存在性へと高まった盲目爺さんが、主人公を追ってカリフォルニアで新たな恐怖を展開する“逆・ホーム・アローン2”的な続編があるのならば、それはそれで観たい。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2018-10-21 17:45:34)(良:1票)
6.  トランスフォーマー/最後の騎士王
「もはやナニがナンだかわからん!」のは、今に始まったことではなく、シリーズ3作目あたりから大体同じ印象をすべての鑑賞者が持っているはずだ。 このブロックバスターシリーズのファン、非ファンに関わらず、その“ワケの分からなさ”もしくは映像的膨大な物量の中で展開されるストーリーの“どうでもよさ”自体を受け入れられないような人は、そもそもこの映画を観るべきではない。その場合、非難されるべきは作品ではなく、鑑賞者の方だろう。 というわけで、前作(完全蛇足の中国観光映画)に対して、映画産業全体における危機感も含めて「0点」を献上した僕も、あらゆることを「覚悟」した上で、この150分に渡る超大作の鑑賞に至った。  先ず序盤から大いに戸惑う。「あれ?(録画リストから)間違えてキング・アーサーを再生してしまったのかな」と。 恐らくは、同年製作の「キング・アーサー」より多大なバジェットをかけていそうな暗黒時代の合戦シーンにあんぐりとした。 ただし、結果的にはこの大仰な大風呂敷の広げ方が、一辺倒だった当シリーズのエンターテイメント性に多様性を生んだとも言えると思う。  まったくもって「強引」極まりないが、謎の金属宇宙生命体であるトランスフォーマーと地球の因縁を、人類史を遡ってこじつけたことで、「ダ・ヴィンチ・コード」的なミステリーとアドベンチャー要素が加わっている。 その他にも、スパイ映画、宇宙人侵略映画、カーアクション映画、潜水艦映画etc様々な要素を増し増しに盛り込んで、胸焼け必至のボリュームでまとめ上げている。 サービス過剰の執事ロボットや、侵略者に慣れ過ぎちゃって平然とタイマンで交渉に臨んじゃうレノックス大尉など、惰性だろうとなんだろうと5作目まで続けてきたからこそ辿り着いた娯楽性も確実に存在する。  この映画世界はまさに「カオス」そのものであり、何を見せられているのかも分からなくなってくる。 が、マイケル・ベイ監督をはじめ製作陣は、そんな作風に対してとうの昔に開き直っているので、内容がどうであれその“映画づくり”においてはもはや迷いなどはなく、ワケのわからないものをワケのわからないままに堂々と作り込んでいるように感じる。 結果として、観ている側も「コレはこういうものだ」と納得せざるを得ない気持ちになってきた。  どうやら大風呂敷は更に広がり、トランスフォーマーたちとの因縁は地球という惑星そのものの誕生まで遡って、「エイリアン:コヴェナント」的な展開を目論んでいるようだ。 もう、どこまでも好きなだけ突き進めば良いと、諦観半分で応援したくなる。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2018-10-14 17:54:20)(良:1票)
7.  トムとジェリー スパイ・クエスト
海水浴に訪れたトムとジェリーが、スパイキッズに遭遇し、世界征服を目論む秘密結社と対決する。 ストーリーのフィールドが大きくなって、毎度おなじみのドタバタが展開されるわけで、それ以上でもそれ以下でもなく、果たして映画と位置づけていいのかどうかも微妙だけれど、その身一つで、世界中のすべての子どもたちの目線を釘付けにするこのネコとネズミのスラップスティック・コメディ力は流石だ。 我が家の子どもたちもしっかりと釘付けだった、休日の束の間。
[CS・衛星(吹替)] 4点(2018-05-13 23:59:12)
8.  トリプルX 再起動
2002年(15年前!)の第一作目は、低迷していたアクションスター型アクション映画に一石を投じる文字通りの快作だった。 その成功の要因は、やはり主演のヴィン・ディーゼルという俳優の特異性にあったと思う。 「ワイルド・スピード」シリーズが世界的大ヒットコンテンツとなった今となっては、もはや彼の特異性には「愛着」しかないけれど、当時はまさに売り出し中、モロに悪役面で豪腕を振り回すヴィン・ディーゼルのアンチ・ヒーローぶりは、新鮮で、エキサイティングだった。  そのヴィン・ディーゼルが降板し、代わりにアイス・キューブが主演を務めたシリーズ第二作目は未見だが、最大の見どころであった主演俳優が交代してしまっては、その苦戦ぶりは想像に難くない。 そしてその第二作からも12年の月日が過ぎ去った上でのまさかのシリーズ最新作には、当然ながら“今更感”は拭い去れない。 けれど、もはやアクションスターとしての絶対的な地位を確立したヴィン・ディーゼルが、「xXx」として復帰している以上、相応の娯楽性自体が復活していることは言うまでもない。  そして何と言ってもこの「再起動」は、競演陣が豪華だ。 サミュエル・L・ジャクソンが相変わらずのノリの良さで唯一シリーズ皆勤賞の指揮官役を喜々として怪演する。その傍らにはネイマール! アジアからは、絶好調ドニー・イェンとトニー・ジャーが参戦し、圧倒的な説得力を備えた体技の数々で、娯楽性に華を添えてくれる。 それに、コケた前作の屈辱を呑み込んだ上で再登場したアイス・キューブは、なんていいヤツなんだ!と思わずを得ない。  ストーリーテリングの目論見自体は、「ワイルド・スピード」シリーズの成功の二番煎じ狙いであることは明らかだし、サミュエル・L・ジャクソン演じる指揮官ギボンズのキャラクター性にも、“ニック・フューリー”の焼き直し感は否めない。 決して志の高い映画ではないことは間違いないが、そんなこと誰も求めていないこともまた然り。  そういう意味で、この映画を観ようとするファンが「観たいもの」をしっかりと観せてくれる作品だと思う。
[インターネット(字幕)] 6点(2017-12-24 01:22:47)
9.  ドリーム
「私には差別意識なんてものは無いのよ」  と、キルスティン・ダンスト演じる白人女性管理職のミッチェルが、それが自分の本心だということを疑わずに言う。 それに対して、黒人女性としてNASA初の管理職を目指すオクタヴィア・スペンサー演じるドロシーはこう冷静に返す。  「分かっているわ あなたがそう思い込んでいることを」  愕然とするミッチェルのみならず、僕自身を含め、観客の多くがドキッとした台詞だったろう。 世界のあらゆる「差別」における最大の問題点は、あからさまなレイシストをどう排除していくかということではない。 「私は差別なんてしていない」と平然と生活をしている我々大衆の根底にある無意識の差別意識を、どう根絶できるかということだ。  「差別なんてしてない」と信じている人間に、実は存在する差別意識を認識させること程難しいことはない。 たとえそれの存在に気付いていたとしても、「知らないふり」をしていた方が、ずっと楽だし、正義を気取れるからだ。 自分自身の中に巣食う差別意識に対面し、それを認めることは、実は最も勇気が必要なことなのかもしれない。  社会に蔓延る人種差別を描いた映画を多々観てきたけれど、「“差別”が何故愚かなことなのか」という普遍的な問いに対する、分かっているようで分かっていないその「答え」を、これ程まで明確に、そして娯楽性豊かに示した映画を他に知らない。  この映画が示すその明確な答えは、あまりに潔く、的確だ。 即ちそれは、「差別」の存在が人類の進化においてあまりにも“非効率”であり、その歩みを留める致命的な“エラー”になり得るからだ。 本当に優秀な人材が、当たり前のように根付く差別意識とそれに伴う愚かな仕組みのせいで、ただ「トイレに行く」だけのために、無意味に駆け回らなければならない。 人類全体の新たな「1歩」のために、1秒、1ミリ、1グラムを追求するべく職に就く人間が、愚かな非効率を強いられることの罪深さをこの映画は圧倒的な雄弁さで物語る。  言わずもがな、キャストの演技はみな素晴らしい。 特に主要キャラクターとなる3人の黒人女性を演じた女優たちの魅力的な存在感は圧巻。原題「Hidden Figures」が表す通り、歴史の中に隠れた人達の輝かしい功績を燦然と体現している。  同年のアカデミー賞を勝ち獲ったのは、今作と同じく、社会的マイノリティの葛藤を叙情的に描いた「ムーンライト」だったわけだが、今作の映画としての非の打ち所の無さは同作を遥かに凌駕する。 世界中の誰が観ても、心から楽しめ、提示される問題の根深さを理解することが出来るこの映画の価値は極めて高い。   クラシックな車と同じく、古い「時代」とそれに伴う間違った「価値観」は時に立ち往生する。 悲しくて悔しくて、先行きままならないことも多々ある。 でも、ならば車の底に潜り込んで直せばいい、正せばいい。 彼女たちが示した勇気とプライド。そのあまりにも尊い価値に涙と多幸感が溢れ出る。
[映画館(字幕)] 9点(2017-10-21 22:52:07)(良:3票)
10.  ドクター・ストレンジ
マーベル・コミックのクロスオーバー作品である“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”のシリーズ第14作目にして、“フェイズ3”の2作目なんて聞くと、もはやファンですら混乱してしまいそうで、完全に一見さんお断りの雰囲気を醸し出している。 ついに「魔術師」まで登場してしまっては、この世界観のリアリティーラインが一気にぶっ飛びそうだが、その「異質」さが、逆に一見さんを“アリ”にしてくれているようにも感じた。 故に、特にMCUシリーズのファンにとっては、大いに賛否が分かれる作品に仕上がっていると思う。  アメコミ自体への造詣が深いわけではないので、当初は「ドクター・ストレンジ?何だそれ?」といったところだったが、MCUにベネディクト・カンバーバッチが参戦となれば、当然劇場に足を運ばぬわけにはいかない。 そして、傲慢で屈折した性格を持つ天才外科医なんて役どころが、カンバーバッチにマッチしないわけがなく、髭を蓄えた白髪交じりの魔術師の立ち振舞も、他のマーベルヒーローとは一線を画す格好良さがあった。 ある意味では、そのビジュアル的な娯楽性を達成できている時点で、アメコミ映画としては「成功」と言ってもいいのかもしれない。  しかしながら、これまでのMCUシリーズ各作品において(すべてとは言わないが)ストーリーテリングの巧さとエンターテイメントとしての手際の良さによって高揚感を与え続けられてきたファンとしては、少々稚拙なストーリー展開に思わず眉をひそめてしまった。 冒頭からクライマックスに至るまで、終始ストーリー運びが唐突に感じた。 天才外科医だった主人公が、交通事故を起こし、天職を失い、絶望し、彷徨い、偶然に怪しい呪術の存在を知り、学び、魔術師になる。その一連の流れがあまりに短絡的で、都合いい。「そういう運命だから」という一言で済ませようとするような乱暴さすら感じてしまう。 主人公をはじめとする各キャラクターの行動理由についての描写も非常に薄い。 何やらわけの分からぬ固有名詞を連発してそれっぽいことを述べて、強引に事を運んでいるように見えてならなかった。  ラストの主人公が勝利するくだりは、魔術師らしい狡猾な“とんち”が効いていて小気味よかったが、あのような展開がまかり通るのならば、それを活かしてもっと巧いストーリーテリングが構築できたのではないかと思える。 序盤の都合のいい展開も、時空を超越した魔術師の仕業だった〜なんてオチであれば、楽しかったのにと口惜しさが残った。  とはいえ、前述の通りMCUシリーズの中でも個性的な作品であることは間違いない。 ストーリーの稚拙さはあるが、場面場面の愛らしさを含め、奇妙で歪でかわいい映画と言えなくもない。  「魔術師」の登場に対してリアリティーラインの崩壊を危惧したけれど、考えてみれば、古来より「科学」と「魔術」の境界線は紙一重であり、実は今もそれは変わりないのかもしれない。(「ドラえもん のび太の魔界大冒険」で出来杉くんも同様のことを言っていた) ならば、科学の粋を集めたアイアンマンと魔術師のドクター・ストレンジが同一世界に居たとしても全くおかしくはないのだろう。
[映画館(字幕)] 6点(2017-02-27 23:40:07)(良:1票)
11.  ドラゴンボールZ 復活の「F」
マッスルパワーの亀仙人が強すぎるぞッ!  が、往年のファンとしてそれは嬉しすぎるサービスカットだ。悟空たちがあれだけ際限なく強くなっているのだから、不老不死(自称)の亀仙人が密かに修行して強くなっていてもなんら不思議ではない! ただし、あのように亀仙人はじめ各キャラクターの活躍シーンを用意してくれるのであれば、ちゃんとヤムチャとチャオズも連れて来てあげて欲しかった。 ヤムチャの繰気弾とチャオズのどどん波のシーンがあればもっと盛り上がったろうにと思う。 というか天さんよ、いつからあんたはチャオズに加えてヤムチャの保護者的立場になったのだ?  というわけで、映画としてのストーリーの稚拙さや工夫の無さなどはもはやどうでもいい。 孫悟空はじめキャラクターが勢揃いし、再び地球の危機を救う。 そして、対峙する悪は、満を持して復活した原作最恐の悪役フリーザ。 悟空対フリーザ。その構図が再び見られただけで、往年のドラゴンボールファンとしては、懐かしさとともに嬉しさが先行してしまうことは否めない。  ストーリーテリングがあまりに雑過ぎるので、映画単体としての低評価は免れないけれど、“彼ら”が闘うシーンを再び見られるだけで、一定の満足感は得られる。 「ドラゴンボール」とは、もはやそういう伝説的な娯楽なのだと思う。
[ブルーレイ(邦画)] 5点(2015-11-13 12:56:19)
12.  ドラッグ・ウォー 毒戦
映画ファンとしては恥ずべきことだが、監督作品50本以上という香港の名匠ジョニー・トーの映画世界に触れてまだ日が浅い。 鑑賞数は今作でまだ3作目。実は、まだまだこの監督の世界観の本質が掴みきれていない。 ただ、共通することは、三度とも「この映画は面白いのか?面白くなかったのか?」というとても基本的な鑑賞直後の判別がつかなかったことと、それに伴う“ざわつき”みたいなものが心にジワリと残るという独特な後味だった。 つまるところ、これほどまでに“一筋縄ではいかない”作品を作り続ける映画監督もなかなかいないということだ。  今作も、まさに“独特”。 ストーリーの概要は、“麻薬を取り締まる公安警察と麻薬密売組織との攻防”であり、題材としてはハリウッドをはじめとして世界中で作り続けられている普遍的なものと言えるだろう。 が、描き出す人と、描き出される国が違うとこうも“異質”な映画になるものかと、唖然としてしまうくらいにこの映画のオリジナリティは際立つ。  何と言っても、キャラクター描写が異質だ。 通常の娯楽映画であれば絶対にあるはずの登場人物同士の“関係性”が、意識的に排除されている。 代わりに、個々のキャラクターにおける生々しい人間性が、まさに飾り気のないありのままの姿として強く描き出される。 決して綺麗事ではないその様は、不格好で、愚かしく、汚らしいが、それ故に「人間」を正直に描き出しているとも感じられ、潔い。   前述の通り、鑑賞直後は“どういう映画”を見せられたのか理解が追いつかないくらいに戸惑い、果たして自分はこの映画が面白かったのかどうなのか判別がつかなかった。 そして、一晩よくよく映画世界を振り返ってみて、数々の印象的なシーンがフラッシュバックされると共にようやく確信する。  「ああ、面白かったな」と。  この独特な面白さはまさに麻薬的だ。危険で刺激的な感覚はきっとクセになる。“中毒者”になってしまうのにそう時間はかからないだろう。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-09-27 23:29:27)
13.  トランセンデンス(2014)
世界随一の科学者の頭脳がインストールされた人工知能。 そこには、オリジナルの“人格”が生きているのか、全く別物なのか。 人類を遥かに凌駕する程に進化した人工知能の“暴走”は、一体誰の思いが結実したものだったのだろうか。  社会構造の機械化、コンピューター化が進む世界における危機意識は、昔からSF映画で描き出されてきたことで、今作もその潮流を汲む作品の一つと言える。 愛する者の頭脳をインストールした人工知能を渦中に置き、人類とコンピューターとの関係性を抉り出そうとした興味深いSF映画だったとは思う。  今作を観ていて思い出されたのは、「地球爆破作戦」(1970年製作)という映画だ。 超高性能の人工知能が、プログラミングされた「目的」=「平和」を遂行するために、人類を支配下に置こうとする恐怖を描いた傑作SF映画である。 人類と人工知能との攻防を描くという点はもちろん、真の意味で世界を滅亡させようとしているのは一体どちらかというテーマ性も極めて類似していると思う。  今作ではそのテーマ性に、普遍的な夫婦愛が加味され、より多感なドラマ性が生まれていたと思う。 繰り返しになるが、興味深いSF映画であったことは間違いないし、決して嫌いな映画ではなかった。 が、しかし、映画としての芳醇さというか、観客を引き込む本質的な魅力みたいのものが、大事なところで足りなかったと思う。  この映画の主人公は、人工知能に生前の頭脳をインストールされた天才科学者の夫ではなく、彼を誰よりも愛し失意の中で“禁断”の進化を選んだ妻であろう。 であるならば、もっとこの妻の愛情とそれ故の狂気を深く描き出すべきだったと思う。 そうしたならば、ジョニー・デップ演じる“人工知能”の夫の中の「人格」の有無がもっとスリリングに、もっとエモーショナルに際立ったのではないか。  実際、そういう風に描き出そうとはしていたのだとは思う。 ただそれに見合う演出力とイマジネーションが、長編デビュー一作目の今作の監督には明らかに備わっていなかった。 監督のウォーリー・フィスターは、クリストファー・ノーラン組でずっと撮影監督をしてきた人物なので、その技量は申し分ない。当然ながら今作でもビジュアルセンスの確かさは光っていたと思う。  ただし、映画として人々の記憶に焼き付けるためには、撮影技術とは違うベクトルの創造力が必要不可欠だということだろう。 例えば、人工知能の「意思」が雨粒となって地上に降り注ぐシーンなどは、クリストファー・ノーランならば、これまで観たことがない新鮮味と神々しさに溢れるシーンに仕上げたに違いない。 また夫が妻の“嘘”を見破るシーンが、序盤と終盤で対比的に描き出されるのだが、その差異の描き方もちょっと中途半端で分かりづらかった。こういう部分も、一流の映画監督であれば感動のポイントとして逃さないだろう。  もしくは、ジョニー・デップをキャスティングしていなければ、もっと適正なバランス感覚で仕上がったのかもしれない。 人工知能の夫としてのビジュアルは殆ど映し出さないくらいの低予算方針で撮ったならば、逆に味わい深いSF映画として仕上がったのではないだろうか。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2015-07-15 23:32:05)
14.  トゥモローランド
この映画を観る前の日中は、愛娘の幼稚園の行事に参加してきた。梅雨の合間の炎天下、我が娘も含めて、数百人の子どもたちがわらわらと駆け回っていた。 そんな日の夜に観たからこそだったのかもしれないけれど、僕はこのSF映画が伝えるメッセージを素直に受け止めることが出来た。 それは、映画ファンとして、子を持つ父親として、とても幸福なことだったと思う。   映画の冒頭、少年時代の主人公が、自作したジェットパックで未来都市を飛び回る。 このシーンをはじめとする「未来」を目の当たりした問答無用の高揚感こそが、この映画の総てだと言っていい。 映し出された未来像に対して“ワクワク”するというあまりに普遍的なSF映画の本来あるべき姿がそこにはあり、同時にそれを素直に肯定することが出来ない現代社会の病理も表しているように思えた。  無邪気だろうが、浅はかだろうが、「明日」を夢見なければ「未来」はない。 未来に希望を持てないなんて悲しすぎるし、希望を持てないことを誰かのせいにして、ある意味開き直って、あたかも絶望を抱える方が当たり前だと言わんばかりに、世界の退廃を受け入れるなんてまっぴらだ。  この映画が導き出したテーマを、「選民意識」の表れだと批判する人が多いらしい。なんて見当違いで、愚かなんだと思わずにはいられない。 確かに、この映画のラストでは、より良い未来を担うべき者の選抜が描かれてはいる。 そこに、未来という次のステージに今この瞬間の全員を連れていけるわけではないというある種の非情さが表れていることは確かだとは思う。 ただしそれは、才能に秀でた者が、才能に秀でた者を選民しているわけでは決してない。  「未来」という夢と希望を担うべき人材を、「才能」ではなく、それを諦めない「意志」で選ぶことを理想として導き出したこの映画を、僕は決して戯れ言だとは思いたくない。 それを「選民意識」なんて捉え方をすることこそが、未来に対しての逃げ口上だと思えてならない。  もちろん、困難や問題は尽きない。特別な才能があろうが、なかろうが、絶望することは容易だろう。 しかし、自らとそれに追随する若い命のために、「明日」という世界を作り続けなければならない。 そのために必要な物が夢や希望だと言うのならば、何がなんでも、僕はそれを追い求めたい。
[映画館(字幕)] 7点(2015-06-21 23:27:26)(良:1票)
15.  トランスフォーマー/ロストエイジ
165分の取り留めのない映像的物量の「羅列」を、グッと耐えるように観終えて思う。 これは、マイケル・ベイ監督渾身の「自虐」だと。  前三部作を撮り終え、身を引く予定だったマイケル・ベイが、敢えてこの新作でも監督を引き受けた理由は何なんだったのか。 勿論、単に自分が培ってきた人気シリーズを他人の手に任せたくないという思いもあったのだろうとは思うが、この映画の仕上がりを見たところでは、それ以外の明確な「意思」があるに違いないと思う。  もはや突っ込むことも馬鹿らしく思えるほどに、今作は「中国資本」による「広告」のオンパレードである。クライマックスを含めた後半は、完全に中国映画であり、中国のPRビデオである。  当然ながら、映画は“お金”がなければ作ることは出来ない。 そんな中で潤沢な資金力を誇る中国市場に、ハリウッドの映画産業が集中していくことは、もはや必然だろうと思える。 昔から映画の作品内で“スポンサー”の威光が示されることは決して珍しいことではない。  ただし、その“威光”が、今後更に度を越していくことを、稀代のブロックバスター映画監督であるマイケル・ベイは、この映画で示したかったのではないか。  嘲笑を携えながら、165分の広告映画を観終えた。 しかし、この映画が歴代最高額の興収をたたき出したという現実を知り、嘲笑すらも消え失せた。  明確に生じたこの「危機感」は、ある意味、映画史上において「貴重」なことなのかもしれない。
[CS・衛星(字幕)] 0点(2015-05-24 22:47:43)
16.  TOKYO TRIBE
好きか嫌いかで言えば、好き。 キャラクターづくり自体は、原作に忠実なキャラも、映画独自のオリジナリティを出したキャラも、総じて良い。 ただ、ストーリーがあまりに雑すぎた。  “こういう映画”なので、雑多なのは大いに結構だが、ストーリー展開として盛り上がりに欠けたことは否めない。娯楽映画としてのストーリー的な巧さは、もっといくらでも出せたと思う。 そうすれば、もう一味も二味も”サイコー”な映画になったろう、と大変勿体無く思う。  井上三太の原作「TOKYO TRIBE 2」は、ファッション誌「boon」での連載中から単行本を買って愛読していた。 田舎のダサい高校生だった僕が、どうやってこの漫画を知り、単行本を集めるに至ったか全く思い出せない。けれど、自分の住む世界とあまりにかけ離れたこの漫画の「欲望」と「狂気」の世界観を、まるで“いけないものを見るような”感覚で密かに楽しんでいたことを思い出す。  その欲望と狂気の世界観を園子温が撮る!という報は、かつての“いけない”感覚を呼び起こし、“ワクワク”というよりも“ドキドキ”に近い期待感を生んでいた。  結果として、この映画の監督が園子温であったことは、「成功」だったと思う。 この作品とキャラクターたちが表す、熱さも、愚かさも、可笑しさも、恐ろしさも、下らなさも、その要素は総て園子温という表現者が持つ資質に合致していた。  だからこそ、前述の“勿体無い感”が際立つ。 ストーリーは、“馬鹿”がつくほど単純でいい。「ケンカを売った」「ケンカを買った」「どちらかが勝った」それでいいのだ。 ただ、せっかく揃えた濃いキャラクターを巧く使って盛り上げて欲しかった。  プロの役者も、プロのラッパーも、出演陣が総じて良かっただけに、それぞれに印象的な見せ場や、壮絶な死に様を用意してあげて欲しかったと思う。そういう部分が軽薄だったため、映画としての盛り上がりにかけてしまっていた。   “ラップミュージカル”とイントロするだけあって、“プロ”を揃えたラップによるミュージカルシーンは、どの場面も非常にエモーショナルだった。 映画を観終わり、「サウンドトラックが欲しい!」と思えたのは久々だ。それだけでも、この映画の価値は大きいと思える。
[ブルーレイ(邦画)] 7点(2015-03-06 00:02:46)
17.  ドラゴンボールZ 神と神
「オラ、ワクワクしてきたぞ!」 このアニメの主人公が過去に何度も何度も発してきたセリフである。 孫悟空という主人公が終始一貫追い求めてきたものは、「最強」という称号などではない。 自分よりも“強い者”と出会い、それに打ち勝つことだ。  前作から実に17年ぶりの劇場版作品。原作者鳥山明が初めて直接ストーリーに関与した今作には、原点回帰ともいえる要素が色濃く表されていた。 アニメーション映画としてのクオリティーは別として、この漫画・アニメシリーズによる“高揚感”がDNAに刷り込まれている世代の者にとって、久方ぶりに描き出された世界観は、ただただ楽しく、嬉しいものだったと言える。  勿論、難点はいくつもある。 “破壊神ビルス”というこれまた次元を超えた難敵が登場したわりには、舞台となる場所はブルマ邸の庭先に過ぎず、描かれるストーリーの大部分は“ブルマの誕生日会”なので、あまりに派手さがない。 また、ビルスの怒りを抑えようと孤軍奮闘するベジータの“キャラ崩壊ぶり”もいささかやり過ぎなように思える。  ただ、そういった難点すらも、長年のファンにとってはもはや微笑ましく見える。 誕生日会であれなんであれ、レギュラーキャラクターたちが勢揃いした様は、その描写を見ただけで嬉しい。 “キャラ崩壊”のベジータも、彼が長らく地球に住み着いて辿り着いた人格だと思えるし、恥もプライドもかなぐり捨てて、家族と仲間たちを守ろうとする滑稽な姿は、もはや感動的ですらあった。  何よりもこの映画作品には、“3・11”の大震災を受けた偉大な漫画家の熱い意思が表れている。 それは、多少ふざけすぎていたとしても、久しぶりに一堂に会した仲間たちとの時間を“楽しいものにしたい!”という思いであり、それを見た子どもたち、そしてこの作品に熱狂し大人になったかつての子どもたちを再び笑顔にしたいという熱い思いだろう。  この映画はおそらく初めて、孫悟空が相手に勝てないまま終幕する。 それも、上には上がいて、この世界は、この宇宙はもっと“可能性”に溢れているという漫画家からのメッセージに違いない。 “可能性”、それは即ち“未来”。 孫悟空という主人公はこれから先も、いくつも可能性に出会い、打ち勝ち、新しい未来に立ち続けることだろう。  成る程、「ドラゴンボール」という作品がいつまでだっても風化せず、愛されるわけだ。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2015-02-09 00:26:16)
18.  ドライブ・アングリー3D
この映画をクソ真面目に「否定」することしか出来ない人は、映画ファンとして勉強不足だと言わざるを得ない。 なぜならば、これこそが、もはや一つのジャンル映画として確立しつつある、“ニコラス・ケイジ映画”なのだから。  勿論、端から「期待」なんて言葉は持たずに某動画配信サービスで鑑賞を始めた。 すると、序盤から想定外の“おかしな”テンションの高さに、ニヤリとしてしまった。 「あれ?これはもしかしたら中々の馬鹿映画かもしれない」と、別の意味の「期待」が膨らんできた。  ニコラス・ケイジ演じる主人公が、ショットガン片手に問答無用に暴れまくる。 その凶暴さは、明らかに常軌を逸していて、この主人公が“フツーの人”ではないことは容易に理解できる。 どうやらその凶暴さの動機は、愛する娘を謎のカルト教団に殺され、残された孫娘を救い出すため……ということらしいが、はっきり言ってそれに見合った悲愴感など全く漂わせずに、襲来する悪漢を蹴散らし、行きずりの女とのセックスに興じる様は、ニコレス・ケイジ史上に残る無頼漢ぶりかもしれない。  その主人公の無頼漢ぶりに“悪ノリ”するかのように、映画の核心となると或る「設定」が明らかになり、「暴走」は益々激しさを増し、それと同時にストーリーは益々どうでもよくなってくる。  主人公のキャラクター性も良いが、それを上回るくらいに脇のキャラクター達も立っている。 アンバー・ハード演じるヒロインは、絶妙なビッチ感を漂わせつつ、ダイナーのウェイトレスを好演していた。 そして何と言っても、ウィリアム・フィクトナー演じる「監査役」が最高だった。得体の知れない独特のキャラクター性が、映画の重要なアクセントになっていたことは間違いなく、娯楽性を高める要因となっていたと思う。  物理的におかしな激しさを見せる銃撃戦とカーアクションに眉を潜めてしまったら負けだ。 映画全体の馬鹿馬鹿しさに対して、ストレートに「馬鹿だ!」と大笑いできた者の勝ち。 それが、“ニコラス・ケイジ映画”を楽しむための鉄則だろう。
[インターネット(字幕)] 6点(2013-11-13 22:41:32)(良:1票)
19.  トランス(2013)
冒頭、ヴァンサン・カッセル率いる強盗団がオークション会場を急襲する。主人公のジェームズ・マカヴォイも含めて、その面々の面構えが絶妙で惹き付けられた。 俳優の表情というものは、勿論映画づくりにおいて最重要なポイントで、それがきちんと押さえられている映画は、ある程度信頼していいと思う。  そういう映画なので、終始面白く見れたことは間違いない。入り組んだストーリーテリングに絡む人間描写に引き込まれ、観客として最後まで謎を追い求められたのだから、この手の映画として“悪くはない”と断言出来る。 しかし、映画が終わり立ち返ってみれば、大いに腑に落ちない要素が目白押しの映画であることも間違いない。  こういう人間の「記憶」をサスペンスの中核に据えた映画は、観る者を幾重にも重なる謎へ一気に引き込むけれど、許容範囲をしっかりと設けておかないと、際限がなくなり一気にリアリティに欠けるものになってしまう。 ダニー・ボイルらしい繊細且つ大胆な映画世界の中で濃厚なサスペンスが繰り広げられていたけれど、残念ながら少々行き過ぎてしまっている。  決して納得が出来ない話ではないのだけれど、こういう顛末なのであれば、主人公をはじめとする中盤までの人物描写が、導き出される「真相」に対してあまりにアンフェアだったと思う。 結果、クライマックスにかけてこれほど主人公の人格が“急降下”していく映画も珍しく、最終的に誰にも感情移入が出来ないまま、映画自体が突っ走ってしまった印象を覚えた。  なんだかんだ言って、結局、ヒロインが最も悪魔的な行為をしているんじゃないかと思えるし、そうなるとあのエピローグは極めて無責任で、嫌悪感を覚えてしまった。  まあしかし、脳味噌を吹き飛ばされたヴァンサン・カッセルが喋り出したり、昨今の娯楽映画には珍しくヒロインの強烈なフルヌードが唐突に映し出されるなど、想像以上に個性的な映画であることは確かだ。 故に、ルックの秀麗さに反して完成度が高いとは言えないが、無下に否定も出来ない。  タイトルに相応しく、良い意味でも悪い意味でもとても「倒錯的」な映画と言えると思う。
[映画館(字幕)] 6点(2013-10-20 23:07:32)(良:1票)
20.  トータル・リコール(2012)
「アンダーワールド」シリーズのレン・ワイズマン監督による映像世界は流石に流麗で、アクションシーンにもメリハリがあり良かったと思う。これが、何のバックボーンもない新作SFアクション映画であれば、もう少しシンプルに好評を得ることも出来ただろう。 しかし、この映画が「トータル・リコール」のリメイクである以上、そういうわけにはいかない。  22年前にポール・バーホーベンが描き出したあの“特異”な映画世界と比較せざる得ない状況では、やはり今作に対しては「凡庸」という言葉が常に先行してしまう。 オリジナルとの大きな違いとして、今作の舞台は火星ではなく、荒廃した地球の表と裏という設定になっている。 貧富の格差をあからさまに表したこの舞台設定を結ぶ通勤電車“フォール”の存在は剛胆で良かったけれど、オリジナルの広大な世界観に比べてしまうと、どうしてもこぢんまりとした印象を覚えてしまう。 詰まるところ描かれているものは、圧政に対しての小規模な反乱に過ぎず、SF映画としての迫力に乏しかったと思う。  完全に「ブレードランナー」を意識した街並や小道具の造形は秀麗ではあったものの、バーホーベンの毒っ気溢れた世界観に比べると「フツーだな」と思ってしまう。 あの“顔面割れおばさん”を演じた女優に「二週間よ」という台詞を言わしたり、売春婦の"三連おっぱい”などバーホーベン版を彷彿とさせるオマージュ的描写が随所に挟み込まれていたことは、オリジナル作品に対してのリスペクトが感じられて好感は持てたけれど。  監督のリアルな奥方でもあるケイト・ベッキンセールが、オリジナルでシャロン・ストーンが演じた“鬼嫁”役を演じ、彼女にとっては珍しい“悪役”を楽しんでいた。 相変わらず美しいので、しつこく主人公を急襲する悪役ぶりをずっと観ていたい気もしたが、さすがに最後まで引っ張り過ぎなような気もした。おかげで敵ボスの存在感が薄れてしまっている。 だいたい、ベッキンセールの役は結局のところ職務に意欲的な公務員であり、よく考えれば決して悪党ではないというキャラ設定も中途半端だったと思う。  今思えば、オリジナル作品主演のシュワルツェネッガーは、あの馬鹿っぽさが適役だったんだなあと思い知った。
[ブルーレイ(字幕)] 5点(2013-02-06 13:50:30)(良:1票)
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