1. 怪物(2023)
《ネタバレ》 母親、教師、ミナト目線のパートで描かれているけれど、私はこの作品は、「大人の部」と「子供の部」の2部構成とみた。 正直、「大人の部」は、子供たちの心理を理解するための添え物という認識で視聴した。 冒頭で、足元のみで登場する少年は、虫笛を鳴らしている以上、星川、怪物の登場だ。 「怪物」と呼べる人物は、私には彼ただ一人を指しているように思える。 その他大勢のキャラたちは、どこにでもいる大人あるある、子供あるあるで、別段特異には見えない。 でも星川は違う。 おそらく彼の母は、アル中の夫と性同一性障害の息子が手にあまり、離婚して、家にいない、 父は、児童手当欲しさに息子を引き取り、息子の障害を許せず「怪物」と呼び、体罰で女の心を治療する気でいる。 当人は、浴槽で体を冷やさねば痛みを抑えられないほどの暴力を父から受け、 学校では、同級生たちから性がらみのいじめを受け、 好意を寄せているミナトからは、「皆のいる場所で声をかけるな」と言われ、 当てものクイズに使うイラストカードに「怪物」を描いたり、陰でしか一緒に遊べないミナトと「怪物だーれだ♪」と歌うなど、 人格否定のあだ名を、ふだんから気軽に遊びとして取り入れている。 これらの状況下で、小学5年生の「男の子」が、なぜニコニコと愛らしく笑っていられるのか。 星川の父がいうには、息子の頭の中には、豚の脳が入っている。 だから、植物の名前を覚えるような女々しい趣味があったり、男らしい言動ができないのだというのだろう。 自宅で人格を否定され、暴力を受け続けていれば、何ぴとたりともふつうの精神状態ではいられない。 映画の前半では、麦野家の屋内が雑多なもので溢れかえり雑然としていて、それが心の整理がつかないミナトの心を象徴しているように見え、 みずから生を断ちそうな不安定なミナトにハラハラさせられるが、 それ以上に深刻な家庭事情を抱えているのは、実は、星川の方。 その彼の唯一の口癖は、「生まれ変わる」。 星川は、性同一性障害という個性を持たず、心と性が一致した人間として人生をやりなおしたかったのか? ラストで、横倒しになった車両の下側の窓から出て、狭い坑道を腹ばいになって進み、 明るい表の世界に出た彼らは、母体の産道をくぐりぬけて文字通り「生まれ変わる」疑似体験をした。 ミナトとの会話で星川は、生まれ「変わることなく」元のままで「良かった」と言う。 性の別なく、ミナトを好きでいられる従来の自分を受け入れている自然な様子に、ただ感動した。 2人の子供はきっと、神隠しさながらに、大人たちの手の届かぬところへ消え去ってしまったのだろう。 抜け殻のように車両に残ったミナトのレインコートが、それを物語っている。 何よりも、母や教師が車両に駆け付けたときは豪雨が降っていた。少年たちが脱出したのは、天候が回復した後。時の矛盾がすでに現実離れしている。 現代劇でありながらかすかにファンタジー要素が入っている。現実と虚構の絶妙な配分が、私にとってたまらないツボ。 それに、この作品には、3つの文学作品の香りがする。 冒頭で諏訪市の夜景が映し出される。左右に広がる明かりの帯は、まるで地上に降りた天の川。 夜の街に、遠目に映る火事の光景は、さながら「さそりの火」。 廃車両の中で飾られるのは、土星や太陽のモビール、窓には星などの切り絵、 横倒しになった車両の泥まみれの窓に雨が降る、それを内側から見れば、まるで宇宙の星々のきらめき。 どしゃぶりの中で聞こえた「出発の音」。それは、ジョバンニとカンパネルラが宇宙旅行に出かける時刻。『銀河鉄道の夜』だ。 病気の母を忘れ、ジョバンニはカンパネルラと「どこまでも一緒に行こう」と旅に出る。ミナトもたった1人の身内である母よりも、星川を選ぶ。 また、ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』のエリザベートとポール姉弟。 危険な遊戯や人に漏らせぬ思いのために、周囲の大人たちに嘘をつく。それがどれほど多くの人たちを傷つけ、騒ぎを引き起こすかということもいとわずに。 最後に『スタンド・バイ・ミー』。 2人の子供が光の指す線路を目指して駆けていくシーン。映画の文法でいうと、左方から右方へ移動するのは、過去に戻ることを表すらしい。 大人の事情を全く必要とせず、性不同一の目覚めもまだない幼い心に戻って、ただ大好きな友達といられる幸せに浸りながら、力強い雄たけびをあげているラスト。 「怪物」という言葉が、残酷という形容以外に、これほど甘酸っぱく、切なく、狂おしい響きを帯びていることに、本当に心を揺さぶられた。 [インターネット(邦画)] 9点(2024-07-02 00:09:10) |
2. ゴジラ-1.0
《ネタバレ》 ゴジラが海上からぬうっと鼻先を突き出し、船の後をついてくる様子にふと、「耳を倒して背中の毛を逆立ててるうちの子(猫)が、獲物にロックオン」というイメージが来て、それからというもの、あの恐ろし気なゴジラが、海上を匍匐前進する超巨大なCATにしか見えなくなってしまった! 厄介なことに一度こうと見えると、先入観は脳内からなかなか剥がれてくれない。 ゴジラが軍艦に体当たりし、かぶりつき、揺さぶり出すと、にゃんこがルンバにじゃれついている妄想が来て、初めに出たぐしゃぐしゃの軍艦は、猫パンチを食らったなれの果てかと納得し、勢い余ったゴジラが両腕を広げたまま、海上に仰向けにひっくり返ったときにはもう最高潮に萌えてしまって、キュートなんだかゾッとすべきか、わけがわからなくなった。 画面を横切って吹っ飛んできた軍艦はスリッパに見えるし、ゴジラが電車の車両に噛みついてるシーンは、サンマをくわえてる姿に見えてしまう。尻尾をはでに振り回すのは不機嫌モードの猫あるあるで、目の前をかすめて飛び回る戦闘機はコバエか猫じゃらしそのもの。壮大な音楽は荒ぶるにゃんこのパロディみたいに聞こえてきて、悲劇と喜劇、2つの映像を同時に見ているような超豪華なエンタメを味わえた。 ただ、ゴジラというキャラクターについて、今作もちょっと色々考えてしまった。 自然や神の象徴だったり、人類が不本意に創造してしまった核の産物、デストロイヤーとしての偶像として捉えられているけれど、それはゴジラが目的もなくひたすら街を破壊するからだろう。 生きるために「食べる」という行為が抜けている。ということは、自然界に属さない生き物、命のサイクルから外れた生命体という位置づけになる。 冒頭でミニゴジラが人間に噛みついて振り飛ばすシーンは、確かに怖いし迫力満点で見ごたえがあるけれど、口の中に入った人肉(たんぱく質)をわざわざ放り出してしまうとか、そんなのは狩りでも何でもない。 そもそも自然界の頂点に立つ猛獣は、満腹のときはあえて他を襲ったりしない。 それだけに、食欲に関係なくただただラリって殺戮、破壊行為でのみ生きるという生物が、どうしても不自然に感じられてしまう。 とはいっても、ハリウッド版のように、巣を作って、産卵して、幼獣が街中にあふれる繁殖率の高いゴジラでは、唯一無二の存在が希薄になってしまう。 だからこそ、「荒ぶる神」という孤高の位置づけがゴジラにはふさわしいのだろう。 それだけに、本作ではゴジラに己の咆哮を聞かせて「縄張り」を刺激する作戦がとられていて、いかにも従来の生物っぽい扱いにちょっと驚いた。 敷島がゴジラに挑むラストには息をのんだ。 もし彼が命を散らしたら「特攻隊」という戦時中の日本軍の過ちを肯定する映画になってしまう。だから死なないだろうと思っていた。 でも、放射能を振りまきながらゴジラが沈んでいった海に落ちれば、どう考えてもただではすまないはず。 でも、そこはもう、映画の世界だし、喜んで目をつぶりましょうという思いで安堵の涙を流した。 ラストのモコモコも、まあゴジラの映画ではお約束だものという思いで、スルーした。 映画館を出ると、表はすっかり暗くなっていて、うちのゴジラ(猫)会いたさに大急ぎで帰宅した。 [映画館(邦画)] 10点(2023-12-22 16:39:31)(笑:1票) (良:3票) |
3. エヴェレスト 神々の山嶺
《ネタバレ》 原作、コミックを読まずに視聴したところ、原作を読まずにはいられなくなった。もろもろ確認の意味で。 本当に、この映画で描かれていたようなセリフ回しやシーンが原作にあるのかという不信感でいっぱい。 羽生の「そこに山があるからじゃない。ここに、おれがいるからだ」というセリフを聞いて、逆に、マロリーの「そこに山があるから」の言葉の素晴らしさを再認識した。 私自身はクライマーじゃないから偉そうな口を叩きたくはないけれど、 山に登るということは、自分が「文明をもった人間」ということを、あえて忘れなきゃいけないんじゃないかと思う。 クライマーは、装備も技術も経験もあるとはいえ、山に棲む鹿や熊、その他小動物などと同様、自然のサイクルに組み込まれた単なる一個の命にすぎない、という謙虚さと自覚を持つべきでは? 獣たちは、バクテリアも棲めない極寒の高さまで登って、決して分解されないフンをまき散らしてきたりはしない。 本来は、エベレストは、人が登るべき山ではないのでは、とさえ思う。 命のサイクルが行われないデスゾーンの高みまで登る。その衝動に駆られる情熱を「おれがここにいるからだ」で説明されてはたまらない。 山を、自然を克服してやろうという気はあっても、それらを少しも愛していないのに、山の神に嫌われている、などと捨て鉢なセリフが羽生の口から出る。もう本当に「はあ?」となった。 嫌われ、山から弾かれるのは、当たり前じゃないかと。 マロリーは、山で死んでも幸せだっただろう。「山がある」という言葉に、羽生とは違う深い愛を感じる。大好きな山の懐に抱かれて死んだ、というイメージだ。 でも、羽生の死は、登頂の栄誉や、相棒・恋人への贖罪や、生きている充実感なんてものを求めて山に入りそれに失敗、山の懐に抱かれることさえ拒む頑固者がのたれ死んだ、という残念なイメージしかない。 「死んだらゴミだ」と自覚しているのだから、自分の体はプラスチックごみであって、生態系の一部とは考えも及ばないらしい。 登頂が叶えば、それは最高の気分を味わえるだろうけど、「登頂してこそ」としか考えられない人は、逆に山に入るべきではないと、この映画で学ばせてもらった。 さらに許せないのは、キャンプ場で深町を待つヒロインが、 「一体何人の命を奪えば気がすむんです。何が悪いっていうんですか。何でこんな目に遭わなければならないんですか!」 とエベレストをにらみつけて愚痴るシーン。こんな恥ずかしいセリフは、逆立ちしたって共感できるわけがない。 彼女が怒るべき相手は、プロの登山家でもないのに、シェルパも酸素ボンベもなしに山に入った深町以外にはない。 しかも彼女のすぐ横には地元民が立っている。例えれば、日本人のすぐ隣で、チベット人が富士山を前にして悪態をついているようなもの。 外国人が地元民の聖山に暴言を吐くなど、相当な冒涜行為だ。 そして、強烈に恥ずかしかったのは、ラストの深町がよろよろと下山してくるシーン。 せっかくの加古さんの壮大な音楽が、こんなところで大げさに使われるなんて・・・。 『ホワイトアウト』のラストみたいにヒロインを抱っこしていない分だけましだけど、いかにも生還してきたヒーロー然としていて、正直「音楽だけでも止めて!」と言いたくなった。 見なければよかったとは思わないが、この映画では誰一人共感できるキャラが出てこなかった。そのモヤモヤ感が今でも気持ち悪い。 [インターネット(邦画)] 5点(2023-05-24 14:39:49) |
4. 轢き逃げ 最高の最悪な日
《ネタバレ》 『パーフェクト・ストーム』では、不漁続きの中やっと大漁に恵まれたのに冷凍庫が壊れ、このまま帰港すれば嵐の直撃を受けるが、嵐を避けるためにその場にい続ければせっかくの魚が腐ってしまう・・・・・・という二択。 『エベレスト3D』では、頂上が目の前まできているのに、登頂すれば、酸素ボンベが空になり嵐に巻き込まれるという二択。 強い誘惑を自制するほどの決断、それも、その後の人生を左右する重大な決断を瞬時に下さねばならないとき、自分はどう動けるか。 映画はこうしたシミュレーションをとても生々しく体験させてくれる。本作は、単なる娯楽としてストーリーを楽しむだけではなく、「自分だったらどうしたか?」と自問自答するにふさわしい作品だったと思う。 私が最も重視したのは、轢き逃げの被害者遺族の強烈な疑問、 「事故が起きたとき、娘はまだ生きていたのか?」 おそらくこの問題こそが、遺族や加害者の心を、今後半永久的に苦しめる。 「あの時救護していたら、助かったかもしれない」という可能性は、両者の間で何年たっても「0」にはならない。 事故を起こしたら、決して逃げてはいけない。被害者はいうに及ばず加害者自身のためにも。 ただ、結婚を目前に控えて浮ついていた秀一には、とても不可能な選択だったと思う。 後頭部を強打した女性の痛みよりも、まず自分の人生が「終わった」と感じる時点で、轢き逃げ要素大ありだった。 私だったら「わーっ!」と奇声をあげながら怪我人に駆けよる自信がある。「終わった・・・」と思うのはきっと救護中だ。 一度も車から降りない、被害者の様子を確認しようともしない、判断力の鈍った高齢ドライバーかお前は、とかなりムカついた。 それにしても、未必の故意の轢き逃げだったとは。 (そもそも轢き逃げ自体「未必の故意」に相当するわけだから、この場合「二重の意味で」と強調すべき?) 犯人のあまりの幼稚さ、残酷さに言葉を失った。 話の半分を過ぎたあたりで、消去法から「こんなことができるのは彼しかいないな」とわかったものの、社長令嬢との結婚といい『エリア88』タイプの愛憎劇か、うぅ、後味悪そうな予感しかないと覚悟しながらの視聴だった。 そんな内容でも、水谷豊演じる父親が犯人に行きつくまでの過程が素晴らしい。両親を深く愛していた娘にこの父、この母。悲しみを内に秘めた、抑えのきいた2人の演技が深く心に響いた。 思い返せば、次々にあのシーン、このシーンと心に浮かんでくる。苦くて辛い涙もあるけど、いい映画だったなとしみじみ思う。 [インターネット(邦画)] 8点(2023-05-14 17:17:04) |
5. メトロポリス(2001)
印象的なセリフがほとんどなかったなあ。唯一重要っぽい「アナタハダレ」も、全然心に響かなかった。これがラピュタなら、善玉・悪玉の主役級はもちろん、些細な脇役でさえ記憶に残る魅力的なセリフの宝庫なのに。ただ、巷にはびこったAIが賢くなりすぎて人間界の一歩先を解析し、自動的に作動するような世の中が間近と言われている昨今、この作品の中で語られる憂慮も別世界のたわごとと呑気に構えていられない気はする。 とはいっても、テーマが「ロボットの反乱」なら、『人造人間キャシャーン』(あくまでも実写じゃなくアニメ)の方が超シンプルで分かりやすく、ロボットの愛犬や乗り物のワクワク感も見どころがいっぱいあって、何より素直に喜怒哀楽を楽しめる。 本作は、無理やり政治を詰め込んで話を大人テイストにしあげている上、超美しいメトロポリスに見合うだけの、洗練されたデザインのロボットが登場しない。アルバートⅡのような、簡単に壊れてしまうもろさがあり、朴訥で、懐かしさを感じさせるロボットは確かにかわいくて私も好きだけど、いかんせん街自体が高次元なテクノロジーを駆使して造られているので、これらの不釣り合いさはどうしても違和感が残る。視聴しながらあちこちでバランスの悪さを感じていた。 映像美は素晴らしいので、視聴しなければよかったという後悔は全くないけれど、手放しでは感動できない。ジブリの実験的短編アニメ『On Your Mark!』のようにレイ・チャールズの音楽だけでセリフなしのアクションものとして、ぎゅっと縮めた作品にすれば、すごく見ごたえのある作品になった気がする。 [インターネット(邦画)] 6点(2023-02-13 15:46:59) |
6. JUNK HEAD
触るのも勇気がいるほど不気味なロケーションと生き物たちばかりなのに、なんでこんなに愛らしいの? 体に生えたキノコならぬクノコなんてもう、生理的にダメ、全身に鳥肌が立つほど気色悪いのに、ジャンク・ヘッドがだまし取られそうになったとき、何とか取り返せ!と心の中で叫んでいる自分に気が付いて、おいおい!ってなった。 [インターネット(邦画)] 8点(2023-01-27 15:28:42) |
7. LAMB/ラム
《ネタバレ》 シープではなくタイトルが「ラム」。子羊に焦点を当てるとなればキリスト教絡みかと思ったが、アイスランドの広大なロケーションを見ていると、宗教色というよりお国柄の生業(牧畜業)として素直に見ればいいかと思えた。 (ただ、出産シーンがそうとも言い切れないのが、かなり不気味) それにしても、セリフの少ないこの映画、見る側の想像力をすごく刺激してくれる。 まず第一に、ホワイトアウトから次第に視界がぼんやり開けたかと思うと、雪の大地に群がった野生の馬たちが、急に何かに怯えたように進路方向を変えて一斉に逃げ出してしまう。 次に、マリアたちの牧羊小屋が開き、何者かが入り込んだ気配を残し、やがて1頭の羊が囲いからよろよろと出てきて床に倒れてしまう。 そのお腹は大きく膨らんでいるから、妊娠しているメスだとすぐにわかる。 映画を全部見終えてからこれら冒頭シーンを見返して、初めてこれが異常な妊娠なのだとわかった。 何者かに交わった直後に臨月なんて、どう考えてもおかしい。 主人公の夫婦は、未来よりも現在と過去にこだわっていて、アダが生まれたとき、夫は組み立てられたままのベビーベッドを出してくる。 ということは、彼らの間には、事故か何かで幼いまま亡くなった子供がいたことがわかる。 子供部屋には、形の整った水鳥の絵が壁に貼られていたから、子供はそういうものを描けるくらいには成長していた。 つまり、セーターを着込んだアダと同じくらいの年かさの子か。 マリアはアダを呼ぶ母羊を毛嫌いし、家からアダを連れ出した(ように見える)その羊を、ついには殺してしまう。 この罪が非常に重い。何と彼女は羊の毛を刈ることも食用の肉にすることもなく、地中に埋めてしまう。 牧羊主としてはおよそ似つかわしくない行為で、病気でもない、子供を産むことができる若い牝羊を無駄に殺す。 それは、嫉妬や憎悪をはじめとするエゴによるもの。もし彼女が母羊とアダを触れ合わせていたら、また違う人生を歩めたかもしれない。 アダの父に当たる半獣人は、牧舎の周辺から離れず、夫婦やアダの様子を気づかれないよう遠巻きに伺っている。 彼が猫ではなく犬を殺したのは、吠えながら羊を追う牧羊犬への恨みかもしれない。 夫の弟が運転していたトラクターの調子が悪くなったのは、夫とアダをおびき寄せるために彼が細工をしたのかもしれない。 彼がマリアではなく夫を殺したのは、広大なアイスランドの牧羊地に彼女1人を取り残し、残酷な孤独を味わわせるためだったのかもしれない。 マリアが夫の死を看取った後、自分の腹を見て、天をあおぎ、ふらっとよろめいたのは、 自分の腹に死んでしまった夫の忘れ形見が宿っていないか希望を抱き、その儚い可能性に絶望したのかもしれない。 しかし、万一自分の腹から生まれる子供が半獣人だったとしたら、彼女は素直に喜び、その子を愛せるのだろうか・・・・・・。 などなど、感じたことをそのまま書き連ねたら、こんな感じになってしまった。 ただ、ストーリーには直接関係ないいろんな点にも興味をひかれた。 まず、冒頭でラジオが「クリスマス」と言っている。 このタイミングは、牝羊がアダを孕んだ直後で、どうにも雰囲気がヤバい。イエス・キリストも聖母マリアの異常な受胎によって家畜小屋で生まれたのだから。脚本家は、救い主級の純粋無垢なラムが宿ったということにしたかったのかもしれない。しかし、私のもっと大きな疑問はそんなことよりも、 年末に近いアイスランドで、どうして登場人物たちはそんな薄着でいられるのか!? ということ。 牧舎も自宅も、木と石で造られていて隙間だらけ! しかも暖房がガンガン効いているようにも感じられない。信じられない・・・。 素手で羊の出産に携わっている彼らの手には、あかぎれ一つない。雪の降らない日本の県に住んで食器を洗うだけで手荒れする私って一体・・・。 またタイル張りの浴槽がすごくきれい! 白い目地にカビひとつ生えてないってすごすぎる。 (もしやアイスランドの冷え切った大気にはカビが生える余地などないのか!?) 夫婦と夫の弟がテレビでスポーツ観戦をしているとき、アイスランドチームがデンマークに敗れてショックを受けているのも面白かった。 アイスランドがかつてデンマークの支配下にあったこともあって、国同士でライバル意識が相当高そう。 最後に、聞き覚えのあるクラシカルな音楽が流れてきて、「このメロディ、なんていう曲だったかな」とかなり考えて、やっとわかった。 クラシックじゃなくて、『風の谷のナウシカ』のレクイエムにそっくり。ラン、ララランのパートから別のメロディに変わるので、なかなかぴんとこなかった。 でも、物語の終盤の余韻は、まさにレクイエム・・・・・・。 [インターネット(字幕)] 9点(2023-01-25 01:47:57)(良:1票) |
8. 竜とそばかすの姫
《ネタバレ》 ラッパーで映画評論家の宇多丸師匠がかつて、「映画の作中で現実離れした秀逸な歌を扱うとき、大多数の視聴者を納得、感動させる力をもつ歌を現実に作り出さねばならず、それは相当難しい」と言っていたのを思い出した。 そういう意味では、中村佳穂さんの歌は、堂々とその難問をクリアしているように思う。よく通る透き通った声と響き渡る声量、リズミカルで情感豊かな歌唱力にほれぼれしてしまった。 佳穂さんこそ、ベルの声を当てながら、Uの世界を実体験し満喫されていたのではないかと思う。 「U」と「竜」、「ベル」と「鈴」。ネーミングにセンスが感じられて、面白そうと思ったけれど、ストーリーには残念ながら引き込まれなかった。 私がこの作品に対して、ものすごくもったいないと思ったのは、日本最後の清流、四万十川をはじめとする美しい自然と、ベルの歌声が、なんら呼応するように作られていないこと。 呼応しているのは、デジタル処理されたきらきら光る文字だったり、紙吹雪もどきのデコレーションだったりで、それはそれで美しいんだけれど、 これらが「命としての生」を表現しているかというと、死生には縁のないアイテムだから美醜のサイクルをなんら持たず、結局還元されることのない一方通行の美でしかない。 ベルには、スピーカーを満載した仮想クジラのステージから降りて、本物の風が吹く清流をバックに、アカペラで歌ってほしかった。 そうすれば、印象的な対比として心に沁みた演出になったのではないかと思う。 (何十年も昔、胃薬「サクロン」のCMで、爽やかな緑の木々と清流の映像下でシンガーソングライターの谷山浩子が「風になれ ~みどりのために」を歌っていたのを懐かしく思い出した。ちょうどあんな感じのテイストになったと思う) もっと欲を言えば、高知県出身のキャラたちは現地の方言で喋ってほしかった。そうすれば、関東在住のキャラや仮想空間上の差別化がはっきり出る。 たとえば、同じすずでも『この世界の片隅に』の彼女は広島弁を喋り、土地柄がキャラの中に沁み込んでいてリアルな存在感があるのに対して、この作品の主人公は、まるで都会から田舎に移り住んできたような脆弱さ、よそよそしさがある。 スマホの小さな画面ばかりに視線を落としている彼女には、顔をあげて風光明媚な故郷を眺めるシーンがほとんど出てこない。 この透き通った声がデジタル機器に慣れ親しんで成長してきたものだとしたら、感動は大いに半減してしまうし、そもそも何のための自然描写なのだろう? 「現実はやり直せない。しかし、Uならやり直せる」 という冒頭の言葉に問いたい。やり直せるって、いつまで? 永遠に? 実態(当人)は現実世界にいるのだから、どうしたって引きずられる。Uの弱点はそこ。完全に切り離して意識だけを仮想空間に存在させることは不可能。 そこを、四万十川を絡めて突けばよかった。死を招いた川から始まり、命の再生の川で終われば非常にストレートで、観客の集中力もあちこち振り回されずにすんだろう。 『美女と野獣』を踏襲するために、竜をむりやり話にねじこんだ印象がぬぐえない。 こんな竜、必要だった? [インターネット(邦画)] 6点(2022-08-09 22:28:21)(良:1票) |
9. キャラクター
《ネタバレ》 辺見がアスベルやアシタカを演じた声優さん!? 刃物の怖さもすごかったけど、松田洋治さんの凄みのきいた目付きが本当に恐かった。 現職の刑事さんたち、こういう危険な人物相手に防弾チョッキを着ながら格闘しないといけないんだなあ・・・・・・。 小栗さんの生気を失った最後の目の光が切なかった。 とはいえ、 一通り見て、これは映画版肝試しという印象しかない。 冒頭あたりで、「殺人にリアリティがない。絵は上手いが、キャラがありきたり」という編集者の言葉が出てくるけど、 この映画にもそれは言えるんじゃないの?という皮肉な思いが残った。 確かに殺人のシーンはリアリティがあったけれど、見せ場を省いた事件後のシーンは全くだめ。 たった1人の小柄な男が、4人も相手に1人も逃がさないで必ず全員を殺害するという設定に無理がありすぎる。 被害者たちは腕を縛られ、体をぐるぐる巻きにされていたけれど、絶命させてからでなければこんな状態にするには不可能。 両角がそれを1人で黙々とやったのかと想像すると、どうしても(ダサいなあ)と思ってしまう。 個々の俳優陣の演技力は圧巻だったけれど、肝心のテーマが希薄だったし、 性格の全く違う両者(漫画家と実行犯)が表裏一体というのも、さんざん使い古されてきたネタだし、 お腹の子で人数を合わせるオチは、有名な洋画のサスペンス作品を思わせるし、 大量の写真や切り抜きを壁一面に貼り付ける部屋で異常性を表現する手法も、いまや1時間弱のドラマですら使われている。 視聴中、「多少のつっこみどころはスルーして見るべきなんだな・・・」と自分に言い聞かせるシーンがかなりあった。 でも、一番許せなかったのは、 山城が他人の家の中に勝手に上がり込んだこと。 悪事を働く気のない他人が家主に断りもなく家の中に入るなんて、リアリティのかけらもない。 視聴を始めて早々、あー・・・そういう映画なのか、と強く先入観を持ってしまった。 [インターネット(邦画)] 5点(2022-07-27 00:43:03) |
10. THE GUILTY ギルティ(2018)
《ネタバレ》 映画を見ている間、これって、反抗期だった息子と私のやりとりだわと思った。 親としてはどうしても電話に出てもらいたいのに、プチ家出を決め込んだ本人はなかなか応答しない。無駄だと思いつつ何度も何度もコールをかける。つながらなければ、彼の友だちにかけたり、実家にかけたり、塾に欠席の連絡を入れたりする。その間のイライラ、おろおろ、ハラハラした気持ちはたまったもんじゃない。そのうち、やっとのことで本人から電話がかかってくると、こっちは腹が立ってたまらないからどうしても声高で問い詰める口調になってしまい、当然会話にならずガチャ切りされる羽目となる。後日「嘘でしょ、ホントにそんなことやってたの? 理解が追いつかないんだけど!」と驚愕の結末が待っている・・・・・・。 要するに、このアスガーという警察官は、当時の私とそっくりなのだ。彼はオペレーターとしての研修を受けたことがないのか??? 誘拐とわかった時点で同室にいる同僚たちと連係プレーを取るべきなのに、せっかくマチルダから有力な情報を得ても、延々と彼女の相手をしてしまう。北シェラン指令室の女性から「車の情報を巡回に伝えるから、他の話は後にして!」と強引に回線を切られてブチ切れていたけど、どう考えても彼女の方がプロ。アスガーは一から十まで感情で動いているから、ああ、途中で大きな失敗をするだろうなあ、と思って見ていた。 ありえない展開はまだまだ続く。誘拐が絡んだ大事件を個人プレーで、それも個室で対応しようとするなんて、デンマークの警察ってこんなことが本当に許されるんだろうか。しかも、犯人とおぼしき男に直接電話を入れるだけでも驚くのに、感情にまかせて大声で罵るとは。人質を取っている相手を全力で刺激する警察官なんて、本当にいるの? そもそも被害者とオペレーターとの信頼関係が救命の可能性を左右するというのに、上司の「時間が来たから上がれ」って何? 「もう少しやります」って、その軽いやり取り、通信販売の受付レベルに見えたんだけど・・・・・・。 それから、デンマークでは飲酒運転は基本的にOKなんだね。これものけぞるほど驚いた。2杯は「運転できる」で、4~5杯は「慎重に運転」。しかもドライバーは警察官・・・・・・。日本に比べて人口密度が低い国だとしても、「走る凶器」が積雪の往来を行き来するのかと思うとぞっとする。 それから、被害者の女性に武器を探して相手を殴るよう指示するところもびっくりした。殴り損ねた場合、殺される可能性は高いと思うんだけど、どうしてアスガーは犯人を刺激させることばかり考えつくのか。彼自身が犯した罪も、相当なもの。相棒に偽証を強いて裁判を乗り越え、ふたたび通常勤務に戻るつもりでいるとは・・・・・・。開いた口がふさがらない。この映画は、警察官の素質など一片もない人物が、誘拐事件をワンオペでミス誘導し続けたという話だ。いくら終盤でアスガーが罪悪感にさいなまれ、ようやく亡き19歳の少年に思いを馳せたとしても、そうは簡単に同情できかねる。 ただ、だからといってこの作品に見る価値がないかというと、そうは言いきれない。 一度も現場が映らないシチュエーションでありながら、観る者の想像力をあおって鮮やかに話を二転三転させる手法は素晴らしいし、何よりその、デンマークという国が・・・・・・言いにくいけれど、本当にこれくらい警察の法規がゆるゆるであるのなら、映画は嘘をつかずにリアルに撮影しただけ、ということになる。現地の警察官がこの映画を見て「面白い」と素直に思えるのなら、私があちこちで感じた違和感や驚いたシーンは、カルチャーショックというものなのだろう。 [インターネット(字幕)] 6点(2021-08-12 01:26:18)(良:1票) |
11. ナチス第三の男
ナチスものを見ると、当たり前だけどどうしようもなく落ち込んでしまう。 これが本当に現実に起こったことなのかと、毎回毎回、史実を恨めしく思ってしまう。 しかもこの作品、フランス・イギリス・ベルギーの3国が製作していて、ドイツは全く絡んでいない。セリフも全て英語だし。 ドイツ人の若者たちは、こういう映画を真正面から鑑賞できるのかなあ。 決して風化させてはいけないとはいいながら、さすがに同情してしまう。 [インターネット(字幕)] 7点(2021-08-07 00:03:03) |
12. ファーストラヴ(2021)
《ネタバレ》 『髪結いの亭主』に出てくる少年は、ふっくらと丸みを帯びたやわらかい胸の、なまめかしい年上の女性を見て陶酔するというのに、本作の少女(環菜)は、男性の裸体や視線に囲まれて性的虐待を受けてしまう。比較が少し過ぎるかもしれないけれど、少年が女性の肌に母性をイメージするのと、女の子が男性の裸体に未知の恐怖を感じるのとを合わせ考えれば、「性」の神秘さ、複雑さ、難しさを感じずにはいられない。 また、『スポットライト 世紀のスクープ』では、カトリック神父たちの信徒への性的虐待を扱った実話。こちらはもう被害が甚大で、少年であっても生涯消えないトラウマを抱えてしまったり、自殺者も多数出ているという。『ファーストラヴ』を見終わった後、性つながりでいろいろな作品を連想して、深く考え込んでしまった。 単なるサスペンス、謎解きのエンターテインメントと割り切って楽しむには、あまりにメッセージ力の高い作品だった。環菜の供述が二転三転するのも、事件が起こるずっと前から受けていた両親からの抑圧があってこそだったり、腕の傷も、世間にありがちな自傷理由に加えて、父からのある要望を受けずにすむ魔除けのようなものだった。いろいろな点で自然な整合性がとれていて、うならされた。実際に起こった事件を下敷きにしているのではと思うほど。 タイトルの「ファーストラヴ」というのは、異性との愛ではなく、生まれて初めて子供が受ける親の愛情を指すのではないかと思う。環菜や由紀、迦葉は、両親からのファーストラヴを過不足なく受けることができなかったため、自己肯定力が低く、常に誰かから傷つけられるのを恐れてしまう。3人とも、笑顔はどこか引きつっていてぎこちない。作家が同じような心の傷を持つ登場人物を意図的に寄せ集めたというよりは、たとえば朗らかな者は周囲に陽気な仲間が集うように、似た者同士が自然に引き寄せ合った結果のようにさえ見える。終盤では、彼らは前を向いて、それぞれの道を歩もうとしている姿が映し出されることが、何よりの救い。 [インターネット(邦画)] 8点(2021-07-30 15:30:59)(良:1票) |
13. ブルー・リベンジ (2013)
《ネタバレ》 冒頭からのけぞる展開。とある囚人が司法取引によって刑期を全うせずに釈放される。2人も殺害しているのに? アメリカのサスペンス映画では「司法取引」は当たり前のように出てくるし、まあそんなものかとこれまで何となく思っていたけれど、「犯罪者を逮捕・収監するたび刑期短縮の司法取引を延々と繰り返せば、ドミノ倒しのような有様になる。そんな状況下で『人を逮捕する』という行為に果たして意義があるのか?」と、本作で初めて疑問に思ってしまった。 警官がドワイトに余計な進言を入れているように思えるが、犯罪率の高いお国柄ではやむを得ないアドバイスなのかもしれない。加害者が釈放されたことを知らずに暮らすリスクは、おそらく私たちが想像する以上に大きいのかもしれない。それにしても、一般市民がマフィアにしか見えないおぞましさ。今自分が見ている映画は『ゴッドファーザー』じゃないはずだと何度も頭の中で戸惑っていた。社会的地位もそこそこ築いて人間らしい生活をしているように見えるドワイトの姉ですら、「(加害者を)苦しませたでしょうね」と弟に確認するくらいだ。いや、本当にありえない。 とにかく呆れるばかりの倫理観のなさ。置き引き、車上荒らし、不法侵入、病院の治療費の踏み倒しと、罪の意識を全く感じることなく次々と犯しつづけるドワイト。殺人の替え玉がまかりとおるゆるゆるの司法。ライフル銃、散弾銃がふつうの家から当たり前のように出てきて、十代の少年ですらしっかり的を狙って撃つことができるバリバリの銃社会。 それに、とても清潔とはいいがたいロケーション。ベニヤ板で作ったような隙間だらけのトイレとか、銃痕だらけの錆びついた車で寝泊まりとか、簡単に侵入者が出入りできるような戸締り不完全な木造住宅とか。治安の比較的よい日本でも、犯罪者の部屋は不衛生で荒れていることが多いと言われているけど、この法則はアメリカでも有りなのではと思ってしまった。 それにしても、どうして登場する人々は誰も彼も直情的なのだろう。なぜこんなに短絡的に、武器をもって人を傷つけることができるのか。不倫をすることは確かに褒められた話ではないけれど、その前に話し合うとか、弁護士を呼ぶとか、いくらでも理性的に話を勧める手立てがあるだろうに。そもそも加害者側であるクリーランド家の人間は、遺族に対して初めから何の引け目も感じていないのだろうか。 物語を全て観終わって強烈に感じたことは、登場した人物に成熟した者が誰一人としていないこと。加えて、法が驚くほど機能しておらず、大なり小なり何のストッパーにもなっていない。皆本能的に、後先考えず憎しみの連鎖にやすやすと巻き込まれていく。この地の学校では、他者とのかかわり等、社会面には重きをおかず学業ばかりを教える教育が主体なのか? 生活圏にあふれる銃器に住民は思考力を奪われているのか? 諸悪の根源はどこからくるのかと真剣に考えてしまった。最後に「ヴァージニア」という文字が入ったちらしがドワイトの姉の家に新聞とともに投げ込まれる。ドワイトが町を出るとき購入した地図もまた「ヴァージニア」のもの。原作者はこの州名をよほど強調したかったと見える。青いオンボロ車の復讐劇は、強烈なインパクトを残して幕を閉じた。 [インターネット(字幕)] 8点(2021-07-30 01:36:59) |
14. バケモノの子
《ネタバレ》 9歳の九太のがんばりがすごすぎる。 私自身、部屋にホコリがたまれば仕方なく掃除をしたり、またはサボったり、毎夕には家族の好き嫌いを考慮した料理を作っているのに残されたりして、また明日同じことの繰り返し、あー家事って面倒だなあと思っていたけれど、何かを吸収しようとして自主的に弟子としての雑用(家事)をこなしている九太には、ガツン!とやられた。これだけ身を粉にして働きながら、格闘技の技もちゃっかり磨いていく。しかも、ルーティーン・ワークがしっかり九太のメンタルを鍛えているのが観ていてすごくよくわかる。現実の世界に戻って来て、いきなりメルヴィルの『白鯨』を選ぶのは、いくらなんでも優秀過ぎると思ったけれど、好奇心の強い彼が楓を通してどんどん知識を吸収していく様は、見ていて清々しかった。目的をもって暮らすことの大切さを、まぶしいほどガンガン教えられた。 ただ、それ以外ではイライラすることが多かった。バケモノたちの豚鼻が気になって仕方なかったし、何よりキャラクターの名前がいけない。映画を観終わった後、HPで全キャラ名を見て改めてびっくりした。熊徹(くまてつ)はいいとして、多々良に百秋坊、猪王山に至っては、〝いおうぜん〟。無茶だよ。アニメだから、視聴者は当然耳からその名を知ることになるけれど、この発音で「いのしし」をイメージするのは無理。視聴中、キャラ名をほとんど知らずに物語を追っていた(あのちっちゃいモフモフがチコ・・・)。要するに、キャラ1人1人に思い入れることなく、話さえ分かれば十分だった自分に気がつき、少々呆然。 それにヒロインの楓。共感するのが本当に難しい。図書館で騒々しい級友たちを諫めることも、「暴力はよくない」とひと言入れることも、高学歴をめざして独り立ちする夢を持っていることも素晴らしい。でも、絵に描いたようなクセのない模範生。チャーミングなウィークポイントに乏しく、意外性が何もないから全然惹き込まれない。親の期待が大きすぎるって、そんなの進学校に通う生徒なら当たり前でしょ。 それから、多々良と百秋坊。要らないと思う。熊徹と九太の成長を実況中継するだけの存在。熊徹と九太2人だけで凸凹しながら意思疎通していけば、充分すっきりするのに。 それに、一郎彦。九太に斬られて、バケモノ界のベッドで目覚めて、・・・・・・何か成長していることになってる? それに、人間界とバケモノ界の時制が一致していて残念。九太が青年になって人間界に戻ったら、そこではほとんど時間は経っていなかった、くらいのズレが欲しかった。たとえば、再会したお父さんは成長した息子に驚愕していても楓にはその違和感がわからない、というちぐはぐさがあれば面白かったと思う。 最後に、武器は日本刀って・・・・・・なんか本当に恥ずかしい。何でここに日本色をわざわざもってくる必要があるのかわからない。せっかく異次元の世界が展開しているんだし、オリジナルの武器をデザインしてほしかった。 クライマックスの妖術によるマッコウクジラ戦は迫力満点で青い光が美しく、本当に見ごたえがあった。初めに東京の街のアスファルトを黒い巨体が現れたとき、『天使のたまご』に出てくるプロジェクション・マッピング張りの、建築物の壁面で泳ぐ巨大魚の既視感があった。あれからアニメーションの技術はこれほどまでに進化したのかと目を見張るものがあり、今でも何度も見なおしたくなるシーンだけれど、熊徹の情熱を表す赤い光が流れ込んできたとき、ぶっちゃけて言うと・・・・・・もう、本当にうっとうしかった。この美しい映像を、親子の熱い絆とかのベタなストーリーに絡ませてもらいたくなかった。日本版『ファンタジア』として、ただただ映像美に酔いしれていたかったなあ。 [インターネット(邦画)] 6点(2021-07-18 21:49:13) |
15. 静かなる叫び
《ネタバレ》 ヴァレリーたちが受講している熱力学の講義で、講師が話す内容が恐ろしいほどこの凶行を言い表している。 〝エントロピーとは無秩序性の尺度である。 外界からの圧力を受ける系は変化し、エネルギーの移動や不均等が生じる。 鍋の水は火にかけると運動が始まり水蒸気に変わる。 鍋にフタをすると水蒸気がそれを上下させ、 熱源や水がなくなるまでそれが続く。 分子運動が増えるほどにエントロピーは増大する。 エントロピーが最大になると秩序が戻る〟 レピーヌは満足するほど人を殺傷したのち自殺して、ようやく凶行は終了する。 エントロピーは、彼の狂気(エネルギー)が荒れ狂うことのメタファーなのだと思う。 Wikiによると、レピーヌがこの事件を起こしたのは25歳のとき。7年前、自分の人生をフェミニストに台無しにされたと告白しているが、なるほど、大学入試に失敗したことを女子のせいにしているのかと察しがついた。あまりに薄っぺらく、バカバカしくて拍子抜けする。犯人の動機を深く掘り下げていないのも、ある意味納得。 また、この作品は、信じられないほど多くの興味深い矛盾点を見つけることができる。 ・レピーヌは女性を激しく嫌悪しているにも関わらず、冒頭、いきなり男女を撃つ。 ・レピーヌの自室には、男を誘うようななまめかしい女性のポスター、寝室にはネクタイを締めた男勝りの女性のポスターが貼られている。 ・レピーヌの向かいのマンションに住む女性の部屋は、電灯を消すと真っ暗になり時刻は夜のようなのに、レピーヌの部屋には明るい日差しが入っている。 ・理工科大学内というのに、両目をテープでふさいだアインシュタインのポスターが、少なくとも2回は映像に入ってくる。 ・レピーヌは、フェミニストが女性の特権を手放さないことに怒りを感じているが、ヴァレリーは、将来出産を望めば就職活動に障りがあることを屈辱的に思っている。 ・レピーヌは、母親だけは女性蔑視の対象外とみなしている。 レピーヌの犯行に一切ためらいがなく、情け容赦なく学生たちを撃っているシーンの数々。観る人によっては、モノクロで画面が引き締まって見える効果もあるせいか、ぞっとする美しさを感じることもあるという。 ただ私は、フィクションではなく現実にあった惨劇を映像化した作品として観ているので、どう転んでも「美しさ」を感じることはできない。無抵抗な人間を絶対的優位な立場で次々と殺戮する様子は、兵士同士が大義名分から死を覚悟して戦う戦争よりいっそう救いがなく、卑劣だ。美を感じる以前に、自分の子供がその場にいる錯覚に陥ってしまう。夢や希望をいきなり奪われる恐怖を味わう学生たちは、過去の話ではすまない。今、このときも世界中のどこかで、どうにもならない理不尽に向き合わされ命を絶たれる若者がいる。改めて、モントリオール理工科大学の犠牲者のために深い哀悼の意を表したい。 [インターネット(字幕)] 8点(2021-07-15 01:19:08) |
16. 未来のミライ
《ネタバレ》 15分あたりで挫折しかけた。何時間か中断した後、何とか最後まで視聴。 もしこの映画を音声ドラマとして聞き流し、後で映像を見たら、くんちゃんの容姿に仰天するだろうなと思う。それほどに4歳児とは思えない。演技指導の責任者がこれでOKを出したことにかなり問題があると思う。 それでも、脚本に違和感がなければ何とか途中で慣れたかもしれないが、頼みの綱の脚本がひどい。 4歳児といえば、幼稚園の年中さんでしょ、そんな子に大人(?)が「ひざまずけ」と命令して、彼が中世騎士のように片膝だけ地面につくなんてありえない。「責任」「存在」「徴兵」とか、親もワンコも妹も、軽々しくくんちゃんに熟語を使うな! 特攻隊? おかしいでしょ、それって昔の大人が体験した歴史の話で、くんちゃんの頭の中に潜在的に入っていたものじゃない。子供の年相応のイマジネーションが広がっていくトトロ路線でやってほしいとは言わないけれど、いや、言いたいけど、自転車が一人で乗れるよう、大人の都合で誘導したファンタジーが何の仕掛けもなく突然4歳児の脳裏にふってわくなんて、あまりに都合がよすぎる。 鬼ババの絵にもひと言突っ込ませてもらえれば、やけに輪郭がしっかりしていて、とがった角や目など2つ揃ったものがちゃんと左右シンメトリーに描けている。子供が描いたように見せかけた大人の絵だと一目でわかるとか、何もかも白ける。いちいち引っかかって、せっかくの美しいファンタジーに酔えない。 この作品のいわんとすることは、くんちゃんが兄としての自覚をもつ成長物語なのだとは何とかわかる。 でもその過程の中で、怒りんぼの母といい頼りない父といい、2人とも息子とすれ違ってばかりで、ほぼ何の役割も果たしていない添え物のよう。4歳児が両親としっかり心を通わせるシーンがほぼないのは、かなり異常に思える。 さらに、くんちゃんは女の子が大きくなったらセーラー服を着るなんて知識はないはず。なのに何でそういう姿が4歳児に見えるのか。また赤ちゃんの妹と姉のようになった妹が同一人物だと、なぜ赤あざ1つでくんちゃんは理解できる? 洗濯中の黄色いズボンがなぜ今着られないかが理解できないのに? これらの矛盾を納得させてくれるような設定が一切ない。妹が兄を越えて年齢を上回る話を展開するには、くんちゃんの設定は幼過ぎるのだ。さっきの特攻隊と同じで、大人が知恵をつけるようなファンタジー展開で無理矢理くんちゃんを成長させようとしているところにあこぎさを感じる。残念。 [インターネット(邦画)] 3点(2021-06-18 01:45:04) |
17. 22年目の告白 -私が殺人犯です-
《ネタバレ》 『相棒』だったら、恨みから殺人を犯そうとしている人を止めるために「殺人犯と同じ罪を犯して被害者がうかばれますか!」と右京が絶叫しながら説教するところだけど、この作品では、自分の行為の醜さに自然に気づいて、おのずと仇の体から手を放す。ナレーションも、誰のセリフも入らず、それらしきBGMも使わない。映画ならではの演出と俳優の好演で、観る者にそれと悟らせる。文章だけの小説ではこうはいかない。このシーン一つだけとっても、本作を観てよかったと思う。 [インターネット(邦画)] 7点(2021-03-20 16:23:10) |
18. ザ・マミー/呪われた砂漠の王女
『ラスト・サムライ』を観たときは、日本人として嬉しくもあり、こっぱずかしくもあり、テレが入ってとにかく居心地が悪かった印象があるけれど、 本作を観たエジプト人は、どんな思いに耽るんだろうなあ・・・・・・。 [インターネット(字幕)] 3点(2021-01-17 00:35:26) |
19. ノア 約束の舟
《ネタバレ》 ノアが神の意志をどう理解したかのプロセスが全く理解できない。子を産めないイラの身に起きた奇跡は神の御業、という解釈にならないのが不思議でたまらない。なぜノアが新しい命を祝福できないのか納得できなくて、始終イライラした。ノアの箱舟の物語に、アブラハムが愛息(イサク)を神に捧げる燔祭のエピソードを融合させたような印象だ。アンバランスなもやもやした気持ちを引きずりながら鑑賞した。 旧約聖書における「善」は、神への信心が最も優先されるのだろう。しかし、そのために他の命が二の次となり軽んじられるという世界観に全くついていけない。一神教とはそういうものなのかもしれないが、「約束の舟」と称されるこの乗り物は、一族の愛憎がむき出しとなり、流血沙汰まで発生した忌まわしき密室で、とても神の恩恵に満ちた神聖なる救いの場とは思えない。何より驚くことには、神へのゆるぎない信頼、感謝、平安、静けさといった心情をもつ人間が、この舟の中、誰一人乗っていないのだ。神に選ばれたノアですら、自分が神の思し召しに応えられるか不安と恐れと迷いで始終おののいている。この一族は、なぜ覚えめでたく神の目にとまって選抜されたのか、視聴中本当に理解に苦しんだ。ラッセル・クロウやジェニファー、エマたちの熱演が素晴らしいだけにストーリーが浮いていて、もったいなかった。 思うに、旧約聖書のスケールの大きな物語やその他の神話、おとぎ話などであまりにリアルな人間性を追究してしまうと、物語のあちこちで齟齬が生まれてしまう。船上にいる者と水中にいる者がいる以上、カルネアデスの板のような問題が起きるのは必至だが、そこを「良い人もいるから助けましょう」と現代風にセリフを突っ込めば、神は善悪のけじめというよりは増えすぎた民を滅ぼすホロコーストを行っていることになってしまう(実際この作品ではそう見えた)。『手塚治虫の旧約聖書物語』に採り上げられている箱舟のエピソードの方が、よほどすなおに感動できた。 [インターネット(字幕)] 3点(2021-01-15 22:45:51) |
20. 天気の子
《ネタバレ》 視聴中ずっと「これはファンタジーなんだから、倫理がどうの、細かい設定がどうのと言ったところで始まらない。スルー、スルー!」と自分に言い聞かせ続けたが、ラストに東京水没ときては、うーん・・・・・・これは辛い、ついにどう自分をごまかしたらいいか分からなくなってしまった。 だって、これは「好きな人のためなら街が大波かぶろうが知ったこっちゃない」という、正しくぽにょの津波でしょ? あれと同レベルのなりゆきになっちゃったのかと、さすがに引いた。 前半であれだけ詳細に美しく東京の各風景を表現していたのに、それらを全て水の底に沈める設定にしてしまうとは。 中でも、ピストルを使って全ての現実をはねつけるような真似を帆高にはしてもらいたくなかった。線路の中を突っ走るというあまりにも非常識な行為もやめてほしかった。家出をしてきた理由も呆れるほど説得力に欠け、大人の事情を全否定するかのようななりふりかまわない彼の言動は、駄々っ子のようなピーターパン症候群を思わせる。それがものすごくもったいない。 前半では、身ひとつで田舎から東京に出てきて、圭介の事務所に住み込み、朝から晩まで甲斐々々しく働いていた。陽菜も乏しい家計の中で愛情いっぱいの料理を作って弟と懸命に暮らしていた。そのときの彼らの様子が本当に初々しくて、いつまでも見ていたいと思うほど魅力的なシーンが多かった。 それなのに、ファンタジーが絡んで非現実の話が進んでいくにつれ、2人とも次第に地に足がつかないふわふわした状態になっていく。ピストルを身に隠しながらファンタジーを生活の糧にしようと提案する帆高。「人々に天気をプレゼントして喜ばれる仕事を見つけてくれた」と感謝する陽菜。どうして彼らは一気にそこまで幼稚になってしまうのか。『魔女宅』の魔法や『耳をすませば』の空想世界は、ヒロインを成長させ、それら自体もとてもしっくりと現実世界に溶け込んでいるのに・・・・・・。 少なくともファンタジーをもっと素直に信じられるような演出にしてほしい。『ドラゴンボール』の神龍ならともかく、商品をラベルごとそっくり描くほどリアルな深海さんの作品で、少女が祈るだけで落雷が発生するなんて、あまりにも現実にそぐわずちぐはぐで白けてしまう。 それでもこの作品を全否定できないのは、大声で大好きな人の名前を叫び合えるイレギュラーな世界って素敵だなあと思うから。全力投球の中二病のエネルギーを堪能させてもらった。 [地上波(邦画)] 6点(2021-01-04 01:19:44) |