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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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361.  くもりときどきミートボール2 フード・アニマル誕生の秘密
前作の「エイリアン」「インデペンデンス・デイ」オマージュに続き、今回は完全に「ジュラシックパーク」! 正々堂々とパクって……いや、オマージュを捧げている娯楽性がまず楽しい。それだけで、アニメーション映画としての及第点は満たしていると思える。  前作は、過剰なほどにポップなビジュアルにそぐわぬ「飽食」に対しての意外にも深いテーマ性と、シニカルなブラックユーモアの連続で彩られた万人向けというよりも、むしろオトナ向けとも言えるアニメーション映画の傑作だった。  食べ物が“災害”として襲ってきた前作は、その描写の下品さに対して文化的に若干引いてしまう部分もあったが、今作はありとあらゆる食べ物が大なり小なりの“アニマル”として登場し、ただただ愉快で可愛らしい。  前作と同様のテーマ性なりを期待しすぎてしまうと、この続編への拍子抜けは避けられないかもしれない。 けれど、今作はメインとなるテーマを主人公を中心とした普遍的な人間関係に絞り、敢えて良い意味での子供向け路線にシフトチェンジしているのだと思う。 そして、これはこれで充分過ぎるほどのクオリティーを備えたアニメーションだったと思う。
[CS・衛星(吹替)] 6点(2015-06-28 00:38:14)
362.  ドラゴンボールZ 神と神
「オラ、ワクワクしてきたぞ!」 このアニメの主人公が過去に何度も何度も発してきたセリフである。 孫悟空という主人公が終始一貫追い求めてきたものは、「最強」という称号などではない。 自分よりも“強い者”と出会い、それに打ち勝つことだ。  前作から実に17年ぶりの劇場版作品。原作者鳥山明が初めて直接ストーリーに関与した今作には、原点回帰ともいえる要素が色濃く表されていた。 アニメーション映画としてのクオリティーは別として、この漫画・アニメシリーズによる“高揚感”がDNAに刷り込まれている世代の者にとって、久方ぶりに描き出された世界観は、ただただ楽しく、嬉しいものだったと言える。  勿論、難点はいくつもある。 “破壊神ビルス”というこれまた次元を超えた難敵が登場したわりには、舞台となる場所はブルマ邸の庭先に過ぎず、描かれるストーリーの大部分は“ブルマの誕生日会”なので、あまりに派手さがない。 また、ビルスの怒りを抑えようと孤軍奮闘するベジータの“キャラ崩壊ぶり”もいささかやり過ぎなように思える。  ただ、そういった難点すらも、長年のファンにとってはもはや微笑ましく見える。 誕生日会であれなんであれ、レギュラーキャラクターたちが勢揃いした様は、その描写を見ただけで嬉しい。 “キャラ崩壊”のベジータも、彼が長らく地球に住み着いて辿り着いた人格だと思えるし、恥もプライドもかなぐり捨てて、家族と仲間たちを守ろうとする滑稽な姿は、もはや感動的ですらあった。  何よりもこの映画作品には、“3・11”の大震災を受けた偉大な漫画家の熱い意思が表れている。 それは、多少ふざけすぎていたとしても、久しぶりに一堂に会した仲間たちとの時間を“楽しいものにしたい!”という思いであり、それを見た子どもたち、そしてこの作品に熱狂し大人になったかつての子どもたちを再び笑顔にしたいという熱い思いだろう。  この映画はおそらく初めて、孫悟空が相手に勝てないまま終幕する。 それも、上には上がいて、この世界は、この宇宙はもっと“可能性”に溢れているという漫画家からのメッセージに違いない。 “可能性”、それは即ち“未来”。 孫悟空という主人公はこれから先も、いくつも可能性に出会い、打ち勝ち、新しい未来に立ち続けることだろう。  成る程、「ドラゴンボール」という作品がいつまでだっても風化せず、愛されるわけだ。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2015-06-18 23:08:49)
363.  映画 けいおん!
この作品における「青春」。それは、“非現実”という多幸感だ。 現実を執拗に突き詰めていく青春劇も勿論あろうが、敢えてそれ(現実)を無視することで生まれる幸福と娯楽。この作品の在り方が意図することは即ちそういうことだと思う。  と、意識的に堅苦しく綴ってみたが、要は何の事はない。 軽音部の彼女たちに対して、“萌え萌え”の“ペロペロ”だったということに尽きる。 はっきり言って、そのこと以上に特筆するべきところなどなく、それが総てで良いのだと思う。  テレビシリーズは未見。 当然登場するキャラクターたちに何の思い入れもないままこの映画化作品を観始めた。 ストーリーは非現実的だし整合性もなくグダグダ感に溢れている。作品として鑑賞後の満足度が高かったわけでもない。 けれども、まんまと彼女たちの一挙手一投足に萌え、「テレビシリーズ観たいかも……いや観たい!」と思わせたこの映画の在り方と、アニメーション技術の確かさは、まったくもって正しいのだと思える。  この映画作品では流石に泣けなかったけれど、テレビシリーズを観終わる頃には号泣している自分の姿がわりと容易に想像できてしまう。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2015-06-16 11:53:36)
364.  トランスフォーマー/ロストエイジ
165分の取り留めのない映像的物量の「羅列」を、グッと耐えるように観終えて思う。 これは、マイケル・ベイ監督渾身の「自虐」だと。  前三部作を撮り終え、身を引く予定だったマイケル・ベイが、敢えてこの新作でも監督を引き受けた理由は何なんだったのか。 勿論、単に自分が培ってきた人気シリーズを他人の手に任せたくないという思いもあったのだろうとは思うが、この映画の仕上がりを見たところでは、それ以外の明確な「意思」があるに違いないと思う。  もはや突っ込むことも馬鹿らしく思えるほどに、今作は「中国資本」による「広告」のオンパレードである。クライマックスを含めた後半は、完全に中国映画であり、中国のPRビデオである。  当然ながら、映画は“お金”がなければ作ることは出来ない。 そんな中で潤沢な資金力を誇る中国市場に、ハリウッドの映画産業が集中していくことは、もはや必然だろうと思える。 昔から映画の作品内で“スポンサー”の威光が示されることは決して珍しいことではない。  ただし、その“威光”が、今後更に度を越していくことを、稀代のブロックバスター映画監督であるマイケル・ベイは、この映画で示したかったのではないか。  嘲笑を携えながら、165分の広告映画を観終えた。 しかし、この映画が歴代最高額の興収をたたき出したという現実を知り、嘲笑すらも消え失せた。  明確に生じたこの「危機感」は、ある意味、映画史上において「貴重」なことなのかもしれない。
[CS・衛星(字幕)] 0点(2015-05-28 22:27:06)
365.  ザ・イースト
「ミイラ取りがミイラになる」というあまりに有名なことわざ一つで済まそうとすればそれまでなのだが、映画のストーリーテリング自体はオーソドックスだったと思う。 ただ対象となる素材が、過剰なテロまがいの行為を展開する正体不明の環境保護集団であるという点は、極めて時事的で興味を引いたポイントだった。  そういう時事的な要素を用いれているだけに、描き出される現代社会の病理性はリアルで、実際世界中が注視しなければならない問題だったと思う。 主人公は、元FBIの民間警備会社調査員の女性で、前述のことわざの通りに、謎の集団の在り方にシンパシーを感じ次第にのめり込んでいく様は、スリリングであった。 決して盛りすぎることなく抑えた緊張感を持続させた演出も高水準だったとは思う。  ただし、だ。結局、最終的に得られた映画の印象は「軽薄」という一言に落ち着いてしまった。  この映画における最大の欠落は、主人公のバックグランドがあまりに描かれていないことだと思う。 展開されるストーリー上では、主人公の感情はしっかりと描かれているし、演じているブリット・マーリングの演技も良かったと思う。(彼女は今作の脚本も手がけているらしく、とても才能豊かな人なのだろう。)  しかしながら、この主人公がなぜこの「仕事」に執着するのか、そもそもなぜにFBIに入り、退職し、得体のしれない民間の警備会社に在籍しているのか。 ここまでに至った主人公の人生模様がまるで見えてこないことが、全編を通して彼女の言動の理由付けを曖昧にしてしまっていて、結果として映画全体において感情移入できない要因となってしまっている。  その他の環境保護集団の面々の人物描写もどこか浅はかだった。それぞれが自らの人生を賭して環境破壊に対しての過激な警鐘活動に取り組んでいるわけだが、彼らの行動原理についても語られ方が浅く、そこにあるべき悲壮感が伝わりきらなかった。  そして、最後の“オチ”の見せ方があまりに粗末過ぎる。  「だいたい分かるでしょ?」と言いたいのだろうけれど、一介の調査員の一人に過ぎない彼女があの後どうやって巨悪を陥れていったのか、あまりに説明不足で腑に落ちない。  このところ益々“不気味”な存在感を高めているエレン・ペイジをもう少し有益に使うべきだったとも思う。あの段階でのフレームアウトは少々勿体無い。  非常に興味深い作品だっただけに、根本的な部分での欠落があまりに勿体無く、映画としての価値を大いに下げてしまっている。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2015-05-24 17:43:22)(良:1票)
366.  300 <スリーハンドレッド> ~帝国の進撃~
“インパクト”のみで勝負し、娯楽映画として見事に勝利してみせた「300<スリーハンドレッド>」から早8年。 8年越しの続編は、物語の時間軸的にはほぼ同時進行の「番外編」という立ち位置だった。 スパルタ王レオニダスの死闘の裏では、また別の死闘が繰り広げられていた!という話。  前作自体が好き嫌い大別される作品だっただけに、もはやこの第二作目においては“好きな人以外立入禁止”にすべきだろう。 まず最初に断言させて貰いたいのは、「セックスより上手ね」と、最後の死闘の最中に敵役の最強最悪の女傑に言い放たせた、この「番外編」の在り方は正しい!ということだ。  前作でスパルタ王を演じたジェラルド・バトラーが、あまりに熱苦しく、あまりに豪傑だっただけに、今作の主人公テミストクレスを演じたサリヴァン・ステイプルトンなる俳優の存在感が希薄だったことは明らかだ。 彼が率いるアテナイ軍も、豪傑揃いの精鋭300人だったスパルタ軍と比較してしまうと、当然ながら脆弱に映ってしまい、映画に添えるべきインパクトに欠けていたと思う。  しかし、その希薄さや脆弱さは、ある意味必然的なことだ。続編であり番外編である今作が、物語の本筋である前作に対して“同様”のインパクトで勝てるワケがないし、勝つべきではない。  その代わりに今作は、また別のインパクトをちゃんと用意出来ていた。 それこそが、前述の「台詞」を放つペルシャ帝国海軍指揮官アルテミシアなる最恐の悪女であり、それを演じたエヴァ・グリーンに他ならない。 彼女一人で、主人公率いるアテナイ軍はおろかペルシャ王すらも凌駕する存在感を放っている。 最近数作では印象的な悪女ばかりを演じているエヴァ・グリーンだが、彼女が現役最恐の“悪女女優”であることは間違いない。  彼女と主人公の「一戦」が、今作の最大のハイライトであることは言うまでもないだろう(ニヤリ)。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-05-23 21:09:43)
367.  バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
“キャスティング”に込められた“巧み”な“悪意”。 このアカデミー賞受賞作品の成功の要因は、先ずそれに尽きると思う。 マイケル・キートンをはじめとする配役の妙が見事で、その配役に応えたキャスト陣がそれぞれ見事だったということだ。  かつてヒーロー映画の主演でドル箱スターとなり一世を風靡した俳優が、十数年の月日を経て、己の俳優としての存在性、そして父親としての存在性に疑問を持ち、満を持して挑んだ舞台作品の初演を前に苦悩する様を描いた物語。 プロットとしては、極めて“ありがち”である。 ただし、先に挙げた「配役」も含めて、「撮影」の手法、ストーリーの「展開」など、描き出し方がとてもユニークで、それ故にオリジナリティに溢れた作品に仕上がっているのだと思う。  まあ何と言っても、主人公の元スター俳優役にマイケル・キートンを選んだことは、この映画が成り立つための必須項目だったように思う。 二十数年前にティム・バートン版「バットマン」で“ブルース・ウェイン”を演じたこのベテラン俳優は、今作の主人公そのものだ。 彼がこの役を引き受け、ベストパフォーマンスをしてみせたからこそ、このコメディ映画は、モキュメンタリー(擬似ドキュメンタリー)の要素も併せ持つ特異な世界観を醸し出すことに成功しているのだと思う。  主人公のリーガン・トムソンは、俳優としての栄光を取り戻すために、畑違いの舞台に挑む。 それを演じるマイケル・キートン自身も、己の俳優人生をある意味自虐的に体現し、自身のキャリアと俳優としての意地をかけた「演技」をしてみせた。 その様には、一人のハリウッドスターの“生き様”がまざまざと表れていて、物語を越えて感動的であった。  主人公は妄想と現実の狭間で終始苦悩をし続ける。 それは即ち「過去」との折り合いをつけるための闘いとも言える。 どんなに「過去」が「現在」にとって邪魔な存在になろうとも、自分の人生である以上、それから完全に決別することなど出来ない。 「現在」と「過去」を等しく見つめ、それぞれに対してどう折り合いをつけるか。人生とはそういうものなのかもしれない。  【過去=バードマン】を病室のトイレに追いやって、主人公が掴んだ【現在=現実】は、果たして何だったのだろう。 如何様にもとらえられるこの映画の結末は、それを目の当たりにした観客それぞれに語りかけてくるようだった。 「飛ぶのか?」「飛ばないのか?」と。
[映画館(字幕)] 8点(2015-05-09 00:30:07)(良:2票)
368.  あなたを抱きしめる日まで
赦すことの苦悩。赦さないことの苦悩。赦されることの苦悩。赦されないことの苦悩。 人生は時に残酷で、一つの“赦し”にまつわるすべての人々が、どの決断をしたとしても、苦悩に苛まれることがしばしばある。 果たして、真の意味で正しい人間、真の意味で強い人間は、自分の人生を通していずれの“赦し”を導き出すのか。   この映画には、様々な“ミスリード”が含まれていて、巧い。 実話を元にした感動物語風にイントロダクションをしておいて、実は非常に辛辣で罪深いこの世界の闇が描きつけられる。 そして、重いテーマ性に対して身構えてみたならば、紡ぎだされる語り口は極めて軽妙でユーモラス。 御年80歳の大女優ジュディ・デンチのコメディエンヌぶりに、心が鷲掴みにされる。  原題は「Philomena」。ジュディ・デンチ演じる愛すべき主人公の名前である。 原題が指し示す通り、この映画は主人公“フィロミナ”の人間的な魅力に魅了されるべき作品だと思う。  暗く悲しい時代の中で、生き別れになった母と子。50年の年月を経て、ついに母は子を探す旅に出る。 実話とはいえ、もっと安易に感動物語に仕上げることも出来たろうし、悲しい時代が犯した罪を掘り進めて、もっと暗く重い社会派ドラマに仕上げることも出来ただろう。 カトリック教会の渦巻く闇だとか、レーガン政権下のエイズ患者への仕打ちなど、暗に示されている題材は多々ある。 しかし、この映画はそういうありきたりで安直なシフトを認めなかった。 主人公のキャラクターを魅力的に描き出し、コメディとして仕上げた巧さと勇気に賞賛を送りたい。  もう一人の主人公であるジャーナリストは、ふとしたきっかけで出会った貧しい老婦人のことを、“無知で心が弱い人たち”と決めてかかる。 だが、彼女と旅をしていく中で、ほんとうに含蓄が深く心が強い人間が誰であるかを知っていく。 それは、浅はかな固定概念を払拭する旅路でもあった。   主人公“フィロミナ”が辿り着いた「真実」は決して喜ばしいことではなかった。 それでも彼女は揺るがない。相手を赦し、すべてを受け入れる。 それは、何よりも最初に先ず自分自身の罪を認め、そして苦悩と共にそれを赦してきた彼女だからこそ導き出すことができた“答え”だったように思えた。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-05-01 00:11:40)
369.  ワイルド・スピード/SKY MISSION
「別れなんてない」 そう言い残して一人走り去るドミニク。そんな彼を追ってきて、真っ白のスープラでいつものように横に並んだブライアンの姿は、果たして現実だったのだろうか、幻影だったのだろうか。 「さよならも言わずに行くのか?」と笑顔を見せるブライアンに対してのドミニクの表情には、喜びと悲しみが等しく入り交じっているように見えた。  シリーズ7作目。 当然ながら“一見さんお断り”の今作を、封切り早々に観に行く“ファン”としては、とてもじゃないが、ラストのシークエンスを涙なしでは観られなかった。  とはいえ、この映画は「ワイルド・スピード」である。映画の9割以上は、突っ込むことが馬鹿らしく思えるくらいに大味なストーリーテリングと、大仰なアクションシーンのひたすらな連続である。 ただし、その「大味」と「大仰」は、このシリーズが7作品を通じて培った娯楽性の“境地”であり、否定の余地は微塵もない。  一介のストリートレーサーだった主人公とその一味が、シリーズを追うごとにアクションヒーロー化し、ついには某スパイアクション映画を彷彿とさせるほどの極秘任務を担う。 フツーなら“あり得ない!”と一蹴されるべきプロットを、堂々とまかり通してしまう。それを成すものは、このアクション映画シリーズが導き出した奇跡的なエンターテイメント性に他ならないと思う。  この「7」は、あらゆる側面で「奇跡」そのものだ。  前作のラストで突如登場したジェイソン・ステイサムを最恐の悪役に配し、ヴィン・ディーゼル、そしてドウェイン・ジョンソンと、あまりに“肉厚”な肉弾戦を繰り広げる。 “アクションスター”というステイタスの価値が低迷して久しいが、それでも“現役”トップスターである三者の揃い踏みは、あまりに豪華だ。  また、ミシェル・ロドリゲス好きとしては、前作のジーナ・カラーノ戦に続き、またしてもプロ格闘家ロンダ・ラウジーとの“連戦”はたまらなかった。  そしてもちろん、最後に言及したいのは、ポール・ウォーカーだ。 俳優の死は、いかなる時も映画ファンにとって不幸以外の何ものでもない。 今作のクランクアップ前に急逝したもう一人の主演俳優の死は、あまりに大きな損失だった。 ただ、彼の死が、この映画に特別な意味と価値を与えたこともまた事実であろう。  ド派手なカーアクションの追求の果てに、今作ではついに自動車が“空を飛ぶ”。 「SKY MISSION」は後付の邦題ではあるが、今作の主題であるその要素は、天国へと旅立った主演俳優の姿に重なってくる。   映画は、総合芸術であり総合娯楽だ。 その「総合」という言葉には、そこに携わった人間の“人生”そのものも含まれるのだと思う。 一人のスター俳優の生き様と共に、今シリーズはこの先も愛され続けるだろう。 今宵は、ポール・ウォーカーの冥福を改めて祈りたい。 もちろん献杯は“コロナビール”で。
[映画館(字幕)] 9点(2015-04-26 09:10:39)(良:4票)
370.  横道世之介
なんだかとてもふしぎな映画で、一回目観て、「良い映画だな」と思う反面、「一体何が良いの分からない」という、この映画の世界観の中を浮遊するような感覚を覚えた。 しばらく経っても、ふわふわと落ち着かなかったので、160分のこの長い映画をもう一度観た。 二度目は、160分なんて時間をまるで感じず、終始居心地良くすんなりと観終わることができた。 結果、ふわふわとした浮遊感はそのままだったけれど、その部分こそが、このふしぎな映画の愛すべき価値そのものであり、主人公横道世之介の魅力だと思う。  人生においては、ささやかな出会いと別れが無数に繰り返される。 その出会いの中で、自分の人生を左右する程の喜びや感動に巡り合えたとしても、時の流れは、それらを記憶の片隅へと追いやり、仕舞い込む。 時の流れは無情で、取り返しのつかない喪失を伴う場合も多かろう。  あんなにも輝いていた思い出なのに、どうして今の今まで忘れてしまっていたのだろう。と、人は思う。 でも、思い出すことで、その思い出は色褪せることなく再び輝き始める。 忘却してしまっていたことが不幸なのではなく、思い出せることが幸福なのだということを、この映画は眩いばかりの輝きの中でしっかりと伝えてくる。  長い映画であることは間違いない。ただし、その中には愛しくて仕方ないと思えるシーンが溢れている。 僕は今32歳だが、おそらくこの先観返す度に、その眩さと愛しさに更に涙が溢れることだろう。  いろいろと語りがいのある映画なのだが、何よりも特筆せざるを得ないのは、吉高由里子が演じたヒロインの存在。 この特徴的で同時に繊細な心持ちのバランスを孕んだヒロイン像は、たぶん、他のどの女優が演じても、見ていてただただ気恥ずかしいばかりのものになってしまっただろう。  夢を見ていると、その世界の中で、説明はつかないがどうしようもなく魅力的な女の子が登場し、目が覚めても彼女に対する恋心が消え去らないということがしばしばある。 この映画で、吉高由里子が演じたヒロインは、まさに夢が覚めても忘れられない存在そのもだ。 彼女が演じた与謝野祥子にまた出会うために、僕はこの映画を再び観るだろうとも思う。   ともかく、また一つ愛すべき青春映画が誕生したことは間違いない。 そして、“大人になりかけ”の若者の青春群像に、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの楽曲はよく似合う。
[DVD(邦画)] 9点(2015-04-24 23:40:15)(良:4票)
371.  花とアリス殺人事件
岩井俊二監督の“絵コンテ”をそのままアニメーションにしたような映画だった。 正直なところ、アニメーションとしては稚拙だし、二次元のキャラクターに情感が溢れているとはとてもじゃないが言い難い。 紡ぎだされる物語自体も、随分とチープで散文的と言わざるをえないだろう。 何の思い入れもない人が、この作品を単体で観たならば、酷く退屈だろうことは否めない。  でもね。“一部”の人は、どうしたってこの映画を無下に否定することなど出来やしないと思う。 アニメーションであれ何であれ、再び「花とアリス」の世界観をスクリーンで堪能することが出来る。 その事実だけで、高揚感と幸福感を感じずにはいられなかった。  10年の時を経て、岩井俊二監督のもと、蒼井優と鈴木杏をはじめとする演者が揃い、同じ息吹を届けてくれた。諸々のセルフオマージュも含めて、この映画監督のファンとしては頬を緩めずにはいられなかった。  一つの映画として、決して優れた作品ではない。僕自身、想定よりも随分と満足度は低かった。  でも、また“彼女たち”に会えた。それだけで、僕はうれしかった。   今作の鑑賞直前に劇場版を鑑賞し直したが、今作を観終わった後にまた観たくなった。 “Web版”と“劇場版”と“殺人事件”を同封したコンプリートBOX出ないかな。絶対買うけど。
[映画館(邦画)] 6点(2015-04-12 10:08:30)
372.  博士と彼女のセオリー
余命2年。そのあまりに残酷な“運命”を突きつけられ、“彼”は己の人生から逃避するように“彼女”の元を去ろうとする。 それでも、彼女は背筋をピンと伸ばして、彼の後を付いていく。 そして、眼鏡の汚れを拭き取り、キスをする。 その瞬間、彼は、彼女によって、その先の人生を生きる意味を与えられたのだと思う。  生かした者と、生かされた者。  両者は時の流れとともに、くるくると回転するように、入れ替わり、立ち代わる。 この映画は、現代が誇る“天才物理学者”の功績を描くものではない。 スティーブンとジェーン。この男女が共に過ごした「時間」を、ありのままに切り取ったような映画だった。  それぞれの人間の強さも弱さも平等に描いたこの物語は、必ずしも綺麗事ばかりではない。 過酷な人生の中で、当然起こり得る人間の感情の機微を、決して臆すること無く誠実に描き出したこの映画は、とても勇敢で、辛辣で、だからこそ“人間”に対する慈愛に溢れていると思えた。   スティーブン・ホーキングという物理学者が専門とする「量子宇宙論」なるものを正確に理解することなんて、僕には出来やしない。 けれど、それが「宇宙」と「時間」という絶対的な概念に対する果てしない探求であることは分かる。  この映画が、二人の男女の心模様を通じて描きつけたものは、まさにその「時間」の残酷さと慈しみだった。 “2年”という時間の限界を越えて生き続けた男と、彼を生かした女。 誰よりも明晰な頭脳を持ちながら、その考えを伝えるためには、誰よりも膨大な時間が必要となってしまった男。 時に奇跡的に、時に過酷に、「時間」は彼らを生かした。   ラスト、博士と彼女は並び、「見てごらん、僕らが築き上げたものを」と視界を共にする。 その瞬間、かつて彼が提唱した理論をなぞるように“彼らの時間”が巻き戻っていく。 彼らが辿った道程とその行く末が、幸福だったのか、不幸だったのか、それは他人には分からないし分かる必要もない。 それは彼らだけが、判別すればいいことだ。  ただ僕は、二人が歩んだ「時間」そのものが放つ光に涙が止まらなかった。  たぶん、この2、3年ほどの間でいちばん泣いた。 喜びも、悲しみも、全部ひっくるめて泣いた。 それは、「宇宙」と「時間」の真理を追求する天才物理学者を描いたこの映画において、とても相応しいことだったと思う。
[映画館(字幕)] 10点(2015-04-01 11:33:31)
373.  るろうに剣心 伝説の最期編
原作ファンとして、当然総てにおいて「満足だ」とは、お世辞にも言えない。 けれども、一作目と続編二部作通じてこの映画化シリーズは、“漫画の映画化”作品として充分に「及第点」と言えるものだったと思う。  他の漫画以上に極めて“マンガ的”な原作のビジュアルを忠実に再現しつつも、“実写化”するにあたって、ギリギリ許容範囲のリアリティラインをキープし続けたことは、NHK出身の監督らしい流石の堅実さだったと思う。 ヘタなCGを乱用して、奇天烈な人体描写や大仰な必殺技を実写で見せられていても、おそらく引いてしまうだけだったろう。  実写での表現が難しい原作での見せ場を敢えて回避し、代わりに、香港仕込みのアクション監督を呼び、今作ならではの新しいアクションシーンを構築してみせたことは、この映画シリーズ最大のハイライトだったと思う。 “チャンバラ”と“カンフー”を織り交ぜたようなこの映画のアクションシーンは、スピード感とオリジナリティに溢れ、娯楽映画として最大の強みとなっていると言える。  そして、原作ファンだからこそ断言できるが、この映画が表したアクションシーンの方向性は、「るろうに剣心」の世界観に対して決して的外れではなく、きちんと合致している。 幕末を経た明治時代初期の日本を舞台とするこの漫画には、敵味方問わず多国籍要素が入り混じり、決して自国の文化や価値観に囚われていないことが、他の作品にはないオリジナリティだったと思う。  勿論、不満もある。 最大の不満は、“十本刀”の面々の殆どが単なる数合わせで終わってしまっていることだ。 それぞれを描くには尺的にあまりに無理があることも理解できるが、十本刀好きとしては残念だった。 まあ、神木隆之介演じる瀬田宗次郎や、滝藤賢一演じる佐渡島方治ら志々雄の側近連中のクオリティーは高かったので、これ以上を望むのは高望みかもしれないが。  藤原竜也が演じた志々雄真実のキャラクター造形は、内面的にも外面的にも素晴らしかった。 はっきり言って、この最終作は志々雄真実の映画である。 今作での“志々雄真実”というキャラクターのラスボス感は、海外のエンターテイメント映画と比較しても、決して引けをとらないものだったと思う。  志々雄真実とその側近の存在感が素晴らしかっただけに、原作であった“地獄”でのエピローグシーンは観たかったがねえ……。 
[ブルーレイ(邦画)] 6点(2015-03-26 21:24:39)(良:1票)
374.  るろうに剣心 京都大火編 《ネタバレ》 
原作漫画は“読み切り”掲載時からのファン。 アメリカン・コミックの映画化作品が好きなので、この漫画のアメコミ臭の強いキャラクター造形とストーリー展開が堪らない。 映画化に対しては不安もあったが、前作の出来栄えには概ね満足できた。 実写化によって生じる“嘘臭さ”を最低限におさえて、原作のイメージに沿ったキャラクターのビジュアルとアクションシーンのレベルの高さが、映画としてのクオリティーを保っていたと思う。  そうして製作された続編。「志々雄真実編」とのことで当然期待は膨らんだ。  先ず、前作同様にアクションシーンのクオリティーは高い。 そのまま世界に通用する、のかどうかは微妙なところではあるが、アクション監督が香港映画仕込みだけあってスピード感が素晴らしい。(蹴り技の迫力は師事したドニー・イェンゆずりなのだろう) 一人対集団というアクションシーンの巧さも、香港映画の素地があるからこその完成度であり、「るろうに剣心」の性質に極めて合致していると思う。  無闇にヘタなCGに頼らず、日本のチャンバラと香港のアクションとの融合と工夫で魅せていることには、非常に好感が持てる。  と、日本映画としては充分に見応えのあるアクションを見せてくれていることは間違いないけれど、それがイコール映画そのものの見応えとなっているかというと、微妙だ。  今回の続編は「志々雄真実編」を前後編に分けた連作となっている。今作のすぐ後に後編である「伝説の最期編」があるわけだ。 ただ、いくら今作がその“前編”に過ぎないといっても、主人公である緋村剣心の“全力”の見せ場が無いことは問題だと思う。最も力を注いでいるシーンが、“刀狩り”の帳とのバトルシーンでは少々地味過ぎる。 当然ながら、ピークはラスボスである志々雄真実との対決になるわけで仕方ないとも思える。 ならば、せっかくビジュアルよく揃っている志々雄真実及び“十本刀”の面々のもう少し細かい描写を充実させて欲しかった。 (左之助と安慈の邂逅シーンは入れとかなきゃマズイんじゃ……)  まあ総じて“前編”らしい映画である。“後編”の盛り返しに期待するしかない。
[ブルーレイ(邦画)] 5点(2015-03-26 21:23:54)
375.  ベイマックス
「面白かった?」「うん!」  シアターを出て手洗いに行った。すると、同じ回を観ていたらしいとある父親と3〜4歳と見られる彼の息子が、そんなやりとりをしていた。 「ああ、とても良い映画体験をしたんだな」と、全くの他人の彼らを微笑ましく、また羨ましく思い、多幸感に包まれた。  映画を観るということの意味、特に映画館で映画を観るということの価値は、こういった多幸感に尽きる。 そしてそれを70年以上に渡って世界中に提供し続ける“ディズニー”というブランドの、相変わらずの底力と更なる可能性に、またしてもしてやられた。  何と言っても“良い”のは、ベイマックスの造形とキャラクター性だろう。 まんま風船が膨らんだようなボディが表すものは、見紛うことなき“癒やし”と“愛着”。 このキャラクターの言動や質感の一つ一つを見ているだけで、安らぎ、思わず笑みがこぼれてくる。 メインとなるキャラクターのその存在感だけでも、このアニメーションの価値は揺るぎないものとなっていると思う。  魅力的なキャラクター性にすがっただけの底の浅い癒し系映画は数多あるが、勿論ディズニー映画がそんな範疇に収まっているわけがない。 優れたバランス感覚とエンターテイメント性を伴ったストーリーテリングによって、ほんとうに誰が観ても「楽しい!」と言うしか無い作品に仕上がっている。  映像的なクオリティーの高さはもはや特筆する必要もないほどに圧倒的。 ベイマックスという新キャラクターの質感の素晴らしさに視線は集まりがちだろうが、普通の人間の造形やアクションにおいても、アニメーション技術の進化の極みが見られる。 サンフランシスコと東京が文字通り融合したような架空都市のデザイン性も素晴らしかった。  過去作を例に出して安直な表現を敢えてするならば、「ヒックとドラゴン」+「Mr.インクレディブル」+「ドラえもん」=「ベイマックス」といったところか。 舞台となる架空都市と同様に、今作はとても幸福な“和洋折衷映画”と言えるかもしれない。  他の名作アニメ映画と同じく、繰り返し見るほどに愛おしさが増す映画となるだろう。 少なくとも、父親と初めて映画を観に来た男の子にとっては生涯忘れられない映画となるに違いない。
[映画館(吹替)] 8点(2015-03-26 21:22:41)(良:1票)
376.  シン・シティ 復讐の女神
前作「シン・シティ」がもう10年も前の映画であることに驚く。公開時に観て以来再鑑賞は出来ていないが、あの限りなく悪趣味で且つ限りなくスタイリッシュな映画世界のインパクトは今も記憶に新しい。 前作公開の直後から続編の噂は聞いていたがなかなか完成の報を聞かず、そんな噂も忘れかけていた頃に満を持しての今作の公開。勿論、年明けの公開初日に劇場に足を運んだ。  キャストは若干の入れ替わりはあったものの、前作並みの豪華キャストが揃い踏み。ジョセフ・ゴードン=レヴィットやジョシュ・ブローリンら新しいスターの顔ぶれも期待感を加味した。(個人的に最も嬉しかったのは、クリストファー・ロイドがキャスティングされていたこと!)  素地的には前作に勝るとも劣らないものだったけれど、残念ながらそれに伴うべき“インパクト”は無かった。 続編として前作の衝撃を超えることまでは期待していなかったけれど、それにしても魅力が大いに半減していたことは否めない。  その最たる原因の一つは、メインストーリーの推進力の弱さだろう。 今作も前作と同様に、“罪の街”シン・シティを舞台にして、いくつかのエピソードが入り乱れるように描かれている。 ただし、前作はメインストーリーを主演のブルース・ウィリスが持ち前のスター性で引っ張っていたのだけれど、今作についてはその部分が明らかに目劣りしていた。 はっきり言っちゃえば、ヒロインであるジェシカ・アルバにメインストーリーの主人公としての存在感が無かったと言える。そのことが直接的にストーリー展開の推進力の低下に繋がってしまっている。  他のエピソードで、ジョシュ・ブローリンやジョセフ・ゴードン=レヴィット、そして最悪の悪女を演じたエヴァ・グリーン(衣装の殆どは裸体!)らの存在感が流石に強かったことも、より一層にアルバ嬢の弱さを際立たたせてしまっている。  とは言え、今作のクオリティーが前作に対して著しく低いことをジェシカ・アルバ一人のせいにするのはあまりに可哀想だ。 尺そのものは大幅にコンパクトになっているにも関わらず全体的に感じるテンポの悪さや、“色”が増えてスタイリッシュさが低減してしまっている画づくり、そして何と言ってもストーリーそのものの弱さなど、結局は総てを取り仕切るロバート・ロドリゲスの監督力の低下が最も問題だろうと思う。
[映画館(字幕)] 4点(2015-03-26 21:19:59)
377.  ダイバージェント
企画自体の“意図”を理解せぬまま観ていたので、SF映画としての何とも言えぬ程度の低さと、軽く浅はかな人物描写の“正体”を見極められぬまま、この完成度の低い映画を観終えた。  悲壮感が漂うべきディストピアを描きながら、全編通して滲み出てくる軽薄さの正体。 それは、この映画が“ティーン向け”の企画であるということだった。  ストーリーの大部分を半ば意味不明に占める“学園モノ感”、ありがちな“スポ根感”に、薄っぺらい“友情”と“裏切り”と“恋模様”。 どうしてこのディストピア映画には、こんなにも無駄な要素が散りばめられているのだろうと、終始感じ続けた違和感の正体こそが、“ティーン向け”という一言に集約される。 「ああ、成る程」と、変な具合に合点がいってしまった。  終末戦争を経て、人間を5つの精神的なカテゴリーに分別し管理する社会という発想は、説得力には欠けるけれど、この手のSF映画の設定として悪くはないと思えた。 この設定を礎にして、人間の持つ本質や社会の哲学性が導き出されることを期待した。 が、当然ながら、そんな気の利いたストーリー展開が用意されているわけもなく、ただただ浅はかで、冗長なストーリーに終始していた。  誰が見ても明らかだろうが、物語の根幹であるはずの“5つの派閥”という設定が全く生かされていない。 「無欲」出身の主人公が、「勇敢」に鞍替えして、「博学」の横暴に立ち向かうという展開なわけだが、残りの「平和」と「高潔」は何をしてるんだというくらいに描写が皆無である。 というよりも、映画のほぼ8割方は、「勇敢」に属した主人公らの“学園青春ドラマ”を延々と見せられる。 そもそも、「勇敢」の阿呆ぶりは最初からヒドくて、どうして主人公が彼らの生き方に憧れを抱くのかあまりに理解不能であった。  どうやら「ハンガー・ゲーム」のヒットを受けて、二番煎じを狙った企画のようだが、主人公の女の子は、残念ながらジェニファー・ローレンスにはなれないだろう。 そして、どうしてケイト・ウィンスレットはこんな映画に出ちゃったのか……。  最後に、あの派閥選択の儀式は時間がかかりすぎるだろうから、やり方を変えた方がいいと思う。 
[CS・衛星(字幕)] 2点(2015-03-25 23:17:37)(良:1票)
378.  エンダーのゲーム 《ネタバレ》 
SF映画とは、作品全体の90%が退屈でも、残り10%で示される顛末と物語に秘められた“真意”によって、その価値を誇示できる娯楽だと思う。  週末の深夜、この映画を観始めたが、6割近く観たところであまりの退屈感に伴う睡魔に勝てなかった。 翌日、惰性と諦めの中で、残りを観た。 これほど、終盤までの絶望的な退屈感を経て、観終わった後の満足感が高い映画も珍しい。  地球の存亡をかけた宇宙戦争の“戦いを終わらせるもの”に指名された少年の物語。 原作を読んだことはないが、おそらく“良い意味”で広く子供向けのSF小説なのだろう。 当然ながらこの物語世界に対して愛着などなかったが、実際この映画化作品を観終わってみると、成る程、これは世界的にファンがいて、シリーズ化されるに相応しいSF作品だと思えた。  映画の大半(というか殆どすべて)は、主人公ら選りすぐりの少年兵たちの“訓練描写”に終始する。 タイトルが示す通り、少年たちはまるで“ゲーム”をひたすらにやり込むように、「戦争」の訓練を続ける。 実際に映像として映し出される描写も、極めてハイクオリティーなゲーム世界を描いているようで、当然現実味がない。 映画がクライマックスに入っても、映し出されるものは、その“ゲーム”のような訓練描写で、僕のこの映画に対する退屈感はピークに達した。  しかし、そこから示された“残り10%”の真意によって、退屈感は一転し、充足感が満ちてくる。  この物語の主人公が子どもたちである意味。 ひたすらに訓練描写に終始する意味。 “ゲーム”の真意。  自分の想像の範囲外から途端に表された普遍的な“戦争”と“大人”の愚かさが、ぐさりと心に突き刺さる。 そして、無垢な才気と凶暴性を孕んだ主人公が選んだ道筋に、“戦いを終わらせるもの”という役割の本当の意味を見た気がした。  と、一転した満足感のもとで今作を振り返ってみると、映像的にもハイクオリティーだったと思うし、観客を敢えてミスリードしたのであろう演出の手際も良かったと思える。  途中、幾度も「もう観るのやめようかな」と思ってしまったが、これだから“SF映画”というジャンルは侮れない。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-03-21 19:57:00)
379.  映画 プリキュアオールスターズ 春のカーニバル♪
自分の“娘”と初めて映画館へ映画を観に行った。 おそらく、世の中の映画ファンの多くがそうだと思うが、自分の子どもと、初めて映画館へ行くということは、一つのビッグイベントだと思う。 あまり表立ってそういう感情は出さなかったけれど、その“イベント”に対する高揚感は、自分の中でじわじわと、確実に、高まっていた。  映画館での“初鑑賞”として観に行く映画として、まったく不満は無かった。 曲がりなりにも映画ファンとして、「観たい映画」以上に優先されるべき映画など無いことをよく知っている。 彼女が観たい映画であることが最優先だと思うし、僕自身、こういう機会でもなければ絶対に観ない映画に対する好奇心も大きかった。  映画は、前シリーズから新シリーズへの改編期のものらしく“オールスター”と銘打った、良い意味でも悪い意味でも“お祭り映画”だった。 アニメーションの技術的にも、ストーリーテリング的にも、お世辞にも「クオリティが高い」なんてことは言い難い。はっきり言って「低い」。  でもね。 そんなことは、この映画において“ナンセンス”だということを、愛娘と並んで観て、段々と思い知った。  今作の大半は、都合よく集められた歴代プリキュアによる「歌番組」のような描写で占められる。 何も知らない“オトナ”は、たぶん九分九厘「なんじゃこりゃ」と思うことだろう。  しかし、その“ミュージックステーション”よろしく繰り広げられる歌とダンスシーンを目の当たりにして、3歳の愛娘は、初めての映画館の座席の上で歌って踊っていた。  “いつも”の一人で来る映画館の場では決して見ることのない光景に、僕は一寸戸惑った。 けれど、次の瞬間には、“この映画の観方はこれが正しい”と理解した。 この映画の全く正しい観方をする愛娘を、心底微笑ましく眺めた。  それだけでも、僕のこの“映画体験”は何ものにも代え難いものだと思える。 そして、初めて映画館に訪れた3歳児に対して、そういう衝動を起こさせたこの映画の在り方は、全く正しいのだと思えた。   エンドロールまでちゃんと観終えた後、途端に「トイレ!」と言い放った愛娘を連れて走った。 作品自体のクオリティーを超越して、高い満足感を得られた。 そういうことも含めて、映画を観るという価値だということを、改めて思った。
[映画館(邦画)] 7点(2015-03-18 00:23:26)(良:1票)
380.  TOKYO TRIBE
好きか嫌いかで言えば、好き。 キャラクターづくり自体は、原作に忠実なキャラも、映画独自のオリジナリティを出したキャラも、総じて良い。 ただ、ストーリーがあまりに雑すぎた。  “こういう映画”なので、雑多なのは大いに結構だが、ストーリー展開として盛り上がりに欠けたことは否めない。娯楽映画としてのストーリー的な巧さは、もっといくらでも出せたと思う。 そうすれば、もう一味も二味も”サイコー”な映画になったろう、と大変勿体無く思う。  井上三太の原作「TOKYO TRIBE 2」は、ファッション誌「boon」での連載中から単行本を買って愛読していた。 田舎のダサい高校生だった僕が、どうやってこの漫画を知り、単行本を集めるに至ったか全く思い出せない。けれど、自分の住む世界とあまりにかけ離れたこの漫画の「欲望」と「狂気」の世界観を、まるで“いけないものを見るような”感覚で密かに楽しんでいたことを思い出す。  その欲望と狂気の世界観を園子温が撮る!という報は、かつての“いけない”感覚を呼び起こし、“ワクワク”というよりも“ドキドキ”に近い期待感を生んでいた。  結果として、この映画の監督が園子温であったことは、「成功」だったと思う。 この作品とキャラクターたちが表す、熱さも、愚かさも、可笑しさも、恐ろしさも、下らなさも、その要素は総て園子温という表現者が持つ資質に合致していた。  だからこそ、前述の“勿体無い感”が際立つ。 ストーリーは、“馬鹿”がつくほど単純でいい。「ケンカを売った」「ケンカを買った」「どちらかが勝った」それでいいのだ。 ただ、せっかく揃えた濃いキャラクターを巧く使って盛り上げて欲しかった。  プロの役者も、プロのラッパーも、出演陣が総じて良かっただけに、それぞれに印象的な見せ場や、壮絶な死に様を用意してあげて欲しかったと思う。そういう部分が軽薄だったため、映画としての盛り上がりにかけてしまっていた。   “ラップミュージカル”とイントロするだけあって、“プロ”を揃えたラップによるミュージカルシーンは、どの場面も非常にエモーショナルだった。 映画を観終わり、「サウンドトラックが欲しい!」と思えたのは久々だ。それだけでも、この映画の価値は大きいと思える。
[ブルーレイ(邦画)] 7点(2015-03-09 23:02:57)
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