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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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601.  黒薔薇の館
この現世に「魔女」というものが存在するのならば、それは丸山明宏(美輪明宏)のことだと思う。 ちょうど10年前に、今作と同じく深作欣二監督作、丸山明宏主演の「黒蜥蜴」を初めて観た時と同様に、そう感じた。  インモラルなオープニングクレジットを皮切りに、その唯一無二の「存在」に圧倒され、陶酔してしまった。 それはまさに、「性別」という“脆い”概念を超越した「魔女」そのものだ。  勿論、日本には過去にも現在にも優れた「女優」は数多いと思うが、他のどの「女優」がこの映画の主人公の「女」を演じても、丸山明宏を超える存在感を出すことは出来まいと確信してしまう。 それくらいにこの映画と主人公「竜子」というキャラクターは、丸山明宏のためのものだったと言え、彼がいなければ作品自体が存在すらしなかっただろうと思える。 実際、「竜子」という女が、謎に満ち溢れながらも数多の富豪・文化人を虜にしていく様は、年齢・性別不詳で売りだした彼自身のデビュー当時の様そのものだ。  謎の女「竜子」に群がる男どもの面々がこれまた濃い。 男たちが、女に翻弄され人生を崩壊させていく様は、滑稽で禍々しいけれど、あまりに非現実的なこの「女」の妖艶さの前には、それも致し方ないと思えてしまう。 小沢栄太郎、西村晃ら熟練者の存在感は言わずもがなだが、やはりその群がる男どもの中で最も印象的だったのは、若き田村正和だ。  当時二十代半ばの田村正和は、あまりに瑞々しくて一寸誰か分からなかったけれど、“発声”した瞬間に彼と分かる喋り方は、今と全く変わらない。 映画の終盤は、丸山明宏演じる「竜子」と田村正和演じる「亘」との愛の逃避行へと突き進んでいくわけだが、両者の独特の口調が絶妙に混ざり合い、会話そのものが淫靡でクラクラしそうだった。  ストーリー自体は至ってシンプルでむしろ凡庸と言える。しかし、そこに息づくあまりに稀有な「存在」によって、唯一無二な映画に成っている。  今作もソフト化されていないらしい。「黒蜥蜴」と同様に早急にソフト化を求む。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2014-12-24 23:25:00)
602.  トラック野郎 御意見無用
物凄くとっ散らかっていて雑で下品な映画である。 しかし、主演俳優のほとばしる「熱量」のみで、無双の娯楽映画に仕上がっている。 諸々の表現やストーリー展開も含めて、決して褒められた映画でないことは明らかだろう。 でも、この映画に当時の多くの観衆が魅了されエネルギーを貰っただろうことも明らかだ。  何をおいても語るべきは、「菅原文太」だろう。 “一番星”という役名の通り、菅原文太という俳優の“映画スター”としてのパワーが凝縮された映画だった。 どんな障壁も、どんな失意も、トラック一つで突っ切って豪快に笑い飛ばす。 その姿はまさに反逆のカリスマであり、役柄を超えて菅原文太という人間そのものの生き様に繋がっているように思えた。  2014年11月、そんな大巨星が墜ちた。世代を超えたすべての映画ファンにとってあまりに悲しい出来事だった。 ただ、僕のような若輩者は、今作もしかりまだまだ観られていない菅原文太映画は数多い。それは映画ファンとして幸福なことだと思うし、死してなお銀幕の世界で生き続けられることこそが、映画スターの価値だとも思う。  この稀代の映画スターは、この先もずっと「一番星」として輝き続けることだろう。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2014-12-21 00:35:17)
603.  遥かなる山の呼び声
“心が洗われる”とはこういうことか。と、思った。 北海道の雄大な自然の中で、人間が人間として“生きる”ことの難しさと、厳しさ、そしてそれらがあるからこそ見いだされる素晴らしさが、決して仰々しくなく少しずつ滲み出るように映し出される。 冬の厳しさが残る春、短いからこそかけがえのない夏、実りの秋、そして再び訪れる厳冬。四季の移ろいとともに描き出された一人の男と母息子の物語に、一言「いい」としか言いようがなかった。  必要以上に故人を美化する気はないけれど、死してなお銀幕の世界に生き続け、後世に至るまで愛され続けることこそが映画スターの究極の価値だと思う。そして、高倉健という人は、その価値に相応しい人物であったことを改めて感じ入る。  今作は高倉健主演映画ではあるが、同時に倍賞千恵子の主演映画でもあったと思う。 日に焼け泥にまみれながら一人息子と共に生きていく母親役の倍長千恵子からは、内に秘めた強さと脆さが同時に伝わってきて、切なく美しかった。  愛する人の死を経て、母子二人文字通り寄り添うように必死に生きていく姿は、映画の題材としてはあまりにありふれている筈だけれど、時代を越えて愛されるに相応しいドラマ性に満ちていた。 何気ない食事シーンや会話の中から、この母子が抱える悲しみと慈愛がじんわりと伝わってくる。 色々な国の映画を観てきているが、やはりこういった「表現」は日本映画ならではのものだと思うし、その一つの頂点に立つのが山田洋次という映画監督だと思う。  そして、この映画においてもう一つ特筆せずにはいられないのは、ハナ肇の最高の脇役ぶりだ。 ハナ肇が演じる「虻田太郎」というキャラクターは完全なる脇役であるけれど、序盤は「悪役」として登場し、「コメディリリーフ」となり、最後には「最も愛すべき存在」となってこの映画において無くてはならない存在感を見せてくれる。この人もまた日本映画史に残り続ける名脇役なのだと思い知った。  高倉健演じる主人公は、ついに最後まで母子の家で寝ることはなかった。 それでも一夏の共生によってこの3人の間に生まれた絆に、自分でも驚くくらい素直に涙が溢れた。 「幸福の黄色いハンカチ」と同様に、この先自分自身が歳を重ねつつ繰り返し観るほどに“深まる”映画だろう。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2014-12-14 01:37:37)
604.  オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主
タイトルが示す通り、なんとも「奇妙」な映画だった。 それは霊やら死神やらが登場することによる奇妙さではなく、娯楽映画として妙なバランスを見せる映画だったということ。  監督は、「ハムナプトラ」シリーズのスティーヴン・ソマーズ。愛すべきベタなB級テイストを根底に敷きつつ、小気味良い娯楽大作を毎度提供してくれる、娯楽映画好きとしてはとても信頼できる監督の一人である。  そんな監督に対する信頼感も持ちつつ今作を観始めたが、序盤から様子がおかしい。 映画のつくりが全編通してチープで、製作費がかけられていないことは明らかだった。 ストーリーもなんだか薄っぺらいというよりも、綻びまくりで“おざなり感”が半端ない。 「なんだこりゃ」と蹴散らしてしまっても仕方ないくらいの表面的なクオリティなのだが、同時に不思議な愛着も感じてしまっていた。 出来は極めては悪いけれど気になってしまうという不思議な魅力があったことは確かだ。   主人公を演じたアントン・イェルチンは、リブート版「スター・トレック」の“チェコフ君”役が印象的な若手俳優だが、今作ではなかなかどうしてナイスガイなヒーローぶりを披露してくれている。 憂いを秘めた眼差しは、「ロード・オブ・ザ・リング」のイライジャ・ウッドを彷彿とさせ、今作の役どころには相応しかったと思う。 歳を重ねることでもっと味わいが出てきそうな俳優なので、これからもっと化けそうだ。  ヒロイン役のアディソン・ティムリンも非常に魅力的だった。彼女の魅力が破綻ギリギリのこの映画を繋ぎ止めていたと言っても過言ではない。ラストの顛末も含めて、非常に印象的な余韻を与えてくれている。   どうやら製作過程においていろいろな弊害があったらしく、やっとのことで製作・公開に至った模様。 それでも一つの個性を映画に加味してみせたスティーヴン・ソマーズのエンターテイメント力は流石だと思う。が、製作環境が確保されていたなら、それこそ「ハムナプトラ」並みの人気シリーズにもなっていたかもしれないと思うと少し残念にも思う。 (「ハムナプトラ」といえば、“イムホテップ”のウケ狙いの地縛霊には爆笑してしまった。)
[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-12-13 21:02:49)(良:1票)
605.  ゴーン・ガール 《ネタバレ》 
「怖えぇ…」 苦笑いを引きつらせつつ、そう思わず呟いてエンドロールを迎えた。   映画は、妻が突如として失踪した夫の“戸惑い”から始まる。その“戸惑い”の描き出し方が先ず巧い。 あらゆる可能性を秘めたストーリーテリングの中で、夫を含めたすべての人物が怪しく見えてくる。 夫を演じるのはベン・アフレック。愚鈍さと狡猾さが次々に見え隠れするこのスター俳優の配役は、まさにベストキャスティングだったろう。 今作は基本的には彼の視線から描かれるわけだが、彼自身の人物像が結局最後まで掴みきれないので、観客は終始絶妙な不安定を強いられる。  そして、妻役のロザムンド・パイクが物凄い。 殆ど無名に近いこの女優のパフォーマンスには、度肝を抜かれた。 一人の女が持つ明確な多面性と狂気。その様はもはや悪魔的であり、登場人物たちも観客も「どうしようもない」と諦めるしかなくなってくる。 キャラクターとして凄いのは、決して恐怖の対象として留まっているわけではないということだ。狂気が顔を出すまでの彼女は、間違いなく美しく、魅力的だ。馬鹿な男が次々に惚れてしまうのも無理はない。そして、狂気がさらけ出された後でさえ、この女はどこかキュートで虜にされてしまうに値する魅力を携えている。 その様は、やはり「悪魔」と形容するに相応しいかもしれない。  恐怖と狂気に溢れたサスペンスとして、それだけでも充分に完成度は高い。ただこの映画が最終的に行き着く先はそういう類いのことではなかった。 上質なサスペンスに彩られて終に描き出されたのは、「○○」というあまりに普遍的な“形式”が孕む“恐ろしさ”。 笑いが相応しい映画ではないはずだが、この映画には随所に滑稽さが内包されている。ある意味でこの映画は、テーマとなるその“形式”を極めてショッキングに誇張した“コメディ”なのではないかとすら思えてくる。  男と女。その二種類の人間という生物が関わりあうことで生まれるおぞましさにも似た恐怖と、呆れてしまうほどの滑稽さ。本来相反すると思われるそれらの要素が絡み合う濃ゆい映画だった。   実は、僕自身が「○○」をしてちょうど5年目。問題はないつもりだけれど、その慢心こそが、この映画で描かれている「恐怖」に直結するような気がして、思わず震える。 夜遅くまで映画を観て帰り、冷蔵庫に残された妻が作ったエビチリを食べながら、また震えた。
[映画館(字幕)] 9点(2014-12-12 23:42:06)(良:2票)
606.  スター・トレック(1979) 《ネタバレ》 
クライマックス、宇宙の果てで邂逅した機械生命体と人間が眩い光の中で「結合」する。  比喩でも揶揄でもなく、それは機械と人間との“セックス”だ。 字面だけを捉えれば、とても突飛でぶっとんだ表現だけれども、これこそがこのSF映画史に残るエンターテイメントシリーズの揺るぎない真髄であろうと思える。 必ずしも見栄えのいい娯楽性には流れず、宇宙そのものの姿と、その神秘を追い求める人間の姿を描き出していったからこそ、このシリーズは世界中のファンに深く愛され続けているのだろう。  J・J・エイブラムスによるリブート版で初めて「スター・トレック」の世界観に触れ、熱狂し、今回ようやく1979年の劇場版を観ることができた。 1966年〜1969年のテレビシリーズを経てからの劇場版なので、本当はそのテレビシリーズも観ることがベストなのだろうけれど、さすがに3シーズン79話もの映像作品を観る余裕はなかった。 主要キャラクター同士の関係性など、テレビシリーズを観ていればもっと楽しめたのだろうけれど……。  そういった世界観への馴染み難さも手伝って、特に序盤は非常にかったるい。 全体的にテンポも悪く、ストーリーテリングも上手いとは言い難いので、正直なところ映画の8割方はかったるいと言わざるを得なかった。  明確な徒労感を感じつつ映画は終盤に差し掛かる。 「退屈」の一言での酷評を心に決めかけたラスト20分、映画は突如として宇宙の神秘性に突き進む。 その展開自体はあまりに唐突で、やはり上手い映画だとは言い難いが、ラストの顛末はSFならではの衝撃性に溢れていて、それだけで印象的だった。  “創造主”の追求という宗教的な哲学性も加味しつつ、新しい進化の誕生を描いた顛末そのものは、SF映画史に残り得るものだったと思う。  この後の映画シリーズ、そして前段のテレビシリーズもやっぱり観たくなる。
[CS・衛星(吹替)] 7点(2014-12-11 17:06:29)(良:1票)
607.  ヴィンセント
ティム・バートンの「初監督作」となるストップモーションアニメ。 たった7分間の超短編ではあったが、既に見紛うことないティム・バートン映画に仕上がっている。 この短編に内包された世界観が、その後の彼の作品のすべてに拡大していったと言っても過言ではない。 一人の心優しき少年が、その表面的な性格と対照的な狂気的な妄想を膨らませていくさまは、まさにティム・バートンそのものなのだろう。  その後の豪華なフィルモグラフィーを鑑みて、やはりこの人が、世界中の“妄想家”の頂点に立つ存在だと再認識せずにはいられない。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-12-09 16:07:14)
608.  ホビット/竜に奪われた王国
三部作の最終作公開のタイミングを知り、一年前の公開時にスルーしたままになっていたこの第二作目をようやく鑑賞。 「ロード・オブ・ザ・リング」(以下LOTR)は全作を劇場にて高揚感たっぷりに観たタイプなので、同様に繰り広げられる大ファンタジーの壮大な世界観には、やはりアガる。 ただし、生じた高揚感の矛先は、この“前日譚”を通り越して、やはり「LOTR」に向いていることは否めない。  前日譚であることの宿命とはいえ、「LOTR」と比べてしまうと物語規模の圧倒的な小ささを感じてしまう。そして、ストーリーテリングの推進力も、圧倒的に弱い。 「LOTR」は、常に別の道程を辿る各パーティーの冒険が並行して描かれ、それがストーリーテリングに厚みを持たせていたが、今作は基本的に主体であるドワーフ一行の冒険のみが延々と続くので、どうしても飽きてしまう。それぞれのキャラクターに華がないことも痛い。 最終作を観ていないので明言はできないが、無理に三部作などにする必要はなく、単作で纏め上げたほうが良かったと思う。  大スクリーンで観てナンボの作品であることは間違いないので、自宅の小さなテレビで観たことは大いにマイナス要因だっとは思うけれど、現状の期待値では最終作を観るために劇場に足を運ぶことは正直難しい。  英BBCの「SHERLOCK」の大ファンなので、マーティン・フリーマン(ホビット)とベネディクト・カンバーバッチ(スマウグ)の「対峙」は、ちょっと胸熱だったけれどね。  最後にこれだけは言いたい。 前作では敢えて突っ込まなかったが、“ずんぐりむっくり”が身体的特徴のはずのドワーフなのに、“王”や“恋愛担当”は結局細身のイケメンであることが、なんだか納得いかない。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-12-08 16:58:13)(良:1票)
609.  インターステラー
レイトショーの映画館を出て、真冬の凍てつく空気に包み込まれた。ふと夜空を見上げると、澄んだ空気の遥か先に満月と星が光っていた。 広大な宇宙の中で、自分自身がひとりぽつんと存在している感覚を覚え、孤独感と大いなる宇宙意思を同時に感じ高揚感が溢れた。 普段の何気ない景色が一変していたようだった。これこそがSF。これこそが映画だと思えた。  数多の大傑作がそうであるように、今作もとてもじゃないが言葉では表現しきれない。 特にこのSF映画が描き出す世界観の多層性と文字通りの深淵さは、言葉で説明すべきものではないだろう。 「圧巻」とひと言で言ってしまえばそれまでだろうし、それで充分だとも思える。  とても複雑な宇宙理論が繰り広げられる語り口は、一見難解に見える。しかも監督はクリストファー・ノーランである。一筋縄ではいかないことは必至。 しかし、実際に観終えてみれば、この映画は決して難解なのではなく、難解な要素に彩られた普遍的な人間ドラマであったことに気づく。 複雑に入り組んでいるのは、宇宙理論ではなく、むしろ多様な人間の在り方とそれに伴う濃密なドラマ性だった。  “親子愛”をはじめとする人間のドラマを根底に敷き、未知の領域に踏み出した人類は、「人類」そのものの限界とその先を追い求めていく。 中盤、“マン博士”という人物が登場する。その名前の通り、彼こそが今現在の人間の本質を表したキャラクターであろう。 一つの“限界”に辿り着いてしまった人類、進化か滅亡か、このキャラクターはその分岐点の象徴と言える。(このキャラをほぼノンクレジットで演じているスター俳優はエラい) 主人公が、“マン博士”と真正面から対峙し、それを越えようとする様こそが、人類の進化の瀬戸際だったのだと思える。  高度な科学的空想の先に辿り着く人間の真の姿と可能性。僕はそれこそが、人間が生み出した「Science Fiction」の本質であり、醍醐味だろうと思う。 そういうことが満ち溢れんばかりに繰り広げられるこの映画を、愛さないわけがない。  ただし、この映画を語り切るには、まだまだ膨大な時間が必要だ。 それは、これがとても幸福な映画体験であったことの証明だろう。
[映画館(字幕)] 10点(2014-12-07 01:37:45)(良:2票)
610.  紙の月 《ネタバレ》 
鑑賞を終えて、映画館施設内のATMで一万円を下ろした。 その一万円札をしげしげと見ながら、“彼女”の罪と罰について思いを巡らせた。  この映画の主人公が、犯した罪とは何か。そしてその代償として与えられた罰とはなんだったか。 巨額の「横領」という明確な罪が描かれていながら、果たして本当に彼女が犯した罪はそれだったのかと確信が持てなくなる。 言い換えれば、「横領」という罪に伴う「嘘」と「偽り」そのものが、彼女にとっての「罰」だったのではなかったか。  彼女の「罪」は、たった一枚の一万円札から始まる。ただしそれは、ただの目に見える“きっかけ”に過ぎない。 他人の一万円に手をつけてしまうずうっと前から、彼女は、この世界の“虚構”に対するジレンマを孕み続け、一線を越えてしまう必然性を秘めていた。 彼女にとっては、この世界にまかり通っている虚構を受け入れ、普通に生きていくこと自体が、「罰」だったのかもしれない。  その「罰」に相応しい「罪」を後追いしてしまったと捉えることは、確固たる犯罪者である彼女を庇護しすぎなのかもしれない。 けれど、欲望を追い求めるというよりも、むしろ盲目的に一線を越えていく彼女の姿には、表面的な快楽と悦楽に包まれた業苦が露わになっていた。   主人公は、越えてはならない“ボーダーライン”を次々に越えていく。時にその描写は少々唐突に見えるかもしれない。 けれど、実際、“一線を越えてしまう”という事象において、明確な意思なんて存在しないのだと思う。 唐突な流れの変化と、衝動、そしてただ残る結果。“一線を越える”というのはただそれだけのことだ。だからそこには明確な理由なんて実は無い。   「あなたはここまで」と、言い切られ、彼女はまたひとつ“一線を越える”。 まさか、この映画の結末が、こんな爽快感に包まれるなんて、ちょっと信じられなかった。   「罪」と「罰」を同時に経たからこそ、彼女に「贖罪」は必要なかったと僕は思う……いや、違うな。 やはり彼女にとっては、どこに居ようと、この世界で生き続けることこそが、贖罪なのかもしれない。
[映画館(字幕)] 9点(2014-11-23 10:19:40)(良:1票)
611.  ザ・ヤクザ(1974)
2014年11月10日。日本映画史上最高の大巨星墜つ。 映画俳優高倉健の死に対し、喪失感は大きすぎる。ただ、彼が遺した205本の映画の殆どを、僕はまだ観られていない。 まだまだ高倉健の映画を観られることを、映画ファンとして幸福に思いたい。  高倉健のアメリカ映画出演作といえば、リドリー・スコット監督の「ブラック・レイン」の印象が強くその筆頭となりがちだが、それよりも15年も前に出演した今作のインパクトも中々のものだった。 「ザ・ヤクザ」というタイトルから、米国人が日本のヤクザ世界をモチーフに適当に作った“トンデモ映画”なんだろうと高を括っていたが、その認識は全くの間違いだったと言っていい。  確かに、日本人として少々呆気にとられる描写は多々ある。しかし、それらは製作者陣が決して適当に作っているものではなかったと思う。 日本の文化、その中でも取り分け“任侠映画”という文化に対しての多大な“憧れ”と“尊敬”の念が、全編に渡って匂い立つように強く伝わってくる。(待田京介の起用とか、分かりすぎている!)  結果的に映し出されていたものは、紛れも無い米国産の「仁侠映画」だった。  ラスト、高倉健演じる時代遅れの侠客が、仁義を貫くために“陰腹”を切ろうとする描写に驚いた。まさかアメリカ映画でそんな描写が観られるとは。 他にも“指詰め”に対する執拗な掘り下げなど、日本人でも少々引いてしまうある種マニアックな描写が続く。 それらを指して、リアリティがない等と言うことは、あまりにお門違いだ。 実際にそれが妄想であっても、ファンタジーであっても、それが欧米人が憧れ追求してくれた「仁侠映画」であれば、尊重されるべきだ。  描写が多少おかしかろうが、「仁侠映画」と「高倉健」、かつて日本中が愛した文化を、同様に愛しリスペクトしてくれているこの作品を、この国の映画ファンとして否定できるはずがない。   米国映画だろうとなんだろうと、あくまで「高倉健」のままで存在する俳優の立ち振舞に惚れ惚れする。 今でこそ、世界で活躍する日本人俳優は多いけれど、スター俳優としての存在感そのままで通用した俳優は、やはりこの人しかいない。 高倉健という俳優が、この国に存在したということを、改めて誇りに思う。
[DVD(字幕)] 7点(2014-11-22 01:33:36)
612.  ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い
個人的に、飲み会中の様子の写真を撮ることが好きだ。 深酒の翌日、記憶がぶっ飛んだ二日酔いの中で、デジタルカメラのメモリーに入っていた覚えのない画像を目の当たりにして、愕然すること多数。 今作のエンドロールのネタばらしには、自分自身の二日酔い遍歴に対しての苦笑いが止まらなかった。  第三弾まで製作された人気コメディシリーズの一作目をようやく鑑賞。 身につまされる”苦笑い”も含めて、酒飲みにとっては色々な意味で楽しめる映画だったとは思う。  ただ、僕は男だけれど、普通の日本人として、普通に結婚式を行った者としては、あまりに馬鹿すぎる男どもの愚行に対して、笑えはするが、それ以上に呆れ、憤怒を禁じ得なかった。 結果的にオールオッケーになるからこそコメディ映画なのは百も承知だが、結婚式前日にあそこまでの愚行を繰り広げられては、待っているパートーナーがあまりに可愛そうに思えて仕方なかった。  そういう、米国産コメディ映画を観る上では相応しくない倫理観が先行してしまったことが、今ひとつこの映画に乗りきれなかった要因だと思う。  おそらく別のタイミングで観ればもっと単純に楽しめただろうし、今後シリーズ作を観たならば、彼らに対する愛着が深まることは明らかだとも思える。  結局は、あまりに現実離れの強烈二日酔いを押し通しただけ展開なので、ストーリー的な面白みは意外とない。 でも、ヘザー・グラハムの唐突な授乳シーンはちょっとラッキー。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-11-16 22:53:09)
613.  ブルージャスミン
ケイト・ブランシェット。現役俳優の中で最も「大女優」という呼称が相応しいと言ってもはや過言ではないだろう。 十数年来この大女優の大ファンで、彼女の出演作品を長年観続けているが、今作がキャリアNo.1の演技であったことは間違いない。 その演技を引き出したのが、ウディ・アレンである事実に、やはり“女優づかい”においてこの女好き監督に敵う者はいないと思い知る。    この映画は、喜劇だろうか、悲劇だろうか。 高慢と虚栄の果てにすべてを失った主人公ジャスミンの言動は、愚かで滑稽だ。その姿には、思わず笑わずにはいられない。 ただし同時に、栄華の極みからド底辺まで叩き落とされた彼女のさらにその先の顛末は、生き地獄そのもの。その姿には、思わず胸が締め付けられる。 詰まるところ、この映画は、喜劇であり、悲劇だ。 ありふれた言い回しを敢えて使うなら、人間の人生は悲喜劇そのものであり、描き出されるそれが生々しければ生々しいほど、喜劇と悲劇は同封されるのだろう。  主人公ジャスミンは、サイテーな人間である。それは間違いない。 けれど、だからといって彼女は「悪人」だろうか。彼女の人生を簡単に断罪できる人間が、この世の中にどれほどいるというのだろうか。 多かれ少なかれ、誰にも「虚栄心」はあるものだ。「嘘」は人間が自分を守るために許された特権かもしれない。 「サイテー」と蔑みつつも、少なくとも僕は、彼女のことを真っ向から否定することができなかった。  「栄枯衰退」なんて言葉にすれば簡単だが、それを己の身一つで体現することは生半可なことではない。 今作の“大女優”が素晴らしかったのは、栄華を極めた過去のシーンも、落ちぶれた現在のシーンも、一貫してメイクや衣装を変えずに、「虚栄」に埋め尽くされた女を演じきっていることだ。 同じ衣装やメイクが、ほとばしる鬱積とともに、みるみるくたびれ、劣化していくようだった。 「演じる」というのは、こういうことかと身が震えた。  監督の非情さを呪いたくなるくらいに、ラストはあまりに辛辣だ。 ただ、そのラストがまた主演女優の演技ともども素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2014-11-15 18:48:51)(良:1票)
614.  スーサイド・ショップ
日常生活の中で自殺が“風景”として多発する極めて陰鬱とした社会。そんな中で「自殺用品専門店」を営む家族の物語。 フランス産ならではの陰湿でブラックなユーモアに溢れたアニメーションが印象的。  まず舞台作品の映画化かと思えるくらいに、ミュージカルと舞台的な演出のクオリティーの高さが光った。 きっとこの脚本と演出のまま舞台化しても成功は間違いないと思える。  自殺が蔓延する社会の中で、それを助長する商売を生業とする主人公家族の面々。 映画の序盤、彼らのキャラクター性は、悪魔的に、ある種のファンタジーとして描かれる。 しかし、そこに彼らの存在性を根本から否定する天使のような次男が生まれ、この家族の人間性があらわになる。 悪魔的な陽気さが、実のところ陰鬱とした世の中を生き抜くために彼らが選ばざるを得なかった手段だということが描き出され、このファミリーの悲しさが見えてくる。  映画の中盤、店主と自殺志願者のやりとり。  「この“面倒”にもう耐えられない」 「“面倒”とは?」 「人生さ」  自分はまだ30年余りしか生きていないが、このやりとりは身につまされる。 世界中の誰しもが、その“面倒”と葛藤をし続けていることだろう。 ただそれでも、“生き続ける”こと以上に意味深いことなどないと、この奇妙なアニメ映画は高らかに歌いあげる。 ストーリー展開は稚拙ではあったけれど、語り口そのものには好感が持てた。   店主の名前が「ミシマ」。自殺の方法にやけに“ハラキリ”を推奨し、日本刀を振り回すこのキャラクターのモデルは、完全に三島由紀夫だよな……。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2014-11-15 09:31:12)(良:1票)
615.  2ガンズ
ストーリーテリング的には“いかにも”なクライムアクションもので、さほど目新しさはない。 ただミスマッチに思えたデンゼル・ワシントンとマーク・ウォールバーグの食い合せは、意外と悪くなかった。  デンゼル・ワシントンはこのところの出演作でのお決まりの役どころを、好意的に捉えれば安定的に、悪く言えば工夫なくこなしていた。 一方、マーク・ウォールバーグは、個人的にこれまでそれほど魅力を感じてこなかったハリウッドスターだが、先日「テッド」を観たばかりということもあり、演者としての幅の広さを感じることができた。 ヒーローからダメ中年、エリート軍人からレンタカー店員まで、役どころに対する柔軟性こそが、このスター俳優の「売り」なのだろう。  その他のキャスト的には、紅一点のポーラ・パットンが前々から気になる女優で、今作でも魅力的な雰囲気を醸し出していたのだが、最終的には決して“おいしくない”役どころが残念だった。 彼女にまつわる顛末がもっと小気味よかったなら、映画全体の印象が変わったことだろう。  最終的な顛末については、現される「巨悪」に対してそれで済まされるのか?という感じだが、そもそもB級クライムアクションとして観れば、充分楽しめると思う。  ただし、デンゼル・ワシントンにおいては、そろそろB級アクションを連発することは控えて、どしっと腰を据えた力作に挑んでほしいものだ。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-11-15 09:23:40)
616.  エクスペンダブルズ3 ワールドミッション
行ってまいりました三度目の“MATSURI!(祭り!)”へ。 いやあ……凄い。素晴らしい。  前作の時点で思い知ったことだが、もはやこのシリーズに対して「難癖」なんてものはつけられない。 “普通”の映画であれば、卑下の対象になるであろう粗という粗を通り越して、この“普通じゃない”映画の後に残るものは、「感謝」そして「感動」である。  三度、シルベスター・スタローンという“映画人”に惜しみない感謝を捧げなければならない。 この人の映画人としての見地の確かさと、アクションスターとしての生き様を全うする格好良さには、改めて脱帽。そして心の震えが止まらない。  スタローン、シュワルツェネッガー、ステイサム、ラングレンらレギュラーメンバーに、今作新たにキャスティングされたは、ウェズリー・スナイプス!アントニオ・バンデラス!ハリソン・フォード!そして、メル・ギブソン!! こうやって自分で彼らの名前をタイピングしていくだけでも高揚感が半端ないのに、そんな大スターたちが、見紛うこと無くスクリーン上でぶつかり合っているのだ。80年代から90年代にかけてのアクション映画で育ってきた映画ファンにとって、こんな幸福なことはない。  まずもって、あの映画ポスターは何だ!最高すぎるだろうよ! 出演者たちが勢揃いで会心の笑顔を見せているアレだ。 スタローンをはじめとするエクスペンダブルズの仲間たちが笑顔を見せているのはまだ分かる。しかしそこには今回完全なる悪役であるはずのメル・ギブソンまでも、彼らしい素敵すぎる笑顔を見せて並んでいる。 そこには、確実に一世を風靡したスターたちが、それぞれの栄光と挫折、紆余曲折を経て、この場に会せることに対する心からの喜びがほとばしっているようだ。 映画内の敵味方なんてどうでもいい!俺達は嬉しいんだ!!と。    スター俳優として人気が高まれば高まるほど、その後の凋落は決して避けられないものなのかもしれない。 スタローンが集めたすべてのスター俳優たちは、その辛酸を特に舐め続けてきたことだろう。 ただ、そんな彼らが、今一度アクションスターとしてスクリーンに戻り、嬉々として立ちまわっている。 その姿は、もはや涙なしでは見られない。(バンデラス!やったぜ!)   さあ!隊長!もうどこまでも着いていきます! 次の敵は満を持しての“沈黙の無敵男”ですかね!?
[映画館(字幕)] 8点(2014-11-09 23:28:53)(良:2票)
617.  テッド
二日酔いが地味に残る日曜日の午前中。 朝からの降雨も手伝い、食事を買いにコンビニに出かけることも億劫だったので、午前10時から宅配ピザを頼んだ。ペプシコーラを飲みながらダラダラとこの映画を観た。 映画は評判通りにしょうもなくて、その“体勢”で観るのに相応しかった。 この映画にとってその評は、とても的確な褒め言葉だと思う。  ストーリーは想像以上にくだらなくて、繰り広げられる殆ど「悪態」に近いブラックユーモアは、必ずしも笑いの連続というわけではない。 素直な可笑しさが思ったよりも少ないのは、文化の違いによるものかと思ったが、実際はアメリカ本国でも失笑の連続だったようだ。  すなわちこの映画は、決して完成させれたユーモアを楽しむ類いのコメディ映画ではなく、つくり手があまりに個人的な趣向を全面的に押し付けてくる粗くゆるいコメディ映画なのだと思う。 失笑はおろか怒りさえ禁じ得なかった人も少なくなかったろうけれど、そのようにある意味意識的に「間口」を狭めたことも、つくり手のねらいだったろうと思える。  笑いたきゃ笑え、怒りたきゃ怒れ。そういう“開き直り”の精神が、この映画には満ち溢れているように見える。  こういうある種の危険性も孕んでいる馬鹿馬鹿しい映画にも、しっかりとスター俳優が揃い、大物ゲストが顔を出すあたりに、やはりアメリカという国の文化の豊かさを感じる。  ただひとつ言っておきたいのは、この映画において、まさしく「奇跡」と呼べるキャラクターは、しゃべるクマのぬいぐるみ“テッド”などではないということ。  世界中のボンクラ男子にとって「女神」としか言い様がない、ミラ・クニス演じる“ローリー”こそ、完全なる空想の産物であり、もし存在するならそれは「奇跡」としか言い様がない。  強烈なぬいぐるみ以上に、希少なヒロインに萌えた。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-11-09 14:02:46)(良:1票)
618.  ある日どこかで 《ネタバレ》 
表面的に綴られたストーリーは、あまりに稚拙であざとい。  しかし、その裏に見え隠れする「意図」に気がついた時、この映画に対する価値観は一変した。 その意図が、真の狙いか、偶然的なものかは定かではないけれど、結果的にちょっと“深追い”したくなってしまう作品であることは間違いない。  「思念」のみで時空を時空を越えるというアイデアが持つ脆さと深さ。 一見すると、ストーリー的にはあまりに稚拙で、中盤からラストにかけての顛末も陳腐と言わざるをえない。  しかし、鑑賞後、ふとある疑念が浮かび上がってきた。 すなわち、主人公にとってこの物語は果たして「現実」だったのか?という疑念だ。 スランプに苦しむ劇作家が、ふと訪れたホテルで肖像画の美女に盲目的な恋をし、その“焦がれ”のみで時空を越えようとした「妄想」だったのではないか。  「妄想」というキーワードが浮かび上がると、稚拙で陳腐なストーリー展開も途端に腑に落ちてくる。 主人公の独善的な“願望”なのだから、整合性もリアリティも関係なくなってくる。  実際にはこの映画の顛末に、そのような「妄想」を暗示する要素はないけれど、描かれる「時間移動」に明確な根拠がないからこそ、この映画世界において、「現実」と「妄想」の境界は曖昧になる。  主人公を演じるのは、元祖「スーパーマン」のクリストファー・リーブ。 彼の「スーパーマン」以外の映画を観るのはこれで二作目だが、改めて非常に良い俳優だったのだと思えた。 類まれなルックスは勿論、その俳優としての息吹は、はまさしく映画スターのそれであり、もし存命であったなら若い頃とは違った存在感をスクリーン上で見せてくれただろうと残念でならない。   すべてが主人公の妄想と錯乱だと考えたなら、それはあまりに悲しいけれど、その悲しさに対比するようなあまりに美しい“うつつ”に、心が惑い、やがて締め付けられる。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2014-11-02 01:09:44)
619.  黒い罠
恥ずかしながら、初めてオーソン・ウェルズの監督作を観た。 冒頭の長回しは勿論のこと、随所に散りばめられた映画手法は、まさに革新的かつ秀麗。 50年前にこのような多彩な映画手法を生み出した天才が、もし今現在に蘇ったなら、一体どんな「革新」を打ち出し、映画という表現を進化させて見せてくれるだろうか。 そんな夢想をしてしまう。  ただ、この作品のストーリー展開そのものは、大味というか曖昧さが目立った。 特に主人公二人のキャラクター性があまりに大雑把に思えた。 チャールトン・ヘストン演じるメキシコの麻薬捜査官は、輝かしい実績を持った英雄らしいが、どうにも箔がなく、相手役の大物ぶりも相まって小物感が払拭しきれていなかった。 一方、その相手役であるオーソン・ウェルズ演じるアメリカのベテラン刑事は、その豪胆な存在感は抜群だが、結局過去の栄光にすがった小悪党の域を出ず、展開に伴いトーンダウンしてしまっている。 この二人の人間性が、ストーリー上でも濃密に描き出されていれば、同じストーリーテリングであったとしても印象は大きく変わっていたことだろう。  しかし、そんなストーリーそのものへの”ケチ”も、オーソン・ウェルズという映画史に燦然と輝く巨星は、自らの演出と演者としての存在感で蹴散らしているようにも思える。 緻密に計算され尽くされた画作りによる緊張感と緊迫感は、ストーリー展開すらも無視して観る者を圧倒する。 この巨星が、現在の「映画」そのものを生み出したと言っても決して過言ではないのだろう。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2014-10-26 21:21:58)
620.  ダラス・バイヤーズクラブ
きっとこの世の中には、人が人らしく当たり前に生きるための“障壁”となっている“決まり”がまだまだ沢山あって、自分自身も含めた人々は、そういうことを知らなかったり、気づかないふりをしているのだろう。 “障壁”を受ける当事者だけが、それの解消に文字通り「生命」を懸けなければならない世界では、あまりに生き辛い。  主演俳優があたかも実際に「生命」を削ってみせているような名演で表されたこの映画は、ある日突如として過酷な運命を背負うこととなった一人の男の奮闘と、彼自身さえも含めた社会の無知と傲慢を訴えてくる。 そして、エイズ患者ばかりではなく、同性愛者、低所得者、社会における不遇を受ける人々の感情を多層的に映し出していると思えた。  ただ一方で、多層的な構造は、図らずもこの映画の主軸で描かれるものが必ずしも正論ではないことを垣間見せる。 主人公が巻き起こしたムーヴメントは、社会の矛盾に風穴をあけたことは確かだろう。しかし、文字通りに進退窮まった状況での苦肉の策であったことも事実。  果たして、彼の行動によって、彼に関わった人々は真の意味で救われたのか、その後の社会は救われたのか、そして彼自身は……?、そういう本質的な部分にもう少し踏み込んでくれたなら、この映画は更に傑作になり得たと思う。  とは言え、この映画世界に息づいてみせた俳優たちの演技は物凄かった。 マシュー・マコノヒーとジャレッド・レトは、文字通り「生命」を懸ける様を演じ切ってみせている。 両俳優の一挙一動を追うだけで、映画を観るということの満足感は満たされるだろう。
[DVD(字幕)] 7点(2014-10-19 23:47:18)
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