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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2640
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 44歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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701.  それでも夜は明ける
最終盤、この映画は数十秒間の不思議な長回しを映し出す。 主人公が、悲しみとも喜びともつかない表情を浮かべ、それが微妙に変化する様を延々と映し続ける。 その表情が何を表していたのか、明確にはならない。 しかし、強烈に惹き付けられ、次第に彼と二人っきりで対峙しているような感覚さえ覚えた。  そのロングカットが表していたものは、徹底的なまでの「無力感」と、それと共にただひたすらに流れた「時間」そのものだったのではないかと思う。  結局、この映画の主人公は“何もできなかった”。 彼が生き延びることができ、元の人生に生還できたのは、ただ「運」が良かっただけだ。  度重なる私刑で息絶えていたかもしれない。 逃亡して奴隷ハンターに惨殺されていたかもしれない。 手紙は届かずまた裏切りにあったかもしれない。 そしてついに絶望し自ら命を絶ったかもしれない。  そう、彼以外の無数の奴隷たちのように。  たまたま運が良く生き延びた彼は、たまたま運が良く救いの手が差し伸べられた。 しかし、それは彼ただ一人に限った話であるという「現実」。 当然そこには生還したことに対してのカタルシスなど微塵も無かった。 農園主の偏愛により虐げられ続けた“パッツィー”が解放されることは無かっただろうし、子どもと引き離された母親は一生再会することはなかっただろう。  あまりにも愚かしい不条理に対しての徹底的な無力感。主人公が絶望の果てに感じ取ったものは、それ以外の何でもなかったのではないかと思える。  この映画は「奴隷制度」の非道さをただ描いているわけではない。 この映画が描き出したものは、「時代」に関わらず、「人間」の営み総てに通じる、愚かで悲しい「業」だったと思う。  虐げられる者と虐げる者、その両者の表情から滲み出ていた悲しさと愚かさは、対を成し、その根本は皮肉にも同じもののように思えた。  人間は、どこまでいっても自分を守ることしかできない。それはもうどうあがいても揺るぎようのない本質だろう。 誰しも、どの時代であっても、人間は己のその本質に対して、時に抗い、時に受け入れ、闘い続けるしか術を持たないのだと思う。   「奴隷制度」は決して過去のものなんかではない。 そして、それの廃絶は人間にとって決して安易なことではないだろう。 この映画は、世界中の人々が自分自身のこととして痛み入るべき作品だと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2014-05-24 01:24:45)
702.  SHAME -シェイム-
ベッドに仰向けに横たわる主人公が目を見開いているファーストカット。 映像が静止しているのか、もしかしたらこの人物は絶命しているのかとすら思ってしまう程、彼の瞳に光は無い。 無気力なまま起き出した彼の後に残る乱れたシーツを背景にメインタイトルが浮かぶ。 その冒頭数十秒のカットを観ただけで、この主人公の“悲しさ”が染み入ってくるようだった。  映画全編において繰広げられるものは、ただただひたすらな“セックス”。 やってもやっても満たされない。悲しく、狂ったようなセックスシーンに丸裸にされた感情が掻きむしられ、痛い。そして、涙が滲み出る。 ただ無様に性欲の衝動に溺れる主人公の姿が、悲しくて、辛い。  見紛うことなきセックス依存症。彼がそうなってしまった理由とは何だったのか、彼が本当に「依存」していたものは何だったのか。 彼がひた隠しにし続ける「shame【恥部】」は、ついに明らかにはされない。 ただし、彼のありのままの姿を終始見せつけられた観客は、その真相を“予感”せずにはいられない。 その“予感”に対して、また深く悲しくなる。  手塚治虫の短編集「空気の底」の中の一編に「暗い窓の女」という作品がある。この映画を観て、真っ先に思い出されたのは、この短編だった。この短編に限らず、手塚治虫の作品には“あるモチーフ”が度々描かれる。 監督スティーブ・マックイーンが、手塚治虫の漫画を読んだことがあるのかどうかは不明だけれど、この物語感覚の類似は非常に興味深かった。  何と言っても主演のマイケル・ファスベンダーが素晴らしい。文字通りに“すべてを曝け出している”その姿は、どこまでも痛々しく、滑稽で、“人間”とは何て悲しいんだと思えてならなかった。 そして、彼がここまで曝け出すことが出来ているのは、スティーブ・マックイーン監督への絶大な信頼が礎にあるからこそだろう。それを引き出し、完璧に仕上げたこの新鋭監督の力量はまさしく本物だ。  「私たちは悪い人間じゃない。悪い場所にいただけ」と、妹は兄にメッセージを残す。 主人公は冷たい雨の中さめざめと泣き伏せる。 果たして、彼は「依存」から逃れるための答えを見出すことが出来たのだろうか。 それすらも敢えて明確にせず、主人公の不穏な表情を映し出したまま映画は終幕する。  凄い。  観賞後シャワーを浴びながら、ざわざわと惑う心情を必死になだめた。
[DVD(字幕)] 10点(2014-05-11 16:44:21)
703.  深夜の告白(1944)
不倫、殺人、保険金詐欺、今やあまりに使い古されたサスペンスの古典的展開。その先駆けであり、源流となったとも言える70年前の映画。映し出される映画世界は当然古臭い。しかし、退屈感など微塵も感じさせず、フィルム・ノワールの世界に観る者を没頭させる。  ビリー・ワイルダー監督の作品を幾つか観てきているが、驚く程にハズレが無く、みな傑作である。 真っ当な映画ファンからすれば、この映画史上最高の映画監督の作品が傑作揃いであることなど至極当然のことなのだろうけれど、50年以上前の映画の殆どにおいて、今観ても退屈に思う部分が無く、むしろ新しさすら感じてしまうことは、奇跡的なことだと思える。  そのビリー・ワイルダーと、ハードボイルド小説の偉人レイモンド・チャンドラーが組んで脚本が執筆された本作。当人同士の関係性は決して良好では無かったらしく、脚本の執筆は難航したらしい。 それでも書き上げられたこの映画の脚本の質の高さは素晴らしく、これまた奇跡的に思える。  原題は「Double Indemnity」。劇中でもキーポイントとなる「倍額保険」の意。 欲を重ねた人間たちの愚かさと虚しさ、その末路がしなやかに映し出されていた。  良心の呵責、友人に対しての裏切り、情愛のもつれ……描き出されるテーマ性も、今や当然の如く使い古されている。しかし、それらもあたかも初めて触れる人間模様かのように心に染み入ってくる。  脚本の素晴らしさは前述の通り、その世界観を映し出す秀逸なカメラワークと演出、その中で息づく俳優たちの存在感、「映画」を彩るすべての要素が「上質」の一言に尽きる。 いやあ、名作だ。ビリー・ワイルダーの映画を観ると、いつも「名作」という言葉の意味を知ることになる。
[インターネット(字幕)] 9点(2014-05-10 13:59:24)(良:1票)
704.  REDリターンズ
大ヒットした前作は、個人的には“消化不良”だった部分が多く、分かりやす過ぎる程に魅力的なコンテンツに反して、不評を禁じ得なかった。 そもそもグラフィックノベルが原作なのだから、現実味なんて微塵も意識せずに、もっと“マンガ的”に最後の最後まで突っ走れば良いのに……と惜しんだことをよく覚えている。  そんなわけで、それほど期待もしていなかった続編だったが、この想定外の面白さは、劇場で観なかったことを後悔させる程だ。 前作で感じた消化不良感を見事に解消してくれていることが嬉しい。 アクションシーンも、コメディシーンも、この映画のコンテンツに相応しく振り切れていて、本来見たかった“娯楽性”をしっかりと見せてくれている。  ストーリー自体は、前作と同様に、“取って付けた”という表現が相応しいほどに薄っぺらい。 ただし、この映画に関しては、ストーリーなんて正直どうでもいいと思える。“それっぽい”展開をその場しのぎの説得力だけで繰り広げてくれれば充分だ。 何故ならば、このコンテンツは、それを補って余りあるキャストの魅力で支えられているからだ。  ブルース・ウィリス&ジョン・マルコヴィッチのハゲ親父コンビの安定感と存在感は抜群。 ヘレン・ミレンのガンアクションは相変わらず“ズル過ぎる”し、この大女優にあの“女王”ネタをヤらせるのは、更に“反則”だ。 キャリン・ゼタ=ジョーンズ姐さんのロシア将校には萌えずにはいられない。(彼女の顛末は大いに不満だが……) そして、アンソニー・ホプキンスに最凶のマッドサイエンティストを演じさせるという、これまた反則的に間違いない恐怖感。 そりゃあ面白くなるに決まっている。  でも、今作の娯楽性を高めたハイライトは、そんな豪華絢爛なキャスト陣をある意味従えて強く印象づけた“ヒロイン”の存在感だ。 前作に引き続きメアリー=ルイーズ・パーカー演じるこの“地味”なヒロインが見せる想定外のハジけっぷりこそが、今作の最大の娯楽性であったと思う。  前作の素地があったからこそ深まったこの続編の面白さだと思うが、一気にこのシリーズのキャラクターたちを好きになってしまったことは嬉しい誤算だ。 きっとこの愛着はシリーズが続く程深まる類いのものだろう。ブルース・ウィリスをはじめまだまだしぶとそうな爺さま、婆さまたちの続投を期待したい。
[インターネット(字幕)] 8点(2014-05-10 01:21:24)(良:1票)
705.  ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘
ゴジラシリーズのファンなので、この作品のタイトルは勿論知っていたが、シリーズ中もっとも興味が薄い作品だったと思う。 その最たる要因は、やはり、「エビラってなんだよ!」というところ。 今さらエビの怪物が登場したところで、娯楽性が生まれるとは到底思わなかった。 そして、予想通り、“エビラ”に関しては、ゴジラに対峙する相手としてのインパクトはほぼ無い。  ただし、映画としてのつくりは、意外な程に真っ当だったと思う。 主人公たちが偶然流れ着いた孤島で繰り広げるアドベンチャーには、思ったよりもちゃんとした娯楽性があったように思う。 エビラはもとより、作品の顔である筈のゴジラや、ゲスト出演感が強いモスラを、敢えてストーリーの脇に据え、主人公チームと謎の秘密結社との攻防に主軸を置いた展開が、功を奏していた。  「南海の大決闘」と銘打ちながらファーストシーンでは恐山のイタコが登場したり、シュール極まりない「耐久ラリーダンス大会」など、善し悪しは別にして変わった味わいがある作品に仕上がっていることは間違いない。  一方で、雷で復活するゴジラの描写や、意外に悪くはないエビラの造形など、怪獣映画としても決して見応えがないわけではない。 またシリーズ第一作「ゴジラ」で芹沢博士を演じた平田昭彦が、同役を彷彿とさせる眼帯姿で悪役を演じるなど、配役にも面白さがあった。  ハードルをグッと下げて観たからという前提は取り除けないし、出来のいい作品ではないが、ゴジラシリーズファンならば決して観ておいて損はない作品であるとは思う。
[インターネット(字幕)] 5点(2014-05-07 23:06:59)(良:1票)
706.  怪獣総進撃
ゴジラシリーズは一通り鑑賞していたつもりだったが、改めてチェックしてみると、未鑑賞の作品が数本あった。今作もそのうちの一つだった。 富士山麓にゴジラをはじめとする怪獣たちが勢揃いしている画のイメージが強かったので、てっきり鑑賞済みだと誤認していたようだ。  ゴジラ映画は大好きだ。ただし、ファンだからこそ、このシリーズの大半の作品が目も当てられない駄作揃いであることもよく知っている。 特に1960年代後半から70年代にかけての、ゴジラという怪獣を“ヒーロー化”してしまっている文字通りに子供騙しの作品群は酷いものだ。  今作も、その“期待”に違うことなく、しっかりと「駄作」であった。 何と言っても、冒頭から既成事実として描き出される“怪獣ランド”なる設定が失笑ものだ。 いつから人間は怪獣たちを一括りにして管理出来るほどのテクノロジーを持ったのだ? もう怪獣映画そのもの対しての概念が滅茶苦茶である。  極めつけは、キラアク星人に召還されるキングギドラの扱いが酷過ぎる。 例によって最強の宇宙怪獣として登場したはいいものの、結託した地球怪獣チームによって殴る蹴る噛み付くの“リンチ”状態。ちょっと引いてしまうくらいにズタボロにされて絶命て……。  でもね。もはやゴジラ映画のファンとしては、こういう駄作っぷりにすら愛着を持ってしまうもの。 駄作であれ何であれ、シリーズと連ねてきたからこそ、傑作も生まれたわけだろうし、何よりも今なお「ゴジラ」と聞いて知らない人がいないほどの日本映画史におけるアイコンであり続けているのだと思う。  今年はハリウッドでの再リメイクもあるし、今一度ハマってみるかな。
[インターネット(字幕)] 3点(2014-05-04 23:02:35)
707.  イリュージョニスト(2010) 《ネタバレ》 
ひとり列車で去っていく老手品師の感情を追うように、街の光が一つずつ消えていくラストシーンを見終えて、一寸の間、心に空虚感が漂う。 あまりに悲し気な終幕に、突き放されたような印象さえ覚えるが、必ずしもそうではないことに気づく。  じっくりと落ち着いてみることが出来なければ、誤解を生みやすい作品であることは間違いない。けれど、このアニメーション映画は紛れもない傑作だ。  主人公の老手品師は、人格者のように見える。 実際、この作品の中の年老いた彼はそうなのかもしれないけれど、“マジック”という一芸一つで長い年月を生きてきた彼という人間の根本にあるものは、もっといい加減で、危ういものだと思う。 もしかしたら、それが原因で己の娘とも生き別れなければならなかったのかもしれない。 そして、その心に染み付いた空虚感と孤独を埋めるために、ふいに出会った田舎娘に自分の娘を重ね合わせていたのかもしれない。  そこには、手品師の悲哀、芸人の悲哀、“それ”しか生きる術を知らない者たちの決して拭いされない「孤独」が満ち溢れていた。  とても悲しくて、切ない。 この作品で描き出される田舎娘との交流も、意地悪な見方をすれば、貧しい老人に無知な少女がたかっているように見えなくもない。 本当にそこに“心の交流”があったのかということも疑わしくなってくる。  しかし、たとえそうだったとしても、老手品師は「満足」だったろうと思う。 己一人が生きるためだけのものだった“マジック”が、最後の最後で、一人の少女を“未来”へと導いた“マジック”になった。 その様を見たことで、彼は自分の手品師としての「役割」が終わったことを知ることができたのだろう。  すべてを手放して列車で旅立つ老手品師。 同席した幼女がお絵描きのちびた鉛筆をなくす。 彼は一瞬、マジックで自分の長い鉛筆を彼女に差し出そうか迷う。 しかし、彼はそうせずに、短くちびたそのままの鉛筆を幼女に返す。  マジックとの決別は、彼自身の人生との決別のようにも見える。 やはり、悲しく切ない。でも、なんだかあたたかさも感じる。  “赤い靴”を与えられたことで、田舎娘は外の世界へ踏み出すための「意思」を得た。 それは必ずしも幸福なことばかりではなかったのかもしれないけれど、それでも人生は悪くないと思える。 
[インターネット(字幕)] 9点(2014-05-03 15:44:26)
708.  アメイジング・スパイダーマン2 《ネタバレ》 
勢いよく飛び出した蜘蛛の糸が、ヒロインを救うために伸びる。 この“スーパーヒーロー”のどの作品にも描かれているお決まりのシーンの筈だが、“糸の先”が必死に伸ばした小さな手のように映し出される様を見て、突如としてその先の“悲しみ”が脳裏をよぎる。   前作に続き、ヒロインを演じたエマ・ストーンが、最初から最後までどのシーンにおいても、可愛く、美しい。 ヒロインのその存在感こそが、この映画の総てだと言ってしまって決して過言ではないと思う。 なぜならば、マーク・ウェブ監督が描き出したこの“スパイダーマン”は、決してヒーロー映画ではなく、若い男女を描いた恋愛映画であり、青春映画だからだ。 前作でも感じたことだが、派手なアクションシーン以上に、おおよそアメコミヒーロー映画らしくないただのデートシーンが矢鱈に印象的ことからも、それは明らかだ。  主人公をはじめ、登場人物たちの行動原理はとても浅はかだ。 約束は守れないし、一度決めたこともその場の気分ですぐに覆す。 彼らの軽薄さと危うさは、そのままこの映画全体の脆さに繋がっているようにも見える。  しかし、僕はその部分こそが、この映画の最大の魅力だと思える。  軽薄さも危うさも、見ていて気恥ずかしいまでの青臭さも、それらはすべて若者たちに与えられた「特権」だ。 常に揺れ動く“不確かさ”こそが、この映画におけるリアリティであり、他の映画にはないオリジナリティだと思う。   特に自覚もなく“大人”になったばかりの彼らが選んだ「道」は、あまりにも堪え難い悲劇だった。 しかし、その悲しみも、後悔すらも、彼らに与えられた権利であり、誰が非難出来ることではない。 ただ、その選択をした“本人”だけが、ひたすらに悲しみ、ひたすらに後悔し、絶望に沈むことが出来る。 だからこそ、絶望の淵から再びマスクを被り、少年の前に立つヒーローの姿に胸が熱くなった。   原作でのヒロインの顛末は知っていたので、“そのこと”自体に対しての驚きはさほどなかったけれど、想定以上にその後の自分自身の落ち込み具合が大きいことに気付いた。 それも、このシリーズが前作から通じて描き連ねてきた、“若さ”に対しての希望と、それと隣り合わせの脆弱さが結実した結果だと思う。  ヒーロー映画としての最大の“タブー”をしっかりと描き切ったこの映画の勇気、その価値はとても高い。
[映画館(字幕)] 9点(2014-05-02 00:41:02)(良:3票)
709.  キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー
前作「ザ・ファースト・アベンジャー」は、当時公開間近だった超大作「アベンジャーズ」の布石であり前日譚である要素が強く、単体としては娯楽映画の魅力に欠けていたことは否めなかった。 ただし、「前日譚」と割り切っている以上、この映画のあり方はまったく問題なかったと今となっては思うし、「アベンジャーズ」でのキャプテンの存在感を目の当たりにした後では、この一連のマーベル作品シリーズの中でも極めて重要な作品だと思える。  そうして、再びマーベルの“大祭”第二弾を控え、満を持しての続編。前作と同様に布石、前振り的な要素は大いにある。 しかし、今作は前作と比較すると圧倒的に主人公キャプテン・アメリカのキャラクター性が完成している。  彼が“アベンジャーズ”の中で最も「地味」なキャラクターであることは言うまでもない。 純粋な戦闘能力としてのタイマンなら、ソーは勿論のこと、アイアンマンやハルクの足元にも及ばないだろう。 ただそれでもチームのリーダーは、“キャプテン”を置いて他にいない。 それは、彼の最大のストロングポイントが、決して人体実験で生み出された超人的パワーなどではないからだ。 キャプテン・アメリカとなる前の一兵卒スティーブ・ロジャーズ本人が持つ揺るがない「正義感」こそが、このスーパーヒーローの最大のストロングポイントであり唯一無二の武器なのだ。  そのキャラクター性は、あまりに理想主義的で、あまりに青臭い。 でも誰も彼のことを否定などできない。  エネルギー破など出せず、飛ぶことも出来ない。 けれども決してひるむことなく、ひたすらに走り、ひたすらに盾を投げつけ、ひたすらに投げた盾を拾い、ひたすらに敵を叩く。 その姿を見て、どのヒーローも本質的な部分において「彼には敵わない」と思うのだろう。  勿論、弱みを突かれてのピンチには事欠かない。 ただしいつも彼には強力な仲間がいる。 真面目さが仇になるとあらば、ブラック・ウィドウが世渡りと危険回避の巧みさでフォローするし(あとガールフレンドの斡旋も)、空が飛べないとあらば、新戦力ファルコンが翼を与える。  自らが勝利する必要はない。結果として正義が悪に打ち勝てばそれでいい。 それが、キャプテン・アメリカというヒーローなのだ。  そういうことを、きっちりと“生真面目”に映し出すこの映画が面白くないわけがない。     (2018.5.12 再鑑賞)  この「キャプテン・アメリカ」の第二弾が、MCUの本流ど真ん中を紡ぐ作品でありながら、映画単体として非常に高評価を得たのは、ポリティカルサスペンスとしてのテーマの鋭さに尽きる。  即ち、「正義」を司る組織として存在していた“S.H.I.E.L.D.”が、実のところその中核的なところから「悪」によって動かされていたという、あまりにも虚無的な事実。 もはや、何が「正義」で、何が「悪」なのか。その言葉の意味すら曖昧になり、濃く深い霧の中に入り込んでいくような感覚。 そしてそれが、荒唐無稽なフィクションである筈の映画世界を超えて、現実世界の実情とリンクしてくるという絶望感。  ただ、そんな混沌とした状況だからこそ、我らがキャプテンは最後の最後まで、「親友」を見捨てることが出来なかったのだとも思う。 その感情は、この無慈悲な世界において、あまりにも不確かで危ういことだけれど、人間に唯一残された希望のようにも思える。  それは、70年の時を経て、変わらぬ愚かな世界の混沌の中で、「正義」の意味を背負い続けるヒーローが語るに相応しいテーマ性だ。
[映画館(字幕)] 9点(2014-04-28 00:01:37)(良:3票)
710.  プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命
誰しも、本当は“真っ当”でありたい。 悪に染まることなどなければ、勿論それに越したことはない。 でも時にそういうわけにもいかなくなるのが、この世の常。 「正義」と「悪」、本来相反するものである筈のその狭間で苛まれ、持って生まれた血脈と宿命に対峙する人間たちの生き様。その行き着く先に涙する。  結局、与えられた「宿命」が何であれ、「行動」を選び取るのは当人自身であり、結果として何が起ころうとも何が起こらなかろうとも、それが“生きる”ということなのだと思える。  タイトル「The Place Beyond the Pines」は、「森林の向こう側」という意味。 薄暗く、すぐに出口を見失いそうになる鬱蒼とした茂みを越えて、彼らが辿り着いた場所は何だったのか。 終始“いやな予感”しかしない映画世界だったけれど、最後の最後、走り去って行く若き主人公の背中には、ほんのわずかではあるが、希望じみた光が見えたような気がする。  「ブルーバレンタイン」おいて、残酷で美しい男と女の身につまされる関係性を描き出したデレク・シアンフランス監督の才能は、今作によって疑いの無いもになったと思う。 前作同様に、残酷なまでに美しい映像美とカメラワークによって、俳優の演技力というよりも、描き出されるキャラクターの実在感を導き出して見せている。  前作に引き続きタッグを組んだライアン・ゴズリングの存在感は言わずもがなだが、一幕目のヒロインを演じたエヴァ・メンデス、二幕目の主人公を演じたブラッドリー・クーパーらも、他の映画では見られない“表情”を見せており、素晴らしかった。  ただし、個人的には、ライアン・ゴズリングよりも、ブラッドリー・クーパーよりも、三幕目の主人公を演じたデイン・デハーンが最も印象的だった。 作品の結論を成す三幕目なので印象度が強いことは必然だとは思うが、登場のファーストカットを見た瞬間にちょっと唸ってしまった。 昨年鑑賞した「クロニクル」で既にその才能は認識していたけれど、レオナルド・ディカプリオの「陰」の要素を爆発的に増大させ、今にも満ち溢れんばかりのバランスで場面を支配するこの若い俳優の存在感は、この先さらに特別なものになり得るだろうと断言せずにはいられない。  監督と、三者三様の主人公を演じた俳優たちを筆頭に、これからの映画界の根幹を成していくだろう才能が結集した、エポックメイキングな映画だと思う。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2014-04-19 23:23:18)(良:1票)
711.  プラチナデータ 《ネタバレ》 
「駄目」と言える要因は山ほどあるが、先ず一番のマイナス要素は、主演のアイドル俳優の画的な見栄えの悪さだ。 二宮和也のルックスや雰囲気は主人公のキャラクターに合っていたとは思うが、いかんせん小さ過ぎる。相手役が豊川悦司なもんだから、そのチビさが殊更に際立つ。 役柄的にガタイが良い必要はないのかもしれないが、主人公の背格好のみすぼらしさは、それだけでこの映画を馬鹿にしたくなる要因になる。  と、言ってしまうと、まるで“ニノ”一人がこの映画の戦犯のように思われるかもしれないが、勿論そんなことはない。 万が一主演がレオナルド・ディカプリオだったとしても、この映画が駄作であることは揺るがないだろう。(まあディカプリオが主演ならば、自ら製作を担って、スコセッシ監督を呼んで傑作にしてしまうだろうが……)  東野圭吾の原作は未読だが、ストーリーそのものが決して褒められたものではない。 映画のストーリー展開が原作通りなのならば、流行作家の神通力もいよいよ落ち目なのだろうか。 主題であるDNAによる犯罪捜査と、この物語の“真相”は、衝撃的には見えるが、あまりに食い合わせが悪く、サスペンスとしてアンフェだと言わざるを得ない。 物語としての整合性が伴わないまま、科学を超えた人間のドラマなどを謳われても、正直シラケてしまうばかりだった。 文体ではもう少し情感的に表現が出来ているのだろうが、この“シラケる感じ”は、過去の東野作品の中でも幾度か見受けられたものなので、原作自体の出来もたかが知れているのだろう。  と、言ってしまうと、原作そのものが悪かったことがこの映画が駄作である理由と一括りにされそうだが、決してそういうわけでもない。 DNA操作、遺伝子論、精神医学、アナログとデジタルの対峙、これくらいの要素が揃っていれば、“オチ”のマズさはあったとしても、面白い映画的展開は出来たろうにと思う。 主人公の上長の刑事がロリポップを舐めながら登場する。何らかの特徴を持たせたキャラ設定をしたかったのだろうが、あまりに稚拙で失笑してしまった。 それは映画全体にとっては極めて些細なことだけれど、そういう稚拙さがすべての演出に垣間見えることは否めない。  誰か一人が悪いわけではなく、それぞれが少しずつ確実に見せてしまった稚拙さが、映画全体を覆ってしまっているような、そんな残念さに溢れている。 
[地上波(邦画)] 2点(2014-04-16 22:52:51)
712.  ウルヴァリン:SAMURAI 《ネタバレ》 
結構な“トンデモ映画”であることは覚悟していたのだが、想定を遥かに超えた駄作っぷりに「あ、ああ…そう…」と苦笑いするしかなかった。  個人的に、「ファースト・ジェネレーション」、「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」と鑑賞して、それまでテンションが上がり切らなかった同シリーズに対しての評価が急上昇していたところだっただけに、今作の出来映えは正直ショックだ。  「SAMURAI」と銘打たれた今作において、決して褒められたものではない“おかしな日本描写”のオンパレードであること自体には、怒りは無い。 むしろ、主演のヒュー・ジャックマンをはじめとして、製作陣が「日本」という異国の文化に多大な興味を持ち、愛してくれていることは充分に伝わってくるので、とても微笑ましく思える。 外国の映画なのだから、外国の人たちが「見たい日本」を描いてくれればそれでいいのだ。  問題は単純で、アメコミヒーロー映画としての面白味が全くないということに他ならない。更に言うならば、「X-MEN」という素材が本来持つ娯楽性を全く描き出せていないということだとも思う。 その原因も簡単。主人公のウルヴァリンが、彼のミュータントとしての特性である治癒能力を抑えられ、強制的に“弱く”なってしまっているからだ。  やられてもやられても復活する。その唯一にして単純明快な能力を失ってしまったウルヴァリンなどウルヴァリンではなく、そりゃあ期待される娯楽性も生まれない。 そんな彼をフォローするべく、多様な日本版ミュータントが続々新登場するのであれば、この番外編ならではの娯楽性も生まれようが、それもなくただ主人公が傷つき追われ、ノーマルヤクザ、忍者軍団、狂った機械侍との攻防を描き連ねられても、それは逆に僕たちが「見たいX-MEN」ではない。  日本の映画ファンとしては真田広之の役柄があまりにも“おいしくなかった”ことも残念。この程度の作品なのであれば、せめて“ラスボス”ぐらいの役はくれよ!と言いたい。  あくまでも映画世界内の時間軸での前作である「ファイナル ディシジョン」を受けて、最新作「フューチャー&パスト」に繋げるための、ウルヴァリンの“傷心日本旅行”を描いた番外編なのだとは思うが、それにしたって、ちょっと、ねえ?
[DVD(字幕)] 3点(2014-04-13 16:52:12)(良:1票)
713.  エンド・オブ・ホワイトハウス 《ネタバレ》 
今作の映画的な持ち味は、時に凄惨なまでの無骨さと硬派さだろう。 これについては、何と言っても主演のジェラルド・バトラーの影響力が絶大だ。 本来、この手の娯楽大作であれば、“ヒーロー”である主人公に対しての「好感」は必然であるはずだ。 しかし、主人公の絶大な強さと無慈悲さを前にしては、安直な好感を持つことは許されない。 ただひたすらに自らに課した使命感に燃え、それを遂行する様には、ヒーローへの憧れなどは超越し………ちょっと引いてしまう。  「殺す」と決めた相手を必ず「殺す!」、というこの狂気的に愚直な主人公の姿に燃える人もいるだろうが、個人的に好感が持てなかったことは、映画全体の娯楽性においてマイナス要因であったことは否めない。最終的にはデスクワークに追いやられた男が精神を破綻させてしまっているようにすら見えてしまう……。  そして、無慈悲で凄惨過ぎる主人公のキャラクター性は、映画全体のテイストにある意味きっちりと波及している。 何せ、冒頭から人が殺されまくる。ホワイトハウスを孤立無援の状態にするためとはいえ、シークレットサービスをはじめとするホワイトハウス内のほぼすべての職員が惨殺される様は、衝撃的だった。 加えて、ホワイトハウス周辺の市井の人々も、テロリスト側の決死隊によって無差別攻撃を受け殺されまくる。 この陰惨さが、冒頭だけのもので、そこからアガっていく展開のための布石なのであれば良かったが、クライマックスに至るまでそれが抜け切らないので………やっぱり引く。  もっと娯楽性を高めるための“前振り”は、今作にも確実にあった。 ファーストシーンでアーロン・エッカート演じる大統領は、主人公相手にボクシングのスパーリングをしている。 ならば、大統領が悪役をノックアウトさせるシーンは必須だろうが! 大統領の幼い息子は、ホワイトハウス内の構造をシークレットサービスも舌を巻く程に熟知している。 ならば、息子がその知識を駆使してテロリストを出し抜くシーンも必須だろうが!  他にも、北朝鮮のテロリスト軍団がリーダーを筆頭にあまりにも狂人的な描かれ方をしている点も、現実の世界情勢を風刺しているように見せて、実際リアルじゃないなと思わざるを得ない。  そういう“ベタ”な娯楽性に欠けていたことが、こういう映画に対して、そういうことを期待している者としてはあまりにいただけなかった。 
[ブルーレイ(字幕)] 4点(2014-04-12 19:57:49)(良:1票)
714.  地獄でなぜ悪い
いやあ狂ってる。「サイアク」な映画だ。でもだからこそ「サイコー」過ぎる。  こんなにも悪趣味極まりなく、とっ散らかった馬鹿映画なのに、目柱が熱くなっている自分に笑ってしまった。 自分自身がこの映画を楽しめる「馬鹿」だということに、幸福感を覚えた。  事実や現実という言葉ばかりが重要視される世の中。「虚像」というレッテルを貼られたものは、社会から一方的に排除される。 偽ることは褒められたことではない。でも、本当に真実だけを見ることばかりが正しいのか。 つくられた世界を愛しては駄目なのか。 この世そのものが、“作り物”で埋め尽くされた地獄なんじゃないのか。  作り物でなぜ悪い?地獄でなぜ悪い?  もうそれは理屈じゃない。馬鹿と蔑まれようが、社会から排除されようが、その思いを貫き通したいすべての人々の、まるで怨念のように揺るがない信念だ。 その思いを「映画」という宝箱にぶち込み、撹拌し、無様な型で捻り出したこの映画を、愛さずになんていられない。  ミツコ(二階堂ふみ)の魔性と、平田(長谷川博己)の狂気を思い出しつつ、公次(星野源)の主題歌が延々とリフレインする。 しばらくはそういう日々が続きそうだ。
[DVD(邦画)] 10点(2014-03-30 16:43:42)
715.  LIFE!(2013)
数ヶ月前にこの映画のインフォメーションを観た段階から、「好きな映画」だということは直感的に分かっていた。 人生の機微とそれに伴う悲喜劇を、こういう映画ならではの表現方法で展開させる作品には滅法弱い。 ストーリー自体にはそれほど目新しい趣向があるわけではないけれど、街並の中で表されたオープニングクレジットからエンドクレジットに至るまで終始楽しい映画だった。  平凡な中年男の主人公は、何も起こらない自分自身の人生を半ば諦め、日々空想にふける。 しかし、ふいに訪れた「転機」により一つの「行動」を起こした彼は、自分の人生に何も起こらないのは、自分が動いていないからだということにようやく気付く。 人生の転機は、ふいの気まぐれと共に偶然に訪れ、結果的にそれは必然となる。  この映画が良いのは、必ずしも「行動」によって大冒険を体験したことを賞賛するわけではなく、その結果として、主人公がこれまで歩んできた「人生」そのものに自信を持つことが出来たというところだと思う。 長年携わってきた自らの仕事に対して誇りを示し切らずにいた主人公が、自分の仕事を馬鹿にし続けたバカ上司に対して初めて啖呵を切った様こそが、この映画の最も熱い部分だ。  世界中の殆どすべての人は、「冒険」なんてすることはないだろう。何も無いような平凡な道を懸命に歩いて歩いて人生を終える。 でも、その何も無いような人生を卑下する必要など全くない。大切なことは、他の誰よりも自分自身が自分の「人生」を認めるということだと思える。 ユニークなオープニングクレジットが表している通り、人生の指針となる言葉はそこかしこに存在していて、それを一つでも気付けるかどうかが大切なのだろう。  壮大なようであり、とてもキュートで良い映画だ。溢れ出る映画的センスの高さは、ベン・スティラーという映画人の紛れもない質の高さを証明している。  観賞後に知ったが、今作は1947年の「虹を掴む男」という映画のリメイクらしい。70年近く前のオリジナルも機会があれば観てみたいものだ。
[映画館(字幕)] 7点(2014-03-28 14:15:27)(良:1票)
716.  サイド・エフェクト
「セックスと嘘とビデオテープ(1989)」で鮮烈なデビューを果たし、そのままハリウッドの頂点まで駆け上がった俊英スティーヴン・ソダーバーグ。 群雄割拠のハリウッドの中でも一際その天才ぶりを発揮し続けてきた映画監督の“一応の”「引退作品」という名目の今作は、集大成と呼ぶに相応しい作品精度の高さを感じると同時に、デビュー作との不思議なリンクも感じる映画に仕上がっている。  「サイド・エフェクト」という名のこの映画は、現代人の生活の中ではもはや切り離すことが出来ない「薬」にまつわる“あらゆる意味”での「サイド・エフェクト=副作用」を浮き彫りにする。 「薬」とそれに伴う「副作用」をスケープゴートにして描き出されるものは、現代社会そのものの病理性と、そこに救う人々の屈折した精神だった。  映画の序盤は、映し出される映画の世界観がなんだか薄ぼんやりとしている印象を受ける。 一体に何を主軸に描こうとしているのか掴みきれず、そのフォーカスの合わない感じに、居心地の悪さを覚えた。 しかし、それがある展開に伴い突如として転じる。みるみるフォーカスが合っていき、核心にピントが合っていく。   「偽り」を嫌う人は多い。何も偽ることなく生きていけるのであれば、それにこしたことはない。ただし、そういうわけにもいかないのが人生というもの。 自覚・無自覚はあるにせよ、誰だって、多かれ少なかれ何かを偽って生きているのではないかと思う。 もはや現代社会においては、それらは一方的に否定することすら不可能だ。 それこそ、常にセルフカウンセリングをして、理想と現実に対して折り合いをつけていくしかないのだろう。  そういう、この世界の“日常”に蔓延する思惑と疑心、野心と欲望、その諸々の病理渦巻く上質なサスペンスだと思う。   キーパーソンを演じるキャサリン・ゼタ=ジョーンズの美貌と艶が最高。 ルーニー・マーラの悪女ぶりも恐ろしい。 彼女たちに人生を揺さぶられまくるジュード・ロウとチャニング・テイタムに痛く同情してしまうと共に、男など本当に無力だなと思えてならなかった。   スティーヴン・ソダーバーグの卓越した映画術に感嘆した。この映画監督の才能を再認識し、その映画世界に陶酔した。 これが最後?信じないけどね。 
[DVD(字幕)] 8点(2014-03-24 23:17:02)
717.  ホワイトハウス・ダウン
はっきり言って「サイコー」だった。まずそれを断言したい。 久しぶりにローランド・エメリッヒ監督らしい大仰でどストレートな娯楽映画を心から堪能出来たことに、満足感を超えて幸福感すら覚える。 1996年公開の「インデペンデンス・デイ」を観て以来、誰が何と言おうと僕はこのドイツ人映画監督のファンだ。そのことを再確認出来たこともまた嬉しかった。  ホワイトハウスがテロリストに襲われ、そこに偶然居合わせた主人公が現職大統領とタッグを組みつつ絶体絶命の危機に挑むというプロット。実際に描かれるストーリーの大筋にそれ以上のひねりなどは正直無い。おそらく大抵の人が容易に予想できる大団円を迎えて映画は終幕する。  だが、「サイコー」なのだから仕方ない。ストーリーの顛末が読めようが予想通りだろうが、それでも面白いのだから何の問題もない。 僕が長らくこの大味なエンターテイメント映画ばかりを作り続ける監督が好きなのはまさにその部分で、「娯楽」の王道を貫き通した愛すべきベタ映画を見せてくれるからに他ならない。  それは言い換えれば、「俺たちが観たいアメリカ映画」を見せてくれるということだとも思う。 「インデペンデンス・デイ」と同様に、今作も紛れもない“アメリカ万歳”映画である。  自国が発端で巻き起こった世界的な危機を、世界中の誰が見ても“分かりやすい”崇高なる意地とプライドで挑み、駆逐する。 「どうだい、やっぱりこの国は凄いだろう!?最高だろう!?」と極めて直接的に訴えてくる。  その工夫の無い娯楽性、あまりに現実的ではない映画世界に対して、現実の世界情勢などを引き合いに出しつつ否定し嫌悪感すら覚える人も多々いることは理解できる。  ただし、そういう否定的感情と同時に、それでも世界中の人々がこの超大国に対して多大な“あこがれ”を抱いていることも事実。 映画を観て、空想と現実の狭間で揶揄しつつも、心の中では「こういうアメリカであってほしい」「アメリカはこうでなくちゃ」という感情が少なからず存在するのだと思う。  このドイツ人映画監督が長いフィルモグラフィーを通じて、“アメリカ万歳”の娯楽映画をひたすらに作り続けている意味は、まさにそういうことだと思える。  ともかく、小難しい感情は一旦抜き去って、馬鹿らしいアクション映画の世界にただ浸ることが、この映画に対しての正しい在り方だ。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2014-03-22 01:53:46)(良:1票)
718.  キャプテン・フィリップス
あらゆる側面において、真っ当な映画だったと思う。  実話を元に描いているとはいえ、これほどまでに徹底的に描くべきことをきちんと描ける映画はそれ程多くない。    先ずはこの映画の主演にトム・ハンクスをキャスティングした真っ当さ。  ヒーロー役が似合う華やかなスター俳優などを起用してしまったならば、分かりやすい娯楽性は高まるだろうが、この映画が求めるべきリアリティは著しく損なわれてしまったことだろう。 (勿論、この名優に華がないというわけではない) 絶体絶命の危機の中で、この主人公が見せるリーダーシップと勇気と智恵、そして執拗に突きつけられる恐怖感、そういったものを決して大袈裟すぎない絶妙なバランスで表現できる俳優は、やはりトム・ハンクスを置いて他にいなかったろうと思う。    次にソマリア海賊を演じた無名俳優たちのリアリティを追求した真っ当さ。  本当にソマリア出身の人材を見出し、主要キャストに配したことは、この映画の類い稀な説得力と成り得ている。  特に海賊側のリーダーを演じたバーカッド・アブディの存在感は抜群だった。風貌から喋り方に至るまで、映画におけるその支配力は時に名優トム・ハンクスをも凌駕していたと思う。    そして、ポール・グリーンダグラス監督による演出の真っ当さ。  元々、抑制の利いたリアルな描写が巧い監督ではあるが、今作でもその演出力は際立っている。  もっとエンターテイメントに走ったり、船長と海賊両者のバッググラウンドをドラマティックに描き出すことも容易だった筈だ。  しかしそれをせず、ひたすらに実際に起こったであろう描写のみを連ねた構成は、映画として極めて潔く、特筆すべき緊迫感を終始観る者に与え続ける。    その潔さは、今この瞬間も起こり得ている事実を描いているということへの責任と覚悟の表れだと思える。  無政府状態のソマリア、世界中の人々に荒らされた漁場、行き場を失った漁民たち……。  劣悪な環境の中で叩き起こされ、“彼ら”は海賊行為に駆り出される。  最初から彼らに「後退」という選択肢は無かったのだろう。  勿論、海賊行為を続ける彼らに対して肯定も同情もするつもりはない。    ただ、米国海軍の圧倒的な兵力の前に、完全敗北を喫した海賊のリーダーからは、茫然自失の中に一寸の安堵感が垣間見えた気がした。 
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2014-03-21 01:39:03)(良:1票)
719.  舟を編む
10年以上かけて延々と辞書をつくる。ただひたすらに言葉を集め、編纂する。 おびただしい言葉の海に放り込まれ、漂い、もがき、“向こう側”に辿り着こうとする映画。 極めて地味な映画である。でも、なんとも愛らしい映画だった。  「言葉」そのものを敬い、愛する日本人ならではの物語だと思う。 また、「仕事」に一生をかけることへの憧れと羨望の描き出し方も、日本人ならではの特性をくすぐるものだった。 そういう意味では、とても日本人らしい映画だと思うし、この国の人々の普遍的な一側面を世界に対して理解してもらうにも有意義な映画だとも思う。  映画としては非常にオーソドックスで面白味が薄いようにも見えるけれど、一つ一つの画づくりはとても丁寧だった。 たとえば、編集室の書類の積み重なり方や、主人公の下宿の佇まいに至るまで、登場人物たちが息づく空間の空気感がちゃんと伝わってくる。  作り込まれた映画の世界観は、時に秀逸なアニメーションに通じる雰囲気を覚えた。 特に主人公とヒロインが出会うシーンなどは、ありふれた描写ではあるけれど、とてもキュートでファンタジックだった。  主演の松田龍平は地味な物語の地味な主人公を、彼の愛妻が言うように「面白く」魅力的に演じていた。 宮﨑あおい、オダギリジョー、小林薫ら脇を固める俳優たちの存在感もそれぞれ素晴らしく、味わい深い人間模様を見せてくれた。  映画的工夫の軽微な欠如は感じ、物語の核となる「言葉」や「料理」などにもう少し効果的にフォーカスを合わせてみても良かったように思える。 そうすれば更に芳醇な映画になったかもしれないけれど、そのいきすぎない「真面目さ」がこの映画のあり方だろうし、それはひいてはこの国が見つめ直すべきあり方に繋がるものなのだろうと思う。
[DVD(邦画)] 7点(2014-03-16 10:15:57)(良:1票)
720.  キック・アス ジャスティス・フォーエバー
衝撃の問題作でありながら、その類い稀なエンターテイメント性を世界中が“スルー不可避”だった前作「キック・アス」。 その待ちに待った続編に対しては、当然誰しもが、4年前の衝撃の再熱を期待しただろう。  前作で一躍若手女優のトップスターとなったクロエ嬢をはじめ、主要キャストをきちんと再結集させ、ジム・キャリー、ジョン・レグイザモら魅力的な新キャストを揃え、体制は万全だったと言える。 おそらく、前作の“二番煎じ”をすれば、大多数の観客は分かりやすく再び熱狂しただろう。  が、前作監督のマシュー・ボーンの後を引き継いだジェフ・ワドロウなる無名監督は、果敢にもその「既定路線」をハズしにかかった。 もしかすると、この続編に対して、前作ファンの多くは「愚かな」と否定するのかもしれない。自分自身、呆気にとられた感は否めない。  けれど、結果として大多数に受け入れられるか否かは別にして、この無名監督の挑戦(暴挙)は正しかったと思う。 別の言い方をすると、この「キック・アス」という映画素材において、「既定路線」と辿ることこそが愚かなことであり、どんな形であれ観客の思惑をハズしてなんぼということなのだと思えてならない。  前作の奇跡的な娯楽性に対してこの続編が遠く及ばないことは否定しない。 ただし、前作があってこそ描き出された今作であり、この映画世界が抱える本質的な魂みたいなものは決してハズレていない。ならば「続編」としてこれほど相応しい作品もないのではないかと思える。  詰めれば詰めるほど粗だらけの映画であることは間違いないし、そもそもこの映画の製作陣は“真っ当”に作ろうとなんて端からしていない。完全に独りよがりだったとしても、ただただ自分たちが作りたい(見たい)モノの構築に没頭している。  ならば観客は、前作の余韻を引きずりながら、前作にも増して歪な映画世界の中で再度クロエ・グレース・モレッツの「支配力」にただひたすらにうつつを抜かす。 それがこの映画の正しい鑑賞のしかただ。   ただし!ジム・キャリーの使い方はあまりに勿体なかった……。
[映画館(字幕)] 7点(2014-03-10 00:00:16)
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