741. ウルヴァリン:X-MEN ZERO
マーベルをはじめとしたアメコミ映画は大好きで、大概満足するのだけれど、「X-MEN」シリーズだけは今ひとつ乗り切れず、好きになれなかった。 その最大の要因は明らかで、主人公であるウルヴァリンにどうしてもヒーローとしての魅力を感じることが出来なかったからだ。 一方で、彼が主人公ではない2011年の「ファースト・ジェネレーション」には相当満足したので、やはりウルヴァリンというキャラクター性が性に合わないということだろうと、自身で結論づけていた。 しかし、その結論は必ずしも正しくはなかったようだ。 “戦犯”のレッテルを貼付けていたウルヴァリンの「過去」を描いた今作は、想定を大きく外れて、きっぱり面白かった。 そもそも、アメコミ映画は大好きだけれど、その原作であるアメコミ自体には全く造詣が深くないので、「X-MEN」という作品自体の性質と、その一キャラクターとしてのウルヴァリンの存在性を理解出来ていなかったのかもしれない。 「X-MEN」というアメコミ作品の主役は、あくまでミュータント集団である「X-MEN」という群像そのものであり、ヒュー・ジャックマンが主人公然として演じるウルヴァリンというキャラクターをメインに見据えるべきではなかったのだろう。 ウルヴァリンの個人的な前日譚である今作を観て初めて腑に落ちたのだが、過去の記憶をいっさいがっさい失くして、盲目的に己の「異端性」を呪うしか術の無いキャラクターが、その辺のアメコミの主人公と同様にヒーロー然と振る舞えるわけがなく、どこか屈折し“陰”に傾いてしまうことは必然だ。 このキャラクターにこういった“経緯”があるということを全く知らなかったので、おおよそアメコミ映画の主人公らしくない彼に拒否感を感じてしまっていたのだと思う。 前日譚ではあるが、当然演じるヒュー・ジャックマンにとっては、3作品経た上での(当時の)最新作であるので、そのフィット感は彼自身のスター俳優としての進化も相まって、当然最高潮であり、ウルヴァリンという苦悩に溢れたキャラクターの出自から記憶を失ってしまうまでの様を描いた今作は、物語としても魅力的で、ちょっと感動的ですらあった。 順番は後先になったが、「ファースト・ジェネレーション」の高揚感に続いて、今作の意外な満足感。一気にこのシリーズそのものが好きになりそうだ。 ガン無視だった最新作「SAMURAI」も俄然観たくなってきた。 [地上波(吹替)] 7点(2013-10-03 23:06:45)(良:2票) |
742. 感染列島
期待通りの“駄作ぶり”に、怒りなんて感じる間もなく、なんだか安堵感すら覚えた。 小松左京風のタイトルからして、てっきりそれなりに売れた原作小説の映画化と思いきや、完全なオリジナル作品だった。 いや、オリジナルという表現にはあまりに語弊がある。国内を騒がした“パンデミック”に対しての危機感に便乗して、1995年の米国映画「アウトブレイク」をパクろうとした映画なのだから……。 「アウトブレイク」は言わずと知れた傑作なので、言い方は悪いがそれをパクること自体は、もはや問題ないと思う。 問題なのは、そのパクり方があまりに「下手糞」過ぎることだ。 なにも世界的な娯楽映画に勝ってほしいとか、主演の妻夫木聡にダスティン・ホフマンを彷彿とさせる演技を見せろとか、そんな無理難題を言いたいわけではない。 せめて、いい“お手本”があるのだから、多少工夫が無くてもいい所をしっかり真似て、なぞるぐらいはしてくれよと言いたい。 ここまで大筋を似せておいて、どうしてただ模倣することすらできないのか。本当に理解に苦しむ。 何もかもが悪いのだろうけれど、やはり最も目に余るのは、脚本の稚拙さだと思う。 どのキャストも、他の作品ではそれなりに良い演技も見せてくる俳優ばかりだったと思うが、発される台詞の一つ一つが嘲笑を禁じ得なかった。 俳優というものは、脚本や演出によってこうも素人臭くなるものかと、改めて思い知った。 どうやっても「良い映画」にはなり得なかったのかもしれないが、題材はやはりタイムリーなだけに、もう少し「マシな映画」に仕上げることはいくらでも出来たと思う。 檀れいが、選択の余地無く生存の可能性が断たれた人たちの呼吸器を無表情で外していくシーンは、描き方によってはもっと印象に残る名場面になったはずだし、国仲涼子の旦那役で登場する爆笑問題・田中裕二の決して上手くない泣き演技には、幼子役の子役の助力もあり泣かされてしまった。 ほんの少し真っ当な“センス”さえあれば、これほどまで“悲劇的”なことにはならなかったと思う。 あまりに不味くて我慢ならなかったので、間髪入れず口直しに「アウトブレイク」を見直した。面白過ぎた。 「アウトブレイク」の面白さをより引き立たせることにおいては、最高の映画だと思う。 [CS・衛星(邦画)] 1点(2013-10-01 22:48:59) |
743. 最後の戦い
「好きな映画は?」と問われると、いつも非常に困るのだが、なんだかんだ言ってもいつも5本の指に「レオン」が入ってしまう。ミーハーな映画ファンのようで気恥ずかしさも感じるのだけれど、好きなんだからしょうがない。実際、「レオン」は最高に良い映画なのだし……。 したがって、近年どんなにヨーロッパ方面でのB級アクションの製作に突っ走り、殆ど名義貸しのような形で脚本のクレジットに名を連ねる愚にもつかない作品が連発されようとも、「リュック・ベッソン」という固有名詞が目に入ると、完全には無視することが出来ないのは、彼の虜になった映画ファンの悲しい性だ。 そんなリュック・ベッソンの長編デビューである今作。 長らく作品の存在は知っていたのだけれど、中々見られる機会が無く、彼に対する世評の低下に伴い、鑑賞の意欲そのものが忘却してしまっていた。 環境破壊により文明が滅亡したのであろう世界で繰り広げられる暴力の連鎖。 全編モノクローム+台詞なしで展開するストーリーテリングには、若きベッソンの野心がほとばしっているとは思えた。 「理解できなきゃそれでいい」と開き直って、独自の世界観を見せつけている様は、このクリエイターが次期に世界的な存在になり得る可能性を充分に醸し出している。 が、しかし、一作品として観た感想としては、正直「?」の連続だった。 諸々の設定自体にあれやこれやと説明を求めることは無粋だとは思うが、「台詞なし」という荒技を駆使するにあたっては、やはり色々な部分で力不足な感じがして、映画の世界観に入り込むことが出来なかった。 盟友エリック・セラによる音楽も、おそらくは当時の流行が反映されているのだろうけれど、映画の世界観に合っているとはまったく言えず、ビビットな映像に対して興が冷める部分が多かった。 世界に残された数少ない「女性」の存在がすべての暴力の鍵になっているということなのだろうが、それであれば、もっと画面に登場するだけで魅了されるくらいの風貌を携えた女優を起用するべきだし、その女性キャラクターの描写をもっと印象的に多く用意すべきだったと思う。 「ニキータ」、「レオン」、「フィフス・エレメント」……、ヒロインの造形に定評があるリュック・ベッソンであるからこそ、その部分の映画的魅力が全く欠けてしまっているのは至極残念。 [インターネット(字幕)] 5点(2013-09-30 16:32:07) |
744. トランスポーター3 アンリミテッド
良い意味でも悪い意味でも、「これぞトランスポーター」と言える映画だった。 ジェイソン・ステイサム演じる主人公の、プロフェッショナル精神をガンガン押し付けてくるわりには、あらゆる面で突っ込みどころ満載のキャラクターが健在。 致命的な「粗」とも取られかねないキャラクター描写の脆弱さを、圧倒的なアクションパフォーマンスと、ジェイソン・ステイサムならではの愛嬌で、「娯楽」の一つの要素としてまかり通しているのは、彼のアクション俳優としてのスター性によるところが大きい。 そういった主人公のある意味“ブレない”キャラクター性が安定しているので、シリーズのファンであれば充分に楽しめる映画には仕上がっているとは思う。 ただし、そのような贔屓目で見たとしても、いただけない部分が確実にある。 一つは、ストーリーのネタが一作目とあまりに類似し過ぎている。「運び屋」として運ぶものが、何やら訳ありの女一人という設定は、一作目と同じでありあまりに工夫が無い。 そして二つ目は、その運ばれる女、つまりはヒロインという位置付けの女優に魅力が無さ過ぎた。 無名のロシア系女優が、例によってリュック・ベッソンに見初められて大抜擢に至ったようだが、あまりに個人的な趣味趣向に走り過ぎてしまっている。 赤毛を携えたミステリアスな風貌は、「フィフス・エレメント」で同じくベッソンに抜擢されたミラ・ジョヴォヴィッチを彷彿とさせなくはないが、よくよく見れば見るほどそばかすだらけの顔が気になってしまい、ヒロインとして受け入れることが出来なかった。 終盤になる頃には、何とかヒロインのキャラクターに感情移入することは出来ていたので、この新人女優の可能性そのものは否定はしないけれど、やはりこの手アクション映画のヒロインには、分かりやすいチャーミングさが必要だと思う。 悪党チームの巨漢要員にK-1王者セーム・シュルトがキャスティングされていたのに笑ったのと、ステイサムのジャケット&Yシャツアクションは馬鹿馬鹿しさと新鮮味が相まって良かった。 というわけで、決して褒められる映画ではないが、なんだかんだと見所は備えている映画だと思う。 あ、首筋の「安」タトゥーの意味については深入りしません……。 [インターネット(字幕)] 5点(2013-09-27 17:02:16)(良:1票) |
745. NEXT-ネクスト-
近年のニコラス・ケイジ主演映画は、しばしば評価が難しい。 大概、大して期待も出来ないB級娯楽映画である場合が多いので、ハードルを上げる必要もなくサクッと観終わる。 期待感は極めて薄いので、「思ったよりは楽しんで最後まで観られたな」という印象でエンドロールを迎える。 しかし、よくよく振り返ってみると失笑ものの「粗」がボロボロと見え始める。 そして、なんだかんだ言っても、ニコラス・ケイジのスター性と表現力が無ければ、もっと「酷い」映画に見えるのではないかと思われてくる。 れっきとしたアカデミー賞俳優であるニコラス・ケイジが、特別に良い演技をしているのであれば、映画そのものが多少くだらなくても、主演俳優の演技を観るべき作品として評価できるのであるが、決してそういうわけではなく、ニコラス・ケイジはあくまで“ニコラス・ケイジ然”とした“いつもの”演技をしているに過ぎない点が、非常に評価を難しくさせる。 私生活の乱れでどんなに落ちぶれようとも実力は確かな俳優なので、彼さえ主演していなければ、このなやきもきする必要もなく、程度の低い映画としてこき下ろすことも出来よう。が、もはやそういう映画に節操なく出演し良い意味でも悪い意味でも“らしさ”を出すことが、このスター俳優の“味わい”にすら思えてきた。 と、「ニコラス・ケイジ論」をついついダラダラと語ってしまったが、この映画もまさに「ニコラス・ケイジ映画」と呼ぶに相応しい作品だと思う。 まあ概ね楽しんで観られるし、ラストの顛末もフィリップ・K・ディック原作らしく小気味良く感じられたので、鑑賞前の低い期待感に対しては充分に満足出来たと言えるので、それ以上のことを望むべきではないとは思う。 よくよく考えてみれば、やっぱり粗だらけだ。 ただし、前述の通りそんなことは「ニコラス・ケイジ映画」においては想定内のことなので、いちいち目くじらを立てるのは無粋というもの。 こちらもアカデミー賞常連でありながら、フットワークが軽いジュリアン・ムーアの無駄な存在感や、ヒロインのジェシカ・ビールが意外にキュートな点など、想定以上に楽しみがいのある映画でもある。 このレビュー内に合計10回も「ニコラス・ケイジ」という固有名詞が繰り返されていることからも明らかなように、良いか悪いかで言えば「断然良いニコラス・ケイジ映画」だということは間違いない。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2013-09-26 00:50:11)(良:1票) |
746. ラスベガスをぶっつぶせ
《ネタバレ》 MITの秀才を揃えた“ブラックジャック・チーム”が、ラスベガスに乗り込んで大金を荒稼ぎするという話。 ストーリーの肝となる“カード・カウンティング”の論理がちっとも理解し切れないことには、知能指数の差をあからさまにされているようで悲しくなったが、他にはないタイプのギャンブル映画として個性的だったと思う。 カウンティングの理屈が理解できないとしても、ブラックジャックというカードゲームのルールは最低限押さえておかないと、終始ストーリーテリングに付いていけないことは明らかだろう。 苦学生だった主人公が、チームに誘われあぶく銭の渦に呑み込まれて行く様は、ありきたりと言えばそれまでだけれど、そりゃああれだけ目もくらむような豪遊の世界に没入してしまっては、なかなか戻って来れるもんではないと共感できる。 主人公をはじめとしてチームの面々のキャラクター性をもう少し深堀りしても良かったと思うが、彼らのキャラクター性の薄さは、脇を固めるケビン・スペイシーとローレンス・フィッシュバーンが充分にカバーしており、人間の相関関係のバランスは良かったと思う。 個人的には、ヒロイン役のケイト・ボスワーズが完璧に好みだったので、彼女がカモフラージュのためにカジノごとにコスチュームを変える“七変化”を見ているだけでも充分に楽しめた。 ラストのどんでん返しも、“驚き”があったとは言えないけれど、伏線を踏まえて端役を交えたオチは小気味良く、なかなか爽快な映画に仕上がっていると思う。 ケビン・スペイシー演じる悪徳教授の逆襲が地味に怖いけれど……。 [インターネット(字幕)] 6点(2013-09-18 15:53:20)(良:1票) |
747. マン・オブ・スティール
《ネタバレ》 プロローグ、“父親役”のアカデミー賞俳優が、ドラゴンにまたがり、過剰なまでのスペクタクルシーンを画面いっぱいに目の当たりにした時点で、“一抹の不安”は生じていた。 以降、「あれ?なんだかノリキレナイ?」という感覚が確実に蓄積し、結局そのままエンドロールを迎えてしまった。 ザック・スナイダーが描き出したビジュアルは流石に凝りに凝られている。 タイトルからもストーリーテリングからも“スーパーマン”という名詞を極力排した新しい世界観に対して、期待感と高揚感が溢れた。 “ノリキレナイ”この映画に足り得なかったことは単純。それはずばり「娯楽性」だと思う。 「ウォッチマン」の監督と「ダークナイト」の監督とが組んで生み出されたヒーロー映画において、分かりやすい娯楽性が強調されないであろうことは必然であり、観客としてもダークで新しい世界観を期待した部分は大いにある。 実際、映画は、主人公の「出自」と「能力」、そして「運命」を軸にして、「どう生きるべきか?」ということに延々と焦点を当て続ける。引き込まれる要素は多分にあったし、概ね製作者の意図通りの映画に仕上がっているのだろうとも思える。 しかし、圧倒的に物足りない。 結論として辿り着いたことは、他のヒーローならいざ知らず、「スーパーマン」にだけは突き抜けた「娯楽性」が必要不可欠だったのではないかということだ。 過去作に対して、まったく異なる設定やストーリー展開を見せるのであれば、センシティブでリアリティ重視な表現に対してもう少し納得が出来たかもしれない。 しかし、何だか込み入った描き方はしているが、根本的な描写は、1978年のオリジナルと結局のところ同じであり、それであれば過剰な現実主義は、ただまどろこしく感じるばかりである。 ヒロインをはじめとする市井の人々が絶体絶命のピンチに陥る。 そこに弾丸よりも速く強いスーパーヒーローが颯爽と現れて問答無用に彼らを助ける。 「スーパーマン」は、彼だけは、それでいいのだと思った。 最後にもう一つだけ。 冒頭から大立ち回りをするスーパーマンの実父役のラッセル・クロウだが、こんなに露出が多いのなら、むしろ、彼を悪役に配した方が良かったように思う。 久々に見たケビン・コスナーが育ての親役を好演していただけに、わざわざ新旧スター俳優同士で“父性対決”を見せる必要はなかったと思う。 [映画館(字幕)] 5点(2013-09-18 00:03:17)(良:5票) |
748. ザ・バンク -堕ちた巨像-
《ネタバレ》 ファーストカットのアップから始まり、終始、主演俳優クライヴ・オーエンの濃ゆい顔面が印象強い映画だった。 特に好きでも嫌いでもない俳優だけれど、改めて振り返ってみると、結構印象強い映画に多数出演しており、決して派手さはないけれど存在感のある俳優だと思う。 そのクライヴ・オーエン主演で、相手役は、これまた地味だけれど確固たる存在感を放ち続けるスター女優のナオミ・ワッツ。 この二人が組むに相応しく、映画は地味で堅実で骨太な世界観を構築している。 世界的な大銀行における巨悪と陰謀を、主人公らが単身対峙し、暴こうとするストーリー展開は、この手の映画ではよくあるプロットではある。 しかし、前述の主演俳優らの堅実な存在感と、ドイツ人監督のトム・ティクヴァの構成力が冴え、独特の緊迫感と映画的な美しさに溢れた見応えのある作品に仕上がっていると思う。 観る者を引き込む多彩なカメラワークは流石で、息を殺しての尾行シーンから突如として激しい銃撃戦に展開させる流れなどは白眉の出来映えだった。 映画のラストは、再び主演俳優の表情を画面いっぱいに映し出して終わる。 ファーストカットのそれと異なり、巨悪を追い詰めはしたが、結局何も変えられなかった主人公の表情は虚無感に溢れている。 カタルシスには程遠いラストだったが、この映画の顛末としてはとても相応しい幕引きだったと思う。 概ね良い仕上がりの映画なのだが、各キャラクターの造形には一抹の消化不良感が残る。 主人公をはじめとして、それぞれのキャラクターへの踏み込みが弱いので、今ひとつ感情移入できない部分もあった。 敵役関連のキャラクターも良い風味は出していたのだが、味わい深いところまで造形が及んでいたとは言い難く、そういう部分がラストの呆気なさに繋がってしまったとも言える。 [インターネット(字幕)] 6点(2013-09-07 16:06:54) |
749. 10人の泥棒たち
《ネタバレ》 一人のカリスマによって集められた10人の“泥棒”たちが、マカオのカジノを襲撃するという、まさに韓国版「オーシャンズ11」。 基本的なプロットは似通っているが、韓国映画らしくエグいところは結構エグく、必ずしも安直なハッピーエンドは迎えない。 「オーシャンズ11」との最も大きな違いは、“アンディ・ガルシア”的なターゲットは存在するものの、そのターゲットがそのまま「敵」というわけではなく、「敵は内にいる」ということだろう。なので、よくあるタイプのケイパームービーとは、娯楽性の気質が異なり、少々面食らう。 そのあたりが、韓国映画の「流石」と言える部分で、同じようなプロットで日本で製作したとしても、ただただハリウッド映画の表面をなぞっただけの迫力の無い映画に仕上がることだろう。 たとえ内容が似通っていても、そこに独自の価値観や行動原理、つまりは“お国がら”を加味することこそが、映画が世界中で作られることの意味だと思う。 そういうことが出来る出来ないの部分で、韓国映画との差は大きい。 この映画は、詰まるところ泥棒集団の愛憎が絡んだ“内輪もめ”を描くので、前述の通りよくあるタイプのカタルシスは得られない。 主人公タイプのキャラクターが意外な側面を見せ始めるので、時に困惑してしまう。 ヒーロー的なキャラクターは一人もおらず、全員が利己的な欲望と愛を追い求めて失墜へと突き進んでいく。 クライマックスは想定を超えるバイオレンス性を伴ったアクションシーンが展開され、また良い意味で驚かされる。 と、このまま突き進むと日本語タイトルに反して“重い”映画になってしまいそうだが、そこは時に軽妙に描かれるキャラクター造形でバランスを取っている。 特にチョン・ジヒョン演じる女盗賊は、“キャッツ・アイ”ばりのアクション性と美貌でとても魅力的だった。 その語学力で日本人夫妻に化けるのは無理があるだろうとか、中国人チームの若いニーちゃん最終的にどうなった?とか、諸々と突っ込みどころもある。 それに138分という尺は少々長過ぎるようにも思う。色々な要素が盛りに盛られていることは良いが、そうであればもう少しテンポ良く展開してほしかったと思う。 ともあれ「泥棒映画」としてクオリティーは高い。 結局、全員が悪党なわけだが、そりゃ当然。 「俺は泥棒だ 何が悪い」 主人公の台詞が明瞭に表している。 [ブルーレイ(字幕)] 7点(2013-09-06 14:44:18)(笑:1票) |
750. 横道世之介
なんだかとてもふしぎな映画で、一回目観て、「良い映画だな」と思う反面、「一体何が良いの分からない」という、この映画の世界観の中を浮遊するような感覚を覚えた。 しばらく経っても、ふわふわと落ち着かなかったので、160分のこの長い映画をもう一度観た。 二度目は、160分なんて時間をまるで感じず、終始居心地良くすんなりと観終わることができた。 結果、ふわふわとした浮遊感はそのままだったけれど、その部分こそが、このふしぎな映画の愛すべき価値そのものであり、主人公横道世之介の魅力だと思う。 人生においては、ささやかな出会いと別れが無数に繰り返される。 その出会いの中で、自分の人生を左右する程の喜びや感動に巡り合えたとしても、時の流れは、それらを記憶の片隅へと追いやり、仕舞い込む。 時の流れは無情で、取り返しのつかない喪失を伴う場合も多かろう。 あんなにも輝いていた思い出なのに、どうして今の今まで忘れてしまっていたのだろう。と、人は思う。 でも、思い出すことで、その思い出は色褪せることなく再び輝き始める。 忘却してしまっていたことが不幸なのではなく、思い出せることが幸福なのだということを、この映画は眩いばかりの輝きの中でしっかりと伝えてくる。 長い映画であることは間違いない。ただし、その中には愛しくて仕方ないと思えるシーンが溢れている。 僕は今32歳だが、おそらくこの先観返す度に、その眩さと愛しさに更に涙が溢れることだろう。 いろいろと語りがいのある映画なのだが、何よりも特筆せざるを得ないのは、吉高由里子が演じたヒロインの存在。 この特徴的で同時に繊細な心持ちのバランスを孕んだヒロイン像は、たぶん、他のどの女優が演じても、見ていてただただ気恥ずかしいばかりのものになってしまっただろう。 夢を見ていると、その世界の中で、説明はつかないがどうしようもなく魅力的な女の子が登場し、目が覚めても彼女に対する恋心が消え去らないということがしばしばある。 この映画で、吉高由里子が演じたヒロインは、まさに夢が覚めても忘れられない存在そのもだ。 彼女が演じた与謝野祥子にまた出会うために、僕はこの映画を再び観るだろうとも思う。 ともかく、また一つ愛すべき青春映画が誕生したことは間違いない。 そして、“大人になりかけ”の若者の青春群像に、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの楽曲はよく似合う。 [DVD(邦画)] 9点(2013-09-05 23:45:45)(良:4票) |
751. イップ・マン 葉問
邦題「イップ・マン 葉問」は、同じ人名がただ並んでいるだけで意味不明だが、原題「イップ・マン2」もなんだか安いヒーロー映画みたいに思える。ただし、このタイトルには意味があると思う。 前作に引き続き、反日感情、さらには反英感情の鬱積した思いが、過剰に描写されていることは、映画ファンとしてよりフラットな視点から観たい者として、居心地の悪さに繋がっていることは否めない。 ただし、前作鑑賞時と同様、抑えきれないその“感情”を描けることが出来るのは、当然その国の人間だけであり、これが映画である以上、他国民には理解し難い描写があることは致し方ないとも思えるし、それは映画表現においてある意味大切なことだとも思う。 そして、この優れたカンフー映画に対して、そういうどうにもならない感情と表現に対してあれこれと難癖を付けることは、無粋だと思う。 ドニー・イェンとサモ・ハン・キンポーが真っ向から拳を交えるという、この映画の最大の見所、それを心の底から楽しむということ。それが真っ当な映画ファンが取るべきスタンスだと思う。 前作は、日中戦争の渦中を舞台にし、主人公の武術家としての盛衰をドラマ性豊かに描き出したことに対し、今作は戦後の香港を舞台にして、より分かりやすい娯楽性を伴って仕上げられている。 プロットとしては、諸々のブルース・リー映画、ジャッキー・チェン映画、さらには「ベストキッド」やら「ロッキー4」やら、各国のカンフー映画、スポ根映画をごちゃ混ぜにしたような話になっている。 実在の人物を描いているとはいえ、とても“リアル”とは言い難い。 でも、もはや「イップ・マン(葉問)」という人物は、近代中国武術とそこから生まれたカンフー映画における「伝説」であり、タイトルに示された通り、特に中国人にとっては紛れもない「ヒーロー」であるのだろう。 ならば、真実のみを描くことが必ずしも正しいわけではないと思う。 ラストの小さな“李小龍”登場も含めて、中国国内に向けたこの映画のサービス精神、娯楽映画としての在り方は、圧倒的に正しいと思う。 [インターネット(字幕)] 7点(2013-09-03 17:08:41)(良:1票) |
752. イップ・マン 序章
この映画で描かれる“イップ・マン(葉問)”という人物は、周知の通りあのブルース・リーの師匠として知られる人物である。 そのカンフースターであるブルース・リーや、その後を引き継いだジャッキー・チェンの映画を幼い頃から楽しんで観てきたけれど、一つだけいつも腑に落ちない点があった。 それは、映画の中で描かれる飲食店や肉屋なんかの従業員が、揃いも揃って武術の使い手として主人公に襲いかかるということ。 いくら中国だからって、そこいらに武術の使い手が溢れているわけなかろうと思い、これは欧米の人たちが日本にはどこにでも忍者がいるというような類いのフィクションなのだろうと思っていた。 しかし、今作や、先だって観た同じく“葉問”の半生を描いたウォン・カーウァイの「グランドマスター」を観て、そういう描写がある程度事実に基づいているものだということを知った。 詰まるところ、あの時代、混沌を極めた中国では、生きる場所と食い扶持にあぶれた数多の武術家たちが、“生きる術”としてそれぞれの生業を持ちつつ、同時にその中で流派を継続、または構築していったということなのだろう。 また、この映画の中で描かれるように、混乱する社会の中で“己”を守るために、人々は慣習として武術を身に付けていったのだろう。 そしてそれは、今作の舞台となっている日中戦争時代に必ずしも限ったことではなく、長い長い時間の中、常に「外敵」との対立の中で身を置いてきた“大陸”の民たちが、必然的に備えていた意識によるものだったのだと思う。 この映画は、カンフー映画としてのクオリティーはもちろん、そういった中国人の民族意識を知る上でも、非常に価値のある娯楽映画に仕上がっている。 終盤はどうしても、滲み出る反日感情がエスカレートしていき、日本人としては当然拒否感を覚えてしまう。 けれど、エピローグの説明描写は別にして、映画のストーリー展開の中の描写は、必ずしも行き過ぎたものではなく、実際にあり得た事象だろう。 そして、どちらが良い悪いなどではなく、そういった感情が根強く残っているという事実を「知る」ということは、非常に大切なことだろうと思う。 ともかくカンフー映画としての娯楽性の高さが、この映画において何よりも重要なことだろう。 そしてそれを司る主演ドニー・イェンが、やはり今一番信頼性の高いカンフースターであることは間違いない。 [DVD(字幕)] 7点(2013-09-03 00:34:50)(良:1票) |
753. ガンマー第3号 宇宙大作戦
この映画を深作欣二が監督した意味と経緯は何だったのだろうと首を捻る。 面白味はあるものの、滅茶苦茶な科学考証には終始突っ込みどころに暇が無い。この時代の特撮映画としては“普通”な仕上がりと言えるけれど、それ故に深作欣二作品としては極めて異色のSF映画と言える。 プロットとしては、特撮映画の傑作として誉れ高い「妖星ゴラス」や「マタンゴ」等々を混ぜ合わせたようなもので、東映が、東宝が築き上げてきた特撮映画の牙城を突き崩そうと、「日米合作」という戦略を企てて製作されたのであろうことをは明らか。 娯楽性の部分では、前述の東宝の名作映画に及ぶとまではいかないが、一定の水準までは到達していると思う。 キャストを全員外国人で揃えたことなどは、安直ではあるが、どうしたって日本人に出せなかった雰囲気を加味できているとは思う。 ただし、当然のことではあるが、特撮における実績と歴史が圧倒的に乏しい分、二番煎じ、三番煎じな感じは否めず、映画全体が軽薄に映る。 主人公をはじめとして、キャラクターの造形が薄っぺらく、相当大変な自体に陥っているわりには緊迫感が極めて薄いことが、最も大きなマイナス要因だろう。 特撮の部分では、やはりクリーチャーの造形ダサ過ぎる。これは技術力の精度の問題というよりも、そもそもの“センス”が無さ過ぎるような気がした。 アメーバー状の物体の段階では気味悪さとそれに伴う恐怖があったけれど、その状態から一気にもっさりとした怪物に変態し、のそのそと襲ってくる様には失笑を禁じ得なかった。 ヒロインはボンドガールにも抜擢される程で流石の美貌を誇っていたけれど、終始難しい顔をし続けるので、残念ながらキャラクターとしての魅力に欠けた。 もう少し彼女を絡めたエロティックなシーンが備わってるなどしていれば、SF怪奇として確実なプラスポイントだったけれど……。 あとせっかく米国との合作なのだから、“お約束”として、ラストカットでは「続編」を予感させる余韻を携えて、決して製作しなくていいので、「『ガンマー4号 地球大作戦』につづく」と締めて欲しかった。 [DVD(吹替)] 3点(2013-09-02 17:21:31) |
754. ONE PIECE FILM Z
連載中の長編漫画の映画化において常にマイナス要因となり得るのは、長期連載だからこそ描くことができる各エピソードの膨大なボリュームを、番外編的な扱いとはいえ映画作品の2時間前後の尺で収められるわけがないということだろう。 特に「ONE PIECE」の場合は、敵が強大であればあるほど、そのキャラクターのバックボーンまでしっかり描くことが常なので、限られた尺の中では到底そういう部分を描くことが出来ず、結果極めて希薄なエピソードに仕上がってしまうことは必然的だ。 しかし、今作では、そういった映画化における必然的な「弊害」を最小限に抑え、映画としてのオリジナリティを加味することに成功していると思う。 巧かったのは、敵方のキャラクター設定とそれに伴うストーリー展開だ。 最大の敵「Z」を、海軍の元大将というキャラクターにしたことが、最大の勝因だと思う。 海賊に対しての深い「怨恨」と、海軍が掲げる正義に対する「不満」とが混じり合い、文字通り一気に爆発したというキャラクター設定は、極めてベタではあるけれど、長編漫画におけるスピンオフとして、とてもまとまりが良かった。 この映画は、“麦わらの一味”の活躍を描くという大前提の一方で、「海軍」という公の正義の内外における“矛盾”を描いており、その要素が感動を生んだ最大の要因だと思う。 加えて、“麦わらの一味”が「新世界」に突入したばかりという舞台設定は、“センゴク”や“ガープ”が一線を退き、彼らが次世代のリーダーに推した“青キジが去った海軍の“暴走の兆し”を誘引しており、このストーリーを描く上でのタイミングも非常に巧いと思える。 更に特筆したいのは、アニメーションの迫力とサービス精神。 アクションシーンは、見せるべきカットを見せるべきタイミングでしっかり見せてくれ、この漫画特有の目まぐるしいバトルを充分に表現していた。 そして、ナミ&ロビンの“メルモちゃん”描写、ミニチョッパーの可愛さ、フランキーの過剰なまでのロボ描写、戦闘担当キャラの入浴シーンに至るまで、麦わらの一味各人の“萌え”ポイント羅列の特別サービスが、あざとくも素晴らしいと思った。 いやあ、長々しくなってしまったが、想定外に熱弁を振るいたくなる作品であることは間違いない。 それにしても、青キジ、海軍辞めたからって自由に活躍し過ぎ!イロイロ曝け出し過ぎ!歌い過ぎ! [ブルーレイ(邦画)] 7点(2013-08-31 14:16:47) |
755. 夫婦善哉
日曜日の正午、あまりに眠たくて2歳の娘の世話を妻に任せて、居間のソファで居眠り。ふと目が覚めると2時間以上寝てしまっており、ちょうど帰宅した妻に呆れられた。 眠気が治まらぬまま反省しつつ、再び外出する妻をソファに寝転んだまま送り出した後、この映画を観始めた。 この作品における映画体験としては、何ともいいタイミングだったと思う。 お椀二杯で一人前の“夫婦善哉”のように、詰まるところ“良い夫婦”というものは、二人揃ってようやく一人前になるものなのかもしれない。 この映画に登場する“夫婦”の男女は、二人ともどうあっても結局のところ一人では行きていけない。 森繁久彌演じる柳吉は、どこからどう見ても大店のどら息子であり、駄目男ぶりが甚だしい。 淡島千景演じる蝶子も、しっかり者の人気芸者ではあるけれど、最後の最後まで柳吉無しで生きてはいけない駄目女だ。 駄目男と駄目女が連れ添い、愚にもつかないすったもんだを延々と繰り返す映画である。特筆する程のストーリー的な面白味もあるとは言えない。 しかし、この映画が多くの日本人に愛されている映画であろうことは容易に理解できる。 やはり魅力的なのは、駄目男と駄目女の主人公夫婦に他ならない。 つくづく愚かな二人なのだけれども、どうしたって彼らのことを憎めるわけがない。 その理由は明らかで、この二人の姿こそ、世の中のすべての男女が持ち得る愛すべき愚かさだからだ。 どんな男も柳吉のようになろうし、どんな女も蝶子のようになり得る。 この映画を観た多くの人が、「馬鹿」と蔑みつつも、どこかこの二人の“寄り添い”に憧れを抱いてしまうのだと思う。 中盤、何度目か知らないが愛する男が再び自分の元に帰ってきて、女は心から喜ぶ。 お互い軽い悪態をつきあいつつ、女は真っ昼間なのに部屋のカーテンを閉める。 男は勘弁しろよという表情だが、実のところまんざらでもなさそうだ。 森繁久彌、淡島千景、二人の名優の一挙手一投足を含め、このシーンの総てが可愛過ぎる。 さて、僕自身、決して甲斐性があるわけではないので、せめてこの映画の夫婦のように愛らしい二人で居続けたいものだと思う。 「頼りにしてまっせ」を連発しつつ。 [CS・衛星(邦画)] 9点(2013-08-25 23:42:24) |
756. スター・トレック/イントゥ・ダークネス
《ネタバレ》 過去のシリーズ作をまったく観ていなかった僕を「ちょっと“トレッキー”の入り口に立ってみようかな」と思わせた2009年の前作の出来映えは、娯楽映画としても、SF映画としても素晴らしかった。 その新シリーズの満を持しての続編に対しては、ブロックバスター映画の公開が重なる今夏においても随一の「期待」をしていた。ためらうことなく、無い袖を振ってIMAX3D版で鑑賞。 後進惑星でのミッションを描いたプロローグから映像的な迫力は、当然の如く抜群で、序盤から予定通りの高揚感に包まれた。 が、しかし、結論から言ってしまえば、その後のメインの展開に、高揚感を更に加速させる爆発力が残念ながら備わっていなかった。 各種イントロダクションに主人公以上の露出で登場していたベネディクト・カンバーバッチ演じる悪役が、想定通りに登場し、殆ど想定通りの悪役ぶりを披露する。 英国BBCのテレビドラマ「SHERLOCK」のファンなので、カンバーバッチの抜擢は嬉しく、存在感のあるパフォーマンスをしてはいたが、如何せんキャラクター造形が凡庸過ぎた。 対峙する主人公はじめエンタープライズ号の面々の活躍も、極めて予定調和に終始し、アッと驚くことがまるでなかった。 ストーリーがベタであっても、描き方によって目新しい娯楽性に導き出すことはいくらでも可能だと思うし、特にこの製作スタッフであれば実現できたはずだけれど、前作に対してあまりに手際が悪く、“工夫”のないストーリー展開が残念。 ストーリーの稚拙さが目立つと、画的な見せ場の印象も極めて低くなってくる。 各アクションシーンの見せ方にしても、宇宙船をはじめとするギミックにしても、どうも目新しさがなかったように思える。 偉大なスペースオペラシリーズの一作として、ラストのバトルが地球上での“追いかけっこ”からの“殴り合い”では、どうしたってアガらない。 ハードルを上げ過ぎてしまっていた部分は確かにあり、これだけ酷評寄りのコメントを並べた上でも、充分なクオリティーを備えたエンターテイメント大作であることは間違いないと思うけれど、前作以上の「衝撃」を期待していしまった以上、結果的に欲求不満が溜まってしまったことは否めない。 「スター・ウォーズ」とのまさかの掛け持ちで忙しかろうが何だろうが、J・J・エイブラムスには次作も責任を持って監督してもらい、反撃の一撃を食らわしてほしいものだ。 [映画館(字幕)] 4点(2013-08-24 17:43:07) |
757. パシフィック・リム
上映前に買った飲み物をカバンに入れたまますっかり忘れてしまっていて、上映後興奮してカラカラに渇いた喉に一気に流し込んだ。 映画は常に没頭して観ているつもりだけれど、それでもこれほど“無我夢中”になった映画はあまりない。 そして、これほど監督をはじめとする製作スタッフに「感謝」を捧げたくなる映画も珍しい。 冒頭、いきなり異次元から“怪獣”が問答無用に襲撃し、人類側の最後の砦である“巨大ロボット”が、文字通りの肉弾戦を繰り広げる。 実際、ひたすらにそれの繰り返しの映画である。ストーリーなんて明らかに後付けで、突っ込みどころ満載。 しかし、その“ほつれ具合”こそ日本人が生み出し、愛した「怪獣映画」「ロボットアニメ」の真髄であろう。 もはや巨大な鋼鉄の“建造物”であるロボットが大勢の技術者によって“起動”し、パイロットによって“駆動”する様の一つ一つに対して、高揚感が治まらず、思わず座席から身を乗り出して終始ニヤニヤしてしまっていた。 怪獣の襲撃シーンで用いられている音楽は明らかに“伊福部昭オマージュ”に溢れており、怪獣の重量感による地響きと共に響く旋律に涙が溢れそうになった。 そして繰り広げられる大攻防戦。「これぞ大スペクタクルだ!」と古風な言い方を敢えてしたくなる。 日本の本多猪四郎、米国のレイ・ハリーハウゼン、映画史に名を残す“怪獣映画の父”たちにこの映画を捧げたギレルモ・デル・トロ監督の意志は紛れもなく崇高で、日本人映画ファンとして感謝の念が尽きない。 普段は絶対に字幕版しか観ない主義だが、「これは米日合作映画だ!」と一方的に現実逃避を決めて、今回は敢えてIMAX3Dの日本語吹替え版で鑑賞した。 製作スタッフの、日本のアニメ文化への崇高な尊敬の念に対して呼応するように揃えた豪華声優陣が功を奏して、素晴らしい吹替え版に仕上がっていると思う。 何よりも、この映画に限っては、怪獣映画、ロボットアニメに純粋に興奮した「あの頃」に完全に立ち返って鑑賞すべきであり、字幕を追うなんて無粋なことを避けることもまた一興だろう。 兎にも角にも超最高!ありがとう!ギレルモ・デル・トロ! 続編、スピンオフ、ロン・パールマン並みのしぶとさで期待しております。 [映画館(吹替)] 10点(2013-08-20 16:58:40)(良:7票) |
758. ワールド・ウォー Z
どこかの悪大佐じゃないが、「人がゴミのようだーーー!」と思わず叫びたくなる“見せ場”は、トレーラーで何度も観ていてもやっぱり衝撃的で、個人的にはその過剰なまでの仰々しさが非常に好ましかった。 「ゾンビ映画」ということを大々的に触れ込むと、客層が限定されると思ったらしく、いやに“家族愛”を強調した国内プロモーションには辟易したが、言うまでもなく、この映画は紛れもない“怒濤”の「ゾンビ映画」である。 ただし、基本設定として描かれるストーリーテリングは、あくまで感染症のパンデミックであり、必然的に全世界的にゾンビが大発生している状態であるので、前述の通り良い意味で仰々しい映画世界は、恐怖性というよりもエンターテイメント性に富んでいて、僕のようなホラーが苦手な者でも程よい恐怖感と共に終始楽しめる「ゾンビ映画」に仕上がっていると思う。 “人体”そのものが虫の大群のように襲いかかる衝撃のビジュアルもさることながら、印象的だったのは、主演のブラッド・ピットの“目尻の皺”だ。 「ああ、もうこんな深い皺があるんだ」と稀代のハリウッドスターの老いを感じる一方で、これまでのブラッド・ピットの主演作のどれよりも、彼の「生身」の姿が投影されている映画のように思えた。 国連の紛争地域担当エージェントという他の映画ではあまり聞き慣れない役柄が、私生活のパートナーであるアンジェリーナ・ジョリーの国連親善大使としての活動から着想を得ているだろうことは言うまでもなく、途中両親を亡くした少年を家族の一人として受け入れる様なども、難民の子供たちを養子としている私生活の投影そのものだろう。 そういう意味で、プロデューサーでもあるブラッド・ピットが、俳優業を礎にして積み上げてきた己の人格そのものを反映したとてもパーソナルな映画であるとも言えると思う。 それがただの自己満足に終始するでなく、きちんとした娯楽性を備えた作品に昇華されていることが、ハリウッドのトップをひた走る映画人として“エラい”ところだと思う。 どうやら例によって続編の企画もあるらしい。 今作では、都合の良い解決策で安直なハッピーエンドを描いているわけではないので、ここからどう展開していくのか非常に興味深い。 まあいずれにしてもはっきり言えることは、「全力疾走」が出来るゾンビほどコワいものはないとうことだろう。 [映画館(字幕)] 8点(2013-08-11 00:07:37) |
759. 紙ひこうき
ディズニー映画「シュガー・ラッシュ」の同時上映短編アニメーション。 たった7分という時間の中で、無限のドラマ性と、エモーションを生むのは、アニメーションならではの「チカラ」だと思う。 「街中で紙ゴミを撒き散らかし過ぎだろ!」とか、「そんな嫌々仕事したらそりゃ上司から嫌な顔もされるよ!」とか、もちろんそんな無粋なことを言うべきではなく、ファンタジックな小さなロマンスを堪能すべき。 [ブルーレイ(字幕)] 6点(2013-07-31 15:20:08) |
760. シュガー・ラッシュ
ゲームセンターに通ったという経験はなく、そもそもテレビゲームを子どもに与えることにそれほど積極的ではない家庭だったので、テレビゲームに対しての傾倒はそれほど深くはない。 とはいっても、ファミコンからプレーステーションまで基本的なゲーム機は浅く経てきているので、ゲーム世界の裏側を描いた世界は充分に楽しめた。 世界観の構図は、すばり「トイ・ストーリー」+「アベンジャーズ」のテレビゲームキャラクター版。 メタ的要素がこれでもかと散りばめられており、少しでもゲームで遊んだことがある者ならば、楽しくないわけがない映画世界が構築されている。80年代から90年代のゲームをやり込んでいるゲーマーなら、その娯楽性は倍増することだろう。 ただのゲームキャラクター大集合映画で終わっているわけではなく、そこは流石のディズニーブランド、ストーリーは極めて大衆的でありながら、誰もが感動できるドラマ性を内包している。 社会における個人の存在と役割、その中で生じる差別やヒエラルキー。 世界中の人々がそれぞれに苦悩している普遍的な社会の病理性が、時に辛辣に描かれている。 最終的なハッピーエンドは結果オーライ的な印象も受けるけれど、この作品があくまでも“子ども向け映画”であることのスタンスを貫いている以上、この展開は極めて真っ当だったと思う。 登場するキャラクターの中では、主人公(悪役キャラ)のホームであるゲーム世界のヒーローキャラクターの存在が光っていた。 この手の展開だと、実際のゲーム世界の設定と一転して性格の悪いキャラクターとして描かれがちだけれど、正真正銘の“良いヤツ”として描かれており、主人公並みの活躍をみせ、ロマンスまで成就させてしまう様が愉快だった。 最後に一つだけ苦言。ザンギエフは悪役じゃないよね? ただの勘違いだとは思うが、米国映画が「ソ連」の国旗を背負う彼を悪役に位置づけちゃうと、色々と時代錯誤的な面倒臭さが頭を出してしまう……。 [ブルーレイ(吹替)] 7点(2013-07-25 15:08:04)(良:1票) |