1. (500)日のサマー
サマーほどにはトムはモテない。仕事に誇りも持てない。かといってあきらめきれない夢に向かって日々努力しているわけでもない。だからトムは結婚でこの関係を固定し、仕事の不遇をサマーと結婚することで忘れ、サマーとの家庭を築くことで、仕事の夢をあきらめたかった。 恋愛をそれぞれの価値の自由市場取引と考えるなら、この結婚でトムは得をし、サマーは損をする。サマーならもっといい男との結婚が期待できるであろう。サマーにしたらどんなに愛されても自分を出汁にして夢をあきらめようとするトムには、生涯あきたらないものを感じるだろう。 サマーとしたらまだ自分に本当に気に入った男が見つからないので、手近にいて自分に熱を上げる暇つぶしの相手として、トムを選んだ。これは恋ではない。それをサマーは最初からトムに告げている。だからトムとしては勘違いしていいけなかった。たとえ肉体関係があろうと、最初から恋ではなく、彼女にとって暇つぶしの相手でしかない。 サマーをあきらめて、もっと魅力的でないけれども自分に恋してくれる女性を探すべきだったか?それで満足できたか?たぶんNOだろう。たとえ暇つぶしの相手であろうと、彼女と過ごす日々は彼に大きな良い影響を与えるはずだし、結婚に結びつかないとしてもその日々の価値は変わらない。トムが夢に向かってチャレンジする気になったのはサマーと過ごした500日があったからである。自分には本当にふさわしい相手が必ずいる、と信じて疑わず揺るがなかったサマーと過ごした日々があったから、トムも本当にふさわしい仕事にチャレンジする気になったのである。そしてそうなったからこそオータムと関係を結べるまで成長できた。 恋愛の目的は結婚などではない。お互いに愛することで影響しあう、目的などないただただ愛することそれだけが目的の行為が恋愛である。だからトムはそのような日々を持つことができたすごく幸運な男なのである。 [DVD(字幕)] 8点(2019-08-09 17:51:11)(良:1票) |
2. プライド(2008)
普通ならまず見ないジャンルの作品でしたが、愛のむきだしの満島ひかりに注目して観たらこれがかなり面白く、おっさんなのに原作少女マンガまで読んでしまった。小品映画かと思ったら結構お金をかけて原作の雰囲気が再現されていると思う。原作は史緒の教養ロマン大作の趣が強いが、映画は萌のピカレスクロマンの印象が強かった。ネガティブを武器に不幸を食べてバージョンアップするブラック萌が面白すぎる。苦しむことこそ総ての人間の運命であり、人間同士の連帯の基盤はネガティブにこそある、ということだろうか。 [DVD(邦画)] 8点(2009-10-27 19:32:55)(良:1票) |
3. 愛のむきだし
社会こそ個人が洗脳されていることさえ意識させない超強力な洗脳マシンであり、カルト教団との違いはその信者の多寡にすぎないのでは。 個人が洗脳に対抗する拠り所は、その好き嫌いにある。そして好き嫌いは十字架だ。個人が勝手に選ぶことができない生まれつきのものだ。 せっかく生まれた人生、好きなものを隠したまま、本気で求めないまま死んでしまうよりは、社会からヘンタイ呼ばわりされても、開き直るほうが人生としては成功だ。 社会から排斥されても自らのヘンタイを抑圧せず、自らの性癖と社会との共存の道を探求していく戦いこそ文化を作る。 愛とは社会からヘンタイ呼ばわりされる性癖も含めて、その個人を受容し、その個性をその個性のまま伸ばそうとするもののはず。存在さえ意識されない強固に染み付いた社会の洗脳を解く鍵は愛にある。 ■この映画で一番悲惨な愛を貫いたのは、ユウがヘンタイであること、ヨーコが好きであることも含めてユウを愛し抜き、男女の愛が叶わぬが故に、代用として信仰を共にする家族愛のような関係を築こうとし、結局それさえ叶わずに果てていく邪悪な悪役コイケである。 とにかく4時間を退屈せずに魅せるだけでもすごい。満島ひかりのツンデレが魅力的、入魂の演技。 [DVD(邦画)] 9点(2009-10-18 06:35:21)(良:2票) |
4. ヤッターマン(2008)
く、くだらない、、でも楽しい!!特にドロンボーダンス、ヤッターワン出動、エンディングのミュージックシーンが最高に楽しく、エンドルフィン噴出ものでした。ドラえもんのようにアニメとはいえ、せっかくお金をかけて劇場版にするんだから勇気と友情をテーマに子供に見せたい意義のある映画にしよう、などという向上心のかけらもなく、ひたすら通俗的で下品に徹している点がひょっとしてなかなか大したことなのかもしれない。邦画にしては未曾有の制作費をかけながら、思い切りくだらない映画を作ることこそ本当の贅沢であり豊かさかも。とにかく細部に至るまで作り手の情熱を感じます。不況で無駄を徹底的に排除せよ、ときりきりさせられている今の大人たちこそ、邦画バブル最後かもしれないこの究極の贅沢作品を劇場で観て溜飲をさげるべきではないでしょうか。 [映画館(邦画)] 8点(2009-04-03 16:52:16)(良:1票) |
5. ジェネラル・ルージュの凱旋
映画としては面白くないことはないのだけれど、全体的に前作から続いて釈然としないのは、抜群の洞察力とあくの強さで事件をてきぱき解決するヒーローが、できることならみんなで石をぶつけてやりたい、と全国民的に思われている厚生官僚(事件解決の動機も省益の確保といういかにもな設定)であることではないか。本来なら普通の人なら切り捨てるものも大切にする人、目的があって結果が得られることしかやらないという現代人の病、合理主義や成功主義の病に侵されていない対極の非エリートヒーローとしての竹内結子が風貌に合わない意外な活躍をして、ロジックで固まった厚生エリートを凹ませれば胸もすくのに、バチスタを上回ってどうしょうもないただの引き立て役の無能医師にしか表現されておらず、映画としての主役の基本設定に失敗していると思う。言いたいことも病院経営と両立しない現代の救急医療制度の矛盾の告発であり、志の高い映画だとも思うのだが、救急医療が機能しなくなっているのは利益追求する病院がすべて悪いと言いたげな展開になっていて告発ポイントがずれていると思う。医療従事者が過労死寸前の献身や経済的不利益を引き受けなければ成立しないとしたら、それは大もとの制度設計そのものがおかしいからのはず。救急医療従事者に崇高な自己犠牲の職業倫理を押し付けることで問題を解決しようとして、救急医療従事者でも普通の生活できる制度に工夫しようとしない厚生省の無為無策こそ大きな問題のはず。ところがその点は全く追求されない。堺雅人みたいなスーパーヒーローが存在して初めて成り立つような救急体制は、現実にはあり得ない。これでは厚生省の無策への論点ずらしのためのプロパガンダ映画ではないか?原作どおりなら医者(原作者)の厚生省へのゴマすり作品じゃないか?とも思えたりするのだが。 [映画館(邦画)] 7点(2009-03-12 10:05:02)(良:1票) |
6. うた魂♪
合唱というテーマは義務教育で強制されたトラウマで、文部省特選的偽善臭がして見る気にもならなかったのですが、映画評の評価もそこそこ高く、表紙のヒロインの笑顔に魅かれて観てみました。これほど「観て良かった」と思え、さわやかな後味、元気になれる映画なかなかないのではないでしょうか?合唱とは強制されるとつらい最悪な体験だけれど、しかし歌っている人に深いところで触発され、自分から歌う気になって一緒に歌うと最高の何かが共有でき最高に気持ちのいいものだ、ということを教えられ、偏見がひとつ減りました。超絶美少女のまさかのおバカ演技と薬師丸OhMyLittleGirl(尾崎豊!)のゴリを感動させるのに納得の歌唱にプラス1点づつ。■@youTube--- utatama で検索すると夏帆さんのソプラノが聞けるようです。 [DVD(邦画)] 9点(2008-11-26 05:00:10) |
7. ノーカントリー
シガーは「悪」であるか? シガーにとってのルールは強者には弱者を殺す権利があるということだ。それは普通の人が良心の呵責なく罪もない牛豚を殺すようなものだ。屠蓄銃で人を殺すのはシガーにとって他の人間を殺すことが家畜を殺すようなものだからだろう。彼から見れば「汝殺すなかれ」という一般社会のルールなど、殺されず安心して暮らしたいという弱者連合の社会が決めた勝手な決まりごとにすぎない。一旦戦争になれば大量に殺せ、というように国家が勝手に決めている一時的まやかしにすぎない。自然界のルールは弱肉強食だしアメリカの社会自体のルールも基本は強者による自然淘汰である。彼がやっていることは国家間で強国アメリカがやっていること、異種生命間で強種人類がやっていること、企業間で強社独占企業がやっていることを、身近な人間の間でやっているだけだ。 彼から見れば弱者連合社会のルールに守られた家畜のような人間が、弱肉強食のぎりぎりの世界で自由に生きる強者の自分に、馴れ馴れしく世間話することは我慢できない侮辱だろう。彼からみれば他の一般人や社会は軽蔑すべきものなのだ。年老いて弱者となり殺される側になったとき、シガーはそれを当然と受け止め死んでいく運命を淡々と受け入れるのだろう。もちろん完全に息の根を止められない限り、しぶとく傷を治してどこまでも生き続けようとするだろうが。シガーのような社会が勝手に決めたルールの圏外で生きうる強者に、弱者連合社会の一介の被雇用秩序管理役に何ができるだろう。モスの妻のように良心や感情に訴えても無駄である。彼を止められるのはより大きな運命の偶然だけだろう。 [DVD(字幕)] 8点(2008-09-01 11:15:46) |
8. キサラギ
《ネタバレ》 結局たった五人のこのファンサークルの中においてさえキサラギの芸能活動を見て純粋にファンになったのは家元ただ一人だ。(ラストのビデオでそれを一気に納得させるカワイクないわけではないし、モテそうもないわけでもないのだけれど、アイドルとして見ると何かが根本的に違うという絶妙な微妙のアイドルぶり!)家元はなぜキサラギのファンになったのか。家元は親の七光りと期待とで警官になり、しかしそれが全然向いておらず、周囲からいじめられていた。逃げ出すこともできず、場違いなところに敢えて存在せざるを得ないという境遇が、思い切りの勘違いでアイドルのフリをして実に微妙で場違いな芸能活動しているキサラギに共鳴し、彼女に自分を重ねて応援させたのだ。結局このファンもよく考えると実に実に微妙なファンなのである。しかし状況は常にこの映画のように二転三転四転する。状況の変化でいつの間にか不適応者が最適応者になったり、ひょんなことから俳優としてなかなか微妙な立ち位置のユースケのように、オダユージのおかげで映画で主演を張れるようになったりするし、塚地武雅にも主演映画があったりするのだ。キサラギだって死ななければいつか主役になれる日がきたかもしれない? まあいろいろありましょうが、歌い、踊り倒して頑張りましょうというところかな。 [DVD(邦画)] 8点(2008-04-25 20:37:27)(良:1票) |
9. 亀は意外と速く泳ぐ
人気、実力、アイドル性をかねそなえた当代若手トップ女優二人と、実力派強力脇役陣という稀有の豪華素材を使って、しょうもないネタの、「そこそこ」味の笑いを狙って作ったぜいたく?な絶妙のバランス感覚が面白かった。しかし脱力系といいながら、ここぞというところではかなりこだわりがあり、細部までかなり努力し、お金もかけてつくられている。(飛行機がかぶる斬新なエンドロール(安いけど)とか公園の秘密基地シーンとか)。ラーメンを知り尽くした達人が、一般受けする派手でわざとらしい味を排して、大ヒットなどして逆に困ったことにならないよう絶妙の「そこそこ」の味を狙ったみたいな。監督は伝説的テレビ番組を作ってきた構成作家。テレビの面白さは台本がないライブ感にあり、しかしテレビの偶然や事件は、実は念入りに仕組まれた台本が存在していたりする。長年テレビ界で台本が存在しないように面白く見せてきた達人にかかれば、最初から嘘っぱちが許される映画で面白く語ることなど簡単、というテレビマンの自負が、能力を隠して目立たなく生きるスパイに仮託して描かれているのではないか。さらに現実にはテレビ界こそが、かの国の工作機関が最重点で国民に全くその存在を感じ取られずに世論工作に暗躍している世界だ。精密に狙い、力も入っていてハイセンスなのだけれど、その狙いや努力の跡やセンスのよさを徹底して隠して微妙な笑いにつなげ、普通の生活の裏側にある意外な底知れなさも描いて見せたのだと思う。予告編の亀の動物虐待にマイナス一点 [DVD(邦画)] 8点(2008-04-20 14:28:18)(良:1票) |
10. それでもボクはやってない
裁かれたのは痴漢行為ではなく、やっていないのだから「やっていない」とあくまでも主張してやまない西洋的近代個人主義精神なのである。そしてさらに左遷という形で裁かれたのは自分自身の判断で裁判を行う裁判官の西洋的近代個人主義による精神なのである。つまり個人の本心にもとづいて行動するアイデンティティはこの国では排斥され、場の空気を読め、と常にみんなが期待する役割を演じることが強制されるのである。だから交通事故をおこしたら被害のない方が、悪くなくてもまず謝り、不祥事を引き起こした省庁は、関係のない新任の大臣がまず国民に謝るのである。そもそもこの国の裁判制度は、もし無罪が乱発されたら、みんなが裁判で決着をつけるようになり、そうなると制度的に機能しなくなる貧弱なつくりになっているのである。そもそも西洋の正義なるものは未だに通用していないのに、形式的に西洋の正義が機能しているふりをし、学校でもそのように教えながら、実は個人を徹底的に圧殺する場の空気が支配する人権後進国なのである。年金さえ自国民の政府では管理できず、役人たちが食い散らかしてしまう公認汚職は裁けない社会制度後進国なのであり、ごまかしだらけのGDPによる偽装先進国だったのである。だから個人が個人の良心にもとずいて声を上げる精神は、制度の根幹に関わるとして統治機構により圧殺されるのである。よくできた脚本なので社会的示唆に富む映画になっていると思う。 [映画館(邦画)] 8点(2008-03-09 22:00:26)(良:1票) |
11. ALWAYS 続・三丁目の夕日
前作では、模型飛行機、夏休み、高円寺への遠出、などこども時代のわくわく感を彷彿させるこどものエピソードが中心で、だからこそ昭和ノスタルジーが生きてきたと思うし、べたな漫画的展開にもあっていた。続編では全体的に大人側のエピソードに主軸が移ってしまい、子どものころの感動を、昔の情景の中で追体験するという本作の魅力がぶれたと思う。大人中心になったため、賞獲りのどたばたとか倒産詐欺とか、全体的に世知辛い映画になってしまった。大人中心になった理由は製作側の仲間意識が優先され、大人側の俳優の出番のバランスが優先されたからではないか。特に母親の昔の恋とか8ミリとかのエピソードは、単純に俳優・薬師丸の出番調整ためだけに用意されたエピソードのように感じた。そして前作にあった淳之介の母の暗さとか、ヒロミの悲恋とかの負のスパイスが全然なくなって、安易でむりやりなハッピーエンドばっかりにしたところが、印象の薄さにつながったと想う。凶暴なゴジラシーンには魅力はあったが、映画としての前作が持つ、漫画的でべただけど、ビビッドだった魅力には到底及ばない。主軸を新顔の少女と子ども達との葛藤と成長の物語に移せば、前作を上回る続編になれたと想う、この映画は常に子どもたちが主役であるべきだったのだと思う。 [映画館(邦画)] 5点(2008-01-08 17:28:24) |
12. 虹の女神 Rainbow Song
あおいは恋よりも、創造の女神を追求する妥協をしらない映像ストーカーだ。しかし人は、一人の人間として、片面だけで生きるのではなく、生を総体的に実現して生きたいとも想う。つまり男勝りの仕事をするキャリアウーマンも、家庭にはいり、愛する人との子供を生んで育てたいと考える女としての一面を同時にあわせ持つ。学生時代、ディレクター時代、あおいは妥協を許さないたくましい創造者と、繊細で臆病な女性の両面の間で揺れ動いている。あおいの自主映画は、表現者としてのあおいを仮託したストーカー智也が、死に行く女としてのあおいを看取る映画と解釈できる。このようにあおいの女性としての一面は、デート喫茶でミットモネー状態となったり、智也からも女を感じない、といわれたりで、創造者の一面とはちがってなかなか世間に認めてもらえず抑えられ続けてきた。そしてあおいが智也の背中を他の女へと押したように、智也はあおいを創造の女神へ向かうように押し続ける。あおいが卓也の背中を、他の女へ向かうように押すのは、幸福な恋愛が創造する魂をスポイルするのを、彼女の創造者としての一面が防ごうとしているからではないか。あおいが智也の鈍感なところを好きなのは、その鈍感が、彼女の創造者としての一面と、恋する女としての一面を共存させてくれるからではないか。そして創造する魂のために彼女は志半ばで倒れることになり、最後の最後に彼女が抑え続けていた、少女のように純粋な女としての一面の想いが、手紙の中の指輪に結実して表現されることになる。 深夜TVでちょっと見ただけで主演二人のリアルな演技にひきこまれ、ラストの指輪でついにかなえられなかった思いの切なさが心に残る。見返すたびに発見があり、解説サイトを読むことで映像の意味が深まり、深読みの楽しみもある上野樹里の魅力が炸裂する傑作。 [DVD(邦画)] 10点(2008-01-05 15:38:07)(良:1票) |
13. スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ
スケ番がヨーヨーを武器にして、刑事をやるという究極ともいえるおバカ設定をアイドル主演で映画化するのだから、おどろおどろしい所は暗くてもいいが、基調は明るくして、アイドルの持ち味を活かして、軽いの友情を描くべきだったと思う。本作のように、全体が暗くて、陰惨ないじめが横行する学園設定で、笑顔が愛らしいアイドルはニコリともしないシリアス演技では、いつたいどういう観客を想定して作ったのだろうか。これほど見事に観客の素直な期待を無視した娯楽映画作りをして、テレビで大宣伝するこの会社の劣化がすごく気になった。アイドルに求められる演技は、その時期の彼女だけが表現できるきらめきであり、女優のそれではない、と思う。あややは熱演しながら、この一作で天然明朗アイドルのイメージを崩壊させた気がするのだが、まさに捨て身で頑張っていたので彼女に2点。ラスト3/4からのやりすぎ無茶苦茶おバカアクション展開に1点。 [DVD(邦画)] 3点(2007-12-01 07:07:46)(良:1票) |
14. 下妻物語
本来誰にも同情心など抱かない強い独立独歩派のモモコが、イチゴのためにずっとこだわり続けてきた少女趣味をかなぐり捨てて、『ああ、15世紀のおフランスに生まれたかった・・・』のモノローグとともに、スケ番たちに怒涛の殴りこみをかけ、関西弁で思い切りタンカを切る、深田恭子・アイドルぎりぎりのファイトシーンが大いに笑え、かつ感動した。CGがこなれていて、映像表現がビビッド。何にもない田舎がみずみずしい魅力ある風景に変貌し、こ汚い農家にも、自らの内からあふれる充実があれば、フランスの宮廷以上の魅力と心地よさがあることを発見させてくれる、環境にあふれ出し、その意味を一変させる少女達の生命感が魅力。 [DVD(邦画)] 8点(2007-11-28 12:21:50) |
15. ロッキー・ザ・ファイナル
これは他の人には出来ない自分だけに与えられたチカラを、何の見返りを期待することなく、つまり純粋に自らのチカラを発揮するという目的だけのために、全力で発揮しようとするヒーローの物語だ。ロッキーは親戚の兄を助け、昔戦ったボクサーを助け、自分にひどいことを言ったもと少女の一家を助ける。純粋にそれは彼にしかできないし、彼以外の人はそんなことをやろうとしない。そうやって周りの人を、何の見返りも期待せずに淡々と助け続ける。そして老いても、昔の栄光を毀損するリスクを犯してでも、挑戦し続けるスピリッツをみんなに見せようとする。挑戦することに見返りなどない。敢えてその理由を言えば、それはロッキーにしかできないし、ロッキーしかやろうとしないことだからだ。苦しくてもやり抜こうとする勇気を与えてくれる映画だ。ただし、苦しい場合やうまくいかない場合は、その努力する方向が間違っているというメッセージの場合もあるから、ロッキーのようにがむしゃらに頑張るのでなく、立ち止まってもう一度その方向が間違っていないかどうか考えてみることを進める。 [DVD(吹替)] 9点(2007-11-27 15:15:39) |
16. 時計じかけのオレンジ
私はこのようなむき出しの暴力描写、はだか描写は映画表現の堕落と思うし認めることはできない。卑怯にもキューブリックはこの作品の上映をふるさとの英国では許可しなかったそうだ。自分の故郷で上映するには恥ずかしいと思ったのだろうか。デザイン的には優れている、暴力描写は美しく秀逸だ、しかし根本的に映画としてインモラルだ。テーマそのものはモラル的だが、ここまで暴力をスタイリッシュに高らかに歌い上げるほど大したテーマでもない。この映画描写により、この映画をまねたウルトラ暴力が一般に蔓延し、性暴力がまるでおすみつきを得たかのように世界にのさばりだした。キューブリックにはそのことに対する責任があるはずだ。それは、映画の出来不出来以前の問題であり、人間としての生きる姿勢の問題であり、功なり名を遂げた表現者としての一般に対する責任の問題だ。ふるさとで上映を許可できないような映画を作るな、といいたい。 [DVD(吹替)] 0点(2007-11-21 01:29:00)(良:3票) |
17. 大脱走
この作品については客観的になど語れません。群像劇、男の仕事をしっかり描いた映画で、敵役のドイツ人についても、単にドイツという祖国のために職務として兵士となっている点をしっかり描いている公平な視点にも好感がもてます。しかし、なんと言ってもこの映画はスティーブマックィーンの映画でしょう。登場から最後まで魂が持っていかれました。彼が表現したのは、何事も 孤独に、誰にも頼らず、自由を求めてあらゆる手段を駆使して縛るものから逃げようとするスピリッツです。自身が孤児のように育ち、多分、多くの規律や制約のなかで、虐げられて育てられてきた俳優以前の人間としての、自由への渇望、自分の足で立ち、自分の意思で行動したいために、安全でそこそこ生きることを保証されている環境から、命を賭けて敢えて逃げ出そうとするスピリッツが、どんな小説や他の映画よりも的確に、自身の姿、どんな強敵に対峙しても、不敵そのものの表情をうかべ胸を張ってにやりとし、『いくらでもまたやってやるぜ』という相貌を媒介にして、伝えられていた、そんな気がして私にとっては満点の映画です。 [DVD(字幕)] 10点(2007-11-18 17:25:13)(良:1票) |
18. からっ風野郎
さすがにアノ三島が主演するだけの脚本だ。私の高校時代、親がやくざということで、みんなから怖がられていた同級生がいた。結局その人は、物理学が苦手で潔く決断し退学してしまったけれど、いまどうしているだろう? ■断言できるが、当時の私より彼のほうが人間的に上だったと思う。■子に親は選べない。そして、やくざの子に生まれたら、日本ではそれ以外の道を生きるのは難しいことなのかもしれない。そんなことを思い出させて再考させてくれたリアリティのあるいい映画だった。■この映画の若尾文子のような女性像こそ、昔日本に存在した世界に誇れる日本のお・ん・なだったと思う。その理想像を映画として見える形に残してくれただけでも、この映画には十分な価値がある。 [DVD(邦画)] 9点(2007-11-16 03:50:23) |
19. フライトプラン
多くの人のレビューとと私の見解とが違うようなので、敢えて満点をつけてこの映画のうらの意味を述べさせて頂きます。( あくまで個人的見解、又は妄想 )■この作品の本当のテーマはアラブ人にひどいことをしながら謝罪もしない、自分の子供のために全乗客及び客室乗務員達を巻き添えにして不安のどん底に落とし込んでも子供のためという大義名文にかこつけて、他人の迷惑を何も感じようとしない、身勝手な母親のはた迷惑な正義です。そう、この母親こそ、身勝手な正義 ( 民主主義というかつてはあったかもしれない虚妄、今や親アラブ意見の表明不可能な自称・言論の自由な民主国家 ) のために一般人が乗る大型ジェット機 ( つまりは地球ですな ) を、下手すれば墜落させかねない、地球における最強国家アメリカを意味しているのです。もちろんこんなテーマで映画を作ることを、ユダヤ資本に牛耳られているハリウッドが許すはずがありません。だからこそ、ジョディフォスターという客を呼べる賢い大女優を使って、娯楽作を仮装しながらしっかりと言いたい事(つまりアメリカの地球へのはた迷惑な行為、アラブへの非道)を告発したのです。ジョディフォスターがアラブ人に謝罪しないのは当然なのです。非常に静かなる細き声ですが。その映画人の良心と勇気を讃えて満点にしておきます。 [DVD(字幕)] 10点(2007-11-14 00:15:10)(笑:1票) (良:7票) |
20. ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序
最終日に漸く観ることができました。単なる焼き直しとも聞いていたのでDVDで十分と考えていましたが、信頼するに足る人から『二回観た、すごい』と聞き、その翌日に観ました。その人には感謝です。■最高の出来だと思います。■テレビ版では弱いだけみたいな印象のシンジの奥底にある強さ、そして綾波レイの伝えたい想いが山のようにあるのに、うまく伝えられない、不器用で、無口と無表情の奥にある悲しみ、しかし守りたい人のためなら自分の生命を、なんのたらいもなく投げ出す強さ、そのようなテーマがこれまでのものよりも、数段わかりやすく的確に表現されていたと思います。ラストの綾波レイの微笑みは、生涯記憶に残り、おりにふれて思い出すに足るいい笑顔だったと思います。静かに行く者はよく行く。アスカなら絶対他人のために自分を犠牲にしたりしないし、ミサトならもっと執拗に自分もシンジも助かる方法をジタバタ模索しただろう。レイはあっさり『さようなら』・・・・・泣けた。 悲しすぎる。だから綾波レイは・・・・いい!! [映画館(邦画)] 10点(2007-11-13 03:50:59) |