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【製作年 : 2000年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  楽日 《ネタバレ》 
多くの映画が2時間で主人公の一生を描ききるように、時間の跳躍は映画の醍醐味である。観客は我を忘れ小気味良いこの跳躍に酔いしれる。一方、長回しはこの小気味良さから我々を現実的な時間軸に引き戻し覚醒させる技法である。ではそうした長回しを用いて映画を撮ることの意味とは一体何だろう。その一つの答えを蔡明亮は本作で提示している。カットを割ることなくカメラが空間を捉え続ける時、それを観る我々の時間は自ずとスクリーン上に描かれるその時間と同調し、ぴたりと重なりあい同じ秒を刻む。そのとき私たちは画面に映し出される映画と、時間をそして空間を、共有する。恰もその場に居合わせたかのようにその瞬間を「体験」するのだ。本作でも多用される固定カメラによるワンシーンワンカットの長回しには、映し出される被写体の動きや変化が不可欠となる。フィックスの構図で何ひとつ変化のない光景を映せば静止画と判別がつかない。だからこそ、下心を秘め彷徨する男たちや、しどけない年増女の怠惰な蠢きですら、この空間に息を吹き込む生命となる。びっこを引きずり通路や階段をのろのろと行く女従業員の陰気な歩みも、画面の奥でひたすらに窓を打つ激しい雨垂れもだ。あるいは映写技師不在の映写室で彼の残したタバコの吸いさしから立ち昇る幽かな紫煙のゆらぎ、それだけでもいいだろう。映画を映画たらしめるそのささやかな動きすら失った時、映画は死ぬ。だが驚くべきことに蔡明亮はそれを実行する。かつて栄華を極めながらも楽日を迎えた映画館。最後の上映を終えライトに照らし出された夥しい客席を、先述の女従業員がのそのそと横断しやがてフレームアウトする。一切の動きを無くした巨大な空間は、無音の静止画となり、ただそこに横たわる。映画が映画としての機能を停止する(=死ぬ)この数分間にも及ぶ「静止画」に込められる万感の思い。主を失い時を止め今まさに息絶えた映画館に、カメラはただただじっと寄り添い続けるのだ。まるで最後のその別れを惜しむように。そうして蔡明亮は、映画の死を以て映画館の死を悼む。土砂降りの中をバイクで去っていく映写技師を見送り、女従業員もまた違う方角へと歩いていく。彼女は気づいただろうか。男がバイクに跨るほんの一瞬ヘッドライトが照らし出した緑色の炊飯器を。その中には彼女が半分残した巨大な桃饅頭(まるで哀悼の意を表す葬式饅頭のようでもある。)が息をひそめている。
[DVD(字幕)] 10点(2013-03-09 17:48:50)
2.  海角七号/君想う、国境の南 《ネタバレ》 
かつて台灣は日本であった。個人的に大日本帝國の植民地政策を肯定するつもりはさらさらない。しかし日本統治期を生きた台灣人の夠くは、それでもかつて自らが「日本人」であった過去を愛おしみ、また懐かしむという。日本が第二次世界大戰に敗れ、台灣が中國國民党に委ねられた時、彼らは思ったに違いない。なぜ私たちを見棄てて行ってしまうのかと。あなたたちと同じように、私たちもまた日本人ではなかったのかと。『海角七號」が描くのは、まさに日本人が台灣を去ったその日に書かれた七通のラブレターである。手紙を書いた若き日本人教師とその宛先たる女学生は、かつての日本と台灣の姿そのものだ。手紙は語る。「君には解るはず。君を棄てたのではなく、泣く泣く手放したということを。みんなが寝ている甲板で、低く何度もくり返す。棄てたのではなく、泣く泣く手放したのだと。」引き出しの隅に隠され決して投函されることのなかったその戀文を、「海角七號」に住むうら若き「小島友子」はどれほどの想いで願い、そして待ち望んだことだろう。楊徳昌や侯孝賢らの名を持ち出すまでもなく、台灣映画のレベルはとても高い。その意味では、本作の出来はお世辞にも良いとは言い難い。冗長で野暮ったく、粗だらけですらある。だがこの映画には、多くの台灣人の想いを代弁する“心”が宿っている。台灣では、映画館に足を運んだ日本統治期世代の老人たちが劇中幾度も挿入される日本語の唱歌「野ばら」を合唱し、おそらく心のどこかで待ち望んできたであろう件の聲にそっと涙したと聞く。だが台灣映画の歴代興収を塗り替えるほどの大ヒットとなった本作が、日本で大きな話題になることはついになかった。日本人から台灣人へのラブレターを描いた『海角七號』は、その実、台灣人が日本人に宛てた切なる戀文なのだろう。だが日本人はまだ、引き出しの隅に大切な手紙を仕舞い込んだままだ。
[DVD(字幕)] 7点(2012-01-24 15:46:59)
3.  エターナル・サンシャイン 《ネタバレ》 
人類にとって最も深い悲しみとは何だろう。おそらくそれは大切な何かを、或いはかけがえのない誰かを、「喪失」することだ。家族を友だちを愛犬を恋人を、つまりは愛した誰かを、私たちは時に失う。そうしてある日突然訪れる深く耐え難い悲しみに、私たちは傷つき苛まれる。そんな時、私たちは自らの弱さにまかせて願うだろう。この記憶をまるごと消し去ることが出来たならどんなにかいいだろうと。耐え難い「喪失」をひとまわり大きな「さらなる喪失」でまるごとくり抜いてしまえたなら、と。だが『「喪失」による悲しみをも喪失』した時、人間は本当に幸福なのだろうか。本作『エターナル・サンシャイン』は、一筋縄ではいかない小賢しい話法を用いて恋愛の本質を綴る類いの正直いけ好かない映画だ。だが、いけ好かないはずなのにそれでも私の胸を悔しいほどストレートに打つ。それはこの映画がまさに人類の切ない夢=『「喪失」とさらなる喪失』の物語を驚くほど真摯に見つめているからだ。愛しあい、そして別れたジョエルとクレメンタイン。彼らが再び惹かれあうラストは、恋の奇跡を謳った安直なハッピーエンドにも見える。だが消去した過去と同じように、2人はいつかまた同じ別れに辿り着くだろう。クレメンタインが言うように、2人は同じ道を、永遠ではないその道を、再びいたずらに辿るだけだ。耐え難い「喪失」に靴先を向けて。それでもジョエルは言う。オーケーだと。それでオーケーなのだと。永遠ではない愛に、はたして価値はないだろうか。答えは否だ。断じて否だ。クレメンタインが氷上の記憶を決してぬりかえられなかったように、永遠ではなかった愛にもかけがえのない価値がある。同じ道を行きやがて「喪失」に辿り着いても、おそらく彼らが再び「さらなる喪失」を選択することはないだろう。その時、彼らは耐え難い「喪失」をついに真正面から受け止める。そうしてそれぞれがそれぞれに、耐え難いその悲しみを今度こそ幸福な血肉とする。ラストショットは雪に戯れる2人の姿だ。それはその先のハッピーエンドを示す夢のような未来の光景ではない。ニット帽に隠されたクレメンタインの髪の毛は、それが過去であることを示す赤色だ。それでも、そう、それでも、だ。永遠を叶えられなくてもそれでも、消去されることなく残った記憶は永遠の煌めきで輝き続ける。映画は言う。オーケーだと。それでオーケーなのだと。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2011-04-02 19:30:32)(良:2票)
4.  白いリボン
撮影は全編カラーフィルムで行われたと聞くが、最終的にミヒャエル・ハネケがここに残すべきと判断した色は、子どもたちの腕に巻かれるリボンや村を覆う雪の白、それだけだったのかもしれない。色彩を失くしたモノクロームの村は、血の気がひいたように冷たく寒々しい。さらにハネケは音楽の一切を退け、この村に漂う長閑な静寂をくっきりとふちどることで、逆説的に、その裏に潜む不吉や不穏を強調する。息づまる異様なこの静けさが雄弁に物語るのは、それが何だか分からぬままそれでもひたひたと確実に迫り来る、得体の知れぬ虞だ。愛人であったと思しき中年女の老醜を忌々しげに罵る医師。そんな彼がふと思いついたように年頃となった自分の娘に年齢を訊ねる場面でこの父娘を包む静寂には、身の毛もよだつ禍々しさが息をひそめている。色彩を排し音楽を排しさらにハネケが試みる次なる仕掛けは、物語の核=真実をも排除することだ。ハネケ映画には珍しく語り手のモノローグをそこここにちりばめながらも、そこにつまびらかな説明が付与されることはなく、描かれる出来事もまた決してその核心を顕にしない。そうして恐怖の正体は最後まで明かされずじまいとなる。たとえば、牧師である父が語る「奇病で死んだという罪深い少年の説話」に頬を上気させ恥辱に苛まれる息子と、彼の腕に何らかの罰として巻かれる純潔の白いリボン。また等しくこの息子が、罰を受けるため自ら折檻用の鞭を用意し、重い足取りで再び戻るその部屋。あるいは件の医師が娘の耳にピアスホールを開ける真夜中の診察室。それらが何を意味するのか、想像するのは容易い。だが映画は終始、そこで確実に行使されているはずの暴力を密室に隠蔽する。かよわき子どもたちの悲鳴や呻きが洩れ聞こえては来ても、その姿は秘密の小部屋に閉じ込められたまま第三者の目にふれることはない。それは、まさしく虐待の構図だ。そうした村の日常の中で、小鳥や幼児そして知恵遅れの少年らより弱き者へと向けられる陰惨な暴力や、反逆として張り巡らせられた針金だけが、畏るべき事件と看做される、その痛烈な皮肉。原題における副題は「ドイツの子ども史」といった意味だろうか。だが非力な子どもも、いつしか歴史を動かす大人になる。ドイツの子ども史は大人史となり、それがやがてドイツ史となる。1913年の子どもたちが創り出した歴史を、おそらく私たちは厭というほど知っているのだ。
[映画館(字幕)] 7点(2010-12-22 23:49:13)(良:2票)
5.  トウキョウソナタ 《ネタバレ》 
自分なりの希望を胸に米軍に入隊し、颯爽と家を出て行く長男。残された母親はある日、そんな彼が帰宅する夢を見る。憔悴し這々の体で帰還した息子は、この手で敵を何人も殺してしまったと、沈痛な面持ちで母に告げる。魘され、居眠りから飛び起きる母親。だがその夢は彼女にとって、いわゆる悪夢ではない。自分の忠告に耳を貸さず家から去った我が子が、自身の選択を悔い尻尾を巻いて逃げ帰ることを、彼女は願っているからだ。その願いが実現するためには、家を捨てた息子が家の外=戦場の悲惨さによりひどく打ちのめされなくてはならない。そうして彼女は心のどこかで息子の不幸を望み、その後ろめたさに魘されるのだ。父親にしてもそうだ。父としてふりかざす威厳をもってしても長男を家に繋ぎ止めることに失敗した彼は、幼さゆえ逃げ場所を持たない小学生の次男に対し支配的な暴君となることで、再び威厳を取り戻そうとする。そして自らが理想とする父親役を躍起になって演じる。リストラの不名誉を必死で隠しつづけることと同様に、たとえそれが如何に不毛な行為であったとしてもだ。そうすることで「家」を守れると彼は頑なに信じる。そして妻には良き妻良き母の役を、次男には従順な子どもの役を、それぞれ上手に演じるよう要求する。従順でありさえすればいい息子にピアノの才能があることなど、彼にとっては理想のマイホームを脅かす不吉な白蟻のようなものだ。私はここで、まさに白蟻を発端に崩壊する家族を描いた石井聰互監督『逆噴射家族』を思い出す。だが、エゴむきだしな壮絶なバトルの末に食卓を囲んだ『逆噴射』の家族に対し、こちらの家族は向き合うのでなく離散する。それぞれの闘いはそれぞれに家の外=戦場で行われ、それぞれの出来事は共有されることなく、それぞれの秘密となる。それでも、留守となり一旦機能を停止したその「家」に、秘密を抱えた彼らは再び帰ってくる。そしてやはり何事もなかったかのように朝食を囲む。たとえ本末転倒であっても、彼らはそうして家族に戻るのだ。続いて描かれる幕切れの強烈な鋭さは、黒沢清監督真骨頂だ。音楽学校の実技試験で桁外れの見事なピアノを披露する次男。演奏を終えた息子を迎えフレームアウトしていく彼らを、他の受験生の父母たちが振り返り、羨望の眼差しで見つめる。なんて理想的な家族だろう、と。
[DVD(邦画)] 8点(2010-12-04 16:19:04)(良:1票)
6.  机のなかみ 《ネタバレ》 
ヒロイン望月望にまるで魅力がないことにまず驚く。覇気もなければ存在感もなく、若い生命力のちょっとした輝きすらない。彼女が日々何を考えどう生きている少女なのか、画面からは微塵も伝わってこない。彼女は空洞のお人形のように、もっと直截に言えば安物のダッチワイフのように、ただそこにいるだけだ。でもそれでいいのだ。彼女は変態家庭教師馬場が創り上げた、まさに妄想上の愛玩人形だからだ。殺風景な勉強部屋は、もはやこの変態と人形を淫靡に繋ぐ装置でしかない。しかしそんな勉強部屋の扉が第三者によってこじ開けられた時、変態男の妄想はあっけなく弾け飛び、そして映画はこの弾け飛んだピースを用いて一から新たな物語を再構築しはじめる。お人形だったはずの望月望は、恋に七転八倒する主人公として、つまりは血の通った生身の少女として、ここに至りついに息を吹き込まれる。なんと冗長かつ馬鹿馬鹿しいイントロダクション!蛍光灯の勉強部屋から一転、柔らかい陽光差す学園風景へと降り立つ望。そうしてようやく描かれるのは、彼女の机のなかみ、そこに仕舞い込まれた等身大の恋の物語だ。世界を朗らかに肯定するジュディマリの『ドキドキ』をはにかみながら歌う望のなんという可愛らしさ!吉田恵輔監督は実に意地が悪い。彼女のこんな生き生きとした表情を件の変態は逆立ちしても見ることができない。望が見るきらきらとしたその世界に、彼の居場所は無いのだ。デートを終え家に帰りさらに翌日になっても望の歌声は続く。幸福な胸のときめきと、高らかなその余韻。けれどやがて物語は意地悪な監督があらかじめ提示したタイムリミットに辿り着いてしまう。扉は再び容赦なく開かれ、不純な馬場と同様に望もまた手痛い罰を受ける。可憐に涙をこぼすより先に少女は無様な鼻血を垂れ流す。だがそれは、彼女が血の通った生身の女の子であることの強烈な証でもある。どれほどの醜態を曝してもどれほどの痛みを経験しても、この少女は生きている。そして生きていく。望の見る世界に馬場の存在など実は無いに等しかった。それでも彼と訪れたバッティングセンターだけは、いつしか彼女の立つ世界の一部となっている。それはとても幸福なことだ。彼にとっても、彼女にとっても。そうして経験も痛みもかさぶたに変えて、望はそこに立つ。壁に貼られたみすぼらしいホームラン賞の短冊は、少女のかけがえのない勲章だ。
[DVD(邦画)] 9点(2010-09-17 23:24:22)(良:2票)
7.  下妻物語 《ネタバレ》 
下妻と代官山の往復はちょっとした小旅行だ。そんな一人旅もステキなお洋服のためなら桃子にとって苦にはならない。彼女してみればむしろその距離は、誰にも邪魔されることなくロココ時代のおフランスに思いを馳せ、うっとりと夢見心地でいられる至福の時間ですらあったかもしれない。しかしイチゴと二人出かけた代官山から(水野晴郎のせいで)一人下妻へと帰らねばならなくなった桃子に、唯我独尊を突き進むいつものパワーは無い。それは至極単純な、けれどおそらく桃子にとっては革命的な、さびしいという感情だ。あの子がいなくてさびしい、という気持ち。そのさびしさは幸福の裏返しでもある。出先でケンカ別れしても結局は同じ駅に戻ってくる、別の電車で先に帰り着きながらも雨宿りを装い自分を待っていてくれる、かけがえのない友だちがそこにいてくれる幸福。このすばらしき幸福を前に桃子は、かつて家を出て行く母に幼い彼女自身がうそぶいた人生哲学そのままに、臆病に立ちすくむ。そんな桃子を一点の曇りもなく信頼し、大切な宝物=特攻服を託すイチゴ。そしてそのイチゴの宝物を胸に、自分の宝物=BABY, THE STARS SHINE BRIGHTのお洋服が濡れるのも構わず雨の中へと飛び出して行く桃子。意を決し今まさに幸福へと踏み出す桃子のその一瞬の後姿を、中島哲也監督は心憎いストップモーションで、ほんの少しだけ引き延ばす。一方、「会いたいよ」とガラにもなく弱音を吐く桃子のためなら地球の裏側まででも原付で駆けつけるイチゴ自身は、桃子に自らの弱さを決して見せまいとする。借りは絶対に返す主義のイチゴとって、自分の弱さを他人に曝け出すことなど御意見無“様”な恥にほかならないからだ。そんなイチゴが最後の最後、ついに桃子に打ち明ける。借りは返さないと。あまりにデカすぎて返せるわけがないと。それはまるで愛の告白ならぬ、友情の告白だ。かけがえのない友だちが心強くそばにいてくれること、そんなデカい借りを一体だれが返せるだろう。思えば当初イチゴに語られた桃子の主義は、自分は返さなくていいものしか人に貸さないというものだった。つまりは貸すのではなく、あげるのだと。冷淡なロリータ娘のこのねじくれひねくれた思想が、いつしか一転、まっすぐに友情の真理を貫く。そう、友情は貸すものでも借りるものでもなく、ただ互いに、あげるものなのだ。
[DVD(邦画)] 9点(2010-07-22 17:20:29)(良:5票)
8.  誰も知らない(2004) 《ネタバレ》 
母は年端も行かぬ長女京子の爪にピンクのマニキュアを塗る。いいかげんなこの母にとってそれは悪ふざけの一環としての単なる遊びだっただろう。だが母のその気まぐれに、京子は顔をほころばせる。大人の女のように爪を赤く飾りたいから、ではない。そのマニキュアを塗れば自分も母とお揃いの爪になれるからだ。そして何よりも当の母が自分の手を取り丁寧にその「お揃い」を施してくれることに、京子は喜ぶ。だがこの至福に引き続き描かれるのは、手を滑らせ大切なマニキュアの瓶を床に落としたがため今度は母にこっぴどく叱られる彼女の姿だ。そして、ある日突然失われるこの母の存在。母との親密さの象徴たる誇らしい爪のマニキュアは日を経てあっけなくはがれ落ち、過ちの痕跡としてこびりついた床のマニキュアだけが拭い去れぬまま在り続けるその部屋で、京子は不安な母の不在に懸命に耐えなければならない。母が去ったのは、彼女にとってはマニキュアの瓶を台無しにしてしまった自分のせいなのだ。つまり、事の真相を知る長男明を除いた3人の子のうち京子だけは、罰を受けるように自分を責めながら、母の帰りを待つ。本来責めるべき母を罰すべくその服を売り払おうとする明を必死に阻止する役回りは、だからこそ、彼女でなくてはならない。今度こそ京子は母の大切な所有物をその身を呈して守らねばならないのだ。そうして彼女は母の代わりに罰を受け続ける。本作は、一般的に認知される通り長男明の映画だ。だがもう一方では長女京子の映画でもある。子どもが正当に子どもでいられぬ悲劇を、是枝裕和監督はこの幼き長男長女に託し、静かに見据え続ける。自分の過ちのせいで母を失い、またきょうだいたちからもその存在を奪ってしまった京子。やがて彼女は自らこそが母となることで、その罪を贖おうとする。妹を隠したスーツケースを不安に見送る弟のその手を確かな力で握りしめてやる「母の役割」を補い担うのは、やはり京子だ。その姿に私たちは、彼女が母の不在をついに永遠のものとして受け容れたことを知る。そして、子どもが子どもとして存在しうる正当な幸福を幼い彼女が痛みを伴いながらも自ら抛つその瞬間を、息を呑んで目撃する。照りつける日差しの下、もはや希望も絶望もなくサバイブし続けて行く子どもたち。生ある限り彼らは逞しく生き抜くだろう。だが、剥奪された彼らの尊い子ども時代がその手に再び還ることは、もう決してない。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2010-06-04 18:07:43)(良:3票)
9.  プレシャス 《ネタバレ》 
『ヘアスプレー』のニッキーちゃん以来の大型新人ガボレイちゃんもまた、ニッキー同様歌って踊れるおデブちゃんだ。だがそれは、あくまで彼女扮するプレシャスの空想する、夢の中でのお話である。幸せな人間にも不幸な人間にも唯一平等に与えられる夢想だけを握りしめ、プレシャスは直視できぬほど悲惨な現実からなけなしのその夢想へと幾度となく全速力で逃避を試み、そして無惨に引き戻される。歌もダンスもラブストーリーもあらかじめ奪われた彼女にただ残されるのは、盗んだフライドチキンを貪り食ったあげく懺悔するようにゴミ箱にゲロを吐く、そんな現実だけだ。だが、映画は彼女の抱えるそうした悲惨を、良くも悪くも中和する。彼女の受ける虐待の描写は、観る者の気分を適度に害する良心的レベルにとどめられ、安全な濃度に希釈される。もちろんそれは悪いことではない。だが節度あるその良識ゆえに、この映画がプレシャスをとりまく地獄の実態を曖昧なものにしてしまっているのも、また事実だ。それでも映画は開きなおったように言う。私たちは第三者なのだ、と。第三者なら第三者として出来る範囲で彼女を抱きしめたいのだ、と。そしてまさに良識的第三者たる彼女の担任教師やケースワーカーに委ねて、それを実行する。もちろんそれも悪いことではない。ボランティアとは多かれ少なかれそうした精神に基づくものだからだ。だが一方の当事者はどうだろう。「ボーイフレンドの一人もいなかったのに」、子を孕み出産し、さらにはHIVにまで感染するプレシャス。彼女の胃につまったグロテスクな「塊」が、易々と消化されることは決してないだろう。まるで彼女がいつか吐き出したフライドチキンのように、それは消化されることなく留まり続ける。プレシャスの記す「Why me?」その問いにも、答えなどない。それでも彼女は生きていく。逃げ場所としての夢想のかわりに、逞しく産み落とした子どもたちをその手に。そしてどんな答えなどよりも切望しつづけた、かけがえのない一言「I LOVE YOU」をその胸に。と、こう書くとそれなりに素敵なラストではある。だが、この結末に安易な希望を見出せるのは、結局のところ私たちもまた第三者であるからだ。少なくともそのことを、私たちは決して忘れてはならない。プレシャスのためにではなく、世界中のプレシャスのような女の子のためにでもなく、中途半端に慈悲深く尊大な私たち自身のために。
[映画館(字幕)] 0点(2010-05-13 17:30:21)
10.  息もできない 《ネタバレ》 
主人公サンフンは見知らぬ女を執拗に小突いている男を殴り倒し、うずくまり怯える女の頬を今度は自分が叩きながら「お前は殴られてばかりでいいのか?」と問う。その直後、彼の後頭部めがけて振り下ろされる強烈な一撃。わずか数カットで主人公の生き様を示唆するこの冒頭から以降も、映画は幾度となくこうした「反撃」を繰り返す。反撃とはつまり暴力の連鎖だ。ヒロインたる不敵な少女ヨニとの出会いすら、彼女の勝気な平手打ちへの過剰な反撃として描かれる。だが、ひるむことなくこの暴力男と渡りあうヨニが彼に突きつけ求めるのは、反撃へのさらなる不毛な反撃などではなく、缶ビールの形を借りたささやかな詫びと落とし前だ。石段にならんで座る二人に流れる静謐は、サンフンの凶暴な人生哲学が初めてゆらぐその一瞬でもあっただろう。かつて暴力により家族を奪った父に「反撃」として制裁を加える彼にとって、暴力とは元来憎悪すべきものであったはずだ。殴る男(父)への憎しみから受動的に端を発した彼の暴力が、けれど次第に能動的衝動へと肥大し、かつての父のそれと相似形を描いていく恐ろしさ。その矛先は取り立て屋として訪れた先の債務者や手下の弟分に向かう。制裁を超えた私刑として下される父への「反撃」もまた然りだ。原題が示す「糞にたかる蝿」のように強迫観念にも似た暴力衝動に囚われ、自らこそが怪物となるサンフン。一方そんな彼にとっての菩薩となる、自分自身傷だらけのヨニ。互いの過去を嘆くでもなく胸に秘めたまま、夜の漢江のその畔で、痛々しい膿を搾り出すが如く涙をこぼしあうサンフンとヨニ。だが慟哭するサンフンに膝を貸し嗚咽をこらえるヨニが彼女自身の膿を出し切ることはないのだ。容赦のない連鎖の罰を受けながらも魂を浄化するように息絶えるサンフンと、その亡骸を前にやはり懸命に嗚咽を殺すヨニ。そして膿を吐き出せぬままの彼女が回想する、膿の元凶たる母の死。その余白にちらりと過る男の影がやがてくっきりと焦点を結んだ時、ヨニはサンフンの遺した幸福な光景と、等しく彼の遺した拭い去れぬ糞の痕跡、そのはざまに息を呑んで立ち尽くす。彼らのささくれだった魂がまるで閃光のように強烈に、フィルムにそして私たちの眼に焼きつく。恐るべき傑作だ。
[映画館(字幕)] 9点(2010-05-13 17:20:14)(良:3票)
11.  スラムドッグ$ミリオネア 《ネタバレ》 
オスカーの栄誉に輝いた本作だが、お世辞にも上質な映画とは言い難い。ご都合主義的ストーリー展開は勿論のこと、せわしなく切り替わる画つなぎも、まるでMTVの出来損ないのような粗雑さだ。だがおそらくそれでいいのだろう。エンドロールの破壊的かつ感動的なミュージカルが示すように、本作は、オスカーよりもラジー賞こそがふさわしい、そんな壮大にして素晴らしい超一級のB級映画なのである。華やかなクイズ番組とカットバックして描かれるのは、主人公ジャマールがそこに至るまでの苛烈な運命だ。引き裂かれた初恋の少女ラティカの存在が象徴するように、運命のままあらゆるものを奪われるばかりだったジャマールの人生。スラムでことごとく奪われたそれらを懸命に取り返すかのように彼は解答者席で答えを導いていく。彼が生きていく上で学ばなければならなかった、だからこそあらかじめ知っている、つまりは過酷な人生と引きかえに彼が手にしてきた、なけなしのその答えを。自分の人生にまつわるクイズに一つ正解するたびジャマールは、スラムでの痛ましい日々のその一つ一つを、それでも価値ある答えへと変えていく。かけがえのない生の意味を、空っぽに思えた自分の人生に吹き込んでいく。悲しみのままに負ってきたたくさんの傷にも、一つのこらず肯定する意味があるのだと。そして観客たちの拍手や歓声が、まるでジャマールのその人生を讃えるかのように、力強く彼を包みこむ。ラストに至りようやくラティカを抱きしめるジャマールは、彼女の美しい唇より先に、その頬に刻まれた痛ましい傷に口づける。悲しい傷をも、生き延びた勲章としていとおしむように。そうして彼は野良犬のような人生を、それでも一心に信じつづけた愛を、逞しく力強く、何より誇らしげに、肯定するのだ。そしてお待ちかねのエンドロールだ。歌えや踊れやのバカバカしいミュージカルが、彼の人生を、生きることを、そして生き抜くことを、それはもう涙が出るほどバカバカしく全肯定する。この映画は素晴らしきB級映画だ。そして素晴らしき人生讃歌でもある。
[DVD(字幕)] 7点(2010-04-10 00:00:33)(良:3票)
12.  空気人形 《ネタバレ》 
吉野弘の詩「生命は」に併せて是枝裕和監督が描くのは、心を宿した空気人形と、心を持つがゆえに空っぽな人間たちの姿だ。詩が謳うように、生命はその内にあらかじめ欠如を抱き、かつ自分自身では完結できない不十分な存在だ。その欠如を満たしうるのは、花に訪れる虻や風、つまりは他者だ。だが、空気人形の持ち主である中年男は頑なに「他者」を拒む。はなから面倒な心など持たない道具だからこそ彼女を選び、そして文字通りの自慰行為により、空っぽを満たそうとする。過食症を患う若い女も、若さを失う恐怖に憑かれた中年女も、同様だ。失った妻と幼い娘の密かな思い出(映画『リトル・マーメイド』)を自分も識ることで、耐え難い欠如を満たそうとする父親もそうだ。彼らは自らの心が抱える欠如を他者が満たすなどとは、ゆめゆめ思わない。他者を拒絶し、不毛な自家受粉に励むばかりだ。そんな中、件の詩を彼女に教えた老人だけが、空気人形を価値ある他者として受け入れる。彼は、心ない子どもが「冷たい」からと無下に払いのけた、体温を持たぬ彼女のその手を評し、「手が冷たい人は心が温かい」と告げる。その言葉にほほえむ空気人形と彼は、その瞬間、まさに互いに幸福な他者として向きあう。そして奇跡のようにそれぞれの心を満たしあう。一方で、愛する男と息を吹き込みあう空気人形。美しい愛の行為が悲劇に転じるのは、男が真に求める「他者」が彼女ではなく、写真の中の女、だからなのだろう。空気人形は代用品であるがゆえ、彼を満たす幸福な試みに失敗するのだ。彼女はそれでもなお誰かのための他者となるべく、最期の吐息で蒲公英の綿毛を吹き飛ばす。過食症の女は部屋の窓を開け、こと切れた彼女の亡骸を見つける。そしてゴミ捨て場で光を纏うこの美しき他者に、ようやくその心を震わせるのだ。空気人形に扮したペ・ドゥナが兎にも角にもすばらしい。白痴美めいたダッチワイフとしての表層を纏いながらも彼女が繊細に体現するのは、まさに人間の内なる心の普遍的なその有り様だ。無機質なビニールの質感で表情を覆われた冒頭から、心を宿すがゆえ生き生きとした笑顔をこぼすまでに至る中盤、そして一転、心を宿すがゆえ心の抱え持つ空洞に呑み込まれ次第に笑顔を失っていく終盤へと、是枝は注意深く彼女の心とその移ろいを捉え続ける。心を宿した空気人形と人間、両者に一体どれだけの違いがあるだろうか、と。
[DVD(邦画)] 8点(2010-04-09 23:57:50)
13.  パッチギ! 《ネタバレ》 
井筒監督がここで描くのは単なる暴力ではなく、あくまでコミュニケーションの一形態としての喧嘩だ。たとえ不毛ではあっても、血気盛んなアンソンたちにとって喧嘩上等はある種の身体言語であり、彼らなりのせいいっぱいの自己表現なのだ。アンソンの弟分チェドキが主人公康介に打ち明けるように、本当はそれが怖かったとしてもだ。だからこの映画が描くアクションは、一つのこらずそんな彼らの「生きる」そのことに直結している。生きるということはつまり、この困難な世界にそれでも頭突き=パッチギをかますべく立ち向かう、そのことにほかならないだろう。時に流血するほど過激にエスカレートする彼らだが、その姿が一方でどこか清々しいのは、解りあえず敵として立ちはだかる憎き相手もしかし自分と等しく生きるべき人間なのだということを、当たり前のこととして野蛮なはずの彼らが知っているからだ。人間はそれでも等しく人間なのだ、と。この映画が終始一貫ひたすらに語ろうとするのは、つまりそれだ。友情を誓いあったチェドキの葬儀の席で「お前は日本人だから」と遺族に糾弾される康介。一人涙にくれ、橋の欄干で大切なギターを叩き割る彼の姿は、朝鮮部落のみすぼらしいあばら家の、チェドキの棺も入らぬ小さなその入り口を、泣きながら懸命に叩き割るアンソンの姿にぴたりと重なる。日本人であることと朝鮮人であることが、同じ大切な友人を失ったこの二人の等しい悲しみすら別次元に分断してしまう現実。それぞれにその厄介な現実にどうしようもなく打ちひしがれる二人は、けれどそれでも同じように傷つき、そして同じように涙をこぼすのだ。そんな中、急速に浮き上がってくるのは、アンソンとの子を身籠る桃子の存在だ。ライオンと豹のあいの子レオポンをしきりに見たがった彼女の出産は、まさにこの物語の軸となる。そうしてイムジン河の「分断」から「融合」としてのレオポンへと、堰を切ったように雪崩込んでいく大団円。それぞれの熱くほとばしる血潮が一つの心臓へと巡っていくように、桃子の腹に宿る生命めがけて、映画はいつしか漲る力強さで確かな鼓動を脈打ちだす。それは日本人だからでも朝鮮人だからでもなく、人間がただ人間として生まれ来る上で等しく奏でる、逞しく尊いその心音だ。井筒はそうして、生きることを、生き抜くことを、つまりはパッチギることを、惜しみなく、ただひたすらに祝福するのだ。
[映画館(邦画)] 9点(2010-03-14 00:45:30)(良:3票)
14.  時をかける少女(2006) 《ネタバレ》 
かつての大林宣彦版『時をかける少女』が観客に最も印象づけたのは、主人公芳山和子を包み込むラベンダーの匂いであった。ある日突然和子の身に起こる不可思議な出来事を、大林は、思春期における心と体の違和そのものとして描いた。つまりタイムリープは、不安定な思春期の少女に起こる未知なる変調であり、その異変への凶兆として禍々しく立ちのぼるラベンダーは、成熟に伴い生じる少女の不安や畏れの象徴であった。その意味で、抗いようもなくラベンダーに囚われる和子はそうした脆弱な思春期の只中にいたからこそ、絶対的な異変として襲いくる時間の波にもまた為す術なく傷つき翻弄されたのだ。ところが一転、本作細田守版はそのラベンダーをあらかじめ切り棄てる。アニメーションで描かれる美しく晴れ渡った青空同様に、快活で能動的な紺野真琴の思春期には一片の翳りもなく、そんな彼女が和子のように不穏なラベンダーを嗅ぐことはない。成熟や性の匂いから切り離されひたすら無邪気なままの真琴は、それゆえ畏れを知らぬ恋する冒険者としてしゃにむに勇敢に時をかけることができたのだ。大林と細田のこの大いなる違いは、それぞれの思春期の解釈の決定的な違いでもあるのだろう。芳山和子はラベンダーに限らず、尾道のノスタルジックな「風景」に、永遠に反復される窮屈な「時間空間」に、前時代的に儚くか弱い「少女像」に、囚われあるいは奪われ、その痛みに打ち震えるばかりの少女であった。その最たるは、「タイムトラベルする未来人は関わった過去の人間の記憶を消さなくてはならない」というSFジュブナイルの絶対的な掟による、かけがえのないその初恋の喪失だろう。あたかも蝶の翅を捥ぐかのように、大林は、和子の時を記憶をそして初恋を奪い、彼女をそこに閉じ込めることで少女の思春期を表現した。これに対し細田は、大林版とはことごとく真逆のベクトルを用いることで新たな『時をかける少女』を提示する。紺野真琴にとって時をかけることは、奪われることではなく、むしろ翅を与えられ自由に解き放たれることなのだ。記憶の抹消という旧作における痛ましい主題がラベンダー同様意図的に省かれるのは、おそらくそのためだ。彼女の初恋が和子のように残酷に失われることはない。細田はそうして少女の思春期を、胸を掻き毟るかなしみや痛みではなく、輝かしく軽やかな羽ばたきとして、ここで新たに表現したのだ。
[DVD(邦画)] 7点(2010-03-14 00:41:16)(良:1票)
15.  デス・プルーフ in グラインドハウス 《ネタバレ》 
冗長なガールズトークは嫌いじゃない。無意味にスクリーンいっぱいに接写されるメール送信画面にブライアン・デ・パルマ監督『BLOW OUT』の流麗なサントラをこれまた無意味にかぶせてしまうタランティーノ流お遊びも、楽しい。だがこの映画には決定的に欠けているものがある。復讐を描くには美意識が要る。例えば悪趣味かつ馬鹿丸出しな『キル・ビル』が、それでも一方で張りつめんばかりの緊張感を持ち得たのは、『修羅雪姫』や『女囚さそり』シリーズへのリスペクトを基にタランティーノが描くその復讐劇が、前述の映画に存在した(梶芽衣子式とでも呼ぶべき)気高い美学にきちんと則っていたからだ。わが身に降って湧いた卑劣な裏切りへの報復を誓い、時に敵の四肢を斬り落とすほどの非情さを見せるユマ・サーマンだが、彼女はその前提として自らの命を賭すだけの悲壮な決意をもって、血みどろの闘いに臨んでいた。それこそがつまり、復讐の美意識だ。だが一転、『デス・プルーフinグラインドハウス』にそんなものは微塵も存在しない。何のためらいも葛藤もないまま変態殺人鬼と同じレベルに堕し、野放図にそして嬉々として行われる汚らわしいだけの復讐。それは、真珠湾攻撃の報復に原爆を投下しカタルシスに浸る、そんな類いの正義にもどこか似ている。低俗なB級C級映画を敢えて再現するというコンセプトの上に成り立つこの映画にとって、批判こそが最大の賛辞なのは百も承知だ。そうして小狡く舌を出すタランティーノの茶目っ気もよく解っているつもりだ。そもそもそれ以前に、復讐などに美醜を求めることこそが間違っているのかもしれない。だがそれでも、と、爆笑と歓声に沸くとある被爆国の映画館で、私は一人寒々しく思った。復讐という名の下ただ卑しいだけのこんな蛮行に愉快痛快と拍手喝采を送る感覚を、少なくとも私は、持ちあわせていない。
[映画館(字幕)] 0点(2010-01-28 22:54:25)(良:1票)
16.  ぐるりのこと。 《ネタバレ》 
処女作『二十才の微熱』から一貫してゲイを主人公に作品を撮り続けてきた橋口亮輔監督だが、『渚のシンドバッド』の浜崎あゆみや『ハッシュ!』の片岡礼子のように、主人公のかたわらには常に、自身も心の奥底に何らかの傷を抱えた女たちが、それでもか弱い彼らを護り支える女神のように毅然と立っていた気がする。彼女らは時に自らの自由や可能性を犠牲にしてまで、弱者たる主人公たちを力強く庇護する存在としてそこにいた。『ハッシュ!』を観た時、魅力的な映画とは思いつつ、ふと、どこかしら共感しがたいものを感じた。それは片岡礼子演じる孤独な朝子に、それでもいつか生涯の伴侶と巡り会うかもしれない可能性を軽率に唾棄させてしまう(それがたとえ本人の強い意志でむしろ彼女自身から強引に持ちかける提案として描かれてはいても)ことへの違和感だった。彼女の存在意義が、主体となるゲイのカップルにとってある種都合のいい、母なる女神として、そこに置かれてしまっているように思えたのだ。ゲイであるどうこうは、このさいどうでもいい。『ぐるりのこと。』でリリー・フランキー扮する夫もまた、ゲイではないが、橋口がこれまで描いてきた心やさしくも不甲斐ない男性像をそのままに踏襲している。だがここで彼が描くのは一転、糸が切れたように力尽きてしまった出来損ないの女神と、そんな彼女を今度は自分が支え返そうとする男の、その姿なのだ。橋口が初めて、か弱い男を庇うヒーローとしてのヒロインではなく、傷を負った一人の生身の女を腰を据えて見つめようとした本作には、だからこそとても大きな意味がある。少なくとも私にはそう思える。そして橋口映画史上もっとも弱々しくカッコ悪いそんな女性像を託された木村多江が、その意味に、見事に温かい血を通わせている。癇癪を起こし泣きじゃくる妻と、そんな彼女にそっと洟をかませる夫。これほどみっともなく、けれどこれほどに美しいラブシーンを、私は他に知らない。夫婦とは何なのだろう。共に生きるとはどういうことなのだろう。それは支えあうこと、そして見つめあうこと、時には横たわり同じ天井を見上げること、足でそっと蹴りあい手をつなぐこと。たったそれだけのことなんだと映画は語りかける。金屏風の前でささやかな記念写真を撮る前も後も、それこそ病める時も健やかなる時も、彼女たちはただシンプルにけれど力強く、夫婦なのだと。
[DVD(邦画)] 9点(2010-01-28 15:26:50)
17.  ブタがいた教室 《ネタバレ》 
例えば英語圏でPIGをPOAKと呼び換えるように、一頭の家畜が「肉」となり店先に並ぶまでの過程を、人は忌み嫌う。他の生命を奪い食べるという自然の摂理、その正当性と残酷を正しく認識する以前に人はそこから目をそらしてしまう。大人ですら真に理解しているとは言い難い(そしてそれゆえに避けて通ろうとする)この難題を子どもたちに語りあわせるコンセプトは素直にすばらしいと思う。しかしそれをきちんと描ききるだけの確固たる志が、残念ながらこの映画には無い。通り一遍の大風呂敷を広げ、あたかもタブーに挑むかのように見せながら、映画は肝心の核心に近づくたび安全地帯へと逃げ帰る。これが子ども向け映画で出来る限界であったと言われればそれまでだが、禁忌を語るに足る厳しさや中立性を一切欠いたその姿勢はあまりに生ぬるい。子どもたちが仔ブタを家畜ではなくペットとしてPちゃんと名付けてしまう発端の姑息な「誤算」からして、物語はさっそく肝心の食育から弱々しく目をそらし、語るべきテーマから大きく逸脱してしまっている。さらにはその生半可さが、ペットとして可愛がったブタを家畜として送り出すという、食育とはまるで別次元の(本来なら不必要な)辛い決断を子どもたちに迫るのだからなんともたちが悪い。トラックの荷台に乗せられたPちゃんを、まるで転校生を見送るように泣きながらセンチメンタルに追いかける子どもたち。だがPちゃんの行き先は、新しい学校などではなく、血腥い精肉工場なのだ。それでも映画は美しい別れの感傷にただひたるばかりだ。彼の行き先を自分たちで決定した(させられた)ということ、そのことの重い意味を子どもたちに最後まで理解させることなく。中途半端な食育の名の下に訳もわからぬまま決断を下させられた子どもたち、そんな彼らの胸に去来するのはおそらく学舎を共にしたクラスメイトとの単なる別れの悲しみでしかないだろう。例えば性教育を語るのに即物的なポルノ映像が必要ないように、精肉工場で屠殺され血を抜かれスライスされるブタを子どもたちに見せる必要は勿論無い。しかし食育を題材としながら終始核心から目をそらし続けるだけの無害きわまりないこの映画は、血の痕跡を丹念に洗われ清潔にパック詰めされたスーパーの豚肉と何ら変わりない、無難で欺瞞にみちたシロモノだ。私たちは今日もその安全な肉を買い、能天気においしいねと舌鼓を打つのだろう。
[DVD(邦画)] 0点(2010-01-24 02:30:59)(良:2票)
18.  愛のむきだし 《ネタバレ》 
まるでVシネマか深夜ドラマのようにペラペラな映像と、素人に毛がはえた程度の演出。手のこんだ冗談かと思いきや、どうやら本気らしい。目も当てられないとはまさにこのこと。役不足極まりない渡部篤郎の神父っぷりも、鼻白むほどトントン拍子にユウがチンピラグループの一員となりさらには簡単にアクロバット盗撮をマスターしてしまう展開も、そもそも魅力的でなければ話が成立しない「さそりさん」のあまりの魅力の無さも、それらご都合主義のすべてが「B級映画の愛すべき荒唐無稽」と呼べる域にすら達しておらず、もはやただただ神経を疑うばかりの酷さで続いていく。それを237分間ノンストップで見せつけられる苦痛は筆舌尽くし難い。けれどそんな苦痛も、腹を決めて237分間つきあい続けると、いつしか不思議な現象が起こる。うすらぼんやりとではあるが、愛着が湧くのだ。本作を、それでも簡単に一蹴できない理由があるとすれば、それは主演を務めた無名の若手俳優三人に因るものだろう。バカバカしい性衝動と深刻な葛藤の両面を相反することなく見せる西島隆弘、若くしてすでに怪優の風格漂わす安藤さくら、そして青少年のエッチな妄想をヤングジャンプのグラビアアイドル的エロで具現化する満島ひかり、彼ら(若手ではないが渡辺真起子を加えてもいい)の上手下手を超えて見せるその気迫と凄みには間違いなく魂がこもっている。そうしてじっくり時間をかけて私は、ユウに、ヨーコに、コイケに、そしてセンスのかけらもないクソみたいなこの映画に、いつのまにやら心を許していく。無駄に冗長な237分間、その猶予の間に。言い換えれば237分間の気の遠くなるばかりのその苦痛あればこそ、この映画は成立するのだ。それがいいのか悪いのか、判断する余力は237分目にはもはや残っていない。それでも流れるゆらゆら帝国にジンときたのなら、おそらくそれでいいのだ。
[DVD(邦画)] 5点(2010-01-08 18:12:07)(良:2票)
19.  キル・ビル Vol.1(日本版) 《ネタバレ》 
皮膚を突き刺し血を吸う蚊、着火する銃弾、そして美しいユマ・サーマンのあまり美しくない外反拇趾。それらをシネマスコープの巨大スクリーンぎりぎりいっぱいに接写するタランティーノは、世紀のバカだ。かつてカンヌまで制したこのバカは憧れのルーシー・リューを起用したいばっかりに、カタコト日本語がせいいっぱいの彼女をあろうことかジャパニーズヤクザの女親分の座にゴリ押しし、異を唱える日本人代表としての田中の親分=國村隼の首をバッサリはねて片付けてしまう。ルール無用なこのバカはそうしてまさにユマ・サーマン扮する主人公×××よろしく、悪趣味なプッシーワゴンに乗って自らの信じる道をひたすらに危険な曲乗りで爆走するのだ。ブライアン・デ・パルマばりの分割画面だの、ダリオ・アルジェントばりの色彩マジックだの、深作欣二ばりのバイオレンスだのにはじまり、闘う制服美少女モノから梶芽衣子主演映画に至るまで、俺的フェイバリット・ムービーに節操なく熱烈なオマージュを捧げまくるバカ。そんな世界一幸福な映画オタクとしてこのバカな映画監督が描き出すのは、服部半蔵が寿司屋兼刀鍛冶としてOKINAWAに潜伏し、日本刀ホルダー付きのシートが用意された航空機AIR Oが首都TOKYOのネオン街を低空飛行するトンデモ大国ジパング。そして悪趣味で出鱈目でいてどこか魅惑的なこのパラレルワールドを孤高に勇往邁進するユマ・サーマンの姿だ。彼女はそんな異界におけるさらなる異物として、二重の孤独を抱えそこに立つ。その姿はバカバカしいけど美しい。『修羅雪姫』や『女囚さそり』のように「復讐」を美しく描くためには、卑劣な敵にも真っ向から臨む気高い志と生命を賭した文字どおりの死闘が必要なことを、このバカはバカなりに知っているのだ。たとえ18禁ゲームのような醜悪さではあっても、満身創痍になりながら人を斬るサムライ気取りのこの細長い白人女は、その暗い瞳にちゃんと梶芽衣子の魂を宿している。タランティーノはよっぽど梶芽衣子が好きなんだろうな、と思うと、ちょっと泣けてくるほどだ。(それなのにバカバカ言っちゃってごめんねタラちゃん。 でも一転、変態殺人鬼と同じレベルに堕ちて「復讐」を乱痴気騒ぎで楽しんじゃう最新作『デスプルーフ』は美しさのかけらもなくてただただ不愉快なだけだったよ。)
[映画館(字幕)] 9点(2009-11-29 01:44:37)(笑:1票) (良:1票)
20.  殺人の追憶 《ネタバレ》 
サスペンス映画には必ず「犯人」が要る。フィクションとしての犯罪は勿論のこと、現実の未解決事件を題材とする場合も同様に、映画はまずもっともらしい有力な仮説を打ち立て、それに基づいた犯人像を描く必要がある。なぜなら描かれる事件の真相や核心に触れないサスペンスなど、サスペンス映画として成立しないからだ。だがそんな定石を、ポン・ジュノは軽々と凌駕する。一般のサスペンス映画において用意される「描かれる犯人」たち。彼らがどれほどにおぞましい醜悪な姿であっても、実は我々にとってそれはたいした恐怖ではない。たとえば『羊たちの沈黙』の人肉ドレスを縫う殺人鬼も『セブン』のジョン・ドゥーも、観る者を真に恐怖させることはない。その正体とカラクリを知り、悪魔の形をはっきりと認識できることに、我々は心のどこかで納得し安堵するからだ。しかしポン・ジュノは安全なその装置を、嘲笑うかのように破壊する。悪魔的な事件だけが白日の下に曝され、肝心の悪魔の姿は最後の最後まで藪の奥底に潜んだままという、得体のしれぬその恐ろしさ。それはまさに現実世界で日々我々が直面する恐怖と同種のものだ。納得も安堵も決してもたらされることのないその恐怖にこそ、我々は戦慄する。画面には不安に裏打ちされたそんな真の恐怖が隈無く充満し、むせ返るほどだ。ソン・ガンホ演じる脂ぎった刑事の無能さや滑稽さ、彼の見せるそうした生々しい人間の営みが、迫るような臨場感をもって我々の耐え難い不安にさらなる拍車をかける。雨のシーンが秀逸だ。繰り返される雨は、闇にも似た不透明さで世界を覆う。それは人間の抗えぬ不安の象徴でもある。決して止められぬ事件。なすすべなく土砂降りに打たれ、びしょ濡れで立ち尽くすばかりの刑事たち。最後まで姿を見せぬ悪魔。トンネルの壁に撥ね返る銃弾。そして世界を覆い尽くす雨と絶望。ハンマーで殴りかかってくるようなこの気迫はなんだろう。渦巻くばかりの映画的興奮が全編に渡り漲っている。いつしか私も刑事の一人となりそこに立ち、土砂降りの雨の中、ただただ自らの無力に打ちひしがれる。スクリーンで観なかったことをこれほどに後悔させる映画は他にない。傑作だ。ポン・ジュノは事件の核心にも真相にも触れぬ掟破りのこの映画を、けれどそうすることで、超一級の恐るべきサスペンス映画に仕立てあげたのだ。
[DVD(字幕)] 10点(2009-11-29 01:38:23)(良:2票)
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