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《ネタバレ》 【初見の感想】「爽快」
1954年の第一作を原型に庵野秀明監督得意の様々なカッコイイオマージュカットの連続。(エヴァ的と批評されるのは、氏に厳選された過去の特撮作品のカッコイイ場面の再構築こそが映像面での庵野スタイルであって氏の各作品の表現がルックス的に酷似するのは当然なのです。特に今回は本家東宝作品だけに、より堂々といつもの10倍増しの大サービスとなっています!) 私にとって衝撃だったのは・・・シン・ゴジラが見ためはゴジラだけれど、ヘドラ的だということ。第一形態は巨大オタマジャクシ(という設定があったらしい)。怨念を持った破壊神を〝進化する化学物質〟のように設定している点もそう。 映画自体の後味が爽快なのは〝如何にも日本人らしい日本人たち〟が不器用だろうが何だろうが最善の方法を考え、寝食さえ忘れて黙々と実行し、闘いに泥臭く勝利する映画だったから。 そして・・・、ギレルモ・デルトロの「PACIFIC RIM」やギャレス・エドワーズの「GODZILLA」が世界的に大ヒットし、あぁ怪獣もゴジラも海外の大資本映画の独壇場になってしまった・・・と伝統の終わりを感じていたのを、庵野監督と特撮の職人達が最後に生み出した、魂の咆哮『シン・ゴジラ』の熱線が見事に焼き払ってくれたからです。 【最終的感想】「映画監督」 ※以下の感想は【それを言ったらオシマイ】的な話です。ネタバレとは違いますが『シン・ゴジラ』について「内容の考察」で盛り上がりたい人に水をさす可能性があります。ご注意ください。 私は、庵野監督のことを「特撮好きのアニメ職人ビジュアリスト」だと解釈しています。 しかも常人と違って、視覚・聴覚的に経験した「傑出した事象」を完璧に記憶し、純度を高めて新たな表現として構成する「再現力」が突出していて、同時にその脳内映像を1/30秒単位で描きだす(=絵にできる)技能を有した、超・映像職人だと。 おそらくですが、氏が創作の喜びを感じるのは「映像を表現すること」それ自体であって、大衆へ向けて「社会的メッセージや思想を伝えることでは無い」と考えます。 只ただ「自分の好きな映像を徹底的に創りたい人」だと思うのです。 さて、シン・ゴジラの膨大な台詞や表現、意匠、ゴジラの造形に「何かの意図やメッセージ性を感じる」のは何故でしょうか? 観客に何かを伝えたいのであれば、劇中で明確に主張するべきではないでしょうか? 普通の映画ならそうします。過去のゴジラ映画もそうでした。その点、シン・ゴジラには何かの意図を感じさせる演出=「不完全に書き込まれた情報」が多すぎます。 これは、明らかに意図した「不完全な情報の提供」です。 私たちは、SNSなどに流れている大量の情報に対して、怒り悲しみ、考え、共有し、自己主張することが日常化しています。国民総批評家のような時代に生きています。 シン・ゴジラの膨大な台詞や意匠、ゴジラの造形の中に、社会的な課題、学術的&オタク的知識、重層的意味を持つ台詞や音楽、過剰な文字情報などなどを「大量の断片情報」として監督は散布しています。 だから映画の鑑賞後・・・まるで試験問題を前にした学生のように、その意図を模索せずにいられなくなるのです。 庵野監督は「持てる限りの手法を駆使した映像」で、観客が映画館で楽しめる作品を創りました。同時に、「埋設した断片情報によるパズルゲーム=思考による考察と議論」で、観客が映画館から現実に帰った後も永く楽しめる作品にしたのです。 しかし、知識量の多い現在の観客が相手ですから、現実的かつ、容易に解決できない問題を準備する必要があり、その為に大変な努力を費やしたに違いありません。そんな過剰サービスを普通の監督はしません。監督業を越えた信念か、オタク魂の成せる技です。(ハリウッドの大資本が作る映像と競うには『知恵と努力と根性で奇跡を起こすしか手が無い』のです) 創ることに全力投球。ですから「正解」まで用意したとは思えません。 そもそも、哲学者でも科学者でも評論家でもない、一(いち)映画監督が大衆に向けて専門外のメッセージなど発信できません。「監督はただ、考えるに足る物語を見せるだけ」なのです。 それは、宮崎駿然り。スタンリー・キューブリック然り。議論される自作について監督たちが多くを語らないのはその為です。「問題を考える材料は映画として語った。後は皆さんが各自で自分なりの結論を模索して欲しい。」それがメッセージです。 これは・・・映画の冒頭で、牧悟郎が残したメッセージ「 私は好きにした。君らも好きにしろ。」と同じことです。 【墨石亜乱】さん [映画館(邦画)] 9点(2016-08-07 11:26:12)(良:3票)
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