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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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21.  ファイト・クラブ
ブラッド・ピットの正真正銘のクセ者ぶりが素晴らしかった。並んで、精神を支配されたエドワード・ノートンの演技も抜群だったと思う。強烈な映像世界と確信犯的なストーリーが顕著な映画ではあるが、それらを裏付けしたのはさらに強烈な主演俳優二人の個性だったと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2017-04-16 11:32:18)
22.  ブリッジ・オブ・スパイ
非常に地味な映画である。ただし、同時に物凄く豪華で、洗練されている映画でもある。 その印象は明らかな矛盾を孕んでいるが、それがさも当たり前のようにまかり通っていることこそが、「一流」の映画である証であろう。 そして、一流の映画を生み出すことにおいて、スティーヴン・スピルバーグは頂点に立ち続けている。 この最新作を観て、彼のその立ち位置が現在進行形で変わりないことを思い知った。  映画は、芸術に秀でたスパイが黙々と自画像を描くシーンから始まる。 敵国に潜伏する孤独なスパイの極度の冷静さと、その奥底に一寸垣間見える人間性を感じる非常に見事なオープニングである。  このソ連側の老スパイを演じているマーク・ライランスの演技が素晴らしい。長らく舞台上で確固たる実績を重ねてきたベテラン俳優らしいが、朴訥とした雰囲気の中で一瞬見せる軽妙さが抜群であった。今作でのアカデミー賞受賞は間違いないのではないか。  勿論、主演のトム・ハンクスも至極当然のように名演を見せている。 弁護士としての責務を全うしようとする主人公は、国益のために規則をないがしろにしようとするCIAの要求対して、規則こそが国家を国家たるものとする唯一無二のものだと毅然と突っぱねる。 その揺るがない信念と怒りに満ちた姿こそが、アメリカという国が長らく見失っている“強さ”のように見えた。 主演俳優に投影されたかつての大国としての本当の強さ。そこにこそ、スティーヴン・スピルバーグが今このタイミングでこの映画を撮った意味が表れているのだと思う。  若者たちが塀を越えていく。 まったく同じ時代でありながら、一方は眩い青春の日常であり、一方は銃殺の対象であった。 それは何も、この映画で描かれた時代に限られた話ではないと思う。 同じようなことが、今この瞬間にも、世界のそこかしこで起こっている。  世界一の映画監督が伝えたかったメッセージ性は明らかだ。 ただしかし、決して説教臭くなどなく、極めて娯楽性に富んだ一流の映画に仕上がっている。 ただただ巧い。流石だ。
[映画館(字幕)] 9点(2016-06-18 15:37:25)(良:1票)
23.  フューリー(2014)
朝が来る。 朽ち果てた戦車と、そこで闘い果てた屍を越えて、兵たちは歩を進める。 まるで何もなかったかのような俯瞰で、残骸となった戦車を一つ残し、一つのストーリーが終わる。  「戦争」という、繰り返される人間の愚かな歴史の中で、同様のシーンが一体、幾千、幾万、繰り広げられてきたのだろうか。 その無残の極みの様に、胸が詰まる。   僕自身はミリタリー描写にそれほど熱い頓着が無いので、伝説的な戦車とその活躍の様を忠実に再現したという、この映画の触れ込みにもあまり興味を惹かれなかったことは否めない。 ただ、世の好事家たちはこぞって絶賛しているので、全編通して描き出される戦場シーンに一切の妥協はないのだろう。  冒頭に記した通り、戦争そのものに対する普遍的な無残さと、そこに携わった人間たちが抱える虚無感は、きちんと描かれている。 そして、ビジュアル的な説得力も充分に備わっている優れた戦争映画、なのだとは思う。  ただし、ひしひしと伝わってくる映画のクオリーティーの高さに反して、今ひとつ感情的に揺さぶられるものが少なかった。 ラストの決死戦などは、もっとエモーショナルな感覚を持ってしかるべきなのだと思うが、何となく淡々と観れてしまった。  人物描写の描き込みが希薄だったのか、そもそもミリタリー映画自体への愛着が薄いからか、単に精神的なタイミングが悪かっただけなのか。  この虚しさのような物足りになさに、戦争の空虚感を表現していたとしたら、それはそれで大したものだけれど。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-11-09 23:22:31)
24.  ブラック・レイン
劇中、タイトルである「Black Rain」というキーワードを台詞の中で発する人物が、「若山富三郎」であるということに今回の再鑑賞で初めて気付いて、自分自身がこの名作を“ちゃんと”観られていなかったということと、リドリー・スコットは流石に「わかっている」ということを、思い知った。  今作といえば何と言っても伝説的俳優である松田優作の「遺作」として、彼の鬼気迫るまさに伝説的な演技があまりに強く印象に残る。 そして、亡き高倉健が、日本が誇るスター俳優として、ハリウッドスターのマイケル・ダグラスに対して一歩も引かぬ存在感を“魅せつけた”作品でもある。  とういわけで、日本の映画ファンとしてはどうしても、マイケル・ダグラスとアンディ・ガルシアという両ハリウッドスターに対する、高倉健、松田優作という日本映画史に燦然と残る両名優の存在に目がいきがちである。 しかしながら、 今回改めて観直してみると、前述の大親分役の若山富三郎を筆頭に、警視役の神山繁、用心棒役の安岡力也、その他ヤクザ役の國村隼、内田裕也、ガッツ石松、島木譲二……日本の俳優陣はみな強い個性を放っていて、素晴らしい脇役ぶり、端役ぶりを見せてくれている。 彼らの存在感こそが、外国映画が日本を描く際に生じる“違和感”を最小限に抑え込んでいるとも言えると思う。  はっきり言って得体のしれなかったであろう日本の俳優陣を的確に演出したリドリー・スコット監督は「流石」の一言に尽きるが、この映画の場合、彼らのキャスティングに成功した日本側のエージェントも「最高」の仕事をしたと思えてならない。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-10-06 14:52:28)(良:1票)
25.  フライト・ゲーム 《ネタバレ》 
冒頭、主人公がウイスキーを紙コップに注ぎ歯ブラシでかき混ぜる。 この主人公の男が明らかにうらぶれていて、拭いがたい負い目を抱えて生きていることが一発で分かるオープニングだった。 その主人公を、リーアム・ニーソンがお馴染みの“困り顔”で演じているわけだから、それだけで“リーアム・ニーソン映画”としては太鼓判を押していいのかもしれない。  「シンドラーのリスト」「レ・ミゼラブル」「マイケル・コリンズ」など、かつては歴史大作や文芸大作を主戦場に渋く濃厚な存在感を示していたこの俳優が、“ジャンル映画”のスターとなって久しい。 彼の俳優としての立ち位置に対しては、映画ファンによってその是非が分かれるところだろうが、とはいえ実際ハマっている映画も多いので、「面白い」のであればそれが正義だと思う。  今作にしても、ジャンル映画としての存在価値は充分に発揮している。 ストーリー上の穴や粗など端から無視を決め込むか、それ有りきで楽しむべき立派な“リーアム・ニーソン映画”だ。  ストーリーテリングとしては、ヒッチコックの「バルカン超特急」に端を発する“誰も信じてくれない”系サスペンスで、舞台が航空機内とういこともあり、ジョディ・フォスターの「フライトプラン」にも酷似しているが、リーアム・ニーソンの近年持ち前の“危うさ”巧く機能しており、観客すらも彼に対して疑心暗鬼になってしまう。  ジュリアン・ムーアを初めとして、脇を固める俳優陣も地味に豪華で、主人公と観客の“疑心”を効果的に深めている。 結末を知った後で、オープニングの群像シーンを観てみると、それぞれにキャラクターにおいて細やかな演出がされていて、それはそれで面白かった。   それにしても、思わず口走ってしまった“一年間乗客無料サービス”の約束は果たされるのだろうか。反故にされた場合は、訴訟を起こす輩が一人くらいはいそうでコワい。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-07-16 23:04:46)
26.  ブルージャスミン
ケイト・ブランシェット。現役俳優の中で最も「大女優」という呼称が相応しいと言ってもはや過言ではないだろう。 十数年来この大女優の大ファンで、彼女の出演作品を長年観続けているが、今作がキャリアNo.1の演技であったことは間違いない。 その演技を引き出したのが、ウディ・アレンである事実に、やはり“女優づかい”においてこの女好き監督に敵う者はいないと思い知る。    この映画は、喜劇だろうか、悲劇だろうか。 高慢と虚栄の果てにすべてを失った主人公ジャスミンの言動は、愚かで滑稽だ。その姿には、思わず笑わずにはいられない。 ただし同時に、栄華の極みからド底辺まで叩き落とされた彼女のさらにその先の顛末は、生き地獄そのもの。その姿には、思わず胸が締め付けられる。 詰まるところ、この映画は、喜劇であり、悲劇だ。 ありふれた言い回しを敢えて使うなら、人間の人生は悲喜劇そのものであり、描き出されるそれが生々しければ生々しいほど、喜劇と悲劇は同封されるのだろう。  主人公ジャスミンは、サイテーな人間である。それは間違いない。 けれど、だからといって彼女は「悪人」だろうか。彼女の人生を簡単に断罪できる人間が、この世の中にどれほどいるというのだろうか。 多かれ少なかれ、誰にも「虚栄心」はあるものだ。「嘘」は人間が自分を守るために許された特権かもしれない。 「サイテー」と蔑みつつも、少なくとも僕は、彼女のことを真っ向から否定することができなかった。  「栄枯衰退」なんて言葉にすれば簡単だが、それを己の身一つで体現することは生半可なことではない。 今作の“大女優”が素晴らしかったのは、栄華を極めた過去のシーンも、落ちぶれた現在のシーンも、一貫してメイクや衣装を変えずに、「虚栄」に埋め尽くされた女を演じきっていることだ。 同じ衣装やメイクが、ほとばしる鬱積とともに、みるみるくたびれ、劣化していくようだった。 「演じる」というのは、こういうことかと身が震えた。  監督の非情さを呪いたくなるくらいに、ラストはあまりに辛辣だ。 ただ、そのラストがまた主演女優の演技ともども素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2014-12-20 12:36:10)(良:1票)
27.  プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命
誰しも、本当は“真っ当”でありたい。 悪に染まることなどなければ、勿論それに越したことはない。 でも時にそういうわけにもいかなくなるのが、この世の常。 「正義」と「悪」、本来相反するものである筈のその狭間で苛まれ、持って生まれた血脈と宿命に対峙する人間たちの生き様。その行き着く先に涙する。  結局、与えられた「宿命」が何であれ、「行動」を選び取るのは当人自身であり、結果として何が起ころうとも何が起こらなかろうとも、それが“生きる”ということなのだと思える。  タイトル「The Place Beyond the Pines」は、「森林の向こう側」という意味。 薄暗く、すぐに出口を見失いそうになる鬱蒼とした茂みを越えて、彼らが辿り着いた場所は何だったのか。 終始“いやな予感”しかしない映画世界だったけれど、最後の最後、走り去って行く若き主人公の背中には、ほんのわずかではあるが、希望じみた光が見えたような気がする。  「ブルーバレンタイン」おいて、残酷で美しい男と女の身につまされる関係性を描き出したデレク・シアンフランス監督の才能は、今作によって疑いの無いもになったと思う。 前作同様に、残酷なまでに美しい映像美とカメラワークによって、俳優の演技力というよりも、描き出されるキャラクターの実在感を導き出して見せている。  前作に引き続きタッグを組んだライアン・ゴズリングの存在感は言わずもがなだが、一幕目のヒロインを演じたエヴァ・メンデス、二幕目の主人公を演じたブラッドリー・クーパーらも、他の映画では見られない“表情”を見せており、素晴らしかった。  ただし、個人的には、ライアン・ゴズリングよりも、ブラッドリー・クーパーよりも、三幕目の主人公を演じたデイン・デハーンが最も印象的だった。 作品の結論を成す三幕目なので印象度が強いことは必然だとは思うが、登場のファーストカットを見た瞬間にちょっと唸ってしまった。 昨年鑑賞した「クロニクル」で既にその才能は認識していたけれど、レオナルド・ディカプリオの「陰」の要素を爆発的に増大させ、今にも満ち溢れんばかりのバランスで場面を支配するこの若い俳優の存在感は、この先さらに特別なものになり得るだろうと断言せずにはいられない。  監督と、三者三様の主人公を演じた俳優たちを筆頭に、これからの映画界の根幹を成していくだろう才能が結集した、エポックメイキングな映画だと思う。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2014-11-12 21:56:44)(良:1票)
28.  フェイズIV/戦慄!昆虫パニック 《ネタバレ》 
聞きしに勝るカルト的なSF映画だった。 ただし、決して奇をてらった“とんでも映画”というわけではなく、気が遠くなりそうに緻密な演出と撮影、そして揺るがない美意識に支えられた極めてアーティスティックな映画だった。  とある宇宙線の影響により、砂漠地帯の“蟻”に劇的な「進化」がもたらされる。 高度な知性を得た蟻とうい種が、徐々に周囲の環境を支配し、ついに人類と敵対する。 というのがこの映画の導入部。即ち“PHASE I”である。  その進化にいち早く気づいた科学者二人と蟻との攻防が描かれるわけだ。 この映画が、邦題「戦慄!昆虫パニック」というテイストの通りだったならば、良くも悪くもB級モンスター映画に仕上がっていたことだろう。 しかし、この映画の邦題は大いに見当違いであり、そんな生半可な仕上がりを許すものではなかった。  この特異な映画が描き出すものは、この世界の支配者とされる人類とそれを脅かすものとの攻防などではなく、現状の支配者が新たな支配者によって確実に速やかに取って代わられる様そのものだ。  蟻の脅威的な進化に対して、人間は必死に抵抗を試み、攻防を演じているように見える。 だが、実際はそうではない。 観察者であった筈の人間が、実際は蟻によって観察されていたことを知った瞬間、そもそもそこに攻防などという関係性は無かったのだと気づく。  この映画に映し出されていたものは、その“資格”を持った新しい支配者が世界を支配するという、あまりに自然的で、だからこそ残酷な生物の「理」だったのだと思い知った。  ついに支配を受け入れた人間の雄と雌が、禍々しく赤く灼けた太陽を臨むシーンでエンディングを迎える。 一寸それは夕陽に見え、世界の終末を感じさせる。 しかし、すぐにそれは昇る朝日だと分かる。“終末”ではなく、新しい世界の“はじまり”だったのだ。  そして「PHASE IV」というタイトルバック。参った。
[DVD(字幕)] 9点(2014-10-21 23:05:21)(良:1票)
29.  フラクチャー
アンソニー・ホプキンス×ライアン・ゴズリングという新旧の個性と実力を兼ね備えた二人の競演作でありながら、日本国内未公開どころか今なおDVDスルーにも至っていないことが、まず腑に落ちない。 内容がお粗末な作品ならまだしも、これほどクオリティーの高いサスペンス映画も昨今なかなか無いので、殊更だ。 どうやら劇中の或る描写が、現実的な倫理観と照らし合わせて問題視されているようだが、まったく何のための「フィクション」という言葉なのかと思う。  とにかく、日本では見る機会さえ無かったかもしれなかったことに憤りを感じるくらい、見応えのある「犯罪劇」であり、「法廷劇」だった。  何より、前述の主演の二人の相性が、思いのほか良かったと思う。 老獪で利口な犯罪者の「策略」に、対峙する若く野心的な検事が振り回されつつも追求していくという構図に、ぴったりと合ったキャスティングだった。  “レクター博士”ほどの強烈さはもちろん無かったけれど、アンソニー・ホプキンスは軽妙な語り口の奥底に秘めた恐ろしさをひしひしと感じさせる存在感を放っていた。 一方で、ライアン・ゴズリングは、若さ故の傲慢さと未熟さを放ちつつ、最後には相手を凌駕する雰囲気を醸し出していた。  この二人、タイプは全く違うように見えるが、俳優としての本質的な部分に何か似通った要素を感じる。 そういった俳優自身の素養を引き出し、混ぜ合わせることに成功した見事なキャスティングであり、演出だったと思う。  ラスト、“真相”の正体そのものには「なあんだ」と一寸肩透かしを食らう。 しかし直ぐさま、この映画ならではの“オチ”で静かに締める顛末がとても巧かった。  冷静で頭脳明晰な犯罪者が、犯行の最後の最後で抑えきれなかった“憎しみ”という感情。 その感情の一瞬の露呈が、完璧だった計画に、小さな小さな綻びを生んでいたのだろう。
[インターネット(字幕)] 8点(2013-06-26 00:10:49)
30.  ブロブ/宇宙からの不明物体 《ネタバレ》 
宇宙から飛来したアメーバの怪物が小さな田舎町の住人を片っ端から襲っていく。 この一文の説明で全く不足ない映画だが、“B級モンスター映画”として充分過ぎる存在感を放つ作品だと思う。 モンスター映画は大好きなので、1988年に製作されたこの映画の存在価値が極めて高いものだということは明らか。今の今まで存在すらよく知らなかったことを恥じなければならない。  オープニングクレジットで知らない名前ばかりが並ぶ中、“フランク・ダラボン”が脚本にクレジットされているのを発見し、一躍興味は掻き立てられた。 「ショーシャンクの空に」で一躍名匠の一人に名を連ねるに至ったフランク・ダラボンだが、元々感動映画傾倒の映画人ではなく、実はモンスター映画への嗜好が極めて強い人であることはもはや周知の事実。 そんな彼がキャリアの初期に携わった作品だけあって、実に堂々としたモンスター映画ぶりを繰り広げている。  幾つか特徴的なところを挙げるならば、まずは襲われ方のパターンが多岐に渡っていること。 基本的には、知能はほぼ無いと思われる謎の生物が、本能的に人間を呑み込んでいくということの連続なのだが、状況や場所のバリエーションを変えていくことで“殺され方”を多彩に描いている。 小さな排水溝に強引に引きずり込んだかと思えば、クライマックスでは大怪獣よろしく町の人々をまとめて呑み込んでいく。 モンスター映画のにおいて、人が襲われるシーンというのは“華”と言って過言でないので、それが多彩なこの映画はそれだけでも素晴らしい。  あと、“生き残るだろう登場人物”の予測が序盤において尽く外されていくということも、この映画の特徴だろう。 ヒーロー的な活躍をしていくのだろうと思われたキャラクターが老若男女関係なしに、割とあっさりとヤラレていくので、最終的に誰が生き延びるのかという緊迫感を最後まで持続させてくれる。  そしてラストは、実際に製作されるかされないかなど問題にしていない「続編」への布石。これがあるだけで、モンスター映画ファンとしてはかなり満足度が高くなる。 意外に細やかな伏線の回収ぶりも、目を引くところ。  というわけで、クオリティーが高いなんて映画では勿論ないが、B級モンスター映画ファンとしては外すべきではない映画であることは間違いない。
[インターネット(字幕)] 7点(2013-06-03 22:08:19)
31.  ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン
数年前、自分自身の結婚式を控えた頃、YouTubeで結婚式のスピーチ関連の動画を検索していて、何処かの誰かの結婚式での花嫁の親友らしい女性のお決まりのテンションのスピーチ動画に、妻共々笑ってしまった。 映画の中で登場する、花嫁の親友同士の“スピーチ合戦”は、そういった結婚式における“女の友情あるある”を彷彿とさせ、笑いが止まらない。  商売には失敗し、恋愛偏差値は下がる一方の“いきおくれ”の主人公が、幼馴染みの親友の花嫁介添人のまとめ役をまかされたことにより、益々精神不安が加速していく。  男性が主人公のこの手の“イタさ”と“下ネタ”オンパレードの極めて“アメリカ的”なコメディ青春映画は多々あるけれど、女性が主人公でここまでぶっ飛んでいる映画はあまりない。 それ故に、男性目線からだと特に、時にえげつくなく、時に際限なく下品ではあったけれど、好事家たちの評判に違わず、サイコーに愉快で、サイコーにキュートな映画だったと思う。  映画として上手いなと思うのは、主人公一人の葛藤だけを描いているわけではないということ。 花嫁の親友たちで構成された5人の花嫁介添人たち(ブライズメイズ)。花嫁自身も含め、立場も生活環境も違う6人の女たちそれぞれが抱える葛藤を、遠慮のないコメディ描写の中でしっかりと描き出し、最終的には6人全員が好きになってくる。 男性として、女性の友情にはどうしても懐疑的な部分があるのだけれど、この映画を観ると、男同士のそれには無いドギツさとコワさを感じる一方で、女同士の友情に初めて羨ましさを覚えた。  とにもかくにも、それぞれがそれぞれに個性的でパワフルな女性が6人も集えば、周辺の男性陣はただただ右往左往するしか無いわけで。観客の男もその一人として、ただ笑い続けるしか無い。  結婚式を控える女性、結婚式を終えた女性、そして特に結婚式の予定なんてない女性、面と向かって勧める勇気はないけれど、そういったすべての女性のための映画だと思う。  この映画は、明らかに相性が悪いのであろう男との爆笑必至のセックスシーンから始まる。 この“笑撃”的なファーストシーンは、主人公が陥っている状況を端的に表すとともに、この映画の“振り切れ具合”を潔く表していた。 それは「この映画、こんなカンジて突っ走るよ?ついてきてね」と観客に対してのある種の宣戦布告だったのかもしれない。
[DVD(字幕)] 8点(2013-05-13 21:36:51)(良:2票)
32.  フェイス/オフ
15年前の公開時に映画館で観て、「なんて面白い映画なんだ!」と興奮した。あれから都合3回以上は鑑賞していると思うが、何度観てもやっぱり同じ感想が口から出てくることは、アクション映画として本当に凄いことだ。 普通、どうしたって時間の経過とともに娯楽性の高揚感は薄れてしまうものだけれど、この映画にはそれがない。 ジョン・ウーによるまさに奇跡的な娯楽映画だと思う。  最大の「勝因」は、何と言っても主演俳優“二人”のキャスティングに尽きる。 ジョン・トラヴォルタとニコラス・ケイジこのハリウッドきっての個性派スターが、「対峙」したことで奇跡は起こったと言って過言ではない。 「善と悪の立場が入れ替わる」という類いの映画は多々あり、当然一人の俳優が二通りのキャラクターを演じなければならないわけだが、大概の場合、俳優の“フィット感”はどちらかのキャラクターに偏るものだ。 しかし、今作のジョン・トラヴォルタとニコラス・ケイジは、それぞれが善と悪どちらを演じた時にも“フィット感”が半端ない。 両者とも“善”の時は深い哀しみと憂いを帯びつつも燃えたぎる「正義」を貫き、“悪”の時はとことんまで狂気的な残虐性を楽しんでいる。 単なる「名演」という言葉の範疇には留まらず、俳優という表現者としてのポテンシャルが爆発しているような印象を、この二人のスター俳優に感じる。  これでもかという膨大な物量のアクションシーンの興奮を経て迎えるラストのシークエンスで、不覚にも泣いてしまった。 絶望的な状況を戦い抜き、それまでに抱えてきた“心の傷”までも絶妙な塩梅で解消させてしまうこの展開力。 この映画はやっぱり奇跡的だ。
[映画館(字幕)] 9点(2013-05-07 16:21:56)
33.  フライト 《ネタバレ》 
いきなり映し出される或る女性の乳房。そして、その女性と一夜を共にしたらしい主人公は、元妻からの電話に叩き起こされ、苛立ち億劫に応答しながら、真っ裸でうろつく女性の下半身を凝視する。 おおよそ“ロバート・ゼメキスの映画らしくない”そのアダルティーで、どこか退廃的なムードが漂う描写に「おや?」と思う。どうやらこちらの想定外の映画が展開されるらしいということは、この冒頭数分の映像で明らかだった。  機体トラブルによる旅客機墜落を奇跡的に回避した機長。「英雄」となるはずだった彼の血液からアルコールが検出されたことから生まれる疑惑。主人公は「英雄」なのか「犯罪者」なのか。 ストーリーの大筋はこのイントロダクションの通りである。しかし、この映画は、そこに隠された真実を追っていく類いのありふれたサスペンス映画ではない。 冒頭のシーンで明らかな通り、デンゼル・ワシントン演じる主人公が決して“清廉潔白”な人間ではないという事実からこの物語は始まる。  詰まるところ観客は、映画の序盤において、「英雄か?犯罪者か?」という問いに対して、「そのどちらも当てはまる」という答えを知ることになるのだ。 すなわち、この映画が伝えようとしているものが、主人公の社会的顛末などではなく、彼の人間としての「決断」の物語であることに気付く。  人間は、歳を重ねるにつれ、自分の非を認めるということが困難になる。 それが内省的なものであればあるほど、曝け出し、悔いること自体に多大な勇気が必要になってしまう。 この映画が描くことはまさにそういうことだ。 大事故に遭遇し自らの功績により生き残った主人公が、強制的に自分自身を省みなければならない日々を経て、最終的にどのような道を選び取るのか。  そういうことが、非常に巧みな映画づくりの中で表現されている。 一見すると、無駄に思えたり、やけにまどろっこしく思えるシーンの一つ一つが、この映画が伝えるテーマに繋がっていき、上質なドラマに昇華される。 ロバート・ゼメキス監督の映画を久しぶりに観たが、安定した演出力もさることながら、齢60歳にして非常に精力的に新境地を開拓してみせたと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2013-03-02 17:04:48)(良:2票)
34.  フランケンウィニー(2012)
「映画づくり」において、独自の世界観を貫き通すクリエイターは多々居るが、ティム・バートンという人ほどその特異な世界観を貫き通した上で、商業的な成功に長けた作品をコンスタントに生み出し続けているクリエイターは中々居ないと思う。  この15年ほどのティム・バートンの監督作品はほぼ漏れなく劇場で鑑賞してきている。 当然、作品によって好き嫌いはあるが、どの作品においても“ティム・バートン印”と言えるような「個性」が確実に存在し、どんな形であれそれが貫かれている以上、無下に否定することは出来ない。 そして、今作もまたそんな“バートン印”がこれでもかと押されている作品に仕上がっていると思う。  ティム・バートンらしい徹底した“悪ふざけ”の炸裂ぶりは、「マーズ・アタック!」を彷彿とさせる。この“ふざけかた”に免疫があるかないかで、この映画に対する許容は大いに変わってくるだろう。 得意のゴシックホラー調の気味悪くもポップな映画世界に彩られたストップモーションアニメのクオリティーは秀逸という他無く、もうそのアニメーションの動きだけで一定の満足度は得られる。  ただし、同時に物語の帰着点に若干の不満は残った。 主人公の少年が巻き起こした騒動の発端となる「行為」に対しての戒めと、それに伴う彼の成長が、今ひとつ曖昧に映ってしまっていることは否めない。 途中、科学教師からストーリーの核心に繋がり得る“教え”が主人公に伝えられるが、それがラストにきっちりと回収されていない。  今回ティム・バートンは、そういうある種正統なテーマ性を少々無視してでも、“悪ふざけ”によるB級映画ノリを徹底したのだと思うが、もう少しストーリーテリング自体に説得力が備わっていた方が、個人的には好感が持てたと思う。  しかし、前述の通り、もうそれは個々人の好みの問題であり、このティム・バートンという異才の極めてパーソナルな部分を貫き通した今作に対して不満を突きつけるのはお門違いだとも思う。  想像以上に暴走していく映画のテンションに、面食らいつつも、ほくそ笑んで楽しむべき映画だろう。  あと、そもそも“犬好き”な者にとっては、“フラン犬”スパーキーの愛くるしい動きとけなげさに対して、どうしたって涙腺は緩んでしまう。ズルい。
[映画館(吹替)] 7点(2013-01-04 00:08:34)
35.  フレンチ・コネクション
こういう映画を観ると、自分は映画という娯楽に根本的な部分では「精巧な虚構」を求めているのだなと思う。 ザラつく画面に映し出されるリアルな息づかい、決してトントン拍子には運ばない物事の顛末、そして正義を司る者が常に「完勝」するなんてことはあり得ないという現実感。 その唐突な映画の終焉に対して「え、終わり?」と不満を禁じ得なかった自分は、この作品の持つ価値を感じつつも、どうしても最終的に「面白かった」とは思えなかった。  非常にどっちつかずな言い方になるが、それはイコールこの映画が「面白くなかった」ということではない。 ブルックリンの刑事たちの生々しい姿が延々と描き出される映画世界に対して、終始惹き付けられたことは間違いない。 怒濤のカーチェイスシーンから、映画史に残る有名な“背後からの射殺”シーンと、見所と見応えは枚挙に暇がない映画であった。  では何が自分自身の好みに沿わなかったのか。それは即ち、この映画の最大の売りである“リアリズム”に他ならないように思える。 この映画のモデルは実在の刑事であり、その元刑事の生き様を描き出したノンフィクションが原作である。 そして監督は、リアリティを徹底しドキュメンタリー的手法でこの映画を構築していったという。 その徹底したリアリズムが、個人的にキツかったのかもしれない。  それは、あまりに生々しい描写の連続で観るに耐えないというような分かりやすいキツさではない。 ありとあらゆる情報網が張り巡らされ、別に知りたくもない現実が次々に明るみになる現代社会に生きる者として、映画の世界にまで"現実感”を求めることに疲れたという表現が正しいように思う。 このハードボイルドな刑事映画に描かれていることとその方法は、圧倒的に正しいのだろう。 ただ、楽しくはない。とどのつまりそういうことだ。  奇しくもこの映画の公開と同じ年、もう一つのハードボイルド映画の中でもう一人の刑事が登場した。 今作のポパイ刑事と同様に、正義の名の下に問答無用に悪を葬るその刑事の通称は“ダーティ・ハリー”。 この二人のアウトロー刑事のスタンスは極めて似通ってはいる。 しかし、同じ丸腰の悪党に対してでも、背後から撃ち殺すポパイよりも、正面から堂々と撃ち殺すハリーの方が、やっぱり格好良い。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-11-11 22:24:23)(良:1票)
36.  フィクサー(2007)
派手さのない渋い演技に賞賛を送りつつも、「ジョージ・クルーニーも随分老けてきたな~」という印象を受けた。(まあ元々遅咲きの俳優ではあるのだけれど……)  アカデミー賞の脚本賞にノミーネートされたこともあり、ストーリー展開には期待したが、淡々とした台詞回しには惹き付けられるものの、展開自体にはそれほど驚きがなかったのは、いささか拍子抜けだった。  しかし、この映画の魅力は、ストーリー展開の面白さというよりは、登場人物たちの一つ一つの表情や、それをクールに切り取った映像美にあると思う。 そういう部分が、物語性以上に見応えのある映画に昇華させているのだと思う。  もっと仰々しく演出しても良いラストの顛末も、主人公の心情を映し出すかのようにあくまで淡々と描き出し、作品としての一貫性があり良かった。
[DVD(字幕)] 6点(2012-09-30 23:17:24)
37.  フェア・ゲーム(2010)
エンドロールで流れる役名の一部が塗りつぶされていた。 この映画の主人公である実在の元CIAエージェントが綴った原作も、CIAの検閲の上で大部分が黒く塗りつぶされたまま出版されているそうだ。 それは、この物語が紛れもない事実であるということを如実に表しているもので、その“塗りつぶし”こそがこの作品の価値を揺るぎないものに高めている。  ブッシュ政権下におけるイラク戦争の勃発。その裏側に確実に存在した数人の権力者の「嘘」と「思惑」が、実に生々しく描かれる。 「ボーン・アイデンティティー」において、リアルなスパイアクションを撮ったダグ・リーマン監督が描くからこそ、“現実”のスパイの実像を描いた今作は、対比的に際立っていたと思う。  「大量破壊兵器は無い」ということを諜報活動によって導き出したCIAの報告が、時の政府によってねじ曲げられるという様には、「恐怖」という言葉では足りないおぞましさが満ちていた。 その絶対的とも言える巨大権力に対して真っ向から立ち向かい、自らの存在を貫き通した主人公夫婦は、勇気ある行動という表現ではおさまらず、やはり「無謀」に見えた。  この映画は、自分たちの“在り方”を守り通すために、敢えて「無謀」に走った夫婦の物語だと思えた。 ナオミ・ワッツとショーン・ペン演じる夫婦の関係性に焦点が絞られてくる後半においては、マクロ的な事の顛末よりも、彼らが夫婦としてどういう道程を選んでいくのかという事の方が気になってしまった。  往々にして、優秀過ぎる妻を持つ夫は、時に愚かな程身勝手に暴走してしまうものだ……。 クライマックス、妻に許しをこうショーン・ペンの情けない表情が、個人的に身に染みた。  そういった具合で、大局的な社会派ドラマの中に、パーソナルな人間ドラマを盛り込んだ構成は、映画的にも非常に巧みだったと思う。  多大な紆余曲折を経てきたとはいえ、実際にこれが映画として公開されている以上、この映画の中で描かれていることのすべてが「事実」であるという認識は間違いかもしれない。 本当に隠さなければならないことは、本当に隠されたままなのだとは思う。  しかし、たとえ真実のほんの一片であれ、当事者らが人生をかけてそれを明るみに出した行為と、映画というエンターテイメントの力で世界中に知らしめた事実は、賞賛に値する。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-09-27 23:43:42)(良:1票)
38.  プロメテウス 《ネタバレ》 
前夜、十数年ぶりに1972年公開の「エイリアン」第一作目を鑑賞し直した。 改めて見直してみて、30年以上前の作品とは思えない映像世界のスタイリッシュさと何度観ても揺らがない恐怖感におののくと共に、秘められた「伏線」に気づき、よくもまあ30年間もその伏線の回収を放っておいたなと思えた。  そうして満を持しての最新作の鑑賞。 結論から言うと、30年前の伏線の解明は成されている。 しかし、更に新たな謎が幾つも生み出され、それらが放り出されたまま映画は終わってしまった。  全編通して荘厳な映像世界に感嘆する一方で、この映画そのものの完成度という面においては、大巨匠の神通力の低下を疑わざるを得なかったというのが正直なところだ。 製作上において、何か致命的な失敗があったとしか思えないほどに、映画を振り返ってみると、登場人物の言動からあらゆる設定に至るまで説明が成されていない部分があまりに多く、「穴」だらけに見える。  観賞後しばらくは不満と満足の狭間で困惑してしまった。 しかし、「続編」が既に決定しているとの情報を得て、その困惑はすぐに一転する。 詰まるところ、部分的な満足感も全体的な不満感もすべては一介のCMクリエーターから現在の地位までのし上がった巨匠の強かさによるものなのだろう。  プロモーションにおいて、敢えて“エイリアン”というキーワードを極力避けながら、歴史的大傑作の“パート0”を新たに生み出すことで、「謎の解明」という新たな「謎」を描き出す。 そうすることで、過去作への注目を効果的に高め、更なる「続編」への期待感を増幅させる。 ハリウッドの第一線を年齢と逆行するように精力的に突っ走る“現役巨匠”の目論見はまさにそういうことだったのではなかろうか。  当然、「続編」の公開前には、この監督の“得意技”とも言える「ディレクターズカット版」もリリースされることだろう。この映画のあからさまな穴あき具合から、未公開の映像が山のようにあることは容易に想像できる。  映画としての完成度は決して高くない。でも映画世界に対しての興味と期待感は更に深まる。 今回は取り敢えず巨匠の衰えない強かさを感じつつ、ひたすらに続編を待つとしよう。
[映画館(字幕)] 7点(2012-08-26 22:46:19)(良:1票)
39.  ブリッツ
雑多な映画だ。いや、はっきりと「雑」と言ってしまって良いだろう。  極めて粗暴ながら警察を「天職」だと言い切るジェイソン・ステイサム演じる主人公が、警察官ばかりを狙う連続殺人鬼を追う。 ストーリーとして、至極単純明快でありながら、実際どういう映画かと言われれば説明しづらい。 というか、説明なんて面倒だから、とりあず観て、文句なり賞賛なり勝手にのたまってくれと言いたくなる。  この何だか“掴みきれない”原因は、登場するキャラクターたちの言動とか生き方が、揃いも揃って場当たり的で計算しなさ過ぎていることだと思う。 正義も悪党も皆、ただただ己のやりたいように動いていくので、その言動に対する善悪の判断以前に、「え?それでいいの?」と戸惑いが先行してしまう。  そういう部分から端を発する映画全体に漂う“違和感”が、この映画のオリジナリティとも言え、最大の突っ込みどころであると同時に、最も面白い部分とも言える。  また荒っぽい主人公が正反対のゲイの上司と志を共有していく関係性や、狡猾なのかただのイカレ野郎なのか判別し難い殺人鬼など、それぞれの人間描写はなかなか個性的でユニークだった。  今や“アクション映画スター”という肩書きの世界的トップランナーであるジェイソン・ステイサムの最新作だけに、結構な大作なんだろうと鑑賞し始めたが、想像以上に英国内向けの限定的な作品だったと言える。  そのことが、肩すかしや戸惑いに繋がってしまうかどうかは微妙なところだが、たぶん多くの人の想定外に「変な映画」であることは間違いないと思う。
[DVD(字幕)] 6点(2012-04-30 10:49:51)
40.  50/50 フィフティ・フィフティ(2011)
27歳の若さで癌を宣告される主人公。生存確率は50%(インターネット調べ)。 もちろん物語の主軸は主人公の“闘病”だが、この映画が凄いところは、決して病そのものを悲劇とそれに伴う安直な感動を描いているわけではないということだ。  この映画に描かれていたことは、“癌患者初心者”の主人公の姿であり、人生において初めての「経験」における苦しみや葛藤、それについての感動だった。  主人公が癌患者の初心者であれば、主人公の親友は“癌患者の親友の初心者”、母親は“癌患者の母親の初心者”、恋人は“癌患者の恋人の初心者”、そして新米セラピストは“癌患者のセラピストの初心者”なのだ。 一人の男の岐路に立ち会った“初心者”同士が、それぞれに思い悩み、失敗し、傷つき、正解などない行き筋を模索する。  癌に限らず、重い病気を患ってしまうことはそりゃあ大変だし、それが生死に直結するとあらばそりゃあ悲しい。 しかし、生存確率を示されようが、余命を宣告されようが、「死」に至るまでその人が生きていかなければならないことに変わりはないだろう。 ならば、「癌」という新たな“特徴”を持って生きていくしかないし、逆に言えばただそれだけのことなのだ。 それは口で言うには簡単で行動として表すにはとても難しいことだけれど、この映画では、そういうことがセス・ローゲン演じる主人公の親友(悪友)の言動により表現されていた。 この物語自体が、セス・ローゲンの実体験からよるものだとのことで、彼の演じたキャラクター性には、軽薄さと下品さの裏に分厚い説得力が備わっていたと思う。  誰しも、初めて経験することには、大いに戸惑い、大いに悩む。 この映画は、そのあまりに普遍的なことを、癌というこちらも普遍的に重いテーマに対して真摯に向き合って描き出し、そして見事に笑い飛ばしている。
[映画館(字幕)] 8点(2012-04-29 00:53:33)(良:2票)
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