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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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361.  ワイルド・スピード/EURO MISSION 《ネタバレ》 
この娯楽映画シリーズのファンとしては、相応しいタイミングでこの最新作を見ることができたと思う。それは、とても嬉しいことでもあり、あまりにも悲しいことでもあった。  今年の夏に、シリーズ中で唯一観られていなかった「3」見たばかりだった。 シリーズのファンなら周知の通り、“東京”を舞台に描かれる「3」は、シリーズの番外編的なニュアンスが強く、レギュラーキャストは殆ど登場しない。 そして、その中で唯一主要キャストとして登場する“ハン”の悲劇的な末路が描かれている。「3」を観た段階では、なぜ彼が独り東京に流れ着き、ヤクザ相手の危険な仕事に手を染めているのかの説明もなく理解し難い部分があった。  が、それを裏打ちするエピソードが、この最新作では描かれている。  “或る人物”の突然の登場に驚愕するエンドクレジット後のシーンからも明らかな通り、今作は、いささか変則的に繋がっていた「3」をシリーズの本流に結びつけ、次作に向けての新展開への起点となるシリーズの中でも非常に重要な作品に仕上がっていた。  シリーズも6作目となり、正直「一見さんお断り」な状況になっていることは否めないけれど、「EURO MISSION」という軽薄な邦題にミスリードされて、劇場鑑賞を見送ってしまったことをファンとしては甚だ悔しく思う。  ハン&ジゼルの悲しい運命に対して、想定外に胸を締め付けられたことは、この娯楽映画シリーズが少しずつ培ってきた“チーム感”の結晶とも言え、ますますド派手になっているアクションシーン以上の付加価値だったと思う。  あと、タイミング的には、「エージェント・マロリー」も今年観たばかりだったので、ジーナ・カラーノのナイスなキャスティングも嬉しかった。復活したミシェル・ロドリゲス嬢との“肉弾戦”は白眉だった。   そして、2013年11月30日、ポール・ウォーカーの突然の訃報。 そのあまりに悲しくショッキングな出来事が、この映画シリーズに与える影響は当然計り知れない。 映画スターの死が、その人の周囲の人間は勿論のこと、世界中の映画ファンに悲しみを与えるということを改めて思い知った。  心より冥福を祈りたい。 ただ、叶うことなら、撮影中だったシリーズ最新作「7」の完成を待って、彼の最期の姿を心に焼きつけたい。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-12-23 14:59:00)(良:1票)
362.  オーメン(1976)
よりによって妻子が実家に泊まり誰もいないひとりぼっちの夜に、この有名過ぎるホラー映画を観なければならなかった一週間レンタルの最終日。 ホラー映画に限ってはまだまだ“ビギナー”なので、どうなることかとビクビクしながら観すすめたが、流石はホラーというジャンルを超えた「名作」の呼び名に相応しく、“しっかり”と面白かった。  “恐ろしい”映画であることは言わずもがなだが、描き出される物語をどう「解釈」するかによって、この映画の“恐ろしさ”は大いに様変わりすると思う。  映画が伝える雰囲気のまま、悪魔の申し子“ダミアン”の禍々しさに恐怖することも勿論正しかろう。 一方で僕は、この映画が伝える「恐怖」のもう一つの側面に震えた。  それは即ち、この映画において、ダミアンは「実は何もしていない」という事実だ。  描き出される“おぞましさ”の殆どは、彼を崇める悪魔崇拝者の言動によるものであり、主人公のグレゴリー・ペックらを襲う恐怖の正体も、神にしろ悪魔にしろ狂信者たちの煽動によって導かれたものに過ぎないのではないかということ。  ラストの顛末に明らかなように、端から見れば、主人公の姿は完全に気が狂った父親にしか見えず、この映画が描く本当の恐怖は、「悪魔」の存在などではなく、人間が元来持っている不安定さとそれに伴う危うさそのものであることに気付かされる。  ジェリー・ゴールドスミスの荘厳な調べに誘われて、深く暗い「恐怖」というエンターテイメントを堪能した夜だった。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-12-03 01:01:37)(良:2票)
363.  キャリー(1976)
無類の“ホラー映画嫌い”なので、映画史上に残る超有名作品でありながら、ずうっと敬遠してきた作品の一つだった。 ただ、三十路を越えていい大人の映画ファンが、「怖い」からといって問答無用に毛嫌いするのもいかがなものかと思い始めていた。 そんな折、劇場で間もなく公開されるリメイク版の予告を観て、ちょっと気になったので、今作のジャケットを“初めて”手に取った。 「あー主演はシシー・スペイセクなんだ」とか「え、デ・パルマ監督作なの!?」と、おおよそ映画ファンらしくない無知ぶりを露呈しつつ、初鑑賞に至った。  率直な感想としてまず感じたことは、「これはホラー映画なのか?」という疑問。 恐ろしい部分は確かに恐ろしいけれど、それよりも哀しい少女の哀しい青春映画ということに対してのインパクトの方がずっと大きかった。  ただ普通でいたかった少女が、あらゆる不遇の中でもがき苦しみ、ほんの一瞬垣間見た光の眩い美しさと、即座に閉ざされる果てしない悲劇。 「恐怖」によるインパクトはあくまで装飾的なものであり、主人公の少女のめくるめく悲哀に胸が締め付けられたことは、本当に想定外のことだった。  その映画世界にはやはり巨匠ブライアン・デ・パルマ監督の多彩なカメラワークによる映画術が光る。 おぞましい場面はどこまでもおぞましく、一転して美しい場面はどこまでも美しい。 その映像的なギャップは、少女の心象風景そのものをまさに映し出していて、「流石」の一言に尽きる。  そして何と言っても主人公“キャリー”を演じたシシー・スペイセクが素晴らしい。 不遇の鬱積にまみれた序盤の姿では、大衆から拒絶されるにある意味相応しい“歪さ”をこの上なく体現し、一転、光を追い求め彼女の人生における最高の「舞台」に駆け上がる姿は、目を疑う美しさに溢れている。 そしてクライマックスにおける“悲劇的大解放”に伴う怒りと憎しみと豚の血にまみれたあの姿!  映画としては、展開的に唐突で説明不足な部分は多々あるのだけれど、この主演女優の奇跡的な表現力が、そのすべてを打ち消しているとさえ思えた。  どの映画も突き詰めればそうなのだろうけれど、この映画は特にどういう「解釈」をするかどうかで賛否は大いに分かれる作品だと思う。 また数多の知識を踏まえて繰り返し観る程に、その解釈に深みが生まれ、味わい深くなる作品だとも思う。
[DVD(字幕)] 8点(2013-10-27 01:17:15)
364.  ワールド・ウォー Z
どこかの悪大佐じゃないが、「人がゴミのようだーーー!」と思わず叫びたくなる“見せ場”は、トレーラーで何度も観ていてもやっぱり衝撃的で、個人的にはその過剰なまでの仰々しさが非常に好ましかった。  「ゾンビ映画」ということを大々的に触れ込むと、客層が限定されると思ったらしく、いやに“家族愛”を強調した国内プロモーションには辟易したが、言うまでもなく、この映画は紛れもない“怒濤”の「ゾンビ映画」である。  ただし、基本設定として描かれるストーリーテリングは、あくまで感染症のパンデミックであり、必然的に全世界的にゾンビが大発生している状態であるので、前述の通り良い意味で仰々しい映画世界は、恐怖性というよりもエンターテイメント性に富んでいて、僕のようなホラーが苦手な者でも程よい恐怖感と共に終始楽しめる「ゾンビ映画」に仕上がっていると思う。  “人体”そのものが虫の大群のように襲いかかる衝撃のビジュアルもさることながら、印象的だったのは、主演のブラッド・ピットの“目尻の皺”だ。 「ああ、もうこんな深い皺があるんだ」と稀代のハリウッドスターの老いを感じる一方で、これまでのブラッド・ピットの主演作のどれよりも、彼の「生身」の姿が投影されている映画のように思えた。  国連の紛争地域担当エージェントという他の映画ではあまり聞き慣れない役柄が、私生活のパートナーであるアンジェリーナ・ジョリーの国連親善大使としての活動から着想を得ているだろうことは言うまでもなく、途中両親を亡くした少年を家族の一人として受け入れる様なども、難民の子供たちを養子としている私生活の投影そのものだろう。  そういう意味で、プロデューサーでもあるブラッド・ピットが、俳優業を礎にして積み上げてきた己の人格そのものを反映したとてもパーソナルな映画であるとも言えると思う。 それがただの自己満足に終始するでなく、きちんとした娯楽性を備えた作品に昇華されていることが、ハリウッドのトップをひた走る映画人として“エラい”ところだと思う。  どうやら例によって続編の企画もあるらしい。 今作では、都合の良い解決策で安直なハッピーエンドを描いているわけではないので、ここからどう展開していくのか非常に興味深い。  まあいずれにしてもはっきり言えることは、「全力疾走」が出来るゾンビほどコワいものはないとうことだろう。 
[映画館(字幕)] 8点(2013-08-11 00:07:37)
365.  ヴァンパイア(2011) 《ネタバレ》 
「これはあなたの夢?」  “ヴァンパイア”の、おそらくは最初の“献身者”となった女の最期の一言。  この映画の主人公である“ヴァンパイア”の「彼」にとって、“血液を啜る”という行為の意味は、果たして何だったのだろうか。 心の隙間を埋めるための一種の趣向だったのか、行き場を失った孤独を癒す“温もり”を感じるための唯一の手段だったのか。  結果として、繊細で優しい殺人鬼と化した主人公の得た結末は、幸福だったのか、不幸だったのか。  ラスト、己の業が明るみに曝された主人公は、思わず逃避に駆られる。 どこまでも逃げようとするけれど、その足は次第に宙空に浮き、無情にから回る。  それはおそらく、彼の深淵なる“夢”の終わりの時だったのだと思う。  孤独の淵に立たされた主人公が、妄信的に辿り着いた“ヴァンパイア”という生き方。 物語の吸血鬼のように、己の存在が「永遠」でないことは、他の誰よりも本人がよく知っていたことだろう。  「血は命そのものだ」と、“ヴァンパイア”は語る。 「血」を追い求めた彼の姿は、「生」を渇望する弱々しくも必死な、人間という生物そのものの本質的な在り方に見えた。   「花とアリス」以来8年ぶりとなる岩井俊二監督の長編映画。勿論、映画館で鑑賞したかったけれど、地方都市住まいの悲しさにより叶わず……。 とうにレンタル開始はされていたけれど、万全のタイミングを探るべく、日々が過ぎ去った。結局、劇場公開から10ヶ月近く経過した今ようやく鑑賞。   淡々と、空気を呑み込むような、あまりに美しい映像世界。 独創的な世界観は、人によっては独善的で独りよがりに映るのかもしれない。  でも、僕にとってそれは、十代後半で初めて触れ、心の底から愛した映画世界そのものだった。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-06-30 02:04:14)
366.  フラクチャー
アンソニー・ホプキンス×ライアン・ゴズリングという新旧の個性と実力を兼ね備えた二人の競演作でありながら、日本国内未公開どころか今なおDVDスルーにも至っていないことが、まず腑に落ちない。 内容がお粗末な作品ならまだしも、これほどクオリティーの高いサスペンス映画も昨今なかなか無いので、殊更だ。 どうやら劇中の或る描写が、現実的な倫理観と照らし合わせて問題視されているようだが、まったく何のための「フィクション」という言葉なのかと思う。  とにかく、日本では見る機会さえ無かったかもしれなかったことに憤りを感じるくらい、見応えのある「犯罪劇」であり、「法廷劇」だった。  何より、前述の主演の二人の相性が、思いのほか良かったと思う。 老獪で利口な犯罪者の「策略」に、対峙する若く野心的な検事が振り回されつつも追求していくという構図に、ぴったりと合ったキャスティングだった。  “レクター博士”ほどの強烈さはもちろん無かったけれど、アンソニー・ホプキンスは軽妙な語り口の奥底に秘めた恐ろしさをひしひしと感じさせる存在感を放っていた。 一方で、ライアン・ゴズリングは、若さ故の傲慢さと未熟さを放ちつつ、最後には相手を凌駕する雰囲気を醸し出していた。  この二人、タイプは全く違うように見えるが、俳優としての本質的な部分に何か似通った要素を感じる。 そういった俳優自身の素養を引き出し、混ぜ合わせることに成功した見事なキャスティングであり、演出だったと思う。  ラスト、“真相”の正体そのものには「なあんだ」と一寸肩透かしを食らう。 しかし直ぐさま、この映画ならではの“オチ”で静かに締める顛末がとても巧かった。  冷静で頭脳明晰な犯罪者が、犯行の最後の最後で抑えきれなかった“憎しみ”という感情。 その感情の一瞬の露呈が、完璧だった計画に、小さな小さな綻びを生んでいたのだろう。
[インターネット(字幕)] 8点(2013-06-26 00:10:49)
367.  オブリビオン(2013)
きっと多くの人から“叩かれる”タイプの映画なのだろうとは思う。 ストーリーに新しさがあるというわけではないし、粗も大いにある。 ピークを過ぎたスター俳優が、自ら築き上げてきた“ヒーロー像”にしがみついているように見えなくもない。  “ただし”、僕はこの映画を大絶賛したい。誰が何と言おうとも。  エイリアンの侵略により崩壊した地球。侵略に対して何とか勝利はおさめたが、他の星への移住に向けて、残された資源の“監視”をする任務に就いている二人きりの男女。 絶望的な未来世界を描いたいわゆる“ディストピア映画”は、長いSF映画史において数多生み出されているので、この映画の設定自体もやはりどこかありふれている。 それでも、何とか観客を驚かしてやろうという気概は確実にあり、工夫は凝らされていると思う。  結果として、ストーリーの「真相」において驚きがあったかどうかは、必ずしも重要ではない。 多少ベタなストーリーであっても、その展開において真っ当なプロセスを踏み、相応の娯楽性をきちんと生み出してくれたならば、当然感情は高揚するし、存分に映画世界を楽しむことが出来る。 この作品の勝因はまさにその部分で、見せるべき娯楽性を、見せるべきタイミングとビジュアルでしっかりと見せてくれたからこそ、ベタ的なラストの顛末で高揚出来たのだと思う。  そして、今作におけるそういった“真っ当な映画づくり”を牽引しているのは、やっぱりトム・クルーズに他ならない。 ピークを過ぎようが何だろうが、このスター俳優の「存在感」があるからこそ、この映画のエンターテイメント性は成立している。 どんな“裏技”を使っているのかは知らないけれども、まあとても50歳には見えないし、スタントなしのシーンでの動きや肉体を見る限り、相当の鍛錬をしていることも明らかだ。 映画製作に対してのその真摯な姿勢こそが、彼が“トム・クルーズ”であり続けられる「理由」だと思う。  「否定」は多かろうが、この映画の方向性と存在意義はまったく間違っていない。 「oblivion」の意味は「忘却」。ストーリー的な未熟さをカバーし、「絶望」の中に取り残された人々の叙事詩として導いてみせた“SFセンス”が素晴らしい。 声高らかに、新たなディストピア映画の傑作だと断言したい。
[映画館(字幕)] 8点(2013-06-01 23:59:48)(良:2票)
368.  ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン
数年前、自分自身の結婚式を控えた頃、YouTubeで結婚式のスピーチ関連の動画を検索していて、何処かの誰かの結婚式での花嫁の親友らしい女性のお決まりのテンションのスピーチ動画に、妻共々笑ってしまった。 映画の中で登場する、花嫁の親友同士の“スピーチ合戦”は、そういった結婚式における“女の友情あるある”を彷彿とさせ、笑いが止まらない。  商売には失敗し、恋愛偏差値は下がる一方の“いきおくれ”の主人公が、幼馴染みの親友の花嫁介添人のまとめ役をまかされたことにより、益々精神不安が加速していく。  男性が主人公のこの手の“イタさ”と“下ネタ”オンパレードの極めて“アメリカ的”なコメディ青春映画は多々あるけれど、女性が主人公でここまでぶっ飛んでいる映画はあまりない。 それ故に、男性目線からだと特に、時にえげつくなく、時に際限なく下品ではあったけれど、好事家たちの評判に違わず、サイコーに愉快で、サイコーにキュートな映画だったと思う。  映画として上手いなと思うのは、主人公一人の葛藤だけを描いているわけではないということ。 花嫁の親友たちで構成された5人の花嫁介添人たち(ブライズメイズ)。花嫁自身も含め、立場も生活環境も違う6人の女たちそれぞれが抱える葛藤を、遠慮のないコメディ描写の中でしっかりと描き出し、最終的には6人全員が好きになってくる。 男性として、女性の友情にはどうしても懐疑的な部分があるのだけれど、この映画を観ると、男同士のそれには無いドギツさとコワさを感じる一方で、女同士の友情に初めて羨ましさを覚えた。  とにもかくにも、それぞれがそれぞれに個性的でパワフルな女性が6人も集えば、周辺の男性陣はただただ右往左往するしか無いわけで。観客の男もその一人として、ただ笑い続けるしか無い。  結婚式を控える女性、結婚式を終えた女性、そして特に結婚式の予定なんてない女性、面と向かって勧める勇気はないけれど、そういったすべての女性のための映画だと思う。  この映画は、明らかに相性が悪いのであろう男との爆笑必至のセックスシーンから始まる。 この“笑撃”的なファーストシーンは、主人公が陥っている状況を端的に表すとともに、この映画の“振り切れ具合”を潔く表していた。 それは「この映画、こんなカンジて突っ走るよ?ついてきてね」と観客に対してのある種の宣戦布告だったのかもしれない。
[DVD(字幕)] 8点(2013-03-08 17:17:24)(良:2票)
369.  ヤング≒アダルト
僕自身、より広い世界で何かを成してみたいという望みはあった。そういう望みをがすべて消えてしまったわけではないけれど、いつの間にか生まれ育った土地で結婚をし子供が生まれ、日を追うごとに人生の方向性が確定し始めている。「幸福だ」ということに疑いはないつもりだけれど、完全に割り切れてもいない。 そんな三十一歳になったばかりの男にとっても、この映画が伝えるものは、色々な意味でイタく突き刺さる。  シャーリーズ・セロン演じるこの主人公のことを「馬鹿女」と一蹴してしまうことは簡単だし、とても楽だ。 実際彼女が馬鹿でイタい女であることは見紛うことなく確かなことだ。 彼女がああなってしまった原因の大部分は、彼女自身の人間性によるものであり、自業自得でもある。 しかし、その主人公の馬鹿でイタい言動の始終を追って呆れる反面、誰にも彼女を蔑む権利などないとも思える。 誰だってかつては彼女のように立ち振る舞いたかったはずだし、彼女自身、周囲がそうあることを望んだからこそ、無意識の強迫観念の中で自らの人間性を構築していったのだろうと思う。  ただそのまま歳を重ねるだけ重ね、一般的な価値観における「大人」になれなかっただけのことだ。 もちろん、社会の中で生きていく上で“ただそれだけのこと”では済まなくなる部分は多い。しかし、それを批判出来ることが出来るのは、何も知らない他人などではなく、彼女自身に他ならないと思った。 言い換えれば、辛かろうが、苦しかろうが、彼女自身が「それで良い」と心の底から割り切れれば、それが「正解」なのだと思う。  脚本も演出も素晴らしいが、敢えて特筆したくなるのはやはりシャーリーズ・セロン。 37歳のバツイチ女の荒み切った生活感を惜しげもなく表現したかと思えば、ある種狂信的なドレスアップ後には完璧な美しさを見せる。一人の女の中のこの激しいギャップが、殊更に主人公の悲哀を強め、キャラクターのオリジナリティーを高めている。“はまり役”といえばまさにそうだが、衝撃の“ヌーブラ姿”も含めて見事だったと思う。   この映画は、馬鹿でイタいオトナの女が、「痛み」を経て成長する物語……などではない。 己の馬鹿さもイタさもすべて抱えて、今一度「自分一人が大切だ」ということを噛み締め、髪を掻きむしりながらボロボロの体と心でそれでも前へ走り出す、そういう映画だ。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-11-30 16:14:05)
370.  エクスペンダブルズ2
クライマックス、シルベスター・スタローンの太い腕がナイフを地面に突き立てる。 その“腕の太さ”は、単純な筋肉の誇示ではなく、この映画俳優が長年に渡り培ってきた成功と苦労の象徴のように見えた。  満を持してこの映画を観た翌日の日曜日、実家にて庭作業をする父親を手伝った。自分自身が育った分、当然ながら父親は確実に歳をとっている。その父親の腕と、前日に見た老アクションスターの腕が、見た目的にも、意味合い的にも、何だか重なって見えた。 もちろん良いところばかりではないが、自分がこの“腕”によって育てられてきたことは紛れもない事実であり、感謝をしなければならない。 そして、「映画鑑賞」という人生経験においても、この映画に勢揃ったアクションスターたちの“太い腕”によって育てられたということは、たぶん間違いないことだと思う。  つまるところ、この映画が世界中のアクション映画ファンにとっての「夢」そのものであることは明らかだ。 そんな「夢」の実現、そして彼らがそれぞれに苦心して経てきた映画人生そのものに、まず感謝せずにはいられない。  もちろん「完璧」などという形容が相応しい映画ではない。ただ、敢えて言うならば、「完璧」ではないことが「完璧!」と断言できる。 スタローンとシュワルツェネッガーとウィリスが、見紛うことなくそろい踏み、惜しげもなく銃器をぶっ放す。 ヴァン・ダムが、代名詞のハイキックを見事に繰り出し、極悪非道を演じる。 ステイサムは、洗練された格闘とナイフアクションで、“現トップスター”の意地を見せる。 そして御歳“72歳!”のチャック・ノリスが、“伝説的”な立ち位置でオイシいところをかっさらう。 ストーリーにおける粗なんて本当にどうでもいい。これだけの要素が盛り込まれていて、他に何が要るのかという話だ。 「良い!」と思う全てのシーンにもれなく付随する“ほつれ”も含めて、この映画の不完全な完全さだと思う。  「大人の事情」を感じてしまうジェット・リーの序盤での“里帰り”や、“マギー・チャン”役には何とかマギー・チャンを出してほしかったなどなど細かな物足りなさはあるにはある。 そして、セガールにスナイプスにヴィン・ディーゼル、見たいヤツらはまだまだいる。 「5」あたりで超グダグダになることまで、アクション映画シリーズの“お約束”と想定に入れて、まだまだ“祭り”が観たい!
[映画館(字幕)] 8点(2012-11-18 23:55:26)(良:3票)
371.  フェア・ゲーム(2010)
エンドロールで流れる役名の一部が塗りつぶされていた。 この映画の主人公である実在の元CIAエージェントが綴った原作も、CIAの検閲の上で大部分が黒く塗りつぶされたまま出版されているそうだ。 それは、この物語が紛れもない事実であるということを如実に表しているもので、その“塗りつぶし”こそがこの作品の価値を揺るぎないものに高めている。  ブッシュ政権下におけるイラク戦争の勃発。その裏側に確実に存在した数人の権力者の「嘘」と「思惑」が、実に生々しく描かれる。 「ボーン・アイデンティティー」において、リアルなスパイアクションを撮ったダグ・リーマン監督が描くからこそ、“現実”のスパイの実像を描いた今作は、対比的に際立っていたと思う。  「大量破壊兵器は無い」ということを諜報活動によって導き出したCIAの報告が、時の政府によってねじ曲げられるという様には、「恐怖」という言葉では足りないおぞましさが満ちていた。 その絶対的とも言える巨大権力に対して真っ向から立ち向かい、自らの存在を貫き通した主人公夫婦は、勇気ある行動という表現ではおさまらず、やはり「無謀」に見えた。  この映画は、自分たちの“在り方”を守り通すために、敢えて「無謀」に走った夫婦の物語だと思えた。 ナオミ・ワッツとショーン・ペン演じる夫婦の関係性に焦点が絞られてくる後半においては、マクロ的な事の顛末よりも、彼らが夫婦としてどういう道程を選んでいくのかという事の方が気になってしまった。  往々にして、優秀過ぎる妻を持つ夫は、時に愚かな程身勝手に暴走してしまうものだ……。 クライマックス、妻に許しをこうショーン・ペンの情けない表情が、個人的に身に染みた。  そういった具合で、大局的な社会派ドラマの中に、パーソナルな人間ドラマを盛り込んだ構成は、映画的にも非常に巧みだったと思う。  多大な紆余曲折を経てきたとはいえ、実際にこれが映画として公開されている以上、この映画の中で描かれていることのすべてが「事実」であるという認識は間違いかもしれない。 本当に隠さなければならないことは、本当に隠されたままなのだとは思う。  しかし、たとえ真実のほんの一片であれ、当事者らが人生をかけてそれを明るみに出した行為と、映画というエンターテイメントの力で世界中に知らしめた事実は、賞賛に値する。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-09-27 14:29:18)(良:1票)
372.  スーパー・チューズデー ~正義を売った日~
ジョージ・クルーニーという映画人は、相変わらずプライベートはフラフラしているくせに、それに反するかのように、地に足着いた骨太な映画を生み出しやがるな。と、思った。  アメリカの大統領選の「裏側」で確実に巻き起こっているだろう“現実”を、真正面から切り取った佳作だった。  自らの政治に対しての「理想」が、甘く幼稚な「幻想」に過ぎないということを目の当たりにして、打ちひしがれる主人公。 絶望的な現実に対して、彼がついに“売った”正義とは何だったのか。 安直なヒロイズムに走らず、物語の結論そのものが、政治における現実に対しての痛烈な皮肉である着地点が面白い。  すべてを悟った主人公が、黒い瞳でテレビカメラに向かう印象的なラストカットは、彼の心情における闇と、この先も歩み続けるだろう過酷な運命を如実に表しているようで、意味深長だ。  舞台劇を礎にしているだけに、焦点が絞られた登場人物のそれぞれのキャスティングが素晴らしかった。 若き選挙参謀を演じるライアン・ゴズリングは、自身が売り出し中の俳優としてノリに乗っているということもあり、心揺れ動く理想主義で野心的な主人公を見事に演じ切っていた。 主人公の上司役でベテランのキャンペーン・マネージャーを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンも、本音と建前を巧みに使い分ける役柄を抜群の説得力をもって表現していた。 そして、カリスマ性を備えた大統領候補の政治家を演じたジョージ・クルーニーは、決してオイシくはない役柄において、絶対的な存在感をもって体現し、まさに実在しそうな政治家像を自らの演出によって巧みに導き出していた。  過剰な派手さがないことが、現実社会におけるリアルな不穏さに直結している。 いまアメリカでは、今年11月の大統領選を目の前にして、まったく同じようなことが水面下で繰り広げられていることだろう。 この作品はもちろん娯楽だが、それがそのまま現実に起きているということを想像すると、禍々しいおぞましさに包まれる。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-09-16 00:48:17)
373.  デジャヴ(2006) 《ネタバレ》 
高揚感を覚えながら、この映画を観終えて、二つの「悔恨」を感じずにはいられなかった。 一つは、これほど映画的なエンターテイメント性に溢れた秀作を今の今まで鑑賞できていなかったこと。 そしてもう一つは、今作を描き出したトニー・スコットという映画監督の新作をもう観ることが出来ないということだ。  タイトルが指し示すもの以上に、ストーリーそのものは荒唐無稽であり得ない。下手をすれば相当に陳腐な映画に成り下がっていてもおかしくはないだろう。 でもこの映画は、与えられたすべての要素を最大限まで高め、上質で忘れ難い娯楽映画に仕上がっている。 これぞ長年に渡りハリウッドのエンターテイメントを牽引してきたトニー・スコットの真骨頂だと思えた。  悲劇的な爆破事件において、主人公は一人の女性の亡骸と“出逢う”。 その瞬間、妙な既視感と共に確実に生まれた恋心。この映画のすべては、この時の主人公の感情に端を発する。 即ちこれは紛れもない“ラブ・ストーリー”であり、まだ見ぬ自分が愛した人を、道理も常識もぶっ飛ばして「死」という事実から救い出そうとする破天荒なエンターテイメントだ。 無理もあるし、矛盾もあろう。けれど、そんなことはどうでも良いと心から思わせる映画としての「面白味」に溢れている。  「死体」としての姿がファーストカットとなるヒロインが、主人公に恋心を抱かせたシーンに、観客が「納得」した時点でこの映画の成功は約束されたとも言える。 そういう意味では、殆ど無名のポーラ・パットンという女優を抜擢し、彼女の魅力を引き出したことも、監督のファインプレーだったと思う。  そして、全編通して心理も言動もフル回転を余儀なくされる主人公をデンゼル・ワシントンがドスンと安定感たっぷりに演じている。これも中途半端な俳優が演じていたら、ただただ落ち着きの無いキャラクターになっていたことだろう。  レンタルショップにて、それこそデジャヴを感じる程に何度も何度もこの映画のパッケージを手に取っては、結局棚に戻し続けていた記憶が思い起こされる。 その時の自分に「さっさと観ろ!」とメモでも送ってやりたい。  最後に、愛すべき娯楽映画を生み出し続けたトニー・スコット監督の冥福を祈る。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-09-07 14:26:25)(良:1票)
374.  ダークナイト ライジング
見事、クリストファー・ノーラン。 ジョゼフ・ゴードン=レヴィット演じるジョン・ブレイクの「本名」がさりげなく明かされるエピローグのシークエンスを観ながら、この新しいバットマンシリーズを完結させた鬼才監督を思わず賞賛したくなった。  「ビギンズ」でバットマンという周知のヒーローをまったく新しい「黒色」で塗り替え、様々な要素が重なり“伝説”とまでなった続編「ダークナイト」でその「黒色」を漆黒の闇にまで更に深めた同シリーズ。 否が応にも世界中の期待は高まり、ハードルはその分高まった完結編だったと思うが、ベールを脱いだその出来映えは素晴らしかったと思う。  165分と非常にボリュームのある長尺だが、決して「長い」と感じることはなかった。 序盤の展開に対して冗長な感覚も覚えたが、それらも含めてシリーズで描かれたことのすべてが、ラスト30分の怒濤のクライマックスで意味のあるものとして昇華される。 大富豪のブルース・ウェインが蝙蝠男のコスチュームを着て闘う理由は何なのか、この世界における「悪」とは何なのか、そして「ヒーロー」の意味とは何なのか。 シリーズを通して突き詰められてきたそれらのテーマが、過不足なく描きつけられていたと思う。  前作において完全に悪役に食われてしまったヒーローを、更に滅茶苦茶に打ちのめした上で「復活」させる。そういう娯楽映画としての王道をきちんとプロセスとして描きつつ、独特のシリアス性を併せ持たせる。 その卓越したエンターテイメント性が何を置いても素晴らしい。  “ジョーカー”により闇にまで深まったヒーローの黒い造型を丁寧に浮かび上がらせ、遂には白い光に転じさせてみせた。 一作目、二作目の両作を踏まえて描き出されたストーリーと顛末は、クリストファー・ノーランが導き出したこの世界観に合致したとても真っ当な「結論」だったと思う。まさに「THE DARK KNIGHT RISES」というタイトルに相応しい。
[映画館(字幕)] 8点(2012-07-29 12:05:07)
375.  宇宙人ポール
昨年「SUPER8」を観た時に、作品としての完成度には不満を持ちつつも、溢れる“映画愛”に対して無下に否定することが出来なかったことが思い出された。 あの映画と今作は、映画としての立ち位置はまったく違うように見えるけれど、本質的な“理念”はむしろ全く同じと言っていい。 即ち、かつて世界中が熱狂し愛したスティーブン・スピルバーグをはじめとする偉大な映画監督たちが生み出した数々のアメリカ娯楽映画に対する「敬愛」。まさにその一言に尽きる。  ただ、今作が「SUPER8」と少し違うところは、そんな理屈抜きにして問答無用に面白い映画であるということだ。 往年の娯楽映画に対するオマージュに溢れてはいるが、そんなものはあくまで“おまけ”であり、きっと誰が観たって「面白い!」そういう映画としてきっちりと成立している。それが、「娯楽映画」として最も素晴らしいことであることは言うまでもない。  英国の“ボンクラオタク男子”の二人組が、憧れのアメリカ旅行中に宇宙人に遭遇する。紆余曲折を経つつ意気投合し、宇宙人の彼を仲間の元へ送り届ける。 実際ただそれだけの話である。ただそれだけの話が極上の「娯楽」になる、だからこそ映画は素晴らしいのだということを、この映画は再確認させてくれる。  何と言っても、宇宙人“ポール”の存在感が凄い。 実写映画の中の一キャラクターをフルCGで描き出すという試み自体はもはや珍しくもない。 しかし、そこに娯楽映画の主人公に相応しい愛着と、周囲のキャラクターと同様に息づく存在感を持ち合わさせることは、並大抵のことではない。 決して仰々しくなく、さりげなく描き出されているように見えるが、このクオリティーの高さは「凄い」としか言いようがなく、それを生み出しているものこそが、製作スタッフの紛れも無い「映画愛」に他ならないと思えた。  最高に楽しくて良い映画だったと思う。ただし、惜しむらくは自分自身が“SF映画オタク”になりきれていないこと。 前述の通り、過去の名作SF映画を観ていなくても存分に楽しめる映画であることは間違いない。 しかし、オタクだったならばもっともっとはしゃげたんだろうと思うことも事実。 「ああ、これは何かの映画のオマージュなんだろうな」と気付きはするが、それが何なのか明確にならない悔しさは随所で感じてしまった。  とりあえず「未知との遭遇」は早急に観よう。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-07-14 22:54:32)(良:3票)
376.  テキサスの五人の仲間 《ネタバレ》 
BS放送分を取り敢えず録画していて、いつの時代のどんな映画かほとんど分かっていない状態で鑑賞をした。 この映画において、その鑑賞のプロセスはとても幸福なものだったと思う。 古い映画だけに、少しでも予備知識が入ってしまっていたなら、この映画の素晴らしい娯楽性を完全に堪能することは出来なかったろう。  テキサスきってのギャンブラー5人が集い年に一度のポーカー・ゲームに興じるホテルに、旅の夫婦と息子が辿り着く。夫は無類のポーカー狂で妻と息子の制止を顧みず、ポーカーに混ざり全財産をつぎ込んでしまう……。  原題は「A Big Hand for the Little Lady」。訳すならば「淑女の大いなる一手」といったところだろうか。 このタイトルも洒落ているが、珍しくも“邦題”に対しても「ウマい!」と言いたくなる映画だったと思う。  ポーカーというトランプゲームは、玄人が突き詰めていくほどに「運」というよりは「ハッタリ」が勝負の行方を左右するギャンブルであり、そういう観点からすれば映画ならではの“騙し合い”を描き出しやすい題材ではあると思う。 しかし、故に数多くのギャンブル映画の題材になってきたし、そもそも観客には疑心が伴いやすいので映画として“ウマくダマす”ことが非常に難しいとも言えると思う。  そんな中にあって、40年以上前の映画でありながら、映画の中の住人たちはもとより、現代人の観客まで“気持ちよく”騙してくれるこの映画の娯楽性は見事なもので、「傑作」という呼称に相応しい。  勝負において感情を表に出さない勝負師を「ポーカーフェイス」と表すが、もっともポーカーフェイスが巧くない者が、実は最もポーカーフェイスが巧かったという、言葉にすると矛盾に溢れる逆転の顛末が爽快だった。 「スティング」を彷彿とさせる爽快感を携えた逆転劇に素直に感嘆できたことは、映画ファンとして幸福以外の何ものでもない。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-07-04 14:33:03)(良:1票)
377.  アメイジング・スパイダーマン
恋をした同級生の男子が“スパイダーマン”であることを知り、その背中を見送るヒロインは一言「ああ困った」と呟く。 その彼女のテンションは、スーパーヒーローを好きになってしまったという極端な動揺ではなく、警察官の娘なのに街のちょっとした問題児を好きになってしまって「ああ困った」というような、ハイティーンの普遍的な動揺として表現される。 このシーンによって、この映画のスタンスは、つまるところ若い男女の恋模様を主軸とした青春ドラマであり、それ以上でもそれ以下でもないということを宣言していると思えた。  アメコミヒーロー映画としての“エンターテイメント性”という部分において、及第点を越えていることは間違いない。しかし、サム・ライミ版の第一作目と比べると、すべての娯楽性の部分において衝撃度は劣る。 でもだからと言って面白くなかったかと言うと決してそんなことはなく、ヒーロー映画云々以前に映画として素直に面白かったと言える。 そしてその面白さこそが、冒頭に記したこの映画のスタンスに尽きると思う。  膨大なアクションシーンのボリュームの力技で貫くのでもなく、はたまたライミ版の「スパイダーマン」や「ダークナイト」の如くヒーローの内面的な葛藤に対してディープに踏み込んでいくわけでもない。 悪漢に制裁を与えるシーンで軽妙な振る舞いをしてみたり、一旦恋に落ちれば“秘密”や“約束”なんてないがしろにしてみたり、良い部分でもあり悪い部分でもあるそういったハイティーンの“軽さ”と“若々しさ”それに伴うポップさこそが、この映画におけるエンターテイメントそのものとして存在している。 まさにそれこそが「(500)日のサマー」のマーク・ウェブが今作を監督をした価値だったろうと思う。  どういう捉え方をするかによって、観賞後の満足感は大いに左右するだろう映画であることは確かだと思う。 単純に比較するべきではないかもしれないが、サム・ライミ版と比べて映画のテンションからキャスティングに至るまでどちらが「スパイダーマン」という素材に相応しいかと問われれば、ライミ版に優位性があることは間違いない。  でも、個人的には、主人公とヒロインが誰もいない学校の廊下でデート(じみた何か)の約束をするという、アメコミヒーロー的な側面には何も関係ないシーンに心を掴まれてしまった時点で、この映画を揶揄する気は毛頭無くなってしまった。
[映画館(字幕)] 8点(2012-07-02 16:07:04)(良:3票)
378.  ダーク・シャドウ(2012)
ティム・バートンについては、この10年余りの作品はもれなく劇場で鑑賞している。 ただし、実のところ今作は劇場鑑賞をスルーしようかと思い始めていたところだった。 その理由は、この数年の彼の監督作品には、魅力的なイントロダクションに反して今ひとつパンチに欠け、フラストレーション過多だったこと。そして、そのことが“黄金コンビ”である筈のジョニー・デップとの実に8度目のタッグに対しても、猜疑心を生み始めていたからだ。 イントロダクションで伝えられるビジュアルを見た時点で、彼らが組んだ過去作の幾つかと似たような雰囲気の映画であることは明らかで、殊更に食指をすぼませた。  しかし、それらは完全に杞憂、取り越し苦労だった。 「なんだ面白かったじゃないか!」と静まらない高揚感を感じつつ、レイトショーの映画館を後にした。  この監督の過去作と世界観が似通っていることは間違いない。そこに“いつものように”ジョニー・デップが主演俳優として座しているわけだから、二番煎じ、三番煎じと揶揄したくなる気持ちも分からないではない。 でも、これがティム・バートンの映画である以上、それはまったくのお門違いだ。  これこそがティム・バートンという映画監督の“世界”であり、久しぶりに彼の「美学」が存分に爆発している映画だと思う。 ビジュアルのクオリティーのみが際立って、映画の根本的な世界観に欲求不満を禁じずに得なかったここ最近の作品に比べ、今作は圧倒的に振り切っている。 えげつなさも、可愛らしさも、映し出されるすべてが「ティム・バートンらしい」という表現である意味強引に納得するしかない力強さが溢れていた。  そして、こういう“この監督”の世界観に違和感なく息づけるのは、やっぱり“この俳優”しかいないと、改めて納得してしまった。  60年代の人気テレビシリーズの映画化だけに、ストーリーそのものは良い意味でも悪い意味でも“チープ”そのものだ。突っ込みどころも枚挙にいとまが無い。 けれど、そういったチープさも突っ込みどころも、この映画に映し出されるすべてのものが愛おしく思えてくる。  もはやこれは、完全に個々人の嗜好によって判別するしか無い映画世界だろうと思う。 ただ僕は、海の底で“監督の愛妻”がカッと目を見開いたその先も延々と繰り広げられるだろう、この奇妙な家族の奇々怪々な生活模様が気になって仕方が無い。
[映画館(字幕)] 8点(2012-05-31 23:32:39)(良:1票)
379.  ドライヴ(2011)
ポーカーフェイスの主人公。彼の冷静な表情を映し出した後、その静かな目線の先に意外な“事”が起きている。 その特徴的な演出が作中幾度か挟み込まれていて、それは、この映画において終始“胸騒ぎ”を覚える要因となった。 “胸騒ぎ”を最後まで拭いされない映画だったが、言いようも無い居心地の良さも同時に感じる。この映画は、そういうとても奇妙な映画だったと思う。  ストーリーは極めてシンプルだ。 自動車の修理工であり、映画のカースタントマンであり、犯罪の“逃し屋”を裏家業とする孤独な主人公が、或る人妻に恋をして、刑務所帰りの彼女の夫のトラブルに巻き込まれ、ギャングと対峙する羽目になるという。 シンプルというよりも、映画のメインストーリーとするにはあまりに陳腐なプロットと言える。  しかし、この奇妙な映画の“売り”は、そんな陳腐なストーリーそのものではない。  本名も含めて、その素性が結局最後まで明らかにされない謎に満ちた主人公の男。 彼の抱えた心の「闇」、そしてそんな彼に訪れた一寸の幸福の邂逅。 斜陽に照らされたアスファルトを走り出す描写に溢れた一瞬の輝き、それこそがこの映画の文字通りのハイライトであり、その限られたシーンに個々人の思いを込められるかどうかで、この映画の賛否は大いに揺らぐように思う。  主人公が経てきた人生を映し出す描写はまったくない。 しかし、この男は、過去においてすでに人生における「最悪」を経験してしまっているのだろう。 この映画で描き出される主人公の孤独と激情には、それを物語る記憶の断片が垣間見えたように思えた。  彼が、この映画で描かれる物語の先を生き抜いたのかどうかなんてことは、もはや関係ない。 彼は、「最悪」の闇の中で、突如として僅かな“輝き”を見られた。 この映画が描き出したかったことは、ただそれだけだったのではないかと思う。   インフォメーションには、「疾走する純愛」と記されてあった。そのコピー自体は間違ってはいないと思う。 しかし、決して浅はかなカップル向け映画などではない。 隣の席の人間のことを気にすることなく、座席の手すりにでもしっかり掴まっていなければならない。 でなければ、きっと振り落とされて、怪我をする。
[映画館(字幕)] 8点(2012-05-27 00:43:33)(笑:1票) (良:1票)
380.  ある戦慄
日曜深夜の都会の地下鉄、自身の人生に対して様々な不満や不安や葛藤を抱えた人々が偶然に乗り合わせる。それはどこにでもある日常の風景だろう。 そこに、単純な「粗暴」という言葉ではおさまらない、気が違っているとしか言いようがないチンピラ二人組が乗り込んできて、乗客たちそれぞれに傍若無人な行為を繰り返していく。 その行為は、「暴力」という範疇までには及ばないけれど、あまりに悪辣で乗客たちを精神的に追い込む。  最初のうちはチンピラたちの蛮行そのものに対して憤りを感じ、気分が悪くなる。しかし、次第に気分の悪さの対象が遷移し始める。 チンピラたちの行為に被害を被る乗客たちの生々しい人間性が露になってきて、気を滅入らせてくる。  この映画は1960年代のニューヨークを舞台にしているが、この地下鉄の一車両で描かれているものは、どの時代のどの国のどの街でも存在し得るであろう人間同士の歪みである。 その場に居合わせているのがごく普通の人間だからこそ、少しずつ表面化していく“戦慄”があまりにおぞましい。  「どこにいたんだ?」 退役後の大層な野心を述べていたにも関わらず、地下鉄車内に突如発生した「出来事(incident)」に対して結局何もしなかった同僚に対して、チンピラに唯一立ち向かった田舎者の軍人が、虫の息でぽつりと言う。  他の乗客たちは、すべてが解決した後も死人のように呆然と押し黙ったまま、とぼとぼと地下鉄を降りていく。 “戦慄”とは、突然現れた悪魔のようなチンピラたちなどではなく、彼らによって浮かび上がらされたすべての人間に巣食う屈折した心理そのものであること知らしめ、彼らと同様に自分自身があの車両に同席していたならと考えると、絶妙な後味の悪さに襲われる。  とても胸糞が悪くなる映画だった。その胸糞の悪さは、そのまま自分を含めこの映画を観ているすべての人間たちが内包している要素であり、そのことが殊更に胸糞悪さを助長する。 観ているままに居心地の悪さを終始感じ続けなければならない映画だが、それは人間の“澱み”や“歪み”を如実に表している証明であろう。故に傑作であることは間違いない。
[DVD(字幕)] 8点(2012-05-13 01:05:01)(良:1票)
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