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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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21.  ブラックアダム
DCコミックスきってのダークヒーローに我らがドウェイン・ジョンソンが扮する。 そりゃあハマるに決まっているし、俳優単体の存在感のみを捉えたならば、数多のアメコミヒーロー映画の中でも指折りの「説得力」を示したと言っても過言ではないだろう。 DC精神全開のケレン味に振り切った描写は、スペクタクル性に溢れ、その絶妙なバカさ加減(好物)も含めて、さながらインド映画の超大作を観ているようだった。  ただ、その主演俳優のドハマリぶりの一方で、新鮮味は皆無だったことも否めない。 MCU、DCと、これだけアメコミ映画が飽和状態の中にあって、あまりにもオーソドックスで豪腕ド直球なストーリー展開が、本作のテイストに相応しいことは理解しつつも、やはり退屈だったことは否定できないところ。  マイナス要因だったのは、主演俳優のド直球なハマりぶりに呼応というか、依存するかのように、周辺のキャラ設定や描写までもが、あまりに工夫なくチープだったというところだと思う。 ダークヒーローの一種のバディとなる少年や、その母親で学者のキャラクター性が類型的で魅力に欠けていたり、主人公と共闘するヒーローチームの面々のオリジナリティが弱かったことが、本作の魅力を底上げすることができなかった大きな要因だろう。  「アイアンマン3」でトニー・スタークを救った少年だったり、トム・ホランド版「スパイダーマン」でマリサ・トメイが演じたメイおばさんのような愛すべきキャラクターを登場させることができていたならば、本作自体がもっと愛すべき作品になっていただろう。  MCUのような世界観の完成度は皆無で、その代わりにケレン味あふれる描写で瞬間的な沸点を追求するDCのアプローチは決して嫌いではない。 次作でこのダークヒーローと対峙するのは、スーパーマンか、それともシャザムか。いずれにしてもこの路線をさらに追求する形でエンターテイメントのクオリティーを爆上げしていってもらいたい。
[インターネット(字幕)] 6点(2023-12-02 23:52:49)
22.  ハート・オブ・ストーン
終始一貫して、スパイ映画シリーズの“米英の両巨塔”のいくつもの過去作、あらゆるシーンのオマージュ、焼き直し、丸パクリのオンパレードではあった。特に、もはや「神」と化したAIを巡る攻防は、「ミッション・インポッシブル」の現在公開中の最新作そのままだったとも言えよう。 ただ、全編通して“二番煎じ”ではあったが、繰り広げられるアクションシーンの質は総じて高かったと思う。 そして、何と言っても、我らが“ワンダーウーマン”が、相変わらず強く、美しいので、良しとしたい。  Netflixのオリジナルアクション映画において全般的に言えることだが、良い意味でも悪い意味でも感じる“ライトさ”は、インターネット配信で楽しむには、個人的にちょうどいい。 これが、紛れもなく重厚で面白い娯楽大作の傑作であったとしたら、映画ファンとして劇場公開されないことを口惜しく思うことだろう。  僕自身が子供の頃は、週末のロードショー番組で放映されるアクション映画やSF映画を、特に何も考えずに気楽に観ていたものだが、Netflixオリジナルの娯楽映画はちょうどそんな感じがする。 週末の余暇時間に、特に期待せずに観始めて、「意外と面白かったな」とエンドロールを迎える。それくらいの映画がちょうどいい時もある。
[インターネット(字幕)] 6点(2023-12-02 22:47:01)
23.  ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー
ものすごく“真正直”な「スーパーマリオブラザーズ」の映画化だった。 子供から大人まで誰が観ても楽しめるだろうし、ゲーム世界を映画として具現化したそのクオリティそのものは極めて高く、隙がないと言える。 休日の昼下がり、小学3年生の息子と二人観るには、とてもちょうどいい映画だろう。  ただし、全くと言っていいほど“驚き”は無かった。 私自身、子供時代からプレイし続けてきて、先日も最新作「ワンダー」を子どもたちのために買ったばかりだが、詰まるところ、良い意味でも悪い意味でも、ゲーム世界そのままの映画であり、何かそれ以上の付加価値があるものではないと感じた。 勿論、マリオやピーチ姫、キノピオやクッパたちに登場キャラクターとしての人格は備わっているのだけれど、決してゲーム世界で想像した以上の「言動」を起こすわけではなかった。 稀代のアクションゲームの映画化において、特筆すべき“驚き”が無いということは、やはり致命的な欠落だと思う。   「スーパーマリオブラザーズ」というゲームの魅力は、そのアクション性の豊富さや、そのイマジネーション溢れるユニークな世界観もさることながら、何よりも主人公である「マリオ」や敵役である「クッパ」に対する愛着の深さにこそあると思う。 配管工のヒゲおやじが、カメが巨大化した化け物に繰り返し挑み続けるこのゲームが、世界中から愛されているのは、一重にそのキャラクターたちが魅力的だからだろう。  ではなぜキャラクターが魅力的なのだろうか? どのシリーズ作においても、マリオがピーチ姫を助けに行くに当たっての具体的な経緯や、クッパがキノコ王国を支配しようとするに至ったバックグラウンドが詳しく説明されているわけではない。 マリオはいつだって、オープニングでさらわれたピーチ姫を取り戻すために問答無用に冒険をスタートさせる。 でも面白い。それは、プレイヤー一人ひとりが彼らのキャラクター性を「想像」するからだと思う。 プレイヤーは、「1-1」がスタートした時点で、マリオがどういう人間なのかということを無意識レベルで想像し、彼に憑依する。そしてゲームを進めていくにつれて、ピーチ姫やクッパのキャラクター性に対してもより一層想像を深めていく。 その想像の深まりと共に、プレイヤーはゲーム世界に没頭し、コースをクリアしていくことに快感を覚えていく。それが、「スーパーマリオブラザーズ」のゲームの魅力、そこに登場するキャラクターたちの魅力だと思う。  つまり何がいいたいかと言うと、この映画作品で描き出されたマリオをはじめとするキャラクターには、世界中のゲームプレイヤーたちが延々と繰り広げてきた「想像」を超えるものが存在しなかったということ。 言い換えれば、極めてベタで平均的な「想像」に終止したキャラクターが、ゲーム世界そのままの映画の中で活躍する様を見ているようだった。 それはすなわち、他人がプレイしている「スーパーマリオブラザーズ」を見ているようでもあり、楽しくはあるけれど、当然ながら自分自身でプレイしている時のような、驚きや快感を伴う面白さは無かった。  「スーパーマリオブラザーズ」の映画化においてもっと追求すべきだったのは、世界中のプレイヤーたちが想像し得なかったキャラクター像の「創造」、もしくは実際にゲームをプレイしているとき以上の「体験」だったのではないかと思う。
[インターネット(吹替)] 6点(2023-11-23 08:49:42)
24.  ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー
それなりに長く映画を観続けていると、現実世界の俳優の死に伴う喪失感が、映画世界の内外を巻き込んで渦巻くことはままある。 2020年、43歳の若さでこの世を去ったチャドウィック・ボーズマンの死は、近年においてその最も顕著な出来事だったろう。 MCUでブラックパンサーことティ・チャラ役にキャスティングされたことで、一躍世界のトップ俳優の一人となった彼の死は、MCUファンに限らず、世界の映画ファンにとってあまりにも大きな損失だった。  無論、この「ブラックパンサー」の続編も、チャドウィック・ボーズマン続投が大前提のプロジェクト進行が、突然の悲報に伴い、継続そのものを問う岐路に立たされたことは言うまでもない。 普通に考えて、絶対的な主人公を演じていた俳優を失ったヒーロー映画の続編が、そのまま成立するなんてことはあり得ないだろう。 それでもなお、映画の製作を進め、161分の大長編として日の目を見た本作からは、監督のライアン・クーグラを筆頭に、スタッフ、キャストからの、亡き“ティ・チャラ王”に対する尊敬と哀悼が満ち溢れていた。  死に伴う喪失感は、時に残された人間を惑わし、自暴自棄に貶める。 その心情が本作に登場するキャラクターたちに投影され、彼らも大いに惑い、進むべき道を見失いそうになる様が印象的だった。 それをどう乗り越え、その先の時間をどう生きるのか。それはきっと最愛の人間の死に出会うべくしてこの世に生きるすべての人間に課せられた宿命なのだと思う。  最愛の兄と王とヒーローをまさしく“同時”に失った妹のシュリは、映画のラストで光に照らされた美しい浜辺で一人佇む。 その表情からはやはり寂しさと心細さが垣間見える。その一方で、大切な記憶や、兄や母に対する愛情は決して色褪せないことも噛み締めているようだった。  生きろ、そして戦い続けろ。 「エンドゲーム」のクライマックス、ポータルの中から現れたティ・チャラが、満身創痍のキャプテン・アメリカに対して力強く視線を向けた後、援軍を鼓舞するシーンが思い浮かぶ。 偉大なヒーローは死してもなお、映画世界の内外の“アベンジャーズ”を鼓舞し続ける。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-11-23 07:47:19)
25.  キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン
200分を超えた物語の終着点で、主人公のアーネスト・バークハートは、劇中最も情けなく、そして力ない表情で、傍らにいたFBI捜査官の方を振り向く。気丈な捜査官も、思わず目を背けてしまうくらいに、主人公のその様とそれに至った妻に対する「回答」は、愚かすぎて目も当てられない。 この映画は、米国史上における確固たる「闇」と、その中で蠢いた人間たちの悍ましさ、そして罪を犯し続けた一人の男のひたすらな愚かさを容赦なく描きつけている。  主演のレオナルド・ディカプリオが本作で演じたアーネスト・バークハートという男は、おそらく彼のフィルモグラフィーの中で最も愚かで救いのない人間だったに違いない。 それ故に、本作の製作に当たって当初は事件を究明するFBI捜査官の方を演じる予定だったところを、自らの判断でこの愚男に配役を変え、演じきったディカプリオは、すっかり骨太な映画人だなと思う。  マーティン・スコセッシ監督の最新作に、彼が長年に渡ってタッグを組み続けたロバート・デ・ニーロとレオナルド・ディカプリオが揃い踏みするという事実は、世界中の映画ファンにとってやはりスペシャルなことであり、むしろそれこそが「事件」と言えよう。 それが206分という異様な上映時間であったとしても映画館に足を運ばずにはいられなかった。  1920年代のオクラホマ州で起きた先住民族“オーセージ族”を対象にした連続殺人事件の真相と顛末を描いた実録犯罪映画。 206分という上映時間には流石に構えてしまったが、実際に鑑賞が始まると、そこはやはり大巨匠の独壇場、プロローグシーンから一気に映画世界に引き込まれる。 オクラホマの荒野に追いやられた先住民族が、油田の発掘により一転して莫大な富を得て、そのオイルマネーに群がる白人たちの操作と支配、陰謀によって運命を狂わされていく様が、努めて淡々と描き出される。 実話ベースのストーリーテリング故に、そこには大仰な映画的な派手さや、劇的な顛末は存在しない。ただだからこそ、一人ひとりの人間の本質が、丁寧に、生々しくあぶり出されていくようだった。  前述の愚男を演じたレオナルド・ディカプリオ、そして、人間の悪意をそのものを演じきるロバート・デ・ニーロの競演からは、人間が孕む闇と腐臭が匂い立ってくるようだった。終盤、それに群がるかのように飛び回る蝿の羽音が不快感を助長していた。  また、両者の間で身も心も侵食されるオーセージ族の一人であり、主人公の妻を演じたリリー・グラッドストーンの存在感も抜群だった。 只々、嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶように、沈黙を守り、最後の最後まで愚かな夫への“赦し”を与えようとするその姿は、とても美しく、神々しい。 劇中、白人は神の存在を都合よく語り、オーセージ族も自分たちの信仰を貫く、がしかし、本当の「神」とは、一人ひとりの人間の中にこそ生まれ存在するものなのではないか。というようなことを、主人公の妻モリーの生き様から感じた。  時代や場所、価値観や常識を超えて、迫害や侵害を念頭に置いた理不尽な暴力は、この世界のあちらこちらで今なお繰り広げられ続けている。 本作で綴られたことは、決して「物語」ではなく、無情で端的な事実であるということを、映画の最後、自ら登場したマーティン・スコセッシは、強く強く伝える。
[映画館(字幕)] 8点(2023-11-19 22:22:25)
26.  search #サーチ2
インターネット配信による新作映画の視聴がどれだけ普及しようとも、映画は劇場のスクリーンで観るべきで、それが幸福な映画体験をもたらす信じていることに変わりはない。けれど、前作「search サーチ」に続き本シリーズだけは、映画館ではなく自宅で、しかも自室のPCのモニターで鑑賞することが、特異な映画体験をもたらすと思う。  前作に続き、主人公が駆使するラップトップPCやスマートフォンやスマートウォッチの画面を、ほぼ全編に渡って映し出し、ストーリー展開が繰り広げられることでサスペンスが加速していく。 自分のPCでこの映画を観ていると、あたかも主人公のPCモニターをそのままハッキングして観ているような感覚に陥り、この映画特有の“臨場感”が増していく。  更に本作では、ある人物が実際に主人公のモニターをハッキングしているくだりがあったり、前作や本作の顛末がドラマ化されたらしいNetflix作品を主人公が観ていたりして、まるで二重三重に映し出される合わせ鏡のように、現実と映画世界、更にその先のドラマ世界が果てしなく繋がっているような感覚を覚える。  各種インターネットデバイスや、SNS、様々なインターネットサービスを駆使して、18歳の主人公は、母親の失踪と、その裏に隠された真実を追求していく。 前述の特異な映画的手法が功を奏して、主人公と同じ目線で、我々観客も不安を掻き立てられ、たどり着く真相に驚くことができる。  序盤から中盤の展開的には、成功した前作の二番煎じのようにも見えがちだけれど、用意されていた顛末には、前作とは異なるテーマ性がしっかりと備わっており、“パート2”として相応しい出来栄えだったと思う。  まあよくよく考えてみたならば、主人公の母親は、もう18歳になる娘に対して事前にしっかりと“自分たちのこと”を説明しておくべきだと思うし、それが新しい恋人との再婚間近というタイミングであれば尚更だろう。 (そもそもこの母親は男を見る目が無さ過ぎるというのは野暮なので言わないが……)  この手のシチュエーションスリラー特有の強引なストーリーテリングは否定できないが、日常的にGoogleアカウントで様々なサービスを利用している現代人としては、危機管理の必要性を感じずにはいられない映画だった。 定期的なパスワード変更は大事だけれど、いざという時に近親者にも見当がつかないのも危ういな。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-11-05 09:39:22)(良:1票)
27.  フォーカス(2015)
マーゴット・ロビーが好きだ。 いまやハリウッドのトップ・オブ・トップの女優に上り詰めたと言っても決して過言ではないこの俳優の魅力は、リアルな“叩き上げ感”とそこから溢れ出る強かな人間性そのものだろう。 1990年生まれ、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」で、主演のディカプリオの妻役としてマーティン・スコセッシに抜擢されたのが22〜23歳頃だろうから、若くして成功した俳優の一人であることは間違いないが、オーストラリアから裸一貫でのし上がった苦労人でもある彼女には、俳優・映画人としての天賦の才と、生きる上での聡明さが備わっている。  そんな人間的な厚みが備わっているからこそ、マーゴット・ロビーという女優は、セックスシンボルにもなれるし、馬鹿にもなれるし、イカレ女にも、痛い女にも、ミューズにも、ヒーローにもなれる。 本作「フォーカス」で彼女が演じている詐欺師のジェスも、まさにその適性に合ったキャラクターであり、ベストなキャスティングだったとは思う。色仕掛けとスリを得意とし、詐欺師としての才能を開花させていくヒロイン像は、ハマり役と言えよう。  そのヒロインを圧倒的な詐欺師の技量で魅了していくのが、主演であるウィル・スミス演じるニッキー。 常に相手を騙し続ける凄腕詐欺師のキャラクター造形は主人公らしく、ウィル・スミスの多才さとも相まって悪くはなかった。 が、しかし、その完璧だった詐欺師像が、魅力的なヒロインの出現によって乱れ、崩れていく。  まさにその天才詐欺師に生じた不協和音こそが、本作のストーリーにおけるミソなわけだが、最終的にはその綻びが綻んだまま、少々グダグダな展開のまま終着してしまった印象を受けた。 ヒロインに対して恋愛感情を抱いてしまった主人公が、詐欺師道を貫くために、彼女から離れる展開までは良かったが、その後再開してクライマックスとなる大仕事に挑むくだりが、中途半端で盛り上がりに欠けた。  詐欺師映画である以上、映し出されるすべてのシーンに何かしらの意味があって然るべきで、“騙す相手”は、大富豪のボスなどではなく、スクリーンの外側の観客であるべきだと思う。 無論、本作においても、最終的にアッと驚く仕掛けを用意しているつもりであろうが、結局のところ主人公がヒロインに対してただただメロメロになっているようにしか見えず(実際彼女の本質を見抜けていなかったわけだし)、カタルシスを得るまでには至らなかった。  まあ、そういうグダグダな雰囲気は、往年のヨーロッパの娯楽映画を観ているようでもあり、おしゃれでキッチュな落とし所は嫌いではないけれど、主演のウィル・スミスが、作中のキャラクター的にも、俳優としての支配力的にも、マーゴット・ロビーに喰われているなという印象は拭えない。 それならば、マーゴット・ロビー演じるジェス側に、すべてを覆す思惑や計画を持たせて、名実ともに主人公と観客を“支配”してほしかったところだ。
[インターネット(字幕)] 5点(2023-11-03 09:13:22)
28.  閉ざされた森
いつも視聴している某映画紹介系You Tubeチャンネルに出演するグラビアアイドルが、生涯ベストの映画として本作を挙げた。 おお、やっぱりこの子は“映画好き”として信頼できるなと思った。 僕自身、公開当時に1度観たきりだったが、“どんでん返し”系サスペンス映画としては、間違いなく屈指の作品だったと鮮烈に記憶に残り続けていた。  ただし、掘り出し物感の強い面白い映画だったという記憶は確実にあるものの、20年の月日は、本作のストーリーテリングとその顛末を忘却の彼方へ押しやっていた。 つまるところ、“幸運”にもどんでん返しのオチをほぼ忘れてしまっていた。 それならばと、早速サブスクを漁って本作を見つけ出し、20年ぶりの再鑑賞に至った。  主演はジョン・トラボルタ。「パルプ・フィクション」をきっかけに90年代後半に再ブレイクを果たして乗りに乗っていたこの大スターの出演作品を、当時中高生だった僕は映画館で何作観ただろうか。 本作が製作された2003年時点では、その勢いもやや下降気味だったとはいえ、この映画のジョン・トラボルタは、主人公として文字通りにストーリーテリングを支配している。  そしてその主人公が捜査官として真相究明する事件の中心に存在するのが、特殊部隊の鬼軍曹を演じるサミュエル・L・ジャクソン。そう言うまでもなく「パルプ・フィクション」でコンビを組んだ二人の再共演であり、そのキャスティングの構図だけでも今なお高揚するというもの。  肝心のストーリー展開は、まさに“藪の中”ならぬ“森の中”の様相で、生き残った兵士たちの食い違う証言によって、二転三転、いや最終的には四転五転と、真相がひっくり返り続ける。 ストーリーを追うにつれ、段々とどんな映画だったかは思い出していったけれど、結局最後の最後の大オチで、ああそうか!と記憶がよみがえり、しっかりと本作の最大の娯楽性を堪能できた。  ラストカットは、ジョン・トラボルタが劇中何度が見せる口を鳴らしてウィンクする表情で締める。小気味よくて最高。 もちろん、“どんでん返し”のストーリー展開が贔屓目に見ても強引であり、主人公が言う“つじつま”は合っているようで合っていないんだけれど、そのB級的な娯楽感が堪らないのだ。 淀川長治の日曜洋画劇場が健在な時代なら、きっと何度も再放送されて、良い映画体験をもたらしてくれただろうなと想像してしまう快作。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-10-12 22:28:51)
29.  ジョン・ウィック:コンセクエンス
ラストの「決闘」の舞台に向けて、パリ中から群がるおびただしい数の敵を蹴散らしながら、50代後半のキアヌ・リーヴスもといジョン・ウィックは、二百数十段の階段を登り切る。そして、見事な“階段落ち”を見せる。 決闘開始時刻のタイムリミットが迫る中、数十段のロスかと思いきや、まるでコントのように延々と転がり続け、なんと二百数十段丸ごとの階段落ちを目の当たりにした時、この映画世界の真の境地を見たと思った。 そこに生まれたのは失笑などではない、唯一無二のアクション映画に対する紛れもない感嘆だった。  どんなにマンガ的な設定であろうと、どんなにあり得ない展開であろうと、どんなに馬鹿馬鹿しい描写であろうと、それを“アリ”にしてしまう孤高の娯楽力。それこそが、「ジョン・ウィック」という映画化世界が達した世界観であり、五十路を越えて己の“アクション映画馬鹿”の精神を貫き通したハリウッドスターの矜持であろう。  振り返ってみても、「ジョン・ウィック」シリーズは、いわゆる“一級”のアクション映画の“品質”など端から追い求めていない。「ミッション:インポッシブル」や「007」のように、世界中の幅広い映画ファンに認められて称賛されようなんて考えは微塵も無かった。  本シリーズにおいて、キアヌ・リーヴスを始めとする製作陣が追求したのは、古今東西のアクション映画マニアの心に巣食う「俺が観たいアクション映画」に他ならなかった。 もっと言い切るならば、キアヌ・リーヴス自身が“観たいアクション”そして“撮りたいアクション”の結晶だったのだと思う。  「俺が撮りたいアクション映画」、それを実現するためならば、彼はあらゆる努力を惜しまない。 ガンアクション、マーシャルアーツをはじめ、玄人はだしのあらゆるトレーニングを積み重ね、60歳を目前とする今なお、己の身一つで“スタイリッシュ”を体現し続ける。 本作において、ヨーロッパの荘厳な教会や歴史的建造物を背にして歩くだけで、映画シーンとして様になるキアヌ・リーヴスは、まさしくイケオジの頂点だろう。  169分というあまりにも長い上映時間の中で、ほぼフルフルで展開されるアクションシーンの連続に対して、観客の多くは高揚感を遥かに通り過ぎて、頭がクラクラしてくるに違いない。 正直なところ映画的に冗長であることは否定できないし、何度も何度も繰り返される殺し屋同士の殺し合いの様は、まともな神経で観続けれることは困難で、ちょっと頭がどうかしていると思える。  だがしかし、もはやその狂気性とカオス感こそが、「ジョン・ウィック」なのだと認めて、呆然としながらこの映画世界を呑み込むしかない。 そう半ば強制的に観客の価値観をも支配してしまう本作と、その主人公及び主演俳優の在り方は、エキサイティングで、やっぱりちょっと異常だ。
[映画館(字幕)] 8点(2023-09-24 23:09:22)(良:2票)
30.  ザ・メニュー 《ネタバレ》 
「料理」というものを突き詰めた結果、たどり着くのは果たして、“奉仕”だろうか、“芸術”だろうか。いや、“狂気”だった。 人間にとって不可欠なプロセスである「食事」を対象にして、更にその欲求を高め、娯楽性を生み、古くから享楽の境地にまで達した「料理」には、元来人を狂乱させる要素を多分に孕んでいるものなのかもしれない。  何のために料理をするのか、誰のために料理をするのか。 いつしかそれを見失ったまま、その“行為”を極限まで追い求め、高め抜いた結果、そこに群がる高慢と強欲の餌食となってしまった一人のシェフによる、狂気的な芸術と奉仕。 それは一見すると、究極的な“逆恨み”による復讐劇のようにも見えるけれど、本作が最終的に描き出したものは、もっと達観していて、もっとイカれた、至高の料理人による「表現」であった。 彼にとっては、自分自身の料理に群がり渦巻く愚かな人間たちの“業”そのものと、それに対する怒りや悲しみや絶望が、もはや料理を彩るための“スパイス”や“隠し味”にしか捉えられなかったのだろう。  シェフの絶望と狂気は、彼と彼の料理を妄信的に信奉するすべてのスタッフ、そしてさらにはゲストたちにも伝染していく。 料理、そして食事の本質を見失い、“高額な美食”というステータスに執着する人間たちが、このレストランに来る前からそもそも抱えていた虚無感と闇が、ラストの“デザート”を迎える頃には充満していたように思える。  そして最終的には、ゲストも含め、レストラン内に残った全員がこの“メニュー”の終着を心から望んでいたようにすら見えた。 劇中シェフ自身からも言及されている通り、“メニュー”による理不尽や暴力に対して、客たちは結託していくらでも抗い闘うことができたはずだが、彼らは「美食」というレッテルにただ支配され、殆ど抵抗らしい抵抗をすることもなく盲目的に受け入れてしまっている。 その虚栄心に満ちた客たちの無理解と浅はかさこそ、このシェフが狂気に殉じた起因なのだろう。  そうしたすべての顛末を、達観した強い眼差しで眺めながら、冷めたチーズバーガーを頬張るアニャ・テイラー=ジョイの表情が堪らない。 アニャ・テイラー=ジョイが主演としてメインを張った時点で、彼女がこの地獄絵図を生き残ることはある意味必然(「スプリット」の“ビースト”から生き延びたのだから)だったろうが、相変わらずの眼力でシェフと観客を魅了している。  主演女優をはじめ、配役とそれぞれの演技も素晴らしかった。 狂気の料理人を体現しきったレイフ・ファインズは、彼の芳醇なキャリアにおいても特筆すべき印象的な演技を見せ、劇中のレストランのみならず、本作そのものを支配していたと思う。 個人的に長らくファンのバイプレイヤー、ジョン・レグイザモの安定した存在感、ベトナム系女優ホン・チャウのおぞましい立ち位置も見事だった。 彼らを筆頭に、様々な人種が混在するレストラン内の面々がこの世界の縮図を表していたのだとも思う。 そして、実はシェフよりもよっぽどサイコパスだったグルメマニアを演じたニコラス・ホルトのキャスティングも抜群にハマっていた。  冒頭のスタッフの宿舎を案内するシーンでの「燃え尽きることはないのか?」というゲストの何気ない発言だったり、「シェフは死と戯れる」、「すべてを受け入れて赦すのです」といった序盤の様々な台詞回しが、“メニュー”の伏線となっていくストーリーテリングも見事。
[インターネット(字幕)] 9点(2023-09-17 09:28:33)
31.  ワイルド・スピード/ファイヤーブースト
えっ!?ええっ!!?えええっっ!!!の連続。それは、このアクション映画シリーズを愛し、この第10作に至るまで堪能してきたファンにのみ許された特典的なエキサイティング性だったかもしれない。 無論、必ずしも“一見さんお断り”というわけではなく、圧倒的物量のアクションシーンと怒涛のスペクタクルは、誰が観ても高揚する娯楽性を放っていたけれど、その根底にあるのはやはり、本シリーズのファンも含めた“仲間”に対する「家族愛」であり、シリーズを追い続けてきたからこそ得られる高揚感が確実に存在していた。  「ワイルド・スピード(原題Fast & Furious)」の最新10作目にして、最終章の前編となる本作は、常識や現実なんてものは、もはや遠い彼方に置き去りにしたアクション&ファンタジーとして、堂々と仕上がっている。本作の“あり得ない”描写に対して、揶揄したり、鼻白んだりすることしか出来ないのであれば、もうそれはこの“車”からお降りいただくしかない。  最終章を描くにあたって、敵味方を含め過去9作に登場してきたキャラクターたちを“総動員”させようという心意気も嬉しい。 それは、“ファンサービス”と言ってしまえば確かにその通りかもしれないけれど、去ってしまった仲間に対する敬愛、そして倒してきた敵からの憎悪の連鎖とが入り交じる本シリーズの人間模様の総決算でもあり、相応しい顛末に感じた。  シャーリーズ・セロン演じる最凶の敵サイファーが、いきなり呼び鈴を鳴らして訪ねてくる冒頭シーンに驚き、絶対に死亡していたはずの“ワンダー”な女性キャラの再登場に高鳴り、“不仲”が伝えられていた最強捜査官の復帰に歓喜した。  そして、ジェイソン・モモア演じる本作の敵ダンテのイカれジョーカーぶりも最悪で最高だった。 本作においてドムの追撃をことごとく阻み、ついには“ファミリー”を「崩壊」にまで至らしめたこの悪役の暴れっぷりと狂いっぷりは、近年のヴィランの中でも随一の存在感を放っていたと思う。  キャラクター的にはもう一人、前作で悪役として登場したドムの実弟ジェイコブも、その“キャラ変”ぶりが最高の一言だった。ドムの息子“リトル・B”との道中のやり取りは、その微笑ましさと痛快さに終始ニッコニコ状態。この叔父・甥コンビのロードムービーだけで1本の映画が作れるのではないかとすら思えた。 ジェイコブは、前作からの禊も含めた涙腺崩壊必至の“離脱”となるけれど、本作の世界観が描いてきた「常識」を踏まえると、ほぼ確実に、「ジェイコブ叔父さんは帰ってくる」だろう。  というわけで、本作は「前編」として、ある意味最高にエキサイティングな終幕を迎える。2025年公開の次作が待ちきれないところだが、本シリーズが積み重ねてきた10作分をじっくり観返して待つとしよう。  何度も何度も大切な仲間たちを生き返らせてきた「ワイルド・スピード」の最終作であれば、しばらく不在の“もう一人の主演俳優”も、まるで何もなかったように復活するに違いない。と、非現実的なことを信じずにはいられない。
[インターネット(字幕)] 9点(2023-09-03 22:23:28)
32.  バービー(2023)
小学6年生の娘はブルーやグリーンが好き。小学3年生の息子はピンクやイエローが好き。 自分の好きな“色”に対して、子どもたちが違和感を持つことはないし、親の僕自身も好きな色を選べば良いと心から思うけれど、一方で、こうやって敢えて言葉にすること自体が、僕自身が古い価値観を抜け出しきれていない証明なのだろうとも思う。  ただ、時代の変遷とともに移り変わり様変わりする価値観そのものを「古い!」と言って一概に否定したり、拒否したりすることは容易なことだけれど、あまり意味のないことだとも思う。 なぜなら、一つ一つの価値観には、それぞれの時代や環境において、何かしらの「意味」と「役割」を持っていただろうから。 本作の主題である“バービー人形”は、その顕著な事例であり、価値観という概念を象徴するものだったのだと思えた。  それまで少女たちの“ままごと”の子守相手に過ぎなかった人形が、バービー人形の登場により、夢や理想を投影する存在となった意味。 そして、少女(=女性)たちに、“定番”の夢と理想を与えて、“現実”から目を背けたかった意図。 なぜ少女たちは、金髪の白人人形に自らの夢を投影したのか、なぜ女性たちは非現実の世界に逃げ込まなければならなかったのか。 そこには、「功罪」が等しく存在していて、一方的な否定も肯定もできないと思う。  時代の変化、社会の変化に伴い、価値観の象徴であるバービー人形の存在意義そのものが問われることは必然だろう。 ただし、だからといってそれまでの価値観をそっくりそのまま“反転”できるかというと、無論そうではない。 「時代が変わった」「価値観が変わった」とただ声高に叫んで、バービーたちの女性社会を、ケンたちの男性社会に逆転させてみたところで、本末転倒で結局何も変わらないということ。  本作の最も素晴らしいところは、そういったこの世界の“価値観”の今現在の有り様に対して、極めてフラットな視点に立ち、そのことを偏った価値観の象徴であった“定番バービー人形”の変化の中で顕わにし、笑い飛ばしていることだ。 “定番”であり、世界の女性たちの夢と理想の権化であると信じていた“彼女”が、いつの間にか古臭い旧時代の女性像の象徴であると突きつけられるシーンは、つまるところ、今この瞬間に是とされている価値観すら常に変容していくものだということを物語っていると思えた。   いつからか世界は「完璧」を求めすぎている。 それは決して皆が一様に完璧な自分になりたいわけではなく、完璧でなければ許容されない現代社会の風潮に振り回されているからだろう。 そして、その“風潮”自体にも、必ずしも真っ当な信念があるわけではなく、ただ耳障りのいい“トレンド”に過ぎないことが、この世界の悶々とした息苦しさに繋がっているように思える。  本作は、ピンク一色のイカれた世界観の中で、浅はかな見識や無責任な正義感によって、“ポリコレ”や“ジェンダーレス”という言葉の嵐に振り回される現代社会に対する痛烈な批評性と風刺に満ち溢れていた。 “バービー人形”の中に、今この瞬間の世界で描き出すべきテーマの本質を見出し、映画化を実現し、この狂気的な映画世界の中で終始“バービー”としての存在感を貫き通したマーゴット・ロビーが、映画人として、女優として、そして一人の現代人として、本当に素晴らしい。
[映画館(字幕)] 8点(2023-08-20 11:14:45)
33.  逆転のトライアングル
とどのつまり、人間社会というものは、「格差」とそれに伴う「階層」を取り払うことなんてできない、ということを本作の終着点における虚無感は物語っている。  現代社会において、全世界的に“格差の是正”が問題提起されていたり、幅広い要素での“ポリティカル・コレクトネス”がともすれば病的なまでに声高に叫ばれている昨今ではあるけれど、果たしてそこに本質的な理解と実行力が伴っているのか。 結局、聞こえの良い言葉を一種のトレンドや、免罪符のように振り回して、個々人の立場を正当化しているだけではないのか。 この映画の痛烈な批評性と、度を超えたブラックユーモアは、そういう現代社会の実態を痛々しく丸裸にしている。  俗世の象徴とも言える豪華客船に乗船した様々な“階層”に人々。彼らの中に、真に中立的で、公正な人間は存在しない。 本作の舞台となる豪華客船や無人島がこの世界の縮図を表している以上、それはすなわちこの世界に中立公正な人間は存在しないということの証明であろう。 したがって、本作を鑑賞したすべての“社会人”は、それぞれの信条や立場において、ものすごく居心地の悪さを感じることだろう。  ヨーロッパの映画(スウェーデン・フランス・イギリス・ドイツ合作)らしく、多様性に富んでいると同時に、ものすごく振り切ったブラックユーモアの連続がときに痛すぎる程に痛快で無慈悲なコメディ映画だった。 船が難破して無人島でのサバイバルが始まらなくとも、人間社会のヒエラルキーなんてものは、時代や価値観の変化によって突如として逆転するものだ。 その逆転が生じたとき、人間は己の中に確実に存在する“闇”を目の当たりにする。 それは、皆等しく業の深い人間には避けられないことなのかもしれない。   映画作品として意欲的すぎるシニカルさを称賛する反面、全体の構成としてはややバランス感に欠けている印象も拭えない。 主人公のカップルのみに焦点を当てたプロローグ的な一章目の描き方や、ヒエラルキーのあらゆる階層が“同乗”する豪華客船上を描いた二章目の作りは興味深かった。が、無人島が舞台となる三章目は、テーマに対する回答と帰着を描いているわりにはやや冗長に感じてしまい、よくあるシチュエーションでもあるので新鮮味が薄れてしまった。 ラストのオチを踏まえると、無人島パートはもっとスマートに、端的な愚かな人間たちの有様を描いてよかったように思う。  他の文化圏でリメイクされたならば、同じストリーテリングであったとしても、また別のどす黒いユーモアが新たな“闇”を浮かび上がらせるだろう。 虚しく、愚かしいことだけれど、それはそれで観てみたいなと、業深い人間に一人として思ってしまう。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-08-19 17:38:35)
34.  ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE
“Actor”とは文字通り“Action”を追求し表現し続ける“生き方”であることを、今年61歳になるハリウッドスターは、証明し続ける。  1996年にトム・クルーズ自身の手によって製作された「ミッション:インポッシブル」シリーズの最新第7作。 27年余りの年月を経て、主人公イーサン・ハントを体現し続ける稀代のスター俳優は、“演者”としてのボーダーラインをとうの昔に超えてしまい、本作では文字通り境界のその先に我が身を放り出している。 数ヶ月前にYou Tubeで公開された本作最大のスタントシーンのドキュメント映像を見たときには、トム・クルーズの“映画馬鹿”としての気質を重々理解していた上でも、思わず「馬鹿かよ」と口に出さずにはおられず、ニヤつきが止まらなかった。  これまでのシリーズ作同様に、アクションシーンのアイデアを起点としてストーリー展開が構築されるスタイルは本作も変わらず、むしろさらにそのコンセプトが加速している。 163分の長尺の上映時間ほぼ目いっぱいに展開される数々のアクションシーンは、どれも驚きと娯楽性に溢れていて、そのアクションの過剰なエンターテインメント性に対して、ストーリーテリング自体が振り落とされないように必死にしがみつているような印象すら覚えた。 特に本作は、シリーズ初の二部構成の“前編”ということもあり、多少のストーリー的な説明不足感や、真相や伏線回収はあえて放置して、ひたすらにアクション描写に振り切っているようにも感じた。  ただその一方で、描き出されるテーマとほぼイコールの存在として描き出される本作の「敵」は、この2023年の映画としてあまりにもタイムリーであり、トム・クルーズの映画プロデューサーとしての視点の確かさにも感服する。 劇中“それ”と呼称され、全世界へ支配力を強める神のごとき存在として対峙する“AI”との戦いは、まさに「デッドレコニング(=推測航法)」の主導権を巡る戦いであり、すなわち人間とAIにおける未来の覇権争いへと繋がっていく。  無論、来年公開予定の続編がただただ待ち遠しいが、本作の各シーンでセルフオマージュされた「ミッション:インポッシブル」第一作からまた見直しつつ待つことにしよう。 ただひとつ、“彼女の死”がフェイクであることを願いながら。
[映画館(字幕)] 8点(2023-07-30 17:49:11)
35.  NOPE/ノープ 《ネタバレ》 
恐怖映画が苦手なので、気鋭のジョーダン・ピール監督の最新作として話題性と評判を各方面から聞き及びつつも、なかなか鑑賞に至れなかった。が、この類の作品は、経年するほどネタバレ要素も含めて面白みが軽減してしまうものなので、意を決して鑑賞した。 苦手な恐怖映画として身構えて見進めたけれど、そんな苦手意識を一蹴するとびきり“ヘンな映画”だった。  この手のスリラーは、恐怖の対象として登場する「?」の正体があらわになるまでが、ある意味映画の推進力が及びピークであり、その正体が明らかになった時点で一気に興ざめすることも避けられない。 だがしかし、本作はそんなジャンル映画の宿命すらも織り込んだ上で、大仰で馬鹿げた展開を堂々と貫き通している。おかしな映画ではあるが、それは映画を知り尽くした者のクリエイティブだと思えた。  ジョーダン・ピール監督作「ゲット・アウト(2017)」でも主演したダニエル・カルーヤのギョロッとした目の演技が終始印象的で、彼の周辺に巻き起こる不穏な現象に対するめくるめく様々な感情が巧みに表現されていた。 またその目の演技による、見る、見られるの描写は、本作のテーマである「見せ物」という娯楽への功罪にも繋がっていた。 ティム・バートンの「エド・ウッド」の劇中で、「ハリウッドは人を噛んで吐き捨てる」という台詞があった。本作において、未確認飛行物体が吐き捨てた5セント硬貨によって亡くなった主人公の父の悲運は、まさにその台詞を象徴する描写であり、この映画は全編通して、ハリウッド、ひいてはショービジネス全体の罪と罰を描き出しているのだと思える。  兎にも角にも、奇妙なスリラー映画として中盤までを牽引しつつも、そこまでの恐怖感をいい意味でひっくり返すかのごとくSFモンスターパニック映画へ急旋回する本作のストーリーテリングは極めて独特で、やっぱり“ヘンな映画”と結論づけるのがふさわしい。  決戦前夜の食卓に並ぶ缶ビールがなぜかキリンビールの“一番搾り”であったことも謎すぎたが、これは単にプロデューサーと監督が“一番搾り”好きということだったらしい。 そんな意味のないディティールに何か不穏さや意図を感じせるこも、本作が噛みごたえがある映画であることの証明だろう。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-06-03 12:25:56)(良:1票)
36.  エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
“あなた”を理解したいのにすべてが混沌として理解不能。これは全世界、いや全宇宙すべての母娘と夫婦と家族と隣人、そして「私」自身の物語。   評判に違わず、なかなか“トンデモナイ”映画だった。 文字通りに破茶滅茶であり、映し出される各シーン、各カットの性質はチープで下品でグロくてワケわからんのに、結果的に心が充足し、涙が溢れている。 古今東西のあらゆる映画のオマージュが乱れ打たれる描写に対して“既視感”を覚えつつも、気がつくと、まったく新しい映画世界に放り込まれていた。それは、まさしく“新しい”映画のマジックと言っていい。  自宅兼用のコインランドリーと税務署のみで繰り広げられる極めてミニマムな舞台設定が、無秩序に広がる多元宇宙と、めくるめく精神世界を自由闊達に描き出していた。 近年“マルチバース”というキーワードが市民権を得ているが、藤子・F・不二雄の漫画で育ってきたものとして、この映画が描き出したそれは“パラレルワールド”という言葉のほうがしっくりくる。(F先生の短編漫画の傑作「パラレル同窓会」を読んでいると、本作の世界観と真理がもっと腑に落ちやすいだろう)  ともあれ、漫画よりもマンガ的な本作の表現方法はちょっと常軌を逸していて、決して万人受けする類いの映画ではないことは明らかだ。僕自身、そのフリースタイルぶりに半笑いを通り越して唖然としてしまった瞬間があることも否めない。 ただ、そのあまりに自由な振れ幅こそが、本作が表現するマルチバースもといパラレルワールドの本質だとも思える。  何もかもがうまくいかないストレスフルな生活を送る世界線もあれば、ふとしたきっかけでカンフー映画の世界的スターになるきらびやかな世界線もあり、一方では指がソーセージの世界で同性愛に思い悩むことも、子供が作った拙いボロ人形で終わる人生も、はたまた生物が存在しない世界の“石ころ”として日々を送る世界線もあり得るということ。 そして、その無限に分岐した世界線は、すべて繋がっていて、今この瞬間も、均衡(バランス)を保ち続けているということ。  「私」が今この人生を歩んでいるからこそ、同時に成されていないすべての可能性が存在し、そのすべては平行して流れ続けている。 ラストで主人公は、互いの気持ちをぶつけ腹を割った娘と別の道を歩むことを「選択」しかける。きっとその瞬間、それをそのまま選択した宇宙(バース)も生まれたのだろう。でも、この映画で映し出されている主人公はその選択を回避して、恥ずかしがる娘を抱きしめる。 それが「正解」ということではないし、その先が必ずしも「幸福」という話でもない。 ただそういう無数の選択の連続の上に、私たちのこの世界線は存在しているということ。そしてそれは唯一無二であるということ。  僕自身は、今年42歳になる。当然満足できることばかりではなく、年齢に応じた不安やストレスは尽きることはないけれど、相対的に見れば充分に“マシ”な世界線を生きているのだろうと思う。 決して裕福ではないけれど、家族がいて、好きな映画を見て、写真を撮って、お酒を飲む。そういうことをわりと自由にできるこの日々は、もはや代え難いとも思える。  ぽっかりと穴が空いたベーグルをそのまま食べるか、チーズを一枚はさむか、ハムをはさむか、ベーグルが見えなくなるくらいに何もかもを盛り込むか、もしくは食べきらずに途中で捨ててしまうか。 実際、それをどう食べるかは人それぞれだし、その人の自由だ。でも、そのベーグルが一つしか無いことが、変わることはない。 ならばやっぱり、たとえお腹いっぱいなることがなかったとしても、せめてやさしい気持ちで美味しく食べたいなと、至極普通のことを思うに至った。   分かっちゃいたけど、容易に語り尽くせるタイプの映画ではない。それこそパラレルワールドの数だけ、この映画に対する僕の感想も存在するのだろう。 1992年の「ポリス・ストーリー3」のミシェル・ヨー、1994年の「トゥルーライズ」のジェイミー・リー・カーティス、自分自身が小学生の頃に何度も見た両作で、主人公の世界的アクションスター以上の印象を残した二人の女優が、30年の年月を経てこのような形で共演(名演)したことにも、個人的に大きな感慨深さを覚えた。
[映画館(字幕)] 10点(2023-03-11 11:22:23)(良:1票)
37.  アントマン&ワスプ:クアントマニア
“フェーズ4”の作品群は、良い意味では極めて多様性に溢れ、悪い意味ではあまりにも世界観を広げようとしすぎるあまりこれまでの各フェーズと比較するとまとまりが無かった。 MCUという大河のシリーズとはいえ、元来は各作品とも独立した映画であることが前提なので、“まとまり”を求める必要は本来ないのかもしれないが、“ビッグ3”が牽引して「エンドゲーム」で大団円を迎えた“フェーズ3”までの流れがあまりにも奇跡的だったので、どうしてもそういうことを感じてしまう。  昨年(2022年)も「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」を皮切りに「ドクター・ストレンジ/MOM」と「ソー:ラブ&サンダー」を勇んで劇場に足を運び、それぞれ楽しんだけれど、前述の世界観の肥大とそれに伴う情報量の“拡散”に対して、やや疲弊感を感じてしまったことも事実。 結局今の所まだ手を出し切れていないが、「Disny+」で立て続けに配信されたスピンオフの各ドラマシリーズを全く追いきれていないことも、それに拍車をかけている。 ついには「ブラックパンサー」の続編を劇場鑑賞スルーしてしまうなど、自分の中で確実に“MCU離れ”が生じ始めていた。  “フェーズ5”の第一弾となるこの「アントマン&ワスプ」の続編に対しても、二の足を踏んでいたが、結果的には劇場鑑賞しておいてよかったなとは思う。 正直なところ「大満足」というレベルの作品ではないけれど、“フェーズ5”の入り口として重要な情報が多い作品であったし、何よりもやっぱり“アントマン&ワスプ”というヒーローカップルの活躍は痛快だった。  「アントマン」の過去作が公開された時と同様に、この小さき者はいつだってMCUという大河における停滞と混濁に痛快な風穴を開けてくれる。 「量子世界」というミクロの先のもう一つの果てしない宇宙を舞台にした映画世界は、イマジネーションに溢れ、そこにアントマンというキャラクター性が表す個性がユニークに発揮されていたと思う。  ただし、量子世界の造形美そのものは、美しく神秘的であった反面、明らかに“スターウォーズ”オマージュの要素が強く、また「アバター」等にも類似していて、必然的に既視感があったことは否めない。 現代のエンターテイメント全体のトップランナーであるMCUの一作だからこそ、そこは“見たことがない”映画世界と価値観を創出してほしかったとは思う。  物足りなさについて加えると、今後の“ラスボス”として初登場した“カーン”という強大なヴィランが、結局何者なのかが分かりづらかった。 節々の台詞で“におわせ”はしているものの、つまるところ彼は何を成し遂げたいのか、そして時間の終末に何を見たのかが、今後の展開を踏まえた意図的なものであることを理解しつつも、あまりにぼやけ過ぎていたように思える。  もう少し、このヴィランが時間そのものを支配している存在であることを映像表現として伝えるべきだった。カットになった未公開シーンでは、ホープやその他キャラクターのあり得たかもしれない“未来の姿”を見せるような展開もあったという。 時間軸が入り混じった新たな価値観を含めたこのヴィランの恐怖を表現できていたら、それこそ近年のSF映画の傑作「メッセージ」のような既存の概念を覆す深淵のドラマが表現できたのではないか。  また、演じるジョナサン・メジャースの演技は称賛されているようだが、個人的な所感ではキャラクターとしての厚みを感じられなかったのが正直なところだ。(少々わざとらしい演技プランも興を削いだ) 彼が今後の展開のキモとなるのは間違いないし、文字通り様々な「顔」を見せてくるのだろうから、その変貌ぶりも含めて期待していきたい。  そして、本作における最大の“欠落”は、マイケル・ペーニャが演じていた“ルイス”の不在だろう。 彼の存在と軽妙な言い回しが、過去作における代え難い娯楽性であったことは明らかだったので、冒頭かラストの1シーンでも登場させて欲しかったというのは、ファンの共通した思いに違いない。   とまあ、クドクドと不満要素多めになってしまったが、ヒーロー映画として面白くないなんてことは決してなく、充分に楽しめた。 エヴァンジェリン・リリーとミシェル・ファイファーの熟女母娘が、めちゃくちゃ美しく、格好いいだけでも、個人的な満足度は担保されている。  エンドロール後のクレジットをワクワクしながら待ち、登場したキャラクターを見て、「ああ、やっぱりDisny+に引きずり込まれるのか?」と神妙な面持ちになったことは否めないけれど。
[映画館(字幕)] 7点(2023-03-04 12:51:57)(良:1票)
38.  バビロン(2022)
“映画史”そのものが混濁とした映像の渦となって映し出されるラストシーン。 映画という表現の「革新」と「核心」を目の当たりにして、積年の感情が満ち溢れる主人公を大写しにしたラストカットで、スクリーンに映写された画面がぴたりと止まった。 3時間に渡って映画がもたらす魔法と虚構、そして狂気を見せつけられてきた私は、その“フリーズ”状態に困惑しつつも、デイミアン・チャゼル監督による何らかの意図だと信じ切って、体感にして10分以上、そのまま静止したスクリーンを観続けた。 暗がりの中、他の観客がみな席を立ち、ひとり取り残される格好となっても、その真意を探ろうと、映画世界を思い返しながら、微動だにせず凝視していたところ、おずおずと劇場スタッフが現れた。  なんと、映画館側の映写トラブルだった。 映画館に通うようになって30年以上経つが、こんな経験は初めて。こんなことが、この映画の、このラストカットで発生するとは。 無論、映画館側の失態であることは明らかで、今後無いようにしてほしいが、これはこれで稀有な映画体験だったと思う。残念な気持ちも無くはないが、何かの奇跡が働いて、イカれた映画世界に取り残されてしまったような感覚も覚えた。   「世界で最も魔法に満ちた場所」  ブラッド・ピット演じる無声映画時代の大スターは、映画製作の現場(セット)を「世界で最も魔法に満ちた場所だ」と言う。それは、本当に間違いないことだ。 どれほど狂気と非常識が渦巻いていても、フィルムに写し込まれた虚構がもたらす感動が、そのすべてを凌駕する。 その様はやはり「魔法」という言葉が相応しい。  だがそれが「魔法」である以上、非情な“リミット”と共に解けてしまうことも必然。シンデレラは夢のような一夜の後、冷酷な継母の元へ戻らなければならない。 まさしく栄枯盛衰。本作が、かつてメソポタミアに存在した世界最大の古代都市の名称を冠されていることは、そのあまりにも盛大な虚構の儚さを、ダイレクトに表している。  だがしかし、だ。 たとえ魔法のような“一時”であったとしても、そこで輝くことの業と意義を、この映画は奇声のごとく叫ぶ。 ゴシップ誌の記者が諭すように、一瞬だろうとなんだろうと、一度フィルムに焼き付けられた輝きは、時代を超えて残り続け、生まれてもいない見ず知らずのどこかの誰かに感動を与え続ける。 そう、それが「映画」なのだと。   冒頭のイカれたパーティーに象徴されるように、正直、というか絶対的に、“綺麗”な映画ではない。 “文字通り”クソとゲロに彩られた汚物まみれの映画であることは間違いない。 作品的も支離滅裂な要素が多々あり、全世界的に渦巻く賛否両論も多分に理解できる。 でもね、その汚物まみれの映画世界を描きぬいているからこそ、これほど“映画愛”に満ち溢れ、逆流しているような映画も他にないと思える。  「映画」を構築するすべてが、嘘や欺瞞、虚栄と虚構で成り立っているという本質を、この映画に登場するすべての人物、作品の作り手、そして我々鑑賞者の全員が「理解」している。 それでも、私たちは、映画を作り続け、映画を観続け、映画を愛し続ける。  「映画」はクソだ!でも、なんて素晴らしい! “奇跡的”にも、時間が静止した10分間のラストカットで、私はその映画愛にまんまと侵食されてしまったようだ。
[映画館(字幕)] 9点(2023-02-28 22:19:37)
39.  トムとジェリー
テレビ放映を子どもたちが観ていたので、一緒に鑑賞。“金曜ロードショー”をまともに観るのも何年ぶりだろうか。 「トムとジェリー」は、自分の幼少時はもちろん、子どもたちが生まれた頃からよく観ていた。 言葉がわからなくとも、言語がわからなくとも、映し出されるコメディがただただひたすらに面白い。 それが、このアニメが世紀を越えて愛され続ける要因であることは明らかで、僕も子どもたちも、破茶滅茶で愛くるしいネコのネズミの狂騒劇に大笑いし続けてきた。  アニメーションと実写が融合して映画化された本作も、その狂騒劇の真髄はいかんなく発揮されており、真っ当に面白かったと思う。 実写映像の中にアニメのキャラクターが登場する作品は幾つも制作されてきたと思うが、よく考えれば「トムとジェリー」ほどその手法に相応しい作品も無いように思う。 マンハッタンの一流ホテルを舞台にして、ビル群と人間世界の中で、所狭しと大騒動を繰り広げる様は、言わずもがな娯楽性に溢れていた。  ストーリー展開自体はベタすぎるほどベタだったが、主演のクロエ・グレース・モレッツの愛嬌も手伝って、愛すべきファミリームービーに仕上がっていたと思える。  これからもいくつもの時代を越えて、彼らが仲良くケンカする様を見続けたい。
[インターネット(吹替)] 7点(2023-02-19 07:11:20)
40.  イニシェリン島の精霊 《ネタバレ》 
「何だったのだろうか」 という一言が、エンドロールが流れ始めた瞬間に大きな疑問符と共に脳裏を埋め尽くす。正直なところ、正確な理解は追いつかなかったし、良い映画だったのかどうかの判別すらも、その時点ではつかなかった。 鑑賞から1日以上だった現時点においても、その心境に大きな変化はなく、「困惑」の域を抜け出せてはない。 ただ、その「困惑」を覚えることは、本作の鑑賞体験において極めて正しいことだったと思う。  年を食った二人の男が織りなすとても可笑しくて、笑えないお話。  何もない、何も変わらないことに対する終わりのない閉塞感が、突如としてある“衝動”を生む。 周りの人間たちから見ると、それはあまりに突然の変化に見え、とてもじゃないが理解が追いつかない。特に、前日まで楽しく時間を共有していたと信じていた“親友”にとっては、あまりに理不尽で悲劇的な“心変わり”であったろう。  前述の通り、鑑賞者として主人公二人がその奥底に孕んでいる心情の正体を正確には理解できていない。でも、薄っすらと見え隠れする心の機微は何となく感じ取れる。  それが、アイルランドの内戦下でありながらまるで蚊帳の外な環境的な疎外感によるものか、そんな環境で凡庸な人生を終えようとする老齢の焦りなのか、はたまた長年の親友への友情を越えた感情に対する困惑からなのか、いずれにしてもその理由を他人が断定することはできないし、する必要もないだろう。 感情の理由も正体も、それは彼らだけのものだ。  自分自身、40歳を越えた頃から心の中に小さな点のような“焦燥感”が生まれ、それが徐々に大きくなっていることを感じている。 それが、今後の人生観に少なからず影響を及ぼしていることも否定できない。 そう、世界の果てのようなアイルランドの孤島でなくとも、本作で描き出された焦燥や衝動や狂気は、世界中の誰しもが実は孕んでいる感情なのだと思う。   本作の最後、コリン・ファレル演じる主人公は、変わらない、終わらない現実を理解し、受け入れ、改めて親友と向き合う。 数日間の小さく静かな“内戦”により、二人はそれぞれ決して小さくないものを失ったが、改めて人間として付き合い続ける覚悟が生まれているように見えた。  果たして彼らがまた親友に戻れたかどうかは不明だけれど、14時の時報が鳴る頃にはパブでビールを酌み交わしている姿をせめて想像したい。
[映画館(字幕)] 8点(2023-02-11 07:43:42)
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