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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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381.  セッションズ
“性行為”に対しての葛藤。それは人間として、いや生物として、誰しもが通る通過儀礼。 勿論それは、身体障害者にとっても同様なことなのだけれど、臆病な社会は、そういうことからついつい目を背けがちだ。  この映画は、「障害者と性」という、浅はかな固定観念を持っていては踏み込みづらく、表現しづらい「題材」に対して、真摯に向き合い、ドラマとユーモアとエロティシズムを絶妙なバランス感覚で表現してみせた“傑作”と言えると思う。  この映画が素晴らしいところは、身体障害者である主人公の境遇に対して、必要以上に“同情”を誘っていないことだ。 主人公のマークは、幼少時からポリオによって全身麻痺となってしまった障害者である。呼吸補助のため、一日の大半を“鉄の肺”と呼ばれる呼吸器の中で過ごさなければならない。 けれど、彼の生き様には決して“悲しみ”が表れていない。自分の境遇を受け入れ、自立し、常に自分の人生を自分自身で歩もうとしている。 そんな彼の人生観が、そもそも勇気に溢れていて、観客は映画の冒頭から主人公の魅力に引き込まれる。  主人公の魅力が序盤からしっかり描かれるからこそ、この難しい「題材」の映画は、ある意味とても普遍的な「童貞喪失映画」に仕上がっていて、とても眩く、とても楽しい。 主人公の身体的特徴を度外視して、特に男の観客は、彼の“童貞喪失”の顛末に対して、己の事のように一喜一憂するだろう。  殆ど顔の動きのみの演技で主人公マークを演じきり、彼の人間的な魅力と、その人生の喜びと悲しみを余すこと無く表現してみせたジョン・ホークスの演技は素晴らしかった。  そして、こういうセンシティブな映画だからこそ、敢えてこう特筆したい。 “ヘレン・ハントのおっぱいが美しい”と。 主人公の相手役となるセックス・セラピストを演じたヘレン・ハントもまた素晴らしかった。 撮影当時49歳らしいが、このアカデミー賞女優の堂々たる脱ぎっぷりと、年齢を重ねても変わらない彼女独特の愛らしさがあったからこそ、この映画は成功していると強く思う。  勇気と慈愛、人間の営みにまつわる輝きに溢れた幸福な映画だ。   BS(WOWOW)放送だったからか必要以上に“ぼかし”が大きかったことは、演者たちの心意気を妨害しているようで、とても残念だったけれど。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-02-14 00:28:52)(良:1票)
382.  NO
“成し遂げたこと”の価値が大きいほど、その当人は感情の置き場所に戸惑うものかもしれない。 主人公一人が信じた「目的」を果たし終えた後、それまでと変わらずに広告を作り続ける彼の瞳が印象的だった。  独裁政権下のチリでようやく許された反対派CM放映の権利。 自らも国外追放を経て帰国した広告マンが、反対派に与し体制の転換を目論む。 事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、長きに渡り恐怖政治で支配を極めていた独裁政権に対峙する主人公が、あくまでも広告マンとしての戦略・知略を尽くすさまがとてもユニークで興味深い。  恐怖や不幸に打ち勝つものは、それによる悲しみや苦しみを訴えることではなく、それを一蹴する多幸感と未来だということを、この映画は雄弁に物語る。  勿論、現実はそう安直なものではない。 実際に圧政に苦しんだ人々の苦悩はそう簡単に振り払えるものではなく、すぐさま“未来志向”になれるわけではないだろう。 ただし、たとえそのCMを見ていた一時だけでも、打ちひしがれた心が和らいだなら、そこから未来は開ける。  「今、この国は未来志向だ」  主人公がプレゼンの前の常套句としているように、重要なのはこれから見るものが「未来」であると意識することだ。 「NO」という主張と選択。その価値と可能性を“真実”というエンターテイメント性で彩った快作。
[映画館(字幕)] 7点(2015-01-19 22:24:14)(良:1票)
383.  ダンサー・イン・ザ・ダーク
あくまでも徹底的な悲劇に私の心は揺らぎっぱなしだった。基本的に悲劇は苦手だし好きではないのだけれど、この映画が描くものはもはや好きとか嫌いとかそういうレベルではない。辛い現実を覆い隠そうとするかのような濃厚な幻想でのダンスシーン。哀しいまでに躍動的に歌い踊るその姿は、誰が何と言おうとも私は「幸福」そのものだと言いたい。幻想であろうと何であろうと、彼女が生きぬいたその様は、「悲劇」さえも越えた深い深い「幸福」だったに違いない。
[映画館(字幕)] 10点(2015-01-18 08:24:28)(良:1票)
384.  オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主
タイトルが示す通り、なんとも「奇妙」な映画だった。 それは霊やら死神やらが登場することによる奇妙さではなく、娯楽映画として妙なバランスを見せる映画だったということ。  監督は、「ハムナプトラ」シリーズのスティーヴン・ソマーズ。愛すべきベタなB級テイストを根底に敷きつつ、小気味良い娯楽大作を毎度提供してくれる、娯楽映画好きとしてはとても信頼できる監督の一人である。  そんな監督に対する信頼感も持ちつつ今作を観始めたが、序盤から様子がおかしい。 映画のつくりが全編通してチープで、製作費がかけられていないことは明らかだった。 ストーリーもなんだか薄っぺらいというよりも、綻びまくりで“おざなり感”が半端ない。 「なんだこりゃ」と蹴散らしてしまっても仕方ないくらいの表面的なクオリティなのだが、同時に不思議な愛着も感じてしまっていた。 出来は極めては悪いけれど気になってしまうという不思議な魅力があったことは確かだ。   主人公を演じたアントン・イェルチンは、リブート版「スター・トレック」の“チェコフ君”役が印象的な若手俳優だが、今作ではなかなかどうしてナイスガイなヒーローぶりを披露してくれている。 憂いを秘めた眼差しは、「ロード・オブ・ザ・リング」のイライジャ・ウッドを彷彿とさせ、今作の役どころには相応しかったと思う。 歳を重ねることでもっと味わいが出てきそうな俳優なので、これからもっと化けそうだ。  ヒロイン役のアディソン・ティムリンも非常に魅力的だった。彼女の魅力が破綻ギリギリのこの映画を繋ぎ止めていたと言っても過言ではない。ラストの顛末も含めて、非常に印象的な余韻を与えてくれている。   どうやら製作過程においていろいろな弊害があったらしく、やっとのことで製作・公開に至った模様。 それでも一つの個性を映画に加味してみせたスティーヴン・ソマーズのエンターテイメント力は流石だと思う。が、製作環境が確保されていたなら、それこそ「ハムナプトラ」並みの人気シリーズにもなっていたかもしれないと思うと少し残念にも思う。 (「ハムナプトラ」といえば、“イムホテップ”のウケ狙いの地縛霊には爆笑してしまった。)
[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-12-21 01:28:48)(良:1票)
385.  ブルージャスミン
ケイト・ブランシェット。現役俳優の中で最も「大女優」という呼称が相応しいと言ってもはや過言ではないだろう。 十数年来この大女優の大ファンで、彼女の出演作品を長年観続けているが、今作がキャリアNo.1の演技であったことは間違いない。 その演技を引き出したのが、ウディ・アレンである事実に、やはり“女優づかい”においてこの女好き監督に敵う者はいないと思い知る。    この映画は、喜劇だろうか、悲劇だろうか。 高慢と虚栄の果てにすべてを失った主人公ジャスミンの言動は、愚かで滑稽だ。その姿には、思わず笑わずにはいられない。 ただし同時に、栄華の極みからド底辺まで叩き落とされた彼女のさらにその先の顛末は、生き地獄そのもの。その姿には、思わず胸が締め付けられる。 詰まるところ、この映画は、喜劇であり、悲劇だ。 ありふれた言い回しを敢えて使うなら、人間の人生は悲喜劇そのものであり、描き出されるそれが生々しければ生々しいほど、喜劇と悲劇は同封されるのだろう。  主人公ジャスミンは、サイテーな人間である。それは間違いない。 けれど、だからといって彼女は「悪人」だろうか。彼女の人生を簡単に断罪できる人間が、この世の中にどれほどいるというのだろうか。 多かれ少なかれ、誰にも「虚栄心」はあるものだ。「嘘」は人間が自分を守るために許された特権かもしれない。 「サイテー」と蔑みつつも、少なくとも僕は、彼女のことを真っ向から否定することができなかった。  「栄枯衰退」なんて言葉にすれば簡単だが、それを己の身一つで体現することは生半可なことではない。 今作の“大女優”が素晴らしかったのは、栄華を極めた過去のシーンも、落ちぶれた現在のシーンも、一貫してメイクや衣装を変えずに、「虚栄」に埋め尽くされた女を演じきっていることだ。 同じ衣装やメイクが、ほとばしる鬱積とともに、みるみるくたびれ、劣化していくようだった。 「演じる」というのは、こういうことかと身が震えた。  監督の非情さを呪いたくなるくらいに、ラストはあまりに辛辣だ。 ただ、そのラストがまた主演女優の演技ともども素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2014-12-20 12:36:10)(良:1票)
386.  オール・ユー・ニード・イズ・キル
理不尽な運命に流されるままに、主人公は突如として人類存亡を欠けた戦争の最前線に送られる。 必然的に訪れる「死」、繰り返される一日、繰り返される「死」。  その設定そのものと、描かれ方は、他の多くの映画で表されたもので、決して新しさはない。 一人の人間の運命と生死そのものを“ダンジョン”のごとく描き出し、軽薄に捉えた表面的な安直さはいかにも日本のゲーム世代が生み出した物語らしく見える。 ただし、ひたすらに繰り返される「生」と「死」の描写には、次第に安直さを超越して、観念めいたものが表れてくる。  映画の中でビジュアルとして映し出される“繰り返し”は、せいぜい数十回程度だが、恐らくこの物語の主人公は、何百回、何千回、もしくは何万回の「死」を経ているだろうことに気づいたとき、文字通りに深淵な戦慄と、「死」そのものの哲学性を感じた。  何万回の死の中で、主人公の精神はとうに崩壊し、人間性そのものが朽ち果て、また別の次元の人格が繰り返し誕生していたのではないだろうか。 それはまさに“生き地獄”以外の何ものでもなく、ふとそういう概念が生まれた時点で、この映画は決して口触りのいいエンターテイメントではなく、極めて辛辣で苦々しい映画にすら見えてくる。  と、そうやって穿ってみることが出来る要素を根幹に携えつつ、トム・クルーズを主演に配し分かりやすい娯楽性で仕上げたこの映画の方向性は正しいと思う。 もっと変質的なタイプの作り手が、斜め上に突っ走ったなら、もっと独特でもっと哲学的な映画になっていたかもしれない。 それはそれで観てみたいけれど、今作の娯楽性自体は間違っていない。  勿論、ラストの顛末を筆頭に疑問符が消えない箇所は多々あり、よくよく考えれば突っ込みどころも多い。  けれども、ラスト、主人公が少し呆れたように、ただ何にも代え難い多幸感を携えながら笑う。 そのトム・クルーズの笑顔を観た時点で、この映画に対する僕の満足感は揺るがなかった。 
[映画館(字幕)] 9点(2014-12-16 22:40:20)(良:1票)
387.  インターステラー
レイトショーの映画館を出て、真冬の凍てつく空気に包み込まれた。ふと夜空を見上げると、澄んだ空気の遥か先に満月と星が光っていた。 広大な宇宙の中で、自分自身がひとりぽつんと存在している感覚を覚え、孤独感と大いなる宇宙意思を同時に感じ高揚感が溢れた。 普段の何気ない景色が一変していたようだった。これこそがSF。これこそが映画だと思えた。  数多の大傑作がそうであるように、今作もとてもじゃないが言葉では表現しきれない。 特にこのSF映画が描き出す世界観の多層性と文字通りの深淵さは、言葉で説明すべきものではないだろう。 「圧巻」とひと言で言ってしまえばそれまでだろうし、それで充分だとも思える。  とても複雑な宇宙理論が繰り広げられる語り口は、一見難解に見える。しかも監督はクリストファー・ノーランである。一筋縄ではいかないことは必至。 しかし、実際に観終えてみれば、この映画は決して難解なのではなく、難解な要素に彩られた普遍的な人間ドラマであったことに気づく。 複雑に入り組んでいるのは、宇宙理論ではなく、むしろ多様な人間の在り方とそれに伴う濃密なドラマ性だった。  “親子愛”をはじめとする人間のドラマを根底に敷き、未知の領域に踏み出した人類は、「人類」そのものの限界とその先を追い求めていく。 中盤、“マン博士”という人物が登場する。その名前の通り、彼こそが今現在の人間の本質を表したキャラクターであろう。 一つの“限界”に辿り着いてしまった人類、進化か滅亡か、このキャラクターはその分岐点の象徴と言える。(このキャラをほぼノンクレジットで演じているスター俳優はエラい) 主人公が、“マン博士”と真正面から対峙し、それを越えようとする様こそが、人類の進化の瀬戸際だったのだと思える。  高度な科学的空想の先に辿り着く人間の真の姿と可能性。僕はそれこそが、人間が生み出した「Science Fiction」の本質であり、醍醐味だろうと思う。 そういうことが満ち溢れんばかりに繰り広げられるこの映画を、愛さないわけがない。  ただし、この映画を語り切るには、まだまだ膨大な時間が必要だ。 それは、これがとても幸福な映画体験であったことの証明だろう。
[映画館(字幕)] 10点(2014-12-16 07:35:00)(良:2票)
388.  ゴーン・ガール 《ネタバレ》 
「怖えぇ…」 苦笑いを引きつらせつつ、そう思わず呟いてエンドロールを迎えた。   映画は、妻が突如として失踪した夫の“戸惑い”から始まる。その“戸惑い”の描き出し方が先ず巧い。 あらゆる可能性を秘めたストーリーテリングの中で、夫を含めたすべての人物が怪しく見えてくる。 夫を演じるのはベン・アフレック。愚鈍さと狡猾さが次々に見え隠れするこのスター俳優の配役は、まさにベストキャスティングだったろう。 今作は基本的には彼の視線から描かれるわけだが、彼自身の人物像が結局最後まで掴みきれないので、観客は終始絶妙な不安定を強いられる。  そして、妻役のロザムンド・パイクが物凄い。 殆ど無名に近いこの女優のパフォーマンスには、度肝を抜かれた。 一人の女が持つ明確な多面性と狂気。その様はもはや悪魔的であり、登場人物たちも観客も「どうしようもない」と諦めるしかなくなってくる。 キャラクターとして凄いのは、決して恐怖の対象として留まっているわけではないということだ。狂気が顔を出すまでの彼女は、間違いなく美しく、魅力的だ。馬鹿な男が次々に惚れてしまうのも無理はない。そして、狂気がさらけ出された後でさえ、この女はどこかキュートで虜にされてしまうに値する魅力を携えている。 その様は、やはり「悪魔」と形容するに相応しいかもしれない。  恐怖と狂気に溢れたサスペンスとして、それだけでも充分に完成度は高い。ただこの映画が最終的に行き着く先はそういう類いのことではなかった。 上質なサスペンスに彩られて終に描き出されたのは、「○○」というあまりに普遍的な“形式”が孕む“恐ろしさ”。 笑いが相応しい映画ではないはずだが、この映画には随所に滑稽さが内包されている。ある意味でこの映画は、テーマとなるその“形式”を極めてショッキングに誇張した“コメディ”なのではないかとすら思えてくる。  男と女。その二種類の人間という生物が関わりあうことで生まれるおぞましさにも似た恐怖と、呆れてしまうほどの滑稽さ。本来相反すると思われるそれらの要素が絡み合う濃ゆい映画だった。   実は、僕自身が「○○」をしてちょうど5年目。問題はないつもりだけれど、その慢心こそが、この映画で描かれている「恐怖」に直結するような気がして、思わず震える。 夜遅くまで映画を観て帰り、冷蔵庫に残された妻が作ったエビチリを食べながら、また震えた。
[映画館(字幕)] 9点(2014-12-13 10:35:28)(良:2票)
389.  スター・トレック(1979) 《ネタバレ》 
クライマックス、宇宙の果てで邂逅した機械生命体と人間が眩い光の中で「結合」する。  比喩でも揶揄でもなく、それは機械と人間との“セックス”だ。 字面だけを捉えれば、とても突飛でぶっとんだ表現だけれども、これこそがこのSF映画史に残るエンターテイメントシリーズの揺るぎない真髄であろうと思える。 必ずしも見栄えのいい娯楽性には流れず、宇宙そのものの姿と、その神秘を追い求める人間の姿を描き出していったからこそ、このシリーズは世界中のファンに深く愛され続けているのだろう。  J・J・エイブラムスによるリブート版で初めて「スター・トレック」の世界観に触れ、熱狂し、今回ようやく1979年の劇場版を観ることができた。 1966年〜1969年のテレビシリーズを経てからの劇場版なので、本当はそのテレビシリーズも観ることがベストなのだろうけれど、さすがに3シーズン79話もの映像作品を観る余裕はなかった。 主要キャラクター同士の関係性など、テレビシリーズを観ていればもっと楽しめたのだろうけれど……。  そういった世界観への馴染み難さも手伝って、特に序盤は非常にかったるい。 全体的にテンポも悪く、ストーリーテリングも上手いとは言い難いので、正直なところ映画の8割方はかったるいと言わざるを得なかった。  明確な徒労感を感じつつ映画は終盤に差し掛かる。 「退屈」の一言での酷評を心に決めかけたラスト20分、映画は突如として宇宙の神秘性に突き進む。 その展開自体はあまりに唐突で、やはり上手い映画だとは言い難いが、ラストの顛末はSFならではの衝撃性に溢れていて、それだけで印象的だった。  “創造主”の追求という宗教的な哲学性も加味しつつ、新しい進化の誕生を描いた顛末そのものは、SF映画史に残り得るものだったと思う。  この後の映画シリーズ、そして前段のテレビシリーズもやっぱり観たくなる。
[CS・衛星(吹替)] 7点(2014-12-11 17:06:29)(良:1票)
390.  ヴィンセント
ティム・バートンの「初監督作」となるストップモーションアニメ。 たった7分間の超短編ではあったが、既に見紛うことないティム・バートン映画に仕上がっている。 この短編に内包された世界観が、その後の彼の作品のすべてに拡大していったと言っても過言ではない。 一人の心優しき少年が、その表面的な性格と対照的な狂気的な妄想を膨らませていくさまは、まさにティム・バートンそのものなのだろう。  その後の豪華なフィルモグラフィーを鑑みて、やはりこの人が、世界中の“妄想家”の頂点に立つ存在だと再認識せずにはいられない。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-12-09 16:07:14)
391.  ホビット/竜に奪われた王国
三部作の最終作公開のタイミングを知り、一年前の公開時にスルーしたままになっていたこの第二作目をようやく鑑賞。 「ロード・オブ・ザ・リング」(以下LOTR)は全作を劇場にて高揚感たっぷりに観たタイプなので、同様に繰り広げられる大ファンタジーの壮大な世界観には、やはりアガる。 ただし、生じた高揚感の矛先は、この“前日譚”を通り越して、やはり「LOTR」に向いていることは否めない。  前日譚であることの宿命とはいえ、「LOTR」と比べてしまうと物語規模の圧倒的な小ささを感じてしまう。そして、ストーリーテリングの推進力も、圧倒的に弱い。 「LOTR」は、常に別の道程を辿る各パーティーの冒険が並行して描かれ、それがストーリーテリングに厚みを持たせていたが、今作は基本的に主体であるドワーフ一行の冒険のみが延々と続くので、どうしても飽きてしまう。それぞれのキャラクターに華がないことも痛い。 最終作を観ていないので明言はできないが、無理に三部作などにする必要はなく、単作で纏め上げたほうが良かったと思う。  大スクリーンで観てナンボの作品であることは間違いないので、自宅の小さなテレビで観たことは大いにマイナス要因だっとは思うけれど、現状の期待値では最終作を観るために劇場に足を運ぶことは正直難しい。  英BBCの「SHERLOCK」の大ファンなので、マーティン・フリーマン(ホビット)とベネディクト・カンバーバッチ(スマウグ)の「対峙」は、ちょっと胸熱だったけれどね。  最後にこれだけは言いたい。 前作では敢えて突っ込まなかったが、“ずんぐりむっくり”が身体的特徴のはずのドワーフなのに、“王”や“恋愛担当”は結局細身のイケメンであることが、なんだか納得いかない。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-12-08 21:39:26)(良:1票)
392.  ザ・ヤクザ(1974)
2014年11月10日。日本映画史上最高の大巨星墜つ。 映画俳優高倉健の死に対し、喪失感は大きすぎる。ただ、彼が遺した205本の映画の殆どを、僕はまだ観られていない。 まだまだ高倉健の映画を観られることを、映画ファンとして幸福に思いたい。  高倉健のアメリカ映画出演作といえば、リドリー・スコット監督の「ブラック・レイン」の印象が強くその筆頭となりがちだが、それよりも15年も前に出演した今作のインパクトも中々のものだった。 「ザ・ヤクザ」というタイトルから、米国人が日本のヤクザ世界をモチーフに適当に作った“トンデモ映画”なんだろうと高を括っていたが、その認識は全くの間違いだったと言っていい。  確かに、日本人として少々呆気にとられる描写は多々ある。しかし、それらは製作者陣が決して適当に作っているものではなかったと思う。 日本の文化、その中でも取り分け“任侠映画”という文化に対しての多大な“憧れ”と“尊敬”の念が、全編に渡って匂い立つように強く伝わってくる。(待田京介の起用とか、分かりすぎている!)  結果的に映し出されていたものは、紛れも無い米国産の「仁侠映画」だった。  ラスト、高倉健演じる時代遅れの侠客が、仁義を貫くために“陰腹”を切ろうとする描写に驚いた。まさかアメリカ映画でそんな描写が観られるとは。 他にも“指詰め”に対する執拗な掘り下げなど、日本人でも少々引いてしまうある種マニアックな描写が続く。 それらを指して、リアリティがない等と言うことは、あまりにお門違いだ。 実際にそれが妄想であっても、ファンタジーであっても、それが欧米人が憧れ追求してくれた「仁侠映画」であれば、尊重されるべきだ。  描写が多少おかしかろうが、「仁侠映画」と「高倉健」、かつて日本中が愛した文化を、同様に愛しリスペクトしてくれているこの作品を、この国の映画ファンとして否定できるはずがない。   米国映画だろうとなんだろうと、あくまで「高倉健」のままで存在する俳優の立ち振舞に惚れ惚れする。 今でこそ、世界で活躍する日本人俳優は多いけれど、スター俳優としての存在感そのままで通用した俳優は、やはりこの人しかいない。 高倉健という俳優が、この国に存在したということを、改めて誇りに思う。
[DVD(字幕)] 7点(2014-11-27 23:03:35)
393.  ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い
個人的に、飲み会中の様子の写真を撮ることが好きだ。 深酒の翌日、記憶がぶっ飛んだ二日酔いの中で、デジタルカメラのメモリーに入っていた覚えのない画像を目の当たりにして、愕然すること多数。 今作のエンドロールのネタばらしには、自分自身の二日酔い遍歴に対しての苦笑いが止まらなかった。  第三弾まで製作された人気コメディシリーズの一作目をようやく鑑賞。 身につまされる”苦笑い”も含めて、酒飲みにとっては色々な意味で楽しめる映画だったとは思う。  ただ、僕は男だけれど、普通の日本人として、普通に結婚式を行った者としては、あまりに馬鹿すぎる男どもの愚行に対して、笑えはするが、それ以上に呆れ、憤怒を禁じ得なかった。 結果的にオールオッケーになるからこそコメディ映画なのは百も承知だが、結婚式前日にあそこまでの愚行を繰り広げられては、待っているパートーナーがあまりに可愛そうに思えて仕方なかった。  そういう、米国産コメディ映画を観る上では相応しくない倫理観が先行してしまったことが、今ひとつこの映画に乗りきれなかった要因だと思う。  おそらく別のタイミングで観ればもっと単純に楽しめただろうし、今後シリーズ作を観たならば、彼らに対する愛着が深まることは明らかだとも思える。  結局は、あまりに現実離れの強烈二日酔いを押し通しただけ展開なので、ストーリー的な面白みは意外とない。 でも、ヘザー・グラハムの唐突な授乳シーンはちょっとラッキー。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-11-20 22:57:40)
394.  2ガンズ
ストーリーテリング的には“いかにも”なクライムアクションもので、さほど目新しさはない。 ただミスマッチに思えたデンゼル・ワシントンとマーク・ウォールバーグの食い合せは、意外と悪くなかった。  デンゼル・ワシントンはこのところの出演作でのお決まりの役どころを、好意的に捉えれば安定的に、悪く言えば工夫なくこなしていた。 一方、マーク・ウォールバーグは、個人的にこれまでそれほど魅力を感じてこなかったハリウッドスターだが、先日「テッド」を観たばかりということもあり、演者としての幅の広さを感じることができた。 ヒーローからダメ中年、エリート軍人からレンタカー店員まで、役どころに対する柔軟性こそが、このスター俳優の「売り」なのだろう。  その他のキャスト的には、紅一点のポーラ・パットンが前々から気になる女優で、今作でも魅力的な雰囲気を醸し出していたのだが、最終的には決して“おいしくない”役どころが残念だった。 彼女にまつわる顛末がもっと小気味よかったなら、映画全体の印象が変わったことだろう。  最終的な顛末については、現される「巨悪」に対してそれで済まされるのか?という感じだが、そもそもB級クライムアクションとして観れば、充分楽しめると思う。  ただし、デンゼル・ワシントンにおいては、そろそろB級アクションを連発することは控えて、どしっと腰を据えた力作に挑んでほしいものだ。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-11-17 22:09:38)
395.  イントゥ・ザ・ストーム
乱立する巨大竜巻に襲われる町、あらゆるものが吹き飛ばされていく中で、さりげなく“牛”の看板が飛ばされていく。 これは明らかに「ツイスター」オマージュであり、今作はそのオマージュを捧げるに相応しい“竜巻映画”に仕上がっている。  3ヶ月前に竜巻映画の金字塔である「ツイスター」を鑑賞し直したばかりだったので、類似点や相違点を比較することも楽しかった。 「ツイスター」が、竜巻ハンターの男女を主人公に配していることに対して、今作は竜巻ハンターも含まれていはいるが、あくまでも竜巻被害を受ける市井の人々を主軸にしており、「ディザスター映画(災害映画)」としての立ち位置としては、今作の方が正統だと思う。  全く予測可能な“モンスター”として描き出される今作は、竜巻という災害の恐怖感をより一層増幅させてみせていると思う。 ファウンド・フッテージを主軸にした撮影手法も、臨場感を効果的に高めている。 若者たちがiPhoneやハンディカムで延々と“恐怖”を映しとっていく様は、あながち非現実的ではなく、あまりにも巨大過ぎる事象を目の当たりにして衝動的にカメラを手にし続けてしまうことは、人間の心理として理解出来ることだろう。  映画のジャンルとしては、災害もののB級映画という範疇を超えていないかもしれない。 けれど、安直に過小評価することははばかられる程、意外にも完成度の高い映画だったと思う。  三連休中日にも関わらず鑑賞した上映回は、幸か不幸か“お一人様”状態だった。 映画館内でたった一人、まさに悪魔的な強風に襲われる登場人物たちを目の前にして、思わず座席の手すりを強く握ってしまった。 ディザスター映画好きであれば、そりゃマストな作品であることは間違いない。
[映画館(字幕)] 7点(2014-11-12 22:12:19)
396.  ある日どこかで 《ネタバレ》 
表面的に綴られたストーリーは、あまりに稚拙であざとい。  しかし、その裏に見え隠れする「意図」に気がついた時、この映画に対する価値観は一変した。 その意図が、真の狙いか、偶然的なものかは定かではないけれど、結果的にちょっと“深追い”したくなってしまう作品であることは間違いない。  「思念」のみで時空を時空を越えるというアイデアが持つ脆さと深さ。 一見すると、ストーリー的にはあまりに稚拙で、中盤からラストにかけての顛末も陳腐と言わざるをえない。  しかし、鑑賞後、ふとある疑念が浮かび上がってきた。 すなわち、主人公にとってこの物語は果たして「現実」だったのか?という疑念だ。 スランプに苦しむ劇作家が、ふと訪れたホテルで肖像画の美女に盲目的な恋をし、その“焦がれ”のみで時空を越えようとした「妄想」だったのではないか。  「妄想」というキーワードが浮かび上がると、稚拙で陳腐なストーリー展開も途端に腑に落ちてくる。 主人公の独善的な“願望”なのだから、整合性もリアリティも関係なくなってくる。  実際にはこの映画の顛末に、そのような「妄想」を暗示する要素はないけれど、描かれる「時間移動」に明確な根拠がないからこそ、この映画世界において、「現実」と「妄想」の境界は曖昧になる。  主人公を演じるのは、元祖「スーパーマン」のクリストファー・リーブ。 彼の「スーパーマン」以外の映画を観るのはこれで二作目だが、改めて非常に良い俳優だったのだと思えた。 類まれなルックスは勿論、その俳優としての息吹は、はまさしく映画スターのそれであり、もし存命であったなら若い頃とは違った存在感をスクリーン上で見せてくれただろうと残念でならない。   すべてが主人公の妄想と錯乱だと考えたなら、それはあまりに悲しいけれど、その悲しさに対比するようなあまりに美しい“うつつ”に、心が惑い、やがて締め付けられる。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2014-11-12 22:04:27)
397.  エンド・オブ・ホワイトハウス 《ネタバレ》 
今作の映画的な持ち味は、時に凄惨なまでの無骨さと硬派さだろう。 これについては、何と言っても主演のジェラルド・バトラーの影響力が絶大だ。 本来、この手の娯楽大作であれば、“ヒーロー”である主人公に対しての「好感」は必然であるはずだ。 しかし、主人公の絶大な強さと無慈悲さを前にしては、安直な好感を持つことは許されない。 ただひたすらに自らに課した使命感に燃え、それを遂行する様には、ヒーローへの憧れなどは超越し………ちょっと引いてしまう。  「殺す」と決めた相手を必ず「殺す!」、というこの狂気的に愚直な主人公の姿に燃える人もいるだろうが、個人的に好感が持てなかったことは、映画全体の娯楽性においてマイナス要因であったことは否めない。最終的にはデスクワークに追いやられた男が精神を破綻させてしまっているようにすら見えてしまう……。  そして、無慈悲で凄惨過ぎる主人公のキャラクター性は、映画全体のテイストにある意味きっちりと波及している。 何せ、冒頭から人が殺されまくる。ホワイトハウスを孤立無援の状態にするためとはいえ、シークレットサービスをはじめとするホワイトハウス内のほぼすべての職員が惨殺される様は、衝撃的だった。 加えて、ホワイトハウス周辺の市井の人々も、テロリスト側の決死隊によって無差別攻撃を受け殺されまくる。 この陰惨さが、冒頭だけのもので、そこからアガっていく展開のための布石なのであれば良かったが、クライマックスに至るまでそれが抜け切らないので………やっぱり引く。  もっと娯楽性を高めるための“前振り”は、今作にも確実にあった。 ファーストシーンでアーロン・エッカート演じる大統領は、主人公相手にボクシングのスパーリングをしている。 ならば、大統領が悪役をノックアウトさせるシーンは必須だろうが! 大統領の幼い息子は、ホワイトハウス内の構造をシークレットサービスも舌を巻く程に熟知している。 ならば、息子がその知識を駆使してテロリストを出し抜くシーンも必須だろうが!  他にも、北朝鮮のテロリスト軍団がリーダーを筆頭にあまりにも狂人的な描かれ方をしている点も、現実の世界情勢を風刺しているように見せて、実際リアルじゃないなと思わざるを得ない。  そういう“ベタ”な娯楽性に欠けていたことが、こういう映画に対して、そういうことを期待している者としてはあまりにいただけなかった。 
[ブルーレイ(字幕)] 4点(2014-11-12 22:00:07)(良:1票)
398.  プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命
誰しも、本当は“真っ当”でありたい。 悪に染まることなどなければ、勿論それに越したことはない。 でも時にそういうわけにもいかなくなるのが、この世の常。 「正義」と「悪」、本来相反するものである筈のその狭間で苛まれ、持って生まれた血脈と宿命に対峙する人間たちの生き様。その行き着く先に涙する。  結局、与えられた「宿命」が何であれ、「行動」を選び取るのは当人自身であり、結果として何が起ころうとも何が起こらなかろうとも、それが“生きる”ということなのだと思える。  タイトル「The Place Beyond the Pines」は、「森林の向こう側」という意味。 薄暗く、すぐに出口を見失いそうになる鬱蒼とした茂みを越えて、彼らが辿り着いた場所は何だったのか。 終始“いやな予感”しかしない映画世界だったけれど、最後の最後、走り去って行く若き主人公の背中には、ほんのわずかではあるが、希望じみた光が見えたような気がする。  「ブルーバレンタイン」おいて、残酷で美しい男と女の身につまされる関係性を描き出したデレク・シアンフランス監督の才能は、今作によって疑いの無いもになったと思う。 前作同様に、残酷なまでに美しい映像美とカメラワークによって、俳優の演技力というよりも、描き出されるキャラクターの実在感を導き出して見せている。  前作に引き続きタッグを組んだライアン・ゴズリングの存在感は言わずもがなだが、一幕目のヒロインを演じたエヴァ・メンデス、二幕目の主人公を演じたブラッドリー・クーパーらも、他の映画では見られない“表情”を見せており、素晴らしかった。  ただし、個人的には、ライアン・ゴズリングよりも、ブラッドリー・クーパーよりも、三幕目の主人公を演じたデイン・デハーンが最も印象的だった。 作品の結論を成す三幕目なので印象度が強いことは必然だとは思うが、登場のファーストカットを見た瞬間にちょっと唸ってしまった。 昨年鑑賞した「クロニクル」で既にその才能は認識していたけれど、レオナルド・ディカプリオの「陰」の要素を爆発的に増大させ、今にも満ち溢れんばかりのバランスで場面を支配するこの若い俳優の存在感は、この先さらに特別なものになり得るだろうと断言せずにはいられない。  監督と、三者三様の主人公を演じた俳優たちを筆頭に、これからの映画界の根幹を成していくだろう才能が結集した、エポックメイキングな映画だと思う。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2014-11-12 21:56:44)(良:1票)
399.  テッド
二日酔いが地味に残る日曜日の午前中。 朝からの降雨も手伝い、食事を買いにコンビニに出かけることも億劫だったので、午前10時から宅配ピザを頼んだ。ペプシコーラを飲みながらダラダラとこの映画を観た。 映画は評判通りにしょうもなくて、その“体勢”で観るのに相応しかった。 この映画にとってその評は、とても的確な褒め言葉だと思う。  ストーリーは想像以上にくだらなくて、繰り広げられる殆ど「悪態」に近いブラックユーモアは、必ずしも笑いの連続というわけではない。 素直な可笑しさが思ったよりも少ないのは、文化の違いによるものかと思ったが、実際はアメリカ本国でも失笑の連続だったようだ。  すなわちこの映画は、決して完成させれたユーモアを楽しむ類いのコメディ映画ではなく、つくり手があまりに個人的な趣向を全面的に押し付けてくる粗くゆるいコメディ映画なのだと思う。 失笑はおろか怒りさえ禁じ得なかった人も少なくなかったろうけれど、そのようにある意味意識的に「間口」を狭めたことも、つくり手のねらいだったろうと思える。  笑いたきゃ笑え、怒りたきゃ怒れ。そういう“開き直り”の精神が、この映画には満ち溢れているように見える。  こういうある種の危険性も孕んでいる馬鹿馬鹿しい映画にも、しっかりとスター俳優が揃い、大物ゲストが顔を出すあたりに、やはりアメリカという国の文化の豊かさを感じる。  ただひとつ言っておきたいのは、この映画において、まさしく「奇跡」と呼べるキャラクターは、しゃべるクマのぬいぐるみ“テッド”などではないということ。  世界中のボンクラ男子にとって「女神」としか言い様がない、ミラ・クニス演じる“ローリー”こそ、完全なる空想の産物であり、もし存在するならそれは「奇跡」としか言い様がない。  強烈なぬいぐるみ以上に、希少なヒロインに萌えた。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-11-12 21:39:32)(良:1票)
400.  ダラス・バイヤーズクラブ
きっとこの世の中には、人が人らしく当たり前に生きるための“障壁”となっている“決まり”がまだまだ沢山あって、自分自身も含めた人々は、そういうことを知らなかったり、気づかないふりをしているのだろう。 “障壁”を受ける当事者だけが、それの解消に文字通り「生命」を懸けなければならない世界では、あまりに生き辛い。  主演俳優があたかも実際に「生命」を削ってみせているような名演で表されたこの映画は、ある日突如として過酷な運命を背負うこととなった一人の男の奮闘と、彼自身さえも含めた社会の無知と傲慢を訴えてくる。 そして、エイズ患者ばかりではなく、同性愛者、低所得者、社会における不遇を受ける人々の感情を多層的に映し出していると思えた。  ただ一方で、多層的な構造は、図らずもこの映画の主軸で描かれるものが必ずしも正論ではないことを垣間見せる。 主人公が巻き起こしたムーヴメントは、社会の矛盾に風穴をあけたことは確かだろう。しかし、文字通りに進退窮まった状況での苦肉の策であったことも事実。  果たして、彼の行動によって、彼に関わった人々は真の意味で救われたのか、その後の社会は救われたのか、そして彼自身は……?、そういう本質的な部分にもう少し踏み込んでくれたなら、この映画は更に傑作になり得たと思う。  とは言え、この映画世界に息づいてみせた俳優たちの演技は物凄かった。 マシュー・マコノヒーとジャレッド・レトは、文字通り「生命」を懸ける様を演じ切ってみせている。 両俳優の一挙一動を追うだけで、映画を観るということの満足感は満たされるだろう。
[DVD(字幕)] 7点(2014-11-12 21:38:43)
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