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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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121.  ズートピア
世界中から愛され、崇拝される唯一無二のエンターテイメントの王国が、その長年の歴史と功績を全部ひっくるめて、新しい時代における“自虐”と“価値観”を示しつつ、新たな「娯楽」を構築されては、そりゃあもうお手上げである。 ジョン・ラセター率いる昨今のディズニー映画に対しては、満足感を通り越し、非の打ち所がなさすぎて逆に苦笑いしてしまうことが多い。  擬人化された動物たちが暮らす王国“ズートピア”を描いた今作。 動物たちのユーモラスなアニメーションそのものは、ディズニーが古くから培ってきた伝統的表現だ。 動物の擬人化と、それが生むファンタジー性は、ディズニー映画の歴史そのものと言っていい。 そのあまりに王道的な表現を、敢えてこのタイミングで主題として扱った意味。その本質が、あまりに深い。  「差別」と「偏見」。この作品のテーマは明白である。 ありとあらゆる動物たちが「平和」に暮らす理想郷(のようなもの)を映し出した今作において、その二つの言葉は、全編通して突きつけられる。 そのテーマの描き出され方は、正直辛辣で、重い。 もしこの映画の主人公が、可愛らしいウサギやキツネではなく、現実社会において社会的冷遇を被っているマイノリティーたちが演じる実写作品であったならば、酷く陰湿で居心地の悪い映画に仕上がっていたに違いない。  そう、この秀逸なアニメーション映画は、その娯楽性溢れる映画世界と引き換えに、それを観ている我々人間の現実世界が、酷く陰湿で居心地の悪いものだということを、雄弁に物語っているのだ。  この世界には、今なお「差別」と「偏見」が渦巻いているということを、世界中の殆ど総ての人は分かったつもりでいる。 我々は、「より良い世界にしたい」と、それらを否定しているつもりだろうけれど、実は当の自分自身が、無意識に、ささやかに、確実に、「差別」と「偏見」を繰り返していることに気づいていない。もしくは、気づかないふりをしている。  それこそが、我々が最も直視しなければならない「問題」だということを、この映画は、小さな主人公の等身大の姿を通じて勇敢に伝えてくる。  「差別」と「偏見」を無くすということは、安直に正論として振りかざせるほど簡単なことではないし、綺麗事ではないのだと思う。 ウサギは弱い、キツネはズルい、ヒツジは大人しい……勝手に貼った“レッテル”を剥がすためには、他人事ではなく、先ず我々一人一人が根気よく自らの“レッテル”を剥がしていかなければならない。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2016-10-09 14:05:11)(良:1票)
122.  シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ 《ネタバレ》 
キャプテンの拳がアイアンマンを叩く、アイアンマンの拳もキャプテンを叩く。 悲愴感しかない絶え間ない“殴り合い”を目の当たりにして、ただただ心が痛かった。 愛するヒーロー同士が傷つけ合っているという悲しさもさることながら、この「正義」と「正義」のぶつかり合いの根底にあるものが悲しい報復の螺旋であることが、現実世界の混沌そのものを表しているようで、殊更に悲しく、この世界に生きる者としての虚無感を感じにいられなかった。  マーベル映画のヒーローたちは、「悪」と戦い続けてきた。「悪」を叩き、打ち勝つことが、彼らが司る「正義」の存在意義だった。 しかし、この映画に限っては、明確な「悪」は存在しない。真に憎むべき悪への矛先が見当たらなくなり、ヒーローたちは揺らぎ、対立する。 動揺するヒーローたちの姿は、自国の正義を主張し、ぶつかり合い、傷つけ合い、混迷を突き進むこの世界そのものではないか。  ついに彼らは、相容れぬまま袂を分かつ。 己に対する無力感と復讐心に苛まれ続けるアイアンマンは、キャプテンの象徴である「盾」を奪った。 憧れのヒーローが、この愚かな世界と同様に怒りと悲しみに屈して膝をつく様には、失望と絶望が渦巻く。   この重く、悲しいストーリー展開の中で、マーベル映画らしさを保ってくれたのは、頼もしい“新人”二人。 “アリ男”の“大”活躍と、“クモ男”の軽妙なティーン節によって、映画ファンがいろいろな意味で救われたことは間違いない。 両者の存在感が光った空港での“大乱闘シーン”は、「馬鹿馬鹿しい」と言われればそれまでだけれど、諸手を上げて楽しかったのだから何の問題もない。 えげつないまでに痛々しいストーリーテリングを描きながらも、決してスーパーヒーロー映画そのものの“楽しさ”を忘れていないのがマーベルのエライところだ。(そういう部分で“DC”は大きく溝を開けられている‥‥)   スティーヴ・ロジャースも、トニー・スタークも、スーパーヒーローである前に一人の人間である。道を見誤り失墜することもそりゃあろう。 でも、「復活」こそが、ヒーロー映画の醍醐味でもある。この世界が抱える混沌の答えを彼らは見出してくれるはずである。 きっとその時には、再び“スターク”から“スティーヴ”へ「盾」が手渡されることだろう。  心の痛みは残る。この痛みを抱え続けて、ただひたすらに“彼ら”が率いるチームの帰りを待とう。   (2018.5.27 再鑑賞)  タイトル的な位置づけは「キャプテン・アメリカ 3」だが、むしろ、「アベンジャーズ 2.5」。  下手な監督が撮ったならきっと酷く馬鹿みたいなシーンになったであろう、飛行場での“陣取り合戦”を、圧倒的な娯楽シーンとして成立させてみせたルッソ兄弟の手腕は見事。このシーンに限らず、全編に渡って散りばめられたアクションシーンとしてのアイデアが、“VSサノス戦”に活かされていることも明らかだ。  トニーとスティーブは、この“殴り合い”以来、「インフィニティ・ウォー」を経てもなお、「対面」していない。 「アベンジャーズ4」の“胸熱”に向けての布石は、十分過ぎる程に打たれている。
[映画館(字幕)] 9点(2016-05-07 23:36:47)
123.  ナイトクローラー 《ネタバレ》 
冒頭、軽犯罪に手を染める主人公のギョロリとした両の目が暗闇の中に爛々と浮かぶ。 その目を見た瞬間に、「ああ、こいつはちょっとフツーじゃないな」と感じ取れ、同時にこの映画自体の特異性を予感せずにはいられなくなる。  食いっぱぐれ、社会の底辺に潜んでいた主人公が、“ナイトクローラー”と呼ばれる報道スクープ専門の映像パパラッチ業に辿り着くことから、このある種悪夢のような“サクセス・ストーリー”が転がり始める。 こんなにも胸クソ悪いサクセス・ストーリーを未だかつて見たことがない。 と、自分の中の表向きの倫理観は、この主人公の存在そのものを真っ向から否定する。 けれど、それと同時に、外道そのものである彼の成り上がりぶりに対して、一抹の高揚感を感じてしまっていることにふと気づき、とてもじゃないが胸中穏やかでいられなくなる。  果たして、この映画の中で本当に間違っていることは何で、本当に正しいことは何なのか。 この映画は、衝撃的でおぞましいストーリーテリングの中で、その正体が何なのかということを観客に問うてくる。  「勤勉で志も高く粘り強い人間です お役に立てると思います」 “ゲスの極み”である主人公は、終始一貫してそう言って自分自身を売り込む。 自分の成功のためなら、彼はあらゆる罪も犯罪も意に介さない。 しかし、彼のその言葉自体には、微塵の偽りもない。 彼は自分の立てた成功のためのプランに対して努力を惜しまず試行錯誤を繰り返し実現している。 それは、完璧なPDCAサイクルの実行であり、そのプロセスだけを捉えればあまりに有益なビジネスの手本と言えよう。  主人公は、時間を惜しんでインターネットを貪り、この現代社会において「正論」とされているありとあらゆる理と、資本主義のルールを体現しているいに過ぎない。 故に、この映画は、決して主人公を断罪せず、さも当たり前のように“ハッピーエンド”を与えているのだ。  おぞましくも独創的に社会の病理性を“爛々と”描き出したストーリーとキャラクター造形が見事だ。 ただこの映画を成功に導いた最大の要因は一にも二にも主演俳優によるところが大きい。 ジェイク・ギレンホールの言葉通りに「異様」な存在感こそが、この映画の肝であり、テーマそのものだったと思える。  劇中、殆ど瞬きをしない主人公ルイス・ブルームの異様な眼差しが、脳裏にくっきりと焼き付いて離れない。 ただし、“フツーじゃない”のはこの男ではなかった。決して曇らせることなく彼の目を輝かせ続けるこの社会の暗闇こそが、“フツーじゃない”のだ。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2016-05-04 08:54:30)(良:2票)
124.  リリーのすべて 《ネタバレ》 
原題は「The Danish Girl」、直訳すれば“デンマークの女の子”。 当然、主人公である“リリー”という「女性」を指しているだろう。また、“リリー”に最期まで連れ添った「妻」のことも指しているだろう。 ただそれならば、“Girl”ではなくて“Woman”でもいいのでは?と、語学力の乏しい日本人としては思える。 そこには、生まれた瞬間から”間違った身体”を与えられてしまった「女の子」の心象そのものが表れているように思える。  ”彼”が、無意識の内に秘め続け、皮肉にも彼を最も愛した女性によって解き放たれた少女性。 このシンプルなタイトルが含んだ意味と人格は、重層的で、豊かなドラマ性を孕んでいる。   さて、この映画は、「悲劇」だろうか。  この題材を、「悲劇」として描いたことに対して、トランスジェンダーの層からも、そうでない層からも、一部批判が渦巻いているらしい。 個人的には、この物語は、決して悲劇だとは思えなかった。 勿論、映画の顛末となっている出来事は、悲しい。けれど、”リリー”自身にとってこの物語が本当に悲劇なのであれば、それはもっともっと悲しい。  たとえ、死の淵の一寸のことであったとしても、彼女は、自分の魂が望み続けた“あるべき姿”を果たした。 何もわからない、何も知らない、無知な他人にとっては、その姿が死に急いでいるように見えるかもしれない。 しかし、そうではない。 彼女にとっては、その「瞬間」こそが、生きるということの目的であり、真価だったのだろう。 彼女の最期の言葉は、真に幸福感に溢れていたのだと思う。思いたい。   まあ何と言っても、エディ・レッドメインが凄い。 昨年の「博士と彼女のセオリー」でのホーキング博士の演技で舌を巻いたわけだが、今作での表現力もまた凄まじい。 自分と同い年と知り、益々今後どのようなキャリアを積んでいくのか楽しみでならない。  そして、タイトルの意味でも言及した通り、この映画は主人公リリーの物語でもあり、同時に彼女に寄り添った妻ゲルダの物語でもある。 彼女を演じた新星アリシア・ヴィキャンデルは、凄まじい主演俳優に匹敵する存在感を示し、素晴らしかったと思う。 彼女の存在がなければ、当然リリーはその人生を全うできなかっただろうし、この際どいバランス感覚を要求される作品自体が破綻していたことだろう。  ”リリー”の妻であり芸術家であるゲルダの“物言い”や“振る舞い”が実に現代的で、この映画が描く時代背景に対して一寸違和感を覚える。 けれども、それは、無知で無理解な「時代」に対して、彼女が思想的にも精神的にも、そしてそれらを踏まえた立ち振舞的にも、いかに進歩的であったかを表しているのだと感じた。  自分が思うままに生きること自体が困難だった”彼女たち”は、きっと多くの悲しみを受け続けたことだろう。 しかし、彼女たちの悲しみの上に、ほんの少し進歩できた今の社会があり、ほんの少しずつ進歩し続けていることも事実。  ならばやはり、この映画は、彼女たちの人生は、「悲劇」なんかじゃない。
[映画館(字幕)] 9点(2016-04-14 16:56:52)
125.  ブリッジ・オブ・スパイ
非常に地味な映画である。ただし、同時に物凄く豪華で、洗練されている映画でもある。 その印象は明らかな矛盾を孕んでいるが、それがさも当たり前のようにまかり通っていることこそが、「一流」の映画である証であろう。 そして、一流の映画を生み出すことにおいて、スティーヴン・スピルバーグは頂点に立ち続けている。 この最新作を観て、彼のその立ち位置が現在進行形で変わりないことを思い知った。  映画は、芸術に秀でたスパイが黙々と自画像を描くシーンから始まる。 敵国に潜伏する孤独なスパイの極度の冷静さと、その奥底に一寸垣間見える人間性を感じる非常に見事なオープニングである。  このソ連側の老スパイを演じているマーク・ライランスの演技が素晴らしい。長らく舞台上で確固たる実績を重ねてきたベテラン俳優らしいが、朴訥とした雰囲気の中で一瞬見せる軽妙さが抜群であった。今作でのアカデミー賞受賞は間違いないのではないか。  勿論、主演のトム・ハンクスも至極当然のように名演を見せている。 弁護士としての責務を全うしようとする主人公は、国益のために規則をないがしろにしようとするCIAの要求対して、規則こそが国家を国家たるものとする唯一無二のものだと毅然と突っぱねる。 その揺るがない信念と怒りに満ちた姿こそが、アメリカという国が長らく見失っている“強さ”のように見えた。 主演俳優に投影されたかつての大国としての本当の強さ。そこにこそ、スティーヴン・スピルバーグが今このタイミングでこの映画を撮った意味が表れているのだと思う。  若者たちが塀を越えていく。 まったく同じ時代でありながら、一方は眩い青春の日常であり、一方は銃殺の対象であった。 それは何も、この映画で描かれた時代に限られた話ではないと思う。 同じようなことが、今この瞬間にも、世界のそこかしこで起こっている。  世界一の映画監督が伝えたかったメッセージ性は明らかだ。 ただしかし、決して説教臭くなどなく、極めて娯楽性に富んだ一流の映画に仕上がっている。 ただただ巧い。流石だ。
[映画館(字幕)] 9点(2016-01-27 23:24:17)(良:1票)
126.  イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密 《ネタバレ》 
「あなたが普通じゃないから、世界はこんなにも素晴らしい」  勿論それは映画上で脚色された台詞だろうけれど、たとえそうであったとしても、この映画とこの台詞により、アラン・チューリングという不遇の天才数学者の魂は幾ばくか救われたのではないか。 せめて、せめてそう思いたい。   冒頭から中盤までは、主人公のエキセントリックな人間性が表立って描き出される。 そのため、彼がどうして暗号解析という仕事に異常なまでの執念で固執するのか、そしてどうして戦後間もなくして警察機関に尋問されるに至っているのかが、掴めない。 その他の登場人物たちと同様に、「変人」というレッテルを主人公に対して貼らざるを得ない心境になってくる。  しかし、徐々に詳らかになる主人公の少年時代の描写とリンクするように、彼がこの仕事に執着する意味と、ひた隠すように抱え続けたある思いが明らかになる。 “モンスター”とも呼ばれたアラン・チューリングという一人の人間の、“人間らしさ”がようやく垣間見えた時、筆舌に尽くしがたい悲しみを覚えずにはいられなかった。  “クリストファー”と名付けられた暗号解読機がもたらしたものは、神の如き功と、悪魔の如き罪だった。 その功罪を一手に引き受けるかのようにして、一人の天才数学者が、歴史の闇に埋もれていたことに、様々な感情が渦巻いた。   何と言っても特筆すべきは、主演俳優の表現力だろう。 当然ながら、アラン・チューリングその人のことを知っているわけではないけれど、主演俳優ベネディクト・カンバーバッチは、佇まいから細かな仕草、さらにはその精神性に至るまで、その人物像になり切っていたと思える。 TVシリーズ「SHERLOCK シャーロック」を国内放送当時に初めて観てからというもの、この俳優には注目し続けているが、その後順調に世界的なスターダムにのし上がり、この作品により確実に「名優」への階段を登り始めたと思う。  同時期に公開され、アカデミー賞でもせめぎ合ったスティーヴン・ホーキング博士の伝記映画「博士と彼女のセオリー」との類似も興味深い。 両作とも、一人の“天才”とそれを支えた一人の女性との関係性を描いており、まったく別人であるそれぞれの女性の人間性そのものも極めて似通っているように思える。 アラン・チューリングも、スティーヴン・ホーンキングも、「彼女」の存在がなければ、何かを成し遂げることは出来なかったであろう。 そしてかつて、ベネディクト・カンバーバッチ自身も英国のTV映画「Hawking」でホーキング博士を演じて世に出ていたことには、映画史における何か宇宙意志的な“文脈”を感じずにはいられない。   時代に許されないまま潰えた「初恋」の思いを胸に、いまや世界を支えるコンピューターの礎は作られた。 それはとても悲しくもあり、ある意味とてもロマンティックでもある。  時代に抗い、時代を救い、そして時代に潰された天才数学者の偉業に胸が詰まった。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2015-11-15 22:59:01)
127.  アントマン 《ネタバレ》 
アントマン=“蟻男”って、なんだその地味なヒーローは……。と、この新ヒーロー登場に触れそういう嘲笑を含んだ印象を拭えなかった。 今夏公開された「アベンジャーズ2」は、非常に満足のいくマーベル映画の集大成的な作品だった。 が、その映画的物量の凄まじさにより、スーパーヒーロー映画そのものに対して“お腹いっぱい”だったこともあり、今作においては劇場鑑賞をスルーしようと思っていた。 と、そんな矢先、某友人からふいに絶賛メッセージが届き、一転して映画館へ足を運んだ。 正直、実際に鑑賞に至るまで半信半疑なところもあったが、何の事はない、序盤から心の中の“親指”が立ちっ放しだった。  最高。傑作。マーベル映画史上最も“楽しい”映画であると断言してしまっていいとさえ思える。  何よりも楽しかったポイントは、「蟻男」が想像以上に「蟻男」だったことだ。 ただ単に新開発された奇想天外なスーパースーツを身に付けた主人公がミクロサイズになり、“一寸法師”的な活躍をするだけの新ヒーローだと想像していたが、そうではなかった。 「蟻男」は文字通り、“蟻”のリーダーとして無数の蟻軍団を率いて巨悪に立ち向かうのだ。 その想像を超えたあまりにマンガ的な展開が、決して馬鹿馬鹿しくなく、エンターテイメント性に溢れ、感動的な程に楽しかった。 (アリンコ一匹の死にこれほど悲しみを覚えた記憶も無い!)  有名なハリウッドスターがトップクレジットに据えられていなかったことも、イントロダクションの段階で今作が娯楽大作として地味に映ってしまった一因だったが、キャスティングされている俳優たちも皆素晴らしいパフォーマンスを見せている。 主演のポール・ラッドは、コメディ畑の俳優らしい表現力で、軽妙な映画世界の中での軽妙な新ヒーローに見事にフィットしていた。 脇役ではマイケル・ペーニャが最高に良い。近年様々な作品で印象的なバイプレーヤーぶりを見せる俳優だが、彼の「語り口」がなければ、今作は色々な意味で成立しなかったろうとすら思える。 そして唯一のビッグネームであるマイケル・ダグラス。この重鎮俳優独特の怒りと憂いと狂気に満ちた存在感があったからこそ、下手をすればただ軽々しいだけに仕上がっていただろう今作に一本の筋が通っていたと思える。  今作は、「アベンジャーズ2」という“大祭”が終わったばかりのマーベル映画シリーズにおけるシーズンオフ前の最後の作品でもあるらしい。 次のシーズンに向けての区切りとなる作品として、マクロ的に肥大しある意味においては食傷気味だったアベンジャーズの世界観を、一旦ミクロの世界へ凝縮させることにより、魅力を増大させてみせたと思う。 それは、まさに“アントマンスーツ”とまったく同じ論理であり、見事だという他ない。   幼い愛娘のファンシーな部屋の中で、ラスボスとの死闘を繰り広げるスーパーヒーローがいまだかつていただろうか。もちろん、いるわけがない。 “マクロ”から“ミクロ”へ、ヒーロー映画の視点そのものを見事な塩梅で転換してみせたこの映画の優れたエンターテイメント性に脱帽だ。
[映画館(字幕)] 9点(2015-10-06 22:59:02)(良:3票)
128.  ビフォア・サンセット
イーサン・ホークの眉間に刻まれた“シワ”が、9年という時の流れをあまりに雄弁に物語る。 「時間」を自由に操作できることは、映画という表現方法ならではのマジックであるはずだが、それを排し、実際に9年の時を刻んで描き出すことによるまた別のマジックが、この映画には溢れている。 リアルタイムに過ぎ去った時間を経た二人が、映画の中のリアルタイムで邂逅する。 この映画の80分という時間は、まさに映画表現が生み出した奇跡だ。  映画世界の中で、リアルに歳を重ねた主演俳優の二人がやはり素晴らしい。  素人感覚だと、映画のキャラクターと同様に実年齢を重ねられたことで、よりリアルな演技がしやすくなるのではとも考えてしまうが、実際はそういうわけではないだろう。 両者とも一流俳優として9年間で幾つもの役柄を演じ続け、幾つものキャラクターの人生を辿った上で、再びかつて演じたキャラクターの人生に戻ってくるというアプローチは、きっと素人が考える以上に困難なことだったと思う。 その上で、9年ぶりに出会った二人が再会し与えられた時間である“80分間”を、そのままの時間で“会話”のみで演じてみろというのだから、一流俳優であっても極めて高い要求だったに違いない。  その高いハードルを阿吽の呼吸で越えてみせた両俳優の技量は流石だと思うし、そこには技量の高さを越えた俳優同士の肌感覚の相性の良さがあったのだろうと思う。 それはこの二人の俳優のキャリアにとっても、とても幸福な出会いだったろうと思える。 その一方で俳優の実生活においても多大な影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。  前作においても、二人の男女の微妙な心情がそのまま表れる名シーンが数多く存在したが、今作でもそれは随所で観られる。 ヒロインが抑えてきた感情をさらけ出す白眉の車中シーンは、1テイクで撮ったらしく、映画史においてもまさに奇跡的なシーンと言えるのではないか。 またヒロインのアパートの階段を二人が一歩ずつ上がっていくシーンには、再び深まっていく二人の情愛と、月日を経たからこそ生まれるためらいがせめぎ合い渦巻いているようだった。  そして、あまりに印象的なラストシーン。  「Baby you're gonna miss that plane.」 「I know.」  きっと男は、搭乗時刻が迫る飛行機には乗らなかっただろう。 きっと二人は、再会した瞬間に、大きな「期待」とそれと同等の「覚悟」と共に、別々に歩んできた9年間との決別を決めていたのだろう。   さあ、次はまた9年後。 一時の感情を努めて抑えて離れ、今度はその時の後悔を胸に一時の感情に従うままに結ばれた二人が、どういった9年間を送り、また何が変わり、何が変わらなかったのか。 “覚悟”をして観たい。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-10-01 23:52:29)(良:1票)
129.  恋人までの距離(ディスタンス)
この映画を観た誰しもは、“美しすぎる一夜”は、美しいままの「思い出」にすべきだと、考えることだろう。 この映画の主人公の男女も、ちゃんとした“大人”なので、一時の“甘美”に溺れることなく、「朝」の訪れとともにちゃんと一旦断ち切って、それぞれの旅路に戻っていく……一応は。  そのまま付き合って、結婚しても、きっとこんなにも幸福な夜は二度と味わえないことはきっと二人共分かっている。 それでも「再会」の約束をせずにはとてもいられなかった。 失望することが分かりきっている選択をすることは、愚かなことなのだろう。 けれど、その愚かで、滑稽な様こそが、「恋愛」であり、結局人間にとって、それ以上に優先されるモチベーションなんて有りはしないのだと思える。  僕自身は現在結婚5年目で、まだまだ酸いも甘いも経験値としては序の口程度だろう。 ただ、もしこの映画の二人のような美しすぎる思い出の夜があったとして、その綺麗なままの思い出を、時に辛辣な現実と比較して、ただただ「今」を悲観することほど不幸なことはないと思う。 そんな一夜を過ごせたならば、その思い出を抱えて、二人、たとえ罵り合い続けてでも共に生きたほうが、やっぱり幸せなのではないかと思える。   見知らぬ外国人夫婦の日常的に繰り広げられているのだろう喧嘩がきっかけで、この映画の二人は出会う。 それは、この二人に向けての何かの暗示なのかもしれない。 それでも、冷静を装った“大人”を理由にただ離れることなんて出来ない。 それが恋愛、それが人間、残酷で、だからこそ眩い。   ふいに出会った愛しい人と、夜通しを歩き通したことによる疲労感と多幸感の中でまどろみに沈んでいくラストシーンのヒロイン。 目覚めた時、彼女は何を思い、どういう人生を歩んでいくのか。  20年前の公開時にこの映画を観たならば、この後の彼らの人生に思いを巡らせつつ、気になってやきもきしたことだろう。 それはそれでこの恋愛映画の醍醐味だったことだろうと思う。  しかし、幸か不幸か、2015年のタイミングで今作を初鑑賞した僕は、彼らの人生をあと映画2作品に渡って確認することができる。 “美しくすぎる一夜”の後、残酷な時の流れを経て、一体二人の何が変わり、何が変わらなかったのか。 それを確かめることは、とても恐ろしくもあるが、やはり楽しみでならない。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-09-29 23:36:23)
130.  ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション 《ネタバレ》 
予告編をはじめとするプロモーション映像で散々映し出されていた“あのアクションシーン”が、冒頭でいきなり展開され、それが今作の贅沢な“つかみネタ”であったことを知った時、「やっぱこの人は馬鹿だ」と思った。「トム・クルーズは、本物の映画馬鹿だ」と。  シリーズ最高傑作だった前作「ゴースト・プロトコル」同様に、今作においても何よりも賞賛すべき対象は、“トム・クルーズ”その人をおいて他にない。 前作から4年の月日を経て、今年(2015年)53歳になるハリウッドスターが、今回も全力で走りまくり、跳びまくり、潜りまくり、闘いまくる。 映像的なマジックは多分にあるのかもしれないが、それでも、五十路を優に超えて“半裸”で全力疾走は、なかなか出来るものではない。 ただ走るだけならそりゃ出来るかもしれないが、5作にもおよぶスパイアクション映画の絶対的な主人公として、相も変わらず“格好良く”疾走する様に、もはや尊敬せずにはいられない。  ここ数年のトム・クルーズの“仕事ぶり”には、特に目を見張るものがある。 主演映画、製作映画のほぼ総てが確実に見応えのある作品に仕上がっている。 その理由は明らかで、冒頭に記した通り、この人の“映画馬鹿”ぶりに益々拍車がかかっているからに他ならない。 おそらく他の誰よりも、沢山の映画を観て、沢山の脚本を読んで、自らの目で才能に優れた監督や俳優を見出し、自分の主演作に最高の陣営を揃え続けているからだ。 そして、その最高のスタッフ、キャストに応えるために、彼は主演する自分自身の鍛錬と挑戦を惜しまない。 他の誰よりも、トム・クルーズは、トム・クルーズを格好良く見せる方法を知っていて、それを実践している。 その在り方は、映画スターとして、プロデューサーとして、本当に素晴らしいことだと思える。   さて「ミッション:インポッシブル」シリーズ5作目となる今作。前作に負けず劣らずアクション映画として傑作だと思う。 前作ほどのアクションシーンにおいてビジュアル的な派手さや新しさはない。その代わりに、お決まりの王道的展開を真正面から堂々と描き切り、最高の品質でブラッシュアップしている。 時に気品さえ感じる骨太なアクションシーンの連続は、とても見応えがあり、ただただ楽しい。  そういう意味では、冒頭の派手なアクションシーンはある種前作のテイストを引き継いだ“サービス”であり、それと同時に「こっから先は私の趣向でやらせていただく」という監督のプライドと自信の表明だったように思えた。  ヒロインに抜擢されたスウェーデンの女優レベッカ・ファーガソンも最高。謎めいた二重スパイ役を魅力的に演じきっていた。 かつての愛妻ニコール・キッドマンを見初めた頃から発揮し続けられるトム・クルーズの“審美眼”の確かさにも頭が下がる。  この誰よりも自分が大好きな努力家のハリウッドスターは、まだまだ続編を製作する意欲に溢れているに違いない。その資格は充分にあるし、期待せずにはいられない。   そんな満足感を携えつつ、仕事帰りのレイトショーを観終えた。 そして、スーツの襟を正し、スパイ気分で少し慎重に周囲に目を配りながら映画館を後にした。
[映画館(字幕)] 9点(2015-08-20 23:22:26)(良:2票)
131.  アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン
マーベルの“大祭・第二弾”。 3年前の大祭・第一弾が、奇跡的な大成功を収めただけに、この続編へのハードルは残酷なまでに高まっていたと思う。 これ程までに濃ゆいメンツを一つの映画作品に詰め込むことだけでも、その苦労は半端ないものである筈で、そこに続編ならではの難しさも加わり、大き過ぎる期待の反面、クオリティーの低下を覚悟していた部分はあった。 が、何の事はない。高すぎるハードルを華麗に越え、エンターテイメント超大作としてきっちりと仕上げている。見事だ。  「アイアンマン3」、「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」の流れを汲み、描き出されるストーリーは、決して終始高揚感溢れるものではなく、時に陰鬱で破滅的ですらある。 アベンジャーズを構成するヒーローそれぞれの心の闇と葛藤が浮き彫りにされるストーリー展開は、映し出されるアクションシーンが派手になればなるほど、彼らを包む渇いた空気感を際立たせるようだった。  この“苦い”味わい深さは、この“大祭”に至るまでの各作品を観ていなければ到底理解できるものではなく、そういう意味では完全に“一見さんお断り”映画であることは間違いないだろう。  ただし、そういった苦味の中でも、アメコミヒーロー映画の究極として、アゲるべきところはしっかりとアゲてくる。 各ヒーローの弱みを露わにするからこそ、それぞれの見せ場も存分に見せてくれる。 そして、彼らが“アベンジャーズ”として「結束」することによる無敵ぶりをきちんと映画のピークに合わせてくる。  そして、今回キャラクターとして特筆すべきは、アイアンマンでもキャプテンアメリカでもハルクでもなく、まさかの“ホークアイ”だろう。 生身の人間であるこのキャラクターは、超人的な能力を誇る他のメンバーに対して明らかに浮いていた。 スカーレット・ヨハンソン演じるブラック・ウィドウはまだ紅一点という明瞭な存在意義があったが、ジェレミー・レナー演じるホークアイは、あまりに存在感が薄かったと言える。 が、今作においては、極めて重要な存在感を見せてくれる。  ロボットの軍勢が襲いかかり入り乱れる非人間的な戦闘の中で、「俺の武器は弓、笑えるだろ?」と自嘲するホークアイ。 それでも一歩戦いの場に踏み出れば、彼はアベンジャーズとして信念を持ってひたすらに弓を引き続ける。 その様は最高に格好良い。 そのホークアイの姿にこそ、アベンジャーズの真価が表れていたと思う。 ジェレミー・レナーという一流俳優がこの地味な脇役を担い続けた意味がようやく結実している。   さて、大きければ大きいほど祭りのあとはいつも寂しい。 ハルクは南の海に去り、ホークアイは家族の元へ帰ってしまった。トニー・スタークとソーは戻ってくるだろうか。 祭りのあとの空虚感を携えつつ、エンドロールを見送った。 そして、「アベンジャーズは帰ってくる」というお決まりのテロップをしっかりと確認し、少し安心して映画館を後にした。   (2018.5.14 再鑑賞)  劇場公開以来の再鑑賞。なんだよ、やっぱり最高かよ。  “S.H.I.E.L.D.”という文字通りの「後ろ盾」を失ったヒーローたちが、絶大なパワーとそれ故の恐怖との狭間で苦悩する。 この映画単体としてのプロットは、意地悪な見方をすれば、ヒーローたちの“独り相撲”であり、それにほぼ巻き込まれる形で実害を被る世界の人々からすれば、そりゃあ恨み節も言いたくなろうし、危険視するムーブメントも避けられまい。 今作におけるヒーローたちの「失敗」が、この後の「シビル・ウォー」の悲劇へと直結していくわけで、その顛末を知った上での再鑑賞では、ヤキモキ感が増長したことは言うまでもない。  ただだからこそ、前作「アベンジャーズ」を遥かに凌駕したヒーローたちのアクションシーンの連続が、ひたすらに熱い。 自ら招いた危機によって打ちひしがれようとも、傷つこうとも、倒れようとも、彼らは何度でも立ち上がり、新たな仲間を伴い、「復讐者」となる。  その様は、まさに“独り相撲”の極みかもしれないけれど、そんな小賢しい理屈なんて超えて、ただただ熱狂せざるを得ない。  実は誰よりも“人間臭い”最凶人工知能“ウルトロン”のユニークな悪役性、ホークアイを筆頭とする脇役の見せ場、スカーレット・ウィッチ、そしてヴィジョンら一線を超えた新キャラクターを問答無用に「有り」にしたMCUの巧みさに、改めて脱帽。
[映画館(字幕)] 9点(2015-08-07 00:28:23)(良:2票)
132.  マッドマックス 怒りのデス・ロード
「マッドマックスは何日から上映開始よ?」と、父親からメールが入った。 既に上映開始の第一週目だったので、「もう始まっているよ」と返した。  公開間際になって世間の好評がビンビンと伝わってきていたので、映画館に足を運ぶべきだと思ってはいたが、実父から届いたそのメールが劇場鑑賞の“決め手”となったことは間違いなかった。   映画館に映画を観に行くということが日常となったのは、小中学生の頃に父親に連れられて行ったことがきっかけである。ただ時は経ち、父親はめっきり映画館に足を運ぶことは少なくなった。 そんな父親からのそのメールからは、彼らの世代の映画ファンにとって「マッドマックス」がいかに特別なものなのかということを強く感じることができた。  実は、僕は「マッドマックス」を観たことがなかった。 この“最新作”の直接的な元となった「マッドマックス2」は1981年公開。僕自身が生まれた年である。 曲がりなりに“映画ファン”を自負するものとして、「マッドマックス」を観たことがないということは情けない限りだと思う。  今夏(2015年)のエンターテイメント大作事情は、例年以上にリメイク&リブートを含めたシリーズ最新作の色調が濃いラインナップとなっている。 「ターミネーター」「ジュラシックパーク」「ミッション:インポッシブル」etcとそうそうたる顔ぶれの中で、“マッドマックスの最新作”という触れ込みに対しては、正直なところ食指の動きが鈍かった。 その要因としては、ずばり「世代ではない」ということが最たる理由だったと思う。 自分自身が生誕した年前後に公開された映画というものは、新しくもなければ、古過ぎもせず、映画ファンとして遡って干渉するにはとても中途半端なものである。   随分と前置きが長くなってしまったが、この映画に対して言いたいことはただ一つ。  “激アツ”  あまりにチープなことは認めるが、その一言に尽きる。 熱い!熱苦しい!いやもう凄いよ!と言わざるをえない映画の熱量に圧倒される。   終末戦争後の世紀末。荒廃し枯渇した世界に残されたものは、果てしない飢えと、狂気。 留まっても地獄、進んでも地獄、ならばどうする? 常識や倫理観など存在すらしない世界の中で繰り広げられる“生”と“死”の止めどない攻防を、ただただ目の当たりにしたという“感触”。  手放しで絶賛したい。が、“オリジナル世代”であれば、もっともっと楽しめたのではないか?という疑問符が残った。 それは、単に過去作を観たことがあるかないかということではなくて、「マッドマックス」という映画体験が、人生の中に刷り込まれているかどうか。 その“体験”の有無によって、今作の価値は大いに変わるような気がしてならない。 そのことが、映画ファンとして、なんか悔しい。
[映画館(字幕)] 9点(2015-06-26 23:37:14)(良:1票)
133.  七年目の浮気
マリリン・モンローが、マリリン・モンローである理由が、この映画には満ち溢れている。 その理由は、即ち当時世界中の男が“彼女”に恋をした理由と全く同義と言える。  マリリン・モンローといえば、時代を越えて、“セックスシンボル”というスキャンダル性に溢れたイメージが先行しがちの女優である。 しかし、「お熱いのがお好き」に続き彼女の映画を観て感じたことは、滲み出る“女優魂”だった。  この女優から醸しだされるフェロモンと、惜しみないセクシーショットは、当時としてみれば「常識」の範疇を大きく超えていて、故に揶揄を含めたスキャンダルに伴ったイメージが先行してしまったのだろう。 今作にしたって、何と言っても60年前の映画である。彼女の存在そのものがいかに“センセーショナル”だったかは、想像に難くない。 それがいつしか“伝説化”し、敬愛と嫉妬を込めて、“セックスの象徴”として語り継がれてきたのだろうと思う。  でも、この伝説的女優の存在がなければ、その後に登場したすべての女優の“表現の幅”は随分と狭まったままだったと思う。 アンジェリーナ・ジョリーも、スカーレット・ヨハンソンも、今のような魅力を発揮することが出来なかったと思うし、スター女優として存在すらし得なかったのではないだろうか。   主演女優の時代を超越した存在感、その一方で、“浮気”をテーマに描き出される喜劇のストーリー性も、しっかりと深く面白い。 中年男性の根底にある浮気心と止まらない妄想。 過剰なまでに妄想を繰り広げる主人公の“一人相撲”は、可笑しさに溢れると共に、同じく既婚者として身につまされる。 留まらない妄想を突き抜けて、家族の元へ走る主人公の姿には、同じ男として、夫として、父として、渦巻く感情を鷲掴みにされた。  流石はビリー・ワイルダー。些細な仕草や、細やかな小道具つかいに至るまで、緻密で巧い演出が随所に光り、最上級のコメディ映画に仕上がっている。 主人公役のトム・イーウェルの、可笑しさと、哀愁と、愛らしさに溢れたパフォーマンスも素晴らしかったと思う。  今作は、映画史上最高の監督による卓越した映画術を随所に堪能出来る映画である。 が、しかし、結局、あらゆる場面で目がいってしまうのは、ただ“一点”。 やはり、世界中の男の中の一人として、“彼女”に釘付けにならずにはいられなかった。 “彼女”に対する思いは、欲情を越え、憧れを越え、もはや尊敬の念に達する。   さて、僕自身は、“7年目”まであと一年半ほど……。くれぐれもセンセーショナルな“お隣さん”が現れないことを、切に願う。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-05-03 01:06:59)
134.  ワイルド・スピード/SKY MISSION
「別れなんてない」 そう言い残して一人走り去るドミニク。そんな彼を追ってきて、真っ白のスープラでいつものように横に並んだブライアンの姿は、果たして現実だったのだろうか、幻影だったのだろうか。 「さよならも言わずに行くのか?」と笑顔を見せるブライアンに対してのドミニクの表情には、喜びと悲しみが等しく入り交じっているように見えた。  シリーズ7作目。 当然ながら“一見さんお断り”の今作を、封切り早々に観に行く“ファン”としては、とてもじゃないが、ラストのシークエンスを涙なしでは観られなかった。  とはいえ、この映画は「ワイルド・スピード」である。映画の9割以上は、突っ込むことが馬鹿らしく思えるくらいに大味なストーリーテリングと、大仰なアクションシーンのひたすらな連続である。 ただし、その「大味」と「大仰」は、このシリーズが7作品を通じて培った娯楽性の“境地”であり、否定の余地は微塵もない。  一介のストリートレーサーだった主人公とその一味が、シリーズを追うごとにアクションヒーロー化し、ついには某スパイアクション映画を彷彿とさせるほどの極秘任務を担う。 フツーなら“あり得ない!”と一蹴されるべきプロットを、堂々とまかり通してしまう。それを成すものは、このアクション映画シリーズが導き出した奇跡的なエンターテイメント性に他ならないと思う。  この「7」は、あらゆる側面で「奇跡」そのものだ。  前作のラストで突如登場したジェイソン・ステイサムを最恐の悪役に配し、ヴィン・ディーゼル、そしてドウェイン・ジョンソンと、あまりに“肉厚”な肉弾戦を繰り広げる。 “アクションスター”というステイタスの価値が低迷して久しいが、それでも“現役”トップスターである三者の揃い踏みは、あまりに豪華だ。  また、ミシェル・ロドリゲス好きとしては、前作のジーナ・カラーノ戦に続き、またしてもプロ格闘家ロンダ・ラウジーとの“連戦”はたまらなかった。  そしてもちろん、最後に言及したいのは、ポール・ウォーカーだ。 俳優の死は、いかなる時も映画ファンにとって不幸以外の何ものでもない。 今作のクランクアップ前に急逝したもう一人の主演俳優の死は、あまりに大きな損失だった。 ただ、彼の死が、この映画に特別な意味と価値を与えたこともまた事実であろう。  ド派手なカーアクションの追求の果てに、今作ではついに自動車が“空を飛ぶ”。 「SKY MISSION」は後付の邦題ではあるが、今作の主題であるその要素は、天国へと旅立った主演俳優の姿に重なってくる。   映画は、総合芸術であり総合娯楽だ。 その「総合」という言葉には、そこに携わった人間の“人生”そのものも含まれるのだと思う。 一人のスター俳優の生き様と共に、今シリーズはこの先も愛され続けるだろう。 今宵は、ポール・ウォーカーの冥福を改めて祈りたい。 もちろん献杯は“コロナビール”で。
[映画館(字幕)] 9点(2015-04-25 23:45:00)(良:4票)
135.  ゴーン・ガール 《ネタバレ》 
「怖えぇ…」 苦笑いを引きつらせつつ、そう思わず呟いてエンドロールを迎えた。   映画は、妻が突如として失踪した夫の“戸惑い”から始まる。その“戸惑い”の描き出し方が先ず巧い。 あらゆる可能性を秘めたストーリーテリングの中で、夫を含めたすべての人物が怪しく見えてくる。 夫を演じるのはベン・アフレック。愚鈍さと狡猾さが次々に見え隠れするこのスター俳優の配役は、まさにベストキャスティングだったろう。 今作は基本的には彼の視線から描かれるわけだが、彼自身の人物像が結局最後まで掴みきれないので、観客は終始絶妙な不安定を強いられる。  そして、妻役のロザムンド・パイクが物凄い。 殆ど無名に近いこの女優のパフォーマンスには、度肝を抜かれた。 一人の女が持つ明確な多面性と狂気。その様はもはや悪魔的であり、登場人物たちも観客も「どうしようもない」と諦めるしかなくなってくる。 キャラクターとして凄いのは、決して恐怖の対象として留まっているわけではないということだ。狂気が顔を出すまでの彼女は、間違いなく美しく、魅力的だ。馬鹿な男が次々に惚れてしまうのも無理はない。そして、狂気がさらけ出された後でさえ、この女はどこかキュートで虜にされてしまうに値する魅力を携えている。 その様は、やはり「悪魔」と形容するに相応しいかもしれない。  恐怖と狂気に溢れたサスペンスとして、それだけでも充分に完成度は高い。ただこの映画が最終的に行き着く先はそういう類いのことではなかった。 上質なサスペンスに彩られて終に描き出されたのは、「○○」というあまりに普遍的な“形式”が孕む“恐ろしさ”。 笑いが相応しい映画ではないはずだが、この映画には随所に滑稽さが内包されている。ある意味でこの映画は、テーマとなるその“形式”を極めてショッキングに誇張した“コメディ”なのではないかとすら思えてくる。  男と女。その二種類の人間という生物が関わりあうことで生まれるおぞましさにも似た恐怖と、呆れてしまうほどの滑稽さ。本来相反すると思われるそれらの要素が絡み合う濃ゆい映画だった。   実は、僕自身が「○○」をしてちょうど5年目。問題はないつもりだけれど、その慢心こそが、この映画で描かれている「恐怖」に直結するような気がして、思わず震える。 夜遅くまで映画を観て帰り、冷蔵庫に残された妻が作ったエビチリを食べながら、また震えた。
[映画館(字幕)] 9点(2014-12-12 23:42:06)(良:2票)
136.  ブルージャスミン
ケイト・ブランシェット。現役俳優の中で最も「大女優」という呼称が相応しいと言ってもはや過言ではないだろう。 十数年来この大女優の大ファンで、彼女の出演作品を長年観続けているが、今作がキャリアNo.1の演技であったことは間違いない。 その演技を引き出したのが、ウディ・アレンである事実に、やはり“女優づかい”においてこの女好き監督に敵う者はいないと思い知る。    この映画は、喜劇だろうか、悲劇だろうか。 高慢と虚栄の果てにすべてを失った主人公ジャスミンの言動は、愚かで滑稽だ。その姿には、思わず笑わずにはいられない。 ただし同時に、栄華の極みからド底辺まで叩き落とされた彼女のさらにその先の顛末は、生き地獄そのもの。その姿には、思わず胸が締め付けられる。 詰まるところ、この映画は、喜劇であり、悲劇だ。 ありふれた言い回しを敢えて使うなら、人間の人生は悲喜劇そのものであり、描き出されるそれが生々しければ生々しいほど、喜劇と悲劇は同封されるのだろう。  主人公ジャスミンは、サイテーな人間である。それは間違いない。 けれど、だからといって彼女は「悪人」だろうか。彼女の人生を簡単に断罪できる人間が、この世の中にどれほどいるというのだろうか。 多かれ少なかれ、誰にも「虚栄心」はあるものだ。「嘘」は人間が自分を守るために許された特権かもしれない。 「サイテー」と蔑みつつも、少なくとも僕は、彼女のことを真っ向から否定することができなかった。  「栄枯衰退」なんて言葉にすれば簡単だが、それを己の身一つで体現することは生半可なことではない。 今作の“大女優”が素晴らしかったのは、栄華を極めた過去のシーンも、落ちぶれた現在のシーンも、一貫してメイクや衣装を変えずに、「虚栄」に埋め尽くされた女を演じきっていることだ。 同じ衣装やメイクが、ほとばしる鬱積とともに、みるみるくたびれ、劣化していくようだった。 「演じる」というのは、こういうことかと身が震えた。  監督の非情さを呪いたくなるくらいに、ラストはあまりに辛辣だ。 ただ、そのラストがまた主演女優の演技ともども素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2014-11-15 18:48:51)(良:1票)
137.  フェイズIV/戦慄!昆虫パニック 《ネタバレ》 
聞きしに勝るカルト的なSF映画だった。 ただし、決して奇をてらった“とんでも映画”というわけではなく、気が遠くなりそうに緻密な演出と撮影、そして揺るがない美意識に支えられた極めてアーティスティックな映画だった。  とある宇宙線の影響により、砂漠地帯の“蟻”に劇的な「進化」がもたらされる。 高度な知性を得た蟻とうい種が、徐々に周囲の環境を支配し、ついに人類と敵対する。 というのがこの映画の導入部。即ち“PHASE I”である。  その進化にいち早く気づいた科学者二人と蟻との攻防が描かれるわけだ。 この映画が、邦題「戦慄!昆虫パニック」というテイストの通りだったならば、良くも悪くもB級モンスター映画に仕上がっていたことだろう。 しかし、この映画の邦題は大いに見当違いであり、そんな生半可な仕上がりを許すものではなかった。  この特異な映画が描き出すものは、この世界の支配者とされる人類とそれを脅かすものとの攻防などではなく、現状の支配者が新たな支配者によって確実に速やかに取って代わられる様そのものだ。  蟻の脅威的な進化に対して、人間は必死に抵抗を試み、攻防を演じているように見える。 だが、実際はそうではない。 観察者であった筈の人間が、実際は蟻によって観察されていたことを知った瞬間、そもそもそこに攻防などという関係性は無かったのだと気づく。  この映画に映し出されていたものは、その“資格”を持った新しい支配者が世界を支配するという、あまりに自然的で、だからこそ残酷な生物の「理」だったのだと思い知った。  ついに支配を受け入れた人間の雄と雌が、禍々しく赤く灼けた太陽を臨むシーンでエンディングを迎える。 一寸それは夕陽に見え、世界の終末を感じさせる。 しかし、すぐにそれは昇る朝日だと分かる。“終末”ではなく、新しい世界の“はじまり”だったのだ。  そして「PHASE IV」というタイトルバック。参った。
[DVD(字幕)] 9点(2014-10-19 08:58:58)(良:1票)
138.  LEGO ムービー
「LEGO ムービー」なんてタイトルを見知った時点で、「なんだこのチープな企画は……」と早々に鑑賞対象外にしてしまったことを激しく後悔しなければならなかった。  子ども時代の僕が、“LEGO派”ではなく、“ダイヤブロック派”だったから……というわけではなく、このタイトルで、そのまんまブロック玩具で構築された映画が、まさかこんなに面白いとは思えなかった。 (まったく、これだけ映画を観てきておいて、自分自身の浅はかさがいやになる……)  序盤は、LEGOの人形そのままの主人公がひたすらにカクカクと動く描写がただチープに見えてしまう。 なんだ、やっぱりLEGOファンによるLEGOファンのためだけの映画か……とトーンダウンしそうになる。 しかし、次第に、LEGOというブロック玩具の世界観を、実際のリアルな玩具で再現出来得るだろう範囲内で、際限なく広げていく様に、驚き、ついには唖然としてしまう。  実際この映画はフルCGによるアニメーションなのだが、映し出されるブロック玩具の質感はリアルそのもので、アナログ感に溢れ、フルCGであることに逆に驚きを感じた。 立ち並ぶビル群、荒野、天空世界、海原、宇宙……そのすべてが本当にブロックのみで表現されていて、そのビジュアルは圧巻の一言に尽きる。  そして、すべてをリアルで精密な“LEGO描写”で構築された世界に隠された意図。 描き出されたテーマは、決して子どもだましではなく、自己と他者の関係性を導き出したあまりに普遍的で深い人間同士の在り方だった。 ストーリーテリングと映画の世界構造の巧みさに脱帽するしか無かった。  とはいえ、“LEGO”というおもちゃそのものは、まず子どものためにあるべきだろう。 子どもたちは、「すべてはサイコー♪」とごきげんな歌を口ずさみながら、主人公たちのアドベンチャーを心から楽しんでほしい。  すなわちこの映画の根幹にあるものは、子どもの想像力と大人の想像力の融合なのだと思う。 それはあまりにハッピーなイマジネーションの結晶だったと言える。
[ブルーレイ(吹替)] 9点(2014-08-27 23:51:06)
139.  her 世界でひとつの彼女 《ネタバレ》 
とどのつまり人はみな孤独である。 ただそこには同時に、人はみな何かに寄り添い生きていくことしか出来ない、という逆接的な意味合いを孕んでいると思う。 独りでは生きていけないからこそ、「孤独」という状況に対して過敏に反応し、失意に暮れるのだろう。 「喪失」を携え、“親友”の男と女が肩を寄せ合い、夜景を眺めるラストシーンを見送り、エンドロールを眺めながら、まずそういうことを思った。  “男”が望み欲したものは、必ずしも新しい恋などではなかったと思う。 この物語は、もちろんラブストーリーであるとは思うけれど、それはあくまで一側面で、その領域はもっと広く、一人の人間の人生観そのものを描き出していると思えた。  また、お洒落で洗練されたビジュアルに覆われているけれど、この映画の確固たるSF性の深さも興味深い。 “人格”を持つまでに進化したOSの「彼女」。“声”のみのキャラクターに過ぎない彼女の存在感が、男との関わり合いが深まりにつれより一層に際立ってくる。 プログラムが進化し人格を持つという科学的空想は、もはや絵空事とは言えず、とても身近なことに思える。 果たして「彼女」が辿り着いた結論は、プログラムが明確な「意志」を持ったことの表れであり、その描写はとてもとても深淵で、科学的な神秘性に満ち溢れていた。  主人公の男は、実は、元々決して不幸なわけではなかった。 愛した妻と別れなければならない状況であったとしても、仕事上では信頼を受け、心を許せる親友もいる。 でも、人は誰でも「孤独」と隣り合わせで、ふとしたきっかけでそれに覆い尽くされる。  そんな時に出会った「彼女」との出会いと別れは、誰かと寄り添い生きていくという、人間の脆さと素晴らしさを再確認させてくれたのだろう。それはきっと幸せことだったと思う。  「何かに寄り添い やがて生命が終わるまで」 とは漫画「寄生獣」の最後の言葉だが、この映画の“サマンサ”と寄生生物“ミギー”が選んだ道には、とても似通ったものを感じた。  世界中の誰しもが人生の中で幾度も味わうであろう、心の「喪失」と「修復」。 本来同時進行ではあり得ないその心情の機微を、等しく、あまりに眩く描き出した傑作だと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2014-08-24 01:03:05)(良:1票)
140.  オール・ユー・ニード・イズ・キル
理不尽な運命に流されるままに、主人公は突如として人類存亡を欠けた戦争の最前線に送られる。 必然的に訪れる「死」、繰り返される一日、繰り返される「死」。  その設定そのものと、描かれ方は、他の多くの映画で表されたもので、決して新しさはない。 一人の人間の運命と生死そのものを“ダンジョン”のごとく描き出し、軽薄に捉えた表面的な安直さはいかにも日本のゲーム世代が生み出した物語らしく見える。 ただし、ひたすらに繰り返される「生」と「死」の描写には、次第に安直さを超越して、観念めいたものが表れてくる。  映画の中でビジュアルとして映し出される“繰り返し”は、せいぜい数十回程度だが、恐らくこの物語の主人公は、何百回、何千回、もしくは何万回の「死」を経ているだろうことに気づいたとき、文字通りに深淵な戦慄と、「死」そのものの哲学性を感じた。  何万回の死の中で、主人公の精神はとうに崩壊し、人間性そのものが朽ち果て、また別の次元の人格が繰り返し誕生していたのではないだろうか。 それはまさに“生き地獄”以外の何ものでもなく、ふとそういう概念が生まれた時点で、この映画は決して口触りのいいエンターテイメントではなく、極めて辛辣で苦々しい映画にすら見えてくる。  と、そうやって穿ってみることが出来る要素を根幹に携えつつ、トム・クルーズを主演に配し分かりやすい娯楽性で仕上げたこの映画の方向性は正しいと思う。 もっと変質的なタイプの作り手が、斜め上に突っ走ったなら、もっと独特でもっと哲学的な映画になっていたかもしれない。 それはそれで観てみたいけれど、今作の娯楽性自体は間違っていない。  勿論、ラストの顛末を筆頭に疑問符が消えない箇所は多々あり、よくよく考えれば突っ込みどころも多い。  けれども、ラスト、主人公が少し呆れたように、ただ何にも代え難い多幸感を携えながら笑う。 そのトム・クルーズの笑顔を観た時点で、この映画に対する僕の満足感は揺るがなかった。 
[映画館(字幕)] 9点(2014-07-07 00:10:31)(良:1票)
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