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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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141.  ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
“クソったれ”な俗物だらけのこの街で、強欲と虚栄に塗れた“モノ(即ち映画)”が、時代と価値観を越えて、生み出し続けられている。 数多の作品と俳優が生まれては、ガムの様に噛んで吐き捨てられる。なんて儚くて、なんて愚かしいのだろう。 ただね、それでも、この街と、そこに生きる人間たちと、彼らが生み出す「映画」が大好きなんだから仕方がないじゃないか。 このクソ素晴らしい“ハリウッド”に愛をこめて。 by クエンティン・タランティーノ     と、タランティーノ監督が高らかに言い放ったかどうかは知らないけれど、結論から言うと、この作品は世界一“映画愛”に溢れた映画監督による、“映画愛”に満ち溢れた傑作だと思う。 僕は、クエンティン・タランティーノには遠く及ばないけれど、“映画愛”を自負する者の一人として、この映画を否定できるはずも無く、立て続けに2度映画館に足を運んだ。   タランティーノ映画ならではのバイオレンス描写や、マシンガンのような刺激的な台詞まわしを期待してこの映画を見進めていくと、面食らうことは先ず間違いない。 二度鑑賞し、冷静に振り返ってみても、この映画の大半は「何も起こっていない」と言わざるを得ない。 1969年のハリウッドを舞台に、落ち目のテレビスターと、彼の相棒兼専属スタントマンの平坦で自堕落な日々を、ひたすらに、そして恐ろしいまでの丁寧さで描いていく。   極めて単調な映画のように見えるのに、この映画は最初から最後まで少しも退屈ではなく、161分の上映時間は瞬く間に過ぎ去る。 それは丁寧に描きぬかれた一つ一つのシーン、一つ一つのカットが、あまりに愛おしく、映画として光り輝いているからだ。 そして、テレビスターも、スタントマンも、映画監督の隣人も、その妻も、プロデューサーも、子役も、若手カンフー俳優も、ヒッピーも、善人も、悪人も、この映画に登場するすべての人物が映画を愛してやまないからだ。   単調に見えるストーリーテリングの末、溜まりに溜まった鬱積と暴力性が唐突に弾ける様に、短くもこの上なく激しいクライマックスを経て、本作は終幕する。 あまりにも爽快で、あまりにも破茶滅茶なその顛末が、同時にとても刹那的で感慨深い。   そこにあったのは、誰よりも映画を愛するタランティーノ監督による現実に対する「復讐」と、「やさしい嘘」だった。   テレビスターのリックは酒に溺れて、そのまますべてを失ったかもしれない。 スタントマンのクリフは激情的な暴力のしっぺ返しを受け、命を落としたかもしれない。 そして、隣人のシャロン・テートは、狂ったカルト集団に襲われ身ごもった子もろとも惨殺されたかもしれない……。   現実世界の理不尽な暴力を、映画世界だからこそ許されるさらに激しい暴力で返り討ちにした後、主人公は隣人に招かれ、身重の彼女を優しく抱擁する。 不幸な事件なんてまるでなかったかのうように、クエンティン・タランティーノは、「映画」で「映画」を抱きしめ続ける。
[映画館(字幕)] 10点(2019-09-07 23:28:13)
142.  エンド・オブ・キングダム
無双の殺戮マシーン(シークレットサービス)マイク・バニング再降臨。 「えーと、“シークレットサービス”のお仕事ってこういうことだっけ?」という疑問などはもはやナンセンス。ジェラルド・バトラー扮する主人公が、前作以上に、熱情を通り越した異常さで、「大統領警護」という名の殺戮ショーを繰り広げる。  前作「エンド・オブ・ホワイトハウス」では、想定外の主人公の常軌を逸した無双ぶりに面食らってしまい、完全にドン引いてしまった。 先に見た類似映画「ホワイトハウス・ダウン」の分かりやすいザ・エンターテイメントに対して、「エンド・オブ・ホワイトハウス」の凄惨なまでの無骨さは“地獄絵図”そのもので、「これじゃない感」が物凄く強かったことをよく覚えている。  続編である本作においても、そういった映画的なテイストと主人公のキャラクター性はまったくぶれていない。 むしろ、前作の「ホワイトハウス」から「ロンドン市街」へと“バトルフィールド”が拡大したことで、無双の主人公は、さらにのびのびと戦いを楽しんでいるようにすら見えてくる。(恐らく、ヘリコプター撃墜の瞬間から“スイッチ”が入ったと思われる)  前作では、僕自身が、その主人公のキャラクター性そのものに引いてしまったまま、戻ってこられなかったわけだが、今回は映画が始まった瞬間から「こいつはああいう奴」という免疫が付いていたこともあり、存外に楽しめた。  特に、怒涛の連続テロにより、国葬に集まった主要各国の首脳がことごとく殺され、ロンドン市街がまさに地獄絵図と化した序盤の展開は、絶望感に溢れスリリングだった。 首謀者であるテロリストのボスすらその大成功ぶりに驚きを隠せなかった様には笑ってしまったが、この序盤の絶望的かつ非現実的なスペクタクルシーンによって、本作は効果的にリアリティラインを下げて見せたのだと思う。 即ち、もうここまで無茶苦茶なことが起こっているのだから、この先に何がどうなっても怒るのは「野暮」だよということだ。  結果、主人公はのびのびと心ゆくまで「大統領警護」に邁進し、子どもの誕生を控えてらしくなくもやもやしていた感情も霧散する。そして、アメリカは性懲りもなくドローン爆撃を繰り返す。 ああ、めでたし、めでたし……なのか?
[インターネット(字幕)] 6点(2019-09-04 23:37:45)(笑:1票)
143.  市民ケーン 《ネタバレ》 
世界のすべてを手に入れ、そしてそのすべてを失った男の一生。 でも、本当は、“そり”で遊んだあの雪の日から、彼は何も得ていなかった。 時と共に益々深まる喪失感を、ありとあらゆる欲望で埋め尽くそうとする日々を妄信的に過ごした男の悲しい生涯。 主人公が残した「薔薇のつぼみ」という謎めいた一言が持つ真意を、彼の人生を追想するようにこの映画は綴られるが、結局、そんな真意など意味は無いという結論で、物語は締められる(※真意が判明しないという意味ではない)。 その映画の結末も、あまりに冷ややかで、シビアだ。   パンフォーカスの活用方法、ストーリーテリングの“斬新さ”など、映画表現としての発明の数々は、この古い映画を違和感無く観られていることに気づいた時にこそハッとさせられる。 その革新的な映画表現を駆使した絶大なる監督力のみならず、類まれな主人公の生涯を自分自身で演じきってもいる若きオーソン・ウェルズの映画人としての「才気」は、チャールズ・フォスター・ケーンという映画上のキャラクターを超えて溢れ出ているようだった。   人間の普遍的な孤独を描ききった類まれなる映画作品であり、その映画史的な価値の高さを否定する余地は全くない。   ただ、ひたすらに眠かったけどね。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-08-31 00:46:26)
144.  ミスター・ガラス 《ネタバレ》 
「スプリット」のポストクレジットで突如示された怪作「アンブレイカブル」のその後。 まるで想像していなかった奇跡的な連なりと、「特異」そのものの3人のキャラクターたちの再登場に際し、両作推しのシャマラン映画ファンとしては、鑑賞前から高揚感は膨れ上がっていた。 無論、映画館で鑑賞したかったのだが、公開規模が大作映画としては小さく、地方では劇場公開されず落胆。どうやら、そもそも「アンブレイカブル」と「スプリット」とでは製作会社が異なっており、両作の続編である本作は異例の二社共同製作となっていたことが、日本国内でのは配給制限に影響したのではないかと想像する。  色々な意味で「異質」な映画であることは間違いなく、それがシャマラン映画として初めての“シリーズもの”となったわけだから、普通の映画に仕上がっているはずもない。 そして、「アンブレイカブル」から19年の長き月日を経て展開されたこの続編は、過去の二作両方に対しての見事なそして特異なアンサーとして成立していると思う。  この映画の特異な終着点は、「ミスター・ガラス(Glass)」というタイトルが掲げられた時点で、ある意味明確だったのかもしれない。 「アンブレイカブル」がそうであったように、このシャマラン流“アベンジャーズ”は、画一的な“ヒーロー”の活躍を描き出したいわけではない。 あまりに不遇な自らの人生を呪い、心からコミックに登場するスーパーヒーローに憧れ、その存在を渇望するあまりに、自分自身が最凶最悪なヴィランになるという狂気にたどり着き、それを成し得てみせたイライジャ・プライスというキャラクターの信念こそが、3作通じたこのシリーズの主題だったと言えよう。  「アンブレイカブル」のラストシーンにおいて、イライジャ・プライスは「ヴィランには皆あだ名がある。私はミスター・ガラス」と悲しく言い放ち、ようやく見つけ出したスーパーヒーロー(デヴィッド・ダン)を見送る。 彼はその直後逮捕され、ずっと収容施設に閉じ込められていたわけだが、その“ヴィラン”としての立ち位置と、信念が揺らぐことは微塵もなかったのだろう。 表現として矛盾するが、彼はひたすらにヴィラン即ち「悪」としての“純真”を保ち続け、只々機会を待ち続けた。 そしてついに、不遇を極めた自らの人生の「意味」を勝ち取ったのだ。最期の彼の瞳に宿っていたものは、正義と悪の混濁だった。  極めて「変」な映画シリーズである。ただし、このシリーズが伝える「価値観」は一貫している。 「正義」と「悪」を等しく対なものとして捉え続け、両者に共通する「異質」さを、“普通”とされるこの世界に問うている。 それは即ち、「正義」とか「悪」とか関係なく、普通と異なるものを、この世界は受け入れられるのかということ。  この映画の終着点の論理は極めて“屈折”していて、多くの普通の人間には理解し難いものかもしれない。 それでも、本作の主人公は、ひび割れたガラスの屈折した光を通して、ヒーローにも、ヴィランにも姿を変えて、その難問を問い続ける。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-08-17 23:32:58)(良:1票)
145.  トイ・ストーリー4 《ネタバレ》 
ちょうど大いに散らかっていた子供部屋を子どもたちと共に片付けたばかりのタイミングで鑑賞した。 そういえば、自分自身に子どもが生まれてから初めて観る「トイ・ストーリー」だった。  傑作だった前作「3」において描かれた、ウッディたちが選び取った「選択」で、「トイ・ストーリー」という物語は見事な“終着”を見せたのだと思っていた。 たとえ更なる続編が製作されたとしても、それはきっと多くのファンを失望させてしまう“蛇足”になるだろうと思っていた。 だがしかし、9年の年月を経て生み出されたこの続編は、僕たちの想像を芳醇なイマジネーションで大胆にも超えてみせた。 それを成し得たのは、このアニメーションに登場するキャラクターに対するクリエイターたちのあまりにも深い愛だったと思える。  “おもちゃ”として生まれたウッディをはじめとするキャラクターたちの「運命」と「役割」。 前作「3」で描き出されたそのテーマは、キャラクターたち自身にとっての誇りであり、尊厳であった。 我々観客も、そういった「運命」を見出したキャラクターたちを称賛し、物語の終着として納得し、満足していた。  「トイ・ストーリー」の中のキャラクターたちでさえ納得していたはずのその結論めいたものに対して、誰よりも彼らを愛するクリエイターたちは「いや、待てよ」と思ったのだろう。 “おもちゃ”として生まれた以上、その相手(持ち主)が誰であれ、楽しませ続けることこそが本懐。 でも、だからといって、すべてのおもちゃたちを、一方的にその「運命」=「おもちゃ箱」にしまい続けていいのか。 この映画のクリエイターたちは、あらゆる意味で「役割」を果たしてくれた愛すべきキャラクターに、新しい選択肢と可能性、即ち「未来」を与えたかったのだと思う。  それは、本来“生無きもの”に生命を吹き込んだこのストーリー(世界)において、あまりに相応しい多層的な新しい着地点だった。 この着地によって、このストーリーは永遠に続くだろう。そうまさに「無限の彼方へ」。   片付けたばかりの子供部屋は、またすぐに散らかり始めている。 この機に乗じて、うちのおもちゃたちも少しずつ旅立っているのかもしれない。
[映画館(吹替)] 8点(2019-07-31 23:43:57)
146.  15時17分、パリ行き
何という豪胆で巧い「映画的話法」だろうか。 キャスティングにおける「特異性」は当然認識した上で鑑賞していたが、現実のフランス大統領本人から勲章を授与されるラストシーンを観ながら、思わず「うまく合成してんなー」と思ってしまった。 「あ、いやいや本人だ」と一寸遅れて思い直すくらいに、主人公らを演じたこの事件の“当事者”たちの演技には違和感がなかった。  2015年、実際にヨーロッパの高速鉄道タリス内で発生した銃乱射事件を描くにあたり、その現場に遭遇し、事件に立ち向かったアメリカ人の若者3人をはじめとする当事者(無論演技素人)たちを主演に起用するというあまりに常軌を逸した映画企画を立案し、成立させ、きっちりと良作を生み出してしまうクリント・イーストウッドという“映画人”は、本当に本当に映画に愛されているなと思う。  イーストウッド監督は、「アメリカン・スナイパー」、「ハドソン川の奇蹟」、そして本作と、この数年特に現実世界の中で実際に起こった社会的事件を精力的に映画化している。 題材の種類自体はバラバラだけれど、その根幹にある性質と、描き出そうとするテーマ性には揺るがないものを感じる。  それは即ち、現代社会における「アメリカ人」の在り方を問うということに尽きる。 それぞれの映画の主人公たちは、みな一つの「正義」や「信念」を背負って生きている。 ただし、彼らは一様に惑いと脆さを孕み、あらゆるしがらみや重圧に耐えながら苦闘する。 そこには、様々な側面でアンビバレントな理想と現実を抱える現代のアメリカ社会の中で生まれ、生きるアメリカ人の生き辛さのようなものが如実に映し出されているように感じる。  それはまさに、クリント・イーストウッド自身が今現在何よりも強く感じている、自国に対する憤りと悲しみなのだろう。 だからこそ、この御年89歳(2019年8月現在)の巨匠は、実際の事件発生から間髪を入れず、アメリカという国と、アメリカ人の「今現在」を映画として描き出すことに情熱を注ぎ続けているのだと思える。  そして、アメリカ映画史を代表するスター俳優でもあるクリント・イーストウッドは、観客に対して「娯楽」と「希望」を提示することを忘れない。 息が詰まりそうな世の中(アメリカ)だけれど、それでもこの国の人々は、何時だって誰だって“英雄(ヒーロー)”になれるんだ。ということを映画の主人公たちを通してひたすらに伝え続ける。 本作の主人公に演技経験がまるでない「素人(ただのアメリカ人)」を起用したのは、まさにそのメッセージの具現化に他ならない。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2019-07-28 00:23:32)(良:2票)
147.  スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム 《ネタバレ》 
ほとんど無意識レベルで感じていた“ニック・フューリー”まわりの「違和感」を、きっちりと収束してみせるお約束のポストクレジット・シーンを目の当たりにして、「ああ、MCUは終わらないんだな」と、感嘆と安堵を覚えた。 「エンドゲーム」の大団円から、文字通り間髪入れずに更なる“大風呂敷”を広げていこうというのか。 そしてその新展開を、新フェーズのリスタートに合わせるのではなく、「フェーズ3」のラストに据えて、大河の本流を紡いでくるあたりに、この類まれな映画シリーズの懐の深さを改めて感じる。  MCUファンとして初めは、もう少し「エンドゲーム」の余韻に浸らせてくれよとも思えたが、実際にこの「スパイダーマン」の新作を見終えた後では、成程、本作はあの“終焉”の直後を描くからこそ「意味」を持つものだと思える。  それは、“MCUに登場するスパイダーマン”の「意義」と直結する。 過去の単独ヒーロー映画であった「スパイダーマン」シリーズでは存在しなかった要素。即ち、トム・ホランド演じるスパイダーマンは、ヒーロー新世代の象徴であり、“アイアンマン”の意志を受け継ぐ者であるということだ。 MCUにおけるスパイダーマン=ピーター・パーカーは、無論他の誰でもなくトニー・スタークによって見出された“ルーキー”であった。 MCUの各映画において、トニー・スタークとピーター・パーカーは擬似親子のような関係性で描かれてきた。そして、この二人が人間として極めて似たもの同士であったことも明らかだ。 飄々とよく喋り、ジョークを連発し、相手を小馬鹿にしながら敵に打ち勝つ。そして持ち前のDIY精神でスーツも武器も作り上げる。ただその反面、極めて繊細で優しく、常に己と葛藤しながら戦い続ける。  この映画におけるピーター・パーカーのヒーローとしての存在感は、その精神的な未成熟性も含めてトニー・スタークそのものであり、まさにトニーが乗り移ったかのようだった。 トニー・スターク同様に、強敵との対戦を控えて自らスーツを作り上げていく様には、ハッピー同様に涙腺が緩んだ。 “アイアンマン=トニー・スターク”というMCUが生み出した最大最高のヒーローに対するリスペクトと愛情、そしてのその魂の継承。 本作が、「エンドゲーム」と連なるように公開された理由は、そういうことだ。   あと最後に。今年の「悪役賞」は“サノス”で押し通したかったが、いきなりの“対抗馬”出現とは。本作のヴィラン・ミステリオを演じたジェイク・ギレンホールに対しては「流石」の一言に尽きる。 捻じ曲がった悪意を心の底から真っ当と疑わない狂気性を演じさせたらこの俳優に右に出る者はいない。全然キャラクターは異なるが「ナイトクローラー」のアイツを髣髴とさせる。最低で最高。
[映画館(字幕)] 9点(2019-07-05 23:24:39)
148.  スカイスクレイパー
コレは非常に良い“タワーリング・インフェルノ+ドウェイン・ジョンソン”映画だ。想定外の大満足感に高揚した。  どうせ、例よって超高層ビルで大火災が起きて、我らがロック様が超人的に救出劇を繰り広げるのだろうと高を括っていた。そして、その通りの映画だった。 まったく想定通りのストーリーテリングだったにも関わらず、想定外の満足感を得られたことが凄いことだと思う。  言うなれば、この手の“ジャンル映画”を好んで観ようとする輩は、映画的に新鮮な驚きなど端から求めていない。 ただ、過去の映画遍歴を踏まえて、押さえておいてほしい“娯楽ポイント”が幾つかあって、そのポイントを幾つ稼がせてくれるか、興味はそこに尽きる。 もちろん、その娯楽ポイントは、人それぞれなのだが、個人的には、この手の娯楽映画に必要な要素を漏れなく網羅した「お手本」のような作品だったと思う。  監督のローソン・マーシャル・サーバーはきっと自他ともに認める“ボンクラ映画ファン”なのだろう。 随所に過去の数多の傑作映画から引用された要素が散りばめられていて、こちらも一ボンクラ映画ファンとしてニヤニヤしっぱなしだった。 香港を舞台にした「燃えよドラゴン」オマージュは言わずもがな、「ダイ・ハード」から「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」に至るまで古今東西のあらゆるアクションエンターテイメント映画を彷彿とさせる数々のシーンは、決して安直な“パクリ”というわけではなく、愛情と尊敬をもって演出し表現されていたと思う。 だからこそ、ひたすらに楽しく、興奮することができた。  そして、やはりドウェイン・ジョンソンの圧倒的な存在感も無視できない。 何かのインタビューでも彼自身が語っていたが、ドウェイン・ジョンソンがドウェイン・ジョンソンであり続けることを貫き通したからこそ、このプロレスラー出身の俳優は、ハリウッドというバトルロワイヤルの中で勝ち残り、アクションスターの地位を確立したのだと思う。 様々な映画で全く違う人間を演じているのに、彼の左半身にはルーツであるサモアを象徴するタトゥーが刻み込まれている。普通に考えれば、それは鑑賞者にとって違和感であり、映画俳優にとってデメリットでしかない。 だが、世界中の多くの映画ファンはその象徴であるタトゥーも含めて、ドウェイン・ジョンソンという俳優を受け入れ、愛している。もはや、ドウェイン・ジョンソン主演映画であのタトゥーを見られなければ、逆に物足りなさすら感じてしまうと思う。 それこそが、彼が「自分」というアイデンティティを貫き通した証であろう。 そういったアクション俳優の存在感も含めて、このパニックアクション映画は「ザ・王道」だと思える。素晴らしい。  あ、そうだ、“粘着テープ”を買いに行かなくちゃ。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-06-30 11:49:21)
149.  ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 《ネタバレ》 
ゴジラ映画ファンとして先ず断言したいが、本作が映し出すビジュアルはとんでもなくエキサイティングであり、世界中総てのゴジラ映画ファン、怪獣映画ファンは、必ず映画館で見なければならない。 それが決して言い過ぎではないくらいに、映像的には本当に“どえらいもの”を見せてくれる。それは間違いない。  その妥協の無い映像的クオリティーは、この映画の製作陣が、日本が生んだ“ゴジラ映画”を心から敬愛し、尊敬してくれていることの紛れも無い証明であり、そのことについては、日本のゴジラ映画ファンとして心底嬉しく思う。  と、5年前の前作とほぼ同じ、いやそれ以上の「満足感」を得られたことは否定しない。 しかし、だ。その「満足感」と同時に、決して看過できず、拭い去れない「拒否感」を覚えたことも否めなかった。 前作鑑賞時と同様に、エンドロールを見送りながら、“神妙な面持ち”を崩すことができなかった。  「拒否感」の正体はもはや明確である。“核の取扱い”只々この一点に尽きる。 ストーリーテリングにおける“それ”についての「意識」の違いさえ無ければ、僕は前作も含め、この“ハリウッド版ゴジラ”を大絶賛することを惜しまなかっただろう。 だが、残念ながら、前作に続き本作においても、「核兵器」という人類が生み出した最凶最悪の脅威に対する“意識の違い”というよりも、むしろ明確な「無知」が、大きく分厚く障害として立ちはだかった。  その「無知」は、致し方ないものとも思える。 世界で唯一の被爆国として、この国の子どもたちは、核兵器の脅威とそれがもたらした悲劇に関する情報を、教育の中で蓄積し、潜在意識レベルで認識している。 いかなる場合であっても、核兵器は「否定」の対象であり、その象徴が、脅威としての「ゴジラ」なのだ。 一方、かの国の子どもたちにとって、「ゴジラ」とは“核が生み出したヒーロー”であり、その認識を変えることは極めて難しいことなのだろうということを、前作と本作を観て痛感した。 歴史も、文化も、価値観も違えば、それは当然のことだろうし、こと「核兵器」に関する経緯においては、日本とアメリカの立場は全く両極にあったわけだから、その「乖離」は殊更であろう。  ただ、そのように俯瞰して見れたとしても、本作における核兵器のあまりに軽薄な取り扱いは、この映画が「ゴジラ映画」だからこそ認めるわけにはいかない。 衰弱したゴジラに対し、核爆弾をあたかも“カンフル剤”のように爆発させ、復活する様を仰々しく映し出し、本作随一の名場面のように仕上げた様には、怒りを覚えるというよりも、唖然としてしまった。 我らが渡辺謙の熱い見せ場には申し訳ないが、日本のゴジラ映画ファンにとっては、あのシーンが最も「不適切」で「不要」だった。   でもね……。 これがアメリカ人が愛し、アメリカ人が観たい「ゴジラ映画」であれば、それがすべてであり、娯楽映画として本作の在り方を否定する余地は無い。と、本心から思う。(立ち位置が定まらないようで申し訳ないが)  実際、僕自身、前作同様にゴジラの巨躯に感動し、キングギドラが醸し出す絶望感に更に感動し、あの“新兵器”の登場や、“小美人”オマージュなど、一つ一つの要素に興奮した。そして、伊福部テーマ全開の劇伴には、高揚感と共に感謝が溢れた。  詰まるところ、僕はこの映画が大好きなのだ。だからこそ、“嫌い”な部分が我慢ならないのだと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2019-06-01 23:30:00)(良:2票)
150.  シャザム!
「何かラスボス的なこと言ってる?」 子どもをスーパーヒーローにしちゃあいかん。楽しすぎる。
[映画館(字幕)] 7点(2019-05-10 23:23:46)
151.  クリミナル 2人の記憶を持つ男 《ネタバレ》 
まず断言したいのだが、この映画は、かつてのハリウッドの大スター俳優が惰性で出演している安易なアクション映画では決してない。 主演のケビン・コスナーは、60歳を超えてなお新境地を切り開くべく、精力的な役づくりに挑み、不幸な幼少時代に脳障害を受けた凶悪死刑囚を熱演している。  その主人公の凶悪犯に、死亡したCIAエージェントの記憶を埋め込み、世界の危機を救うミッションに挑むというプロットは、字面だけをみれば馬鹿馬鹿しく思えるが、そこから生まれたドラマ性はなかなかどうして見応えがあった。  断片的な記憶を辿りながら絶体絶命のミッションを繰り広げていくというような「ボーン・アイデンティティ」的なスパイアクションの二番煎じなのだろうと想定していた。 しかし、そうではなくこの映画は、ある種「障がい者」でもある凶悪犯が、強制的な脳手術により図らずも“人間らしさ”を得て、自分が置かれた立場との狭間で苦悩する人間ドラマを主軸に据えていた。そのストーリー展開は、非常に悲しく、新鮮でもあった。  また、その物語の構図は、ダニエル・キイスのSF小説「アルジャーノンに花束を」を彷彿とさせ、深い感慨を孕んでいたと思う。  と、想定よりもずっと面白い映画であったことは間違いないのだが、ラストの顛末があまりにモ惜しい。 主人公は、世界を陥れようとするテロリストに見事に打ち勝ち、世界を危機から救う。そこまではエンターテイメントとして爽快でとても良い。 ただ、その後、埋めつけられたCIAエージェントの記憶と人格が定着し、遺族である家族たちと懇意になるという“ハッピーエンド”は、いささか安直で都合が良すぎると感じてしまった。 更には、非人道的に彼を利用するだけして使い捨てるつもりだったに違いないゲーリー・オールドマン扮するCIA支局長(無能)も「スカウトしよう」とか言い出す始末……。  せっかく「アルジャーノンに花束を」のような感慨深いドラマ性を孕んでいるのだから、最後の最後まで、あの物語性を踏襲してくれたなら、相当に感慨深い余韻を残す傑作に仕上がっていたに違いない。 束の間の“人間らしさ”が夢だったかのように霧散し、再び監獄に戻っていくケビン・コスナーの後姿を妄想しただけで、涙が出てくるのに。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-05-04 23:50:54)
152.  ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル
ロビン・ウィリアムズが存命ならば、たとえカメオ出演だったとしても、小気味良い存在感を放ってくれただろうなと、今は亡き名優を偲ばずにはいられなかった。 1995年の「ジュマンジ」は、劇場鑑賞以来、幾度も観返しているが、毎回色褪せぬエンターテイメントを与えてくれる傑作だ。 児童向けの絵本を原作としたファミリームービーには違いないが、映し出される魅力的なファンタジーとアドベンチャー、それらと共存するダークでビターなテイストが何とも味わい深く、忘れ難い余韻を生んでいる。  実世界と同じく、20余年後を舞台にしたこの続編も、今の時代に相応しい娯楽性を生み出しているとは思う。 恐ろしいゲーム世界を通じて、自分自身を見つめなおし成長していくという根底のテーマ性は前作から継承されているもので、それに加えて、時代を越えて顕著になった個人の多様性やそれを相互に理解しあうという追加要素はとても現代的だと思った。 そういうテーマ的な観点としては、現代社会に即した意義を持った良いリメイクだったと思うし、ドウェイン・ジョンソンやジャック・ブラックをキャスティングし、質の高いアクション・コメディに振り切った作品の方向性は全く間違っていないと思う。  ただし、オリジナル映画の大ファンとしては、大いに物足りなさを感じてしまったことも否定できない。 “ジュマンジ”の世界と現実世界を繋ぐ「媒体」が、ボードゲームからビデオゲームになったとはいえ、その中身は同じハズ。であれば、もう少し前作に登場したイベントやキャラクターを踏襲したゲーム世界を映し出して欲しかった。 かろうじて“サイの暴走”は出てきたけれど、巨大蚊や不良猿、人喰い植物、底なし沼など、娯楽性に溢れたあの漫画的な数々のイベントを、ロック様をはじめとする新しい登場人物たちが、ゲーム世界の中で目の当たりにする様を見てみたかったと思う。 そういう意味では、この続編で描き出されたゲーム世界はあまりに凡庸で、ゲームとしては“クソゲー”のレッテルを貼られても致し方ないだろう。  繰り返しになるが、ロビン・ウィリアムズが生きていれば、悪党ハンター・ヴァン・ペルト役で特別出演が実現したかもなあと、叶わぬ空想は膨らみ続ける。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2019-05-04 20:08:10)
153.  トレイン・ミッション 《ネタバレ》 
この監督×主演俳優コンビの映画を観るのもこれで3作目。実際は通算4回目のタッグであり、余程この両名は気が合うのだろうと思う。 そして、毎度のことながら、このタッグによる映画、掴みは良い。 過去、「アンノウン」「フライト・ゲーム」と観てきたが、導入部分、特に冒頭シーンのシークエンスは両作とも白眉だった。主演リーアム・ニーソンの持ち前の物憂げな表情と、不穏を煽るビジュアルセンスが相まって、一気に引き込まれる。 今作では、老サラリーマンの日々の出勤前のシーンが幾年分も折り重なるように映し出され、このオープニングの数分間の描写で、主人公の男が積み重ねてきた「日常」の価値と、それと表裏一体の鬱積めいたものが伝わってくる。  ああ、何か良質なサスペンスが観られるかもしれない。と、期待は最高潮となる。 が、そんな期待感は、ストーリー展開と共に、アクション性が暴走し、事の真相が詳らかになると共に、徐々に確実に「脱線」していく……。  さすがに4度も共に仕事をするだけあって、この監督と主演俳優の相性自体は決して悪くはない。 ジャウマ・コレット=セラ監督のビジュアルセンスは長けているし、どんなにアクション俳優化したとしてもリーアム・ニーソンが名優であることは揺るがない。両者が表現者として持つ繊細な波長はよく合っていると思える。  となると、致命的なのはやはり脚本のまずさだろう。過去作も含めて、ストーリー展開がチープでお粗末だ。 同じようなジャンル映画であっても、もう少しだけ気の利いた脚本が備わっていれば、正真正銘に「面白い」映画になり得ると思う。現状でも充分に「観れる」娯楽映画ではあるだけに、勿体無い。  阿呆な陰謀チームの肩を持つわけじゃないけれど、最終的にそこまで無茶苦茶するんなら、ごちゃごちゃと面倒でリスキーなことをせずに、最初から“脱線プラン”でいけよという話だ。 まあその場合、主演俳優はリーアム・ニーソンではなく、スティーヴン・セガールになってしまうがね。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2019-05-04 17:25:54)(良:1票)
154.  ジオストーム
予告編からひしひしと伝わってくる愛すべき“B級感”から、「劇場鑑賞すべき」という嗅覚は利いていたのだけれど、結局見逃してしまったことを只々後悔。  90年代からの災害パニックムービー(ディザスター映画)ファンとして断言できるが、これは良い災害パニックムービーだ。 作り手は、この手のジャンル映画の何たるかをよく分かっている。と、思えば、監督はディーン・デヴリンか。 90年代にローランド・エメリッヒ監督とのコンビで、「インデペンデンス・デイ」「GODZILLA」を生み出したこの映画人であれば、今作の良い意味で馬鹿馬鹿しくて大仰な災害パニックの構築は激しく納得できる。  また、エド・ハリス、アンディ・ガルシアら90年代に活躍したスター俳優のキャスティングもツボを心得ている。 そして主演のジェラルド・バトラーが異常気象並みの熱波を発しつつ、剛健な主人公像を体現している。  ムンバイでの大寒波に始まり、地震、火山噴火、巨大竜巻、巨大雹害、雷災害、巨大津波、と世界中のあらゆる都市で、通常は気候的に起こりえない大災害のオンパレード。それはまさに、“天変地異”のオールスター映画である。 その一つ一つの災害シーンを決して手を緩めることなく、とことん大袈裟に、とことん絶望的に映し出してくれる。 その様を見ているだけで災害映画として満足するしかなく、更にはそこにアメリカ政府の陰謀論と、宇宙空間からの絶体絶命のサバイバル劇まで、ストーリーの具材を盛りに盛ってくる。  いやあ、これは頭を空っぽにして、映画館の大スクリーンで鑑賞すべきだったとつくづく思う。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2019-05-04 17:25:01)
155.  ランペイジ 巨獣大乱闘
「rampage」の意味は「大暴れ」。なんと端的で潔いタイトルだろうか。  ひねりも変化も無いドストレートなタイトルそのままに、巨大化した動物たちが、“主演俳優”と共に、大暴れする。 まさに“B級モンスター映画”の最前線。この系譜の最新作において、ドウェイン・ジョンソンの主人公へのキャスティングとそのハマりぶりは、豪華で、あまりに相応しい。 超高層ビル郡を所狭しと暴れまわる猛獣たちの間に割って入り、果敢に立ち向かう動物博士(&元特殊部隊員)なんて役どころを大真面目(?)に演じられるのは、今やロック様をおいて他にないだろう。  昔からビデオスルー(DVDスルー)される“Z級映画”のパッケージには、絶対に本編には映し出されることはない仰々しいイラストビジュアルがプリントされているものだが、今作はそれを地でいく馬鹿な大仰さが、モンスター映画ファンとしては嬉しい。  ただどうせならもっと馬鹿馬鹿しさ全開で、多数の巨大化猛獣たちの大乱闘を見たかったとは思う。 「巨獣大乱闘」という日本語サブタイトルに対して、登場する巨獣が計3頭なのは少々物足りない。  結局、味方の白ゴリラは巨獣のまま強引なハッピーエンドを迎えているので、是非ロック様とのバディを継続した続編を、ライオン、カバ、サイ、ヘビ、ワシ……の動物園猛獣オールスターでお送りして欲しい。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2019-05-03 23:07:00)
156.  アベンジャーズ/エンドゲーム 《ネタバレ》 
トニー・スタークがアイアンマンになって10余年。僕たちは、彼が幾つもの眠れぬ夜を過ごしてきたことを知っている。 そのトニーの姿を一番近くで見続けていたのは、他の誰でもなくペッパー・ポッツだったということ。 だからこそ、ポッツは、遂に“闘い終えた”トニー・スタークに対して、努めて穏やかに「眠って」と言葉を送ったのだ。  もうね、涙が止まらなかった。高揚感、喪失感、そして多幸感と感謝、涙の理由は多層的に渦巻き、正直なところ初回鑑賞時には感情の整理がつかなかった。 そして、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)が、「アイアンマン」からこの「エンドゲーム」に至るまで描き連ねてきたものは、“ヒーロー”という宿命を背負った者たちの自らの「運命」に対する抗いと享受の物語だったということを痛感した。 MCUのヒーローたちは、自らの運命を憂い、おびただしい傷を負いながら、藻掻き苦しむ。 時に混乱し、対立し、選択を見誤ることもあるけれど、決して彼らは諦めない。再び立ち上がり、強大な敵=運命に“Avenge(復讐)”する。 その姿に、僕たちは憧れ続ける。それは必ずしもスーパーヴィランに打ち勝つスーパーヒーローだからではない。 彼らは皆、ヒーローであると同時に一人の人間だ。その一人の人間としての弱さや脆さすらもひっくるめた強さに憧れるのだ。  この一つの「時代」を築き上げたヒーロー映画シリーズの最終局面である本作には、“市井の人々”は殆ど映し出されない。 必然的に、ヒーローたちが市民の危機を救うシーンは皆無だ。巷ではそのことに対して批判的な論評もあるようだが、僕は異を唱えたい。 本作に限っては、アベンジャーズが僕たち一般人を救い出すシーンなど必要ないと思う。 なぜなら、「彼らは、僕ら」だからだ。  スーパーヒーローの一人ひとりが、時に弱く脆い一人の人間であることと同時に、我々一人ひとりの人間が、時に強く勇敢なスーパーヒーローにもなり得るし、そうでなければならない。ということを、このエンドゲーム の“大合戦”はありありと映し出していた。 遂にスーツを纏い、夫と背中合わせで戦うペッパー・ポッツは勿論、テレパスのマンティスやシュリ(プラックパンサーの妹)など、非戦闘員のキャラクターたちが、名だたるヒーローたちの先陣を切るようにしてサノス軍に立ち向かっている。 クライマックスにおいて画面いっぱいに映し出されたこの異様な迫力に溢れた「構図」が表す意味は明らかだ。 もはやこの局面において、スーパーヒーローかそうでないかなど関係ない。強大な悪と理不尽な暴力によって大切なものを奪われた全ての者たちが、「正義」の名の下に復讐に挑む。 それは、溜めに溜めたキャップの「Avengers Assemble」の一声と共に、ヒーローたちのみならず我々人類全員が「アベンジャーズ」となった瞬間だった。 だから、この映画に限っては、ヒーロー映画であっても“救う”シーンは必要なく、全員で“戦う”シーンで占められているのだ。  と、まあ初鑑賞からかれこれ日数が経っても、熱くならずを得ず、また語り尽くせぬ。 10年以上に渡り、この類まれな映画体験を享受できたことを、只々幸福に思う。  70年遅刻のデートを果たしたスティーブ・ロジャースに祝福を。 “不完全燃焼”のソーには、まだ何千年も残っているであろう人生に敬意(と密かな期待)を。 そして、Thank you Tony. Thank you Avengers,3000.
[映画館(字幕)] 10点(2019-04-27 00:09:40)(良:3票)
157.  ブラック・クランズマン
愚かな憎しみと、悲しみ、怒り、その蓄積と連鎖。 もはや、レイシスト(人種差別主義者)を非難して、否定すれば済む問題でもなければ、そんな時代でもないのではないか。 映画の中のブラックジョークが、全く冗談になっていない今現在の現実社会を想起して、言葉が無かった。  こういう映画を観て、“分かったつもり”になること程愚かなことはない。 スパイク・リー監督による映画的なバランスを度外視したメッセージ性は強烈に突き刺さる。が、だからと言ってそれを一方的に丸呑みすることも違うだろうと思う。 「アメリカの闇」なんて便利な言い回しで片付けるのも違うし、「闇」と言うならば、これは世界中全ての国と人間が共通して孕む暗部であろう。 対岸の火事と客観視できるわけもなく、まずは突きつけられたこの現実を直視するしかないと思う。まさにアメリカの国民に限らず、全世界に対して「目を覚ませ!」ということなのだろう。  映画内では、白人のレイシストたちがおぞましく、滑稽に、糾弾すべき対象として描かれているけれど、同時に彼らの悲哀も炙り出されている。 教養もなく、富もなく、ステイタスもない“団体”の面々は、せめて自らの存在価値を繋ぎ止めるために、必死になって創り上げた差別意識と被害妄想の中でしか生きる意義を見出だせない。 なんて悲しいのだろう。 差別される黒人の悲しみを越えて、差別をする白人の悲しみが描き出されているように見える。そんな愚の骨頂を目の当たりにして、結局、どちらが本当の意味で“可哀想”なのか分からなくなった。  主人公を含む刑事たちは「KKK」への潜入捜査を“一応”成功させる。 しかし、痛快なラストの顛末も束の間、主人公は「闇」の果てしなさを垣間見せられる。 結局、何も解決していないし、長い年月の中で闇雲に広がった憎しみは、虚無的に増殖し続けている。   映画の最後には、現実社会の悲痛な実映像が映し出される。 この実映像挿入の是非については議論の余地がある。個人的にも、こういう形で最後に実映像を加えてくる作品は、映画表現としてアンフェアなような気がしてあまり好きではない。 ただし、本編撮影終了後に実社会で起こったあの事件の実映像を、映画的なバランスを崩してでも挿入した、いや挿入せざるを得なかったスパイク・リーの意図もよく分かる。 それは即ち、この映画が、70年代のノンフィクションを題材にした実録映画ではなく、「現在」の映画であることの“宣言”なのだろう。 映画史における将来的な評価よりも、今この瞬間に対する問題提起と怒りを示すことの重要性と必要性を、スパイク・リー監督は最優先にしたかったのだと思う。  差別意識の問題は、アメリカ社会に限らず、全世界の現代社会における最重要課題だ。 それは社会に蔓延しているよりも、私達人間の一人ひとりの内面に蔓延る病原菌のようなものだと感じる。 根本の解決策などその存在の有無すら懐疑的だけれど、これまでとは違うアプローチが必要なのは明らかだ。  そういう意味で、この確固たる「娯楽映画」が、エンターテイメントの中で表現してみせたことは、この先の時代に向けて意義深い。
[映画館(字幕)] 8点(2019-04-18 09:45:24)
158.  キャプテン・マーベル
“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”は、最終章「エンドゲーム」公開を直前に控えたこのタイミングで、唯一欠けていた“ピース”を埋めてきたのだと思った。 多種多様なスーパーヒーロー達を描き連ね、「正義」という概念に対する様々な価値観と、それに伴う結束と決裂と崩壊を、MCUは大エンターテイメントの中で映し出してきた。 そんな中において、唯一にして明確に欠けていた要素があった。それは映画企画としては後発の“DC”では先に表されていたものでもある。  それは即ち、「時代」に即した、圧倒的に強く魅力的な女性ヒーローの存在だ。 無論、これまでのMCUの作品群の中でも、強くて魅力的な女性キャラクターは数多く登場する。 ブラック・ウィドウ、スカーレット・ウィッチをはじめとするアベンジャーズメンバーは勿論、ペギー・カーターやマリア・ヒルなどS.H.I.E.L.Dという組織を支えてきた面々、ガモーラやワスプなど主人公キャラをも凌駕する強さを発揮するキャラクターも幾人も登場している。 だがしかし、彼女たちはすべてスーパーヒーローやリーダーをサポートする役割であり、物語の“主人公”にはなり得ていなかった。 新たな時代の価値観を踏まえて、それぞれの作品のストーリーを紡いできたMCUであるが、その女性キャラクターの偏った立ち位置においてはあまりに前時代的だったと言わざるを得ない。  そんなシリーズの文脈の中でついに登場した女性ヒーローが、今作のキャロル・ダンヴァース=“キャプテン・マーベル”なのだと思う。 それはまさに、ライバルDCエクステンデッド・ユニバースが、起死回生の傑作となった「ワンダーウーマン」で成し得たことそのものであり、作中の類似性も含めて「ワンダーウーマン」が無ければ、今作は誕生しなかったのではないかとすら思える。  ただ単に強い女性ヒーローを誕生させただけであれば、それこそ「ワンダーウーマン」の真似事に過ぎないところだが、そこは流石のMCU、しっかりと大河の本流に組み込ませつつ、想定を大いに超える圧倒的な無双ぶりを展開させ、問答無用の高揚感を与えてくれる。 若きニック・フューリー(aka サミュエル・L・ジャクソン)を“相方”とすることで必然的に生じる軽妙な台詞回しとユーモアも全編通して気が利いており巧い。   「感情的」で何が悪い? 怒り、悲しみ、泣き、笑い、「女」は何度だって立ち上がる。 その神々しいまでの勇ましさは、「インフィニティ・ウォー」によるあまりに大きな絶望感に対してようやく生まれた一筋の光だ。 とにもかくにも、ニック・フューリーが最後の最後まで隠し持った“切り札”はとんでもなかった。
[映画館(字幕)] 8点(2019-03-23 13:18:42)(良:1票)
159.  スパイダーマン:スパイダーバース
アメコミ映画最盛期の現在において、「スパイダーマン」こそがそのムーブメントの発端だったと思う。 2002年のサム・ライミ監督による「スパイダーマン」の成功を皮切りに、数多のコミックのスーパーヒーローたちが実写化され、それぞれの物語が映画文化の中で綴られてきた。 「スパイダーマン」自体は、この十数年に渡るムーブメントの中で、実に三度リブートされ、いずれも絶妙に異なったキャラクター造形と共に、それぞれが「親愛なる隣人」の魅力的な活躍を描き出してきた。  つまるところ、我々はこの十数年間の中で、知らず知らずのうちに“スパイダーマンたち”が織りなす多元世界を「体験」していたと言えるのではないか。 トビー・マグワイア演じるピーター・パーカーも、アンドリュー・ガーフィールド演じるピーター・パーカーも、トム・ホランド演じるピーター・パーカーも、みなパラレルワールドの中で同時に存在する“スパイダーマン”なのだという認識が今となってはしっくりくる。  無論、各シリーズの映画企画においてそんな相互意識は存在しないのだけれど、結果的に殆ど間髪入れずに製作された三様の「スパイダーマン」シリーズの根底には、この愛すべきスーパーヒーローがそもそも携えていた“多様性”が存在していたのだと思える。 その“多様性”が具現化したものこそ、並行世界(=パラレルワールド)の“スパイダーマンたち”を描くという“アイデア”だったのだろう。  あらゆる領域と世界観を超えて展開されるストーリーテリングが素晴らしい。 それは即ち現実社会においても並行して存在するコミック文化の融合でもあり、様々なアニメーション手法を縦横無尽に行き来するような自由闊達な表現が脳内を駆け巡る。  “ボーダーレス”の実現を掲げ、それ故の軋轢の拡大が止まらない現代社会において、この映画が「表現」するものの価値は大きく、だからこそ今この映画が生まれた理由もよく分かる。 どんなに孤独で苦しい闘いを強いられていたとしても、「一人ではない」ということに気づくだけで、大きな勇気を得られる。そして、声援を送ってくれる「隣人」は必ず存在する。 このクールでセンセーショナルに見えるアニメーション映画が伝えるものは、あまりにも普遍的で熱い真っ直ぐなメッセージだった。
[映画館(吹替)] 8点(2019-03-21 18:31:54)(良:1票)
160.  アントマン&ワスプ
前作「アントマン」は、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」と「シビル・ウォー」の狭間で公開され、両作の色々な意味で“重い”作風に対して、一服の清涼剤となるような良い意味でライトで痛快無比な最高のヒーロー映画だった。 続編となる今作もその立ち位置は変わっていない。あの「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」の重苦しい“悲劇”の直後のMCU作品として、“清涼剤”としての役割は前作以上に大きかったことだろう。  キャストとスタッフが概ね続投されていることもあり、映画のクオリティやテイストに大きな変化はなく、前作同様ヒーロー映画として十二分に楽しい作品に仕上がっていると思う。  ただし、前作ほどのフレッシュさは流石に薄れている。 美しく強い“ワスプ”は魅力的で、表題に割って入ってくるのも納得だけれど、アントマンとのパートナーとしての関係性自体は、前作時点で既に築かれていたものなので、安心感はあるものの特段目新しさは無かった。 アントマンの“巨大化”のくだりも、「シビル・ウォー」で“ネタ見せ”してしまっているのでインパクトに欠けていた。 ストーリーの肝である量子世界への突入についても、既に前作で帰還に成功しているわけだから、新たな緊迫感を生むには至っていないと思う。  それでも前作同様の娯楽性を担保できているのは、やはり登場するキャラクターとそれを演じるキャスト陣が魅力的だからだろう。 アントマンことスコット・ラングを演じるポール・ラッドをはじめ、ワスプ役のエヴァンジェリン・リリー、ハンク・ピム博士役のマイケル・ダグラス、そしてなんと言っても悪友ルイス役のマイケル・ペーニャらのパフォーマンスが安定している。そんなレギュラーメンバーたちの掛け合いを見ているだけで楽しい。 またスコットの娘ちゃんは健気で可愛いし、普通の映画だったら憎まれ役になりがちの娘の“継父”すらも端役ながら最高なキャラクター性を見せてくており、ほっこりさせてくれる。  というわけで結果的には、前回と同じく“清涼剤”の役割をしっかりと果たしてくれていることは間違いない。 が、「覚悟」はしていたけれど、MCUにおいて痛快無比なこの作品においても、あの無慈悲な“チリ”を舞わせるとは……何とも容赦ない。 でもね、アベンジャーズの超人オールスター勢の中で、スパイダーマンでも、ブラックパンサーでも、ドクター・ストレンジでもなく、スコット・ラングという「小物」が生残されたことは、きっと“大きな”意味を持つと期待せずにはいられないよね。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-03-21 18:27:49)(良:2票)
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