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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  哀れなるものたち
嗚呼、とんでもない映画だった。  ひと月ほど前に、映画館内に貼られた特大ポスターを目にした瞬間から「予感」はあった。 何か得体のしれないものが見られそうな予感。何か特別な映画体験が生まれそうな予感。 大写しにされた主演女優の、怒りとも、悲しみとも、憂いとも、感情が掴みきれないその眼差しが、そういう予感を生んでいた。  チラホラとアカデミー賞関連のノミネート情報は見聞きしつつも、本作の作品世界についてはほとんど情報を入れずに、公開日翌日の鑑賞に至った。 朝から原因不明の頭痛が続いていて、その日の鑑賞をぎりぎりまで逡巡したけれど、体調が万全でないことで、逆に映画世界に没入できるとも思い、赴いた。  正直、もっと楽観的にファンタジックな映画世界を想像していたものだから、モノクロームで映し出された序盤の展開から面食らってしまった。 ゴシックホラーを彷彿とさせる怪奇とグロテスクは、想定していた“ライン”を嘲笑うかのように超えていき、油断をすると一気に置いてけぼりを食らうところだった。  今思えば、この序盤のモノクローム展開の中で、惜しげもなくトップレスを披露する主演女優エマ・ストーンに対して、「さすがアカデミー賞女優、体を張っているな」などと上から目線の称賛を送っていた自分は、あまりも幼稚で愚かだったと思う……。  死んだ母親の体に脳を埋め込まれて「生」を得た主人公ベラは、狭く、色の無い世界を抜け出して、人生という冒険に踏み出す。そして、「性」の目覚めとともに、その世界は過剰なまでの彩色と造形で彩られていく。 世界は綺羅びやかではあるけれど、その本質は決して美しくない。それは、「良識ある社会」のルールやあり方が、まったくもって美しくないからに他ならない。  綺羅びやかに彩られた醜い世界、そしてそこに巣食う“哀れなるものたち”  それはまさしく、呪いたくなるくらいにおぞましくて、哀しいこの現実世界と人間たちの本質だろう。 けれども、何よりも自分自身の“成長”に対して純真無垢で迷いのないベラは、それらすべてを受け入れ、自分の価値観に昇華していく。 タブーとされる行為も発言も、性別や職業、生まれた環境に対するレッテルも、希望も絶望も、薄っぺらな「良識」を盾にして拒否することなく、先ず全身で受け入れ、自分自身の「言葉」を紡いでいく。  主人公ベラのキャラクター造形は、すべてにおいて奇々怪々だけれど、その生き様は極めて“フェア”であり、昨今の耳ざわりの良さだけで乱用されているものとは一線を画す真の意味での“ジェンダーレス”を象徴する存在だった。 怪奇とグロ、ありとあらゆる禁忌が入り交じる本作の混沌とした映画世界が、ベラの達観した眼差しと共に、極めてフラットで高尚な地点へ着地していることが、そのことを雄弁に物語っていると思えた。   すべてを曝け出して、人間の本質をその身一つで体現してみせたエマ・ストーンは、授賞式を前にして二度目のオスカーに相応しいと確信した。 久しぶりに“緑色の超人”以外のキャラクターで卓越した演技を見せたマーク・ラファロも流石。プレイボーイの放蕩者を、その凋落ぶりも含めて見事に演じきっていたと思う。 古き父性の象徴であり、“怪物”の生みの親として、作中もっとも破滅的な人生観を披露するマッド・ドクターを演じたウィレム・デフォーの存在感も素晴らしかった。  時に「4mm」という超超広角レンズで写し取られた映像世界は、非現実的でありながら、この世界のすべてを文字通り広い視野で余すことなく映し出しているようでもあり、類まれな没入感を得られる。 その映画世界のすべてをクリエイトしたヨルゴス・ランティモス監督の圧倒的な世界観には、終始驚愕だった。   ふと“ジャケ買い”したアルバムが、想定外に強烈なパンクで、問答無用に脳味噌をかき混ぜられ、ほじくり返された感じ。(いや、本当に文字通りの映画なのだが) 奇想天外で、際限なくおぞましい映画世界ではあったが、不思議なくらいに拒絶感はなく、愛さずにはいられない。そして、これがこの世界の「理」だと言われてしまえば、確かにそうだと納得せざる得ない。  エンドロールを見送りながら、様々な感情と感覚が入り混じり、とてもじゃないが脳と心の整理がつかなかったけれど、朝から続いていたはずの頭痛は、きれいさっぱり消え去っていた。
[映画館(字幕)] 10点(2024-01-27 23:36:23)
2.  エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
“あなた”を理解したいのにすべてが混沌として理解不能。これは全世界、いや全宇宙すべての母娘と夫婦と家族と隣人、そして「私」自身の物語。   評判に違わず、なかなか“トンデモナイ”映画だった。 文字通りに破茶滅茶であり、映し出される各シーン、各カットの性質はチープで下品でグロくてワケわからんのに、結果的に心が充足し、涙が溢れている。 古今東西のあらゆる映画のオマージュが乱れ打たれる描写に対して“既視感”を覚えつつも、気がつくと、まったく新しい映画世界に放り込まれていた。それは、まさしく“新しい”映画のマジックと言っていい。  自宅兼用のコインランドリーと税務署のみで繰り広げられる極めてミニマムな舞台設定が、無秩序に広がる多元宇宙と、めくるめく精神世界を自由闊達に描き出していた。 近年“マルチバース”というキーワードが市民権を得ているが、藤子・F・不二雄の漫画で育ってきたものとして、この映画が描き出したそれは“パラレルワールド”という言葉のほうがしっくりくる。(F先生の短編漫画の傑作「パラレル同窓会」を読んでいると、本作の世界観と真理がもっと腑に落ちやすいだろう)  ともあれ、漫画よりもマンガ的な本作の表現方法はちょっと常軌を逸していて、決して万人受けする類いの映画ではないことは明らかだ。僕自身、そのフリースタイルぶりに半笑いを通り越して唖然としてしまった瞬間があることも否めない。 ただ、そのあまりに自由な振れ幅こそが、本作が表現するマルチバースもといパラレルワールドの本質だとも思える。  何もかもがうまくいかないストレスフルな生活を送る世界線もあれば、ふとしたきっかけでカンフー映画の世界的スターになるきらびやかな世界線もあり、一方では指がソーセージの世界で同性愛に思い悩むことも、子供が作った拙いボロ人形で終わる人生も、はたまた生物が存在しない世界の“石ころ”として日々を送る世界線もあり得るということ。 そして、その無限に分岐した世界線は、すべて繋がっていて、今この瞬間も、均衡(バランス)を保ち続けているということ。  「私」が今この人生を歩んでいるからこそ、同時に成されていないすべての可能性が存在し、そのすべては平行して流れ続けている。 ラストで主人公は、互いの気持ちをぶつけ腹を割った娘と別の道を歩むことを「選択」しかける。きっとその瞬間、それをそのまま選択した宇宙(バース)も生まれたのだろう。でも、この映画で映し出されている主人公はその選択を回避して、恥ずかしがる娘を抱きしめる。 それが「正解」ということではないし、その先が必ずしも「幸福」という話でもない。 ただそういう無数の選択の連続の上に、私たちのこの世界線は存在しているということ。そしてそれは唯一無二であるということ。  僕自身は、今年42歳になる。当然満足できることばかりではなく、年齢に応じた不安やストレスは尽きることはないけれど、相対的に見れば充分に“マシ”な世界線を生きているのだろうと思う。 決して裕福ではないけれど、家族がいて、好きな映画を見て、写真を撮って、お酒を飲む。そういうことをわりと自由にできるこの日々は、もはや代え難いとも思える。  ぽっかりと穴が空いたベーグルをそのまま食べるか、チーズを一枚はさむか、ハムをはさむか、ベーグルが見えなくなるくらいに何もかもを盛り込むか、もしくは食べきらずに途中で捨ててしまうか。 実際、それをどう食べるかは人それぞれだし、その人の自由だ。でも、そのベーグルが一つしか無いことが、変わることはない。 ならばやっぱり、たとえお腹いっぱいなることがなかったとしても、せめてやさしい気持ちで美味しく食べたいなと、至極普通のことを思うに至った。   分かっちゃいたけど、容易に語り尽くせるタイプの映画ではない。それこそパラレルワールドの数だけ、この映画に対する僕の感想も存在するのだろう。 1992年の「ポリス・ストーリー3」のミシェル・ヨー、1994年の「トゥルーライズ」のジェイミー・リー・カーティス、自分自身が小学生の頃に何度も見た両作で、主人公の世界的アクションスター以上の印象を残した二人の女優が、30年の年月を経てこのような形で共演(名演)したことにも、個人的に大きな感慨深さを覚えた。
[映画館(字幕)] 10点(2023-03-05 23:26:17)(良:1票)
3.  トップガン マーヴェリック
トム・クルーズがトム・クルーズであることを貫き通したことが、また一つアメージングなエンターテイメントの傑作を生み出したのだと思う。 そう断言してしまっていいくらい、本作にはトム・クルーズという“映画人”の生き様が凝縮されている。 そしてそれは、世界中のすべての映画ファンにとって、幸福で、最高な「映画体験」をもたらしていると思える。   1986年のオリジナルから36年、多くの映画ファンが続編を待ち望んでいたと言うが、実のところ個人的な期待感は極めて小さかった。 なぜなら36年前のあの“戦闘機映画”が、それほど良い映画だとは思っていなかったからだ。 実際に鑑賞したのは、僕自身が20代前半の頃だったと思う。画面に映る主演俳優の若々しさを興味深く追いつつも、作品全体の仕上がりに“浅さ”を感じてしまい、あまり感動を覚えなかった。 アクション映画としても、その時点で公開年が20年近く前の映画に対して興奮し得る要素はあまりなく、割とありふれた青春映画、もしくはスポーツ映画を観ている感覚だったと思う。  したがって、この続編の制作の遅れやコロナ禍による度重なる公開延期の報を聞いても、特に残念に思うことも無かった。他の多くの大作映画と同様に、劇場公開に至らず「配信」になっていたとしても、「ああそうなんだ」と思うに留まっただろう。 そんなふうな認識だった「映画ファン失格」の僕は、まずトム・クルーズに対して謝罪して、感謝の言葉を尽くさなければならない。   本作に限らず、どの映画製作においても、その規模が大きくなればなれるほど「妥協」という言葉は常につき纏う。どんなに高い志や理想があったとしても、完成して、公開されなければ映画というものの存在意義はそもそも生まれない。 その結果、「駄作」になってしまった映画は星の数ほどもある。 しかし本作は、トム・クルーズが、主演俳優として、そして映画プロデューサーとして、「妥協」を考え得る最小限に留め、映画人としてのエゴイズムを貫き通したからこそ、問答無用の「大傑作」として存在意義を得ているのだと思う。  本作の映画としてのあり方やストーリーテリングそのものは、極めてシンプルであり、王道的であり、ベタである。ただだからこそ、その豊潤なエンターテイメント力に圧倒される。 本物の戦闘機の轟音、俳優たちが本当に乗り込んでいるからこそ表現できる重力、そして本当に歳を重ねた主演俳優の円熟味と変わらぬスター性。 正真正銘の「リアル」が、この娯楽映画の真髄であろう。   36年ぶりに紡がれた“マーヴェリック”の物語は、彼自身が若者だった1986年の物語に新たな価値を与え、高めている。そこには映画世界の内外における「継承」が成されていて、そのことがまた多層なドラマティックを生み出している。  それはやはり、世界ナンバーワンの映画スター(映画バカ)がもたらした偉業であり、映画史における“ミラクル”だと思うのだ。
[映画館(字幕)] 10点(2022-06-12 17:06:13)(良:3票)
4.  スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム 《ネタバレ》 
“この”「スパイダーマン」シリーズのタイトルに、3作続けて用いられてきた「Home」というワードの意図。 それは即ち、この物語の主人公の“少年”には、帰るべき“Home”があり、“Home”に守られていたということ。 そして、彼はついに自身の運命に課せられた「力」の大きさと、それに伴う「責任」の大きさを痛感し、受け入れ、一人“Home”を旅立つ。 或る一人の“少年”が、力を得て、偉大なヒーローたちと共に世界を幾度も救った後に、“大人”になる。それが、トム・ホランドが演じた“ピーター・パーカー”の物語であり、“スパイダーマン”だった。  「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」で、アベンジャーズに“ルーキー”として初参戦したスパイダーマンは、まさしくフレッシュで、決裂の重々しい空気感に包まれたヒーローたちの中で確固たる重要な“娯楽性”だった。それを演じるトム・ホランドの若々しいスター性も魅力的だった。  だがその一方で、トム・ホランド版スパイダーマンとしての新シリーズ化に対しては、個人的に“モヤモヤ”した気持ちが拭えなかった。 その理由は明確だ。僕は、2000年代に誕生した“2人のスパイディ”が大好きだったからだ。そしてその各シリーズにおける消化不良な結末(打ち切り)に対して、ずっと“満たされない”ままだったからだ。  特に、マーク・ウェブ監督、アンドリュー・ガーフィールド主演の「アメインジング・スパイダーマン」シリーズは、「2」におけるあまりにも悲痛で衝撃的な顛末も含めて、今なおアメコミ映画史に残る傑作だったと確信している。 がしかし、あの「悲劇」の後に製作される予定だった完結編が日の目を見なかったことは、それこそが「悲劇」だったと思う。   ただそれでも、MCUにおけるトム・ホランド版スパイディは、その立ち位置の価値と魅力を放ち続け、ジョン・ワッツ監督による単独のシリーズ作も快作続きだった。 アンドリュー・ガーフィールド版、そして現在のアメコミヒーロー映画ブームの礎ともなったサム・ライミ監督によるトビー・マグワイア版の“2人のスパイディ”に負けず劣らずの愛着を深められていたと思う。  そういうわけで、故・トニー・スタークの後継者としても、トム・ホランド版スパイディの成長を見届けようと本作に臨んだ。 ドクター・ストレンジと共に“マルチバース”の世界観に突入し、“次元”を超えた過去のスパイダーマンシリーズのヴィランたちが大集合するという“事前情報”は、それだけで高揚感が極まった。  そう、それだけで、この映画は「最高」だったのだ。  しかし、それ以上の“スペシャル”が本作には用意されていた。 “2人のスパイディ”がワープゲートをくぐり抜けてやってくる。 まさか、まさか、まさかの「最高」の3乗。映画館のシートで、思わず「やば…!」「すご…!」と連続で呟いてしまい、感嘆が止まらなかった。  トビー・マグワイア、アンドリュー・ガーフィールドの両俳優が、それぞれ現在の姿で、時を経た“ピーター・パーカー”を再演する。 彼らが、自身のスパイダーマンとしての経験と悲しみを踏まえて、かつての自分たちと同様に悲痛と絶望に沈む若きスパイディを導き、救う。 そして、その“スパイダーマンズ”による「共闘」の中で、先輩スパイディたち自身も、それぞれの運命(シリーズ)の中で、我々映画ファンと同様に消化しきれていなかった“思い”に禊をつけていく。  何というドラマティック、そして何という映画的奇跡。 まさに次元と時間を超えた、ストーリーの収束とカタルシスに、涙が止まらなかった。   3本の強靭な蜘蛛の糸が縦横無尽に交錯し、多層的な幾何学模様形成していく。そのさまは、複雑で果てしない“マルチバース”の世界観の深淵を描き始めるに当たって、あまりに相応しい。
[映画館(字幕)] 10点(2022-01-08 00:18:04)
5.  007/ノー・タイム・トゥ・ダイ 《ネタバレ》 
ダニエル・クレイグの、そして“ジェームズ・ボンド”の“青い瞳”が、今作では特に印象的に映し出される。 その瞳は、時に怒りを滲ませ、時に強い決意を表し、そして時に愛する人を慈しんでいた。 “ブルーアイズ”こそが、ダニエル・クレイグが演じたジェームズ・ボンドの象徴であり、アイデンティティだった。  2005年に新ジェームズ・ボンドに、ダニエル・クレイグのキャスティングが発表された際には、金髪で青い瞳という従来の“ボンド像”からかけ離れたその彼の風貌に対して批判が殺到したらしい。 ただ、その固執されたイメージからの乖離、古い時代性からの脱却こそが、この俳優を起用した最も大きな狙いだったのだろう。 クレイグ版007第一作「カジノ・ロワイヤル」から足掛け15年経った今、改めてこのキャスティングは大英断だったと言えると思うし、少なくとも僕にとっては、この無骨で厳しい主演俳優こそが「007」だった。   そのダニエル・クレイグ版007の最新作にして、最終作。パンデミックによる1年半以上の公開延期を経て、ようやく日の目を見た今作は、自分の想定以上に印象的な映画作品として、心に残り続ける作品となった。 初回鑑賞後、あまりにも衝撃的でエモーショナルな今作の顛末を思いながら、しばらく思考をまとめることができなかった。 その間、頭の中では、ビリー・アイリッシュが歌唱する今作の主題歌が繰り返し流れ続けていた。 自分が思っていた以上に、ダニエル・クレイグが演じたジェームズ・ボンドと、彼の「007」シリーズが特別であったことを思い知った。 気持ちの高ぶりが収まらず、居ても立っても居られなくなり、今作の感想を綴る前に、クレイグ版007の過去4作すべてを再鑑賞することにした。  過去4作を見返すと、改めてこのシリーズが、それ以前の過去の「007」シリーズとは一線を画する革新的なアプローチの連続であったことを痛感する。 それは主演俳優のビジュアルなどに留まらない。作品世界そのものに対する是非、ジェームズ・ボンドというキャラクターに対する解釈、そしてそれらが今この現代社会に存在した場合に求められる視点と価値観、そういうことをシリーズ通じて真摯に追求し、挑戦し続けていた。 その象徴であり、顕著な結果が、ダニエル・クレイグという俳優が演じた荒々しく、生々しく、故に極めて“人間らしい”ジェームズ・ボンドだったのだと思う。   今作も含めた5作品において、ジェームズ・ボンドは傷つき続け、悲しみ続けてきた。そしてその「傷跡」は、決して単作で消え去ることは無く、シリーズを通じてしっかりと残り続けてきた。 そのさまは、時に悲壮感に溢れ、重々しいけれど、それは、ジェームズ・ボンドという架空のキャラクターが「人生」を得たことの証明だったと思える。  「人生」を得たからこそ、人間には、必ずその“終わり”が訪れる。 今作のタイトル「NO TIME TO DIE」が表すものは、即ち「今は死ぬ時ではない、けれど、いずれ死に相応しい時が訪れる」ということだったと思う。  シリーズ第2作「慰めの報酬」で、ボンドは敵から『手を触れる相手がみな死んでしまう』と罵られる。 彼はその事実と真理を誰よりも深く噛み締め、苦悩し続けていたのだろう。 自分が存在し続ける限り、トラブルは起き続け、大切な人はみな死んでいく。  かつての敵の台詞が全く直接的な意味合いで伏線となり、ジェームズ・ボンドはあまりにも厳しく悲しい顛末を迎える。 ただ、そこにあったのは必ずしも「悲劇」ではなかったと思う。 苦しみと悲しみの果てにようやく得た本当の「愛」。それを守り通すために、彼は自らの苦悩の螺旋を断ち切る。「死ぬにはいい日だ」と言わんばかりに、これまでで最も穏やかな表情で、その時を迎える。 それはやはり、「悲劇」なんかではなく、闘い続けてきた男に相応しい「解放」の瞬間だった。  過去4作を観終えた後、再びこの最終作を鑑賞し、その悲しみと慈愛にむせび泣いた。 寂しいけれど、今はダニエル・クレイグ版「007」をリアルタイムで映画館で観られた世代であったことを幸福に思う。   “007”は去った。でも、これで彼が消え去ってしまうわけではない。 彼が守り通した世界、そして大切な人たちによって、彼の存在は語り継がれ、残り続ける。 そう彼の名は、「Bond, James Bond」
[映画館(字幕)] 10点(2021-10-03 20:26:34)(良:1票)
6.  ジョーカー
少し日にちを空けて、2度劇場鑑賞した。或る疑心を解消するためだ。 即ちそれは、この映画の主人公が放った“ジョーク”の真意とは何だったのかということ。 何が真実で、何が虚構なのか。そもそも真実と虚構の境界など存在しなかったのか。 初回鑑賞後、姿かたちさえも曖昧なその疑いが、日を追うごとに輪郭のみくっきりと浮かび上がってくるようだった。  そうして2度目の鑑賞を終え、“疑心”はむしろ益々深まり、同時に、「悪意」に対する恍惚も益々深まっていることに気付いた。圧倒的な充足感。映し出されるすべてが、禍々しくて、美しい。いや参った。  DCコミックスが生み出した稀代のヴィランのビギニングを描き出すにあたり、ビジュアル、ストーリーテリング、パフォーマンス、そして映画としてあるべき性質と時代性において、この映画の完成度の高さはもはや「異常」だ。  何をおいても、ホアキン・フェニックスが演じる“ジョーカー”が凄まじい。 ジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレッド・レト、名だたる俳優たちがこのヴィラン役に挑み、それぞれが見事なジョーカー像を形作り、体現してきた。 しかし、その全てが本作のホアキン・フェニックスによるジョーカーのためにあったのではないかと思えるくらい、圧倒的だった。 その笑い方、走り方、表情と骨格、もっと言えば、皺の一つ一つ、筋の一本一本に至るまでに、彼が表現する「異常」と「狂気」が絡みつくように纏われていた。 その様は、異質ではあるが、あまりにも自然に見え、彼が劇中で言う通り、本当に狂っているのが一体どちらなのか分からなくなってくる。  奇しくも現実の世界では、この映画の公開と同時進行で、仮面を被った民衆が不満と怒りを突き上げている。 映画の中のピエロの仮面が嘲笑うかのように、我々観客は、虚実の境目を見失いそうになる。 そして無意識のうちに、現実社会の問題に対する答えを、虚構のヴィランに求めようとする。 しかし、“ジョーカー”は、そんな我々の淡く無責任な願望すらも見越して、ヒャーハハハと笑い、蔑む。 「馬鹿か、お前たちは。そんなこと俺に関係あるものか」と。  荒んだ世界と、傷ついた心が何を生み出すのか。 これは決して“ジョーク”ではない。
[映画館(字幕)] 10点(2019-10-06 18:07:36)(良:1票)
7.  ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
“クソったれ”な俗物だらけのこの街で、強欲と虚栄に塗れた“モノ(即ち映画)”が、時代と価値観を越えて、生み出し続けられている。 数多の作品と俳優が生まれては、ガムの様に噛んで吐き捨てられる。なんて儚くて、なんて愚かしいのだろう。 ただね、それでも、この街と、そこに生きる人間たちと、彼らが生み出す「映画」が大好きなんだから仕方がないじゃないか。 このクソ素晴らしい“ハリウッド”に愛をこめて。 by クエンティン・タランティーノ     と、タランティーノ監督が高らかに言い放ったかどうかは知らないけれど、結論から言うと、この作品は世界一“映画愛”に溢れた映画監督による、“映画愛”に満ち溢れた傑作だと思う。 僕は、クエンティン・タランティーノには遠く及ばないけれど、“映画愛”を自負する者の一人として、この映画を否定できるはずも無く、立て続けに2度映画館に足を運んだ。   タランティーノ映画ならではのバイオレンス描写や、マシンガンのような刺激的な台詞まわしを期待してこの映画を見進めていくと、面食らうことは先ず間違いない。 二度鑑賞し、冷静に振り返ってみても、この映画の大半は「何も起こっていない」と言わざるを得ない。 1969年のハリウッドを舞台に、落ち目のテレビスターと、彼の相棒兼専属スタントマンの平坦で自堕落な日々を、ひたすらに、そして恐ろしいまでの丁寧さで描いていく。   極めて単調な映画のように見えるのに、この映画は最初から最後まで少しも退屈ではなく、161分の上映時間は瞬く間に過ぎ去る。 それは丁寧に描きぬかれた一つ一つのシーン、一つ一つのカットが、あまりに愛おしく、映画として光り輝いているからだ。 そして、テレビスターも、スタントマンも、映画監督の隣人も、その妻も、プロデューサーも、子役も、若手カンフー俳優も、ヒッピーも、善人も、悪人も、この映画に登場するすべての人物が映画を愛してやまないからだ。   単調に見えるストーリーテリングの末、溜まりに溜まった鬱積と暴力性が唐突に弾ける様に、短くもこの上なく激しいクライマックスを経て、本作は終幕する。 あまりにも爽快で、あまりにも破茶滅茶なその顛末が、同時にとても刹那的で感慨深い。   そこにあったのは、誰よりも映画を愛するタランティーノ監督による現実に対する「復讐」と、「やさしい嘘」だった。   テレビスターのリックは酒に溺れて、そのまますべてを失ったかもしれない。 スタントマンのクリフは激情的な暴力のしっぺ返しを受け、命を落としたかもしれない。 そして、隣人のシャロン・テートは、狂ったカルト集団に襲われ身ごもった子もろとも惨殺されたかもしれない……。   現実世界の理不尽な暴力を、映画世界だからこそ許されるさらに激しい暴力で返り討ちにした後、主人公は隣人に招かれ、身重の彼女を優しく抱擁する。 不幸な事件なんてまるでなかったかのうように、クエンティン・タランティーノは、「映画」で「映画」を抱きしめ続ける。
[映画館(字幕)] 10点(2019-09-07 23:28:13)
8.  アベンジャーズ/エンドゲーム 《ネタバレ》 
トニー・スタークがアイアンマンになって10余年。僕たちは、彼が幾つもの眠れぬ夜を過ごしてきたことを知っている。 そのトニーの姿を一番近くで見続けていたのは、他の誰でもなくペッパー・ポッツだったということ。 だからこそ、ポッツは、遂に“闘い終えた”トニー・スタークに対して、努めて穏やかに「眠って」と言葉を送ったのだ。  もうね、涙が止まらなかった。高揚感、喪失感、そして多幸感と感謝、涙の理由は多層的に渦巻き、正直なところ初回鑑賞時には感情の整理がつかなかった。 そして、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)が、「アイアンマン」からこの「エンドゲーム」に至るまで描き連ねてきたものは、“ヒーロー”という宿命を背負った者たちの自らの「運命」に対する抗いと享受の物語だったということを痛感した。 MCUのヒーローたちは、自らの運命を憂い、おびただしい傷を負いながら、藻掻き苦しむ。 時に混乱し、対立し、選択を見誤ることもあるけれど、決して彼らは諦めない。再び立ち上がり、強大な敵=運命に“Avenge(復讐)”する。 その姿に、僕たちは憧れ続ける。それは必ずしもスーパーヴィランに打ち勝つスーパーヒーローだからではない。 彼らは皆、ヒーローであると同時に一人の人間だ。その一人の人間としての弱さや脆さすらもひっくるめた強さに憧れるのだ。  この一つの「時代」を築き上げたヒーロー映画シリーズの最終局面である本作には、“市井の人々”は殆ど映し出されない。 必然的に、ヒーローたちが市民の危機を救うシーンは皆無だ。巷ではそのことに対して批判的な論評もあるようだが、僕は異を唱えたい。 本作に限っては、アベンジャーズが僕たち一般人を救い出すシーンなど必要ないと思う。 なぜなら、「彼らは、僕ら」だからだ。  スーパーヒーローの一人ひとりが、時に弱く脆い一人の人間であることと同時に、我々一人ひとりの人間が、時に強く勇敢なスーパーヒーローにもなり得るし、そうでなければならない。ということを、このエンドゲーム の“大合戦”はありありと映し出していた。 遂にスーツを纏い、夫と背中合わせで戦うペッパー・ポッツは勿論、テレパスのマンティスやシュリ(プラックパンサーの妹)など、非戦闘員のキャラクターたちが、名だたるヒーローたちの先陣を切るようにしてサノス軍に立ち向かっている。 クライマックスにおいて画面いっぱいに映し出されたこの異様な迫力に溢れた「構図」が表す意味は明らかだ。 もはやこの局面において、スーパーヒーローかそうでないかなど関係ない。強大な悪と理不尽な暴力によって大切なものを奪われた全ての者たちが、「正義」の名の下に復讐に挑む。 それは、溜めに溜めたキャップの「Avengers Assemble」の一声と共に、ヒーローたちのみならず我々人類全員が「アベンジャーズ」となった瞬間だった。 だから、この映画に限っては、ヒーロー映画であっても“救う”シーンは必要なく、全員で“戦う”シーンで占められているのだ。  と、まあ初鑑賞からかれこれ日数が経っても、熱くならずを得ず、また語り尽くせぬ。 10年以上に渡り、この類まれな映画体験を享受できたことを、只々幸福に思う。  70年遅刻のデートを果たしたスティーブ・ロジャースに祝福を。 “不完全燃焼”のソーには、まだ何千年も残っているであろう人生に敬意(と密かな期待)を。 そして、Thank you Tony. Thank you Avengers,3000.
[映画館(字幕)] 10点(2019-04-27 00:09:40)(良:3票)
9.  アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー 《ネタバレ》 
改めて辞書で確認してみると、「avenger」の意味は「復讐者」とある。つまり、このエンターテイメント大作のタイトルの意味は「復讐者たち」ということになる。 もはや熱心な映画ファンやアメコミファンでなくとも、「アベンジャーズ」という呼称は聞き馴染みのあるメジャーワードとなっているけれど、よくよく考えてみれば、ヒーローたちが集結した“チーム”の名称として、その意味は少々奇異に思える。 「復讐者たち」ということは、絶大なパワーを備えたチームでありながら、先ず危害を被ることを前提としているように聞こえるからだ。  しかし、その答えは、この“チーム”が結成された経緯を振り返れば明確になる。 各々がスーパーヒーローとしてそれぞれの「正義」を全うしていた中で、想像を超えた巨大な「悪」による恐怖と悲劇に晒される。ヒーロー一人ひとりでは到底太刀打ちできない。だから、結束して「復讐」をする。 絶対的な「巨悪」が先ずあり、それに対峙するために生まれた“チーム”だからこそ、彼らは「復讐者たち」なのだ。  彼らのその姿は、この現実世界の在り方とまさに“合わせ鏡”だ。 普段、この世界では、それぞれの国、それぞれの民族、それぞれの人が、てんでバラバラに己の「正義」を振りかざしている。 何かしらの問題や課題、共通の「敵」が存在したとき、初めて人々は同じ方向を向くことができる。 言い換えれば、何か「実害」が生じなければ、我々は結束することが出来ない。  なんとも歯がゆく、なんとも愚かしい。 ただそれが人間の正直な姿であり、「そうじゃない」と否定したところで何も始まらない。  その人間の、歯がゆく愚かな本質を根幹に据えたヒーロー像こそが、「アベンジャーズ」の正体なのだと思う。 彼らは人智を超越したスーパーヒーローではあるけれど、間違いも起こせば、失敗もする。そしてその都度、甚大な被害を生み、傷つき、苦悩する。  だけれども、彼らは常にそこから立ち上がり、己の間違いを正し、悪を叩き、ついに「復讐」を果たす。 だからこそ、僕たち人間は、彼らの活躍に熱狂するのだ。   満を持しての第三弾。“復讐者たち”は、あたかもそれが彼らの宿命であるかのように、打ちのめされ、紛うことなく過去最大の悲劇を叩きつけられる。 重く悲しい旋律がシアター内を包み込む。鑑賞を共にしたすべての観客が、絶望感と共に押し黙っているようだった。 誰も席を立つはずもなく、エンドロール後に示されるはずの「希望」を心待ちにしていた。 ようやく隻眼の司令官が登場し一寸安堵する。が、まさか、彼に「mother f*cker」すら言わせないとは。 “サノス”は「慈悲」だと言ったけれど、何たる無慈悲か。   でも、僕らは知っている。 チーム結成時の「6人」は、“二分の一の賭け”に勝ち残っているということを。 そして、「アベンジャーズ」と名付けられた彼らの本当の「avenge=復讐」が始まるということを。  最高だぜ。
[映画館(字幕)] 10点(2018-04-27 23:49:03)(良:1票)
10.  レディ・プレイヤー1
「なんて映画だ!」と、感嘆を込めて叫びたくなる。 その感嘆は、この「映画監督」の作品を観て幾度となく感じてきたことだけれど、この島国で映画ファンであることに、これ程まで幸福感を覚えたことはない。 この映画は、史上最強にして今なお現役最強の“オタク”であり続けるスティーヴン・スピルバーグによる、世界中すべてのポップカルチャーファンに向けたプレゼントだと思う。 そして、そのプレゼント性以上に、スピルバーグがいつまでたってもスピルバーグで在り続けてくれていることに、感謝と感動が尽きない。  紡ぎ出されるストーリーは、「王道」のジュブナイルものだ。 文字通り“内に籠った”主人公の少年が、アドベンチャーを繰り広げる中で、自分自身と対峙し、失意と勇気、友情と恋を経て成長していく。 そのストーリーテリングはあまりにも有り触れている。しかし、スティーヴン・スピルバーグこそが、その映画的王道を創り上げてきた唯一無二の存在なのだから、研ぎ澄まされた王道的ストーリーには益々すきがない。  この最新作に投影されているものは、他の誰でもなく、“スティーヴン・スピルバーグ”そのものだ。 驚愕のVR世界を創り上げたゲームクリエイターも、その世界に没頭する主人公の少年も、スピルバーグ自身の“分身”だろう。 更には、敵役として描かれるライバル企業の資本主義者の社長ですら、映画製作者としてのスピルバーグが抱える一側面を投影したキャラクターなのだと思える。  ひいては、世界中のありとあらゆるキャラクターやポップアイコンが溢れかえって、入り乱れる様を描き出したVR世界全体が、スピルバーグの“脳内”のように見えてくる。 「スピルバーグの頭の中を覗いている!」と思えるだけで、何とも贅沢に感じ、多幸感に溢れる。それは、今作の主人公がゲームの創始者の“思考”を巡る冒険の中で感じた感慨と全く同じものだったろう。 主人公は、監督自身の投影であると同時に、観客の思考ともリンクしてくる。その多重構造は、当然ながら誰でもが生み出せるものではなく、あまりにもアメージングだ。   スティーヴン・スピルバーグがスピルバーグで在り続け、最強の映画監督で在り続けている所以は、彼がいつまでも変わらず、“孤独なエゴイスト”であるからだと、今作を観て改めて思った。 彼は、己の人生を通じて抱え続ける「孤独」と、それと反比例するように膨らみ続ける「イマジネーション」を、「映画」という表現の中で解放し続けている。 そのための手段や方法において、この映画監督は決して妥協しない。 表現をするための方法が存在しなければ新たな映画技術を生み出すし、「我」を通すための製作環境が整わないのであれば自分の映画会社を立ち上げる。 彼は、「エゴイスト」で在り続けるための、手法と環境を常に追求し続けてきた。  だからこそ、スピルバーグはいつも「映画」の“一歩その先”を僕たちに観せてくれる。 「未来を描いた映画」は数多あるけれど、「未来の映画」はいつも彼によって創り出されてきた。  上手く言えないけれど、スティーヴン・スピルバーグこそが、僕たちにとっての「未来」なのだ。
[映画館(字幕)] 10点(2018-04-26 00:16:44)(良:1票)
11.  シェイプ・オブ・ウォーター
なんて醜いんだろう。なんて悍ましいんだろう。なんて妖しいんだろう。 そして、なんて美しいんだろう。  ファーストカットからラストカットに至るまで、すべてのシーンにおいて、あらゆる形容が感嘆と共に押し寄せてくる。終始一貫して、ギレルモ・デル・トロ監督の「偏執的」な愛と狂気が渦巻いている。 いわゆる「怪獣映画」を好んで、古今東西の色々な作品を観てきたけれど、あらゆる怪獣映画の魂を引き継ぎ、それでいてそのどれとも異なる類まれな作品と成っていることは間違いない。  その創成期より、怪獣映画にはそれを生み出す「人間」のあらゆる“業苦”と、社会の“歪”が込められてきた。 「怪獣」たちの姿は、苦しみ、怒る我々人間たち自身の権化と象徴だった。 だからこそ、僕たちは、作り物の怪獣が織りなす恐怖や悲哀に、恐れおののき、心を揺さぶられてきたのだと思う。  この醜く、美しい相反する形容が同時に存在する映画が素晴らしいのは、そういった怪獣映画の真髄を真正面から組み込みつつ、時代と社会を超えた映画世界の中で、現代社会の怒りと悲しみを訴えているからだ。  この現実世界に「強者」は存在しない。 大国を動かす権力者も、長者番付のトップに君臨する金持ちも、絶対王者の格闘家も、只一人で完全無欠に生きられる人間など居ない。 この映画の人間描写はそのことを如実に物語る。 声を持たないヒロインも、ゲイの隣人も、黒人掃除婦の友人も、権力者に使い捨てられる敵役も、そして“異形の君”も、この映画に登場する誰もが「弱者」であり、何かに寄り添って、必死に生きようとしている。 “ゆで卵”一個の悦びに生きる価値を見出し、耐え難い苦しみから抜け出す勇気を得るのだ。  彼らのその姿は、とても脆くて儚いけれど、あまりにも愛おしい。 社会が勝手に貼り付け、押し付けたレッテルと価値観を超えて、ただ「存在」し続けることの勇気と愛を堂々と示したこの生命の讃歌を愛さずにはいられない。
[映画館(字幕)] 10点(2018-03-02 23:40:46)(良:1票)
12.  アトミック・ブロンド
ラストシーン、主演女優が甘美な微笑を携え小気味よく最後の台詞を言い放ち、映画は終幕する。 劇場の暗がりの中、エンドロールを迎えた途端に、涙が滲んできた。 純然たるアクション映画における圧倒的な充足感で涙が出てきたのは初めてかもしれない。  このアクション映画を賞賛する要素は多々あれど、先ず特筆すべき要素は次の3点に尽きる。  一にシャーリーズ・セロン!二にシャーリーズ・セロン!!そして、三にシャーリーズ・セロンだ!!!  決して大袈裟ではなく、全シーン、全カットで映える主演女優・シャーリーズ・セロンが抜群に格好良く、あまりに美しい。 「ワンダフル!」「ハラショー!」「ヴンダバー!」「シュペール!」 果たして、最終的にどの言語で、“彼女”を賞賛すべきか惑うが、とにかく「素晴らしい!」  ナイトクラブでのゴージャスなドレスから、全身傷だらけで“ズタボロ”にも関わらず完璧に美しいフルヌードに至るまで、ありとあらゆる「衣装」を纏った女スパイが、冷戦末日のベルリンで暗躍する。 「騙す者を騙すのは愉快」と、血で血を洗う国家間の陰謀の狭間を、強かに、しなやかに、そして艶やかに立ち回っていく主人公・ロレーン・ブロートンに、ただひたすらに陶酔せざるを得ない。  冷戦下を舞台にしたスパイ映画らしく、各人のめくるめく思惑と、折り重なる策略によってストーリーテリングはクライマックスにかけていよいよ混乱してくる。 何がどうなっているのか殆どわけが分からなくなってくるけれど、そんなストーリーに象徴される世界の混沌そのものを、主人公の存在感が圧倒する。  大国間の冷たく重い鬩ぎ合いも、その水面下で繰り広げられる各国諜報機関の騙し合いも、愚かな“ゲーム”によって命を奪い合う男たちも、その総てを見下し、嘲笑するかのような女スパイの冷ややかな視線と佇まいに、ただただひれ伏すのみ。  7分半にも及ぶ1カット構成により、次々と襲いかかる男共を叩きのめし、打ちのめす“ノンストップ”のアクションシーンは確かに物凄い。 このシーンのみで、今作がアクション映画史上におけるエポックメイキングとしての価値を刻みつけたことは間違いない。 けれど、この映画が物凄いのは、そんな圧倒的シーンすら主人公を彩る一要素でしかないということだ。  鍛え抜かれたアクションも、シーンごとにチェンジされる魅力的な衣装も、中毒性の高い80年代ミュージックも、その総てをウォッカロックのように飲み干し、“彼女”が「支配」する。 その「支配」そのものが、今作の全てのシークエンスを通じて“悦び”に変わる。  「女優」という存在に支配されることの愉悦と恍惚。それらこそが、映画という娯楽の根源ではなかろうか。
[映画館(字幕)] 10点(2017-10-30 23:04:45)
13.  メッセージ
人類が、“ただなんとなく”明確な「希望」を見い出せなくなって久しい。 つい昨日も、英国でまたテロ事件が起きた。不安と脅威に怯え、「対話」する勇気を持つことが出来ない愚か者たちによる蛮行が後を絶たない。  時の流れに縛り付けられ、今この瞬間にも訪れるかもしれない得体の知れない恐怖に、全人類は焦り、怯え続けている。このまま希望を見出だせない人類には、進化はなく、必然的に未来も無くなってしまうだろう。  このSF映画は、そんな今この瞬間の人類全体に対しての警鐘と救済を等しく描き出す。  「言語」とは、「思考」の具現化であり、即ち未知なる言語との邂逅と会得は、それまで想像すらもし得なかったまったく新しい思考を繰り広げられるようになるということ。 そしてそれが、人類が長らく縛り付けられていた「時間」という概念を超越する手段になる、という科学的空想。  突然現れた“前後ろ”のない来訪者が、時間の概念が存在しない「円」で表された言語を人類に提示する。 荒唐無稽ではある。 幻想的かつ錯綜的な表現も手伝って、非現実的に美しい映画世界はファンタジーのようにも見える。 だけれども、これは紛れもない“SF”の傑作であると思う。 科学的に説明尽くせることがSFではない。科学的に説明できないことの空想こそがSFであり、その追求こそが「科学」なのだ。  来訪者によって与えられた「武器」=「言語」を、全人類に先駆けて受け取った主人公は、自らの運命とその意味を即座に理解し、受け入れる。 それは、“進化をしていない”人類にとっては、あまりに過酷で、残酷で、受け入れ難い運命かもしれないけれど、彼女を通じて、その進化の意味の一端を理解した我々は、感動的な充足感に呑み込まれる。  ふと、自分自身のことを顧みてみる。 自分の子が生まれて早くも6年の月日が経とうとしている。二人の子に恵まれ、幸福な日々を過ごしていると思う。 ただ、この6年間ずうっと心の片隅で押し黙るように抱え続けてきたことがある。 それは、幸運にもかけがえのない大切な存在を抱えるということは、同時に、それを失ってしまうかもしれないという恐怖を抱えるということでもあるということ。 それは、悲観的だとか、不謹慎だということではなく、必然的な事実であろう。 その恐怖を否定することは、同時に存在する幸福をも否定することであり、決して逃れることはできない。  この映画の主人公が、「言語」を理解したと同時に解したことは、そういう人生における普遍的な真理だ。  大切なものを失ってしまう悲しみよりも、その大切なものに出会えなかったことを想像する方が、何倍も、いや何万倍も悲しい。 SF映画の新たな傑作を目の当たりにして、涙が止まらなかった。
[映画館(字幕)] 10点(2017-05-20 23:01:38)(良:2票)
14.  キングコング: 髑髏島の巨神
「怪獣がいっぱい出てきてたのしい!」  まるで幼稚園児並みの感想だけれど、実際この映画の素晴らしさを表現するにはこの一言で充分だと思う。 なぜならば、この映画の製作陣は、観客にそれ以外の感想を求めていないからだ。 むしろ、観客がどう思うかなんて二の次で、怪獣映画や特撮映画大好きでたまらない自分たち自身が、観たくて仕方がない怪獣映画を“オタク魂”全開で作りきったのだと思える。 「俺が観たいキングコングはこうだッ!!」 と、言わんばかりの振り切れた映画世界が、同じく怪獣映画ファンとして、もう堪らない。  当初この映画に対する自分の反応は正直薄かった。 2005年のピーター・ジャクソン監督によるリメイク版に対する記憶も新しく、“キングコング”という題材自体に、今更な思いが先行したこともその要因の一つだろう。 ピーター・ジャクソン版は決して悪い映画ではなく、あの監督ならではの膨大な映像的物量を楽しめたとは思うが、1933年のオリジナル版に対して良い意味でも悪い意味でも忠実だったことで、どうしても「時代錯誤」な印象が際立ち、現代の娯楽映画として熱く迫るものがなかった。 そもそも1933年のオリジナル版には、「黒人差別」に対するメタファーが含まれているとも言われ、そういう題材をそのままのテーマ性で描き出すというのは、やはり色々な観点から“無理”があったというものだ。  しかし、この新しい「キングコング」には、そういった幾つものリメイク版が孕んでいた時代錯誤感を一蹴する描写で満ち溢れていた。 過去作のように、コングが人間により“鎖”に縛られ屈服する姿などは一切描かれない。 彼は終始一貫して、神々しいほどに強大で、只々雄々しい。 唯一無二の島の巨神であり、絶大な尊敬と恐怖を等しく内包する「畏怖」の対象として尊厳を保ち続ける。 強敵(悪役怪獣)とのラストマッチの最中、絡まった巨大な鎖を引き千切って反撃する様は、まさにその過去作に対するアンチテーゼの象徴だった。  熱い。コングのドラミングに呼応するように血潮が湧き上がってくるようだった。  怪獣を圧倒的な「畏怖」の象徴として描き出すことこそが、「怪獣映画」の本懐だと僕は思う。 そのことを、正しい憧れと遊び心を持ってして追求したこの映画を否定する余地は微塵もない。   鑑賞後、友人が「5歳の息子を連れて観に行っていいか?」と聞いてきた。 僕は「PG12」指定もなんのその即座に“太鼓判”を押した。 どうやら存分に楽しめたようで、とてもとても羨ましい。僕もはやく我が息子と「怪獣映画」を観に行きたいものだ。  エンドロール後のシークエンスにもニヤつきが止まらなかったが、順調にいけば2020年に「あの対決」が実現するらしい。 その時、息子は6歳。叶うことなら今すぐにでも前売り券を買いに行きたい。
[映画館(字幕)] 10点(2017-03-26 22:04:28)(良:1票)
15.  キャロル(2015)
許されない恋に没入していく二人の女性が、強烈に惹かれ合い、惑い、激しく揺れ動く。 惹かれ合うほどに、喪失と決別を繰り返す二人がついに辿り着く真の「恍惚」。 ラスト、大女優の甘美な微笑は、この映画を彩る悦びも哀しみも、美しさも醜さすらも、その総てを呑み込み、支配するようだった。 エンドロールに画面が切り替わった瞬間、思わず「すごい」と、声が漏れた。  1950年代のNYを舞台にしたあまりにも堂々たる恋愛映画だった。 パトリシア・ハイスミスの原作は、1952年に“別名義”で出版され、1990年になって初めて実名義が公にされたらしい。2000年代に入ってようやく映画化の企画が進み始めたことからも、この物語がいかに「時代」に対する苦悩とともに生み出され、翻弄されてきたかが伝わってくる。  そして、紆余曲折を経て今この映画が完成に至ったことに、奇跡的な「運命」を感じずにはいられない。 「時代」そのものが、この映画を受け入れるに相応しい状態にようやく追いついたことは勿論だが、それよりも何よりも、この映画に相応しい「女優」が、この時代に存在したことに奇跡と運命を感じる。 言うまでもなく、“キャロル”を演じたケイト・ブランシェットが物凄いということ。  冒頭に記した通り、この大女優のラストの表情が無ければ、この映画は成立しなかっただろう。 もう一人の主人公“テレーズ”を演じたルーニー・マーラも本当に素晴らしかったが、彼女の存在だけでは今作は「傑作」止まりだっただろう。 ケイト・ブランシェットという現役最強最高の女優が存在したからこそ、この映画は「名作」と呼ぶに相応しい佇まいを得ている。 随分前から名女優ではあったのだけれど、この数年の彼女の女優としての存在感は、文字通り神々しく、他を圧倒している。  マレーネ・ディートリッヒ、キャサリン・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンら往年の大女優の存在感は、どれだけ時が経とうとも色褪せないが、将来その系譜に確実に名を連ねるであろう大女優の現在進行系のフィルモグラフィーをタイムリーに追えることに、改めて幸福感を覚える。   今作では、冒頭と終盤に同じシーンが視点を変えて繰り返される。 男から声をかけられる寸前のキャロルの唇の動き。冒頭シーンでは遠目に映し出されて何を発されているかは分からない。 逃れられない恍惚と共に、その言葉の“正体”に辿り着いたとき、テレーズと同様、総ての観客は、彼女の「虜」になっている。
[DVD(字幕)] 10点(2016-10-10 23:27:07)(良:2票)
16.  ビフォア・ミッドナイト
今年、35歳、結婚7年目、二児の父親。  紛れも無い「18年」という時間の中で、奇跡のように美しい“出会い”と“再会”を経て、ともに人生を歩んできた男女の様を描いた本作を観て、言うまでもなく、身につまされ、“辛辣な時間”を耐え忍んだことは確かだ。 きっと「夫婦」という生き方を経験している殆どすべての男女が、多かれ少なかれ同じような時間を経てきていると思う。 それは、世界中で、日々繰り返されている、あまりにありふれた男女の「現実」だ。  同じ監督が、同じ俳優二人と、物語内と同じ時間経過の中で映し出してきた稀有な映画シリーズの第三作目。 「ウィーンの夜明け」と「パリの夕暮れ」を経て、ついに結ばれた二人の「9年後」。 この奇跡的な三部作を観終えた人の多くは、“時の残酷さ”をひしひしと、いやひりひりと感じることだろう。 それは間違ってはいない。時間はいつだって残酷だ。 主演俳優の顔に刻まれた皺の数と、主演女優の少し垂れた乳房は、そのことをあまりに雄弁に物語っている。  ロマンティックな“夜明け”と“夕暮れ”で結ばれた二人も、時が経ち、子どもが生まれ、世界中のどこにでもいる“普通”の夫婦となった。 そこに映し出されていたのは、見紛うことなき「倦怠期」。 そして、日常の中で密かに孕み、着実に育み続けてきた双方の鬱積が、休暇中のギリシャの地で不意に弾け、二人を失望で埋め尽くしていく。  ああ、あんなにもロマンティックな時間を経てきた二人でも、こういう夫婦像にたどり着いてしまうのか……。  彼らの18年間を追ってきた観客は、彼らと同様に失望に苛まれるかもしれない。 けれど、それと同時に、18年というリアルな時間経てきたからこその「人間味」と、それに伴う人生の「価値」を感じることが出来る。 彼らの大いなる“失望”は、出会って18年、共に人生を歩み始めて9年という「時間」があったからこそ、“辿り着いた”ものだということに気づく。  泥沼の夫婦喧嘩の果てに、彼らはお互いに対して心底失望する。 じゃあ聞くが、9年前に恋が成就しなければ幸せだったのか?そもそも18年前に出会わなければ幸せだったのか?  いや、違う。  はるか昔のときめきも、結ばれ子を授かった多幸感も、セックスの恍惚も物足りなさも、互いに対しての尊敬も失望も、ぜんぶひっくるめて、もはや二人の人生であり、愛の形なのだと思える。 そして、その事実は、たとえもしこの先二人が離別してしまったとて消え去りはしない。  前二作と同様に、本作のラストシーンでも「結論」は映し出されない。 二人の間に生じた問題は何も解決されておらず、溝は最大限に広がったまま、夜は更けていく。 けれど、不思議とそこには“眩さ”を感じることができる。 その眩さの正体が一体何なのか。35歳の僕には明確に説明することができない。 ただ、この二人の18年分を見てきたけれど、この夜更け前の二人が一番好きだ。ということは断言できる。   主演のイーサン・ホークとジュリー・デルピー、そして監督のリチャード・リンクレイターの三者によって織りなされる「会話」が、益々素晴らしい。 前二作と変わらず、他愛なく自然な会話シーンのみによって映画は構成されている。 ただし、リアルな時の重なりとともに、一つ一つのやり取りが、より自然な味わい深さを携えている。 それは時に滑稽で、時に愚かしく、時に恐ろしい。  会話が互いを傷つけ、会話が溝を深めていく。 けれど、遠ざかっていく彼らをつなぎ留めたのもまた会話だった。 これが「台詞」であることが、まったくもって信じられない。   また「9年後」があるのだろうか。 物凄く気になるし、物凄く観たいけれど、いよいよこの先を見ることが怖すぎる気もする。 彼らの心持ちが幸福であれ不幸であれ、そこには“悲しみ”の予感がつきまとうように思う。 それが「時間」というものの宿命だと思うから。 その様を心して観られるように、自分自身が人間として成熟していかなければならないとも思う。   “タイムマシン”でやってきたジェシーが読んだ手紙の通りに、南ペロポネソスの夜が“最高の夜”になるであろうことは、喧嘩とセックスを繰り返す世界中の夫婦が、深く納得するところだろう。 何だかんだで、そういうことが分かるようになる人生は、やっぱり悪くない。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2016-06-26 22:21:44)
17.  スティーブ・ジョブズ(2015)
まだ何もアップルの製品を手にしたことがなかった頃、デジタルオーディオプレーヤーを購入するために家電量販店に赴いた。 連続再生時間など機能面に優れた国内メーカーの商品を購入するつもりだったけれど、ふと目にして手に取ったiPodのデザインに虜になり、衝動買いしてしまった。  あれから十年あまり経ち、iPadで上映時間の確認をし、iPhoneで音楽を聴きながら映画館に向かい、映画を見終えて、MacBookでこのレビューを綴っている。 決して根っからの“アップル信者”というわけではないけれど、それでも「彼」が生み出した製品は、自分の日常生活の中で寄り添っている。 この映画の中で描かれる「彼」の功罪を見て、この人物ほど、誰しもが憎しみ、同時に誰しもが憧れた人物はいなかったのではないかと思える。 世界中の誰よりもエゴイスティックに自分自身を信じ、多くの人を傷つけ、多くのものを失いながら、世界に対して「未来」を示し続けた、愚かで、偉大な人。 スティーブ・ジョブズという人はそういう人物だったのだと思う。   この映画は、スティーブ・ジョブズがかつて生み出した3つの製品の発表会の舞台裏のみで描かれる。 それぞれにおいて重要な発表会の開始を目前にして、彼に関わる5人の人物が入れ代わり立ち代わり現れては、彼と口論を繰り返していく。 それはとてもとても奇妙な作劇で、当然ながら現実にこんなことが繰り広げられいた筈はなく、フィクションが大いに盛り込まれていることは明らかだ。 しかし、そのフィクションを多分に孕んだ描写によって描き出されるスティーブ・ジョブズをはじめとする人物たちの存在感は、非常にリアルで説得力に満ちていた。 全編通して展開される会話劇が本当に見事で、映画の開始数分で既に脚本の素晴らしさが際立っていた。 卓越した脚本を基礎として、超一流の演出と演技が緻密に組み合わされて映画が彩られていた。   劇中、ジョブズの盟友スティーブ・ウォズニアックが言う。 「お前には何ができるんだ?」 エンジニアでもなければデザイナーでもないスティーブ・ジョブズ対する非難めいた台詞だが、勿論それを発したウォズニアックは、「何もできない」からこそジョブズが“天才”であることを他の誰よりも知っている。 “何もできない者”が生み出した「功績」。それこそが、スティーブ・ジョブズという人が、憎しみと憧れを、同時に、一身に受けた最たる要因だろう。  敵を作り続けることを厭わない天才の言動は、理解に苦しむ。 でも、そうでもしないと本当に素晴らしいものは生まれないということを、本当は世界中の誰もが知っている。 真似はできない。けれど、その生き方を貫き通した彼の姿は、やはり眩く、涙が溢れた。
[映画館(字幕)] 10点(2016-03-19 20:07:39)
18.  スター・ウォーズ/フォースの覚醒 《ネタバレ》 
スクリーンに映し出されたすべてのものが、映画として、ただただ“楽しい”。 物語、造形、活劇、キャラクター、映画を彩る様々な要素に対して、喜怒哀楽をも超えた多幸感を覚えた。 日曜深夜のレイトショーを観終えて、0時過ぎに帰宅。多幸感と共に増してくる余韻と高揚を紛らわせるべく、ウイスキーを3杯飲んだが、益々興奮して全然眠れなかった。  厳重な情報統制によって“幕があがる”まで秘密に包まれた最新作であった。 新三部作の公開を心底待望するからこそ、鑑賞の直前まで「期待」以上の「不安」を拭い去れなかった。(まったく落ち着かず、座席に着いたはいいものの上映開始前に4度もトイレに行ってしまった……)  そうして満を持して詳らかになった最新作、目の前で繰り広げられたものは、何の事はない、「スター・ウォーズ」そのものだった。 情報統制に対してヤキモキし続けたファンに対して悪戯な笑みを見せるかのように、奇をてらうことも、捻ることもない、ただしかし、何もかもが“新しいSW”の映画世界が描き出されていたと思う。  何よりも素晴らしかったのは、今作が、オールドファン向けの懐古主義に固執しなかったことだ。 勿論、世界中の旧三部作ファンへの配慮は存分に張り巡らされているが、今作は決してのそういった“サービス”に終始していない。 あくまでも、描き出されたものは、新しい世界の、新しい世代に向けての、新しい「スター・ウォーズ」だったと思う。  ハリソン・フォードをはじめとして、旧作スターたちの、文字通り息を吹き返したような活き活きとした存在感は嬉しい限りだった。 しかし、それ以上に、新しい主人公をはじめとする新世代のキャラクターたちが、悪役や脇役も含めて非常に魅力的だったと思える。 特に、主人公“レイ”を演じた新星デイジー・リドリーの存在性が素晴らしい。 SWの新三部作の主人公抜擢など、その重厚は計り知れないはずだが、この23歳の若い女優は、思わず「奇跡的」という表現を使いたくなるくらいに、見事にSWの主人公として収まっている。 彼女を筆頭として、新しい俳優たちが演じる新しいキャラクターたちが、この後どう成長し、未知なるストーリーを紡いでいくのか、ほんとうに楽しみでならない。  中盤以降、新世代のキャラクターたちの魅力が深まっていく程に、この映画が辿り着く一つの“顛末”を薄々感じ始めていた。 それは、ストーリーテリング上、ある意味必然的な展開であったが、やはり衝撃的で、あまりに悲しく、涙が溢れた。そして、チューイの咆哮が、涙腺を決壊させた。   現実も理屈も遥か彼方に追いやって、「創造」された世界に没入させる。 それこそが、「スター・ウォーズ」という映画世界が、時代を超えて世界中の映画ファンに与え続けた絶対的な価値だったと思う。 その唯一無二のエンターテイメント性は、まさに「伝説」であり、その再構築、もしくは新構築は、そもそもの“創造主”であるジョージ・ルーカスでさえ、困難だった。  しかし、J・J・エイブラムスは、そのあまりに高いハードルの第一段階を、申し分ないほどの完成度で越えてみせた。 またそこには、ディズニーの支配下に入ったことによる付加価値も大いに反映されていると思う。 主人公の現代的なプリンセス性や、性別や人種などによるストーリー設定の偏りの排除は、この数年でディズニー映画が生み出し続けている作品に共通する「理念」だと思う。   あらゆる要素が幸福に絡み合い、「スター・ウォーズ」はついに、創造主ジョージ・ルーカスの“インサイド”からの脱却と再誕を果たした。   ああ、すぐにでももう一度観たい。いや、何度でも観たい。
[映画館(字幕)] 10点(2015-12-21 23:13:27)(笑:2票)
19.  インターステラー
レイトショーの映画館を出て、真冬の凍てつく空気に包み込まれた。ふと夜空を見上げると、澄んだ空気の遥か先に満月と星が光っていた。 広大な宇宙の中で、自分自身がひとりぽつんと存在している感覚を覚え、孤独感と大いなる宇宙意思を同時に感じ高揚感が溢れた。 普段の何気ない景色が一変していたようだった。これこそがSF。これこそが映画だと思えた。  数多の大傑作がそうであるように、今作もとてもじゃないが言葉では表現しきれない。 特にこのSF映画が描き出す世界観の多層性と文字通りの深淵さは、言葉で説明すべきものではないだろう。 「圧巻」とひと言で言ってしまえばそれまでだろうし、それで充分だとも思える。  とても複雑な宇宙理論が繰り広げられる語り口は、一見難解に見える。しかも監督はクリストファー・ノーランである。一筋縄ではいかないことは必至。 しかし、実際に観終えてみれば、この映画は決して難解なのではなく、難解な要素に彩られた普遍的な人間ドラマであったことに気づく。 複雑に入り組んでいるのは、宇宙理論ではなく、むしろ多様な人間の在り方とそれに伴う濃密なドラマ性だった。  “親子愛”をはじめとする人間のドラマを根底に敷き、未知の領域に踏み出した人類は、「人類」そのものの限界とその先を追い求めていく。 中盤、“マン博士”という人物が登場する。その名前の通り、彼こそが今現在の人間の本質を表したキャラクターであろう。 一つの“限界”に辿り着いてしまった人類、進化か滅亡か、このキャラクターはその分岐点の象徴と言える。(このキャラをほぼノンクレジットで演じているスター俳優はエラい) 主人公が、“マン博士”と真正面から対峙し、それを越えようとする様こそが、人類の進化の瀬戸際だったのだと思える。  高度な科学的空想の先に辿り着く人間の真の姿と可能性。僕はそれこそが、人間が生み出した「Science Fiction」の本質であり、醍醐味だろうと思う。 そういうことが満ち溢れんばかりに繰り広げられるこの映画を、愛さないわけがない。  ただし、この映画を語り切るには、まだまだ膨大な時間が必要だ。 それは、これがとても幸福な映画体験であったことの証明だろう。
[映画館(字幕)] 10点(2014-12-07 01:37:45)(良:2票)
20.  ゼロ・グラビティ 《ネタバレ》 
ついに進退窮まった最後の局面において、主人公は「これは誰のせいでもない」と達観する。 それはすべてをやり尽くした上での諦めの境地のようにも見えるが、やはり、彼女がようやく辿り着いた“生きる”ということに対しての強い覚悟の表れだったと思える。  子を亡くし人生に打ちひしがれた主人公は、自分に与えられた仕事にひたすらに没頭し、その結果気がつくと「宇宙空間」に居たのだと思う。 それは彼女にとっては逃避に近い行動だったのだろう。  そこに訪れた文字通りに絶体絶命の危機。  無重力の怖さ、無音の怖さ、無酸素の怖さ、どこまでも広がる「無限」の怖さ、宇宙空間の虚無的なリアリティとそれに伴う絶対的な恐怖を描き抜いたこの映画は、一人の人間の弱さと脆さ、そして「生」に対しての神々しいまでの「執着」を導き出していく。  「宇宙」というものに少しでも興味を持った人ならば誰しも、あの「空間」に放り出されることを想像し、その恐怖に総毛立ったことがあるはず。 この映画の発端は、まさにその誰しもが覚えた恐怖感であり、紡ぎ出されるストーリーも極めてシンプルだと言える。 しかし、シンプルだからこそ、その徹底された無重力世界の描き込みの総てにおいて驚嘆せずにはいられなかった。  登場するキャラクターはほぼ2人きり。しかも映画の大部分は、サンドラ・ブロックによる“孤独感”のみで描かれる。 余計な人物描写や回想なんて完全に排して、今その瞬間の「現実」と、それにさらされた主人公の等身大の姿のみで描き切ったこの91分の映画の潔さが素晴らしい。  「結末」は誰しも容易に想像できる。 それでも、繰り広げられるスペクタクルの一つ一つに例外なく息を呑み、終始主人公と同様に息苦しさすら覚え続けた。 そして無重力下で球体化する彼女の涙を見て、こちらも涙がこぼれた。  果てに、彼女は地上に降り立ち、地球の地面に屈服する。 紛れもない重力に喜びを感じ思わず笑みを浮かべる。 赤土を握りしめ、彼女は再び立ち上がる。 映画全編に渡るあらゆる比喩は、彼女が「再誕」したことを如実に表現している。  凄い。本当に凄い映画だ。
[映画館(字幕)] 10点(2013-12-14 15:16:04)(良:6票)
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