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プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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101.  マリー・アントワネット(2006)
「マリー・アントワネット」というタイトルが示すように、もちろんこの映画はマリー・アントワネットという実在のフランス王妃の半生を描いた作品である。 が、いかにもな史劇的な色合いはこの映画世界にはまったくない。フランス史に明るくない者、マリー・アントワネットという人物自体をよく知らない者にとっては、結局どういう状況でどういう人生を送った人物なのかということが、最終的によく分からない映画かもしれない。歴史的な掘り下げや、人物関係の説明がほとんどないのだから当然だろう。  そもそもソフィア・コッポラという女流監督が描きたかったのは、フランス史の中のマリー・アントワネットではなく、ただその時代に生きたマリー・アントワネットという一人の女性そのものの、文字通り“等身大”の姿だったのだろう。 だからこそ、映画の大半は、豪華で煌びやかで、ある意味滑稽な宮廷社会の中で、時に奔放に、時に繊細に、一日一日の生活を送り、妻となり、母となり、王妃となる一人の女性のそのままの姿を延々と描いたのだと思う。 そこに具体的なドラマ性はほとんどない。なのに、最終的には彼女の生き様が、その哀愁が、心に染み渡ってきた。不思議だ。何気なく描き連ねた人間描写の中に、実に巧みにキャラクターの本質が浮かび上がってくる。  この繊細な人間描写こそ若くして巨匠のDNAを確実に受け継ぐソフィア・コッポラという監督の“チカラ”だと思う。 等身大の“女性”としてのマリー・アントワネットを、人間としてとてもキュートに表現してみせたキルスティン・ダンストも素晴らしかった。  「史劇」を「青春」として描くことを貫き、完成させてみせたとてもユニークで、良い映画だったと思う。 
[映画館(字幕)] 8点(2007-01-29 23:54:16)(笑:1票) (良:1票)
102.  ターミネーター4 《ネタバレ》 
この映画は、「ターミネーター」という映画シリーズのSF性をどういう風に捉えているかによって、その是非は大いに変わってくるのだと思う。 まず理解しなくてはならないことは、この映画シリーズの各作品は必ずしも一連の時間軸上で連なってはいないということだ。  今作はそうしたシリーズのSF性を、根底に据えた上で、過去の名作に依存しないオリジナリティーをもって描き出されていると思う。  コンピューターに「自我」が芽生えたことに端を発した終末戦争のおいて、人類としての「自我」を忘れまいと戦いに臨むジョン・コナーの姿は、過去の作品において「未来からの情報」として語られつつも、決して描かれることのなかった抵抗軍指導者の圧倒的なカリスマ性を見事に表現し切っている。  そして、過去と未来、更に未来と過去を繋ぐためのキャラクターとして登場するマーカス・ライトの存在性は、まさにキーパーソン。その役割は本作のみにおけるものだけでなく、シリーズ全体をある意味において繋ぎ止める重要なキャラクター性を秘めている。  そして、崩壊し乾き切った空気の中で繰り広げられる圧倒的にメカニカルな迫力性は、明らかに独自の世界観を構築している。   シリーズの各作品それぞれで描かれる「未来を変えるための戦い」とその顛末は、結果的に幾つもの”パラレルワールド”を生じさせたのだと思う。  第一作目の「ターミネーター」で、ボディビルダー上がりのアクション俳優が、文字通りの「殺人マシーン」として過去に送られた時点で、未来のパターンは無数に枝分かれした。 美少年のエドワード・ファーロングがジョン・コナーである「T2」も、醜男のニック・スタールがジョン・コナーである「T3」も、それぞれが枝分かれした時間軸での“別世界”だと考えれば、途端に納得しやすくなる。  今作の最大の価値は、そういった一連の時間軸上に存在する様に見えて、実はバラバラの世界観を描いていた映画シリーズを、更に全く違う時間軸と、世界観を描き出した上で、繋ぎ止めてみせたことに他ならない。  密かに期待していたT-800(=?)の絶妙な登場シーンも含め、色々な意味で楽しみがいのある秀逸なエンターテイメントだ。
[映画館(字幕)] 8点(2009-06-17 01:15:15)(良:2票)
103.  殺人の告白
この韓国映画のタイトルとイントロダクションからどうしても想像してしまうのは、名匠ポン・ジュノの「殺人の追憶」。 かの傑作並みのクオリティーをそのまま期待することは無謀だろうが、連続殺人事件の真犯人と追っていくというプロットも類似しており、同様のテイストを期待していた。  雨音から始まるオープニング、期待は更にググッと高まった。 時間軸を超えて現在から過去、そして過去から現在へとオーバーラップさせる演出は、なかなか凝っており、韓国映画の素地の確かさを感じさせる。  ただ、冒頭から繰広げられるアクションシーンがやや演出過剰で、リアルでないことが先ず気になった。 その危惧は映画が展開されるにつれ更に際立ってくる。 挟み込まれるアクションシーンがことごとく無駄に派手なばかりで、その演出があまりに陳腐だった。 特に、カーアクションは明らかに蛇足。「ジャッキー・チェン映画じゃないんだから」と突っ込みたくなるリアリティーラインが破綻した描写の羅列は、明らかに作品のあるべきテイストと乖離していて、途中で観るのをやめたくなるほどだった。  「あー思ったのと全然違う映画だった……」とただ落胆することが出来ればある意味簡単だったのだけれど、そこから盛り返してくるから、逆に始末が悪い。  連続殺人鬼によって人生を狂わされた主人公の刑事、時効成立後「自分が真犯人だ」と告白する美青年、そして連続殺人の遺族たち、複数の思惑が入り乱れサスペンスフルなストーリーが展開していく。 その主軸となるストーリーテリング自体は、キャラクター描写も含めて非常に巧みで、真相に辿り着くクライマックスでは思わず息を呑んだ。  結果的には「面白い映画だ」と言えなくはない。 けれども、やはり陳腐で無駄なアクションシーンの連続が我慢ならない。  ラストで更に挟み込まれるアクションシーンもただただ蛇足。 どうせあのような結末にするならば、真相が判明したテレビ局の場面で終わらせるべきだったと思う。 過剰なアクションシーンの連続は作り手のサービス精神だったのかもしれないけれど、無用なサービスはただ「迷惑」なだけである。  もっとオーソドックスに韓国映画らしい良い意味での重苦しさを貫き通してくれたなら、それこそ「殺人の追憶」並みの傑作になり得たかもしれない。非常に勿体ない。その思いに尽きる。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-09-21 23:42:57)(良:2票)
104.  魔法にかけられて
劇場で予告編を観た時から、これはただのディズニー映画ではないし、ただのパロディー映画でもないなという直感はあった。  「メルヘンなおとぎ話」+「現実のNYでの恋人模様」=「今まで見たことのないラブコメ」という構図が、とても面白く、巧い。  もっと安直なアニメと実写映画のコラボレーションを想像していた。 しかし、物語は、メルヘンの世界から現実世界へ送り込まれたプリンセスの揺れ動く絶妙な心理描写と、理路整然と現実世界で生きるシングルファーザーの心理変化までを、とても丁寧に描き出している。  メルヘン世界に対する現実世界の厳しさや哀しさを描き出しつつ、常にファンタジー性やファニー感を保ち、最後には登場するキャラクターも観客も、すべてを“ハッピー”にさせてしまうストーリー展開に、ディズニー映画の強さとプライドを感じた。   現実世界の人生は、当然おとぎ話ではないから、嬉しい時、悲しい時に歌って踊ってなんていられない。 でも、だからこそ歌って踊ってみれば、人生は大きく変わるかもしれない。  ディズニーが真剣にディズニー映画のパロディーに挑んだ意味と答えは、そういうことなのではないかと思う。
[DVD(字幕)] 8点(2009-03-25 15:42:54)(良:2票)
105.  ルーム 《ネタバレ》 
誘拐、劣悪で非道な監禁下での妊娠、出産、育児。そして解放。 母親にとっては7年、「部屋」で生まれた子にとっては5年、あまりにも理不尽な暴力によって強制的に「世界」と隔てられたこの膨大な時間は、二人から「何」を奪ったのか。そして、その中で、二人は必死に「何」を育み、生き延びたのか。 極めて酷い出来事を描いた映画だったけれど、決してその出来事自体における悲劇性と、解放に伴うカタルシスを安直に描くのではなく、様々な側面からの様々な感情が渦巻き、乱れ、そして収束していく様を描いた良い映画だったと思う。  劇中、監禁下から逃げ出した子を保護した警察の極めて勘の良い迅速な対応の描写にも現れているが、同様の類いの事件は、昨今決して珍しくはなく、衝撃的な報道も実際よく伝えられる。 その度に、あまりに非人道的な事件のあらましと犯人の異常な人間性そのものに怒りと憎しみを感じるが、同時に解放された被害者に対しては「良かった」と無責任な喜びとともに、好奇の目線を送ってしまっていることを否めない。  そういった大衆目線があまりに浅はかであることこそを、この物語は強く訴えかける。 7年もの間、恐怖と恥辱によって「部屋」に押し込まれ支配し続けられた母親にとっても、5年もの間、「世界」を知らずに生まれ育った子にとっても、「解放」そのものは、決して“ハッピーエンド”などではない。 絶え間ない絶望から一歩出られたことは確かだろうが、それは新たな試練の始まりに過ぎず、彼らの苦悩は続く。 それくらい、彼らが失ったものは、あまりに大きい。  今作の素晴らしさは、まさにその大衆が勝手に決めつけた“ハッピーエンド”のその先の「過酷」を描いていることに他ならない。 ありとあらゆるものを奪われて、ふいに「世界」に放り出された母子が受ける悲しみと歓び。 今作で描き出されるその母子の姿が完全に“リアル”かどうかは分からないけれど、彼らが泣き叫び、笑い合う姿は、強烈に心に刻まれる。  悲しみも歓びもすべてひっくるめて、再びベッドの上で向き合う母子が言う。  「良くないママね」 「でもママだよ」  心の奥底まで傷つき、苦しみ抜いた母子が、今一度「部屋」に立ち戻る。 子に促され、母親は、「Bye room.」と囁き、「部屋」を後にする。 それによって完全に“過去=部屋”と決別できたとは思わない。けれど、本当の意味で「部屋」から踏み出た母子のその先の幸福を願わずにはいられない。   「母親」を演じたブリー・ラーソンの演技は凄かった。この若い女優がアカデミー賞を勝ち獲ったのは大いに納得できる。 でも、それよりも、「子」を演じたジェイコブ・トレンブレイの演技が圧倒的だった。当然ながらこの子役の存在が無ければ、この絶妙なバランス感覚が要求される映画は成立しなかっただろう。  ただし、一点腑に落ちない点を挙げるとするならば、あの環境下で生まれ育った“5歳児”としては、“ジャック坊や”はあまりにも利発過ぎると思う。 自分自身、5歳時の子持ちなので、ジャック坊やの天才的な語学力やコミュニケーション能力には、感動すると同時に、少々違和感を覚えてしまった。 いくら母親が全身全霊を込めて「教育」をしたとしても、あの二人きりの異常な生活環境の中では、あれ程までに健やかな発達は難しいのではないかと思えてならない。母親自身、誘拐時点ではハイティーンの少女だったわけで、「教育」と言ったって限界があっただろうし。 実は、ジェイコブくんがジャック坊やを演じた実年齢は“8歳”だったらしいから、それならば、身体的には“8歳”の設定でこの“5歳児”の演技を見せてくれていた方が、映画としての説得力が増したのではないかと思える。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2016-09-25 00:42:37)(良:2票)
106.  空の大怪獣ラドン
本当に、当時の東宝映画のミニチュア技術には頭が下がる。 今作で特筆すべきは、やはり、ラドンの衝撃波によって吹き飛ばされ、舞い上がる建物を表現した“巧さ”であろう。 ただ建物が爆発したり崩壊する映像は多々あるが、瓦の一枚一枚までが文字通り“吹き飛んで”いく様はなかなか見たことがなく、見事の一言に尽きる。 その反面、ラドンの操作ワイヤーが思いっきり見えたりするが、そのへんはご愛嬌というところだろう。 とにもかくにも、改めて、当時の特撮技術の偉大さが伺える。現在の日本映画の特撮に足りないものは何なのか?それはハリウッド等に対して明らかに劣る製作費などではない。技術力の低迷ということでもない。つまるところ欠けているのは、“工夫する”ということだろう。与えられた条件で、どこまで妥協を許さずに表現するか。必要なのは、“工夫”であり“想像力”だ。 そしてそれは、特撮映画に限らず、すべてのジャンルの映画に共通することだ。 そのことを、古き偉大な東宝映画は、今なお力強く示し続けている。
[DVD(字幕)] 7点(2005-07-14 11:24:59)(良:2票)
107.  キャビン
「面白かった」 映画を観た感想を表現する言葉は様々だろうが、もっとも単純で且つもっとも重要なことは、鑑賞直後にこの一言が頭に浮かぶかどうかだろうと思う。 観る者を、“恐怖”に直結した好奇心でまず掴み、数多の映画を観てきた者でさえ想像し難い“驚き”をもって揺さぶり、未体験の“高揚感”で包み込んで、爆発させる。 映画としての「粗」はありまくる。しかし、この映画の新しさは、そのすべてを一蹴し、「見事」の一言に尽きる。  「ホラー映画」の定石。そのお決まりのベタさに、そうでなければならない「理由」があったとしたら? そのアイデアを具現化し、問答無用の娯楽映画として貫き通した時点で、この映画の勝利は確定したと言っていい。  滅茶苦茶な映画ではあるけれど、ちゃんと真剣に滅茶苦茶なので完成度が高い。 この映画はそういう類いの作品で、どれくらい“本気”でこの「設定」を受け入れられるかどうかで、“是非”の判別は大きく揺れ動くことだろう。 “非”と判別する人も多いのかもしれないが、それは非常に不幸な事だと思わざるを得ない。 ストーリーの根底にある一つの「設定」を受け入れ、「そういうことならば仕方がない」と認識すれば、強引に思える数々の描写のすべてがきちんとまかり通るように出来ている。  極めて強引な映画ではあるけれど、強引な設定をしっかりと強引に引っ張り上げることで、ちゃんと整合性を付加していると思う。 例えば、一見するとあまりに非人道的でふざけすぎていると思えるある人間たちの描写も、諸々の設定と彼らが置かれている立場を冷静に鑑みれば、その心情と言動にも整合性が見えてくる。  そういう意味では、この映画は“アイデア一発”のように見えて、非常に練られたシノプスが魅力的な作品であることが分かる。  詰まるところ、要はノレるかノレないか。 そして、大概の場合、映画なんてものはノッたもん勝ち。
[映画館(字幕)] 9点(2013-04-24 16:41:11)(良:2票)
108.  プラン9・フロム・アウター・スペース
なんだろうなあ。とてつもなく面白くないことは明確なのに、なんだか映画自体への愛くるしさ、そして素晴らしさを感じずにはいられない。ティム・バートンの傑作「エド・ウッド」を観ているからという要因は強いのだろうけど、何気ないシーンから監督エド・ウッドの映画への愛情がひしひしと伝わってくる。これほどまでに映画制作時の現場の雰囲気が感じられる映画も珍しい。もちろんそれを感じさせてしまうことが「駄作」たる所以であろうが、長い映画史において、こんな映画、こんな監督がいてもいいと思う。天才と凡人の差は果てしなく大きい。しかし、天才と愚者の差は本当に紙一重で、その区別に対する価値観は常に変化するものだろう。点数は0点だ。でもこれほど価値のある0点は他に無い。
0点(2004-09-13 04:28:36)(良:2票)
109.  グッドナイト&グッドラック
正直、「赤狩り」というアメリカ史上に残る“事件”について明るくないので、いまひとつ詳細を理解しきれなかった部分はあるが、権力による紛れもない“弾圧”に対する力強い“ジャーナリスト魂”に奮える。 「言葉の強さ」なんて言いふらされたことかもしれないが、あらためて、人間にもたらされた最大の武器は、剣でも銃でも爆弾でもなく、“発言の勇気”なんだと思った。 世界に対し自由を謳うアメリカという大国の実情は、闇と愚かさに溢れている。だがそれでも、この国が世界中から愛される理由は、どんなに闇にまみれても、いつの時代もエド・マローのような人間が力強く存在するからだと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2006-05-27 00:37:55)(良:2票)
110.  ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン
数年前、自分自身の結婚式を控えた頃、YouTubeで結婚式のスピーチ関連の動画を検索していて、何処かの誰かの結婚式での花嫁の親友らしい女性のお決まりのテンションのスピーチ動画に、妻共々笑ってしまった。 映画の中で登場する、花嫁の親友同士の“スピーチ合戦”は、そういった結婚式における“女の友情あるある”を彷彿とさせ、笑いが止まらない。  商売には失敗し、恋愛偏差値は下がる一方の“いきおくれ”の主人公が、幼馴染みの親友の花嫁介添人のまとめ役をまかされたことにより、益々精神不安が加速していく。  男性が主人公のこの手の“イタさ”と“下ネタ”オンパレードの極めて“アメリカ的”なコメディ青春映画は多々あるけれど、女性が主人公でここまでぶっ飛んでいる映画はあまりない。 それ故に、男性目線からだと特に、時にえげつくなく、時に際限なく下品ではあったけれど、好事家たちの評判に違わず、サイコーに愉快で、サイコーにキュートな映画だったと思う。  映画として上手いなと思うのは、主人公一人の葛藤だけを描いているわけではないということ。 花嫁の親友たちで構成された5人の花嫁介添人たち(ブライズメイズ)。花嫁自身も含め、立場も生活環境も違う6人の女たちそれぞれが抱える葛藤を、遠慮のないコメディ描写の中でしっかりと描き出し、最終的には6人全員が好きになってくる。 男性として、女性の友情にはどうしても懐疑的な部分があるのだけれど、この映画を観ると、男同士のそれには無いドギツさとコワさを感じる一方で、女同士の友情に初めて羨ましさを覚えた。  とにもかくにも、それぞれがそれぞれに個性的でパワフルな女性が6人も集えば、周辺の男性陣はただただ右往左往するしか無いわけで。観客の男もその一人として、ただ笑い続けるしか無い。  結婚式を控える女性、結婚式を終えた女性、そして特に結婚式の予定なんてない女性、面と向かって勧める勇気はないけれど、そういったすべての女性のための映画だと思う。  この映画は、明らかに相性が悪いのであろう男との爆笑必至のセックスシーンから始まる。 この“笑撃”的なファーストシーンは、主人公が陥っている状況を端的に表すとともに、この映画の“振り切れ具合”を潔く表していた。 それは「この映画、こんなカンジて突っ走るよ?ついてきてね」と観客に対してのある種の宣戦布告だったのかもしれない。
[DVD(字幕)] 8点(2013-03-08 17:17:24)(良:2票)
111.  ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 《ネタバレ》 
ゴジラ映画ファンとして先ず断言したいが、本作が映し出すビジュアルはとんでもなくエキサイティングであり、世界中総てのゴジラ映画ファン、怪獣映画ファンは、必ず映画館で見なければならない。 それが決して言い過ぎではないくらいに、映像的には本当に“どえらいもの”を見せてくれる。それは間違いない。  その妥協の無い映像的クオリティーは、この映画の製作陣が、日本が生んだ“ゴジラ映画”を心から敬愛し、尊敬してくれていることの紛れも無い証明であり、そのことについては、日本のゴジラ映画ファンとして心底嬉しく思う。  と、5年前の前作とほぼ同じ、いやそれ以上の「満足感」を得られたことは否定しない。 しかし、だ。その「満足感」と同時に、決して看過できず、拭い去れない「拒否感」を覚えたことも否めなかった。 前作鑑賞時と同様に、エンドロールを見送りながら、“神妙な面持ち”を崩すことができなかった。  「拒否感」の正体はもはや明確である。“核の取扱い”只々この一点に尽きる。 ストーリーテリングにおける“それ”についての「意識」の違いさえ無ければ、僕は前作も含め、この“ハリウッド版ゴジラ”を大絶賛することを惜しまなかっただろう。 だが、残念ながら、前作に続き本作においても、「核兵器」という人類が生み出した最凶最悪の脅威に対する“意識の違い”というよりも、むしろ明確な「無知」が、大きく分厚く障害として立ちはだかった。  その「無知」は、致し方ないものとも思える。 世界で唯一の被爆国として、この国の子どもたちは、核兵器の脅威とそれがもたらした悲劇に関する情報を、教育の中で蓄積し、潜在意識レベルで認識している。 いかなる場合であっても、核兵器は「否定」の対象であり、その象徴が、脅威としての「ゴジラ」なのだ。 一方、かの国の子どもたちにとって、「ゴジラ」とは“核が生み出したヒーロー”であり、その認識を変えることは極めて難しいことなのだろうということを、前作と本作を観て痛感した。 歴史も、文化も、価値観も違えば、それは当然のことだろうし、こと「核兵器」に関する経緯においては、日本とアメリカの立場は全く両極にあったわけだから、その「乖離」は殊更であろう。  ただ、そのように俯瞰して見れたとしても、本作における核兵器のあまりに軽薄な取り扱いは、この映画が「ゴジラ映画」だからこそ認めるわけにはいかない。 衰弱したゴジラに対し、核爆弾をあたかも“カンフル剤”のように爆発させ、復活する様を仰々しく映し出し、本作随一の名場面のように仕上げた様には、怒りを覚えるというよりも、唖然としてしまった。 我らが渡辺謙の熱い見せ場には申し訳ないが、日本のゴジラ映画ファンにとっては、あのシーンが最も「不適切」で「不要」だった。   でもね……。 これがアメリカ人が愛し、アメリカ人が観たい「ゴジラ映画」であれば、それがすべてであり、娯楽映画として本作の在り方を否定する余地は無い。と、本心から思う。(立ち位置が定まらないようで申し訳ないが)  実際、僕自身、前作同様にゴジラの巨躯に感動し、キングギドラが醸し出す絶望感に更に感動し、あの“新兵器”の登場や、“小美人”オマージュなど、一つ一つの要素に興奮した。そして、伊福部テーマ全開の劇伴には、高揚感と共に感謝が溢れた。  詰まるところ、僕はこの映画が大好きなのだ。だからこそ、“嫌い”な部分が我慢ならないのだと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2019-06-01 23:30:00)(良:2票)
112.  メン・イン・ブラック3
まず、“パート2”の公開からもう既に10年も経っているということに、色々な意味で唖然としてしまう。 先日、“パート1”がテレビ放映されているのをチラリと見たが、ウィル・スミスもトミー・リー・ジョーンズも当然ながら若い。逆に、久方ぶりに二人揃った今作を見て、両者に対して「老けたな~」と第一声を上げてしまったことは否めない。 特にトミー・リー・ジョーンズはすっかり"爺様”なので、あの年格好で極秘組織の現役エージェントという役所でアクションを繰り広げる様には、さすがに「無理」を感じた。 まあ、そのことを考慮した今回のストーリーテリングだったことは明らかだろう。  それで、今作自体の出来映えが如何なものかと問われれば、充分に「満足」という言葉と使って差し支えない仕上がりだったと思う。 ただしその満足感には、そもそもこの「MIB」というエンターテイメントのファンであるという前提は必要だ。  前二作を観ていなかったり、観ていてもその面白味に浸れなかった人は、観る必要はない。 そう断言してしまって良いのは、もはやこの映画の雰囲気やテンションそれらすべてを包括した世界観自体が、このエンターテイメントが持つ独自の「味」として定着してしまっているからだ。 僕自身、もう15年も前になるらしいが、第一作目の「MIB」を観た時は、想定外に馬鹿げたタイプのテンションに面食らってしまい、正直「面白くなかった」という感想を持っていた。 しかし、その後見返すにつれ、この映画の“味わい方”がじわじわと分かってきた経緯がある。  そういう面を鑑みても、この映画はやっぱり"変わっている”と思うと同時に、卓越したエンターテイメントであるということを改めて思い知った。  これ以上の続編は明らかに蛇足になってしまうので止めた方が良いと思う。 しかし、今作については、大いに強引で大雑把ではあるけれど、主人公二人の関係性を時空を超えた宇宙意思をもって強固に繋ぎ止めたという意味で、ファンにとっては想定外に感慨深い作品に仕上がっている。  10年ぶりの“パート3”により、この娯楽映画の「味」は改めて明確に定義づけられたように思う。  P.S.無類の「タイムパラドックス映画」好きにとっては、この顛末を見せられては、問答無用に「降参」するしかない。
[映画館(字幕)] 7点(2012-05-30 00:00:19)(良:2票)
113.  脳男
日本の大作映画特有の不細工なエンターテイメントなんだろうとスルーを決め込んでいたのだが、ドハマリ中の“二階堂ふみ”目当てに鑑賞。 粗や難点は多いけれど、それを補って余りある娯楽性に溢れいていた。江戸川乱歩賞受賞作が原作らしく、想像以上にエキセントリックな物語の世界観は見応えがあった。(二階堂ふみの畜生ぶりも、想像以上にエキセントリックだった!)  原作は未読だが、映画化にあたり生み出されたオリジナルのキャラクター設定が効いていたと思う。 悪役の性別を男性から女性に変えるなんて、普通は失敗しがちなんだけれど、今作に限ってはそれが功を奏し、主人公である“脳男”との合わせ鏡としての対比が際立っていた。  そして何と言っても、主演の生田斗真のパフォーマンスは素晴らしかった。 絞り込まれた肉体と、無機質且つ美しい無表情は、“脳男”という「異質」を表現するに相応しく、彼以上の適役は居なかったろうと思わせる。 一瞬の微笑から再び深い無表情へと移り変わるラストカットは見事だった。  全体的なテンポの悪さと少々あざと過ぎる演出には改善の余地があるとは思うが、メリハリの効いたアクションシーンと、思わず目を背けたくなる程ハードな残酷描写には、日本映画らしからぬ迫力があった。  というわけで、国内の娯楽大作映画としては近年で随一の出来映えと言っても過言ではなく、大いに楽しめたことは間違いない。  個人的には、二階堂ふみと太田莉菜の“糸引きディープキス”が見られただけでも、この映画の価値は揺るがない!
[CS・衛星(邦画)] 8点(2014-08-15 00:50:15)(良:2票)
114.  新しき世界 《ネタバレ》 
ラスト、辛辣な運命に導かれるままに、ついに望まぬ“椅子”に収まった主人公。“新しき世界”を眼下に見下ろし、彼は何を思ったのだろう。 一見、彼の表情は自らの運命に対しての苦悩に苛まれているように見える。 しかし、その先のシークエンスで、彼の中にはそういった苦悩とはまったく別の感情が巡っていたのだろうことが分かる。 ラストのラスト、この映画で主人公が唯一見せる或る“表情”。 観客も、主人公自身もはたと気づく。 彼にとっての“新しき世界”は、とうの昔に始まっていたことに。  いやあ素晴らしい。毎度のことながら、韓国映画には新鮮に感服させられる。 監督の巧さ、俳優の巧さ、撮影技術の巧さ、すべてが高水準であることは間違いなく、総じて「映画づくりが巧い!」と言わざるをえない。  特に個人的に思うのは、ラストシーンの絶対的な巧さだ。 今作においても、ラストシーンの映画的巧さによって、作品自体の質を格段に上げている。 韓国映画のつくり手たちは、本当に映画という“娯楽”をよく理解していると思う。  そして、俳優たちが演じるキャラクターの“実在感”がまた凄い。 一人ひとりの顔つきに、各人物の人生模様が如実に現れていて、細かい人物描写がシーンとして無くとも、彼らがどういう人生を歩んできたのかが見えてくる。  嘘で塗り固められた人生を歩んできた主人公は、「真実」という“偽り”をすべて捨て去り新世界の支配者となる。 その彼の表情が苦悩に満ち溢れていたとしたならば、それはやはり、新世界の景色を共に見下ろすべき存在が誰であったかということに、ようやく気付いたからだろう。 その「孤独」に心が揺さぶられる。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-01-25 00:56:17)(良:2票)
115.  それでも恋するバルセロナ 《ネタバレ》 
この映画は、スカーレット・ヨハンソン×ペネロペ・クルスという今やハリウッドを代表する二大セクシー女優の“絡み合い”を、スクリーンで見たいぞ!という願望を、こちらもハリウッドを代表する根っからの“女好き”ウッディ・アレンが見事に達成した作品だと思う。  「一夏の恋」という誰もが一度は憧れるアバンチュールを、独特の人間模様をもって、時におかしく、時に生々しく描いたウッディ・アレンらしい映画世界を堪能出来る。  ヨハンソン×ペネロペという誰もが夢見た「競演」を実現させたのは、やはりウッディ・アレンだからこそ成し得た業で、それぞれの女優としての個性を最大限に発揮させつつ、他のキャスト陣も含めてバランス良く“大波小波”を打ちながら、映画を展開してくれている。 女たらしのスペイン人画家を演じたハビエル・パルデムは、持ち前の”濃ゆい”ルックスを生かしつつ好演しており、彼に3人の女優が絡んでいくことで映画は展開する。 凄いのは、それぞれの女優と絡む場面場面で、スペイン人画家の物腰と映画の雰囲気が女優に合わせて波打つように変わっていくところだ。 そして、女優同士が絡み合う場面では、さらに大波をうつかのように雰囲気ががらりと変わる。 まさに、監督がそれぞれの女優たちが持つ雰囲気を引き出した結晶であり、それこそがこの映画の最大の魅力だと思う。  「一夏の恋」からあっさりと冷めてしまった主人公たちの憮然とした表情で、映画は終わる。 劇的なウェーブを経て、また元通りの凪に戻る様は、この監督らしいシニカルさも伺えて、総じて「ああ、ウッディ・アレンの映画だな」と思った。
[DVD(字幕)] 7点(2010-03-20 17:32:09)(良:2票)
116.  世界の中心で、愛をさけぶ 《ネタバレ》 
「ロミオ参上」。劇中、不治の病で入院する最愛の彼女を見舞う主人公の少年の台詞である。250万部を越えた大ベストセラーの原作を映画化した今作の最高のファインプレーは、この台詞だと個人的に思う。原作を読んで号泣してしまった者にとっては、映画化によってどれだけこの世界観を表現できるかということが最大の興味であり、期待であり、不安であっただろう。その思惑を制作スタッフは見事に独立した映画として昇華してみせたと思う。その顕著な結果が「ロミオ参上」という原作にはない一つの台詞に表れている。確実な死に向かう恋人に対する少年の心情は、どうしようもなく混乱しているはずである。その思いを覆い隠すように、少年は、病室にたたずむ恋人に対してこの何気ない台詞でおどけ登場してみせる。この物語は、眩い青春時代に愛し合った恋人たちの片方が死んでしまうから泣けるのではない。目の前で「生の時間」を終えようとしている恋人を前に、自分は何をすべきか、何ができるかを思い悩み、限りある時間の中で奔走する少年の姿に涙が溢れるのだと思う。劇中、山崎努が言うように「人が死ぬということはえらいことだ」。でもそれがどうやっても避けられないものであるのならば、いつか僕も、誰かのためにさけびたい。
[映画館(字幕)] 6点(2004-05-11 00:07:54)(良:2票)
117.  宇宙戦争(2005) 《ネタバレ》 
もしかしたら賛否が大きく分かれるのかもしれない。が、この映画は圧倒的に“賛”である。まさに絶望的なまでの侵略者の脅威に対し、すべての人類は成す術が無い。そうこれは“戦争”などではなく、一方的な“駆除”なのだ。そのままに一人残らず滅亡するのが真のリアリティかもしれないが、それでは物語にならない。そうして導き出された結末は、人類の勝利ではなく、地球上の一生物として生かされた人類の姿である。この顛末は、序盤からの脅威的な侵略に対しあまりに“あっさり”しているように感じるかもしれない。しかしそうではない。ただひたすらに逃げ惑うだけの人類たちのその同じ場所で、いつもと同じように繰り広げられる生命体たちの活動によって、人類は生かされたのだ。実にシンプルで起伏に富んだ発想の転換、これぞScience Fictionの名にふさわしい。スピルバーグは、映像に対する絶大な創造力をもって、この古き名作をリメイクしてみせた。
[映画館(字幕)] 9点(2005-06-29 17:54:07)(良:2票)
118.  ボーン・レガシー
アクション映画として“見所”は確実にある映画だとは思う。しかし、あまりに"巧くない”映画であるということも確実に言え、故に著しく面白味に欠ける映画に仕上がってしまっている。  “ボーンシリーズ”は好きだったし、主人公に抜擢されたジェレミー・レナーは昨今の再注目株だし、レイチェル・ワイズは大ファンだし、エドワード・ノートンの絡みにも期待していた。 が、終わってみると、すべてが「中途半端」という言葉に尽き、“本筋”には遠く及ばない「番外編」という印象に終始した。  敗因は色々あろうが、序盤から最も気になったのは、テンポの悪さだ。 “ボーンシリーズ”は、決してド派手なだけの描写に頼らないスピーディーでリアルなアクションシーンが魅力だったが、アクションシーンの質そのものは一定の水準を保ってはいるものの、全体的なテンポがあまりに鈍重で間延びしてしまっている。  更には、組織に追われる主人公がヒロインと共に逃避行を繰り返すという、お決まりであまりに工夫の無いストーリーテリングが、退屈さに拍車をかける。 アクションシーン自体も、他の映画で何度も観たことがあるようなシーンが繰り返されるばかりで、目新しさがまるで無かった。  そしてストーリーそのものは単純なのだろうが、作戦名等の専門用語が無駄に羅列されたり、所属がよく分からない存在感の薄い登場人物が続々と登場したり、ふいに過去の描写が挿入されたり、“ボーンシリーズ”とのリンクが無意味に強調されたりと、ストーリー構成をいたずらに難解にしているように思えた。  脚本家出身の監督なのだから、アクションシーンの多少の劣化はまだしも、ストーリーそのものがあまりに稚拙なことには、言い訳の余地はないと思うし、“ボーンシリーズ”を描き出した人だけに残念な限りだ。 もしこのまま再シリーズ化しようというのならば、再び脚本家に専念することをお勧めする。
[映画館(字幕)] 4点(2012-10-06 17:03:19)(良:2票)
119.  騙し絵の牙 《ネタバレ》 
“斜陽”という言葉を否定できない出版業界の内幕を生々しく描きながら、その小説そのものが「映画化」を前提とした“大泉洋アテ書き”という異例のアプローチで執筆・刊行された原作「騙し絵の牙」を読んだのは去年の秋だった。  劇中の出版業界と現実社会のメタ的要素も多分に絡めつつ重層的に物語られた原作は面白かったけれど、それよりももっと前に見ていた映画の予告編を思い返してみると、「あれ?こんな話なんだ」と小説のストーリー展開に対して一抹の違和感も覚えていた。 映画の予告編が醸し出していた斬新でトリッキーな雰囲気に対して、原作のストーリーテリングは、極めてミニマムな内幕ものに終始しており、語り口自体も想定していたよりもオーソドックス(悪く言えば前時代的)な印象を脱しなかった。 「真相」を描いたラストの顛末もどこか取ってつけたような回想録となっており、やや強引で雑な印象も受けた。  そうして、コロナ禍による半年以上の公開延期を経て、映画化作品をようやく鑑賞。 案の定、原作のストーリー展開に対しては、映像化に当たり大幅な“アレンジ”が加えられており、そこには全く別物と言っていいストーリーテリングが存在していた。 その“アレンジ”によって、前述のような原作のウィークポイントは大幅に解消されていて、映画単体としてシンプルに面白かった。 程よく面白かった原作小説を、より映画的にブラッシュアップし、見事に映画化しているな、と思った。     が、そこではたと気づく。果たして本当にそうなのだろうかと。  そもそもが、出版業界全体の低迷と、活字文化の凋落を念頭に置いて、「小説」と「映画」が同時に企画進行した作品なのだ。 であるならば、通常の「小説の映画化」という構図はそもそも成立しないのではないか。 この企画において、「小説」と「映画」は、まったく対の存在として最初からあり、相互に作用するように創作されたに違いない。  となれば、原作小説の存在そのものが、この“騙し”を謳った映画化作品の大いなる布石であり、小説を読み終えた時点で、“読者=鑑賞者(即ち私)”は、まんまとミスリードされてしまっていたのだと思える。 そしてそれは全く逆のプロセスだったとしても成立し、この映画を先に鑑賞した人は、映画作品によるミスリードを抱えて小説世界に踏み入ったことだろう。きっとそこにはまた別の“騙し”と“驚き”が生まれるはずだ。 その体験はまさに、小説と映画、メディアミックスによって創出された立体的な“騙し絵”そのものだ。     この映画のクライマックスにおいて、主人公の大泉洋が、豪腕経営者役の佐藤浩市に対して「遅すぎた」と非情に言い切るシーンが象徴的なように、“新しい斬新なアイデア”は、無情な時間の経過により瞬く間に、“古臭いアイデア”となってしまう。 常に新しい“面白いコト”を求められ続けるこの世界は、あまりにも世知辛く、厳しい。 そう、つまりは、原作小説で描かれた「結末」すら、この映画化の時点ではきっぱりと「古い」のだ。  そういうメディア業界全体の現実を端から想定して、このメディアミックス企画は練られ、小説家も、映画監督も、俳優も、編集者も、そこに身を置くすべての者達の、苦悩と虚無感を込めて生み出されているのだと感じた。  コロナ禍による大幅な公開延期、それと並行して半ば強制的に変わらざるを得なかった時代と価値観の変化、そういうものすら、このメディアミックスの目論見だったのではないかと、過度な想像をせずにはいられなくなる。  無情な時代の移ろいに苦悶しながらも、それでも彼らは追い求める。結局、今何が一番「面白い」かを。
[映画館(邦画)] 7点(2021-03-27 23:15:44)(良:2票)
120.  月に囚われた男
月世界の静寂の中で響く繊細な旋律が印象的な映画だった。 美しく響き渡る音色が、殊更に映画世界に満ちる“孤独感”を際立たせた。  月の裏側で唯一人、貴重な地下資源の採掘業務に従事する男。 孤独と望郷の念に耐え続け、3年間の任期終了まであと2週間に迫った時からストーリーは始まる。  主要キャストは、主演のサム・ロックウェル“一人だけ”だということは認知していたので、果たしてこの性格俳優の「一人芝居」でどのように映画を転じさせていくのか。 もしかすると、物凄く地味で独りよがりな映画なのではなかろうか、という疑念も持ちつつ、映画の「試み」に対して非常に興味深かった。  しかし、その想定は数奇なSFスリラーの展開により、良い意味で裏切られた。  アイデア自体は「奇抜」という程では無いのかもしれないが、“驚き”への導き方と見せ方がとても巧い。 一人の男の淡々とした描写から、突如スリラーの渦に放り込まれる感覚。そのストーリーの転換を、決して映像や音響の急激な変化に頼るのではなく、一つの「視点」の変化のみでさらりと、だが劇的に成している。  そして、このSF映画が素晴らしいのは、ストーリーにおける“驚き”が映画のハイライトではないということだ。 “驚き”はスパイス的な一要素に過ぎず、そこから始まる悲哀に溢れたドラマこそが、この物語の核心となる。  主人公に課せられたあまりに残酷な運命。 それを受け入れる様、それに抗う様、相反する“二つの姿”の在り様こそが、この挑戦的なSF映画の深さであり、面白味だと思う。  SFとは科学的空想であり、だからこそ、そこには人間の心理描写が不可欠だと思う。 人の精神と科学が結びつき交じり合い、無限なる世界が創造される。  手塚治虫の「火の鳥」や、藤子・F・不二雄のSF短編漫画を彷彿させる、広大な奥行きを備えたSF映画だ。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2010-08-30 00:05:23)(良:2票)

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