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プロフィール
コメント数 431
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 56歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  火垂るの墓(1988)
この物語は、戦争で死んでいったであろう多くの少年少女達の名も無き史実を、美しくも残酷な童話に仮託した一種の鎮魂歌と見るべきでしょう。だから僕らは、この物語にもっと素直に感動していいと思う。戦争という現実は、語りえる以上に悲惨なものだし、僕らがそのすべてを知ることはできない。戦争とは、歴史であるとともに、歴史の喪失でもあるのですから。世に様々な戦争を描いた物語<戦場、戦後含めて>がありますが、本来そこには戦争に関わった人々の数だけのナラティブがあり、その多くは既に失われているということを僕らは知るべきなのでしょう。そういう意味で、この「火垂るの墓」という作品は、その美しさも残酷さも含めて、失われた物語の小さな灯火として見るのが正しい姿だと思うのです。戦争映画にも様々な視点があり、様々な表現がある。しかし、僕らはそれらの作品によって、現実の一端を想起することができるだけなのです。そのことを忘れてはならないと思う。
8点(2003-12-29 20:00:17)(良:6票)
2.  ミッション:8ミニッツ 《ネタバレ》 
主人公は、テロの犠牲になった一般人の記憶に意識を同化させることにより、彼の最期の8分間を何度も「生きる」。彼は、テロの犯人を見つけ出すというミッションを与えられるのであるが、犯人に辿り着くことなく、列車を何度も爆発させてしまう。その中で、列車の中で関わる人々の動きが彼自身の行動の変化によって毎回違うことに彼は気付く。これは記憶の変遷、仮想現実の単なるバリエーション(誤差範囲)にすぎないのか?そして、何度目かの意識同化の中で、彼は逃走した犯人の手掛かりを見つけることに成功し、犯人は現実の中で逮捕される。しかし、ミッションの成否に関わらず、列車の中の人々は、現実にはもう既に死んでいる過去の記憶の断片にすぎないのだ。そして彼も。。。  彼は、2-3度目かの記憶同化の際に、同席していた女性を列車から救い出し命を助ける。彼は、既存記憶の枠を超えて彼女の命を助け得たことに、彼の行動が持つある種の可能性に気付く。繰り返される8分間の中で、彼は彼女と何度も出会い、会話を繰り返し、彼女に恋をした。彼は現実には死んでいる彼女を助けたいと切実に願った。。。  脳内信号が言語データとして扱えること。他人の脳内記憶データを認識することにより、意識が時空間を超えて存在できること。そして、そこから人間原理に基づく量子論的な多世界解釈が生まれること。この映画のラストシーン。時空を超えた意識が確率論的な現実を生み出し、量子論的な多世界解釈と結びつく。彼は彼女を助け、世界を変える。意識のパラレルワールドを現実として生きる。素晴らしい。そうきたか!僕は「やったー!」と叫びたくなった。  あと8分しか生きられなかったら、何をする?  たぶん、今年一番のSF映画だと思う。監督のダンカン・ジョーンズは、デヴィッド・ボウイの息子である。さすが、センスがいいね。※Lufthansa国際線の機内で鑑賞。
[DVD(吹替)] 10点(2011-08-23 00:55:07)(良:5票)
3.  12人の優しい日本人
敢えて断言。「12人の優しい日本人」は、「12人の怒れる男」よりも断然面白い!。。。ふぅ、言ってしまった。はっきり言って推理劇タッチの「怒れる男」は僕のようなアンチミステリー派にとって、あまりにも真実を一元化しすぎているし、社会派を標榜する割りには陪審員制度の問題点を真の意味で論うことなく、居丈高な民主主義の価値観や義務感によって自ら正義を負う者として規定し、皆が一つの真実を追うことに固執すること、そのことを美化しすぎているように思える。本当の真実とはこうなんだ! こうあるべきなんだ!ってね。また、登場人物たちにはそれぞれのナラティブがあり、それは当然一つに集約すべきものではないのだ。すべての思惑が一つの真実を指し示すなんてあまりにも予定調和すぎる。所詮、おめぇたちは一般市民じゃねぇのかよ。。。などと陪審員制度自体に馴染みがない僕なんかは「怒れる男」を観た時に素直にそう思ったものです。それに比べ、この「優しい日本人」は実に「いい」加減で、最期まで正義に固執しない姿勢がとても晴れやかだし、陪審員制度が日本人に合わないことを明確に主張しているように思える。なおかつ人間描写が多分にデフォルメされてはいるけどとにかく面白い。「怒れる男」のパロディ映画としても秀逸だと思うが、これは本編に対する一種のアンチテーゼでもある。所詮、人に人は裁けないと思うよ。僕は怒れる男であるより、優しい日本人でありたいと思うけどなぁ。「真実の行方」って映画があったけど、あの映画のラストシーンを「怒れる男」に対比してみると面白いかも。
9点(2003-09-06 17:05:08)(良:5票)
4.  ブラック・スワン 《ネタバレ》 
『ブラック・スワン』は、ナタリー・ポートマン演じるバレリーナの自己自身をめぐる物語である、という解釈はその通りだと思う。さらに言えば、この物語は、彼女の自己分析的な記憶そのものである。彼女が精神科医への告白の中で紡ぎだした彼女自身の経験と妄想の交錯した記憶こそが、『ブラック・スワン』の物語である、と僕は思う。  映画は、いくつかの視点によって物語を追う。ある時、それは彼女自身の視点として、そして、ある時、それは彼女の背後からの視点として彼女自身を含めた風景の中で捉えられる。演出家のトマも、ライバルとなるリリーも、彼女の記憶により、その性格を改変させられている。   映画とは「他者の視線から見られた世界の風景」である。だが、それはいったい「誰の視線」から見た風景なのだろう。(内田樹『映画の構造分析』)  『ブラック・スワン』の場合、それは彼女自身の視覚記憶に基づく視線であり、風景であり、物語である。それが映像の意味を決定している。私は、私の記憶(脳)によって完璧に騙される。彼女は、最後にPerfectと呟くが、ホワイト・スワンたる彼女が最後の最後でブラック・スワンに変身し、彼女の中の善と悪、可憐さと妖艶さ、超自我とエス、エロスとタナトスが融合することで得られた恍惚こそが彼女にとってのPerfectだったのだと思う。  最後のバレエシーン。彼女は、ホワイト・スワンの演技で決定的な失敗を犯し、ここで挫折してしまうのかと思いきや、楽屋でリリー(の幻想)を殺戮することにより、衝動的にブラック・スワンそのものに変身する。リリー(の幻想)を殺戮することで得たものは何か? 解放したものは何か?  彼女が求めたものは「美しさ」である。バレエとは、常に自分自身を鏡で映すことで紡ぎだされる肉体運動の美しさであり、自己規律訓練的、反自然的な「美しさ」への自己希求であり、その希求は、結局のところ、他者の承認を求めざるを得ない飽くなき欲望となる。それが彼女自身の変身願望に繋がる幼少時代からの無意識の抑圧であり、妄想の源泉だった。彼女がホワイト・スワンとして死を迎える時に彼女の視線が捉えるのは彼女の母親の姿である。母親の喜ぶ顔を瞼に浮かべながら、その承認を得て、彼女はPerfectと呟くのである。
[映画館(字幕)] 10点(2011-05-31 22:27:36)(良:4票)
5.  バッファロー'66
ヴィンセント・ギャロは、自らの腐っていく弱さと自閉していくイノセンスをギリギリのラインで救済して見せたのだと思う。この映画を「主人公にとって都合の良すぎる展開だ」ということで責めるのはちょっと違う。それはその展開こそが映画の方法論だからだ。この映画が指し示す「愛情」というテーマには切実に納得させられた。心底共感したと言うと僕もダメ人間ということになるのかな? まぁそれはいいけどね。ビリーにとってレイラが確かな存在として捉えられる、その弱さを包含したからこそ了解される「愛情」がビリーを破滅から救うことになる。ビリーというとてつもなくか弱いキャラクターをギリギリまで粗暴に扱っておいて、最終的にレイラへの「愛情」という装置に吸収してしまう方法は、一見するとなんの変哲もない物語に思われるかもしれない。ただ、僕にはその弱さの自明的な崩壊がギリギリのところで救われるというか、1周ひっくり返ってやっぱり救われる、崩壊への暴力と広範囲な救済をない交ぜにするような「愛情」という風呂敷でスッポリと包み込んで救われる、というような微妙に違和感のあるラインがとても新鮮だったのだ。ギャロが最後のシーンで描きたかったのは、個から愛への広範囲なひっくり返しの救済というイメージだったのだろうと思う。確かにイメージへの意識が強すぎて、展開が唐突な感じがしないでもない。レイラの母性を強調しすぎる点もちょっとひっかかる。しかし、今の世の中で成熟を永遠に放棄した人間たちがその内包している弱さを開放する方法など全くないのが現実なのだ。ギャロはそれをどうだと言わんばかりに開放してみせた。そこには人間の成長物語など初めから存在していないことに留意してほしい。人間の弱さこそ優しさの源泉だと僕は思う。しかし、それは腐っていくものだ。そして、それは絶対的な強さに転換などしない。僕らはそれをただ抱えていくのみで、そのことは人間の成長とは全く関係のないことだ。敢えて言えば、損なわれつつある人間が絶対的な個という「強さ」を放棄することによって回復していく、そういう可能性の物語なのだといえるのではないか。
9点(2004-05-19 01:25:36)(良:3票)
6.  リリイ・シュシュのすべて
正直いってとても怖い映画でした。僕はこれほどまでに悪意に満ちた映画を知らない。「拷問のような。。。」というレビューがありましたが、然り。世界を共有できないという苦痛が全編を覆っているのだから。しかし、、、この映画に心を震わしたとすれば、あなたは正しい。間違ってはいない。僕らは心を失って久しいし、本当に共有できる世界観をもっていないのは既に自明のこと。リリィという虚構の上に空虚な言葉を紡ぐことのリアルさなんて最初からないよ。そんな悪意に満ちた映像の中でも、僕らはこの映画にある種のイノセンスを感じたんじゃないのかな。その可能性にこそ、この作品の「救い」があるのだと思う。この映画の中に心理描写が皆無ですよね。ただ、田園に佇む少年たちと音楽があるのみで。そして画面を覆うワープロ文字の羅列。僕らは「痛み」を感じ、イノセンスへの「信」を握り締める。この世界の「ほんとう」をいかにして表現するか、もし、映画の目指すところがそこにあるのなら、この映画の手法はひとつのメルクマールとなるのではないか。岩井俊二は断続する「現在」を捉えているからこそ、一級の監督なのだと僕は思う。<追記>リアルとは何か?現代社会は成熟という過程を永遠に放棄しており、生きていくことの確固たるリアリティなどというもの、そのものにリアルな実感など既にない。キルケゴールは死に至る病として、絶望していることに気がつかないが故の絶望といったようなことを述べているが、今の世の中はそういう意味で多くの人が絶望的である。そういった認識がないとこの映画は「分からない」だろう。薄っぺらい世の中だからこそ、その薄っぺらさの上で足掻くことの空虚さ、その見えない痛みを痛いほど感じる、この映画はそういう表層のヒビを鮮やかに描いているのだ。<この映画は単なる中学生日記ではないのだ> 実は邦画の名作は昔からそういう地平でつくられていると僕は思っている。ただ、その自明性がここ10年ほどで加速度的に失われており、そんな閉塞感の無意識化を漠然とした表層の「らしさ」感覚とその亀裂の対比で描いてみせているのがこの作品の白眉なところだ、といえないだろうか。敢えて言えば、リアルさの喪失感に対するリアリティのなさをリアルに描いている、ということか。
10点(2003-05-11 18:26:02)(笑:2票) (良:1票)
7.  青春の殺人者
冒頭から中盤にかけてはとても神話的である。「青春の殺人者」というわりには現代<近代>的な自己疎外感からくる青年の孤独や苦悩が感じられず、父子、母子のオイディプス的三角関係を軸とした普遍的な物語でありながら、妙に噛み合わない心理劇にただ座りの悪さだけが残った。しかし、中盤以降、物語は見事にひっくり返る。「青春の殺人者」とは、青春が殺人者ではなく、青春を殺人する、つまり青春こそが殺戮され終焉したことを描いた物語だったのだ。主人公は青年たる資格を十分に備えた人格でありながら、あまりにも無邪気に両親を殺害してしまう。その動機の弱さはまず確信的である。そして、両親を殺した主人公のその後の苦悩と行動のアンバランスさ、その薄っぺらさは、そのまま自己の希薄さに繋がっている。主人公の行動の破綻性は、作品そのものの破綻を綱渡りしながら、その破綻性こそがこの物語のモチーフだと思わざるを得ないのである。ヒロイン原田美枝子は、まさにその補助装置たる存在だ。彼女がどういう役割なのか、実は僕にもうまく捉えられなかったのだが、その訳の分からなさこそが彼女の重要な役割なのかもしれない。<原田美枝子はとても魅力的でしたね。あのイチジクを食べるシーンなどはかなりドキドキしました。> この作品は、もう30年近く前のものだし、感覚的にはもう古典的作品であることは否めない。しかし、この作品が意識的に描いた「青春の殺人」という水脈は、今もずっと繋がっている。もっとドライに、もっと軽やかにではあるが。そして、今や「青春」は全くの死語と化している。
9点(2004-06-27 01:43:21)(良:3票)
8.  カッコーの巣の上で
プログラム化された精神病棟は、メタフォリックな意味での現代社会を表している。精神病患者としてボランタリーに日常を封じ込めた人たちが集う静謐な世界。それは、共同体の失われた現代において、一種の非日常的な日常空間でもあるだろう。<大江健三郎の「他人の足」と同じ世界か。> この世界にトリックスターたる存在として、ジャク・ニコルソン演じるマクマーフィが投げ込まれる。彼は、予測不可能な行動を繰り返すことによって、他の精神病患者たちを戸惑わせると同時に大いに惹きつける、外の世界の魅力をプンプンさせる実に人間くさいキャラクターなのだ。この作品の主人公は、精神病棟そのものである。マクマーフィのある種のヒューマニズムによって掻き乱される閉鎖世界。世界は風穴をあけられ、人々はこころを取り戻すかと思われた、が、最終的にマクマーフィの人間性が剥奪されることにより、世界は元の閉鎖状態に戻ってしまう、ように見える。しかし、ここに到って内部の人間チーフの選択が浮かび上がってくるのである。<ある意味でこのチーフこそ、本来的な主人公ではないかとも感じる> チーフは、既に人間性を奪われたマクマーフィの息を止めることによって、彼の幻影を消失させ、世界から跳び出すことを選ぶ。そして、それ以外の者たちは、そのチーフの姿に改めてマクマーフィの幻影を追うのである。この映画の印象的なラストシーンは、僕らに突きつけられた「人間としての可能性」に対する問いだと言えるのではないか。僕にはそう感じられた。断絶した世界の中で、”生きていく”可能性とは、一体どういうことなのか? それは、とても切実な問いである。
10点(2004-01-03 19:33:47)(良:3票)
9.  死ぬまでにしたい10のこと 《ネタバレ》 
とてもグッとくる映画だった。この映画は一種のファンタジーだと思う。  彼女はまだ23歳の女性だ。17歳で子供ができ、まともな恋愛も経験していない2児の母親である。夫は失業しており、自身は夜勤パート。昼間は寝ていて夕方と朝に夫と子供に触れ合う生活。低所得居住の象徴たるトレーラー暮らし。母親も父親もそれぞれ別々の移民系で、父親は刑務所にいる。ただ、生活に追われながらもそれなりに充足する毎日。それが主人公のバックグラウンドとしての現実である。僕らはその現実を理解できるだろうか? 感情移入できるだろうか? それはそれとして、実はその現実そのものを描くようなシリアスな作品を作るのは容易いことだ。しかし、それは当然のことながら製作者の本意ではない。それと同じように彼女の死に至る過程、病状や告知、闘病生活を描くこと(いわゆる難病もの?)も本意ではないと僕は思う。 「私のいない私の生活」それが原題である。さて、私がいなくても私の生活があるのだろうか? それがこの映画のタイトルに込められた作品のテーマではないかな。その時の「私」とは一体誰のことだろうか? この作品の主人公の境遇は上記に述べた通りであるが、何故、彼女が主人公に選ばれたのだろう?  この映画で印象的だったのは最初と最後のモノローグである。 人は死ぬ時にひとりであることを強烈に自覚するに違いない。私がひとりの私であること。孤独。普段、僕らは生活の中でいろいろな関係性を生きている。(それが人間というものだから) しかし、その関係性の中にいる自分という人間、「私」を疎かにしていないだろうか。孤独を感じたくないが故に「私」を見殺しにしていないだろうか。 「死ぬまでにしたい10のこと」というのは印象的なタイトルであるがそれほど重要なことのように僕には思えない。彼女は「私のいない私の生活」を想像し、それを生きる決意をすることにより、「私」を得たのだと思う。それは楽しいことではない、とても辛いことでもあるのだけど、その実感こそが、彼女の現実を価値あるものにしたのではないだろうか。  最後に、、、母親役のデボラ・ハリー。存在感がありました。そして、隣人のアン役のレオノール・ワトリング。すごく魅力的な人だと思ったら、『トーク・トゥ・ハー』の彼女だったのですね。ショートカットもよく似合います。
[DVD(字幕)] 10点(2008-03-06 02:07:48)(良:3票)
10.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 
「クリント・イーストウッド映画の集大成」と言われる。実際、集大成なのか、落とし前なのか、議論はあるかもしれないけど、この映画がイーストウッドの歴史の中に位置づけられ、その軸に沿ってこそ最大級に評価されているのは事実であろう。 確かに、イーストウッドの過去の作品のイメージ無しにこの映画を観ることはできない。『夕陽のガンマン』や『ダーティハリー』があり、『許されざる者』がいる。そういった俳優としての、或いは監督としての歴史の一連として作品が評価されるのは現代ではイーストウッド以外にいないとも思える。 作品が作者を排した一個のテキストとして評価されるべきと唱えられた時代があった。『グラン・トリノ』という映画はそんな作品論を易々と超える。作品とは個人を縛り、作品は個人に縛られる、それは作者であろうと、作品の受け手であろうと絶対的なもの、、、まぁ、そんなもんだろうと。  綿密に計算された「上手い」映画だと思う。だからこそ、ラストの驚きも自然な流れの中で観られる。そこにイーストウッドの歴史を見ればこそ、全ては腑に落ちるようだ。彼は、荒野の無頼漢であり、44マグナムを携えたタフガイだった時代の彼ではない。苦悩に満ちた「許されざる者」であり、アメリカという栄光と傷を見据えたオールドマンであり、自らの赦しを胸に刻み、新しい「光」の中に希望を見出すプレイヤーなのである。現代のアメリカの中で、ワイルドバンチはメランコリーの波間に消えたのだ。  やはり、この映画はイーストウッドの集大成的な映画なのだと僕は思う。だって、あんなラストはイーストウッド以外に考えられないじゃないか。 
[映画館(字幕)] 10点(2009-04-29 19:48:51)(良:3票)
11.  イントゥ・ザ・ワイルド 《ネタバレ》 
ジョン・クラカワーの原作はクリスのアラスカ入りまでの放浪生活を追い、彼が出会った人々を広く取材して、その行動と言動を丹念に拾い集める。このノンフィクション・ノベルは一人の青年のセンセーショナルな死を出発点としているが、クリスという一風変わった、それでいて実に魅力あふれる青年の生き様を様々な角度で描き抜いていることが最大の面白さであると感じる。 クリスの人物像。彼は単なる自分探しを求める夢見がちな若者の一人ではなかった。トルストイとソローをこよなく愛する厳格な理想主義者で孤独と自然を崇拝し、それでいて真に文学的な青年でもあった。理知の上に立つ無謀さ。心に屈折を抱えながらも自らの強さを過信するが故に様々なものが赦せなかった青年が2年間の放浪の中で、そして荒野での生活によって徐々に変化し、生きる可能性を掴む。人々とのふれあいの中で心を残す。最終的に彼は死んでしまったけれど、彼の生は、彼と出会った人々の心に確実に生きている。そのことが伝える生の重みを原作であるノンフィクション・ノベルは拾い上げ、そして映画が主題化し物語として紡がれた。  映画は正にショーン・ペンの作品となっている。原作はクリスという人格を外側から炙り出すパズルのような構成となっているが、映画はクリスという実体の行動を中心にして話が進められる「物語」としてある。原作によって炙り出されたクリスという人間像をショーン・ペンは自らの思想性によって肉付けし、物語の主人公として見事に再生させた。映画は、70年代ニューシネマ風のロード・ムーヴィーとして観ることができるだろう。ニューシネマの掟通りに主人公は最後に死んでしまうが、そこには明らかに「光」があった。この光こそ、ショーン・ペンの映画的主題である現代的な「赦し」の物語なのだと僕は思う。クリスが真実を求めた先に見えたものは、ふれあいの中で知った人の弱さであり、そして大自然に対した自らの弱さであった。彼は自らの中で家族と対話する。自分が自分であることを認める。そして、全てを赦したのだと僕は思う。そういう物語としてこの物語はある。  現代に荒野はもう存在しない。彼は地図を放棄することで荒野を創出し、その中で自らの経験によって思想を鍛錬しようとした。荒野へ。理知の上に立つ無謀さ。これこそが失われかけたフロンティア精神の源泉で、現代の想像力を超えた強烈な憧憬なのかもしれない。
[映画館(字幕)] 10点(2009-03-18 20:31:29)(良:3票)
12.  しあわせの隠れ場所 《ネタバレ》 
邦題以外はとても好感のもてる作品。アメリカ南部、メンフィスの白人富裕層、プロテスタント、共和党員、ライフル協会会員。絵に描いたような保守系白人の金持ち一家に、スポーツは優秀だが、身寄りのないスラム地区の1人の黒人少年が関わる。家族の一員となり、その支えによって、生活の目的を得た黒人少年はアメフトで成功し、多くの優秀な大学からスカウトを受けるまでになる。。。この作品は、実話の映画化であり、それが本作の大きなポイントだと僕は思う。  実話の映画化故に、この物語は、格差の問題をあくまで個人の善意にしか還元せず、アメリカ(特に南部)の社会構造に到達させることはない。実際のところ、この家族のような善意と勇気をもった人々はアメリカにも多くいて、また、貧しくても優秀な黒人少年も多くいるだろう。ただ、その接点がないのである。本作は偶然に偶然が重なって実ったひとつの美談でしかない。しかし、この事実/映画が多くの人々の心にフォローアーとしての小さな意識を植え付ける可能性はある。それが社会構造を変える可能性だってある。(アメリカ的な個人主義に留まる可能性ももちろんある)  アメリカ南部の格差社会の現実は、僕らが思う以上に今も厳しい。格差や差別の問題であれば、ある意味で日本も同じ。僕らだって当事者になり、それを引き受ける立場になるかもしれない。その場合の正義と善意の行方に想いを馳せる、そういう可能性の映画だと考えることができるのではないか。
[DVD(吹替)] 8点(2012-05-16 00:26:52)(良:3票)
13.  善き人のためのソナタ 《ネタバレ》 
彼は何故、監視対象者を幇助するような行動を取ったのか?その答えを同時進行的に辿る、そういう映画なのだと思った。  彼女に恋をしたからだろうか? 最初のきっかけはおそらくそうなのだろう。そして、原題にあるように、彼が自分と違う「他者の人生」に深く感銘してしまったこと。それが実際の理由なのだろう。  監視していた劇作家が恋人の裏切りを知りながら、彼女を許したこと。それは何故なのか。人を許すとはどのようなことなのか?彼はその答えを知りたいと切望した。劇作家が弾く音楽を聴き、その読む本を読み、その佇まいを想像し、彼はその本質に触れたのだと思う。彼は「他者」を発見したのである。そして、彼は二人の他者の人生に実際に触れる。  最後に彼は劇作家の本の謝辞に自分を発見し、それを「私のための本」と言う。それが彼にとって「他者の人生」を「そうありたい自分の人生」と重ねられた瞬間だった。彼の微かに誇らしげな笑顔がとても印象に残った。   ※各自の点数評価のことなので僕にはどうでもいいことですが、邦題でこの映画の内容を判断するのはちょっと可哀そうな気がします。。。
[映画館(字幕)] 9点(2011-01-17 22:13:45)(良:2票)
14.  ビリー・ザ・キッド/21才の生涯
僕にとってのペキンパーNo.1。この映画は、ペキンパーの思想そのものだ。ペキンパーほど生き様と死に様が醸し出す時代精神の深みを切実に描く作家はいない。見方によってはすごく青臭いと思うかもしれない。クリストファーソンやディランのようなミュージシャンを出演させていることが若者に媚びた印象を与えたかもしれない。ジェームズコバーンが単なる理不尽なおじさんにみえたかもしれない。そう、どれも当たりです。いや、逆です。すべてがペキンパーそのものなのです。クールに生きて、あっけなく死んでいくクリストファーソンと葛藤に苛まれながら己の生き様を貫いたコバーンの対比。生き様が死に様であり、死に様が生き様であることを体現していく多くの脇役たち。<イカサマおじさんや川縁の決闘で死んでいく老ガンマンが特によかったけど、その他ペキンパー映画の常連たちも素晴らしい> これら一つの時代の終わりを丹念に追っていくこと。ひとつひとつにペキンパーの情念が感じられないだろうか? こんなにもカッコよくて、こんなにも哀しい群像に満ちた作品が他にあるだろうか? ペキンパーの撮影中の酒乱が原因で撮影が長引き、編集権を配給会社に奪われたりとかなんとか、そういう先入観でこの映画を観てはいけません。ここにこそペキンパーの集大成があるのですから。それぞれのシーンを揺蕩(たゆた)う深く哀しい情念の灯火。僕はしっかりと受け止めましたよ。とてもぐっとくる映画。
10点(2002-01-12 00:11:12)(良:2票)
15.  探偵はBARにいる 《ネタバレ》 
面白かったので、映画を観てから、原作も読んだ。原作との大きな違いは「相棒」高田こと、松田龍平が準主役級の扱いになったこと。高田の恍けた味わいと2人の掛け合いが楽しかった分、主人公「俺」の大泉洋の魅力もかなりアップしたと思う。映画は、原作以上に登場人物たちのキャラが立っていて、キャラクター映画としても楽しめる。 主人公のキャラも若干かぶるけど、ところどころにルパン三世を彷彿とさせるシーンがあったりして、それも結構面白かった。 実は、それほど期待して観始めたわけではなかったので、カルメン・マキの登場、彼女の一言と『時計をとめて』には個人的にいきなり「やられた」って感じだった。そういった映画を印象付ける小道具が効いていて、いくつかの小技(ディテール)がツボを突いた。主人公の行動はわりとコミカルなのだけど、それでも自らの信条(マキシム)に従っているかの如き言い訳がましいモノローグが微笑ましく、ハードボイルドというよりはソフトボイルドって感じで、それはそれでひとつの文体として結構ハマっていたと思う。  但し、主に原作との比較で不満な点もあった。ひとつはバイオレンス描写。高嶋政伸のキャラ故のことだと思うが、あそこまでの(原作にもない)バイオレンス描写を映像化する意味があったのだろうか?正直、やりすぎの感あり。 もうひとつは冒頭シーン。原作は、ハードボイルド小説の常套として、依頼人からの電話で始まる。映画もそれに倣ってほしかった。それはやっぱりお約束でしょう。  最後に、主人公が真相に気付くシーン。これは原作にない感動的なシークエンスだと思う。正直言って、真相そのものは「それしかないだろう」というほどに単純なプロットなのだけど、事件に至る彼の人の動機、探偵が事件に拘る動機、登場人物たちが事件に関わるそれぞれの動機に関しては、すごく説得的で、胸にじーんとくるものがあった。それは「愛」である。たとえその行いが間違っていたとしても。。
[映画館(邦画)] 9点(2011-10-06 00:19:23)(良:2票)
16.  ソウルの春 《ネタバレ》 
韓国の現代史を描く超大作。1979年12.12粛軍クーデターの詳細を描ききっており、とにかく引き込まれた。ファン・ジョンミンとチョン・ウソンの電話や拡声器でのやり取りは演出も有るだろうが、殆どクーデターの駆動と抑制がこの2人に掛かっていたように進むドラマはフィクションとしても見応えがあった。  キム・ソンス監督『アシュラ』と同じく、ファン・ジョンミン vs チョン・ウソンが物語の軸となるが、今回は舞台が国家レベルとなる。ファン・ジョンミンが粛軍クーデターの首謀者、全斗煥(役名はチョン・ドゥグァン)、チョン・ウソンが反クーデター側の中心人物となる張泰玩(役名はイ・テシン)。そして、パク・ヘジュンが盧泰愚(役名はノ・テゴン)、イ・ソンミンがクーデターで逮捕される参謀総長鄭昇和(役名はチョン・サンホ)。イ・ソンミンは『KCIA 南山の部長たち』で朴正煕を演じていて、今度はその影を引きずりつつ、朴正煕暗殺共謀で逮捕される役となる。イ・ソンミン、政治家や実業家の超大物をやらせたら右に出る者なしというところか。  ファン・ジョンミン、とにかく私の好きな役者。『新しき世界』『工作』『ベテラン』『ただ悪より救いたまえ』、そして『ナルコの神』。ファン・ジョンミンは悪も正義も違和感なく演じられる。  チョン・ウソンといえば、『アシュラ』『ザ・キング』『鋼鉄の雨』。カッコ良くて、すごく痺れる役者です。2枚目なだけじゃない、声がすごくいい。今回の正義感役も声に迫力があって、ばっちりと嵌っている。  『息もできない』のチョン・マンシク、『夫婦の世界』のパク・ヘジュン。その他、韓国ドラマ・オールスターズの面々。『サバイバー』のソウル市長アン・ネサン、『ムービング』の怪力お父さんキム・ソンギュン、『梨泰院クラス』の秘書室長ホン・ソジュン、『サム、マイウェイ』のおでん屋台コーチのキム・ソンオ、『相続者たち』の財閥会長お父さんチョン・ドンファン、『W』の漫画家お父さんキム・ウィソン、『知ってるワイフ』の融資課チーム長パク・ウォンサン、『再婚ゲーム』の元カレのパク・フン、『秘密の森』の龍山警察署署長チェ・ビョンモ、同じく『秘密の森』のドンジェことイ・ジュニョク、『SKYキャッスル』の元神経外科長ユ・ソンジュ、『二十五、二十一』のペク・イジン叔父さんパク・ジョンピョ、そして、チョン・へイン。揃いも揃ったり、それも曲者ぞろいの名バイプレーヤーたち。韓国ドラマ好きには堪らない。それぞれにいい味を出している。  映画について。私達はプロットとなる粛軍クーデターの顛末、事件の結末を知っている。知っていても、最後の最後まで画面から目が離せなかった。行くも退くも自らを犠牲にする覚悟を決めた軍人チョン・ウソンの決意と涙に心を打たれた。自然と涙が溢れた。その後の彼(モデルとなった張泰玩)自身と家族の不幸を思うと本当にやるせない。つらい。  作品の描き方から、ファン・ジョンミンが悪、チョン・ウソンが善。今の視点ではどちらが正義か分りやすい作りとなっているが、当時、中堅層の軍人たちはクーデターの中で、どちらの側に付くか、1日の攻防の中で揺れに揺れたはず。結局は、政治における軍部の立ち位置や民主化の在り方という点ではなく、ハナか、非ハナか、派閥の勢力争い、出世争い、保身、韓国社会の人間関係の力学によって、勝敗は決したと言える。勝った方が正義であり、負けたらゼロに落ちる。どちらが強いか? 強さを化身した存在、ファン・ジョンミンのセリフにもあったが、そのアピールこそが粛軍クーデター成功のカギだった。  その後、新軍部の戒厳令下で軍が民間人を大量虐殺した光州事件があり、1980年9月、全斗煥は韓国大統領まで上り詰める。全斗煥政権下では、多くの民主活動家や学生の拷問、不審死が1987年の民主化宣言まで続く。しかし、政権は盧泰愚に引き継がれ、粛軍クーデター組織による政権支配が終わるのは盧泰愚失脚後の1993年になる。韓国初の文民政府である金泳三政権により組織が解体され軍から排除されるまで待たなければならなかった。彼らの韓国支配、強権政治は実質10年以上続いた。近年の韓国映画によって、私達はそれらの事実を漸くと知ることになる。  2017年、朴正煕の娘、朴槿恵が失脚して、堰を切ったように『タクシー運転手』や『1987、ある闘いの真実』が公開された。韓国現代史、軍事政権による様々な事件、その黒い霧は、映画によって明らかにされ、人々に共有されて、歴史地図がパズルのピースのように繋げられていると感じる。『ソウルの春』もこの流れ、韓国の民主化の不可逆的な流れの中に確実に位置付けられる。そう考えれば、この映画の大ヒットも韓国にとって歴史的必然だったのだろう。
[映画館(字幕)] 10点(2024-09-16 23:57:21)(良:2票)
17.  トニー滝谷 《ネタバレ》 
トニー滝谷の妻はいつも優美に服をまとっていた。彼女は元々洋服を買うのが好きであったが、ある時期を境にそれはまるで何かの中毒のように抑制が効かなくなってしまう。彼女は言う。「目の前に綺麗な服があると、私はそれを買わないわけにはいかないの」  孤独と恋の話である。トニーは彼女と出会う前、孤独であった。彼は彼女に恋をし、二人は結婚する。恋は孤独を安住の地から耐えがたい牢獄に変える。では、彼にとって結婚は安住の地となりえたのだろうか? トニーは彼女のことが好きであったが、彼女が服を買いすぎることが気がかりだった。実際にそのことが彼女を突然の死へと導いてしまう。 彼女は洋服を買うことを「ただただ単純に我慢ができなかった」 それは彼女の中の異質なものの発現であり、今ある状態に決して充足できない何かが、彼女の趣味であり可能性であった洋服をを過剰な渇望に変えてしまったのである。それは彼女にとって孤独と等値なのだろうか?  トニーは結局、孤独に帰るのであるが、それはもう静かで穏やかな世界ではありえない。大きな欠落感であり、生暖かい闇の汁である。 ただ、映画で最後に(原作にはない直接的な表現としての)希望の光、ある種の共有感への予感が描かれている。トニーはひとりぼっちであるが、もう孤独ではいられないはずなのだ。このシーンは原作にはないが、悪くないと僕は思う。  映画。 多くの人が指摘するように、映画『トニー滝谷』は、小説の朗読と映像、音楽及び独白で綴られた作品であり、従来の(映画的と言われる)手法の映画とは趣きを異にする。ページを捲るように場面は展開し、単調な調べはその作品を小説それ以上にもそれ以下にもしない、そういう配慮のようにも思える。 僕はこの短編小説が好きなので、この作品も好きである。市川準の映像も小説世界にマッチしているし、宮沢りえの透明感溢れる存在感もよい。イッセー尾形は年を取り過ぎており、僕のトニー像にはいまいちフィットしないが、まぁそれなりの表情をみせる。 この映画で退屈することはまったくなかった。小説を読むように映画が展開するのだから、小説を楽しむように、この作品を楽しむことができるだろう。
[DVD(邦画)] 10点(2007-01-27 01:18:47)(笑:1票) (良:1票)
18.  評決 《ネタバレ》 
『評決』は『十二人の怒れる男』と地続きの作品といえます。同じ法廷劇ながら、『評決』にはクライマックスとなる陪審員の採決結果に至る過程が一切描かれず、『十二人の怒れる男』は逆に陪審員たちの審議のシーンのみに終始します。『評決』での陪審員の採決は、それまでの法廷での趨勢(原告側の圧倒的不利)を逆転するもので、ほとんど合理的な裁判の過程を無視した結論とも言えます。そこに貫いているのは「正義」の観念です。アメリカ的な「正義」は、ある意味で「法」を超越します。ポール・ニューマン演じる弁護士が最終弁論で陪審員に対し「法」を超えた「正義」への信を訴えます。証拠だけを見れば原告側の圧倒的不利なのですが、陪審員の採決は、見事にそれ(「法」より「正義」)に答えた形になっているわけです。実にアメリカ的ですね。(これはルメット監督の信念なのでしょう) ポール・ニューマンも調査の過程で正義(という信念)の為なら簡単に法を犯します。正義が絶対なものとしてある、絶対的な神に対峙した個人として、常に「正義」を反芻し、反省する宗教的・倫理的な国民性がある、絶対的な個人としてあるが故の西洋的な「正義」がベースなのです。そういった文化がない(絶対も個人もない)日本人には理解しがたい観念でしょうね。
[DVD(字幕)] 8点(2011-05-31 22:10:09)(良:2票)
19.  遥かなる山の呼び声 《ネタバレ》 
『幸福の黄色いハンカチ』へ繋がる前章という位置づけもできるが、倍賞千恵子を中心として見れば、民子3部作の最終章であり、『家族』から10年目の続編という見方が妥当だろう。  この物語は、民子の物語である。 民子(倍賞千恵子)と武志(吉岡秀隆)親子の元に現れる一人の男。高倉健。彼は、70年代を貫く山田洋次作品の中のゲストであり、主役はあくまで民子である。民子は、これまで家族の中の妻と母という立場であり、女ではなかった。今回、『遥かなる山の呼び声』で、高倉健という適役を得て、彼女は初めて女になった。この物語はそういう物語としてある。そこにこそ心動かされる。  高倉健は当時、40代後半。個人的には、この頃(70年代後半から80年代前半)の作品が高倉健の最も「健さん」らしい味わいに溢れていると思う。傑作も多い。男も惚れる。子供も女も皆健さんに惚れてしまう。本作でも寡黙だが実直、男気に溢れ、喧嘩も強い。逃亡犯という陰を持つが頼れる男、「健さん」がそこにいる。  高倉健が別れを告げた夜、「どこにも行かないで、私寂しい」と彼にすがりつく民子。そのシーンの切実さを想うと涙が出る。そして、別れの朝のシーン。列車内でのハナ肇とハンカチ。僕らは2度の号泣を覚悟しなければならない。この映画は山田洋次監督の70年代の作品群の最後に結実した大きな結晶のような作品である。『家族』から始まった民子の受難はここでもまた続くことになるけれど、それは愛という結晶を得ることによって、希望へと結実したのである。  とにかく素晴らしい映画。何度でも繰り返し観られる。実際、昔はテレビで何度も観た。今はDVDで何度も観る。北海道の大自然、時に厳しい自然の姿があり、それを含めた美しさに圧倒される。 本作は、山田洋次作品の金字塔であり、日本映画、不朽の名作である。
[DVD(邦画)] 10点(2003-09-08 00:34:46)(良:2票)
20.  クロッシング・ガード
ジャックニコルソン、ちょっと濃すぎるか。それはさておき、このショーンペン監督2作目は、彼の前作<傑作でもある>「インディアンランナー」と同一線上にある作品といえる。「兄は弟を追いながらそのことの意味を理解できない。弟は兄に追われながらその理由を失っている。」「インディアン~」のレビューで僕はこのように書いた。人が理由なく分り合えないという切実さを描いたのが「インディアン~」であれば、「クロッシング~」はその地平をさらに一歩進め、そして反転させ、そこからポジティブな回路を模索しているように思える。追う者と追われる者という図式は同じだが、双方にはそれぞれ、そうするための理由が存在する、加害者と被害者という明確な理由があり、それは、お互いが分かり合える足場を既に失っていることを意味するのだ。にもかかわらず、お互いがその「分かり合えなさ」に対する信憑すら持てず、失った足場の上空でもがきながらも理解への希望を捨てていないようにみえる。絶望的な立場を超えて、人と人はどうコミットし得るのか。いや、絶望的だからこそ、意味を求めてコミットする、その向こうに何があるのか。それは非常に難しいモチーフだ。この作品ではっきりとその答えが示されているとは言えないし、作品自体も1作目に比べて散漫な印象がある。ただ、目指すべきところには大いに共感できるし、正直、ぐっときたんだなぁ。この監督、やっぱり只者ではない。ショーンペンは今後も注目すべき監督であることは間違いないだろうね。
9点(2003-10-09 23:55:34)(良:2票)

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