1. ガメラ 大怪獣空中決戦
子供の頃、ゴジラよりもガメラの方が好きでした。「俺ってカッコいいでしょ」みたいなゴジラより、弱くて、すぐやられちゃって、それでも健気に立ち向かってゆくガメラが好きでした。もちろん、クラスでは少数派で、「君って、話が判るね」っていうのは1人だけでした。そして、ガメラはお腹に3本の傷を残したまま、私の前から姿を消しました。その後、子供の頃の思い出を破壊するような、しょーもないパロディとムチムチのレオタードのお姉さん達ばかりが印象に残る、悪夢のような映画がチラリと登場した後、長い長い眠りの末、すっかり大人になった私の前に、また姿を現してくれました。ガメラは、やっぱりガメラでした。弱くて、すぐ緑色の血を流して、でも一生懸命悪い怪獣に立ち向かいます。子供の頃が甦ってきました。「ガメラがんばれ!」スクリーンのガメラの姿に、涙がじょーじょー出てきました。やっと帰ってきてくれたガメラは、怪獣が怪獣らしくいられる世界で、いきいきと動いていました。映画が終わってロビーに出ると、ちょっとぽふぽふした感じの人間サイズのガメラが子供達に囲まれて記念撮影をしてました。その、無邪気にガメラにまとわりつく子供達を見て、またちょっと涙が出そうになったので、急いで映画館を後にしました。 [映画館(邦画)] 9点(2003-11-25 09:57:45)(良:14票) |
2. SPACE BATTLESHIP ヤマト
《ネタバレ》 こんなん早いモン勝ち。長文注意。これからいっぱい批判が出てくるでしょうが、かつてアニメ映画版の初日に徹夜して並んだモロなヤマト世代な私から言わせて貰うと、元々『ヤマト』なんてこんなモン。こんなモンに熱狂してたんですよ。原作を冒涜してるとかいう評もありますが、そもそも当時からみんなその内容にツッコミ入れながら見てたっての。ここがキャラ弄りなアニパロの起源なんだし。『惑星大戦争』から『宇宙からのメッセージ』を経て『さよならジュピター』でトドメを刺された国産SF大作映画が、ここに久しぶりに甦ったって悦びをさ、ゴチャゴチャとウザい事言ってわざわざ貶めたくもないしねぇ。確かに沖田艦長を始めとして、島とか徳川機関長とか真田さんとか斉藤とかドラマのワリにキャラが弱いし、佐渡先生とか相原とか性別を変更した必然性はなかったし。一作目に『さらば』をブレンドしちゃう事によって、ボヤけた部分もありますよ。ワリと簡単にイスカンダルまで到達しちゃって、旅が短か過ぎな感じがしますし。つーかワープあっさりし過ぎ。この一作だけで簡単に完全に終わらせちゃうなよ!とも言いたい。でも、日本映画特撮史におけるお笑いポイントな色塗りなりきり外国人を避けるためとしか思えないデスラーとスターシャ(テレサブレンド)の描き方はあれで仕方ないと言えますし、声でちゃんとリスペクトしてるし、ヤマトはやっぱり左向きに旅立って左向きに波動砲撃つモンだし、第三艦橋は壊れてナンボだし・・・って結局ウザい事言ってますな・・・。でもね、ヤマトで特撮映画で育ってきた私が、これを否定する理由なんてのが見つからないんですよ。映像で音楽で、あの感覚を甦らせてくれる高揚感溢れる瞬間が訪れるたび、もう全肯定!って。ここは素直にヤマトの実写映画化、国産SF大作を甦らせてくれた事を喜ばせて頂きましょう。今回はもう、人の事は知らん。 [映画館(邦画)] 9点(2010-12-01 21:15:15)(良:12票) |
3. ガッチャマン
《ネタバレ》 ぼくがおたくになったのは『ヤマト』でも『ガンダム』でもなく、『ガッチャマン』のせいです。なのでぼくは『ガッチャマン』にとくべつなおもいいれがあります。『ガッチャマン』はいつもてつじゅうメカとたたかうおはなしでしたが、そのはいけいにはかなしいドラマがたくさんありました。それにすっかりみりょうされました。 そんな『ガッチャマン』がえいがになるというのでたくさんのふあんとちょっぴりのきたいをいだいていました。 今日見たえいがは、なんだかとてもざつでいいかげんなつくりでした。えいぞうやエピソードがとびとびでちっともつながってなくて、いちいちとうとつです。でもしんせつにセリフでぜんぶせつめいしてくれます。だからとてもセリフがいっぱいです。 あと、たいへんなときにラブラブなおはなしをしたり、ピンチのときになぜかてきから目をそらしたり、しんじゃいそうなぎりぎりの時までおはなしすることにむちゅうだったり、やっぱりゆとりせだいというのはちがうんだなぁってかんしんしました。 いろいろなことをつっこみたいえいがでしたが、なんといってもいちばんこまったのは、まったくちっともぜんぜんおもしろくないということでした。つくりてのあいがないというのはかなしいことなんだなあとおもいます。 やっぱりぜったい『ガッチャマン』のほうがおもしろいとおもいます。今日みたえいがはたぶん『ゆとり戦隊アホレンジャー』とかいうえいがだとおもいます。 それで『ガッチャマン』のえいがはどこでやっているのでしょうか? それともえいがになるってゆめで見たのだったかな? [映画館(邦画)] 1点(2013-08-24 22:50:50)(笑:6票) (良:3票) |
4. 劇場版 鬼滅の刃 無限列車編
《ネタバレ》 「映画いっぱい見てるのに?」「オタクなのに?」ってかなりキメハラ喰らい気味だったので、ネトフリでテレビシリーズ26話イッキ見した上で見てきたわ。 映画は、アニメ表現の低い限界点の問題がつきまとう?、みたいな視点で見始めたのだけど、それ以前の問題だったわ。物語の途中から始まって途中で終わる、これ一作では映画作品としてキチンと成立してないシロモノ。ただのテレビシリーズの延長、26話の続き。何しろ画角だってビスタサイズですらないんだもの。テレビと一緒で16:9よ。 テレビシリーズはそれなりに楽しめたのね。アニメ独特の低い低い表現の限界が気になりはしたけれど、アニメとしてのクオリティは高い方だったし、物語もありがちとは言え楽しめたわ。善逸と伊之助がひたすら空回りして物語の進行を阻害しててウザー、とか禰豆子は重要なキャラなハズなのにほったらかしな時間長過ぎてイライラ、とかあったけど。 でも、映画は映画としてキチンとして欲しいのよ。もう全然テレビシリーズと変わんない。伊之助は今回、頑張ってていいカンジだったけど、禰豆子ほったらかしモードは映画になっても相変わらずだし、キャラがみんなして心の声で状況から心情から物語から何から全部説明しちゃうのも相変わらず。 映画ならではのケレン味とかね、独自の映像表現とか欲しいわけ。元からカッコつけてるんで映画で特に突出させる必要はありません、みたいな? 原作準拠なので仕方ないです、とか? 今回、煉獄さんの映画として特化しました、みたいなカンジなのだけれども、だったらもっと煉獄さんに寄った構造で良かったハズよ? 映画の視点は炭治郎にへばりつき過ぎてて煉獄さん、かなり唐突な存在だったし。後半のアイツは伏線無しで何故か夜明け前にのこのこ出てくるし。そこら辺は別に原作と違って映画を綺麗に流してみせるための再構成をしていいのよ? 映画作家としてのウデはちっとも見えてこないのよね。 コレが日本の映画興行収入の記録を更新するカンジなのだけれど、こんなレベルの作品でいいのかなぁ? テレビシリーズや原作見てる人前提とか、こんな猟奇的な作品(血しぶきブシャブシャ、生首ころころ、腕やら足やら切れまくり)が小学生に大ウケとか、アタシの周囲の映画クラスタが揃いも揃って『鬼滅』からは目を逸らしてるとか、色々あるんだけど、マンガ=アニメの狭い世界でみんなで揃って閉塞してるカンジがどうにもあまりキモチ良くないのよね。暗く閉塞したコロナ禍での生活を象徴するような作品、ってネガティブに思えてしまうのね。 [映画館(邦画)] 4点(2020-12-01 19:33:32)(良:8票) |
5. デビルマン
この点数、私のレビュアー生命の危機かも。えーと、ネット上で散々な言われ方をしておりますが、私にとっては目くじら立てる程でもないフツーの駄作でした。脚本に全く流れが存在していない、主役の演技が壊滅的、という映画なのですが、少なくとも「地獄堂霊界通信」「新宿少年探偵団」「ビッグマグナム黒岩先生」あたりが醸し出していたデビルパワーには到底及んでいないんですよね。意外にマトモで肩すかし。中途半端に変身した明の体が貧相で情けない姿でも、「黒岩先生」でミョーにデカいヘルメットに小さな体でバイクから降り、演技なしの棒読みセリフを発声する横山のやっさんほどの破滅的インパクトはないのです。キャラクターの感情がちっとも伝わってこないし、CGシーンになると全くの別映画になっちゃうし、世界が狭すぎだし、説明不足は全部ボブ・サップの喋りで片付けちゃうしと、まー、そりゃ評価すべき点がちっともない映画ではあります。でも、じゃあ、最悪なのかっていうと、もっとヒドいモノは沢山あるでしょー、と。原作から離れて人の中に棲む悪魔、異なる個性を持った者への弾圧の部分を純化させていったら、あるいはもう少し評価できたかもしれません(補足記:それが明確に表れているミーコとススムくんのエピソードは、ブランコのシーンでの印象的な映像も含めて、この映画の中での少ない評価ポイントなのです)。だけど、それでは原作に思い入れのある人も、原作者自身も納得はできないのでしょうね。ミーコ主役の映画にしろ、って言ってるよーなモンだし。私は原作を読んでもファンにはならず、思い入れもない人間なので、怒りや憤りを感じないのかな。大振り三振を期待したら、スリーバント失敗でした、みたいな映画ではありました。 [映画館(字幕)] 4点(2004-10-16 17:08:28)(笑:1票) (良:5票) |
6. おおかみこどもの雨と雪
《ネタバレ》 初日の六本木は老若男女で溢れていて、つくづく日本人は日常的にアニメに親しんでいる民族なんだなぁ、と。この映画はそんな日本人のアニメを見る能力「アニメ力」に安易に依存してしまっている気がしてなりません。茶色のトレスラインの花畑寝ころびによって一発で『魔女の宅急便』のオープニングに繋がるイメージ、『トトロ』のさつきとメイのように庭を駆けめぐり、みんなで大きな口を開けて笑う、それは監督のジブリコンプレックスと言うよりも観客の既視感、既に成立しているアニメというものに対するイメージに依存しながら映画を運ぼうとしているように思えるのです。そういう判りやすいアニメの文法をあえて無視して脚本や演出に目を向けると、この映画、隙間だらけという感じ。人の心の移ろいが悉く点で描かれていて、その流れは「観客に備わったアニメ力によって行間を埋めておいて下さい」という甘い作りになっている感じがします。母の子を育てる意志も、雪の人への心の目覚めも、雨の野性への目覚めも、村の人々が家族に向ける善意も、転校生の雪を信じる意志も、全部が隙間だらけで、それが善良なるアニメ文法の映像によって描かれる事で観客側で自動的に善良なる方向へ補完されてめでたしめでたし、みたいな。それでいいのか?と。誰かに褒めて貰いたいのかな。そもそも誰に見せたかったんでしょう? 先生に褒めて貰いたくて自分の言葉を失った作文みたいな映画だと思いました。 [映画館(邦画)] 3点(2012-07-22 00:24:03)(良:6票) |
7. 2012(2009)
《ネタバレ》 『ディープ・インパクト』の100倍、『大地震』の千倍、『エアフォース・ワン』の3千倍、『ボルケーノ』の1万5千倍、『ダンテズ・ピーク』の2万倍、『カサンドラ・クロス』の10万倍、『世界崩壊の序曲』の100万倍、みたいな前半は、パニック映画オタクな私にとっては「細けぇこたぁどうでもいいんだよ!コレコレ!」ってカンジでした。そのまま終わってくれれば十分なんですが、ここは腰砕け展開で毎度お馴染みのエメちゃん、今回も壮絶にコケさせてくれます。この脚本で猛烈に頭が悪いのは、私を含め、この映画を見ている観客の99.99999%くらいは、あの船に乗れずに死にました判定された人間なワケですよ。映画に存在を消された状態の観客が金やら地位やら権力やらで生き延びた人々のドラマ見て、何が面白いんだ?っていう。殊にクライマックスがバカ家族が巻き起こすドタバタっていう、大変にバカくさい物語で、すっかり冷めちゃった。70億人を犠牲にして辿り着くオチは、あまりに軽くバカバカしく、いくらただの娯楽映画でも、あんまり民族や宗教を軽んじたらアカン、と思いましたが、ハリウッドのおバカさん連中は真剣にコレでいいと思ってたりするんでしょうからタチ悪いです。 [映画館(字幕)] 4点(2009-11-22 16:11:51)(笑:3票) (良:2票) |
8. 天気の子
《ネタバレ》 この虚無感はなに? 家出少年と親を亡くした未成年の姉弟。高校生を殴るチンピラ。銃をぶっ放す高校生。未成年だけで入るラブホテル。高校生に銃を向ける刑事と警官。国家権力に反抗して法を犯しまくる登場人物たち。 今のアタシはそういう刺激的な(あざとい)要素を、物語を楽しむためのドラマティックな題材として捉えられる気分じゃないのよね。 「繊細なフリして無神経」ってのはアタシが前から新海誠監督に抱いてる印象。相変わらずだけど今回はそれが腹立たしくもあって。 東京の西側に生まれ育った身からすれば見慣れた風景、それが「だから?」としか映らず。街が見せる「顔」はそこに住む人間からは必ずしも正しいとは思えず、上っ面のイメージとして提示されたモノに苛立ったりもして。 そう、上っ面。なんとなくそれらしい設定や映像やキャラや美術やエピソードや歌が並べられているけれど、その内側に一体何があったのかしら?いや、何かあったのかしら? 数々の類似した映像、エピソードを思い出しつつ(『時かけ』『バケモノ』な細田作品だの『聲の形』だの『サカサマのパテマ』だの『ペンギン・ハイウェイ』だの水没系なアレコレだの、いちいち挙げるのも面倒だわ、ってそうそう、でも忘れちゃいけない、愛という名のエゴが、リアルに描かれた東京を水没を含む壊滅のイメージの世界に誘う『X』も)、それ以上の何かがあった? それらが提示したモノの意味以上のものがあった? っていうか、それらがキチンと有機的に結合して1つの作品として意味を成してた? 『君の名は。』同様、ダラダラ流れる歌の数々と共に、アタシにはコレがなんとなく感覚的に雰囲気的に酔えればいいじゃない程度のものにしか映らなかったのよね。でも『君の名は。』ほどには娯楽映画として楽しいって作品だとは思えないし(かなり殺伐としてるわ)、かと言って、そんなに作家性なんてあったかしら? 愛にできることはまだあると信じたいけれど(特に今は京都アニメーションに対して)、でも、この映画の愛はそもそもなんだったのかしら? アタシ、それすら見失っちゃったわ。 [映画館(邦画)] 4点(2019-07-19 23:14:35)(良:5票) |
9. アメリカン・スナイパー
《ネタバレ》 イーストウッドの映画はいつも簡潔。ただそこにあった戦争を描く、それだけ。 そこには政治や国家や思想の姿も見えず、見えるのは人間だけ。正解なんて無くて、人間同士が殺し合いをしているという現実があるだけ。 子供が人殺しをしようとする現実、その子供を殺す現実。 160人を殺し英雄となった現実、その英雄を殺したのは、イラク人ではなくアメリカ人だった、それも現実。 果てる事のない戦いの中にはためく星条旗、その積み重ねられた歴史の背後にあるのは英雄達の築いた栄誉なのか、それとも戦争の名の元に失われていったものの悲劇なのか。 そこに答えを求めたところで、答えなんて元からありゃしません。 エンドロールの無音部分に、どんな音が聴こえたか。この映画にもし正解や答えがあるとするならば、その音の中にあるのかもしれませんね。この映画を見た人、個々人の中の答え。 [映画館(字幕)] 9点(2015-02-22 00:24:43)(良:5票) |
10. パシフィック・リム
《ネタバレ》 初日に字幕版、二度目でIMAX吹替版も見て、私がさっさとレビューしなくてどうする?って感じの映画ですが、完全に機会を逃した感が。言いたい事は既に皆様が存分に・・・ 怪獣に昭和・平成ガメラの影響が見られます。銀色で尖っていて、というのは大映怪獣の特徴で形状はギロンやジグラを思わせますし、水色の発光部はレギオンやイリスのよう。 映像も嵐の中の怪獣をアオる画や、滑走から停止して見得を切ったり、怪獣が雲を抜け月夜に舞う姿など『ガメラ3』に通じるショット沢山。 もちろんそれだけではなく新旧様々な国産ロボットアニメ・特撮映画からの影響が見受けられて、それらにどっぷり浸かってきた私に、昔のワクワクが甦る夢のようなひととき。 でも、それだけではただの模倣・パロディ・懐古やオマージュに終わってしまいます。重要なのはその先、作品独自の個性。 この作品が拘っているのは鋼鉄の質感。その重々しさ、冷たさ、あるいは熱さ。 そびえたつ金属の塊、それが動く、走る、戦う、殴る。怪獣めがけて振り下ろされる鉄の拳の重量感、硬さ。 そして、その金属の塊から滴り落ちる火花と水。金属にウェットな質感を加え光を当てて輝かせる事でぐんと増すフェティズム。 雨に濡れた機体が夜の街明かりを受けて輝く様など、艶めかしいとすら感じるじゃありませんか。 それはまるでオイルを塗りたくったボディビルダーや、濡れたTシャツを着たブロンド美女の如き世界、ロボ濡らして「ステキや~ん」なんて、つくづく変態ですね(もちろん褒め言葉)って。 その拘りの映像を可能にしているのが現在の技術。それは特撮や手描きアニメでは出せない、今の時代の画。主人公が語った「過去にばかり囚われず、未来を向こう」というメッセージは、映画の在り様をも示しているようで、時が止まったままになっていた怪獣映画の未来を指し示したようにも感じられ監督の姿勢に心から感動しました。 本当は「怪獣映画の国」こそが作るべきなのでしょうが、最先端の筈な人々から懐古やオマージュに囚われたモノが生まれているような状態である以上、よその国に頼るのも仕方のない事かもしれません。 いや、元々趣味に国境なんてない!と監督自身がこうして具体的な形にしている訳ですから、民族や国が生む独自性に囚われるのも今や無意味なのかもしれません。 [映画館(字幕)] 9点(2013-08-20 21:54:40)(良:5票) |
11. ドラゴンクエスト ユア・ストーリー
《ネタバレ》 これまでアタシちゃんは山崎貴って人を幾らか評価してたわ。いえ、擁護してた、ってカンジかしら? オンチな映画を作る人だけど、まあ、いいところもあるじゃない?大目に見てあげてもいいんじゃない?って。昨日見たばかりの『アルキメデスの大戦』だってオンチなところはあるけれど良かったし。 だけどこの映画を見て、本っ当にっ、心の底からっ!大嫌いになったわ。見終ってからずーっとイライラムカムカし続けよ。 冒頭からしばし続くヘンな演出とダイジェストっぷりに「なんてオンチな映画なのかしら?」って思ったら、そこは夢だったので、ああ、そういうコト、って思ったらそこから先もずっとダイジェスト。延々オンチ(ブツ切れな展開で感情移入もへったくれもあったモンじゃなくて)な状態で、だけど『ドラクエV』をプレイした事がある人ならば色々と脳内補完できますよ、って作りで、だからそういう志の低い映画なりの楽しみ方はできたのね。ビアンカ(アスティ似)とフローラのクダリなんかね。 音楽なんかもブツ切れだし、『V』の曲だけじゃなくて『VI』や『III』『IV』の曲も使っちゃうし。ブツ切れ展開には曲が合ってない状況が多いし。『序曲』の使い方酷過ぎだし。 だけどそんなオンチな酷さっぷりもクライマックスの馬鹿馬鹿しさには霞むわ。 これは『ドラゴンクエストV』の映画化ではなくて、『ドラゴンクエスト』の映画でもなくて、スーパーファミコンソフト『ドラゴンクエストV』についてのメタ映画。 そんなモン、『世界一受けたい授業』でヘラヘラと自慢しながら見せときゃいいのよ!ってモノを本編で見せちゃうワケ。 ゲームって所詮は作り物だけどイイもんですよね~、ってそんな誰もが判りきったコトを本編で語るなっての、バカ! ちなみにこの映画はCGで作られてるんですけどね、映画なんて全部作りモノなんですけどね、でもイイもんですよね~、って「山崎貴、お前如きに『ドラクエ』とCGアニメと映画を破壊する権利なんてあるのか?馬鹿野郎!!」って怒りに燃えながら新ピカを後にするハメになったわ。 山崎貴はクズでゲスな大馬鹿野郎、これからはその大前提でこの人の映画を見なくちゃならなくなったわ・・・ 【追記】 ドラクエファンがこんなのドラクエじゃない!って感情的になってるレビュー、程度の話ではなくて(アタシ自身、実は『ドラクエV』はそんなに好きじゃない)、もっとずっと深刻な問題なので少し補足しとくわ。 クライマックスで突如、ここまで全部VRでした、ってのは夢オチの亜種、タブーよね。でも、問題は『ドラクエ』世界だけに留まってないの。 「今まで見てきたパパスの死やビアンカやフローラへの想いや冒険は、全部ニセモノですよ、作り物ですよ、だけど」っていう、その「だけど」の部分が全く上手く機能してない、上手く描けていないどころか、他の総ての創作までをも侵蝕して否定する状態になっちゃってる。 わざわざCGのコリジョン外してテクスチャ外して、ツルツルのポリゴン見せて、これが映像の真実でござい、ってモノを見せて、そこからそれでもこの世界は素晴らしい、ってモノまで復活させられてないの。キャラや作品世界を殺してしまったの。 それどころか世のゲーム、CGアニメーションは全部こういうモノなんですよ、って他作品まで全部(そう、ディズニーやピクサー、DWA、イルミネーションなんかね)巻き込んだ上で大失敗コイてるの。 それは映画やその他の映像作品総ての虚構性までをも内包しちゃってるワケね。つまり『ドラクエ』を軽視するだけじゃなく、ゲーム全体、CGアニメーション全体、映画というメディア全体、映像作品全体の虚構性を1つの作品の中で無責任に暴いた上で、その責任を取らないままで終わらせちゃってる。 もう山崎貴の稚気の成せる技、で済ませていいレベルじゃないのよね。 個人的には山崎貴=ROBOT=白組の積極的拒絶ってのをしてかないとダメだと思えてきたわ。 【追記2】 思ったんだけど、コレ『レゴ®ムービー』の出来損ないね。山崎貴にオリジナリティとか無いし。だけど愛のある無しの差は大きいわ。 [映画館(邦画)] 0点(2019-08-02 17:36:31)(良:5票) |
12. アルマゲドン(1998)
《ネタバレ》 マイケル・ベイ監督の映画って、どうしてこう余計な枝葉が多いんでしょう?ごくシンプルな本筋に、ごってごてに余分なエピソードくっつけて飾り立てるのがお得意のご様子。この映画の場合、始末に負えないのは、その余分なエピソードが、ひたすらバカが巻き起こすバカ話ばかりだという事。見ていてイライラするだけなんですけど。で、その上で取って付けたようなお涙頂戴ネタ。あれでいい映画と評価されるならば、世の中の映画、みんなあの方式を採用すればいいですよね。「北京原人」が最後にウパー!言いながら身を投げ出す。「シベ超」で閣下が「さらば!」とか言いながら自爆する。「さよならジュピター」で主人公が自分の・・・あ、これはそのまんまか。死を描いて感動させる映画がダメ、というのではなくて、死というものを道具にしちゃイカン、と思う私なのでした。 [映画館(字幕)] 1点(2003-11-23 21:15:20)(笑:1票) (良:4票) |
13. インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国
《ネタバレ》 あえて最先端なシネコンは選ばず、先行・初日のメッカ、新宿プラザで長々と並んで見てきました。コマ劇場と共に年内で閉館になる、大劇場だけど前時代的なアナクロさが漂う世界です。考えてみればシリーズ全て、この劇場で見ています。あの頃に比べ、スクリーンは小さくなりました。音はゴワンゴワンと反響してとてもいい音とは言えません。そして、拍手と歓声の中で見たそれは古臭い、進化してない、今時それはないんでない?みたいな娯楽映画。違いと言えば舞台設定、役者の顔、そして脚本にクッキリと刻まれた、時の流れ。あの頃からどれだけ時代が移ろいゆき、どれだけ変化したのでしょう。だから最後、あの帽子を三世が被っていたとしたら、私のこれまでの思い出までひっくるめて(閉館してゆく新宿プラザにも符号してしまうように)、『インディ・ジョーンズ』が辿ってきた時代、築いてきた時代にケリを付けられたのではないかと思います。だけど、ルーカスとスピルバーグは、それをハッキリ拒絶してみせました。かつてお子様ランチと揶揄された二人の映画ですが、古びたお子様ランチの意地、今のガキのオモチャとは違うんだよ!と。『インディ』はお前らに渡さないよ!と老境に差しかかったかつてのガキ大将二人が意地になってる姿は、いっそ痛快ですらあります。ケイト・ブランシェットがステキざんしたなぁ。そして、あれがステキに見えないようなお子ちゃまには向いてない映画だよ!『○○○○』でも見ときな!(最近の娯楽映画のタイトルをなんでもどうぞ)という事なのでしょう。 【すいません追記します】この物語の核実験シーン、批判されがちですが、私は1945年の広島・長崎を境に『インディ』の世界が激しく変化してしまったという事を示唆しているのだと思います。『レイダース』のラストと対比する形で、神しか持ってはいけない力を人が手にした事で、神は死んだ。神のいない世界で神秘なんてモノは超能力や宇宙人くらいしかないんだよ、信じる心だけで救われる時代じゃなくなってしまったんだよ、と。それはスピルバーグやルーカスの現状をも自嘲気味に反映させ、だけどそんな世でもインディはインディだ、この野郎!というのが今回のオハナシなんでないのと。 [映画館(字幕)] 8点(2008-06-14 18:49:59)(良:5票) |
14. 華氏911
最初に書いておかねばなりますまい。私はブッシュが嫌いです。さて、私にはこの映画、世間での「良くも悪くもブッシュをひたすらコキ下ろしたシロモノ」という評価とはちょっと違うように感じました。ムーアの著書もそうなのですが、看板と中身に実は差がある感じ。メディア戦略によって操作されて伝えられる情報、その情報にコントロールされてしまう民衆、その危うさを、ムーアは自らこの映画で具象化してみせたのでは?と。編集や音楽によって意図的に操作されまくっている映画なのですが、実のところ政治の場もこういう事でしょ?って。タイトル部分で本番前の準備をしている政治家達の姿が映し出されていますが、それは政治もまた国民に伝えられるのは真実とは別の、加工されたモノなのですよ、と認識させようとしているのではないかと思います。メディアは物事を非常に短絡的に、二元論化して判りやすくコントロールしているのではないでしょうか。白でなければ黒、善でなければ悪。真理は決してその極にはない、そんなに単純なモノではないのに。共和党と民主党の二大政党状態が、端的に二元論化でコントロールされている状態を表しているような気がしてなりません。もっとも、その傾向はアメリカだけに言える事ではありません。民衆の中に敵を作り出し、議員が特定の市民を「反日的分子」と言い放ってしまうどっかの国もまた、安易な二元論へ堕している傾向が顕著です。某巨大掲示板に見られる、信者でなければアンチ、右翼でなければ左翼、という極論に走ってしまう原因って、一体どこにあるのでしょうね? そうそう、その国の総理も、平然と犯罪者でもない市民を非難したりしてましたけど、ひとつ言いたいのは、芸術を愛するフリするならば、見てもいない映画をケナすのはイカンのではないの? 最後に、あの無惨な被害者や死体の映像にまで真実がない、なんて言う事はできないですよね。そして、あれは、明日の自分の姿なのかも・・・。 [映画館(字幕)] 8点(2004-09-01 21:14:55)(良:5票) |
15. ゴーン・ガール
《ネタバレ》 フィンチャーらしく、少々ダラけたところがある感じで、もう少しタイトにできたんじゃないかと思います。 エピローグ部分なんて「まだ続くの?」って感じがして。その続いてゆく中に何か新たな展開があるのかと思いましたが、エピローグはあくまでエピローグの役割を果たすばかりで。1~2シーンでスパッと切ってしまった方がもっと色々な余韻を残せたんじゃないかなぁ。あの効果的なラストカットはあれこれと事後の説明をせずにさっと出した方がより効果的だった気がします(それだとただでさえツッコミが必要な細部のアラに加えて更にツッコミ箇所を増やす事になりますが)。 さて、エイミーは結局、母の描いた『完璧なエイミー』を嫌悪しつつ、一方ではそうあらねばならないという強迫観念に囚われていたのだろうな、と思います。常に理想像があって、その理想像に自分をピッタリとハメ込なければならない、そのためには手段をいとわない。理想像からかけ離れる事の恐怖に比べれば、他は大した問題ではないと。そんなエイミーを作り出したのは本と現実という二面性を創造した母親。 そしてもう1つ、大衆が求める理想像。理想的な夫婦の形、理想的な人間の生活。そこからはみ出すものを徹底的に叩く事で自尊心(と思い込んでいるもの)を維持している人々、それを煽るマスコミ。テレビやネットに触れている人々もまた、常識的、良識的な理想像に縛られて強迫観念から攻撃性を持つという点ではエイミーと同じな訳ですね。口では良識を説きつつ現実はその口とは必ずしも一致していない、でしょ? つまりこれは、ごくごく当たり前な今の人間、理想的な人間を必死に演じている人々に対するシニカルなお話し。 エイミーみたいな存在が身近にいる可能性の話ではなくて、誰の心の中にも少なからず存在するエイミーの話。 他人の問題じゃなくて自分の問題なんですよ?って、まー、そこに思い至らないといつまで経ったって円満な夫婦関係なんて築けやしないんじゃないんスか? 一生独身であろう私が言うのもナンなんですが。 [映画館(字幕)] 7点(2014-12-14 15:07:25)(良:5票) |
16. 八日目の蝉
《ネタバレ》 母の映画にして女優の映画。作品中、男は徹底的に排除され、マトモに顔を捉えられている男優は殆どおらず、唯一ある程度表情が捉えられる劇団ひとりすらも、肝心なシーンでの表情はフレーム外に排除され、そのままフェードアウトしてしまうという扱い。ひたすら映画が描くのは女達の哀しみ。母である事を奪われた女、母であろうとした女、二人の母を持ちながら母性愛を意識できずに育った女、大勢の母達に囲まれたがゆえに不器用なままに孤立していった女。その母性が生むエゴゆえに悲劇が生まれ、だけれどもその母性こそは何物にも替え難い大切なものであると静かに訴えてきます。永作博美と井上真央の、決して大仰さはないのに凄みすら感じさせる演技に圧倒されました。また『パーマネント野ばら』に引き続き小池栄子が絶妙。毎度の少しヘン、というパーソナリティが今回の映画での哀しい背景を持つ存在にぴったりとハマっていました。日本の郷土のニオイを強く漂わせた画作りも回顧の物語というスタイルに同調し、この国から生まれた独自の個性を持った母と娘の映画として、じんわりと内に染み入ってくる作品でした。 [映画館(邦画)] 9点(2011-05-12 21:42:15)(良:4票) |
17. アドベンチャー・ファミリー
【STING大好き】さま、私ってばヒネた大人になってしまいました、ごめんなさい。という事で、中学時代に名画座で見たこの映画、よいクマさんと悪いクマさんのバトル炸裂、悪いクマさんが家を襲撃するシーンは「グリズリー」の1.8倍くらいは恐かった(それじゃあんまり怖くない、って?)事が印象に残る作品であります。大自然の中で暮らしてゆく、その豊かさと過酷さの両方が描かれ、だけどあくまで物語は家族向けの、家族っていいねっ!っておはなし。ハラハラしたり怖かったり、でも、アライグマちゃんかわい~ん、コグマちゃんキュ~ト、な部分を頬緩ませながら見て、のどかなラストシーンでスッキリ。これが日本を舞台にしたら、と考えると、どうしても「る~るるるる」というヤツを思い出してしまうわけで。不機嫌な父さんの顔を思い出すわけで。母さん、アメリカの人は、いつも前向きなわけで。曲も「ちゃ~んちゃらら~ん、ちゃ~んちゃららん」という雄大な曲だったりして、こっちの「あ~あ~あああああ~」とはかなり違うわけで。国民性の違い、というものを感じたりするわけで。しかしやたらと中途半端なレビューなわけで。そういうわけで。おわりなわけで。 6点(2004-06-30 00:43:18)(笑:4票) |
18. ワンダーウーマン
《ネタバレ》 ガル・ガドットはかつてイスラエルで兵役に就き、イスラエルのガザ侵攻をツイッターで肯定したのでこの映画を評価すべきではない、というジャーナリストの文章がネット上に存在しておりますが、果たしてそれが正しい事なのかどうか、映画ファンならお分かりですね。このジャーナリストが言っている事はつまり「そんな女の作った料理など食えるか!」であり、それは十分に差別的発言です。演者のイデオロギーがどうであれ、作品は別のものとして語られるべきであり(この映画がイスラエルを讃えるイデオロギーに塗れた映画でもない限り)、リアルと創作とを同一フィールド上で混同してしまう事の愚かさは子供でも判ります。 一方、ジェームズ・キャメロン監督はこの作品が映画におけるフェミニズムを後退させてしまったと批判しましたが、そもそもジェームズ・キャメロン作品におけるフェミニズムとは『エイリアン2』のリプリー、バスケスや『T2』のサラ・コナーを見れば明らかなように「男こそが上位に存在するものであり、女はそれと同等に扱われていい」と主張しています。彼女達は見事な「男っぷり」を見せます。彼の映画に女性の本来的な上位性を見出す事はできません。 この映画を、そういうジャーナリストや似非フェミニズムのオモチャにさせてはいけません。スクリーンに映し出されたガル・ガドットのワンダーウーマンは優美である、それだけが、そしてそれこそが真理なのであり、私はただそれを支持する、それだけの事です。 [映画館(字幕)] 8点(2017-08-29 19:52:45)(良:4票) |
19. ゴジラvsコング
《ネタバレ》 最近の国産ゴジラ、『シン・ゴジラ』といい『アニゴジ』といい『ゴジラSP』といい、なーんかピンと来ないのよね。どれもゴジラ(怪獣)をダシにして描きたい事(押し並べてスノッブなナカミ)を披露するばかり、みたいな。ゴジラ(怪獣)を他のモノに置き換えたって全然構わない程度の扱い。 大体、これまでレビューで何度も何度も何度も書いてきてるけれど、怪獣と人間ドラマは水と油の関係、どっちも両立させようなんてのは無理なのよね。人間ドラマ描いてる間は怪獣をどっかにただ置いておくしかないし(海の中とか怪我して休んでますとかのんびり移動してまーす、みたいな)、怪獣が暴れてる間は人間は為す術なく右往左往して逃げ回るしかなくて。そしてそれでも無理して両立させようとすると超能力で怪獣と繋がってますとか、科学者や兵隊さんなのでいちいち怪獣の前に出ちゃいますとか、こじつけるような設定、展開をさせるしかないのよね。 で、前置きが長くなったけれど今回の映画はかなり割り切ってるのね。あくまで怪獣が主役。人間はドラマなんて抱えてなくて、ただ怪獣を動かすお膳立てをするためだけに登場するの。 もう人間達、かなりいい加減だわ。なんでも判ってるかのような科学者が何人も登場してはしたり顔で解説してくれたりして(あの陰謀論者はだからそこら辺を皮肉ってもいる存在ね)。昭和ゴジラや昭和ガメラの科学者みたいなモノよ。悪役は悪い事してます、って判り易さだしね。毎回悲壮感漂わせてる父ちゃんは今回ただ出てくるだけ。観客から「お前何してん?」ってツッコまれるだけの役。 その上トンデモ科学みたいなのも色々登場して。轟天やスーパーXなみに「それ、どう見ても飛ばないわよ?」みたいなスーパーメカ出てくるし、アレはVSキングギドラと機龍のハイブリッドみたいだし。 更になんかメカの中に入ったら動き出しちゃって悪の秘密基地に到着しちゃうとか、システム止めるにはコレがいちばんとか、あんた達、昭和ガメラのお坊っちゃん達なの? 悪の組織、セキュリティガバガバ? 一方でゴジラとコングはココロ持ってて感情剥き出しで、ふきだしポワンと出して「やっつけろ」「りょうかい」とか会話しだしてもおかしくないくらいだわ。 だからね、今回の映画は昭和、平成、ミレニアムのゴジラにぐーっと寄ってるカンジなのね。前作から続くレジェンダリーチャンピオンまつり感は更に強まったの。とにかく怪獣がどつきあいしてナンボ。でっかい生き物が大スクリーンいっぱいに暴れて壊してみせればそれで十分、それ以外に何が必要?みたいな。アタシの中にある怪獣映画って、そういうモノだし。 街並が怪獣の足で破壊されて、カメラがぐーっと上を向くとビルの間に巨大な怪獣の姿があるって、もう「コレコレ!コレが見たかったの!!」って。斜に構えた映像じゃなくて、日本から絶えて久しい、真正面から怪獣を捉えた怪獣の映画。2021年の技術で表現された昔ながらの怪獣映画。 「バカで結構」こそが『ゴジラVSコング』の矜持、誇りなんじゃないかしら? [映画館(字幕)] 8点(2021-07-03 17:48:36)(良:4票) |
20. 映画 聲の形
《ネタバレ》 耳が聞こえないというのは、この映画では障害ではなく個性であるのだと思います。これは障害者の映画ではなく、いじめの映画でもなく、個人と個人についての普遍性を持った映画、なので障害やいじめに固執すると矮小化してしまう、そこを山田監督は真面目に丁寧に、バランス良く描いています。 それぞれの自分を守るための戦いが生む摩擦、その戦いから逃走する事で更に生まれる摩擦、ひたすら繰り返される闘争の傷とその痛みの容赦の無さ。映画はそこに真正面からぶつかっています。他者のパーソナリティを受け入れると共に自分のパーソナリティも受け入れる、それがどれだけ大変な事か、どれだけの傷を乗り越えてゆかなければならないか、その闘争について映画もまた表現の闘争を繰り広げている訳です。ゆえに受け手は見ていて古傷が痛む訳ですが、映画が戦っている以上、受け手もまたその戦いに向き合い、見届ける必要があって。 そんな映画の心を示す映像表現の数々が秀逸です。アニメならではの心象風景とリアルとの共存を端的に示す、顔の上のバッテンマークは勿論ですが、足だけ、顔が欠けている、誰かが収まっていていい筈なのに空いている、そんな不安定な構図が重ねられて、ほのぼのとした絵柄とは裏腹なヒリヒリとした痛みを伴う緊張感をずっと投げかけてきます。 同じ監督と脚本家、そして同じ京都アニメーション製でありながら、この作品とは正反対に位置しているとも言える『けいおん!』(摩擦は意図的に最小限に抑えられています)では複数のキャラのモノローグによって人称がブレて、流れがおかしくなってしまう箇所も見られましたが、今回はモノローグにも制限が与えられ混乱をきたす事がない点も成長が感じられます。 決して心地良い時間を運んでくれる映画ではありませんが(そもそも主人公のパーソナリティを受け入れられない人もいるかと思います)、そこに向き合う事に大きな意味のある作品です。その闘争の真摯な姿勢を高く評価したいと思います。 [映画館(邦画)] 9点(2016-09-26 21:05:11)(良:4票) |