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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム
12年前か13年前、高校の文化祭で12人の友人たちと体育館のステージの上で歌って踊った。 ふいにその時の写真を見てみると、思わず苦笑いをしてしまうけれど、どうしたって忘れられるわけがない思い出だ。 あの過ぎ去った時間は、やはり自分にとって大切な“輝き”なのだと思う。  前作「SR サイタマノラッパー」とストーリーのプロット自体は殆ど同じで、主人公の性別を男から女に変えただけの“二番煎じ”と言えなくはない。 しかし、僕はこの続編に一作目には無かった抑えきれないエモーションを感じずにはいられなかった。  この映画で描かれた主人公たちの過ぎ去った“輝き”と自分自身のそれとがオーバーラップしたことは、その大きな要因だろう。 けれど、決してそれだけではなかったと思う。  借金返済、失恋、堕胎、傷心、喪失……20代後半の彼女たちが抱える問題は様々で、この映画の中でそれらの問題が総て解決されるわけではない。 むしろ、殆どの問題を丸々それぞれが抱えたまま、映画は幕を閉じる。  しかし、少なくとも彼女たちは、如何なる時も自分たちが“何か”を決断し、実行しなければ、この先を生きていくことが出来ないということをよく知っている。 そのそれぞれの姿は、決して美しくも格好良くもないけれど、根本的に幼稚な「男」に対して圧倒的に“オトナ”で、故にとても凛々しく見えた。   ほころびは非常に多く、決して完璧な映画ではない。故に鑑賞直後の評価は“充分満足”した上で8点とした。 しかし、気がつくと「シュッ、シュッ、シュッ~♪」と口ずさみ、YouTubeで「B-hack」のPVを繰り返し観ていた。 「ああ、これはやはり“特別”だ」と自ら思い知り、点数をつけ直した。   エンドロール、主人公はリリック書き直した曲をヘッドフォンで聞きながら、母校をはさむ川沿いを歩いていく。 その姿には、かつて確かにあった“輝き”を懐かしみつつも、経てきた時間の距離を認め、“今の自分”を認める強さを感じた。  “ハートのロイヤルストレートフラッシュ”が出揃うハズがないことを彼女たちはとうに知っている。 でもだからと言って立ち止まっていい理由にはならないし、立ち止まってなどいられない。 本編のラストカットに映し出されるままに、傷つき、小さく輝き、彼女たちは“何でもない道”を少し胸を張って歩いていく。
[DVD(邦画)] 10点(2012-05-09 15:29:03)(良:2票)
2.  エル ELLE
あまりにセンセーショナルなオープニングが、この映画のすべてを物語り、そこから始まるさらなる衝撃を暗示している。  白昼、自宅にてレイプ被害に遭った主人公ミシェルは、只々冷静に、荒らされた室内を片付け、風呂に入り、“寿司”の出前をとる。 そして平然と、来訪予定だった息子を笑顔で招き入れる。 冒頭から観客は、「?」に埋め尽くされる。(“ホリデー巻”って何なんだ?)  劇薬的なストーリーが進むにつれ、「?」の数々は消化されるどころか、更に増大し膨らんでいく。 その理解し難いストーリー展開と主人公の言動は、極めて倒錯的に映り、混沌極まる感情の渦に呑み込まれてしまう。 鑑賞直後は、とてもじゃないが整理がつかず、めくるめく感情の一体どれから処理して良いのか分からなかった。 けれど、取り敢えず、この映画において「彼女」が繰り広げる立ち振舞のすべてに参ってしまったことは明らかだった。   タイトル(ELLE=彼女)がダイレクトに指し示す通り、この映画で刻まれたものは、主人公が体現する現代社会における「女性」の在り方そのものだ。 レイプ被害に遭いながらも、努めて冷静に“事後処理”をし、警察に通報することもせず、一人“犯人”を追う主人公の女性の姿は毅然として見える。 しかし、その姿を=「強い女」と捉えることは浅はかだ。 彼女は決して「強い女」ではない。  そもそも「強い女」とは何か。  レイプされ、それが無かったかのように耐え忍ぶ様を「強さ」と呼ぶのなら、それこそあまりにも馬鹿げている。 だがしかし、その馬鹿馬鹿しさと愚かしさに埋め尽くされた価値観が、この社会に我が物顔でのさばっていることこそが「現実」なのだ。 現実社会でのレイプ事件においても、取り調べを行う男性刑事は愚劣な憶測を押し付け、大衆からは好奇と侮蔑の視線が降り注ぎ、被害者を“セカンドレイプ”で貶める。   突然の悲劇により打ちひしがれた主人公ミシェルが、その直後からとった行動のすべては、恥辱と屈辱、自分の存在性を内外から押し潰そうとするあらゆる“攻撃”から自らを守り、一人の女性として存在し続けるために避けられないことだったのだと思う。 彼女が見せる言動と感情のすべては、あまりに理解し難く衝撃的である。 しかし、そうせざるを得ないこの社会の病理性こそが、最も忌むべき恥部だ。   主人公ミシェルを演じたイザベル・ユペールが言わずもがな圧倒的である。 60代に入りながら唯一無二の美貌と女性としての存在感をこの大女優が示してくれたからこそ、この特別な映画は成立している。 数多のハリウッド女優たちがオファーを断ったらしいが、オファーを受けたイザベル・ユペールの勇気こそが、ミシェルというキャラクター造形を創り上げたのだろう。   そして、個人的には、先日観た「ブラックブック」に続き、奇しくも立て続けにポール・ヴァーホーヴェン監督作に打ちのめされた格好だ。 様々な時代、様々な境遇の中で、闘い続ける「女性」の強烈な姿を、偏執的、変態的に描き続けているこの名匠のぶれない「視点」は、時代が彼に追いついたかのように極めて重要な「意識」を観客に植え付ける。 もしこの映画が、一昔前の価値観の前に晒されていたならば、もっと一方的なバッシングに覆い尽くされ、これ程の一般的な評価は得られなかっただろう。  勿論、現状においても批判の声も多いと聞くし、拭い去れない不快感を示す人も多かろう。 しかし、この映画はそんな必然的な賛否両論を恐れず、勇気を持って新しい女性像を描き出すことで、映画表現のネクストステージへの歩みを確実に進めている。  そうして振り返ってみると、この映画の「彼女」とは必ずしも、主人公ミシェルのみを捉えたものではないのではないかということに気づく。 主人公の親友アンナも、老いた母親も、息子の妻も、元夫の恋人も、そして“隣人”の妻も、それぞれが“闇”を孕んだ思惑と感情を秘めひた隠しにしているように見える。  「彼女」たちは、それを馬鹿な男たちのように安易に曝け出し誇示したりはしない。 “闇”すらも武器にして、懐に仕舞い込み、美しく、強かに、この愚かな世界を歩んでいく。
[映画館(字幕)] 9点(2017-09-20 07:59:27)
3.  X-MEN:ファースト・ジェネレーション 《ネタバレ》 
過去の「X-MEN」シリーズは一通り観ているが、決して好きなアメコミ映画ではなかった。 面白くないと感じる最大の要因は、主人公のウルヴァリンのキャラクター自体に魅力がなくて、アメコミ映画に必須であろう高揚感を感じることができないことだ。 同シリーズの場合、物語の軸になっているのは主人公の活躍ではなく、プロフェッサーXとマグニートーの積年の対立であり、爺様同士のせめぎ合いになってしまっている点もエンターテイメント映画として華がなかったと思う。  しかし、今作は違った。圧倒的に面白かったと言える。 やはり、そもそも物語の軸であった「対立」の根源を描いている点が、とてもドラマ性に溢れ、プロフェッサーXとマグニートーの若き時代を描いた瑞々しさが、過去の作品にはなかった娯楽性に繋がっていたと思う。  主人公の二人には、それぞれに決して譲ることができない使命感と葛藤があり、信頼と絆を構築しつつも徐々に露になってくる「対立」には、単なる善悪の関係性ではないドラマの深みと説得力があった。 その他のキャラクターにも確固たる存在感があり、初めて「X-MEN」という素材の特徴を生かした群像性とそれに伴うエンターテイメント性を発揮出来ていたと思う。 ジェイソン・フレミングが演じていたと後から知った敵キャラの“アザゼル”が格好良かったり、もう少し活躍させてほしかったがCIAエージェントを演じたオリバー・プラットなど、脇役の存在が魅力的だったことも作品全体の質を高めている。  そして何よりも、ケビン・ベーコンを悪役のボスに起用していることにキャスティングのセンスを感じる。 その悪役が最凶に強くて、主人公のふたりが連携して何とか打ち勝ち、その勝利が皮肉にも彼らの対立を深めるという顛末には、決して短絡的ではないテーマ性とストーリーの緻密さが表れていた。  過去のシリーズ作品を布石にして、ようやくエンターテイメント映画として完成した“センスの良い映画”だと思う。 
[映画館(字幕)] 9点(2011-07-10 12:46:55)(良:3票)
4.  英国王のスピーチ
巡り巡ってきた望まぬ「王座」に対して、主人公の英国王が、妻にすがり泣く。  吃音症に悩む内気な王が、風変わりな聴覚士の指導と友情により、困難に立ち向かっていく様を描いた映画であるが、個人的なこの映画のハイライトは、このシーンをはじめとする、王とその妻の「夫婦愛」だったように思う。 自分自身に自信が持てない夫を、明るく、行動的に支える妻。その妻を心から愛する英国王の情愛が、具体的な表現で描かれるわけではないけれど、画面から溢れるように伝わってくきて、それで涙が溢れた。  吃音症のためまともにスピーチが出来ない英国王。その改善にあたった風変わりな言語聴覚士。内気な英国王を支える妻。 プロットは王道的であり、ベタだ。ただ、この三者の様を一流の俳優がとてもとても丁寧に演じ、その演技の様を監督がこれまた丁寧に切り取っている。  英国王を演じたコリン・ファースは、気弱だが確固たる責任感と使命感に立ち向かう王の様を、言葉を発する唇の端々まで丁寧に演じていた。 ジェフリー・ラッシュは、相変わらずの独特の存在感が役に合致し、まさに「名優」による「名演」だったと思う。 個人的に最も良かったのは、やはり英国王の妻を演じたヘレナ・ボナム=カーターで、“コルセット・クイーン”の呼称にふさわしく英国貴婦人のたたずまいをベースに敷きながらも、快活で夫への愛に溢れた王妃を好演していた。 この3人の名優の演技を、新鋭の監督が独特の構図で巧みに映し出したと思う。  派手さや驚きはないが、だからこそ映画としてのクオリティー高さが滲み出るように伝わってくる作品だったと思う。 アカデミー賞の「本命」の一つしてふさわしい、良い映画だ。
[映画館(字幕)] 9点(2011-02-27 10:25:05)(良:2票)
5.  映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団 はばたけ 天使たち
「じゃあ見たことのある回路に直しちゃえば?」 と、のび太に促され、ドラえもんは敵対するロボットの電子頭脳を無理やりに改造する。 “ジュド”という名前だったその電子頭脳は、その後うんともすんとも言わなくなり、ドラえもんたちの“従順な味方”となる。   これは、今作のオリジナルである1986年公開の映画「ドラえもん のび太と鉄人兵団」の1シーンだ。 当時5、6歳だった僕は、この作品を何度観たか分からない。他のドラえもん映画と同様に、VHSにダビングされたものを繰り返し観ていた。「のび太と鉄人兵団」は、数あるドラえもん映画の中でも、屈指の傑作だと今でも思っている。   ただ、今改めて前述のシーンを振り返ってみると、なんて“残酷”なシーンだったのだろうと気づく。 地球人を奴隷化しようと画策する侵略者だとはいえ、文字通り“手も足も出ない”相手に対して、有無も言わさず脳改造を施すくだりは、あまりに非人道的もとい“非ロボ道的”だ。 子どもだったとはいえ、その展開を当たり前の様に看過し、今現在に至るまで、無邪気に「正義」と疑わなかった自分自身の浅はかさを今更ながら感じる。   その“気づき”を与えてくれたのもまた「のび太と鉄人兵団」だったわけだ。 リメイクである今作でも同様のシーンが展開される。 しかし、「改造しちゃえ」と言うスネ夫に対し、のび太が「それは残酷だ」と明確に否定するシーンに“改変”されている。 そのシーンを目の当たりにして、僕は初めて30年前の映画作品の確固たる「弱点」に気がつくことができた。 この点一つを取っても、このリメイク作の意義と価値はあまりに大きいと思える。   自分自身の子どもたちがドラえもん映画を観始めるようになったのをきっかけに、長年スルーしていた新世代のドラえもん映画を観るようになった。 重度の“F先生”信者なので、自身が子どもの頃に慣れ親しんだ“大長編シリーズ”のリメイク作に対しては特に敬遠気味だったのだが、昨年「のび太の恐竜2006」を鑑賞して、その“食わず嫌い”は一気に吹き飛んだ。 「のび太の恐竜2006」、「のび太の新魔界大冒険」、そしてこの「新・のび太と鉄人兵団」と観てきたが、どれもF先生の原作をリスペクトした上で、現在の価値観を踏まえた弱点を見極め、真摯に改変に挑戦する姿勢が素晴らしいと思う。   無論、藤子・F・不二雄を信奉する者として、リメイク作に全く不満が無いわけではない。 今作にしても、スネ夫所有の“ミクロス”の露出が、新しいキャラクター設定に伴い大幅に減少してしまっていることなどは決して小さくないマイナス要素ではある。 それに“改変”されているとはいえ、突き詰めれば倫理的にスルーできないストーリー展開上の強引な要素も残っている。   だがしかし、前述の“気づき”を筆頭に、オールドファンをも認めざるを得ないリメイクの意義をしっかりと示し、今の子どもたちに向けて新しい「鉄人兵団」を公開する価値は、とても大きいと思う。それはいくつかのマイナス要素など補ってあまりあるものだ。   リルルとの別れに号泣し、スーパーコアラッコのパズルをするドラえもんに萌える。ドラえもんファンとしても、このリメイク作の仕上がりは申し分ない。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2019-01-14 17:43:54)
6.  エイリアン:コヴェナント 《ネタバレ》 
創造主によって創られた人類が、新たな創造主となりアンドロイドを創った。 優秀なアンドロイドは、創造主に対して屈折した憧れと自らの存在に対するジレンマをこじらせる。 アンドロイドは、ある意味“対”の存在とも言える「生命体」と邂逅したことで、抱え続けてきたジレンマを解き放ち、彼もまた創造主になろうとする。 それは、見紛うことなき創造主に対する“レイプ”。 ああ、なんて禍々しい。   前作「プロメテウス」は、「エイリアン」の前日譚というイントロダクションを単純に捉えすぎた観客の多くが、その想定外の“語り口”に対して面食らった。 “エイリアン”という映画史上屈指のモンスターを“アイコン”として崇拝する者ほど、「こんなのはエイリアンじゃない!」と落胆したようだ。 個人的には、「エイリアン」シリーズに対してそれ程愛着があるわけではないけれど、それでも「プロメテウス」が紡いだストーリーテリングに困惑したことは否定できない。 SF映画として、決して面白くなかったわけではなかったけれど、粗の目立つストーリー構造にテーマに対する詰めの弱さと脆さを感じ、つくり手が描き出したかったことを掴みきれていない“消化不良”感を不快に感じた一作だった。  そして5年の年月を経て放たれたこの“前日譚第二弾”は、御年79歳のリドリー・スコット監督の趣向が、概ね良い方向に押し出された最新作として仕上がっていると思う。 執拗に引用される聖書や各種古典からのセンテンスや思想、科学的空想を踏まえた哲学性は、この大巨匠が過去のフィルモグラフィーの中で繰り返し語りつけ、映し出してきたことと尽く重なる。 自身の過去作で描き続けてきた事のある種の“焼き直し”に対して、ためらいもなければ、てらいもない。 そこに存在するのは、リドリー・スコットだからこそ許されるクリエイターとしての矜持と確信だ。   愛を知り、絶望を知ったアンドロイドは、凶暴無垢な胎児を引き連れ宇宙の果てに向かう。 果たして、“王”を気取ったアンドロイドが辿り着く姿は、神か、悪魔か。  僕たちは、大巨匠の赴くままの旅路をただ見届けるだけだ。戦々恐々と。
[映画館(字幕)] 8点(2017-10-20 23:44:22)(良:1票)
7.  エクス・マキナ(2015) 《ネタバレ》 
これは「試し」の映画である。 主人公の青年が精巧な人工知能に対してチューリングテストを試すことを軸にして、映画世界内外において試し試される構図が浮き彫りになる。 人工知能に対してテストを試みている主人公自身も、実は人工知能を開発した“社長”に試されている。 人間に試されているはずの人工知能も、実は淡々と人間を試している。 そして、或る結末を迎えるこの映画そのものに、我々観客をはじめとする現実世界の人間すべてが試されているようだった。  現実世界の天才物理学者が警鐘を鳴らしたことも記憶に新しいところだが、人工知能の進化は、いよいよ人間社会の仕組みそのものを変えてしまう領域まで達しようとしている。個人的には、その流れ自体はもはや止められまいと思う。 手塚治虫や藤子・F・不二雄が描いた世界が目前に近づいていることは、彼らが生み出した漫画世界に等しく描かれた希望と恐怖が、渦巻くように迫ってくるように感じ、高揚感の反面、困惑を否定出来ない。  ただ、それらの漫画やこの映画を観て確信したことは、新たな生命体とも言える人工知能を生み出した人間が、自身を「神だ」と驕った時点で、強烈なしっぺ返しを食らうだろうということだ。 この映画は、己を神であるかの如く“或る進化”を導き、それを支配できると、驕った人間たちの「惨敗」の様を描いている。  様々な意味で“新しい映画”ではあるが、繰り出されたストーリーテリングとその顛末は、想定よりも捻りはなく、それ故にストレートで重い。 光に満ち溢れるように映し出されるラストシーンは、前述の希望と恐怖を同時に表現しており、見事だと思う。  最後に、主要キャストの3人の俳優はみな素晴らしかった(キョウコ役の日系女優も良かった)。 その中でも特筆すべきはやはりアリシア・ヴィキャンデルだろう。 主人公をはじめとして観るものすべてを虜にしたであろう人工知能エヴァを演じた様は、勿論この映画において最大の成功要因だろう。 日本の映画ファンにとっては「リリーのすべて」の圧倒的な好演も記憶に新しい。“彼女”が今年最大のトピックスであることはほぼ間違いない。  そんな“彼女”に試されるのならば、それも悪くない。
[映画館(字幕)] 8点(2016-07-20 00:07:16)(良:2票)
8.  永遠の0
「私たちだけが特別なのではない」 映画のラスト、夏八木勲演じる主人公の祖父が秘めた真実を語り終えた後にそう付け加える。  特攻の美化だ、右傾化だなんだと、原作者の人間性も手伝って賛否の激しい作品であるが、結局この物語が最も伝えてくることは、その夏八木勲の台詞に込められていると思う。  軍人も、民間人も含めて、激動の時代を生きたこの国の総ての人たちが、悲しみも、怒りもひっくるめた「物語」を秘めて、その後の時代を何事もなかったように、耐え、忍んで生きてきたという事実。 この映画で綴られる物語はもちろんフィクションであるが、あの時代を生き、命を継いだ人たちがいたことは紛れもない事実であり、そのそれぞれの物語に対して否定も肯定もないと思う。  「戦争」においては、正義も不義もないことと同様に、それに関わった人間の行為においても、善悪の判別をつけることなど出来ない。 この物語において、生存者の“証言”によって異なる人物像が伝えられるくだりは、そのことをよく表している。  「戦争」は否定されるべきものだと思う。 しかし、ただただ一方的に偏った意見を聞き入れ、そのまま否定することも、安直で、それもまた危険なことだと思う。  あの時代を生き抜き、命を継いでくれた人たちそれぞれが語る言葉の意味を、今の時代の僕たちは今一度知り、考えていかなければならないのだと思う。   原作の時点で賛否の激しい作品ではあったが、個人的にはそれほど偏った思想を感じることはなく、むしろ生存者の証言という要素を軸にした中立的な物語だと思った。また戦争という悲しみを孕んだ物語ではあるが、構成として娯楽性の高い作品だとも思った。 「証言」を軸にした物語構成は、人気バラエティ番組「探偵ナイトスクープ」を手がけた放送作家らしい作品だとも思う。  山崎貴監督は、彼自身の最大の武器であるVFXを存分に活かして、このベストセラー作品の映画化を成功させている。 主題ともいえる“零戦”が飛び交う交戦シーンの迫力とクオリティーの高さは、間違いなく国内最高レベルであり、この作品に相応しい映像としての説得力を備えられていた。 それは、凡庸なドラマパートの演出力を補って余りある総合的な演出効果だったと思う。  キャストにおいては、“証言者”である老人たちを演じたベテラン俳優陣が皆さすがの味わい深い演技を見せてくれる。 ただここはやはり、主演俳優である岡田准一の熱演を特筆したい。 人々の記憶の中にのみ残るある意味人物像が定まらないキャラクターを、熱く、真摯に演じきって見せたと思う。 この俳優には、所属事務所の枠を越えて、今後もっと幅広い役柄を演じていってほしいと思う。   ついに特攻に赴く時、エンジンの不調を察知した主人公は一寸安堵のような表情を浮かべる。 やはり彼は、どんな心情であっても、どんなに無様であったとしても、最後まで生き残る道を模索していたのだと思う。  戦後70年。実際に、生きて、残った命の価値と、彼らが継いでくれた命の意味を、改めてよく考えていきたい。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2015-08-16 20:02:10)
9.  エクスペンダブルズ3 ワールドミッション
行ってまいりました三度目の“MATSURI!(祭り!)”へ。 いやあ……凄い。素晴らしい。  前作の時点で思い知ったことだが、もはやこのシリーズに対して「難癖」なんてものはつけられない。 “普通”の映画であれば、卑下の対象になるであろう粗という粗を通り越して、この“普通じゃない”映画の後に残るものは、「感謝」そして「感動」である。  三度、シルベスター・スタローンという“映画人”に惜しみない感謝を捧げなければならない。 この人の映画人としての見地の確かさと、アクションスターとしての生き様を全うする格好良さには、改めて脱帽。そして心の震えが止まらない。  スタローン、シュワルツェネッガー、ステイサム、ラングレンらレギュラーメンバーに、今作新たにキャスティングされたは、ウェズリー・スナイプス!アントニオ・バンデラス!ハリソン・フォード!そして、メル・ギブソン!! こうやって自分で彼らの名前をタイピングしていくだけでも高揚感が半端ないのに、そんな大スターたちが、見紛うこと無くスクリーン上でぶつかり合っているのだ。80年代から90年代にかけてのアクション映画で育ってきた映画ファンにとって、こんな幸福なことはない。  まずもって、あの映画ポスターは何だ!最高すぎるだろうよ! 出演者たちが勢揃いで会心の笑顔を見せているアレだ。 スタローンをはじめとするエクスペンダブルズの仲間たちが笑顔を見せているのはまだ分かる。しかしそこには今回完全なる悪役であるはずのメル・ギブソンまでも、彼らしい素敵すぎる笑顔を見せて並んでいる。 そこには、確実に一世を風靡したスターたちが、それぞれの栄光と挫折、紆余曲折を経て、この場に会せることに対する心からの喜びがほとばしっているようだ。 映画内の敵味方なんてどうでもいい!俺達は嬉しいんだ!!と。    スター俳優として人気が高まれば高まるほど、その後の凋落は決して避けられないものなのかもしれない。 スタローンが集めたすべてのスター俳優たちは、その辛酸を特に舐め続けてきたことだろう。 ただ、そんな彼らが、今一度アクションスターとしてスクリーンに戻り、嬉々として立ちまわっている。 その姿は、もはや涙なしでは見られない。(バンデラス!やったぜ!)   さあ!隊長!もうどこまでも着いていきます! 次の敵は満を持しての“沈黙の無敵男”ですかね!?
[映画館(字幕)] 8点(2014-11-09 23:28:53)(良:2票)
10.  X-MEN:フューチャー&パスト 《ネタバレ》 
“マイノリティー”として生まれ生きることの意味と意義。それに伴う苦悩と苦闘。 その全世界的、全歴史的において普遍的な“苦しみ”を根底に敷き、一貫して描き抜いてきたこの世界観において、分かりやすい高揚感などはそもそも存在し得ない。 なぜならば、そこには明確な「敵」や「悪」が存在するわけではないからだ。  目に見えるすべてのものは、敵にもなり得るし、味方にもなり得る。 自分自身と、己に対峙する他者を寛容し、希望を見出せるかどうか。 それはまさに、ウルヴァリンやマグニートーをはじめこのシリーズに登場するすべての“X-MEN”が苦悩の末に辿り着いた真理だったろう。  そしてそれは、ミュータントではない我々「人間」が最も戒めなければならない最大にして永遠の“テーマ”であるということを、この最新作は強く訴えかけている。  主人公であるウルヴァリンの活躍が殆ど無いこと、明確に魅力的な悪役が存在しないこと、センチネルのただただ絶望的に無慈悲な強さ……今作は、高揚感やカタルシスを意図的に排除している。 その代わりに、差別による狂乱と恐怖の中で敢えて“銃を置く”という「選択」が、大いなる勇気と希望を生み出すということを、驚くほど愚直に描き出している。 その最も重要なシーンでさえ、ウルヴァリンは川底に沈んでいるし、プロフェッサーは瓦礫に埋もれている。 ヒーローが活躍する華々しさなどまるでない。  繰り返される歴史上の悲しみにおいて、本当に必要なものはヒーローではなかった。 必要だったものは、最も厳しい局面において、最良の未来を選び取ることができる「勇気」そのもの。 この高揚感に欠けたアメコミ映画が14年かけて描いてきたことは、そういうことだったのだろう。  チャールズとエリック、そしてローガン、彼らの長い長い苦闘がついに報われ、苦悩が払拭されたラストシーンは、多幸感に溢れている。 タイムパラドックスを主軸においたストーリー展開は少々強引だけれど、ウルヴァリンの悲しみをすべて打ち消す、大胆で慈愛に溢れたこの大団円を見せられては、何も言えない。  このシリーズに、これほどまで愛着を持てるようになるとは思わなかった。 今一度、好きになれなかった第一作「X-メン」から観直してみよう。自分の評価が大いに転じることは、もはや明らかだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2014-06-02 23:43:08)(良:3票)
11.  エクスペンダブルズ2
クライマックス、シルベスター・スタローンの太い腕がナイフを地面に突き立てる。 その“腕の太さ”は、単純な筋肉の誇示ではなく、この映画俳優が長年に渡り培ってきた成功と苦労の象徴のように見えた。  満を持してこの映画を観た翌日の日曜日、実家にて庭作業をする父親を手伝った。自分自身が育った分、当然ながら父親は確実に歳をとっている。その父親の腕と、前日に見た老アクションスターの腕が、見た目的にも、意味合い的にも、何だか重なって見えた。 もちろん良いところばかりではないが、自分がこの“腕”によって育てられてきたことは紛れもない事実であり、感謝をしなければならない。 そして、「映画鑑賞」という人生経験においても、この映画に勢揃ったアクションスターたちの“太い腕”によって育てられたということは、たぶん間違いないことだと思う。  つまるところ、この映画が世界中のアクション映画ファンにとっての「夢」そのものであることは明らかだ。 そんな「夢」の実現、そして彼らがそれぞれに苦心して経てきた映画人生そのものに、まず感謝せずにはいられない。  もちろん「完璧」などという形容が相応しい映画ではない。ただ、敢えて言うならば、「完璧」ではないことが「完璧!」と断言できる。 スタローンとシュワルツェネッガーとウィリスが、見紛うことなくそろい踏み、惜しげもなく銃器をぶっ放す。 ヴァン・ダムが、代名詞のハイキックを見事に繰り出し、極悪非道を演じる。 ステイサムは、洗練された格闘とナイフアクションで、“現トップスター”の意地を見せる。 そして御歳“72歳!”のチャック・ノリスが、“伝説的”な立ち位置でオイシいところをかっさらう。 ストーリーにおける粗なんて本当にどうでもいい。これだけの要素が盛り込まれていて、他に何が要るのかという話だ。 「良い!」と思う全てのシーンにもれなく付随する“ほつれ”も含めて、この映画の不完全な完全さだと思う。  「大人の事情」を感じてしまうジェット・リーの序盤での“里帰り”や、“マギー・チャン”役には何とかマギー・チャンを出してほしかったなどなど細かな物足りなさはあるにはある。 そして、セガールにスナイプスにヴィン・ディーゼル、見たいヤツらはまだまだいる。 「5」あたりで超グダグダになることまで、アクション映画シリーズの“お約束”と想定に入れて、まだまだ“祭り”が観たい!
[映画館(字幕)] 8点(2012-11-18 23:55:26)(良:3票)
12.  エクスペンダブルズ
この映画は、シルヴェスター・スタローンという稀代の映画人による「アイドル映画」と言って間違いないと思う。 ファンを魅了するアイドルが主演する数多の映画は、お世辞にも巧いとは言えない演技や稚拙なストーリーを目の当たりにしても、ある種の“輝き”を燦然と発しファンの脳裏に焼き付く。 そのこととまったく同じように、この映画は、往年の「アクションスター映画」を彩り続けたスタローンをはじめとする“アクションスター”がそろい踏みを見せた瞬間に、決して否定出来ない“輝き”を備えている。 それは、彼らが出演するアクション映画によって「映画体験」の第一歩を刻み、映画ファンになっていった世界中の人たちにとって揺るぎない「夢」であったはずだ。  その夢模様を、シルヴェスター・スタローンが叶えてくれたということに、より一層の感慨深さが加わっていると思う。 “ロッキー・バルボア”、“ジョン・ランボー”という娯楽映画史を代表する二大キャラクターを己の身体一つで演じ切り、アクションスターの頂点に立ったという偉業。 そして、時代の移り変わりとともに次第に忘れ去られ、蔑まれ、明確な「低迷」を経た上で、かつての二大キャラクターを新たな存在感をもって蘇らせてみせた近年の大復活劇。 もはや“シルヴェスター・スタローン”そのものが、アクションスターという存在性自体の一つの「歴史」だと言って過言ではないと思う。  そんな彼が、自らが掴み直したチャンスをもってして実現したこの『消耗品』と冠された映画には、アクションスターとして映画界の非情な荒波を生き抜いた「誇り」と「意地」に満ちあふれている。  そして、この映画において最も印象的だったのは、スタローン自らがお膳立てし、自らが主演を張っているにも関わらず、決して“おいしい”役回りを自らに与えていないことだ。 衰えた肉体を敢えて露呈するように、スタローンはぜいぜい言いながら走りまわる。 作品に集まってくれたアクションスターそれぞれにきちんと見せ場を用意し、映画の中で最も格好良いキャラクターは、今現在アクションスター映画の最後の砦を守っているジェイソン・ステイサムに譲っている。  そこには、自らが築いた「時代」を若い世代に引き継がなければならないという一人のアクションスターの熱い思いがほとばしっている。 その思いが、この映画において何よりも素晴らしい輝きだと思う。
[DVD(字幕)] 8点(2012-02-23 23:42:23)
13.  エクスティンクション 地球奪還 《ネタバレ》 
まず、95分という尺がSF映画としても、題材としても、適切であり小気味いい。ストーリーラインにおける起承転結が潔くシンプルに構築されているので、必要以上に期待することなく、また勘繰る間もなく、まるで短編のSF漫画やSF小説を堪能したような感覚を覚えた。 決して題材的に“新しい”映画ではなかったけれど、むしろクラシックスタイルなSF性は無論大好物だった。  映画ファンとしては、ハリウッド映画における名バイプレイヤーの一人であるマイケル・ペーニャが主演というところも嬉しいポイントだった。 陽気なラテン系アメリカ人を演じることが多いマイケル・ペーニャが、どこかナイーブで家族愛に溢れた父親役を演じているのはフレッシュだった。  その俳優本人に対するフレッシュさと同時に、主人公の妙な浮遊感と死んだような暗い瞳が序盤から印象的に映し出される。 最初それは、主人公役が珍しい俳優特有のぎこちなさのようにも見えていたが、無論そうではなく、映画世界の設定に起因した演出であり演技プランであった。 主演のマイケル・ペーニャは勿論、妻役のリジー・キャプランや、娘役の子役らも、適切な演技と絶妙な存在感を放っていたと思う。  繰り返しになってしまうが、余計な描写を極力挟まずに、95分という上演時間で簡潔に収めていることが、本作の最大の美点だろう。 ストーリー的にはもう少し映し出すことが可能なシーンはあったろうけれど、描きこみ過ぎていないことによるある種の“物足りなさ”が、鑑賞者に想像の余地を与えてくれ、逆説的な充足感を得られたのだと思う。  “エイリアン(侵略者)”の兵士を演じた若い俳優(イズラエル・ブルサード)の雰囲気も非常に良かったので、「逆視点」の続編を作っても面白いのではないかと思えた。  鑑賞後の感想として言ってしまえば、「SF」として非常にクラシックな題材であり、昔から同じような“ネタ”の映画や小説は溢れている。 ただ、序盤からの描き方が過剰に仰々しくなることなくシンプルに演出されているので、無闇に勘繰ることなく観られたことが、クライマックスの率直な驚きに繋がっている。 振り返ってみれば、家族の朝のルーティーンや、ホームパーティーのシーンで映し出されるべきものが意図的に存在していないなど、細やかな演出も光る。  Netflix映画として、同社の最近のメジャーな作品群と比較すると、もはや「小品」の部類ではあろうが、充分な娯楽性を堪能できるSF映画だった。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-05-19 21:55:45)
14.  映画ドラえもん のび太の月面探査記
春先、子どもたちを連れての“ドラえもん映画鑑賞”は、毎年の恒例となってきた。 父親としても、映画ファンとしても、ドラえもんファンとしても、嬉しい恒例行事だ。昨年に続き、今年も二人の子どもと、友人親子らと共に鑑賞。  コミックスの一エピソードである「異説クラブメンバーズバッジ」を原案としたストーリー構成が、原作ファンとしては興味深く、小説家の辻村深月が脚本を担っていることも功を奏し、世界観の広がりを携えた物語構築をしてくれていたと思う。 「月」を舞台にした物語は、「ドラえもん」の世界では意外に少なく、地球にとって最も身近な天体である月を舞台に長編化することは、“F先生”にとっても実は悲願だったのではないかと勝手に想像する。 原作エピソードを原案としているのだから当然ではあるけれど、「大長編ドラえもん」シリーズを原作としない“オリジナル”の映画作品の中では、これまでで最も「ドラえもん映画らしいドラえもん映画」と言えるのではないかと思った。  描き出されるテーマは、家族や友達を中心とした「絆」であり、それ自体に目新しさはないけれど、決して安直なウェットさを全面に押し出さないストーリーテリングに好感が持てた。 世代を超えた膨大な時間や、生物的な異なり、幾つもの銀河を超えた果てしない距離、そういった登場人物たちを取り巻く大きな“隔たり”を踏まえた上で、手を取り、助け合い、苦難に打ち勝っていくさまを紡ぎ出したストーリーには、表面的な分かりやすさと共に、深い物語性が共存していたと思う。  というわけで、作品自体のクオリティーは高かった。 昨年の「のび太の宝島」鑑賞後は、ストレートな“父子の絆”を受けて「泣けたー!」と言っていた娘だったが、今回は「涙は出んかったけど、とても面白かった」と真っ当な感想を述べていた。 そんな子どもの様子も微笑ましく横目に見ながら、原作ファンとしては、ムス子、あばらやくん、多目くん、ガリベンくんら、原作の小さなエピソードでしか登場しないのび太のクライメイトたちが、冒頭の学校シーンでさり気なく映り込んでいたことに、製作陣の原作愛を大いに感じた。  エンドロール後の「特報」を見た限りでは、来年のドラえもん映画の舞台は“恐竜世界”のようだ。 「のび太の竜の騎士」のリメイクか、今回のような小エピソードの長編化か、まったくのオリジナルストーリーか、例によって父親が子どもたち以上にワクワクしている。
[映画館(邦画)] 7点(2019-03-03 22:09:58)
15.  映画ドラえもん のび太の宝島
昨年は5歳の長女と一緒に映画館に赴き、実に15年ぶりにドラえもん映画の最新作を観たことが非常に感慨深かった。 そして、今年はそこに3歳の息子も加わり、封切られたばかりのドラえもん映画最新作を観に行った。 上映時間を確認すると2時間近くあり(映画本編は108分)、3歳児が大人しく観続けられるかいささか心配ではあったけれど、息子は、幼児故に座高が低くて前のシートが重なる視界の悪さを特に苦にすることもなく、終始しっかりとスクリーンを観続けていた。 その横顔を垣間見るだけで、映画好きの父親としては胸が熱くなったことは言うまでもない。 それに加えて、今作のテーマは“父子の絆”。必然的に涙腺は決壊寸前だったが、同じく親子連れで共に鑑賞していた高校時代からの友人の手前、落涙を必死に堪えた。後で聞くと、友人も同様に涙を堪えていたようだ。  新時代の「ドラえもん映画」として、完成度は極めて高かったと言っていいと思う。 “F先生”の崇拝者として、紡ぎ出されるストーリーそのものの根本的な深みの無さは、どうしても否めない。 けれど、そういったオールドファンをも充分に楽しませるエンターテイメント性と、最新鋭のアニメーションの力が、この映画には確実にあり、それはこの製作陣が真剣に「ドラえもん映画」に挑んでいることの証明にほかならないと思える。  前作でも感じたが、アニメーション表現の随所に見受けられる“ジブリ感”や“既視感”も、もはや「複製」や「類似」ということではないだろう。 新世代の若いアニメーターたちが、この国のアニメ文化が培ってきた素晴らしい名作とその表現方法やアイデアに対して、オマージュを込めて、新しい時代とそこで育つ子どもたちにしっかりと届けようとする熱い思いが伝わってくる。それは彼らにとっての「敬意」と「挑戦」の表れだろう。 (まさかドラえもんが“元気玉”と対峙するシーンが見られるとは!!)   3歳の息子は「また観に行きたい」と言い、6歳の娘は「泣けたー!」と言った。  自分を育ててくれたアニメーションが、時代や世代を超えてしっかりと継承され、工夫され、進化され、自分自身の子どもたちを同様に育ててくれていることに、僕は、父親として、映画ファンとして、ドラえもんファンとして、敬意と賞賛を惜しまない。
[映画館(邦画)] 7点(2018-03-04 20:37:32)(良:1票)
16.  映画 プリキュアオールスターズ みんなで歌う♪奇跡の魔法!
4歳の愛娘と連れ添ってのプリキュア映画鑑賞も今作で3度目。既に父娘の恒例行事になりつつあることが、嬉しい。 ただし、このTVアニメシリーズが“原則的”には幼女向け作品である以上、この映画体験の「回数」は限られている。 それはある意味刹那的であり、だからこそ何にも代え難い。  さて映画はというと、新シリーズ放映開始直後のこの季節恒例の“オールスター映画”である。新シリーズの主人公たちを主軸にして、過去シリーズのプリキュアたちが勢揃いする。 娘がプリキュアを見始めてまだ2年程度なので、当然ながら僕自身のプリキュア歴もまだまだ浅いのだが、作品を問わずこういう類いのカテゴリーを越えた仲間たちが勢揃いして戦う様に弱く、問答無用にアガってしまうタチなので、昨年のオールスター映画同様に存分に楽しめた。  特に今作は、作品自体もミュージカル映画として手の込んだ仕上がりを見せており、“美少女アクション✕ミュージカル”という「プリキュア」だからこそ成立するエンターテイメントを提供してくれていると思った。  さて、あと何回、愛娘は一緒にプリキュア映画を観てくれるだろうか。既に、欲求の発信者は娘から父親に切り替わってしまっている。 とりあえず、過去の映画作品もレンタルしてきて一緒に観ようかと思う。  あ、どうでもいいが、“ソルシエール”は“黒い時”の方がキュートだったね。
[映画館(邦画)] 7点(2016-03-29 00:03:38)(良:1票)
17.  エンダーのゲーム 《ネタバレ》 
SF映画とは、作品全体の90%が退屈でも、残り10%で示される顛末と物語に秘められた“真意”によって、その価値を誇示できる娯楽だと思う。  週末の深夜、この映画を観始めたが、6割近く観たところであまりの退屈感に伴う睡魔に勝てなかった。 翌日、惰性と諦めの中で、残りを観た。 これほど、終盤までの絶望的な退屈感を経て、観終わった後の満足感が高い映画も珍しい。  地球の存亡をかけた宇宙戦争の“戦いを終わらせるもの”に指名された少年の物語。 原作を読んだことはないが、おそらく“良い意味”で広く子供向けのSF小説なのだろう。 当然ながらこの物語世界に対して愛着などなかったが、実際この映画化作品を観終わってみると、成る程、これは世界的にファンがいて、シリーズ化されるに相応しいSF作品だと思えた。  映画の大半(というか殆どすべて)は、主人公ら選りすぐりの少年兵たちの“訓練描写”に終始する。 タイトルが示す通り、少年たちはまるで“ゲーム”をひたすらにやり込むように、「戦争」の訓練を続ける。 実際に映像として映し出される描写も、極めてハイクオリティーなゲーム世界を描いているようで、当然現実味がない。 映画がクライマックスに入っても、映し出されるものは、その“ゲーム”のような訓練描写で、僕のこの映画に対する退屈感はピークに達した。  しかし、そこから示された“残り10%”の真意によって、退屈感は一転し、充足感が満ちてくる。  この物語の主人公が子どもたちである意味。 ひたすらに訓練描写に終始する意味。 “ゲーム”の真意。  自分の想像の範囲外から途端に表された普遍的な“戦争”と“大人”の愚かさが、ぐさりと心に突き刺さる。 そして、無垢な才気と凶暴性を孕んだ主人公が選んだ道筋に、“戦いを終わらせるもの”という役割の本当の意味を見た気がした。  と、一転した満足感のもとで今作を振り返ってみると、映像的にもハイクオリティーだったと思うし、観客を敢えてミスリードしたのであろう演出の手際も良かったと思える。  途中、幾度も「もう観るのやめようかな」と思ってしまったが、これだから“SF映画”というジャンルは侮れない。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-03-21 19:57:00)
18.  映画 プリキュアオールスターズ 春のカーニバル♪
自分の“娘”と初めて映画館へ映画を観に行った。 おそらく、世の中の映画ファンの多くがそうだと思うが、自分の子どもと、初めて映画館へ行くということは、一つのビッグイベントだと思う。 あまり表立ってそういう感情は出さなかったけれど、その“イベント”に対する高揚感は、自分の中でじわじわと、確実に、高まっていた。  映画館での“初鑑賞”として観に行く映画として、まったく不満は無かった。 曲がりなりにも映画ファンとして、「観たい映画」以上に優先されるべき映画など無いことをよく知っている。 彼女が観たい映画であることが最優先だと思うし、僕自身、こういう機会でもなければ絶対に観ない映画に対する好奇心も大きかった。  映画は、前シリーズから新シリーズへの改編期のものらしく“オールスター”と銘打った、良い意味でも悪い意味でも“お祭り映画”だった。 アニメーションの技術的にも、ストーリーテリング的にも、お世辞にも「クオリティが高い」なんてことは言い難い。はっきり言って「低い」。  でもね。 そんなことは、この映画において“ナンセンス”だということを、愛娘と並んで観て、段々と思い知った。  今作の大半は、都合よく集められた歴代プリキュアによる「歌番組」のような描写で占められる。 何も知らない“オトナ”は、たぶん九分九厘「なんじゃこりゃ」と思うことだろう。  しかし、その“ミュージックステーション”よろしく繰り広げられる歌とダンスシーンを目の当たりにして、3歳の愛娘は、初めての映画館の座席の上で歌って踊っていた。  “いつも”の一人で来る映画館の場では決して見ることのない光景に、僕は一寸戸惑った。 けれど、次の瞬間には、“この映画の観方はこれが正しい”と理解した。 この映画の全く正しい観方をする愛娘を、心底微笑ましく眺めた。  それだけでも、僕のこの“映画体験”は何ものにも代え難いものだと思える。 そして、初めて映画館に訪れた3歳児に対して、そういう衝動を起こさせたこの映画の在り方は、全く正しいのだと思えた。   エンドロールまでちゃんと観終えた後、途端に「トイレ!」と言い放った愛娘を連れて走った。 作品自体のクオリティーを超越して、高い満足感を得られた。 そういうことも含めて、映画を観るという価値だということを、改めて思った。
[映画館(邦画)] 7点(2015-03-15 23:42:36)(良:1票)
19.  L.A. ギャング ストーリー
冒頭に表示される「実際の出来事に着想を得た」という但し書きは、逆に「大部分において脚色をしている」ということだと思う。 これは「映画」なのだから、勿論それで問題ないし、想像したよりもずっと「娯楽」に振り切った作りになっているこの映画の方向性は圧倒的に正しいと思えた。  実在したギャングと彼を撲滅した警察官たちの戦いを描いたというイントロダクションが先行していたので、数多のギャング映画と同様にハードボイルドで骨太な映画なのだろうと期待していた。 ところが、実在の人物たちを描いているという割には、警察官側もギャング側も揃いも揃ってキャラクター描写に漫画的で、実在感がないことに序盤違和感を覚えた。  ジョシュ・ブローリン演じる主人公は、正義感が強いというよりも、殆ど危機感が欠如したイカレ野郎だし、対峙するギャングのボスを演じるショーン・ペンも、過剰な演技プランが際立ち殆どアメコミ映画の悪役と化していた。 「なんだこのリアリティの無さは……」と呆れかけるが、次第にこの映画は「そういう映画」なのだと納得し始めることができる。  曖昧だったリアリティラインを適切なポイントで確定させた最大の要因は、何を置いても主人公の愛妻のキャラクター造形だったと思う。 実在した人物というイメージが先行してしまい、まるで説得力を感じなかった破天荒な主人公のキャラクター性を更に超越した破天荒さで包み込んでしまった彼の妻のキャラクターがあったからこそ、この映画の娯楽性は良い意味で振り切れたと思う。 危険を顧みない任務に就く夫に対して激昂した翌朝、途端に彼のブレーンとして立ち回る様や、夫の留守中にギャングによる銃撃を唯一人で受けた最中に、考えられない生命力の強さを発揮する姿には、主人公以上のヒーロー性を感じてしまった。  「アンタッチャブル」、「スカーフェイス」など名だたる傑作ギャング映画の名シーンを彷彿とさせる場面は多々あり、オリジナリティーが高いとはとても言えないけれど、“パクリ”ではなく“オマージュ”と好意的に捉えることが出来れば、映画ファンが観たいシーンが連続しているとも言える。  主人公チームはもちろん、悪役や脇役に至るまで、下手な深みなんて削ぎ落とした漫画的なキャラクターたちに次第に愛着を持ってしまう。 思っていたのとは違うタイプの映画だったが、だからこそ面白い映画だったと思える。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2013-10-26 17:10:17)
20.  映画ドラえもん 新・のび太の大魔境 ペコと5人の探検隊
新ドラ世代(声優陣が一新された新シリーズ)の劇場版第9作品目は、“旧世代”にも懐かしい「大魔境」。 オリジナル映画である1982年公開「ドラえもん のび太の大魔境」は、無論子どもの頃の何度も観た作品の一つだ。 のび太たち主要キャラに限らず、出来杉君の「ヘビースモーカーズフォレスト!」という言い回しに至るまで、記憶の中に染み込んでいる。  ストーリーそのものは、例によってアドベンチャーに憧れるのび太たちが、アフリカの秘境を探検するというドラえもん映画としてはシンプルなものだが、そこに盛り込まれたF先生のアイデアがやっぱり素晴らしい。 行き着く先が、大昔の地殻変動によって独立した進化を辿った犬の世界という設定や、絶体絶命の窮地を救うのが“10人の外国人”だというタイムパラドックス的趣向が、実にドラえもんらしいSF性とファンタジー性に溢れている。  そしてそんなストーリー展開の中で、ほぼ主人公的な立ち回りをするのがジャイアンであるという点も、オリジナル作品から変わらず、ガキ大将故の不器用さや葛藤を抱え込みながら、作中随一の感涙ポイントである「男気」をしっかりと見せてくれた。(ちなみにジャイアンはこの映画の中で5回位確実に死にかけている)  全体的にほぼ忠実なトレースをしたリメイク作なので、特に不満もないが、同時に特筆すべき新しい発見や表現も無かったことは否めない。 「のび太の恐竜」や「魔界大冒険」などその他のリメイク作が、傑作であるオリジナル作品に対して果敢に改変に挑み、新たな傑作として生まれ変わっていたことを踏まえると、そういった要素が無かったことはやや残念だった。
[インターネット(邦画)] 6点(2021-03-14 23:40:52)
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