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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2010年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  プリデスティネーション 《ネタバレ》 
「お袋でも分からないな」  冒頭、顔面の大怪我により形成手術を受けた“男”が、鏡に映った自分自身を見ながら自嘲気味につぶやく。 あまりにもさりげなく発せられるこの台詞が孕む意味と闇の深さを知ったとき、全身が粟立った。  “タイムトラベル”とそれに伴う“タイムパラドックス”描いた映画としてすべての整合性が取れている作品だとは言わない。 綻びは当然あるし、独善的で強引なストーリーテリングだと言えばその通りだろう。 極めて“いびつ”な映画である。だが、その歪さこそがこのSF映画が持つ真価であり、揺るがない独自性だと思う。  普通の人間が無意識レベルで携えている倫理観や禁忌すらも大胆に超越して描きつけられる“SF”。 まるで見てはいけないものを見てしまったような驚きと当惑が堪らない。  「自分の尾を永遠に追い続ける蛇」というフレーズがまさに象徴的なストーリー展開は、明らかな「矛盾」を生む。 しかし、その「矛盾」そのものが堂々巡りとなり、物語の帰着を許さない。 一つの疑問に対する答えがまた別の疑問を生み、繰り返され、最初の疑問に戻ってくる。まさに時空の螺旋。観客も登場人物同様に時空の狭間に閉じ込められる。 と、これ以上の言及は未鑑賞者の興を冷めさせてしまうので控えなければならない。   初見の当惑のまま、すぐに観返したくなり、再鑑賞に至った。  「お前や私のような細身の顔」  「恋に溺れた経験は?」「一度だけ」「なら分かるだろ」  「不思議だよな この顔を見ると人生を壊した男を思い出す」  「娘もその父親も過去の亡霊だ」  「俺を爆弾魔かと?」「かもな」「お前かも」  冒頭の台詞を皮切りに、劇中で繰り広げられるあらゆる台詞にこの物語の真意が込められていた。   惜しむらくは、ただ一点。 主演のイーサン・ホークの初登場は、“バーテンダー”として現れるべきだったと思う。 “掴み”として、最初のシーンが必要だったことは理解できるが、あの時点で彼の「顔」までを晒す必要はなかった。  「俺たちには この職しかない」  というメインタイトル前の台詞を“リピート”させてラストシーンを締めたなら、この作品の特異な構造は更なるエモーションと共に際立ったのではないかと思う。  まあしかし、そんなことは些末なことだろう。 そういう鑑賞者個々人の考察も含めて、様々な感情が思い巡らされることが今作の最大の魅力だと思う。 サラ・スヌークという驚異的な才能、監督スピエリッグ兄弟の確かな映画的センス、綻びを補って余りあるストーリーテリングの力、このSF映画が掘り出したモノの価値は、極めて大きい。
[インターネット(字幕)] 10点(2017-04-03 16:13:07)(良:1票)
2.  ブリッジ・オブ・スパイ
非常に地味な映画である。ただし、同時に物凄く豪華で、洗練されている映画でもある。 その印象は明らかな矛盾を孕んでいるが、それがさも当たり前のようにまかり通っていることこそが、「一流」の映画である証であろう。 そして、一流の映画を生み出すことにおいて、スティーヴン・スピルバーグは頂点に立ち続けている。 この最新作を観て、彼のその立ち位置が現在進行形で変わりないことを思い知った。  映画は、芸術に秀でたスパイが黙々と自画像を描くシーンから始まる。 敵国に潜伏する孤独なスパイの極度の冷静さと、その奥底に一寸垣間見える人間性を感じる非常に見事なオープニングである。  このソ連側の老スパイを演じているマーク・ライランスの演技が素晴らしい。長らく舞台上で確固たる実績を重ねてきたベテラン俳優らしいが、朴訥とした雰囲気の中で一瞬見せる軽妙さが抜群であった。今作でのアカデミー賞受賞は間違いないのではないか。  勿論、主演のトム・ハンクスも至極当然のように名演を見せている。 弁護士としての責務を全うしようとする主人公は、国益のために規則をないがしろにしようとするCIAの要求対して、規則こそが国家を国家たるものとする唯一無二のものだと毅然と突っぱねる。 その揺るがない信念と怒りに満ちた姿こそが、アメリカという国が長らく見失っている“強さ”のように見えた。 主演俳優に投影されたかつての大国としての本当の強さ。そこにこそ、スティーヴン・スピルバーグが今このタイミングでこの映画を撮った意味が表れているのだと思う。  若者たちが塀を越えていく。 まったく同じ時代でありながら、一方は眩い青春の日常であり、一方は銃殺の対象であった。 それは何も、この映画で描かれた時代に限られた話ではないと思う。 同じようなことが、今この瞬間にも、世界のそこかしこで起こっている。  世界一の映画監督が伝えたかったメッセージ性は明らかだ。 ただしかし、決して説教臭くなどなく、極めて娯楽性に富んだ一流の映画に仕上がっている。 ただただ巧い。流石だ。
[映画館(字幕)] 9点(2016-01-27 23:24:17)(良:1票)
3.  ブルージャスミン
ケイト・ブランシェット。現役俳優の中で最も「大女優」という呼称が相応しいと言ってもはや過言ではないだろう。 十数年来この大女優の大ファンで、彼女の出演作品を長年観続けているが、今作がキャリアNo.1の演技であったことは間違いない。 その演技を引き出したのが、ウディ・アレンである事実に、やはり“女優づかい”においてこの女好き監督に敵う者はいないと思い知る。    この映画は、喜劇だろうか、悲劇だろうか。 高慢と虚栄の果てにすべてを失った主人公ジャスミンの言動は、愚かで滑稽だ。その姿には、思わず笑わずにはいられない。 ただし同時に、栄華の極みからド底辺まで叩き落とされた彼女のさらにその先の顛末は、生き地獄そのもの。その姿には、思わず胸が締め付けられる。 詰まるところ、この映画は、喜劇であり、悲劇だ。 ありふれた言い回しを敢えて使うなら、人間の人生は悲喜劇そのものであり、描き出されるそれが生々しければ生々しいほど、喜劇と悲劇は同封されるのだろう。  主人公ジャスミンは、サイテーな人間である。それは間違いない。 けれど、だからといって彼女は「悪人」だろうか。彼女の人生を簡単に断罪できる人間が、この世の中にどれほどいるというのだろうか。 多かれ少なかれ、誰にも「虚栄心」はあるものだ。「嘘」は人間が自分を守るために許された特権かもしれない。 「サイテー」と蔑みつつも、少なくとも僕は、彼女のことを真っ向から否定することができなかった。  「栄枯衰退」なんて言葉にすれば簡単だが、それを己の身一つで体現することは生半可なことではない。 今作の“大女優”が素晴らしかったのは、栄華を極めた過去のシーンも、落ちぶれた現在のシーンも、一貫してメイクや衣装を変えずに、「虚栄」に埋め尽くされた女を演じきっていることだ。 同じ衣装やメイクが、ほとばしる鬱積とともに、みるみるくたびれ、劣化していくようだった。 「演じる」というのは、こういうことかと身が震えた。  監督の非情さを呪いたくなるくらいに、ラストはあまりに辛辣だ。 ただ、そのラストがまた主演女優の演技ともども素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2014-11-15 18:48:51)(良:1票)
4.  プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命
誰しも、本当は“真っ当”でありたい。 悪に染まることなどなければ、勿論それに越したことはない。 でも時にそういうわけにもいかなくなるのが、この世の常。 「正義」と「悪」、本来相反するものである筈のその狭間で苛まれ、持って生まれた血脈と宿命に対峙する人間たちの生き様。その行き着く先に涙する。  結局、与えられた「宿命」が何であれ、「行動」を選び取るのは当人自身であり、結果として何が起ころうとも何が起こらなかろうとも、それが“生きる”ということなのだと思える。  タイトル「The Place Beyond the Pines」は、「森林の向こう側」という意味。 薄暗く、すぐに出口を見失いそうになる鬱蒼とした茂みを越えて、彼らが辿り着いた場所は何だったのか。 終始“いやな予感”しかしない映画世界だったけれど、最後の最後、走り去って行く若き主人公の背中には、ほんのわずかではあるが、希望じみた光が見えたような気がする。  「ブルーバレンタイン」おいて、残酷で美しい男と女の身につまされる関係性を描き出したデレク・シアンフランス監督の才能は、今作によって疑いの無いもになったと思う。 前作同様に、残酷なまでに美しい映像美とカメラワークによって、俳優の演技力というよりも、描き出されるキャラクターの実在感を導き出して見せている。  前作に引き続きタッグを組んだライアン・ゴズリングの存在感は言わずもがなだが、一幕目のヒロインを演じたエヴァ・メンデス、二幕目の主人公を演じたブラッドリー・クーパーらも、他の映画では見られない“表情”を見せており、素晴らしかった。  ただし、個人的には、ライアン・ゴズリングよりも、ブラッドリー・クーパーよりも、三幕目の主人公を演じたデイン・デハーンが最も印象的だった。 作品の結論を成す三幕目なので印象度が強いことは必然だとは思うが、登場のファーストカットを見た瞬間にちょっと唸ってしまった。 昨年鑑賞した「クロニクル」で既にその才能は認識していたけれど、レオナルド・ディカプリオの「陰」の要素を爆発的に増大させ、今にも満ち溢れんばかりのバランスで場面を支配するこの若い俳優の存在感は、この先さらに特別なものになり得るだろうと断言せずにはいられない。  監督と、三者三様の主人公を演じた俳優たちを筆頭に、これからの映画界の根幹を成していくだろう才能が結集した、エポックメイキングな映画だと思う。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2014-04-19 23:23:18)(良:1票)
5.  フライト 《ネタバレ》 
いきなり映し出される或る女性の乳房。そして、その女性と一夜を共にしたらしい主人公は、元妻からの電話に叩き起こされ、苛立ち億劫に応答しながら、真っ裸でうろつく女性の下半身を凝視する。 おおよそ“ロバート・ゼメキスの映画らしくない”そのアダルティーで、どこか退廃的なムードが漂う描写に「おや?」と思う。どうやらこちらの想定外の映画が展開されるらしいということは、この冒頭数分の映像で明らかだった。  機体トラブルによる旅客機墜落を奇跡的に回避した機長。「英雄」となるはずだった彼の血液からアルコールが検出されたことから生まれる疑惑。主人公は「英雄」なのか「犯罪者」なのか。 ストーリーの大筋はこのイントロダクションの通りである。しかし、この映画は、そこに隠された真実を追っていく類いのありふれたサスペンス映画ではない。 冒頭のシーンで明らかな通り、デンゼル・ワシントン演じる主人公が決して“清廉潔白”な人間ではないという事実からこの物語は始まる。  詰まるところ観客は、映画の序盤において、「英雄か?犯罪者か?」という問いに対して、「そのどちらも当てはまる」という答えを知ることになるのだ。 すなわち、この映画が伝えようとしているものが、主人公の社会的顛末などではなく、彼の人間としての「決断」の物語であることに気付く。  人間は、歳を重ねるにつれ、自分の非を認めるということが困難になる。 それが内省的なものであればあるほど、曝け出し、悔いること自体に多大な勇気が必要になってしまう。 この映画が描くことはまさにそういうことだ。 大事故に遭遇し自らの功績により生き残った主人公が、強制的に自分自身を省みなければならない日々を経て、最終的にどのような道を選び取るのか。  そういうことが、非常に巧みな映画づくりの中で表現されている。 一見すると、無駄に思えたり、やけにまどろっこしく思えるシーンの一つ一つが、この映画が伝えるテーマに繋がっていき、上質なドラマに昇華される。 ロバート・ゼメキス監督の映画を久しぶりに観たが、安定した演出力もさることながら、齢60歳にして非常に精力的に新境地を開拓してみせたと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2013-03-02 16:59:33)(良:2票)
6.  ブルーバレンタイン 《ネタバレ》 
結婚をして2年。今年の夏に愛娘が生まれ、ちょうど三ヶ月目の夜。一人、ウイスキーを飲みながら、この映画を観た。 「絶対にこのタイミングで観るべき映画ではなかった」とも思うし、「今だからこそまだ観られる映画だ」とも思った。  「他に誰もいらない」と結ばれた二人。永遠に変わらない愛を信じる過去と、永遠に変わらない愛なんてないと知った現在が、時間を超えて交錯する。 それは世界中で無数に繰り広げられる誰でもが知っている男女の営みの形であり、だからこそ哀しく、だからこそ精神的に堪えた。  僕はまさかこんなラストだとは想像してなかったので、あまりに美しくあまりに哀しいシーンが、エンドロールの始まりとともに"ラストシーン”となった瞬間に、「そりゃないぜ」と思ってしまった。 その瞬間は、「なんて酷い映画だ」と思わずにはいられなかった。 でも、切ないエンドロールを呆然と観ながら、自分の心が説明のつかない揺さぶられ方をしていることに気づいた。端的に言ってしまうと、“動揺”してしまっていた。  “動揺”の理由は、あまりに哀しいと感じたこのラストシーンが、絶対に自分に訪れないとは、必ずしも言い切れないということを、この映画のすべてが物語っていたからだ。 もちろん今は、自分はあんなことにはならないと信じて疑わないけれど、それはこの映画の中の二人とて同じことだったろう。  人間の気持ちなど変わりゆくものだとそもそも悟って、その都度対応できればそれにこしたことはないのだろうが、そういうわけにもいかないのが、人間の無様な美しさだと思う。  観終わった瞬間に「酷い映画だ」と感じたことに間違いはないけれど、観る者のその時々の感情や環境や価値観によって、様々な映り方をするであろう素晴らしい映画だとも思った。  とても哀しい結末だったけれど、それすらもこの映画の二人にとっては経ていくべきプロセスなのだろうとも思えた。 その後の二人がどういう人生を送っていくのかということもとても気になるので、時間を経て、同じキャストで続編が制作されれば、嬉しいなあと思う。   さてそろそろ気持ちが耐えきれないので、愛妻と愛娘が眠る寝室に参ろう。
[DVD(字幕)] 9点(2011-10-08 02:09:05)(良:3票)
7.  ブラック・スワン
“バレリーナ”という人種をカテゴライズするならば、「芸術家」と「アスリート」どちらが適切か? 「バレエ」というものをまともに観たことは無いが、それに関する物語や、実在のバレリーナのドキュメンタリーを見る度に、そのカテゴライズに戸惑う。 一流のスポーツシーンを観たときに感じる芸術性を踏まえれば、「バレエ」という表現は、「芸術」と「スポーツ」それぞれの究極が重なり合う領域に存在するものなのだろうと思う。  そして、「芸術」と「スポーツ」その両方を愛するからこそ敢えて言いたい。“両者”が行き着く先は、果てしない「自己満足」の世界だということを。 詰まりは、「バレエ」という“表現”の到達点は、究極の「自己満足」であり、「自己陶酔」だ。  だからこそ、その「究極」を追い求める過程において、精神世界の屈折、そして自我の崩壊は、往々にして避けられない。 そういうことこそが、この“異質”な映画が描き出す本質だろうと思う。   ひたすらに純粋で無垢な欲望を追い求める主人公の望みが叶った瞬間、自らが抱える闇が蠢き始める。  そこには、芸術と肉体が融合した「バレエ」という表現の特異性と、バレリーナという生き方における破滅的な精神世界が入り交じり、言葉にし難い「混沌」が映し出される。  究極の「完璧」を追い求め、次第に“崩壊”していく主人公。 自分を取り巻くすべてのものを傷つけ、嘆き、その“ダメージ”がすべて自らに向けられたものだと知った時、彼女が見たものは何だったのか。   とても、色々な捉え方が出来る映画だと思う。 目が離せないシーン、とても観ていられないシーン、それぞれが連続して波打つように展開する。決して心地の良い映画ではない。 ただ、振り返ると、様々なシーンが脳裏に浮かんでは消え、その時々の主人公の心情に思いを巡らしていることに気づく。  「どういうジャンルの映画か?」と問われると、返答に非常に困る作品であるが、観る者それぞれの心理に直接訴えかけるような“一筋縄ではいかない”映画であることは間違いない。  儚さ、脆さ、危うさ、愚かしさ、そして悍ましいまでの恐ろしさ。それらすべてを包括した主演女優の美しさに圧倒された。  「レオン」から16年、よくもまあ凄い女優に成ったと思う。素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2011-05-15 01:46:01)(良:2票)
8.  プロメア
“縦横無尽”と“縦横無尽”が掛け合わされたようなアニメーションが、冒頭から怒涛のごとく繰り広げられる。 そして、主人公をはじめとするキャラクター紹介カットのみならず、一つ一つの技名や、悪役の登場シーンにも漏れなく挟み込まれる“大見得”カット。 主人公のキャラクター性を指して、「馬鹿」というワードが連呼されるが、まさしく問答無用の“馬鹿映画”の世界観に順応することに時間はかからなかった。  ストーリーは極めて「類型的」ではある。「馬鹿」がつくほどに真っ直ぐで熱い主人公が、社会と社会から“悪役”と名指しされる側との狭間に立ち、真の正義を見極めて、世界を救う話。 世界中の数多のアドベンチャー映画、ヒーロー映画で描きつくされてきたストーリーライン(型)だろう。 けれど、その「型」こそが、この映画の主人公の美学でもあり、作品としての本質でもあろう。 或る極東の島国の“火消し”の様式を信奉する主人公の生き様と、そのストーリーの性質は、しっかりと合致している。  実際、ストーリーそのものに新しさは無いのかもしれない。 だが、圧倒的にアグレッシヴなアニメーション表現と、臆すること無く馬鹿馬鹿しい娯楽性が、稀有なエンターテイメントを生み出す。 鑑賞者の趣向には大いに左右されることだろうが、ここまで振り切ってくれれば、個人的には大好物であり、終始ニヤニヤが止まらなかった。  声優陣では、元祖キャラクター俳優の松山ケンイチが主人公像にマッチしており、バディとなる早乙女太一との声質の相性も良かった。 そして、珍しく悪役にキャスティングされた堺雅人は、野望と陰謀を振りかざす権力者を嬉々として演じており、キャラクターのビジュアル的な変貌を超越して憑依しているようだった。  「ジャパニメーション」なんて言葉が定着して久しいが、連綿と継承されてきた表現を更に進化させて、新しいセカイを見せてくれるこの国のアニメ制作の現場には頭が下がる。 何百人、何千人、何万人のアニメ制作スタッフの、何十年にも渡る創意と工夫と犠牲の上に、この文化は醸成されてきた。 それは、この映画の主人公と同じく、「馬鹿」がつくほどに愚直で熱い信念によって貫き通されてきた「正義」だと言えよう。 そう、彼らは、これからもアニメで世界を救い続けるんだ。
[インターネット(邦画)] 8点(2020-08-09 23:35:46)
9.  FLU 運命の36時間
「パンデミック」というものが現実に巻き起こっている今、パニックに直面した人間、社会、国、世界の「本質」が如実に表れているように思える。 「危機」に対峙したとき、そのものの“真価”が問われるとは言うが、いざ不安や恐怖に惑い混乱する人や体制の脆さや愚かさを目の当たりにして、虚無感を覚えることは否めない。  それは無論、自分自身に対する「疑心」も含めてのことだ。 もし、突如としてパニックの中心に放り込まれてしまったならば、僕はどれだけ理性や人間性を保っていられるのか。正直言って甚だ疑問であり、そのことが最も恐怖なことかもしれない。  この韓国版“パンデミック映画”は、そういう人間の愚かさとそれに直結する恐ろしさを、盛りだくさんのパニック描写の中で描きぬいている。 決して綺麗事では済まされない人間の「性質」を遠慮なしに描きつけている部分が、非常に韓国映画らしく、ドスンと重い。  文字通り“盛々”に、古今東西あらゆるパンデミック映画やパニック映画の要素を詰め込んだ映画世界は、よく言えば豪快だし、悪く言えば節操がない。 過去作の様々なシーンと類似する部分は多々あるし、詰め込みすぎて冗長になっていることも否定はしない。 詰め込み過ぎてややまとまりに欠けるストーリー展開は、劇中のパニック描写と相まってグワングワンと混乱しているけれど、個人的には、パニック映画としてここまで振り切って観せてくれたなら文句はない。  実際、本作で描かれているような致死率100%のウイルス=恐怖が、このスピード感で襲いかかってきたならば、パニックの積算はこの比ではないだろう。 現実世界には、問答無用に善人すぎる主人公は存在しないし、大国に対して毅然とリーダーシップを取れる政治家も存在しない。そして、唯一の抗体が少女の体に生ずるなどという奇跡もあり得まい。  であるならば、ありとあらゆるパニックの描写をこれでもかと詰め込み、たとえご都合主義的であろうとも、それらがエモーショナルに解決する顛末は、娯楽映画として圧倒的に正しい。  そして、“類似品”であろうが、“パクリ”であろうが、過去の成功作の娯楽性を踏襲し、しっかりと自国のエンターテイメント映画として成立させてみせているのは、やはり韓国映画の実力故であり、その土壌の豊かさを痛感する。 それは同じように“類似品”であった2009年の日本映画「感染列島」の劣悪さと比較すると明らかだ。   2020年4月4日現在、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックの混乱はまだまだ予断を許さない。 ヒーロー不在、リーダー不在、救世主不在の現実世界は、どのような顛末を迎えるのか。 映画ではない現実に対して、“鑑賞者”ではいられない。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-04-17 17:17:06)
10.  ブラック・クランズマン
愚かな憎しみと、悲しみ、怒り、その蓄積と連鎖。 もはや、レイシスト(人種差別主義者)を非難して、否定すれば済む問題でもなければ、そんな時代でもないのではないか。 映画の中のブラックジョークが、全く冗談になっていない今現在の現実社会を想起して、言葉が無かった。  こういう映画を観て、“分かったつもり”になること程愚かなことはない。 スパイク・リー監督による映画的なバランスを度外視したメッセージ性は強烈に突き刺さる。が、だからと言ってそれを一方的に丸呑みすることも違うだろうと思う。 「アメリカの闇」なんて便利な言い回しで片付けるのも違うし、「闇」と言うならば、これは世界中全ての国と人間が共通して孕む暗部であろう。 対岸の火事と客観視できるわけもなく、まずは突きつけられたこの現実を直視するしかないと思う。まさにアメリカの国民に限らず、全世界に対して「目を覚ませ!」ということなのだろう。  映画内では、白人のレイシストたちがおぞましく、滑稽に、糾弾すべき対象として描かれているけれど、同時に彼らの悲哀も炙り出されている。 教養もなく、富もなく、ステイタスもない“団体”の面々は、せめて自らの存在価値を繋ぎ止めるために、必死になって創り上げた差別意識と被害妄想の中でしか生きる意義を見出だせない。 なんて悲しいのだろう。 差別される黒人の悲しみを越えて、差別をする白人の悲しみが描き出されているように見える。そんな愚の骨頂を目の当たりにして、結局、どちらが本当の意味で“可哀想”なのか分からなくなった。  主人公を含む刑事たちは「KKK」への潜入捜査を“一応”成功させる。 しかし、痛快なラストの顛末も束の間、主人公は「闇」の果てしなさを垣間見せられる。 結局、何も解決していないし、長い年月の中で闇雲に広がった憎しみは、虚無的に増殖し続けている。   映画の最後には、現実社会の悲痛な実映像が映し出される。 この実映像挿入の是非については議論の余地がある。個人的にも、こういう形で最後に実映像を加えてくる作品は、映画表現としてアンフェアなような気がしてあまり好きではない。 ただし、本編撮影終了後に実社会で起こったあの事件の実映像を、映画的なバランスを崩してでも挿入した、いや挿入せざるを得なかったスパイク・リーの意図もよく分かる。 それは即ち、この映画が、70年代のノンフィクションを題材にした実録映画ではなく、「現在」の映画であることの“宣言”なのだろう。 映画史における将来的な評価よりも、今この瞬間に対する問題提起と怒りを示すことの重要性と必要性を、スパイク・リー監督は最優先にしたかったのだと思う。  差別意識の問題は、アメリカ社会に限らず、全世界の現代社会における最重要課題だ。 それは社会に蔓延しているよりも、私達人間の一人ひとりの内面に蔓延る病原菌のようなものだと感じる。 根本の解決策などその存在の有無すら懐疑的だけれど、これまでとは違うアプローチが必要なのは明らかだ。  そういう意味で、この確固たる「娯楽映画」が、エンターテイメントの中で表現してみせたことは、この先の時代に向けて意義深い。
[映画館(字幕)] 8点(2019-04-18 09:45:24)
11.  ファースト・マン
これは褒めているのだが、想像よりもずっと陰鬱で、地味な映画だった。 人類史に残る「偉業」と共存していた“心の傷”と“孤独”。光と闇を等しく抱えたまま、「偉大な一歩」を残した“最初の男”の人生そのものを、俯瞰するようなシビアな目線で、リアルに映し出していた。  「アポロ計画」を題材にした映画作品といえば、筆頭として挙げられるのは「アポロ13」だろう。絶望的なトラブル(=ミッション失敗)からの奇跡的な生還を描き、王道的な感動で世界を包み込んだ1995年の傑作は今尚色褪せない。 普通に考えれば、歴史的成功をおさめた「アポロ11号」を描いた今作は、「アポロ13」以上の“大感動”を与えてくれそうなものだ。 だがしかし、その安易な想定は全くの見当はずれだった。「失敗」を描いた「アポロ13」の華々しい達成感に対して、「成功」を描いた今作がこれほどまでに重く苦しい映画に仕上がっているとは。 その意外な後味が、何とも興味深かった。  ただ、よくよく考えれば、その苦々しい後味は至極当然のことだ。なぜなら今作は、デイミアン・チャゼル監督の映画なのだから。 「セッション」、「ラ・ラ・ランド」と立て続けに、映画的な熱量と、人間のほとばしる情念に溢れた作品を生み出し、一躍ハリウッドのトップに駆け上がったこの若き名匠が、ストレートに感動的な伝記映画など撮るわけがないのだ。 「人類史上初の月面着陸」という偉業を描くのではなく、ニール・アームストロングという現代の偉人の半生と、彼のインサイドを深く深く抉り出すようなアプローチにより、この映画は極めて繊細で、危うさを秘めた作品に仕上がっている。  一人の男を描いたストーリーテリングの中で刻み付けられたのは、明確な「死」と「喪失」の連続だった。 幼い娘を亡くし、志を共にした仲間を亡くし、ミッションに向き合い、緊張と恐怖が深まると共に、主人公は盲目的な使命感と際立つ孤独感に苛まれる。その様は、誰よりも勇敢ではあるが、何とも心もとなく見え、痛々しさすら感じる。 そんな彼の生き様を映画を通じて追想することで、50年前の偉大な冒険が、いかに危険で絶望的なものだったかを思い知った。  ラストシーン、地球に帰還した主人公ニール・アームストロングは、感染予防のため隔離された部屋のガラス越しに妻と再会する。 今生の別れを覚悟した夫婦の再会シーンなのだから、もっとわかりやすく感動的に描けたはずだが、ここも極めて抑えたトーンで描き出される。 それは、月に辿り着き帰還したことで、この二人が抱え続けてきた喪失感が、少しずつ埋まり始めたことを噛み締めているようにも見えるし、全く逆に、一度離れ始めた心と心はもはや簡単に重なり合うことは無いということを示しているようにも見える。(因みにこの夫妻は38年の結婚生活を経て離婚しているそうだ)  ふと思う。苦々しく、辛らつな後味の正体は、あまりに普遍的な或る夫婦の物語だったのではないかと。
[映画館(字幕)] 8点(2019-02-11 21:47:02)
12.  ブレードランナー 2049
「切ない」なんて一言では言い表せないくらいに、切ない。 ただこの切なさこそが、伝説的前作から引き継がれたこの映画世界が持つ根幹的な“テーマ”そのものであろう。 それは即ち、すべての「生命体」が持つジレンマであり、前作で、強力なレプリカントの“ロイ”が最期まで抱え続けた苦悩だ。  「我々は 何のために生まれ どこから来て どこへ向かうのか」  レプリカントたちの苦悩と葛藤は続く。 きっと、彼らが「生命」として存在した瞬間から、そのた闘いに終わりはない。 そう、まさしく人間と同様に。   世界中の映画ファンからある種カルト的な「偏愛」を博している前作に対してのこの「続編」のハードルは極めて高かったろう。 監督を担ったドゥニ・ヴィルヌーブ自身が漏らしたように、ある意味常軌を逸した企画であり、一歩間違えば「誰得」な映画になってしまうことは容易に想像できる。 それでもこの続編に挑み、確固たる価値を持ったSF映画として仕上げてみせたドゥニ・ヴィルヌーブ監督をはじめとする製作陣を先ず賞賛したい。  今作を「リブート」ではなく、「続編」として、30年余りのリアルな時間を経て繋ぎとめたことの価値は大きいと思う。 前作から通ずるテーマ性を確実に引き継ぎつつ、映画世界の内外で幾つもの時代を越えてきたからこそ生じる新たな価値観と葛藤を加味し、今この時代に語られるに相応しい「ブレードランナー」の世界観を構築してみせている。   この映画は、ライアン・ゴズリング演じるレプリカント「K」の物語である。 「K」は、まさしく我々現代人を象徴する存在として描き出されている。 彼の存在性のすべてから醸し出されれる哀しさ、弱さ、脆さ、無様さ、そして苦悩と葛藤は、今この世界を生きる現代人に通じ、非常に身につまされる。 だからこそ、彼が辿る切なすぎる旅路が、あまりにもダイレクトに我々の感情に突き刺さるのだろう。  そういう観点を重要視するならば、前作に引き続きハリソン・フォードが演じるデッカードの登場と一連のシーンは、「続編」だからとはいえ、必ずしもあそこまで必要ではなかったのではないかと思える。 往年のカルトファンに限らず、デッカードの登場は、多くの映画ファンを熱くさせる要素ではあったけれど、彼の登場シーンがサービス精神旺盛に展開される程に、主人公である「K」の物語がぼやけてしまったようにも感じた。  勿論、今作のストーリーテリング上、前作のラスト以降のデッカードの物語を辿ることは必要不可欠なわけだけれど、御大ハリソン・フォードにクライマックスの展開であんなに出張られては、「K」の立場が益々ぞんざいに追いやれているように見え、「そりゃないだろう」と思えてしまう。 まあそういう“やるせなさ”も含めて、この映画の「切なさ」に繋がっているといえば、確かにそうなんろうけれど……。  個人的には、「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」におけるルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)よろしく、最後の最後に1シーンだけデッカードが登場して「彼女」との邂逅を果たすくらいのバランスの方が、更にエモーショナルに今作が伝えるべき物語性を表せたのではないかと思う。   「生命」として存在した以上、誰もが己の「存在価値」を追い求める。 ミミズだってオケラだってアメンボだって、人間だって、レプリカントだって、その「価値」と「意味」を求める旅路の本質は変わらない。 “或る役割”を果たし、降りしきる雪のもとで静かに「生命」を終えようとするレプリカントの心に、ほんの少しでも“温もり”が生じしていたことを願ってやまない。
[映画館(字幕)] 8点(2017-11-05 00:23:16)
13.  ふがいない僕は空を見た
見るともなく空を見ながら、川沿いを自転車で行く主人公の高校生を見て、自分自身の高校生の頃を思い出した。同じように、何となく空を見上げて、自転車で川沿いの家路を辿った。 勿論、僕は、コスプレ好きの人妻と不倫をしていたわけでもないし、文字通りの飢えを感じるほど貧困に窮したわけでもなく、ただただ普通の男子高校生だった。 それでも、悩みやそれに伴う鬱積は確実にあって、それらに対して何の解決策も持たない自分自身に、悲観しつつ、呆れつつ、日々を過ごした。  俯瞰して見れば、この映画の主人公の高校生は、結局のところ、何一つ自分で解決したわけではない。 すべては彼に関わる“大人”が、決断し、導き、見守り、彼を生かしたのだ。 当の本人は、傷心と攻撃にただただ打ちひしがれ、閉じこもり、幸福にもまわりの人間に助けられて、再び立ち上がることが出来たに過ぎない。 そして、ふと空を見上げて、なんだか成長したような気分になっているに過ぎないのだ。   ……でもね。それでいいのだと、強く思う。   この映画で描かれるようなちょっとヘビーな境遇であろうとなかろうと、16~17歳の高校生に出来得ることなどたかが知れている。 むしろ、「何も出来ない」と言ってしまっていい。  唯一出来ることがあるとすれば、それは、主人公の母親が言う通りにただ「生きる」ということだけだ。 ささやかでどうでもいいことの方が多いのだろうけれど、絶え間ない悩みと鬱積に対して、ただひたらすらにうじうじともがき苦しみ、時間の経過とまわりの人間の助力によってそれらが自然に雲散霧消するのを待つ。  そして、空でも見つつ、自分で自分を慰めて、その先を生きていく。それでいいのだ。  この映画の作り手は、「現実」に対してドライな観点を終始保ちつつ、同時に普遍的な慈愛をもって、決して劇的ではない人間模様を落ち着いて描いていると思った。   すべての人間が生きていいく上で必ず意識する「生」と「性」。 それらは常に対のものとして、人生に喜びと苦しみを平等に与える。 その美しさとおぞましさを、何の変哲も無い普通の人々の群像の中で繊細に描き出してみせたこの映画の在り方は、とても正しい。 
[DVD(邦画)] 8点(2013-11-05 23:59:20)(良:1票)
14.  ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン
数年前、自分自身の結婚式を控えた頃、YouTubeで結婚式のスピーチ関連の動画を検索していて、何処かの誰かの結婚式での花嫁の親友らしい女性のお決まりのテンションのスピーチ動画に、妻共々笑ってしまった。 映画の中で登場する、花嫁の親友同士の“スピーチ合戦”は、そういった結婚式における“女の友情あるある”を彷彿とさせ、笑いが止まらない。  商売には失敗し、恋愛偏差値は下がる一方の“いきおくれ”の主人公が、幼馴染みの親友の花嫁介添人のまとめ役をまかされたことにより、益々精神不安が加速していく。  男性が主人公のこの手の“イタさ”と“下ネタ”オンパレードの極めて“アメリカ的”なコメディ青春映画は多々あるけれど、女性が主人公でここまでぶっ飛んでいる映画はあまりない。 それ故に、男性目線からだと特に、時にえげつくなく、時に際限なく下品ではあったけれど、好事家たちの評判に違わず、サイコーに愉快で、サイコーにキュートな映画だったと思う。  映画として上手いなと思うのは、主人公一人の葛藤だけを描いているわけではないということ。 花嫁の親友たちで構成された5人の花嫁介添人たち(ブライズメイズ)。花嫁自身も含め、立場も生活環境も違う6人の女たちそれぞれが抱える葛藤を、遠慮のないコメディ描写の中でしっかりと描き出し、最終的には6人全員が好きになってくる。 男性として、女性の友情にはどうしても懐疑的な部分があるのだけれど、この映画を観ると、男同士のそれには無いドギツさとコワさを感じる一方で、女同士の友情に初めて羨ましさを覚えた。  とにもかくにも、それぞれがそれぞれに個性的でパワフルな女性が6人も集えば、周辺の男性陣はただただ右往左往するしか無いわけで。観客の男もその一人として、ただ笑い続けるしか無い。  結婚式を控える女性、結婚式を終えた女性、そして特に結婚式の予定なんてない女性、面と向かって勧める勇気はないけれど、そういったすべての女性のための映画だと思う。  この映画は、明らかに相性が悪いのであろう男との爆笑必至のセックスシーンから始まる。 この“笑撃”的なファーストシーンは、主人公が陥っている状況を端的に表すとともに、この映画の“振り切れ具合”を潔く表していた。 それは「この映画、こんなカンジて突っ走るよ?ついてきてね」と観客に対してのある種の宣戦布告だったのかもしれない。
[DVD(字幕)] 8点(2013-03-08 17:17:24)(良:2票)
15.  フェア・ゲーム(2010)
エンドロールで流れる役名の一部が塗りつぶされていた。 この映画の主人公である実在の元CIAエージェントが綴った原作も、CIAの検閲の上で大部分が黒く塗りつぶされたまま出版されているそうだ。 それは、この物語が紛れもない事実であるということを如実に表しているもので、その“塗りつぶし”こそがこの作品の価値を揺るぎないものに高めている。  ブッシュ政権下におけるイラク戦争の勃発。その裏側に確実に存在した数人の権力者の「嘘」と「思惑」が、実に生々しく描かれる。 「ボーン・アイデンティティー」において、リアルなスパイアクションを撮ったダグ・リーマン監督が描くからこそ、“現実”のスパイの実像を描いた今作は、対比的に際立っていたと思う。  「大量破壊兵器は無い」ということを諜報活動によって導き出したCIAの報告が、時の政府によってねじ曲げられるという様には、「恐怖」という言葉では足りないおぞましさが満ちていた。 その絶対的とも言える巨大権力に対して真っ向から立ち向かい、自らの存在を貫き通した主人公夫婦は、勇気ある行動という表現ではおさまらず、やはり「無謀」に見えた。  この映画は、自分たちの“在り方”を守り通すために、敢えて「無謀」に走った夫婦の物語だと思えた。 ナオミ・ワッツとショーン・ペン演じる夫婦の関係性に焦点が絞られてくる後半においては、マクロ的な事の顛末よりも、彼らが夫婦としてどういう道程を選んでいくのかという事の方が気になってしまった。  往々にして、優秀過ぎる妻を持つ夫は、時に愚かな程身勝手に暴走してしまうものだ……。 クライマックス、妻に許しをこうショーン・ペンの情けない表情が、個人的に身に染みた。  そういった具合で、大局的な社会派ドラマの中に、パーソナルな人間ドラマを盛り込んだ構成は、映画的にも非常に巧みだったと思う。  多大な紆余曲折を経てきたとはいえ、実際にこれが映画として公開されている以上、この映画の中で描かれていることのすべてが「事実」であるという認識は間違いかもしれない。 本当に隠さなければならないことは、本当に隠されたままなのだとは思う。  しかし、たとえ真実のほんの一片であれ、当事者らが人生をかけてそれを明るみに出した行為と、映画というエンターテイメントの力で世界中に知らしめた事実は、賞賛に値する。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-09-27 14:29:18)(良:1票)
16.  50/50 フィフティ・フィフティ(2011)
27歳の若さで癌を宣告される主人公。生存確率は50%(インターネット調べ)。 もちろん物語の主軸は主人公の“闘病”だが、この映画が凄いところは、決して病そのものを悲劇とそれに伴う安直な感動を描いているわけではないということだ。  この映画に描かれていたことは、“癌患者初心者”の主人公の姿であり、人生において初めての「経験」における苦しみや葛藤、それについての感動だった。  主人公が癌患者の初心者であれば、主人公の親友は“癌患者の親友の初心者”、母親は“癌患者の母親の初心者”、恋人は“癌患者の恋人の初心者”、そして新米セラピストは“癌患者のセラピストの初心者”なのだ。 一人の男の岐路に立ち会った“初心者”同士が、それぞれに思い悩み、失敗し、傷つき、正解などない行き筋を模索する。  癌に限らず、重い病気を患ってしまうことはそりゃあ大変だし、それが生死に直結するとあらばそりゃあ悲しい。 しかし、生存確率を示されようが、余命を宣告されようが、「死」に至るまでその人が生きていかなければならないことに変わりはないだろう。 ならば、「癌」という新たな“特徴”を持って生きていくしかないし、逆に言えばただそれだけのことなのだ。 それは口で言うには簡単で行動として表すにはとても難しいことだけれど、この映画では、そういうことがセス・ローゲン演じる主人公の親友(悪友)の言動により表現されていた。 この物語自体が、セス・ローゲンの実体験からよるものだとのことで、彼の演じたキャラクター性には、軽薄さと下品さの裏に分厚い説得力が備わっていたと思う。  誰しも、初めて経験することには、大いに戸惑い、大いに悩む。 この映画は、そのあまりに普遍的なことを、癌というこちらも普遍的に重いテーマに対して真摯に向き合って描き出し、そして見事に笑い飛ばしている。
[映画館(字幕)] 8点(2012-04-29 00:53:33)(良:2票)
17.  ブライトバーン/恐怖の拡散者 《ネタバレ》 
僕の子どもは、まだ8歳と5歳だが、それでもごくたまに「あれ、この子こんな顔だったかな?」と毎日見ているはずの我が子の表情に違和感を覚える瞬間がある。 またふいに発動される思いにもよらない発言や行動にびっくりすることもある。 それらは詰まるところ「成長」というごく普遍的な一言で説明がつくことなんだけれど、親たちは、あまりの唐突さに驚き、慄き、時に理解不能でうろたえてしまう。 そのある種の「恐怖」との邂逅自体は、子どもを育てる親にとっては必然的なことの一つであるわけだが、この映画に登場する夫婦が不幸だったのは、子どもがあまりにも「特別」過ぎたということ。  世界中の親にとって、自分の子どもは誰よりも「特別」だろう。 そこに血の繋がりは必ずしも関係なく、養子をもらおうが、森で拾おうが、桃から生まれようが、「自分の子どもだ」と認識した時点で、「特別」であることに変わりは無い。  ただし、その「特別」が、必ず良い方向ばかりに向くかというと、実際そんなことはないわけで。 カンザス州の“ケント家”の事例があまりにもセンセーショナルだったため、特に映画に登場する「特別な子」はすべからく“スーパーヒーロー”になるものだと世界中の映画ファンは高を括っていたが、本作は僕たちのその甘い認識を“全否定”する。 そりゃそうだ。現実世界のすべての凶悪犯も、極悪人も、生まれた時は「特別な子ども」の一人だったはずなのだから。  とにもかくにも、この映画は、スーパーヒーロー映画の王道的な導入から端を発し、「オーメン」や「エスター」のような「子どもが怖いホラー映画」のこれまた王道的恐怖展開を容赦なく見せつけてくる。 ヒーロー映画は大好きだが、ホラー映画は大の苦手なので、「久しぶりに映画館でホラー映画を観ているな」とビクビクしながら鑑賞していたが、“子ども”の自我の目覚めと共に恐怖の拡散が益々エスカレートしてくると、「恐怖」は徐々に「高揚感」へと転じてくる。  その「高揚感」の正体は、あまりにも禍々しい最凶“ヴィラン”のビギニングを目撃したことに他ならない。 “アンチヒーロー映画”の体で、露悪的でぶっ飛んだホラーを紡ぎ、最終的にはヒーロー映画の世界に再接続してみせたジェームズ・ガンの“悪だくみ”がたまんない。  エンドクレジットでは“DCエクステンデッド・ユニバース”との連携が“非公式”に臭わされた程度だったが、どうせなら正式参画してもらって、「シャザム!」との“悪ガキ対決”が観たいぞ。
[映画館(字幕)] 7点(2019-12-11 21:14:17)
18.  ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅
「ハリー・ポッター」シリーズは、全8作を“一応”鑑賞している。最終作「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2」は満を持して劇場で鑑賞したが、結局最後の最後まで乗り切れなかったというのが正直なところだ。 児童文学の映画化シリーズとして致し方ないし、むしろ真っ当なことなのかも知れないが、話運びや登場人物たちの言動に対して“子供向け”の範疇を超えたものを感じることが出来ず、シリーズを通じて成長した主人公がどんなに必死の形相で呪文を唱えても、滲み出る“お遊戯感”を受け入れることが出来なかったのだと思う。 ただし、この映画シリーズが、老若男女世界中の人々に愛され人気を博した映画史に残るシリーズであることは否定しようもないし、原作ファンでも無い者が否定する余地はないと思う。  そんな個人的なスタンスのため、このスピンオフ作品についても、それほど興味を持てぬまま続編となる最新作の公開を間近に控えた今の今までスルーする形になっていた。 本シリーズに通づる“お遊戯感”にプラスして、ファンタジックな生き物たちが登場するファミリー向け映画なのだろうと高を括っていた部分もあった。  が、しかし、実際に観てみたならば、いやいやどうして想像よりもずっと好きな映画だった。 珍妙な魔法生物たちが続々登場するファンタジックな映画であることは間違いないけれど、映画全体のテイストが決して子供だましなわけではなくて、“オトナの可愛らしさ”が随所に散りばめられた良いファンタジー映画だった。  思うに、「ハリー・ポッター」シリーズは、「子供」が主人公であることによる避けられない幼児性や稚拙さが、話運びのまどろっこしさに繋がっていたのではないかと思う。 しかし今作は、主人公のニュート・スキャマンダーをはじめ、登場人物たちはみな既に何かしらの人生の機微を味わっている「大人」たちだ。 大人ゆえのまどろっこしさも勿論あるが、そういう部分も含めて、彼らが織りなす人生模様が物語の奥ゆかしさとして表れている。 1920年代の古式ゆかしきニューヨークの物語舞台と魔法との相性も極めてよく、秀麗なビジュアルを見せてくれていると思う。  一転して、公開を控える最新作が俄然楽しみになってきた。 今作でサプライズ登場したジョニー・デップに加え、若きダンブルドア役にジュード・ロウ!パリ・ロンドンを舞台にした映像世界にハマらないわけがない。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-07-17 00:07:58)
19.  ブラックパンサー
争いを繰り返す愚かな世界の中で、一線を引いて「傍観者」であることは賢い選択であろうし、それが出来る国があったとしたならば、それはその国が真の意味で恵まれた強い国家であることの証だろう。 だけれども、憎しみが憎しみを呼ぶ負の連鎖が益々深まる「世界」に対して、背を向け続けることが、果たしていつまでも己の身を守ることになるのか。  若き王は苦闘し、決意する。  若く屈強な黒衣の王が、ソウル・ミュージックの重低音と共に、世界の中心で立ち上がる。 新たな英雄の誕生譚にまた高揚せずにはいられなかった。   言わずもがなマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の大ファンではあるが、「シビル・ウォー」で突然登場した“ブラックパンサー”の単独映画が製作されることを最初に知った時は、「さすがに地味過ぎるんじゃないか」と不安感を禁じ得なかった。 だがしかし、実際に公開初日に鑑賞に至ってみたならば、成る程この作品がこのタイミングで製作されることは様々な角度から意義深いものだったのだと思い知った。  現実世界のありとあらゆる場面で差別と格差は益々広がり、それに伴う諍いは深刻に泥沼化している。 ただしそれは、一概に弱者と強者のパワーバランスを均せばいいとか、どちらが搾取しどちらが搾取されていると安易に擁護したり否定できるものでもない。 マクロからミクロに至るまで、あらゆる関係性の中で、欲望や思惑や妬みや怒りが渦巻いている。  その現実を目の当たりにし、この世界の真理を垣間見たからこそ、若き王は苦悩したのだ。 与えられたその鋭い爪を向けるべき相手は何なのか? 彼が抱えた苦悩は、今この世界全体が抱え込む出口の見えない葛藤に他ならない。  自身の無知の裏側で生じていた哀しき怨念の権化と対峙し、一度は奈落の底へ落とされたものの、ついに打ち勝ち、彼は「国王」として「英雄」として進むべき路を見出す。 それは、「シビル・ウォー」において生じた“耐え難い対立”を孕んだまま「インフィニティ・ウォー」を迎えなければならない“アベンジャーズ”にとっても、必要不可欠なニューヒーローが生まれたことを意味する。  ファンとしては、ワカンダに滞在していたことは明らかである“キャップ”の登場が無かったことは残念だったけれど(バッキーかよ!)、そこは公開間近の三度の“大祭”に期待するとしよう。
[映画館(字幕)] 7点(2018-03-01 23:24:42)
20.  フューリー(2014)
朝が来る。 朽ち果てた戦車と、そこで闘い果てた屍を越えて、兵たちは歩を進める。 まるで何もなかったかのような俯瞰で、残骸となった戦車を一つ残し、一つのストーリーが終わる。  「戦争」という、繰り返される人間の愚かな歴史の中で、同様のシーンが一体、幾千、幾万、繰り広げられてきたのだろうか。 その無残の極みの様に、胸が詰まる。   僕自身はミリタリー描写にそれほど熱い頓着が無いので、伝説的な戦車とその活躍の様を忠実に再現したという、この映画の触れ込みにもあまり興味を惹かれなかったことは否めない。 ただ、世の好事家たちはこぞって絶賛しているので、全編通して描き出される戦場シーンに一切の妥協はないのだろう。  冒頭に記した通り、戦争そのものに対する普遍的な無残さと、そこに携わった人間たちが抱える虚無感は、きちんと描かれている。 そして、ビジュアル的な説得力も充分に備わっている優れた戦争映画、なのだとは思う。  ただし、ひしひしと伝わってくる映画のクオリーティーの高さに反して、今ひとつ感情的に揺さぶられるものが少なかった。 ラストの決死戦などは、もっとエモーショナルな感覚を持ってしかるべきなのだと思うが、何となく淡々と観れてしまった。  人物描写の描き込みが希薄だったのか、そもそもミリタリー映画自体への愛着が薄いからか、単に精神的なタイミングが悪かっただけなのか。  この虚しさのような物足りになさに、戦争の空虚感を表現していたとしたら、それはそれで大したものだけれど。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-11-01 00:26:37)
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