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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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221.  アウトレイジ 最終章
「全員悪人」と銘打たれた第一作目から7年。渾身の最終章。  許されざる者たちの鬩ぎ合いの様は、恐ろしさを遥かに通り過ぎ、愚かさを通り過ぎ、滑稽さをも通り過ぎ、もはや「悲哀」に溢れている。 どんなに息巻き、意地と欲望渦巻く勢力争いを繰り広げたとて、彼らが辿り着く先はただ一つ。 生きるも地獄、死ぬも地獄。そんな真理を知ってか知らずか、この映画に登場する悪人たちの眼には、諦観にも似た虚無感が漂っていた。  この映画で描き出される“outrage=暴虐”の世界に生きるすべての人間たちが、自らの生き方に疲弊しきっているように見える。 血管を浮かび上がらせ、怒号と暴力を浴びせつつも、同時に「何故こんなことになったのか?」と己の生き様自体に疑問と虚しさを抱えているようだった。  故に、今作は、前二作と比較すると明らかに地味で、枯れているように見えるだろう。 当然である。描かれるキャラクターたちの血気そのものが薄まり、あらゆる意味で衰退の一途を辿っているのだから。 しかしそれは、前二作と比べて今作の映画的魅力が落ち込んでいるということでは決して無い。 娯楽映画としての分かりやすい迫力は抑えられているが、その分、前二作を礎にした映画作品としての芳醇さに満ちている。  前二作のハードな暴虐性が反動となり、この「最終章」のある種静的な境地へと辿り着いている。 そこに見えたものは、「動」と「静」。別の言い方をするならば、「フリ」と「オチ」。 それはまさに北野武という映画監督の真髄であり、芸人、役者、監督、あらゆる意味での「表現者」としての矜持だと思えた。   シリーズ三作通じて共通することだが、「悪人」としての“雁首”揃えられたキャスト陣は皆素晴らしい。 特に今作においては、塩見三省が凄まじかった。実際に重病を患い、その後遺症が残る中での迫真の存在感。 前作で見せた方幅の広い関西ヤクザの恐ろし過ぎる迫力は消え去り、かわりにフィクションの境界を超えて人生そのものを焼き付けるような老ヤクザの気迫が凄い。 痩せ細り、足が不自由な様子で、呂律も回っていない。それは、前作の風貌と比較すると非常にショッキングな変貌だった。 しかし、以前実際のヤクザ組織の実態を追った或るドキュメンタリーを観たことがあるが、ああいう老いさらばえたヤクザは現実に沢山いる。 時代が変わり、社会が変わり、ヤクザなんて生き方がまかり通らなくなった昨今においては、塩見三省が演じた老ヤクザの醸し出す雰囲気こそが、むしろ限りなくリアルに近いのではないかと思う。   繰り返しになるが、「アウトレイジ」シリーズは、北野武による壮大な「フリ」と「オチ」だったのだと思う。 椎名桔平が演じた格好良い武闘派ヤクザや、加瀬亮が演じた分かりやすいインテリヤクザの描写は、“非現実的”だった。だからこそ「フリ」として、ジャンル映画の娯楽性の中で派手に殺される。 一方で、西田敏行や塩見三省が演じた知略と謀略の限りを尽くす無様で姑息な老ヤクザの描写は、“現実的”だった。彼らがヤクザとして最後まで醜くしがみつき、生き残る様こそが、北野武が用意した「オチ」だったのだろう。   映画は、食べさせる相手がもういない“釣り”の哀しさを映し出して終幕する。 全編通して、「これぞ北野武の映画」だと痛感する見事な一作だ。
[映画館(邦画)] 8点(2017-11-11 10:11:51)(良:2票)
222.  ムーンライト
第89回アカデミー賞を例のドタバタの中で勝ち獲った本作。先ず何と言っても、ポスターのビジュアルデザインが秀逸だと思う。 一寸、一人の男の表情を色彩を変えた切り込みを入れて写しているように見えるが、よく見ると3人の男の別々の表情がモンタージュされて一つの表情が構成されていることが分かる。 この映画が、一人の男の人生を年代別に描き出す構成であることを示すと共に、各年代の人生の連なりが一人の男の人格を形成していることを如実に表す素晴らしいデザインワークだ。それに何よりも、美しくて、格好良い。  一人の男が抱え続けた苦悩と葛藤、それに伴う純真な想いが、あまりにも美しい映像美の中で、辛辣に、残酷に描きつけられる。 決して、特別なドラマがあるわけではない。描き出される物語は極めてミニマムで、普遍的だ。 現代社会における一方的な常識や価値観の押し付けにより、“マイノリティ”の立場で生きざるを得ない主人公の生き様は、極めて哀しく、叙情的に映し出される。 けれど、きっと同じような苦悩や葛藤を抱えて生き続けている人達は無数に存在していて、この映画の主人公の姿は、その一つの象徴にすぎないのであろうことを、今作の普遍性は物語っている。   前述の通り、この映画は三幕構成になっている。主人公の少年期、青年期、成人期が、それぞれ“痛み”と一抹の“救い”をもって映し出される。 少年期を描いた第一幕、青年期を描いた第二幕は、本当に素晴らしい。 まさに月光に照らされた刹那を切り取ったように美しく、儚く、だからこそ辛辣で残酷な人生模様に包み込まれる。  ただ、第三幕への連なりがやや唐突過ぎるように感じてしまったことは否めない。 成人期を描いた第三幕自体の出来栄えが悪いわけでは決してないけれど、物語の展開と帰着を強引に詰め込みすぎているように感じてしまった。 茶化すつもりはないのだが、青年期から成人期への変遷において一気に変貌した主人公の“筋肉量”の過剰ぶりが、その唐突感を如実に表しているようだった。  あのような変貌を遂げなければ、あまりにも大きな傷を抱えて、打ちのめされた主人公の青年が、その先の己の人生を繋ぐことが出来なかったのであろうことは十分理解できる。 しかし、10年の年月を飛び越えて、やせっぽっちのティーンだった主人公が、突如としてマッチョな麻薬ディーラーになっているという展開は、少々類型的過ぎやしないか。  彼が“ブチ切れた”後に、どのような道程を辿って、人生を踏み外していったかを、もう少ししっかりと描き出すべきだったのではないか。 もしくは、第三幕以降の余生までを描いて、もっと丁寧に彼の人生の帰着を紡ぎ出してほしかった。 なぜならば、この第三幕の描写のみでは、彼が麻薬ディーラーとして成り上がっている様が、哀しき傷を負った者の運命として安直に肯定されているように見えるからだ。  どんなに辛い過去があろうが、環境に恵まれてなかろうが、彼が「犯罪者」であることそのものは、彼自身の罪であり、それを取り繕うことはできない。 彼が売り捌いたドラッグで、数多の悲劇が連鎖的に生まれていることは疑う余地もない。 それに対する贖罪の様が皆無なまま、ただひたすらに自らの深い傷心を癒す邂逅を、いくら情感豊かに見せつけられても、素直に感じ入ることは出来なかった。 具体的な落とし前を描かなくとも、何かしら彼が犯した罪に対する贖罪の予兆くらいはあって然るべきだったと思う。   ただし、このマイノリティの普遍的な苦悩を描きつけたインディペンデント映画が、その年の最高の栄誉を勝ち獲ったことの意義は深いと思うし、それを否定するつもりは毛頭ない。  この世界は決して平等ではない。太陽の眩い光はすべての人に満遍なく降り注ぎはしない。 ならばせめて、月の淡い光を浴びて輝くことができる自由を。 今作のポスターに写る“3人の主人公”は、静かな瞳を携え、無言のまま、ただ強く訴える。
[インターネット(字幕)] 7点(2017-11-11 10:10:13)
223.  ダンケルク(2017)
耳をつんざく爆撃音、ぶつかり合う鉄の質感、あらゆるものが燃え焦げついた臭いが漂ってくるような生々しい空気感。 映画が始まったその瞬間から、「戦場」に放り込まれる。 凄い。と、冒頭から思わず感嘆をもらさずにはいられなかった。 これほどまでに、最初から最後まで“IMAX”で観ることの価値を感じ続けた映画は記憶にない。 この「体感」は極めて意義深い。  第二次世界大戦初期、ドイツ軍に包囲された連合軍は、フランスはダンケルクの海岸に追い詰められる。  この映画は撤退を余儀なくされた連合軍兵たちの「敗走」の様をこれでもかと描きつける。 登場する人物の前後のドラマを一切描かず、無慈悲な戦場での過酷な「敗走」のみをひたすらに映し出すことで、「戦争」を表したこの映画の豪胆さに何より感服する。  映画史には世界中のありとあらゆる戦争を描いた数多の「戦争映画」が存在する。 その数の分、一口で「戦争映画」と言っても、映画表現の“手法”と“目的”は様々だ。 「プライベート・ライアン」のようにリアルな戦闘シーンを究めた作品もあれば、「地獄の黙示録」のように戦場で苛まれた人間の心の闇を果てしなく掘り下げた作品もある。またはチャップリンの「独裁者」のように風刺と情感を込めて、強く反戦を訴えた作品もあろう。  「ダンケルク」は、戦場の「体感」を究めた戦争映画である。 ただ、だからと言ってこの映画が、戦争の「リアル」を描き抜いた映画かというと、それは少し違う。  “本物主義者”のクリストファー・ノーラン監督により、今作も例に違わず極限までCGによる映像処理は避けられている。 本物の空、本物の海、本物の飛行機、本物の船、本物の人間によってすべての映画世界は映し出されている。 それにより、観客はまさに極限まで「本物」に近い“感覚”を味わうことができる。  ただしそれは「リアル」ではない。言い表し方が難しく語弊があるかもしれないが、クリストファー・ノーランは、リアリティを追求するために「本物」を求めているわけではないと思う。 それは、映画という表現方法で「何か」を伝える上で、必ずしもリアリティの追求が「正解」ではないことを、この偏屈な映画監督は知っているからだ。  「現実」に起こったことをありのままに表すよりも、より効果的に伝えるべきテーマを観客に表現する方法は確実にあり、それを導き出すために、本物の素材を使い、スクリーン上で目に映るモノのリアリティを高めるという試み。 その一連のプロセスこそが「映画」をつくることだと、クリストファー・ノーランは信じて疑わない。  そのつくり手の「信念」がこの「戦争映画」には溢れ出ている。 だからこそ、ただただ「敗走」を繰り返すという、あまりに無骨でストーリー性に乏しい映画であるにも関わらず、圧倒的に「面白い」。
[映画館(字幕)] 9点(2017-11-10 22:06:19)
224.  エル ELLE
あまりにセンセーショナルなオープニングが、この映画のすべてを物語り、そこから始まるさらなる衝撃を暗示している。  白昼、自宅にてレイプ被害に遭った主人公ミシェルは、只々冷静に、荒らされた室内を片付け、風呂に入り、“寿司”の出前をとる。 そして平然と、来訪予定だった息子を笑顔で招き入れる。 冒頭から観客は、「?」に埋め尽くされる。(“ホリデー巻”って何なんだ?)  劇薬的なストーリーが進むにつれ、「?」の数々は消化されるどころか、更に増大し膨らんでいく。 その理解し難いストーリー展開と主人公の言動は、極めて倒錯的に映り、混沌極まる感情の渦に呑み込まれてしまう。 鑑賞直後は、とてもじゃないが整理がつかず、めくるめく感情の一体どれから処理して良いのか分からなかった。 けれど、取り敢えず、この映画において「彼女」が繰り広げる立ち振舞のすべてに参ってしまったことは明らかだった。   タイトル(ELLE=彼女)がダイレクトに指し示す通り、この映画で刻まれたものは、主人公が体現する現代社会における「女性」の在り方そのものだ。 レイプ被害に遭いながらも、努めて冷静に“事後処理”をし、警察に通報することもせず、一人“犯人”を追う主人公の女性の姿は毅然として見える。 しかし、その姿を=「強い女」と捉えることは浅はかだ。 彼女は決して「強い女」ではない。  そもそも「強い女」とは何か。  レイプされ、それが無かったかのように耐え忍ぶ様を「強さ」と呼ぶのなら、それこそあまりにも馬鹿げている。 だがしかし、その馬鹿馬鹿しさと愚かしさに埋め尽くされた価値観が、この社会に我が物顔でのさばっていることこそが「現実」なのだ。 現実社会でのレイプ事件においても、取り調べを行う男性刑事は愚劣な憶測を押し付け、大衆からは好奇と侮蔑の視線が降り注ぎ、被害者を“セカンドレイプ”で貶める。   突然の悲劇により打ちひしがれた主人公ミシェルが、その直後からとった行動のすべては、恥辱と屈辱、自分の存在性を内外から押し潰そうとするあらゆる“攻撃”から自らを守り、一人の女性として存在し続けるために避けられないことだったのだと思う。 彼女が見せる言動と感情のすべては、あまりに理解し難く衝撃的である。 しかし、そうせざるを得ないこの社会の病理性こそが、最も忌むべき恥部だ。   主人公ミシェルを演じたイザベル・ユペールが言わずもがな圧倒的である。 60代に入りながら唯一無二の美貌と女性としての存在感をこの大女優が示してくれたからこそ、この特別な映画は成立している。 数多のハリウッド女優たちがオファーを断ったらしいが、オファーを受けたイザベル・ユペールの勇気こそが、ミシェルというキャラクター造形を創り上げたのだろう。   そして、個人的には、先日観た「ブラックブック」に続き、奇しくも立て続けにポール・ヴァーホーヴェン監督作に打ちのめされた格好だ。 様々な時代、様々な境遇の中で、闘い続ける「女性」の強烈な姿を、偏執的、変態的に描き続けているこの名匠のぶれない「視点」は、時代が彼に追いついたかのように極めて重要な「意識」を観客に植え付ける。 もしこの映画が、一昔前の価値観の前に晒されていたならば、もっと一方的なバッシングに覆い尽くされ、これ程の一般的な評価は得られなかっただろう。  勿論、現状においても批判の声も多いと聞くし、拭い去れない不快感を示す人も多かろう。 しかし、この映画はそんな必然的な賛否両論を恐れず、勇気を持って新しい女性像を描き出すことで、映画表現のネクストステージへの歩みを確実に進めている。  そうして振り返ってみると、この映画の「彼女」とは必ずしも、主人公ミシェルのみを捉えたものではないのではないかということに気づく。 主人公の親友アンナも、老いた母親も、息子の妻も、元夫の恋人も、そして“隣人”の妻も、それぞれが“闇”を孕んだ思惑と感情を秘めひた隠しにしているように見える。  「彼女」たちは、それを馬鹿な男たちのように安易に曝け出し誇示したりはしない。 “闇”すらも武器にして、懐に仕舞い込み、美しく、強かに、この愚かな世界を歩んでいく。
[映画館(字幕)] 9点(2017-11-10 21:59:50)
225.  白ゆき姫殺人事件
僕自身、何かの事件や事故の速報を見聞きした時、真っ先にtwitterでキーワード検索するクセがついてしまっている。 どこかの誰かがツイートしたその情報をそのまま鵜呑みにするつもりは毛頭ないのだけれど、情報伝達の速さ一点において言えば、一般大衆の「口コミ」に勝るものは今の時代無く、実際、緊急性の高い事故や災害などの情報は役に立つことも非常に多い。  醜聞や偏見を大いに孕んだ無責任な情報を仕入れること自体が、浅はかで、愚かであることは、きっと誰しも心の中では分かっている。 だけれども、人間は「知りたい」という欲望には勝てない。そういう生き物だからだ。もし人間にその欲望が無ければ、この社会の発展は無かっただろう。 だからこそ、twitterをはじめとするSNSにより、個々人が全世界に向けて極めてカンタンに情報を発信できるようになってしまったことは、人間の根幹となる欲望を丸裸にし、あまりに無防備な状態を生み出してしまっているのだと思う。  この映画は、一つの惨殺事件を発端として、この時代ならではのメディア批判を表面に描き出しつつ、欲望に裏打ちされた人間の弱さとおぞましさを大衆的に描き出すことに成功している。 特筆すべきはこの「大衆的」ということで、決して完成度は高くなく、高尚な描かれ方もされていないことが重要なのだと思える。 この映画から伝わってくる独特の軽薄な空気感、それは「ワイドショー」そのものだ。 劇中でも、「ミ○ネ屋」を彷彿とさせる(と言うよりもそのものの)ワイドショー番組が描かれるが、そのシーンのみではなく、この映画全体が一つのワイドショーとして、意図的な悪意に満ちた軽薄さで描き出されているように感じた。  配役も実にハマっている。 愚かな狂言回しのごとく立ち回る契約社員のTVディレクターに綾野剛。 この人気俳優は、こういう浅いのか深いのか定かではないという意味で底の見えない人間を演じるが巧い。 映画のファーストカットで惨殺体で登場するのは菜々緒。誰もが認める美人OL役を、類稀な美貌と、骨の髄から漂ってくるような悪女臭を存分に活かして好演している。このモデル出身の女優は、誰もが鼻につく印象を逆に売りにして、このところすっかり悪女役の地位を確立している。コレはコレで大したものだと思う。 また蓮佛美沙子、貫地谷しほりら実力派若手女優の配役も的確だった。  そして何と言っても、井上真央。 物語上で描き出される通りに地味で薄幸な“悲劇のヒロイン”を、大衆の想像上の犯行シーンも含めて見事に演じきっている。 印象的だったのは、この「城野美姫」という主人公が子供の頃から孕み続ける「闇」を、どの登場シーンにおいても表現できていたことだ。 物語上、「城野美姫」は“悲劇のヒロイン”として描き出されているように見える。 ただし、だ。実は事の真相は誰にも分からない。「真相」のようなものも、結局は浅はかなワイドショーで伝えられただけにすぎない。 特にこの主人公の「思惑」については、描き出された顛末以上の屈折した何かが、心の闇として見え隠れして見えた。  ラストシーンで、ヒロインは、打ちひしがれるTVディレクターに対して、「いいことがありますよ」と微笑む。 一見、「救い」のようなこのラストシーンを、額面通りに受け取ることが出来なかった。そこにこの映画が伝える本当のおぞましさが存在するように感じた。  それでも僕らはワイドショーの情報に好奇の眼差しを向け、twitterのつぶやきに踊らされ続けてしまうのだろうか。
[インターネット(字幕)] 7点(2017-11-09 22:58:29)
226.  BLAME!
原作版「風の谷のナウシカ」を崇拝するという共通項を持った古い友人が、人生において最も影響を受けた漫画として教えてくれたのが、今作の原作である弐瓶勉の「BLAME!」だった。 そこまで言うならば是非読んでみようと思っていた矢先、この映画化作品がNetflixオリジナル作品として配信されていることを知り、原作未読のまま鑑賞に至った。  成る程、友人が好むのはよく分かる。物語の世界観は、超ハードSFアクション版「風の谷のナウシカ」という風合いだった。 人間社会崩壊後の黄昏の時代を舞台にし、少女戦士の活躍、救世主の登場と、類似点は多い。  映画版「風の谷のナウシカ」と同様に、濃密な原作が持つ一部分を映画化したようで、原作者が生み出した物語の世界観が実は孕んでいるのであろう深い全容は掴みきれないが、精密なアニメーションによるハードSFの雰囲気は堪能できたと言える。  この映画作品の構造自体が、壮大な物語の“番外編”的なニュアンスで語られていることからも明らかだが、今作のみでストーリーの委細を理解しようとすることは無意味だし、製作者側もそういう意図では作っていない。 文字通り「多層的」に孕んでいる膨大な情報量から漏れ伝わる物語の雰囲気を堪能しつつ、濃ゆい原作漫画に触れてみるのが得策なのだろう。
[インターネット(邦画)] 6点(2017-11-09 22:48:37)(良:1票)
227.  ザ・コンサルタント
オモテとウラの世界に通じる“天才会計士”、その正体は、元軍人の“凄腕の殺し屋”で、実は“高機能自閉症”の男。 いわゆる“ジャンル映画”だとはいえ、あまりにも強引で荒唐無稽なキャラクター設定過ぎるのではないかと所感を抱いたことは否めない。  そしてそれを演じるのはベン・アフレック。  多くの映画ファンにとって、このハリウッドスターが“信頼”に足る「映画人」であることは、もはや周知の事実ではあるが、それでも尚、得体の知れない危うさというか不安定さみたいなものを感じてしまうことも、この人の「特性」である。 果たしてこの奇抜で“盛り過ぎ”なキャラクターをどう演じているのか、一抹の不安は確実に存在していた。  結論としては、「ごめんなさい」と、この主演俳優に対する謝罪の一言に尽きる。 この映画を評する観点は多岐に渡るだろうが、先ずは何よりも、主演俳優の“ハマり具合”が圧倒的な娯楽性を生み出しているということを挙げるべきだろう。 過去最高のベン・アフレック。やはりこの映画人は、不屈であり、信頼に足る。改めてそう思う。   「自閉症」という、極めてナイーブなバランス感覚を要求される要素を、ジャンル映画の主人公に加味したことは、とても挑戦的で、有意義で、価値のある独創性を生んでいる。 その描かれ方について多大な反感も生んでしまったようだが、個人的には、この映画における主人公と自閉症の関係性の描き方に対して、決して的が外れているとは思わなかった。  高機能自閉症という障害を抱えた主人公の男が一種の“ヒーロー”として活躍することと、彼が歩んだ(歩まされた)人生を美化することは、イコールで繋がってはない。 数多の価値観の中から選び取られた「選択肢」の一つとして、主人公の男は人生を歩み、結果として「普通」ではない人物造形に至ったということであり、結論としてその是非を明確にしているわけではないと思う。  むしろ、この想定外にヘンテコリンな娯楽映画が導き出そうとすることは、まさしくそういう一般的な価値観からの脱却だったのではないかと思う。  圧倒的に「普通」じゃない主人公キャラクターを造形し尽くし、その「特性」にバッチリと適合するスター俳優を当てはめ具現化することで、そもそも「普通」とは何なのかということを我々に問う。  これほどまでに普通じゃないことのオンパレードの中においては、「自閉症」などありふれた一つの「個性」だと捉えざるを得なくなってくる。 その個性を、普通じゃないものとして、一般的な価値観の中の既定路線に縛り付けることが、果たして正しいのかどうか。  現代社会においては「68人に一人が自閉症である」とも伝えられる。  繰り返すが、主人公の選択した(選択された)人生が正しかったとは言わない。闇の世界に身を落としている以上、人間らしく幸福な人生を歩んでいるとはとても言えないだろう。 しかし、そんな彼によって救われたものがあることも絶対的な事実。 であるならば、誰もそれを否定することは出来ない。  「ため息だわ」という台詞が口癖の“謎のエージェント”の正体も含め、この娯楽映画の顛末が伝えることの意味と意義は、ジャンルを超えた非常に興味深いテーマと奥行きを醸し出している。 当然、続編希望。なんならベン・アフレックが自ら監督したっていいんじゃない?
[インターネット(字幕)] 8点(2017-11-09 22:43:05)
228.  ワンダーウーマン
時代を超越した特異なコスチュームを纏った唯一無二の女戦士が、死屍累々の無人地帯“ノーマンズランド”を、単身で突き進む。 この映画における数々のアクションシーンの中でも、白眉の場面である。 その場面を目の当たりにした瞬間の高揚感それのみで、このヒーロー映画の価値は揺るがないとすら思える。  一方で、繰り広げられるストーリーにはムラが多く、呆れるくらいに大味である。 「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」をはじめとする昨今のヒーロー映画におけるストーリーラインの精細さと比べると、明らかに「稚拙」と言えよう。 しかし、この映画には、数多の傑作ヒーロー映画と比較しても一線を画する圧倒的なエモーションが溢れている。それは稚拙なストーリーラインを補って余りあるものだった。  満を持して新しい“鋼鉄の男”と“闇の騎士”を描き出し、その二大ヒーローの激突を力を込めて映し出してもなお、絶好調の「MCU」に対しては一矢報いることすら出来ていなかった「DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)」が、遂に反撃の狼煙を上げたと言っていい。  優れた映画職人たちを集め、集合体としてのクオリティの高さを提供し続けているMCUに対して、DCEUが貫き通したものは、まさに一点突破のケレン味だ。 愚直なまでに突き詰めたビジュアルに、マットな質感の重厚なヒーローが、“決め画一発”の格好良さをこれでもかと見せつける。 愚鈍だ、鈍重だ、と非難し続けられた彼らがこだわり抜いた“センス”が、稀代の女性ヒーローによって、ついに解き放たれたようだった。  DCコミックスで描かれてきた「ワンダーウーマン」は、束縛と解放の象徴であったのだと思う。 そして、この映画化においても、その命題は見事に表現されている。  ワンダーウーマン=ダイアナ・プリンスは、純粋故に無垢で危うい「正義」を掲げ、“闘い”に挑む。 その闘いの対象は、強大な“悪”であると同時に、自分自身に課せられ、縛り付けられた“宿命”でもあったように思う。 自分の存在性を象るあらゆる“しがらみ”の一つ一つを初めて認知し、対峙し、自分自身を解き放っていく様こそが、このスーパーヒーローにとっての“闘い”そのものなのだと感じた。 だからこそ僕は、「彼女」の存在とその一挙手一投足に涙が溢れて仕方なかった。  「バットマンVSスーパーマン/ジャスティスの誕生」の時点で、巨躯の男たちを凌駕し、ワンダーウーマンとして圧倒的存在感を放っていたガル・ガドットは、見事にこの役を自分のものにしてみせている。  そして、彼女の女優としてのポテンシャルを最大限に引き出し、絶妙なバランスを要求されるヒーロー映画を成立させたパティ・ジェンキンスの監督力には脱帽する他ない。 「モンスター(2003)」でシャーリーズ・セロンを文字通りに“化け”させたこの監督の手腕の確かさを改めて感じた。 なぜこの監督は「モンスター」以降の長編映画作品が無かったのか不思議でならない。 が、その「現実」こそが、女性の活躍を押しとどめる「ガラスの天井」の存在を如実に表すものなのだろう。  勇ましく美しいワンダーウーマンが、“ガラス”を突き破り、次々に襲いかかる「敵」を叩きのめす。 彼女が示したその「勇気」の価値は、「映画」という枠を超えて、神々しく光り輝く。
[映画館(字幕)] 9点(2017-11-09 22:11:17)(良:2票)
229.  ベイビー・ドライバー
無垢な暴走の果てに“BABY”が辿り着いた場所は、天国か地獄か。 この映画は、純真故に「犯罪」という名の道なき道を走らざるを得なかった男の「贖罪」の物語である。  主人公は少年のような風貌の若き“getaway driver(逃し屋)”。 子供の頃の事故により始終耳鳴りが鳴り止まない彼は、音楽でそれを掻き消した時のみ天才ドライバーに変貌する。 彼の聴く音楽が全編に渡って映画世界を彩り、すべての音という音が音楽に支配される。 エンジン音も、銃声も、怒号ですらも、彼が聴く音楽に合わせて“ビート”を刻む。  ビートに彩られた痛快なアクションの連続によって、当然ながら観客は最高の高揚感に包まれる。 エドガー・ライト監督による問答無用にエキサイティングで、ハイテンションな映画を堪能している、ように確かに感じる。 監督の過去作、「ショーン・オブ・ザ・デッド」や「ホット・ファズ」のように、彼の“映画愛”によって、エキサイティングなコメディが益々加速して、多幸感溢れるエンターテイメントへ昇華されるのだろう。と、高を括っていた。  しかし、そうではなかった。先に記した通り、「贖罪」というテーマを孕んだこの映画は、幸福なストーリーラインを許さず、主人公をじわじわと確実に「地獄」へと引き込んでいく。  それは、今作の最大の見どころであったはずの主人公によるドライビングシーンの変遷からも明らかだ。 主人公“BABY”による天才的ドライビング技術のハイライトは、実は冒頭の一番最初のシーンに集約されてしまっている。 その後の逃走シーンは常に何かしらの“障害”が発生し、彼の“見せ場”とそれに伴う“高揚感”はどんどん削ぎ落とされていく。 ついには車からもはじき出されて自らの足で無様に逃走する始末。  ハイセンスな娯楽性に彩られていたように見えた映画世界が、凄惨な暴力と血によって塗り固められていく。 そうして、通り名の通りに“BABY”だった主人公は、ようやく自分自身が辿ってきた道程の「罪」に気付き、対峙する。 ついに、逃げ道も、後戻りも出来ないことを理解し、“耳鳴り”を塞いできた音楽を止める。 そう、幼き頃に「傷」を負った彼にとって、音楽を聴くということこそが、“getaway driver”としての生き方そのものだったのだ。  想定していた映画世界とは随分と異なり、想像以上にエドガー・ライトという監督のこれまで見せてこなかったタイプの「野心」に溢れた作品だったと思う。 ただし、やはりこの監督ならではの“映画愛”は溢れかえっている。主人公も、ヒロインも、悪役も脇役も端役ですら、気がつけばみんな愛おしく感じる。  SONYの映画なのに、iPodを愛用し使い倒すその心意気や良し!
[映画館(字幕)] 8点(2017-11-09 22:03:16)
230.  スパイダーマン:ホームカミング
新しいスパイダーマン=MCU+学園モノ! 今作は、アベンジャーズの世界観に降り立った“15歳”の“新スパイディ”の立ち位置を、絶妙なバランス感覚で成立させている。 三度リブートされた新スパイディは、過去2シリーズのどのスパイディよりも若く、故に最も未成熟だ。 「ハイティーン」と言うよりも、きっぱりと「子供」と言ってしまっていいだろう。 だからこそ、軽快で、楽しい。  アイアンマンとキャプテンによる悲壮な“殴り合い”の裏側で、一人の少年が喜々として“見習いヒーロー”としての活躍を繰り広げていく様は、問答無用に楽しく、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)のストーリーラインの「本流」対して、一服の清涼剤ともなる魅力的な「支流」を見事に生み出してみせたと言える。   この映画は、愉快な学園コメディであり、二つの疑似父子の関係性を通じて成長する少年の青春映画でもある。 父親がいない15歳のピーター・パーカー(スパイダーマン)にとって、全く相反する二人の大人、トニー・スターク(アイアンマン)とエイドリアン・トゥームス(バルチャー)の存在は、それぞれ異なる「父像」の投影だと言えるだろう。 それぞれの「父」と対峙し、反発し、学ぶことで、少年は大人への階段を一つ上がる。 最後の最後で傲慢な大人たちの思惑を超えて、小憎らしいくらいに「成長」して歩んでいく若きヒーローの姿がとても小気味いい。  個人的には、2000年代以降の2つのスパイダーマンシリーズ(サム・ライミ版&マーク・ウェブ版)には、それぞれ愛着を持っていた。 特にマーク・ウェブ版の第二弾「アメイジング・スパイダーマン2」は、ヒーロー映画としてはあまりに衝撃的なラストの顛末も含めて、アメコミヒーロー映画の一つの“エポックメイキング”とも言える傑作だと思っている。 興行成績が振るわなかったことで、「アメイジング〜」の第三弾の製作が頓挫したことは非常に残念だった。  故に、今回の再リブートについては、いくら待望の“スパイディMCU参戦”とはいえ、素直には喜べない部分も大きかった。 ただし、結果的には「流石はマーベル」と賞賛しないわけにはいかない仕上がりだったと思う。  アベンジャーズシリーズ全体の流れを踏まえた上で、“年代”や“社会的地位”といったカテゴリの相違によって生じる多角的な「価値観」と「主張」を物語構築の主軸に据えて描き出すことで、シリーズの世界観を更に多層的に深めてみせたと思う。 そして、燦然たるヒーロー映画であると同時に、学園映画としても、少年青春映画としても、純粋に魅力的な映画であった。   さあいよいよ「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」への助走も加速し始めている。 “戦友”との決別に傷つき、打ちひしがれていた“大人=アイアンマン”にとっても、本物のヒーローとして成長していく“子供=スパイダーマン”の姿は、ヒーローという生き方の本質を思い起こさせる“救い”となった筈だ。 そういうシリーズの流れの導き方も、悔しいくらいに巧い。   最後に、一つだけ。 付き合いはじめの彼女の父親と突如として狭い車内で二人っきりにされては、“彼ら”のような特別な関係性ではなくとも、ああいう空気になるさね……。
[映画館(字幕)] 8点(2017-11-09 21:57:12)(良:1票)
231.  ザ・マミー/呪われた砂漠の王女
御年55歳の稀代のハリウッドスターが、相も変わらず“年不相応”な肉体とアクションをこれでもかと見せつける。 “彼”の映画愛と自己愛が常軌を逸しはじめて久しいが(褒めている)、今作でもその部分においては、世界の映画ファンの満足に足るパフォーマンスを見せてくれていると思う。 詰まるところ、“トム・クルーズ”の仕上がり具合は、近年の傑作・快作と比較しても決して不足のない状態だったことは断言できる。  ただし、最新の娯楽大作としては、きっぱりと、面白くはない。 トム・クルーズの出演映画としては、近年珍しいレベルの「凡作」だったと言わざる得ない。  今作は、ユニバーサルが新たに仕掛ける「ダーク・ユニバース」なるモンスター映画シリーズの第一弾。 「マーベル・シネマティック・ユニバース」の大成功に対抗するといえば聞こえは良いが、要は臆面もなく企画を真似たフランチャイズ化だろう。 しかしながら、今後製作が予定されている「フランケンシュタイン」「透明人間」「ドラキュラ」「半魚人」などなど名だたるモンスター映画のラインナップには、一映画ファンとしていやが上にも高揚してしまう。 その先陣を我らがトム・クルーズが担うというわけだから、期待しないわけにはいかなかったところ……。  モンスター映画シリーズとはいえ、往年のモンスター映画そのままに怪物そのものの「恐怖」だけを描き出したところで、どんなに良質であったとしても“B級映画”の範疇を出ないことは目に見えている。 今の時代に、「ダーク・ユニバース」と銘打ったからには、時代と価値観を越えて、「悪」という存在そのものへの真理の追求や存在意義めいたものが描き出されることを期待した。  ユニバーサルの製作陣の狙い自体は、そういった期待から外れたものではなかったと思う。 トム・クルーズが演じた主人公が辿る運命然り、闇の女王から醸し出される悲哀然り、非常に惜しい要素は随所に見受けられたのだけれど、結局それらの要素が巧く結びつかず、最終的には酷く散漫で凡庸な映画世界の構築に終始した印象を受ける。 監督を務めたアレックス・カーツマンなる人物は、過去様々な娯楽大作において脚本や製作を担ってきた映画人だが、この壮大なフランチャイズの先陣を“初監督作”として纏め上げるには、少々荷が重すぎたのではないかと思わざるをえない。  まあしかし、これほど大規模なフランチャイズのスタートが困難であることは分かりきっていることで、ある程度の失敗も想定のうちだろう。 シャレにならないほど大コケして、次作以降のユニバース展開自体が頓挫しないための“トム・クルーズ”という「保険」だったとも思える。 ニック・フューリー的な立ち位置で登場するラッセル・クロウ扮する“ジキル&ハイド”は贅沢だったし、美しい“闇萌え女王”には是非とも再復活してほしい。  次作は、ハビエル・バルデムの「フランケンシュタイン」か、ジョニー・デップの「透明人間」か。程よくワクワクしながら待つとしよう。
[映画館(字幕)] 5点(2017-11-09 21:39:33)
232.  エージェント:ライアン
かつてハリソン・フォードやアレック・ボールドウィンらが演じてきたCIA分析官“ジャック・ライアン”の若き日を描くリブート作。 リブート版「スター・トレック」の主演としてシリーズ成功の一躍を担ったクリス・パインを新たなジャック・ライアンに起用し、例によってシリーズ化を目論んだのだろうけれど、どうやら失敗に終わったようだ。  アクション映画として決して面白くない映画ではなかったと思う。駆け出しスパイものとして楽しめないわけではない。 クリス・パインは、理想と野心そして才気に溢れた主人公像を好演しており、この荒削りな若者が、年月と経験を経て、「パトリオット・ゲーム」のハリソン・フォードへと変貌していくことを想像するとある種の感慨も覚えた。 お目付け役として登場するケビン・コスナーも存在感があり、シリーズ化が実現したならば、主人公との師弟関係においても展開が期待できたと思う。  期待できる要素は随所にあったのだが、昨今良作が乱立するスパイ映画勢の中にあって、特筆すべき見どころがあったかというと、「ノー」と言わざるを得ない。 アクションシーンにおいても、ストーリーテリングにおいても、目新しさは無く、かと言って各要素が洗練されているかというとそうでもなく、中途半端でありきたりだった。 監督と悪役を担ったケネス・ブラナーに、この手の娯楽映画を巧く仕上げる資質がそもそもないのではないかと思える。  “粗”として最も気になったのは、何と言ってもヒロインのキャラクターとしての魅力の無さ。 婚約者の正体がCISエージェントであることを知って、それに対する驚きはほぼ皆無で、ただただ浮気の疑惑の解消に安堵する女ってどうなの? 彼女が未熟なティーン・エイジャーであるなればその描写も可愛く映るのだろうけれど、医師の肩書を持つ大人の女性だというのだから、正直ただのイタい「馬鹿女」にしか見えなかった。 途中までキーラ・ナイトレイが演じているとは気付かなかった程のこのヒロインの魅力の無さは、娯楽映画として致命的だ。
[インターネット(字幕)] 4点(2017-11-09 21:32:00)
233.  ポテチ
伊坂幸太郎の短編小説の映画化。 原作が短編小説とは言え、一本の映画にするには物語構造自体が薄すぎたように思う。 このお話自体が嫌いなわけではないけれど、醸し出されるポップさが少々あざとすぎるようにも見え、登場するキャラクターたちに総じて実在感がなかった。 現代劇として映画化する以上は、一定以上のリアリティは不可欠なわけで、その部分を担保できなかったことは大きな敗因と言えるだろう。  ストーリーテリングの中心に「野球」が存在するわけだが、そうである以上、「野球」をもっと象徴的に描く最低限の巧さがほしかった。 勿論、低予算の中編であるから贅沢は出来なかったのだろうが、ラストの球場シーンがまったくもって「プロ野球」に見えなかったことには失笑を禁じ得なかった。  流行作家としての伊坂幸太郎の小説は好きだし、いくつかの映画化作品も概ね面白く観ている。 今作も決して全く面白くないということではないけれど、他の作品と比較して捻りと毒気が弱いことが、大いに物足りぬ。
[インターネット(邦画)] 4点(2017-11-09 21:19:31)
234.  薄氷の殺人
邦題の印象から勝手に韓国映画だとばかり思って観始めたが、中国映画だった。 似たようなプロットの韓国映画もあったように思うが、国が違うとこうも映画の空気感というものは異なってくるものかと痛感した。まあ至極当たり前のことなのだが。 そして、残念ながら、個人的にはこの映画に対してとても居心地の悪さを感じてしまい、面白味を感じるまでに至らなかった。 退屈、淡白、ありきたり、否定をするための幾つかの形容が頭をめぐるが、どれもうまく当てはまらない。  寒々しい空虚感が全編通して満ちている。 湯気が立ち上る料理も、白日に打ち上がる花火も、超絶にダサいエンディング曲も、すべてが寒々しい。 勿論、それこそがこの映画のテーマであり、存在意義だとは思う。 ただし、その寒々しさを受け入れられるかどうかで、この映画への価値観は変容するのだと思う。  それを受け入れられなかった者は、この映画が醸し出す寒さと冷たさと空虚さと不潔さに只々苦しめられる。 主人公をはじめ登場人物たちにも一切感情移入をすることができず、困惑する。 そして、一刻も早くこの映画世界から抜け出したくなる。  “面白くなかった”ので、評価はできない。けれど、この独特な中国映画の存在意義は認めざるをえない。
[インターネット(字幕)] 5点(2017-11-09 00:00:14)
235.  メアリと魔女の花
冒頭の一連のシークエンスはまさに“ジブリ的”であり、期待感と高揚感が刺激された。 「天空の城ラピュタ」のようであり、「千と千尋の神隠し」のようであり、「崖の上のポニョ」のようであった。 この映画が、「スタジオジブリ」としての再出発作品だと言うのならば、僕は一定の満足感を得られたかもしれない。  米林宏昌監督としては3作目だが、スタジオジブリから独立し、新スタジオを立ち上げて臨む第一回作品として、彼のこれからのフィルモグラフィーにおいても非常に大切な一作だったに違いない。 選んだ題材は「魔女」。当然ながら観客は特にジブリファンでなくとも「魔女の宅急便」を否が応でも連想する。 キャッチコピーにも「魔女、ふたたび。」と掲げる大胆不敵ぶり。 そして、冒頭からの過去のジブリ作品に対しての過剰なまでのオマージュ性は、敬意と感謝を込めつつも、それを越えていくことの堂々たる宣言かと期待した。  がしかし、最終的に得られた感想は、冒頭のシークエンスで感じた印象に集約されていた。 即ち、「ジブリのような映画」でしかなかったということ。 シーンもキャラクターも台詞回しですら、映画を構成する殆どすべての要素が“のようなもの”だった。  “ジブリの継承”と言えば聞こえはいいけれど、同時に恥ずかしいくらいに“二番煎じ”の域を出ておらず、むしろ“呪縛”めいたものも否定できない。 当然ながら、それではアニメ映画として新しい世界が開くはずもない。 悪いけど、この国のアニメーションはもっと先に進んでいて、そんなところにいつまでも留まってはいない。  奇しくも、昨年の国内映画シーンは、片渕須直監督の「この世界の片隅に」と、新海誠監督の「君の名は。」が席巻し、今年も「夜は短し歩けよ乙女」で湯浅政明監督が改めて新時代への名乗りを上げた。 勿論、最先鋒には庵野秀明や細田守も君臨していて、国内のアニメ映画界は、群雄割拠の戦国時代に突入している。  そんな映画ファンにとってはしびれる状況の中で、米林宏昌監督がこの“二番煎じ”で満足しているというのならば、それはあまりにも残念でならない。 ジブリからの直接的な独立者として色々と難しい立ち位置ではあるのだろう。そうであったとしても、ここまで古巣に対しての目配せをし、媚びへつらう必要があったのだろうか。 エンドロールの最終盤にクレジットされる御大3名に対しての「感謝」の二文字が気持ち悪くって仕方なかった。   “偏屈な天才”がまたもや「引退詐欺」を画策しているという噂も聞く。 米林宏昌監督があくまでも“ジブリ”というブランドの枠組の中で「作画」のみに没頭し、老いた天才と共に心中したいというのであればそれもいいだろう。 けれど、個人的には前作「思い出のマーニー」に多大な可能性を感じただけに、勿体なく思う。  新スタジオの名前はスタジオポノック。「ポノック」とは「午前0時」の意で一日のはじまりを表現しているらしい。 果たして、「午前0時」は一日のはじまりなのか終わりなのか。 残念ながらこの作品からは、過ぎた一日の疲弊感とそれに伴う想像力の欠如しか感じない。
[映画館(邦画)] 4点(2017-11-08 21:24:44)
236.  ハドソン川の奇跡
出張で羽田行きの機内に乗り込む最中、10日前に観たこの映画のことを思い出した。 日々の行いだとか、常日頃の危機意識だとか、事故に遭遇しないための言い様は色々とあるけれど、事故に遭うか否かは詰まるところ「運」次第だろう。 しかし、同時に、不運にも起こってしまった事故に対処する人物が誰であるかということも、「運」次第だと思う。 この映画で描かれた事実を率直に受け取るならば、あの航空事故は、「不運」と「幸運」が同時に邂逅した出来事であり、そのことが即ち「奇跡」と呼べるのだろうと思う。  原題は「Sully」。事故機の機長チェスリー・サレンバーガーの愛称である。 原題が表す通り、今作は「奇跡」の顛末ではなく、サレンバーガー機長の事故前後の心情描写と葛藤、ベテラン機長としての矜持がつぶさに描かれている。  パイロットとして30年以上に渡り飛び続けてきたからこそ抱えた一抹の不安。 彼は、航空において「絶対」が無いということを、他の誰よりも知っていたのだろう。それがたとえ自分自身が生み出した奇跡と、それに対する疑念であったとしても。 紛れもない「一流」だからこそ抱えた葛藤の行く末に心がふるえた。  主演のトム・ハンクスは、「キャプテン・フィリップス」「ブリッジ・オブ・スパイ」そして今作と、実際に起こった事件・事故に対峙した実在の人物を立て続けに演じ、流石の存在感を放っている。 すっかり“アメリカの良心”を象徴する大俳優になった印象を覚える。  そして、監督のクリント・イーストウッドは、映画人として極まった円熟味に更に拍車をかけるか如く、あまりにも手際よく良作を仕上げてみせている。 この題材となった事故は、確かに奇跡的な出来事ではあるが、あまりにも突発的で短時間で収束した事故だっただけに、映画として膨らませることは困難だったはずだ。 しかしながら、イーストウッド監督は、紛れもないキーパーソンであるサレンバーガー機長の深層心理にまで的確に表し、同時にこの奇跡が機長一人の功績ではなく事故に関わったすべての人達による最善の対応結果であったことまで拾い上げ、それぞれの描写を手際よく描ききっている。   冒頭機長は、対応の是非を追求してくる国家運輸安全委員会の「墜落」という表現に対して、断固として「着水」だと言い放つ。 勿論結果として、機長の主張は正しかったわけだが、この映画が伝えることはその正誤そのものではない。 或る英雄的行動も、一つ視点を変えれば、蛮行として捉えられることもある。 事故に関わった様々な人間たちの多角的な視点こそが、この映画のテーマだろう。  そこには、この世界の理、アメリカという国の真の姿を冷静に見続け、表し続けるクリント・イーストウッドの本領が如実に表れている。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-11-08 21:18:41)
237.  スプリット
冒頭、文字通りに“恐怖”と隣り合わせになった少女の一寸の逡巡。 あまりにも突然な危機との遭遇に対して硬直してしまっているようにも見えるが、どこか逃げ出すことをためらっているようにも見える。 孤独な少女は、逃げることが出来なかったのではなく、直感的に“恐怖”の正体に“何か”を感じ、一人抱え続けてきた地獄を切り裂いてくれる“何か”に期待したのではないか。 即ち、この映画は、主人公の少女が恐怖から逃げ切る物語ではなく、恐怖に対して向かい合うことで、自分自身が抱える恐れを曝け出す物語だったのだと思う。  ある意味予想通りではあるが、変な映画である。 M・ナイト・シャマランの最新作に対して“真っ当さ”を期待することがそもそもナンセンス。鬼才監督の思惑通りに、恐怖と奇妙なカタルシスに覆い尽くされる。  アルフレッド・ヒッチコックの「サイコ」を皮切りに、「多重人格」を描いたサスペンスは世界中の映画シーンで数多く製作されている。 今作も、そういった過去作のテイストを踏まえた類似点やオマージュは見受けられるが、本質的には、そのどの作品とも一線を画する映画に仕上がっていると思う。(好き嫌いは別にして……)  多重人格を描くにあたり、最もキーポイントになってくるのは、やはり演者の力量だろう。 今作で“多重人格者”にキャスティングされたジェームズ・マカヴォイがどうだったか、まあ圧倒的である。 いまやハリウッドきっての芸達者と言えるこのスター俳優が、流石に素晴らしいパフォーマンスを見せる。 そもそもが、人間の光と闇を同時に醸し出す雰囲気を持つ俳優なので、この映画での色々な意味で“新しい”多重人格者役は、まさにハマり役だったと言えよう。 終盤以降、複数の人格がワンカットの中で矢継ぎ早に現れては入れ替わる様は凄まじかった。   この映画は、異常な多重人格者に囚われた少女たちが、絶体絶命な危機的状況から逃げ出そうとする恐怖映画としてイントロダクションされている。 しかし、ある意味当然ながら、それはシャマラン監督による“ミスリード”である。 「恐怖」を描いた作品であることは間違いないが、主人公の少女が対峙する「恐怖」は、それを通じて自らが抱え続けてきた恐れと向き合うことで、強大な力に対しての崇拝のようなものも孕んだ「畏怖」へと変化していく。  その心理の変化は我々観客にも与えられる。 だんだんと、ジェームズ・マカヴォイ演じるこの“異常”な多重人格者が気になって仕方なくなる。恐怖を越えて、何か愛着めいたものすら覚えてくる。 「あれ?何かがおかしい」と心のそこでふと気づく。 主人公の少女の顛末よりも、この“超人的”な多重人格者のこの先が観たくなっている。  「え?どういうことだ」 と、思った瞬間に現れる最終カットのまさかのアイツ! 思わず吹き出し、溢れ出る笑みを抑えきれず「すげえ」と呟いてしまった。 シャマラン好きにはタマラン異常で反則的な展開力。 そして、“あのシャマラン映画”が大好きな者としては、殊更にタマラン結末だった。 いやあ、参った。
[映画館(字幕)] 8点(2017-11-08 20:55:42)(良:1票)
238.  LOGAN ローガン 《ネタバレ》 
軋む。 古い車体が、錆びた鉄扉が、そして満身創痍のヒーローの身体が。 不死身だったはずのヒーローが、老い、拭い去れない悔恨を抱え、死に場所を求めるかのように最後の旅に出る。 メキシコからカナダへ。アメリカを縦断する旅路の意味と、その果てに彼が得たものは何だったろうか。  17年に渡り「X-MEN」シリーズを牽引してきた主人公のラストが、まさかこれほどまでにエモーションに溢れた“ロード・ムービー”として締めくくられるとは思ってもみなかった。 シリーズ過去作のどの作品と比較しても、圧倒的に無骨で不器用な映画である。テンポも非常に鈍重だ。 いわゆる“アメコミヒーロー映画”らしい華やかで派手な趣きは皆無だと言っていい。 だがしかし、どのシリーズ過去作よりも、“ヒーロー”の姿そのものを描いた映画だと思う。  個人的に、長らく「X-MEN」シリーズがあまり好きではなかった。 初期三部作における主人公・ウルヴァリンの、鬱憤と屈折を抱え、あまりのもヒーロー然としないキャラクター性を受け入れるのに時間がかかったからだ。 リブートシリーズと、ウルヴァリン単独のスピンオフシリーズを経て、ようやくこの異質なヒーローの本質的な魅力を理解するようになった。 それくらい、このヒーローが抱える憂いと心の闇は深く果てしないものだったのだろうと思う。  そんなアメコミ界においても唯一無二の「異端」であるヒーローが、ついに自らの闇に向かい合い、決着をつける。 おびただしい数の敵を切り裂いてきたアダマンチウムの爪が、これまで以上に生々しく肉をえぐり、四肢を分断し、血みどろに汚れていく。 そして、同時にそのアダマンチウム自体が体内に侵食し、無敵のヒーローの生命を徐々に確実に蝕んでいく。 それはまさしく、“ウルヴァリン”というヒーローの呪われた宿命と業苦の表れだった。  不老不死故に、他の誰よりも、相手を傷つけ、そして傷つけられてきた哀しきヒーローが、ふいに現れた小さな「希望」を必死に抱えて、最後の爪痕を刻みつける。  過去作におけるウルヴァリンというキャラクター故のカタルシスの抑制とそれに伴うフラストレーションは、今作によってそのすべてが解放され、別次元の感動へと昇華された。  それが成し得られたのは、何を置いても主演のヒュー・ジャックマンの俳優力によるところが大きい。 彼は今作で自らのギャランティーを削って、「R指定」を勝ち獲ったらしい。 そこには、“ウルヴァリン”を演じることによってスターダムをのし上がったことへの感謝と、このキャラクターのラストを締めくくる上での並々ならぬ意気込みがあったに違いない。 結果、ラストに相応しい見事な“オールドマン・ローガン”を体現してみせたと思う。   「This is what it feels like(ああ、こういう感じか)」  最期の最期、哀しきヒーローは、ついに“それ”を得ることが出来た。 墓標の「X」が涙で滲む。 さようなら、いや、ありがとう、ローガン。
[映画館(字幕)] 9点(2017-11-08 20:48:48)(良:2票)
239.  美しい星
ぶっ飛んでいる。 この理解と賛否が分かれることは間違いない映画が、大都市のみならず、地方都市のシネコンにまでかかっていることが、先ず異例だろう。 「桐島、部活やめるってよ」、「紙の月」と立て続けに日本映画史に残るであろう傑作を連発した吉田大八監督の最新作というブランド力が高騰していることが如実に伺える。 そして、その高騰ぶりにまったく萎縮すること無く、この監督は過去のフィルモグラフィーを振り返っても随一にヘンテコリンな映画を作り上げている。無論褒めている。 (亀梨くんの出演のみを目的にした女性客などは大層面食らったことだろう)  三島由紀夫の原作は未読だけれど、あの稀代の小説家が健在の時代であったとしても、たぶん同じように時代を超越したエネルギーに満ち溢れた映画が作られただろうと思う。 そういう意味では、同じく三島由紀夫が江戸川乱歩の小説を戯曲化した「黒蜥蜴」の映画化作品も彷彿とさせる。 即ち、この映画の在り方はまったく正しく、吉田大八監督はまたしても原作小説を見事な“新解釈”を多分に盛り込みつつ素晴らしい映画世界を構築してみせたのだと思う。  この映画は、冒頭から最後の最後まで、SFと幻想の境界線を絶妙なバランス感覚で渡りきる。 そのバランスの中心に描かれるのは、人間の営みの中に巣食う可笑しさと、表裏一体に存在する恐ろしさと愚かさ。 その時に暴力的で破滅的ですらある「滑稽」が、ありふれた一つの「家族」に描きつけられる。  終始、可笑しくて、笑いが止まらない。 ただ、だからこそ、この世界の危うさの核心を鷲掴みにされているような痛さとおぞましさも感じ続けなければならなかった。  人間社会の滅亡を開始する“ボタン”は空洞だった。 人類は許されたのか?勿論、違う。 謎の宇宙人がその強大な力を振るうまでもなく、人類は勝手に滅亡に向けて突き進んでいる。 “ボタン”など端から必要なかったのだ。  優しい火星人が「美しい星だ」と名残惜しんでくれているうちに、なんとかしなければ。
[映画館(邦画)] 8点(2017-11-08 20:43:36)
240.  ウォー・マシーン:戦争は話術だ!
主人公の米軍エリート大将は、ストイックな男。 毎朝の11kmのランニングを欠かさず、食事は一日一回、4時間しか眠らない。 劇中何度も描写される彼の絶妙に滑稽なランニングフォームが可笑しい。 そこには、この「戦争についての映画」におけるシニカルな悪意が凝縮されているように思えた。  さて、この映画は、「戦争映画」だろうか。 勿論、「9・11」に端を発した「アフガニスタン紛争」の“現場”を描いている以上、風刺とコメディがふんだんに盛り込まれてはいるが、「戦争映画」だと認識することが正しかろう。 しかし、この映画の作り手は、描かれていることが「戦争」であるということを絶妙なさじ加減で終始ぼかし続ける。  冒頭、国際空港の便所で用を足した後、意気揚々と闊歩し、「勝ちに行くぞ!」と兵士たちに発破をかける主人公の陸軍大将の姿は、まるでやる気のないスポーツチームを率いる少々間の抜けたコーチのようだ。 その後駐留地を目の当たりにした大将は、「ここの連中は戦争だということを忘れている」と嘆く。 それは米軍の兵士に限ったことではない。連合諸国の兵士は勿論、大使をはじめとする米国政府の面々も、現地のアフガニスタン兵や国家元首すら、それが「戦争」であることの意識が希薄になっている……ように見える。  それでも熱い大将は、あらゆる場所で「熱弁」をふるう。 この「戦争」の意味と価値を、各所で、兵士、政治家、民衆、記者、様々な人に説いて回る。 どの場面でも、大将の演説はとても情熱的だ。 劇中、ティルダ・スウィントン演じるドイツ人議員の指摘にも含まれていたように、「大将は善い人」だと思う。この人物が本当に信念をもって任務に臨んでいることは誰の目にも明らかだ。  しかし、悲しきかな彼の言葉に、説得力を伴う「中身」は無い。 それは、彼が己の人生を通して信念を懸ける「戦争」そのものに、中身がないからだ。 そして、逆説的に彼の存在そのものが、この「戦争」の空虚さとイコールであることが、徐々に確実に露わになってくる。  熱き大将は、嘆く。戦争であることを認識していない本国、そして世界に対しての壮絶なジレンマに苛まれる。 でも、現実はそうではないのだ。 「戦争」というものに、彼が求める「理想」が本来はあったのだとしても、そんなものはとうの昔に無くなっている。  そんな“今”の「空虚な戦争」において、古ぼけた理想を掲げる軍人がいくら熱弁を振るおうとも、何かが伝わるはずもない。 何処から来て、何処へ行くのかすら伝わらない。 そこには、巨大な虚無感が横たわっているようだった。   ブラッド・ピットがあらゆる意味で素晴らしい。 製作者としてネット配信限定の映画製作を担うにあたり、その性質を最大限に活かした題材と手法と作品規模で、オリジナリティに溢れる作品を仕上げてみせたと思う。 そして同時に、スター俳優としてベストパフォーマンスを見せている。時期的にアカデミー賞ノミネートは狙えないのかもしれないが、間違いなくそのレベルであり、少なくともこのスター俳優の新たな代表作の一つとなったことは確かだろう。   空虚な戦争を続ける空虚な大国は反省などしない。 では何をするのか?クビにして後任を送るのだ。 後任として送られてきたまさかの「ボブ」の闊歩を目の当たりにして、最後の最後までブラックな笑いと虚無感の増大が止まらなかった。  それにしても、このレベルの戦争映画がネット配信限定で公開される時代か。 作品内容に対する邦題の的外れ感は罪だが、映画の在り方は今後益々多様化していくのだろうな。
[インターネット(字幕)] 9点(2017-11-08 20:35:12)
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