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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2641
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 44歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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461.  打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?(2017)
冒頭から精細なアニメーションが映し出される。 空と海に囲まれた風景が、キャラクターたちの表情が、眩いばかりにキラキラして、美しい。 だがしかし、なんだかとっても、“嘘くさい”。 その漂ってくる“臭い”が、まさしく鼻について、本来あるはずのエモーションの圧倒的物足りなさに直結していることは明らかだった。  20年来、岩井俊二のファンである。その崇拝する映画監督の“出発点”とも言える伝説的なテレビ映画の傑作が、二十数年の年月を経て、美しいアニメーションで甦る。 贔屓目だろうがなんだろうが、エモーショナルに浸る準備は万端だった。  しかし、そうはならなかった。そして、映画を観終わる頃には、“嘘くさい臭い”の正体は明らかだった。 端的に言ってしまえば、「商業主義」の一言に尽きる。 過剰なまでに明確であざとい“ビジネス臭”に、この映画を象るすべての要素が包み込まれている。  一概に「商業主義」を否定するつもりは毛頭ない。 映画はビジネスであり、巨額の製作費を投じて作品を作り上げる以上、観客を集めることが出来なければ意味はない。 嘘くさいビジネス臭に覆い尽くされていようが、集客に成功したならば、それは一つの勝利なのだろう、とも思う。  ただ、「打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか」という、あのタイトルデザインを目にしただけで、鼻の付け根がツンときてしまう者としては、このリメイク作が放つ臭いの正体があまりに悲しくて、愚かしくて、腹立たしかった。 それっぽい舞台設定、オリジナルからの台詞の引用や、それ以外の岩井俊二作品からの安易なオマージュ的なあれやこれ……。 「こういうの散りばめとけば岩井俊二ファンなんてものはカンタンに喜ぶんでしょ(ニヤニヤ)」 という狡猾で安直な思惑が溢れ出ている。まったくもって馬鹿にしている。   9月1日のレイトショーでこの映画を観た。 夏が終わった翌日の冷ややかな空気が、体と心にしみた。 あの二十数年前の、奥菜恵が忍び込んだプールの消えた水平線の光が、遠く懐かしくて仕方なかった。
[映画館(邦画)] 2点(2017-09-02 07:32:22)(良:2票)
462.  僕らはみんな生きている
くたくたに疲れた出張帰りの機内で、ひっさしぶりにこの映画を観た。 バブル期の日本映画独特の滑稽な欺瞞に溢れてはいるのだけれど、無性に胸に迫るものがあった。 曲がりなりにも“日本のサラリーマン”を10年続けてきて、彼らの悲哀としぶとさが身に染みる。  真田広之、山崎努、岸部一徳、嶋田久作という存在感たっぷりの4人の演者が、海外赴任のサラリーマンのある種の軽薄さと狡猾さと哀愁を体現している。 4人が織りなす文字通りの“サバイバル”である処世術の様が時に笑えて、時に笑えない。   発展途上国の内戦に巻き込まれた主人公たちが映画の中で繰り返し叫ぶ。  「私たちは、日本のサリーマンです!」  それは、はじめは銃撃戦をすり抜けるための「逃げ口上」であった。 それがストーリー展開に伴い、自分と日本の企業文化に対する「怒り」となり、終いには「誇り」として高らかに宣言される。   ぶっとんだコメディのように見えるけれど、今の時代でも星の数ほどの“日本のサラリーマン”が、世界のあちこちで汗を流し続けていることだろう。
[ビデオ(邦画)] 8点(2017-08-27 00:58:22)(良:1票)
463.  ワンダーウーマン
時代を超越した特異なコスチュームを纏った唯一無二の女戦士が、死屍累々の無人地帯“ノーマンズランド”を、単身で突き進む。 この映画における数々のアクションシーンの中でも、白眉の場面である。 その場面を目の当たりにした瞬間の高揚感それのみで、このヒーロー映画の価値は揺るがないとすら思える。  一方で、繰り広げられるストーリーにはムラが多く、呆れるくらいに大味である。 「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」をはじめとする昨今のヒーロー映画におけるストーリーラインの精細さと比べると、明らかに「稚拙」と言えよう。 しかし、この映画には、数多の傑作ヒーロー映画と比較しても一線を画する圧倒的なエモーションが溢れている。それは稚拙なストーリーラインを補って余りあるものだった。  満を持して新しい“鋼鉄の男”と“闇の騎士”を描き出し、その二大ヒーローの激突を力を込めて映し出してもなお、絶好調の「MCU」に対しては一矢報いることすら出来ていなかった「DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)」が、遂に反撃の狼煙を上げたと言っていい。  優れた映画職人たちを集め、集合体としてのクオリティの高さを提供し続けているMCUに対して、DCEUが貫き通したものは、まさに一点突破のケレン味だ。 愚直なまでに突き詰めたビジュアルに、マットな質感の重厚なヒーローが、“決め画一発”の格好良さをこれでもかと見せつける。 愚鈍だ、鈍重だ、と非難し続けられた彼らがこだわり抜いた“センス”が、稀代の女性ヒーローによって、ついに解き放たれたようだった。  DCコミックスで描かれてきた「ワンダーウーマン」は、束縛と解放の象徴であったのだと思う。 そして、この映画化においても、その命題は見事に表現されている。  ワンダーウーマン=ダイアナ・プリンスは、純粋故に無垢で危うい「正義」を掲げ、“闘い”に挑む。 その闘いの対象は、強大な“悪”であると同時に、自分自身に課せられ、縛り付けられた“宿命”でもあったように思う。 自分の存在性を象るあらゆる“しがらみ”の一つ一つを初めて認知し、対峙し、自分自身を解き放っていく様こそが、このスーパーヒーローにとっての“闘い”そのものなのだと感じた。 だからこそ僕は、「彼女」の存在とその一挙手一投足に涙が溢れて仕方なかった。  「バットマンVSスーパーマン/ジャスティスの誕生」の時点で、巨躯の男たちを凌駕し、ワンダーウーマンとして圧倒的存在感を放っていたガル・ガドットは、見事にこの役を自分のものにしてみせている。  そして、彼女の女優としてのポテンシャルを最大限に引き出し、絶妙なバランスを要求されるヒーロー映画を成立させたパティ・ジェンキンスの監督力には脱帽する他ない。 「モンスター(2003)」でシャーリーズ・セロンを文字通りに“化け”させたこの監督の手腕の確かさを改めて感じた。 なぜこの監督は「モンスター」以降の長編映画作品が無かったのか不思議でならない。 が、その「現実」こそが、女性の活躍を押しとどめる「ガラスの天井」の存在を如実に表すものなのだろう。  勇ましく美しいワンダーウーマンが、“ガラス”を突き破り、次々に襲いかかる「敵」を叩きのめす。 彼女が示したその「勇気」の価値は、「映画」という枠を超えて、神々しく光り輝く。
[映画館(字幕)] 9点(2017-08-26 23:38:26)(良:2票)
464.  ベイビー・ドライバー
無垢な暴走の果てに“BABY”が辿り着いた場所は、天国か地獄か。 この映画は、純真故に「犯罪」という名の道なき道を走らざるを得なかった男の「贖罪」の物語である。  主人公は少年のような風貌の若き“getaway driver(逃し屋)”。 子供の頃の事故により始終耳鳴りが鳴り止まない彼は、音楽でそれを掻き消した時のみ天才ドライバーに変貌する。 彼の聴く音楽が全編に渡って映画世界を彩り、すべての音という音が音楽に支配される。 エンジン音も、銃声も、怒号ですらも、彼が聴く音楽に合わせて“ビート”を刻む。  ビートに彩られた痛快なアクションの連続によって、当然ながら観客は最高の高揚感に包まれる。 エドガー・ライト監督による問答無用にエキサイティングで、ハイテンションな映画を堪能している、ように確かに感じる。 監督の過去作、「ショーン・オブ・ザ・デッド」や「ホット・ファズ」のように、彼の“映画愛”によって、エキサイティングなコメディが益々加速して、多幸感溢れるエンターテイメントへ昇華されるのだろう。と、高を括っていた。  しかし、そうではなかった。先に記した通り、「贖罪」というテーマを孕んだこの映画は、幸福なストーリーラインを許さず、主人公をじわじわと確実に「地獄」へと引き込んでいく。  それは、今作の最大の見どころであったはずの主人公によるドライビングシーンの変遷からも明らかだ。 主人公“BABY”による天才的ドライビング技術のハイライトは、実は冒頭の一番最初のシーンに集約されてしまっている。 その後の逃走シーンは常に何かしらの“障害”が発生し、彼の“見せ場”とそれに伴う“高揚感”はどんどん削ぎ落とされていく。 ついには車からもはじき出されて自らの足で無様に逃走する始末。  ハイセンスな娯楽性に彩られていたように見えた映画世界が、凄惨な暴力と血によって塗り固められていく。 そうして、通り名の通りに“BABY”だった主人公は、ようやく自分自身が辿ってきた道程の「罪」に気付き、対峙する。 ついに、逃げ道も、後戻りも出来ないことを理解し、“耳鳴り”を塞いできた音楽を止める。 そう、幼き頃に「傷」を負った彼にとって、音楽を聴くということこそが、“getaway driver”としての生き方そのものだったのだ。  想定していた映画世界とは随分と異なり、想像以上にエドガー・ライトという監督のこれまで見せてこなかったタイプの「野心」に溢れた作品だったと思う。 ただし、やはりこの監督ならではの“映画愛”は溢れかえっている。主人公も、ヒロインも、悪役も脇役も端役ですら、気がつけばみんな愛おしく感じる。  SONYの映画なのに、iPodを愛用し使い倒すその心意気や良し!
[映画館(字幕)] 8点(2017-08-23 23:59:26)
465.  スパイダーマン:ホームカミング
新しいスパイダーマン=MCU+学園モノ! 今作は、アベンジャーズの世界観に降り立った“15歳”の“新スパイディ”の立ち位置を、絶妙なバランス感覚で成立させている。 三度リブートされた新スパイディは、過去2シリーズのどのスパイディよりも若く、故に最も未成熟だ。 「ハイティーン」と言うよりも、きっぱりと「子供」と言ってしまっていいだろう。 だからこそ、軽快で、楽しい。  アイアンマンとキャプテンによる悲壮な“殴り合い”の裏側で、一人の少年が喜々として“見習いヒーロー”としての活躍を繰り広げていく様は、問答無用に楽しく、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)のストーリーラインの「本流」対して、一服の清涼剤ともなる魅力的な「支流」を見事に生み出してみせたと言える。   この映画は、愉快な学園コメディであり、二つの疑似父子の関係性を通じて成長する少年の青春映画でもある。 父親がいない15歳のピーター・パーカー(スパイダーマン)にとって、全く相反する二人の大人、トニー・スターク(アイアンマン)とエイドリアン・トゥームス(バルチャー)の存在は、それぞれ異なる「父像」の投影だと言えるだろう。 それぞれの「父」と対峙し、反発し、学ぶことで、少年は大人への階段を一つ上がる。 最後の最後で傲慢な大人たちの思惑を超えて、小憎らしいくらいに「成長」して歩んでいく若きヒーローの姿がとても小気味いい。  個人的には、2000年代以降の2つのスパイダーマンシリーズ(サム・ライミ版&マーク・ウェブ版)には、それぞれ愛着を持っていた。 特にマーク・ウェブ版の第二弾「アメイジング・スパイダーマン2」は、ヒーロー映画としてはあまりに衝撃的なラストの顛末も含めて、アメコミヒーロー映画の一つの“エポックメイキング”とも言える傑作だと思っている。 興行成績が振るわなかったことで、「アメイジング〜」の第三弾の製作が頓挫したことは非常に残念だった。  故に、今回の再リブートについては、いくら待望の“スパイディMCU参戦”とはいえ、素直には喜べない部分も大きかった。 ただし、結果的には「流石はマーベル」と賞賛しないわけにはいかない仕上がりだったと思う。  アベンジャーズシリーズ全体の流れを踏まえた上で、“年代”や“社会的地位”といったカテゴリの相違によって生じる多角的な「価値観」と「主張」を物語構築の主軸に据えて描き出すことで、シリーズの世界観を更に多層的に深めてみせたと思う。 そして、燦然たるヒーロー映画であると同時に、学園映画としても、少年青春映画としても、純粋に魅力的な映画であった。   さあいよいよ「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」への助走も加速し始めている。 “戦友”との決別に傷つき、打ちひしがれていた“大人=アイアンマン”にとっても、本物のヒーローとして成長していく“子供=スパイダーマン”の姿は、ヒーローという生き方の本質を思い起こさせる“救い”となった筈だ。 そういうシリーズの流れの導き方も、悔しいくらいに巧い。   最後に、一つだけ。 付き合いはじめの彼女の父親と突如として狭い車内で二人っきりにされては、“彼ら”のような特別な関係性ではなくとも、ああいう空気になるさね……。
[映画館(字幕)] 8点(2017-08-22 12:49:58)(良:1票)
466.  黒の奔流
鑑賞後に原作が松本清張であることを知った。 「清張っぽくないな」などというと、いかにも文学通のようだが、恥ずかしながら実際に松本清張の小説を読んだことは一度もない。 映画やドラマの映像化作品の印象に過ぎないが、松本清張の原作にしては、物語としての独特の“重さ”のようなものは感じなかった。  ただし、それが即ち映画として面白くなかったというわけではなく、いたずらに重々しくない軽薄さみたいなものが映画全体を包み込んでいて、それが伝える“危うさ”こそがこの映画の味わいだと思えた。  愛憎渦巻く法廷劇として展開するのかと思いきや、もっとダイレクトで明確な「愛憎劇」へと展開していくストーリーテリングに面食らう。 しかしそこには、主演の山崎努と岡田茉莉子の艶めかしい男と女の「艶」がほとばしる。 ストーリーラインとしてはとても混濁していて、上手ではない。“決め画”を多用し、ある種強引に各シーンを締める。でも、それをまかり通す演者たちの力技が凄い。 やはり、この時代の日本映画の俳優たちは半端ない。   夏休み、家族と訪れた旅先の宿にて、妻子が寝静まった後、安いワインを飲みながら一人Netflixで鑑賞。 45年前の古い映画を、どこに居たって思いつきで観られる時代だ。 旅先の高揚感も手伝って、映画自体の善し悪しは別にして酒が進んだ。
[インターネット(邦画)] 6点(2017-08-13 00:19:51)
467.  ザ・マミー/呪われた砂漠の王女
御年55歳の稀代のハリウッドスターが、相も変わらず“年不相応”な肉体とアクションをこれでもかと見せつける。 “彼”の映画愛と自己愛が常軌を逸しはじめて久しいが(褒めている)、今作でもその部分においては、世界の映画ファンの満足に足るパフォーマンスを見せてくれていると思う。 詰まるところ、“トム・クルーズ”の仕上がり具合は、近年の傑作・快作と比較しても決して不足のない状態だったことは断言できる。  ただし、最新の娯楽大作としては、きっぱりと、面白くはない。 トム・クルーズの出演映画としては、近年珍しいレベルの「凡作」だったと言わざる得ない。  今作は、ユニバーサルが新たに仕掛ける「ダーク・ユニバース」なるモンスター映画シリーズの第一弾。 「マーベル・シネマティック・ユニバース」の大成功に対抗するといえば聞こえは良いが、要は臆面もなく企画を真似たフランチャイズ化だろう。 しかしながら、今後製作が予定されている「フランケンシュタイン」「透明人間」「ドラキュラ」「半魚人」などなど名だたるモンスター映画のラインナップには、一映画ファンとしていやが上にも高揚してしまう。 その先陣を我らがトム・クルーズが担うというわけだから、期待しないわけにはいかなかったところ……。  モンスター映画シリーズとはいえ、往年のモンスター映画そのままに怪物そのものの「恐怖」だけを描き出したところで、どんなに良質であったとしても“B級映画”の範疇を出ないことは目に見えている。 今の時代に、「ダーク・ユニバース」と銘打ったからには、時代と価値観を越えて、「悪」という存在そのものへの真理の追求や存在意義めいたものが描き出されることを期待した。  ユニバーサルの製作陣の狙い自体は、そういった期待から外れたものではなかったと思う。 トム・クルーズが演じた主人公が辿る運命然り、闇の女王から醸し出される悲哀然り、非常に惜しい要素は随所に見受けられたのだけれど、結局それらの要素が巧く結びつかず、最終的には酷く散漫で凡庸な映画世界の構築に終始した印象を受ける。 監督を務めたアレックス・カーツマンなる人物は、過去様々な娯楽大作において脚本や製作を担ってきた映画人だが、この壮大なフランチャイズの先陣を“初監督作”として纏め上げるには、少々荷が重すぎたのではないかと思わざるをえない。  まあしかし、これほど大規模なフランチャイズのスタートが困難であることは分かりきっていることで、ある程度の失敗も想定のうちだろう。 シャレにならないほど大コケして、次作以降のユニバース展開自体が頓挫しないための“トム・クルーズ”という「保険」だったとも思える。 ニック・フューリー的な立ち位置で登場するラッセル・クロウ扮する“ジキル&ハイド”は贅沢だったし、美しい“闇萌え女王”には是非とも再復活してほしい。  次作は、ハビエル・バルデムの「フランケンシュタイン」か、ジョニー・デップの「透明人間」か。程よくワクワクしながら待つとしよう。
[映画館(字幕)] 5点(2017-08-05 20:03:17)
468.  エージェント:ライアン
かつてハリソン・フォードやアレック・ボールドウィンらが演じてきたCIA分析官“ジャック・ライアン”の若き日を描くリブート作。 リブート版「スター・トレック」の主演としてシリーズ成功の一躍を担ったクリス・パインを新たなジャック・ライアンに起用し、例によってシリーズ化を目論んだのだろうけれど、どうやら失敗に終わったようだ。  アクション映画として決して面白くない映画ではなかったと思う。駆け出しスパイものとして楽しめないわけではない。 クリス・パインは、理想と野心そして才気に溢れた主人公像を好演しており、この荒削りな若者が、年月と経験を経て、「パトリオット・ゲーム」のハリソン・フォードへと変貌していくことを想像するとある種の感慨も覚えた。 お目付け役として登場するケビン・コスナーも存在感があり、シリーズ化が実現したならば、主人公との師弟関係においても展開が期待できたと思う。  期待できる要素は随所にあったのだが、昨今良作が乱立するスパイ映画勢の中にあって、特筆すべき見どころがあったかというと、「ノー」と言わざるを得ない。 アクションシーンにおいても、ストーリーテリングにおいても、目新しさは無く、かと言って各要素が洗練されているかというとそうでもなく、中途半端でありきたりだった。 監督と悪役を担ったケネス・ブラナーに、この手の娯楽映画を巧く仕上げる資質がそもそもないのではないかと思える。  “粗”として最も気になったのは、何と言ってもヒロインのキャラクターとしての魅力の無さ。 婚約者の正体がCISエージェントであることを知って、それに対する驚きはほぼ皆無で、ただただ浮気の疑惑の解消に安堵する女ってどうなの? 彼女が未熟なティーン・エイジャーであるなればその描写も可愛く映るのだろうけれど、医師の肩書を持つ大人の女性だというのだから、正直ただのイタい「馬鹿女」にしか見えなかった。 途中までキーラ・ナイトレイが演じているとは気付かなかった程のこのヒロインの魅力の無さは、娯楽映画として致命的だ。
[インターネット(字幕)] 4点(2017-08-05 20:02:06)
469.  ポテチ
伊坂幸太郎の短編小説の映画化。 原作が短編小説とは言え、一本の映画にするには物語構造自体が薄すぎたように思う。 このお話自体が嫌いなわけではないけれど、醸し出されるポップさが少々あざとすぎるようにも見え、登場するキャラクターたちに総じて実在感がなかった。 現代劇として映画化する以上は、一定以上のリアリティは不可欠なわけで、その部分を担保できなかったことは大きな敗因と言えるだろう。  ストーリーテリングの中心に「野球」が存在するわけだが、そうである以上、「野球」をもっと象徴的に描く最低限の巧さがほしかった。 勿論、低予算の中編であるから贅沢は出来なかったのだろうが、ラストの球場シーンがまったくもって「プロ野球」に見えなかったことには失笑を禁じ得なかった。  流行作家としての伊坂幸太郎の小説は好きだし、いくつかの映画化作品も概ね面白く観ている。 今作も決して全く面白くないということではないけれど、他の作品と比較して捻りと毒気が弱いことが、大いに物足りぬ。
[インターネット(邦画)] 4点(2017-07-20 23:33:15)
470.  オンリー・ゴッド
いやあ、ひさしぶりに変ッな映画だった。 明らかに屈折した「何か」を抱えつつ、バンコクの暗黒街を牛耳る兄弟。 わけも分からぬまま、狂気に取り憑かれたように暴挙に出た兄が、問答無用の制裁により惨殺される。 兄への偏愛に狂う母親に命じられるままに、復讐に駆り出される弟。 と、プロットだけを見ても、その偏執さは漂ってくるけれど、この映画は観客のその想定をも暴力的に壊してくる。  主人公の精神そのものを投影するかの如く、冒頭から各シーンの描写が倒錯する。 これは現実か?幻想か?自分が今観ているものは何なのか?まるで分からなくなる。 羅列されるシーンの一つ一つにおいても、描かれ方が“どうかしている”。 過激な暴力描写は嫌悪感を覚えるほどに凄惨で遠慮がない。 だがその反面、すべてのシーンに美しさを感じ、ときに恍惚としてしまうことも否定できない。  暴力の螺旋と、それに伴う罪と罰。 奇妙な“神”の如き存在を目の当たりにして、血塗られた両の腕を遂に差し出す主人公。 彼が迎えたラストにあったのは、絶望か、救済か。 一説によると、公開版のラストシーンの後に、主人公とヒロインが仲睦まじく“暮らす”シーンの撮影もされたらしいから、やはり彼は“血”によって宿命づけられた地獄から抜け出せたのだろう。  ただし、いかんせんそんなことは、この映画だけをフツーに観ていただけではまるでわからない。  偏執的な支配は、神によるものか、それとも悪魔によるものか。 おぞましくも美しい狂気と暴力の錯綜と混沌。 いくらそれっぽい言葉を並べ立てようとも、無意味だ。 いやあ、やっぱりわっけわかんねえ。  安易な「理解」など諦めて、奇妙な神の如く、無表情のカラオケに興じるべきかもしれない。
[インターネット(字幕)] 7点(2017-07-18 22:35:55)
471.  オクジャ/okja 《ネタバレ》 
韓国が生んだ巨匠ポン・ジュノの最新作は、Netflixによる世界同時配信映画であるに相応しく、非常に触れやすく見やすいエンターテイメント性に富んだ楽しいアクション・アドベンチャーである……ように見えるが、勿論そんな映画ではない。 当然ながら、ポン・ジュノがそんな分かりやすく楽観的な映画を作るはずもない。 この作品は、おそらく、「食品」として肉を食べている地球上の人間総てにとって、居心地の悪い映画となることだろう。  この“居心地が悪い”とは、「気持ち悪い」とか「見ていられない」とかそういう類のものではない。 冒頭に記した通り、この映画はエンターテイメント性に溢れていて、愉快だし、高揚する。それは間違いない。 けれど、そういった映画としての「娯楽性」を感じた瞬間に、はたと気づく。 「あれ…、自分はこのシーンに対して楽しんでいい立場の人間ではないぞ……」 現実を突きつけられて、途端に居たたまれなくなる。 極めて「意地悪」な映画であり、だからこそ流石だと苦笑いをしつつ感嘆する。  不可思議な巨大生物と幼気な少女のハートウォーミングな交流シーンから、突如として、この世界の「食」が抱える闇と真理が、「肉採取機」のように容赦なく抉り出される。 その様は、あまりに残酷で無慈悲に見えるけれど、観客はそれを心の底から否定できない。 そして、映し出される描写が滑稽であるほどに、徐々に確実に笑えなくなってくる。  ティルダ・スウィントンが相変わらず演技派女優らしからぬぶっ飛んだ演技で「悪役」姉妹を一人二役で怪演している。 しかし、結果として、彼女たちは何も裁かれることはない。むしろきっちりと計画的に当初の目論見を成し遂げる。 何故ならば、彼女たちの悲願である“ビジネス”は決して悪事ではなく、現代社会の食文化の「理」そのものだからだ。  愛する“オクジャ”を救うために、身ひとつで巨大企業に挑んだ少女は、その「理」に跳ね返され、打ちのめされる。 彼女が唯一携えていた「現実」によって、すんでのところで“オクジャ”は救い出せたように見えるけれど、それは自分が愛する巨大な生物をついに「食品」として受け入れざるを得なかったことに他ならない。 そうして彼女は、おびただしい数の虚無と絶望に文字通りに覆い囲まれながら、暗い暗い帰路を辿る。   世界の食糧事情を解消するために「遺伝子操作」をすることは罪か? それでは、美味しい食肉を生産するために「品種改良」をすることは罪ではないのか?  その身勝手で曖昧なラインが明確にならない限り、この映画の「居心地」は益々悪くなり続けるだろう。 そういうことを感じながら、今日も僕は、この世界の何処かで“作られた”肉を食べている。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-07-18 13:29:21)(良:1票)
472.  メアリと魔女の花
冒頭の一連のシークエンスはまさに“ジブリ的”であり、期待感と高揚感が刺激された。 「天空の城ラピュタ」のようであり、「千と千尋の神隠し」のようであり、「崖の上のポニョ」のようであった。 この映画が、「スタジオジブリ」としての再出発作品だと言うのならば、僕は一定の満足感を得られたかもしれない。  米林宏昌監督としては3作目だが、スタジオジブリから独立し、新スタジオを立ち上げて臨む第一回作品として、彼のこれからのフィルモグラフィーにおいても非常に大切な一作だったに違いない。 選んだ題材は「魔女」。当然ながら観客は特にジブリファンでなくとも「魔女の宅急便」を否が応でも連想する。 キャッチコピーにも「魔女、ふたたび。」と掲げる大胆不敵ぶり。 そして、冒頭からの過去のジブリ作品に対しての過剰なまでのオマージュ性は、敬意と感謝を込めつつも、それを越えていくことの堂々たる宣言かと期待した。  がしかし、最終的に得られた感想は、冒頭のシークエンスで感じた印象に集約されていた。 即ち、「ジブリのような映画」でしかなかったということ。 シーンもキャラクターも台詞回しですら、映画を構成する殆どすべての要素が“のようなもの”だった。  “ジブリの継承”と言えば聞こえはいいけれど、同時に恥ずかしいくらいに“二番煎じ”の域を出ておらず、むしろ“呪縛”めいたものも否定できない。 当然ながら、それではアニメ映画として新しい世界が開くはずもない。 悪いけど、この国のアニメーションはもっと先に進んでいて、そんなところにいつまでも留まってはいない。  奇しくも、昨年の国内映画シーンは、片渕須直監督の「この世界の片隅に」と、新海誠監督の「君の名は。」が席巻し、今年も「夜は短し歩けよ乙女」で湯浅政明監督が改めて新時代への名乗りを上げた。 勿論、最先鋒には庵野秀明や細田守も君臨していて、国内のアニメ映画界は、群雄割拠の戦国時代に突入している。  そんな映画ファンにとってはしびれる状況の中で、米林宏昌監督がこの“二番煎じ”で満足しているというのならば、それはあまりにも残念でならない。 ジブリからの直接的な独立者として色々と難しい立ち位置ではあるのだろう。そうであったとしても、ここまで古巣に対しての目配せをし、媚びへつらう必要があったのだろうか。 エンドロールの最終盤にクレジットされる御大3名に対しての「感謝」の二文字が気持ち悪くって仕方なかった。   “偏屈な天才”がまたもや「引退詐欺」を画策しているという噂も聞く。 米林宏昌監督があくまでも“ジブリ”というブランドの枠組の中で「作画」のみに没頭し、老いた天才と共に心中したいというのであればそれもいいだろう。 けれど、個人的には前作「思い出のマーニー」に多大な可能性を感じただけに、勿体なく思う。  新スタジオの名前はスタジオポノック。「ポノック」とは「午前0時」の意で一日のはじまりを表現しているらしい。 果たして、「午前0時」は一日のはじまりなのか終わりなのか。 残念ながらこの作品からは、過ぎた一日の疲弊感とそれに伴う想像力の欠如しか感じない。
[映画館(邦画)] 4点(2017-07-15 17:41:47)
473.  ハドソン川の奇跡
出張で羽田行きの機内に乗り込む最中、10日前に観たこの映画のことを思い出した。 日々の行いだとか、常日頃の危機意識だとか、事故に遭遇しないための言い様は色々とあるけれど、事故に遭うか否かは詰まるところ「運」次第だろう。 しかし、同時に、不運にも起こってしまった事故に対処する人物が誰であるかということも、「運」次第だと思う。 この映画で描かれた事実を率直に受け取るならば、あの航空事故は、「不運」と「幸運」が同時に邂逅した出来事であり、そのことが即ち「奇跡」と呼べるのだろうと思う。  原題は「Sully」。事故機の機長チェスリー・サレンバーガーの愛称である。 原題が表す通り、今作は「奇跡」の顛末ではなく、サレンバーガー機長の事故前後の心情描写と葛藤、ベテラン機長としての矜持がつぶさに描かれている。  パイロットとして30年以上に渡り飛び続けてきたからこそ抱えた一抹の不安。 彼は、航空において「絶対」が無いということを、他の誰よりも知っていたのだろう。それがたとえ自分自身が生み出した奇跡と、それに対する疑念であったとしても。 紛れもない「一流」だからこそ抱えた葛藤の行く末に心がふるえた。  主演のトム・ハンクスは、「キャプテン・フィリップス」「ブリッジ・オブ・スパイ」そして今作と、実際に起こった事件・事故に対峙した実在の人物を立て続けに演じ、流石の存在感を放っている。 すっかり“アメリカの良心”を象徴する大俳優になった印象を覚える。  そして、監督のクリント・イーストウッドは、映画人として極まった円熟味に更に拍車をかけるか如く、あまりにも手際よく良作を仕上げてみせている。 この題材となった事故は、確かに奇跡的な出来事ではあるが、あまりにも突発的で短時間で収束した事故だっただけに、映画として膨らませることは困難だったはずだ。 しかしながら、イーストウッド監督は、紛れもないキーパーソンであるサレンバーガー機長の深層心理にまで的確に表し、同時にこの奇跡が機長一人の功績ではなく事故に関わったすべての人達による最善の対応結果であったことまで拾い上げ、それぞれの描写を手際よく描ききっている。   冒頭機長は、対応の是非を追求してくる国家運輸安全委員会の「墜落」という表現に対して、断固として「着水」だと言い放つ。 勿論結果として、機長の主張は正しかったわけだが、この映画が伝えることはその正誤そのものではない。 或る英雄的行動も、一つ視点を変えれば、蛮行として捉えられることもある。 事故に関わった様々な人間たちの多角的な視点こそが、この映画のテーマだろう。  そこには、この世界の理、アメリカという国の真の姿を冷静に見続け、表し続けるクリント・イーストウッドの本領が如実に表れている。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-07-09 22:50:08)
474.  美しい湖の底
或る強盗事件の発生前後の4日間が、一日ずつ章立てされた時間逆行型のストーリーテリングで描かれる。 今更、時間逆行型サスペンスなんて珍しくもなく、Netflixオリジナルの劇場未公開映画ということもあり、あまり期待せずに観始めたが、なかなかどうして、充分に一定の見応えを備えた作品であった。  語り口とルックだけ捉えれば非常に洗練されていて、犯罪映画としてコーエン兄弟監督作のような佇まいも感じる。 監督はコメディ畑の作り手らしく、一見陰鬱な映画世界の空気感の中に絶妙な塩梅で挟み込まれるコメディセンスが、映画のテイストに対してとてもフレッシュで、光っていたと思う。
 あまり有名な俳優は出演していないが、キーパーソンである主人公の兄を演じるレイン・ウィルソンは、アンチヒーロー映画の傑作「スーパー!」の記憶が新しい。今作においても、ブラックなユーモアと狂気性に満ち溢れたキャラクターを見事に演じている。  期待が低かった分、鑑賞中は概ね満足はしたのだが、観終わってみるとストーリーの描き込みの弱さは目立つ。 予算の都合も多分にあるのだろうけれど、絡み合う人物たちにとって重要な「過去」の描写が全く映し出されないため、今ひとつ人間関係が掴みづらいままクライマックスを迎えてしまう。 ラストのワンカットでも、“湖での出来事”の真相なり、キャラクターたちの若かりし頃の描写なりを見せていたならば、もっと味わい深く、エモーショナルなサスペンス映画に仕上がっていたかもしれない。  まあ取り敢えず、Netflixオリジナル作品は今後もしっかりと追っていかねばならないとは思う。
[インターネット(字幕)] 6点(2017-07-09 22:45:49)(良:1票)
475.  マッドマックス2
荒廃した地球、入り乱れる暴力と狂気。 「映画」のみならず、漫画、小説、様々な表現において、その後デフォルトとなったこの「イメージ」を発明し、創り上げたこの映画の価値と衝撃は、如何なるものだったのだろう。 今作の製作年と同じ1981年生まれの映画ファンにとっては、伝え聞くその衝撃は、言葉通り“伝説”の範疇を出ず、非常に口惜しく思う。  2015年の大衝撃作「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road)」が、“マッドマックス”初体験だった。 その直後に第一作「マッドマックス」を観て、今回ようやく「2」の鑑賞に至った。 ある意味必然的なことなのかもしれないが、伝説的なこの2作に対して、伝説通りの衝撃を受けることは出来なかった。  “カルト”であることは理解できる。いろいろと、どうかしている映画である。 だからこそ、レジェンド化され過ぎなんじゃないかとも思う。 非常に実験的でもあり、破れかぶれの映画であり、だからこそ世界中のボンクラ映画ファンの心を掴んで離さなかったのだろう。
[インターネット(字幕)] 5点(2017-06-19 22:40:37)
476.  スプリット
冒頭、文字通りに“恐怖”と隣り合わせになった少女の一寸の逡巡。 あまりにも突然な危機との遭遇に対して硬直してしまっているようにも見えるが、どこか逃げ出すことをためらっているようにも見える。 孤独な少女は、逃げることが出来なかったのではなく、直感的に“恐怖”の正体に“何か”を感じ、一人抱え続けてきた地獄を切り裂いてくれる“何か”に期待したのではないか。 即ち、この映画は、主人公の少女が恐怖から逃げ切る物語ではなく、恐怖に対して向かい合うことで、自分自身が抱える恐れを曝け出す物語だったのだと思う。  ある意味予想通りではあるが、変な映画である。 M・ナイト・シャマランの最新作に対して“真っ当さ”を期待することがそもそもナンセンス。鬼才監督の思惑通りに、恐怖と奇妙なカタルシスに覆い尽くされる。  アルフレッド・ヒッチコックの「サイコ」を皮切りに、「多重人格」を描いたサスペンスは世界中の映画シーンで数多く製作されている。 今作も、そういった過去作のテイストを踏まえた類似点やオマージュは見受けられるが、本質的には、そのどの作品とも一線を画する映画に仕上がっていると思う。(好き嫌いは別にして……)  多重人格を描くにあたり、最もキーポイントになってくるのは、やはり演者の力量だろう。 今作で“多重人格者”にキャスティングされたジェームズ・マカヴォイがどうだったか、まあ圧倒的である。 いまやハリウッドきっての芸達者と言えるこのスター俳優が、流石に素晴らしいパフォーマンスを見せる。 そもそもが、人間の光と闇を同時に醸し出す雰囲気を持つ俳優なので、この映画での色々な意味で“新しい”多重人格者役は、まさにハマり役だったと言えよう。 終盤以降、複数の人格がワンカットの中で矢継ぎ早に現れては入れ替わる様は凄まじかった。   この映画は、異常な多重人格者に囚われた少女たちが、絶体絶命な危機的状況から逃げ出そうとする恐怖映画としてイントロダクションされている。 しかし、ある意味当然ながら、それはシャマラン監督による“ミスリード”である。 「恐怖」を描いた作品であることは間違いないが、主人公の少女が対峙する「恐怖」は、それを通じて自らが抱え続けてきた恐れと向き合うことで、強大な力に対しての崇拝のようなものも孕んだ「畏怖」へと変化していく。  その心理の変化は我々観客にも与えられる。 だんだんと、ジェームズ・マカヴォイ演じるこの“異常”な多重人格者が気になって仕方なくなる。恐怖を越えて、何か愛着めいたものすら覚えてくる。 「あれ?何かがおかしい」と心のそこでふと気づく。 主人公の少女の顛末よりも、この“超人的”な多重人格者のこの先が観たくなっている。  「え?どういうことだ」 と、思った瞬間に現れる最終カットのまさかのアイツ! 思わず吹き出し、溢れ出る笑みを抑えきれず「すげえ」と呟いてしまった。 シャマラン好きにはタマラン異常で反則的な展開力。 そして、“あのシャマラン映画”が大好きな者としては、殊更にタマラン結末だった。 いやあ、参った。
[映画館(字幕)] 8点(2017-06-14 23:03:03)(良:1票)
477.  LOGAN ローガン 《ネタバレ》 
軋む。 古い車体が、錆びた鉄扉が、そして満身創痍のヒーローの身体が。 不死身だったはずのヒーローが、老い、拭い去れない悔恨を抱え、死に場所を求めるかのように最後の旅に出る。 メキシコからカナダへ。アメリカを縦断する旅路の意味と、その果てに彼が得たものは何だったろうか。  17年に渡り「X-MEN」シリーズを牽引してきた主人公のラストが、まさかこれほどまでにエモーションに溢れた“ロード・ムービー”として締めくくられるとは思ってもみなかった。 シリーズ過去作のどの作品と比較しても、圧倒的に無骨で不器用な映画である。テンポも非常に鈍重だ。 いわゆる“アメコミヒーロー映画”らしい華やかで派手な趣きは皆無だと言っていい。 だがしかし、どのシリーズ過去作よりも、“ヒーロー”の姿そのものを描いた映画だと思う。  個人的に、長らく「X-MEN」シリーズがあまり好きではなかった。 初期三部作における主人公・ウルヴァリンの、鬱憤と屈折を抱え、あまりのもヒーロー然としないキャラクター性を受け入れるのに時間がかかったからだ。 リブートシリーズと、ウルヴァリン単独のスピンオフシリーズを経て、ようやくこの異質なヒーローの本質的な魅力を理解するようになった。 それくらい、このヒーローが抱える憂いと心の闇は深く果てしないものだったのだろうと思う。  そんなアメコミ界においても唯一無二の「異端」であるヒーローが、ついに自らの闇に向かい合い、決着をつける。 おびただしい数の敵を切り裂いてきたアダマンチウムの爪が、これまで以上に生々しく肉をえぐり、四肢を分断し、血みどろに汚れていく。 そして、同時にそのアダマンチウム自体が体内に侵食し、無敵のヒーローの生命を徐々に確実に蝕んでいく。 それはまさしく、“ウルヴァリン”というヒーローの呪われた宿命と業苦の表れだった。  不老不死故に、他の誰よりも、相手を傷つけ、そして傷つけられてきた哀しきヒーローが、ふいに現れた小さな「希望」を必死に抱えて、最後の爪痕を刻みつける。  過去作におけるウルヴァリンというキャラクター故のカタルシスの抑制とそれに伴うフラストレーションは、今作によってそのすべてが解放され、別次元の感動へと昇華された。  それが成し得られたのは、何を置いても主演のヒュー・ジャックマンの俳優力によるところが大きい。 彼は今作で自らのギャランティーを削って、「R指定」を勝ち獲ったらしい。 そこには、“ウルヴァリン”を演じることによってスターダムをのし上がったことへの感謝と、このキャラクターのラストを締めくくる上での並々ならぬ意気込みがあったに違いない。 結果、ラストに相応しい見事な“オールドマン・ローガン”を体現してみせたと思う。   「This is what it feels like(ああ、こういう感じか)」  最期の最期、哀しきヒーローは、ついに“それ”を得ることが出来た。 墓標の「X」が涙で滲む。 さようなら、いや、ありがとう、ローガン。
[映画館(字幕)] 9点(2017-06-09 23:05:46)(良:2票)
478.  美しい星
ぶっ飛んでいる。 この理解と賛否が分かれることは間違いない映画が、大都市のみならず、地方都市のシネコンにまでかかっていることが、先ず異例だろう。 「桐島、部活やめるってよ」、「紙の月」と立て続けに日本映画史に残るであろう傑作を連発した吉田大八監督の最新作というブランド力が高騰していることが如実に伺える。 そして、その高騰ぶりにまったく萎縮すること無く、この監督は過去のフィルモグラフィーを振り返っても随一にヘンテコリンな映画を作り上げている。無論褒めている。 (亀梨くんの出演のみを目的にした女性客などは大層面食らったことだろう)  三島由紀夫の原作は未読だけれど、あの稀代の小説家が健在の時代であったとしても、たぶん同じように時代を超越したエネルギーに満ち溢れた映画が作られただろうと思う。 そういう意味では、同じく三島由紀夫が江戸川乱歩の小説を戯曲化した「黒蜥蜴」の映画化作品も彷彿とさせる。 即ち、この映画の在り方はまったく正しく、吉田大八監督はまたしても原作小説を見事な“新解釈”を多分に盛り込みつつ素晴らしい映画世界を構築してみせたのだと思う。  この映画は、冒頭から最後の最後まで、SFと幻想の境界線を絶妙なバランス感覚で渡りきる。 そのバランスの中心に描かれるのは、人間の営みの中に巣食う可笑しさと、表裏一体に存在する恐ろしさと愚かさ。 その時に暴力的で破滅的ですらある「滑稽」が、ありふれた一つの「家族」に描きつけられる。  終始、可笑しくて、笑いが止まらない。 ただ、だからこそ、この世界の危うさの核心を鷲掴みにされているような痛さとおぞましさも感じ続けなければならなかった。  人間社会の滅亡を開始する“ボタン”は空洞だった。 人類は許されたのか?勿論、違う。 謎の宇宙人がその強大な力を振るうまでもなく、人類は勝手に滅亡に向けて突き進んでいる。 “ボタン”など端から必要なかったのだ。  優しい火星人が「美しい星だ」と名残惜しんでくれているうちに、なんとかしなければ。
[映画館(邦画)] 8点(2017-06-03 23:30:52)
479.  ウォー・マシーン:戦争は話術だ!
主人公の米軍エリート大将は、ストイックな男。 毎朝の11kmのランニングを欠かさず、食事は一日一回、4時間しか眠らない。 劇中何度も描写される彼の絶妙に滑稽なランニングフォームが可笑しい。 そこには、この「戦争についての映画」におけるシニカルな悪意が凝縮されているように思えた。  さて、この映画は、「戦争映画」だろうか。 勿論、「9・11」に端を発した「アフガニスタン紛争」の“現場”を描いている以上、風刺とコメディがふんだんに盛り込まれてはいるが、「戦争映画」だと認識することが正しかろう。 しかし、この映画の作り手は、描かれていることが「戦争」であるということを絶妙なさじ加減で終始ぼかし続ける。  冒頭、国際空港の便所で用を足した後、意気揚々と闊歩し、「勝ちに行くぞ!」と兵士たちに発破をかける主人公の陸軍大将の姿は、まるでやる気のないスポーツチームを率いる少々間の抜けたコーチのようだ。 その後駐留地を目の当たりにした大将は、「ここの連中は戦争だということを忘れている」と嘆く。 それは米軍の兵士に限ったことではない。連合諸国の兵士は勿論、大使をはじめとする米国政府の面々も、現地のアフガニスタン兵や国家元首すら、それが「戦争」であることの意識が希薄になっている……ように見える。  それでも熱い大将は、あらゆる場所で「熱弁」をふるう。 この「戦争」の意味と価値を、各所で、兵士、政治家、民衆、記者、様々な人に説いて回る。 どの場面でも、大将の演説はとても情熱的だ。 劇中、ティルダ・スウィントン演じるドイツ人議員の指摘にも含まれていたように、「大将は善い人」だと思う。この人物が本当に信念をもって任務に臨んでいることは誰の目にも明らかだ。  しかし、悲しきかな彼の言葉に、説得力を伴う「中身」は無い。 それは、彼が己の人生を通して信念を懸ける「戦争」そのものに、中身がないからだ。 そして、逆説的に彼の存在そのものが、この「戦争」の空虚さとイコールであることが、徐々に確実に露わになってくる。  熱き大将は、嘆く。戦争であることを認識していない本国、そして世界に対しての壮絶なジレンマに苛まれる。 でも、現実はそうではないのだ。 「戦争」というものに、彼が求める「理想」が本来はあったのだとしても、そんなものはとうの昔に無くなっている。  そんな“今”の「空虚な戦争」において、古ぼけた理想を掲げる軍人がいくら熱弁を振るおうとも、何かが伝わるはずもない。 何処から来て、何処へ行くのかすら伝わらない。 そこには、巨大な虚無感が横たわっているようだった。   ブラッド・ピットがあらゆる意味で素晴らしい。 製作者としてネット配信限定の映画製作を担うにあたり、その性質を最大限に活かした題材と手法と作品規模で、オリジナリティに溢れる作品を仕上げてみせたと思う。 そして同時に、スター俳優としてベストパフォーマンスを見せている。時期的にアカデミー賞ノミネートは狙えないのかもしれないが、間違いなくそのレベルであり、少なくともこのスター俳優の新たな代表作の一つとなったことは確かだろう。   空虚な戦争を続ける空虚な大国は反省などしない。 では何をするのか?クビにして後任を送るのだ。 後任として送られてきたまさかの「ボブ」の闊歩を目の当たりにして、最後の最後までブラックな笑いと虚無感の増大が止まらなかった。  それにしても、このレベルの戦争映画がネット配信限定で公開される時代か。 作品内容に対する邦題の的外れ感は罪だが、映画の在り方は今後益々多様化していくのだろうな。
[インターネット(字幕)] 9点(2017-05-31 23:00:44)
480.  メッセージ
人類が、“ただなんとなく”明確な「希望」を見い出せなくなって久しい。 つい昨日も、英国でまたテロ事件が起きた。不安と脅威に怯え、「対話」する勇気を持つことが出来ない愚か者たちによる蛮行が後を絶たない。  時の流れに縛り付けられ、今この瞬間にも訪れるかもしれない得体の知れない恐怖に、全人類は焦り、怯え続けている。このまま希望を見出だせない人類には、進化はなく、必然的に未来も無くなってしまうだろう。  このSF映画は、そんな今この瞬間の人類全体に対しての警鐘と救済を等しく描き出す。  「言語」とは、「思考」の具現化であり、即ち未知なる言語との邂逅と会得は、それまで想像すらもし得なかったまったく新しい思考を繰り広げられるようになるということ。 そしてそれが、人類が長らく縛り付けられていた「時間」という概念を超越する手段になる、という科学的空想。  突然現れた“前後ろ”のない来訪者が、時間の概念が存在しない「円」で表された言語を人類に提示する。 荒唐無稽ではある。 幻想的かつ錯綜的な表現も手伝って、非現実的に美しい映画世界はファンタジーのようにも見える。 だけれども、これは紛れもない“SF”の傑作であると思う。 科学的に説明尽くせることがSFではない。科学的に説明できないことの空想こそがSFであり、その追求こそが「科学」なのだ。  来訪者によって与えられた「武器」=「言語」を、全人類に先駆けて受け取った主人公は、自らの運命とその意味を即座に理解し、受け入れる。 それは、“進化をしていない”人類にとっては、あまりに過酷で、残酷で、受け入れ難い運命かもしれないけれど、彼女を通じて、その進化の意味の一端を理解した我々は、感動的な充足感に呑み込まれる。  ふと、自分自身のことを顧みてみる。 自分の子が生まれて早くも6年の月日が経とうとしている。二人の子に恵まれ、幸福な日々を過ごしていると思う。 ただ、この6年間ずうっと心の片隅で押し黙るように抱え続けてきたことがある。 それは、幸運にもかけがえのない大切な存在を抱えるということは、同時に、それを失ってしまうかもしれないという恐怖を抱えるということでもあるということ。 それは、悲観的だとか、不謹慎だということではなく、必然的な事実であろう。 その恐怖を否定することは、同時に存在する幸福をも否定することであり、決して逃れることはできない。  この映画の主人公が、「言語」を理解したと同時に解したことは、そういう人生における普遍的な真理だ。  大切なものを失ってしまう悲しみよりも、その大切なものに出会えなかったことを想像する方が、何倍も、いや何万倍も悲しい。 SF映画の新たな傑作を目の当たりにして、涙が止まらなかった。
[映画館(字幕)] 10点(2017-05-20 23:01:38)(良:2票)
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