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ユーカラさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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601.  ボックス!(2010)
寄り・引き、スローを巧みに織り混ぜたケレン味に溢れるファイトシーンの編集リズムからは、作り手の気合が充分に伝わる。  とりわけ決勝戦2ラウンド目の攻防を延々と捉える、クレーンを使った迫真の長廻しは圧巻だ。  市原隼人と諏訪雅志の優れた運動神経とアクションはもちろん、両者の動きのスピード感と重量感を余さず伝える撮影と、荒い呼吸音と呻きを交えた録音も効果抜群である。  高良・市原のトレーニングのモンタージュや上達過程の描写も、基本的なコンビネーションやディフェンスまで丁寧すぎるほど丁寧に描写を重ねており、説得力がある。 それを体現する二人の頑張りも良い。  また、街の情景を取り入れたロードワーク風景では道行くエキストラや犬とも何らかの形で主人公と絡ませるなど細かな拘りがみられ、『どついたるねん』のようにローカルの匂いをしっかり感じさせ素晴らしい。  なるほど、監督は大阪府出身だった。  ただ部内関係の半端なエピソードや子供時代の回想もくどく、この内容で2時間6分は少々長いが、ラストは爽快だ。
[映画館(邦画)] 8点(2012-06-08 01:15:09)
602.  テルマエ・ロマエ
シネマスコープを効果的に使った、1960年前後の史劇大作風のオープニングでケレンを 利かすかと思えば、一方では矢口史靖的な人形を使ったチープなギャグも軽妙に演出してみせる。  コメディとロマンスも程よく織り交ぜ、スペクタクル・ご当地性・スター性と 雑多ジャンルを混成したシネコン映画的な要請にも器用に沿いながら、 寄り引き巧みな視点や構図、的確なカッティング・イン・アクションといった 安定した技術を土台に、ウェルメイドを達成する。  そしてその上で、独自の演出による細部細部を立ち上げ、自分の作品としている。 そのしたたかさこそ素晴らしい。  湯けむりや炎、水面の光の反射、群衆など、不定形素材の動的細部が映画的であるのは云うまでもないが、 とりわけ浴場の松明、蝋燭の灯り、焚火、窓から入る黄昏の太陽光など、特に夜の場面の炎がことごとく見事だ。  その「燃える炎」は、阿部寛が決死の直訴をする際の秀逸な音の演出として、 そして別離のシーンでの、瞳への照り返しの演出として、 物語の進行に伴い次第に意味を帯びるものとしていくのは作家の手際だ。  雨の降る中、悄然と階段に腰掛ける阿部寛の向こうにソフトフォーカスで捉えられた上 戸彩。手前に歩み寄ってくる彼女に凡庸にピントを合わせてしまうかと思いきや、 それを自制したショットの嬉しい裏切り。  この時点では一方向的な二人の関係性を示す事に専心する、そのまっとうな矜持が光る。 
[映画館(邦画)] 9点(2012-06-08 00:54:15)
603.  ダーク・シャドウ(2012) 《ネタバレ》 
アバンタイトルからベラ・ヒースコートが屋敷内に案内されるまでの流れは、あたかも彼女が主人公であるかのように思わせる展開だが、それは屋敷内の様子と登場人物を効率的に観客に紹介していくためのものであった事がわかる。  中盤からクライマックスにかけて彼女の影が薄くなるため、三角関係のドラマとしては些かバランスが悪くなってしまうのだが、そうした破綻とアンバランスさがバートン本来の病理的であやうい魅力と云えなくもない。  スタジオのしがらみが顕著な前作は、程よくユニークでウェルメイドで小器用で教訓的で無害でしかないが、本作の不健康ぶり・インモラルぶりこそ彼の本領に近い。  愛情と憎悪、煩悩と理性、異質な他者と一般人、その間で分裂するそれぞれのキャラクター。(エヴァ・グリーンの最期の表情の素晴らしさ。)  屋敷内や崖のシークエンスで印象的な、焦点深度の深い映像。(遠近を惑わすヒ―スコートと彼女の肖像画のパンフォーカスこそ、ラストの予告だ。)  伏線や整合性や現実的倫理といった小細工を取り払っているゆえに、作り手の特異な症候とその治癒への試みとでもいうべきものがバートン流「再構築」映画の中で際立つ。   
[映画館(字幕)] 7点(2012-06-06 07:51:32)
604.  チャップリンのカルメン
チャップリンが編集したオリジナルは2巻物(約20分)だったが、彼のミューチュアルへの移籍後にエッサネイ社が4巻物に水増しし、「でっち上げた」のが現行のバージョン。 (チャップリン自伝)  つまり、映画の約半分は監督チャップリンの不服とするNGショットだ。  この苦い経験もまた、後に彼の完璧主義を形成していく一因となったのだろう。  確かにジプシー側の描写の多い前半部分などは活劇性も薄く、 人物の出入りを繋ぐ編集テンポも悪い為、短い時間を長く感じてしまう。  一方で、オリジナルからあっただろうショットもその充実ぶりからある程度察しがつく。  テーブル上でジプシーのダンスを踊る艶やかなカルメン(エドナ・パーヴィアンス)。モブシーンの猥雑とした活気。 邪魔が入って彼女となかなかキス出来ないチャップリン。 剣戟のコミカルで秀逸なアクション等々。  身も蓋もない云い方をすれば、彼の終生のパートナーともなるエドナ・パーヴィアンス との仲睦まじい絡みの全般であり、 自身の渾身のギャグシーン全般だ。  その釣瓶打ちとなる後半は、一気に映画を盛り返している。  バ―レスク(文芸作品のパロディ)とはいえ、悲劇「カルメン」の喜劇化それ自体が ラストのオチも含めて無理矢理感いっぱいだが、 ラストのツーショットで見せる二人の笑顔は幸福感に満ちて感動的だ。   
[DVD(字幕なし「原語」)] 7点(2012-06-05 20:25:07)
605.  猿人ジョー・ヤング 《ネタバレ》 
先の悲劇的な『キングコング』に比べて、人間性に対する信頼が強まっている感が強いのは、ジョン・フォードも製作に名を連ねている関係か。  飼い主であるヒロイン(テリー・ヤング)は勿論、その恋人となるベン・ジョンソン、興行主(ロバート・アームストロング)らも協力して、主人公のゴリラ:ジョーをアフリカへと帰すべく一致団結して手助けする姿が感動的だ。  テリー・ヤングの可憐さ、ロバート・アームストロングのユーモアも利いており、 ジョーの仕草の愛嬌と共に作品にヒューマ二スティックで爽やかな後味を与えている。  オブライエン&ハリーハウゼンの特撮と、人間や馬やライオンのライブアクションとの絶妙なシンクロが素晴らしいのは云うまでもなく、後半の逃走劇のアイデアとサスペンス、そして赤い着色フィルムによる孤児院の大火災のスペクタクルもまた圧巻だ。  ラストのフィルムレターも幸せ一杯、ほのぼのとした大団円になっている。 
[DVD(字幕)] 9点(2012-06-04 00:19:56)
606.  毎日かあさん 《ネタバレ》 
ダイニングとリビングの二間、玄関の内と外、小泉今日子の仕事部屋のデスクと奥のドア、透明なテラスの上と下、子供たちが乗るメリーゴーラウンドと手前のベンチ等々。  二つの空間を1フレーム内に取り入れた縦の構図によって奥行きのある立体的な空間を達成している。  その奥と手前それぞれに的確に配置された小泉今日子・永瀬正敏・小西舞優・矢部光祐の4人はロングショットと長回しによって群像としての家族を全身で生きている。  手を繋ぐ、じゃれ合う、抓る、叩く、抱く、と映画的な接触のコミュニケーションも愛情表現として大変豊かだ。  公園でのままごと、ひな祭りの写真撮影など、4人が固定フレームの中で絡む芝居はまさに演技を超えた仲睦まじい家族そのもののドキュメンタリ―の感すらある。  単純な切り返しの会話がなく、複数の人物を極力1つのショットに収め、パンフォーカスによって深い被写界の中で彼らを絡ませることで、個々人の身体はフレームに寸断されることなく、その関係性がより強固に炙り出されるという具合だ。  父のいる海へ行こうと、小さな水色のビニールプールで光る川を下る兄妹の姿の美しさといったらない。  車中での離婚届けへの捺印を挟んで、それまでツーショットで映っていた小泉と永瀬が個々の単独ショットに切り替わるなどといった演出も細やかである。  あるいは、店名の一部である「子」の字の映る飲み屋街のガラス戸。そこに映った永瀬の顔にフラッシュバックの返り血が浴びせられるインパクト。 フェリーニのような人工の川面。 親子が釣りに興じるシーンの少々賑やかな『父ありき』。 藍色の海の豊かな色彩とアニメーション。  工夫を凝らした奔放な発想が随所に挿入され、まったく飽きさせない。  そして、エンディングの「家族の肖像」がまたダメ押し的に素晴らしい。  問われるべきは、原作に忠実か、モデルと相似しているかといった事ではなく、 小林聖太郎独自の映画となっているかどうかだ。 
[DVD(邦画)] 9点(2012-05-31 09:22:29)
607.  ひろしま(1953)
敗戦から7年。 GHQによる映画検閲の廃止に伴い、原爆被害の言説に関する厳しい規制がようやく解かれ、新藤兼人監督の『原爆の子』と、本作『ひろしま』が製作公開される。  アピールの形式はそれぞれ異なるが、どちらの作品の画面にも表現の自由を束縛されてきた鬱憤を晴らさんとする作家の情熱と、「記録すること」への意思、そして犠牲者への想いとが尋常でない強度で充溢している。  それを支えたのが、当時第二の黄金期を迎えていた日本映画産業の充実したスタッフワークだ。  3分弱のシンボリックなカットで被爆の状況を表現した『原爆の子』に対し、本作で表象された被爆の図は、美術セットも衣装もメイクも、そして芝居も現在に至るまでに作られた原爆映画の中でも最も凄惨で、迫真的で、生々しいものだろう。 それだけに、戦争犯罪者に対する怒りと糾弾は直截的だ。  が、本作が指弾するのは、原爆投下者だけではない。 「何故か」当日空襲警報を出さず、新型爆弾の情報隠蔽を画策した軍上層部の棄民体質。 過去の痛みを忘れ、次なる朝鮮戦争特需へ向かおうとする世。 原爆症に対する無知。  現在からすれば、「8年しか経っていない」1953年だが、当時からすれば記憶の風化に対する危機感、切迫感が相当にあった事が映画の語りからは伺える。  硬直した作劇と台詞が貶しどころではあるが、その愚直さゆえに止むにやまれぬ思いが 伝わるのも確かだ。 原発事故一年後の現代日本とを重ねずにはおれない。  
[ビデオ(邦画)] 8点(2012-05-29 21:53:28)
608.  ハンナ
シアーシャ・ローナンと、彼女が道中で知り合う少女がテントの中で横になりながら語り合うシーンは、二人が向き合っているはずでありながらカメラに対して二人が同一方向に身体を傾けているという、一般的にはあり得ない切り返しで撮られている。  同じく、走るキャンピングカー内でオリヴィア・ウィリアムズと対話する際もそれぞれ左右の窓際席の切り返しとなるが、 何故かどちらの窓外にも太陽光が輝いているという具合だ。  共に光の加減が見事な画面であり、自己との対話といったニュアンスを仄めかしたのか、ともあれ、整合性を無視した繋ぎをあえて選択している事は間違いない。  前半のICA施設のダクト、中盤のコンテナ置き場、後半の遊園地内といった舞台設定や、随所に現れる円形や回転のモチーフも含めて、映画に夢幻的な迷路感覚を呼び込むよう施された演出の一環だろうか。  縦横無尽の移動を絡めたバスターミナルから地下通路までの超ロングテイクや、太陽光の人物への当て方・屋内人工照明の印象的な用法といったジョー・ライト印の技巧も、その意味では効果を挙げている。  シア―シャ・ローナンの俊敏な疾走と、徒手格闘。そして、ケイト・ブランシェットの凄みは流石だ。 
[DVD(字幕)] 7点(2012-05-27 07:24:14)
609.  ファミリー・ツリー 《ネタバレ》 
意識の戻らない母を逝かせる事が次女(アマラ・ミラー)に伝えられる。カメラは彼女の目に光る涙を見逃さない。幼さを残しながらも、気丈にその言葉を受け入れる彼女の表情。その一連のショットを繋ぐ寡黙で繊細で優しいディゾルブ処理が素晴らしい。  通俗に陥りそうな、親族会議でのスピーチを巧みに省略するのも、親子3人と少年の小さなシルエットがカウアイ島の渚を歩くロングショットの重なりが豊かな情感を醸成するのも、この適切なディゾルブ編集による。  単なるハワイの絵葉書的美観の羅列に陥らせずに、風や波の音と共に自然光を活かしながら、パンフォーカスやロングショットによって人物・自然・ポートレートを同化させる構図もシークエンスと主題を際立たせている。  その極めつけが、父ジョージ・クルーニー、長女シャイリーン・ウッドリー、次女アマラ・ミラーの親子がソファで寛ぐラストショットの一体感だろう。  母の形見の膝かけに包まる三人の真直ぐな視線。その背後にあるランプシェードの灯。額縁の絵。開放的な奥の空間。流れ続ける『皇帝ペンギン』のナレーション。  静かな時間の感覚が父娘の絆を炙り出すようで、秀逸だ。 
[映画館(字幕)] 8点(2012-05-24 22:30:44)
610.  HAZAN
琥珀色の光の中に浮かび上がる、窓辺に置かれた白い陶器。それを一心に見つめる少年の表情。そして、その全身像のシルエット。  映画の中で、波山が陶芸家に転身する動機らしきものを直接的に表すのはこの短い三つのショットのみである。  映画は説明に多弁を弄することなく、窯やランプの炎とオーヴァー・ラップする榎木孝明の顔や、長女(大平奈津美)がホタルの光や薪や星を一心に見つめる姿を通して波山の真情・感受性をあくまで寡黙に、間接的に、映画的に語りきる。  二人のロクロ師(柳ユーレイ、康すおん)が波山に心酔し協力することになる経緯も、一切の説明を省き、行動そのもので示されるのも簡潔にして雄弁だ。  そのアプローチにこそ、彼の陶芸の作風と矜持に対する作り手の映画的リスペクトが表れている。  明治期のランプや、窓からの外光など、単一の合理的光源を活かした金沢正夫の照明・芹沢明子の撮影もその任の多くを担う。  住職から返された陶器と、榎木を窓辺におさめたラストショット。 木々の揺れと慎ましい自然光の美しさに、妻と子供たちの楽しげな童謡と笑い声がオフで入ってくる。 端正・素朴でありながら、豊かな情感に満ちた素晴らしいラストだ。 
[DVD(邦画)] 9点(2012-05-17 18:48:51)
611.  ある戦慄
夜の街を疾走する列車に被るロック風オープニング曲が非常にクールだ。  生々しいモノクロ・ロケ撮影による夜の都会の濡れた街路や、神経症的キャラクター群、そしてその濃い影が印象的なノワールスタイルを特徴とする前半部。  これから乗り合わせることになる登場人物たちの個性が列車の進行とカットバックされつつ簡潔明瞭に描写分けされていく。  そして密室劇となる後半部でもまた車両内の計18人それぞれを過不足なくドラマに関与させ、二部構成でサスペンスを醸成していく手捌きが巧みだ。  列車内はアメリカ社会の縮図と化し、その舞台劇的設定の中に人種差別・所得格差・同性愛・都市犯罪等々の社会問題を浮かび上がらせていくが、それはあくまでショットの力強さによる。  俳優の顔面と直近で正対するカメラの圧迫感が秀逸だ。 その時、視線を返されているのは観客自身である。  同性愛描写に関するコード改定が61年。 黒人問題を描いたラリー・ピアースの前作『わかれ道』が64年。 そして66年の新コード採用によって、アメリカの内包する苦悩が赤裸々に曝け出されている。 
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-05-15 22:50:55)
612.  僕の彼女はどこ?
鮮やかなテクニカラーが全編に亘って画面を彩る。  アバンタイトルの背景イラストと文字を始めとして、ステンドグラス・屋外の木々・屋内装飾・ベレー帽・衣装・劇中絵画・ポーカーテーブルなどなど、光の三原色(赤、青、緑)が徹底的に駆使されているあたりは、D・サークらしいこだわりぶりだ。  その混合であるシアン、マゼンタ、イエローもまた乗用車、ストロベリーシェイク、ドレスなどにそれぞれバランスよく配され、映画をさらに楽しくカラフルに染めている。 そしてその配置もポイントごとなのでケバケバしくなく、極めて上品だ。  その光の三原色が、映画ラストにおいて素晴らしい雪の「白」へと結集するのもテクニカラーの必然的帰結と云って良いだろう。  チャールズ・コバーンのユーモラスな演技も楽しいが、彼になつくおしゃまなジジ・ペルーもまた実に愛らしい。  質素な暮らしに戻ることを喜び、二人が興じるダンスシーンの幸福感は最高だ。  犬のペニーもまた素晴らしい。単に人間に仕込まれた芸を披露するだけの『アーティスト』のアギーなど足元にも及ばない。  演出家も予想できないような巧まざるリアクションを見せてくれてこそ、優れたアニマルアクターといえるだろう。  
[DVD(字幕)] 10点(2012-05-14 09:20:23)
613.  原爆の子
乙羽信子と少年が互いに手を振りながら別れる萬代橋のシーンは、極端なローポジションによって、その欠けた欄干と手摺が空ける空間の中に組み入れられる。  被爆後7年を経た復興の風景の中に残る傷跡をそれ自体として中心化することなく、あくまでドラマの情景の一部として提示する慎ましさとリリシズムが全編を貫く。  被爆者の悲憤と糾弾を直截にアピールする同時期の日教組作品『ひろしま』との大きな違いだ。  歌唱やSEなど音楽的要素も様々に用法が工夫され、作品を抒情的に彩っている。  たとえば伊達信の臨終の場に、屋外から流れてくるチンドン屋の陽気な囃子(カウンタープンクト)。 少女が病に伏している教会に響く讃美歌。 元幼稚園だった草むらに残響する童謡。 雲間から聞こえてくる飛行機の爆音などである。  中でも、原爆投下直後を再現するモンタージュと伊福部昭作曲の合唱音楽の融合が、短いシークエンスながら圧倒的だ。  画面が伝える惨劇のイメージと、敬虔かつ崇高な音楽の力が一体となった情感は簡単に形容出来ない。 
[ビデオ(邦画)] 9点(2012-05-13 00:18:51)
614.  タイタンの逆襲(2012) 《ネタバレ》 
白熱する槍の衝撃などは、ハリーハウゼンのダイナメーションならばそれを持つ人間のリアクションをフルショットで撮って絶妙に表現したことだろう。 単に透過光処理に頼るだけの超常パワー表現にはまるで魅力がない。  『南の島に雪が降る』のニューギニア戦線の兵士たちが、紙製の偽物の雪に感動したのはそれが本物そっくりであったからではなく、あくまで理想イメージとしての雪とダブらせ、尚且つ人間が心を込めて手作りした触覚的な感覚を受け取ったからこそだろう。  前作および本作のCGIクリ―チャ―がいかにリアリスティックでも、1981年版『タイタンの戦い』のダイナメーションのもつ文化的感動に及ばないのも恐らくそれに近い。  キメラやミノタウロスの目まぐるしく「本当らしい」動きと慌ただしいカメラワークは結局のところ魅力的なキャラクターとして、あるいは印象的なショットとしては残ることはない。 アレスとペルセウス一騎討ちの単調な肉弾戦も同様だ。  3Dも含めたテクノロジーの飛躍は刺激と錯覚にのみ向かっている。 CGIが精巧かつ迫真であるほどに当然ながら失われてしまう人工的輝き。 そうしたパラドックスがここにも見られる。  
[映画館(字幕)] 4点(2012-05-11 02:02:37)
615.  BLACK & WHITE/ブラック&ホワイト(2012)
計算された予定調和的な長回しほど撮影の裏舞台を想像させてしまい、説話にとっては妨げとなりがちである。  『ターミネーター4』でもそれが気取りにも見えかねない逆効果を生んでいたが、本作中盤でリース・ウィザースプーンが自室で音楽に合わせて踊り動き回る中、彼女の視界の外で部屋を物色するトム・ハーディ&クリス・パインの動きを組み入れた縦横無尽の移動長回しなどは、あえて作り手の段取り臭さを誇張したようなユーモアがある。  「荒唐無稽を真剣にやる」というドラマ内容と撮影スタイルが合致した相乗効果もあるだろう。 スタッフ・キャストの息の合った仕事ぶりを見せつけて心地いい。  そうした作り手の熱意を露呈させる長回しも、レンタルDVD店のシーンを始めとする様々な映画ネタも、一種のご愛敬。  それらの無邪気な作為性は明らかにシリアスパートの緊張感まで削いでいるのだが、それも狙いなのだろうから、アクションシーンの雑なカット割りに耐えつつひたすら予定調和を楽しむしかない。  対話劇のテンポ、特にヒロインの親友役:チェルシー・ハンドラーの話術は傑作である。 
[映画館(字幕)] 7点(2012-05-05 01:13:32)
616.  モダン・タイムス 《ネタバレ》 
映画のラスト。朝の「太陽を背に受け」、チャップリンとポーレット・ゴダードが画面手前に向かって歩き出す。 続くショットは、「太陽に向かって」一本道を歩いていく二人の後ろ姿となる。  前作『街の灯』のラストの切り返しショットにおける「バラの位置」の不整合と共に、様々に解釈される本作の終幕のモンタージュである。 完全主義のチャップリンの編集であり、共に重要なラストショットなのだから、 凡ミスであるわけは当然ない。  吉村英夫著『チャップリンを観る』では、『街の灯』での不整合を「ハッピーエンドとアンハッピーエンドの両義性」を暗示するものとして、また『モダン・タイムス』での不整合は「朝陽(=希望)に向かう二人」を表象するため不自然を承知でモンタージュさせたものと考察している。  また、江藤文夫著『チャップリンの仕事』ではラストの太陽光は実際は夕陽であり、時間を朝から夕方に一気に飛躍させた繋ぎによって、延々と続く二人の道行きの果てしなさを暗示するとしている。  いずれにしても、それらはショットの「含意」に関しての解釈である。  確かに、冒頭では「白い羊の群れ(=工場労働者)の中に一頭混じった黒い羊(チャップリン)」という意味を担った象徴的なショットも持ち込まれ、作品としてのメッセージ性も強い。 そして、次の『独裁者』ではさらに映画のメッセージ性が強まり、地球儀の風船と戯れる独裁者の図といった寓意の強度もまた際立ってくることとなる。  本来ならば、そうした「意味」よりもまず1ショットにおける具象の美を優先したものとみるべきではある。  つまり『街の灯』の切り返しショットにおいて白バラの位置が変わるのは、まずもってバージニア・チェリルの表情を最も引き立てる構図を創り出すためであり、『モダン・タイムス』のそれは、朝陽であろうが夕陽であろうが、とにかく二人が互いに手をとり明るい光に向かって歩きゆく後ろ姿と影が黒いシルエットとして一体化した画、その映画美こそが何よりの要件であったからと思いたい。  が、上のような解釈がそれなりの妥当性を帯びるのも、チャップリンの純粋な活劇に次第にメッセージ性が浸食していく時期のものであるからだ。  ともあれ、多様な解釈を可能にしているのも作品の豊かさの証しである。 
[ビデオ(字幕)] 9点(2012-05-04 22:13:59)
617.  心のともしび
『ジョニー・べリンダ』で口と耳の不自由を演じたジェーン・ワイマンが、本作では目の不自由を演じる。  宗教的主題という点でも通じており、本作では神格化された高徳の医師は表象されることがない。  ストーリーは通俗的ながら、屋内の人物に影を濃く落とすラッセル・メティのローキー画面の艶によってヒロインの失明のドラマと相乗させ、しっかりと映画にしている。  特に舞台をスイスへ移して以降のホテルのシーンは、暗がりの中にランプの灯りやヒロインの衣装のワインレッド、ライラックの青紫がよく映えて艶めかしい。  前半の湖畔のロケーションも良いが、単調になりがちなセット撮影パートも背景奥に窓外の風景を採り入れた多層的な構図によって画面を充実させている。  クライマックスの手術室上方のガラス窓に、執刀するロック・ハドソンの反射像と、それを見守るオットー・クルーガ―の像が重なり一体化するショットがその白眉だ。 
[DVD(字幕)] 8点(2012-05-01 02:25:43)
618.  エッセンシャル・キリング 《ネタバレ》 
映画は映画であれば良い。読書ではないのだから。メッセージ(「いいたいこと」)やテーマを伝えたければ論文を書けば良いだけのこと。  文科省の読書感想文による主題論教育に従順に馴らされてきた者は一般的に映画においても画面を味わうことを知らず、まずテーマを読みたがり、そしてそれが自分の理解の範囲を超えたとたん、「芸術」を逃げ口上に使う。よって純粋な活劇はなかなか理解されることがない。   雪の白に擬態し、罠に嵌った犬を囮に使い、木の枝や蟻を齧り、崖から滑落する。 『ランボー』のサバイバルアクションを髣髴させつつ、その『ランボー』がラストにおいて嵌った饒舌な内面心理や社会性といったものも見事に削ぎ落としている。  言語も記憶も時制もことごとく排除され、生物の一次欲求だけが活劇を駆動していく。  代わりにその静寂のラストに訪れるのは『バルタザールどこへ行く』を連想させるような冷厳さだ。 右肩部分に血痕の付いた寡黙な白馬は、主人公(ヴィンセント・ギャロ)が野生へと転生した姿か。  回想シーンの幻聴や様々な状況音(ヘリの爆音、チェーンソー、犬の咆哮など)そして台詞の代わりに主人公の口から漏れる呻き、吐息、咀嚼音といった要素に意識を向けさせられるのもブレッソン的だ。  馬・鹿・犬たちの佇まいと躍動が素晴らしい。特に、ギャロの周囲に群がる犬の集団アクションは圧倒的なスペクタクルである。 
[映画館(字幕)] 9点(2012-04-30 22:15:55)
619.  ギフト(2000)
「隠された事実というのはサスペンスを引き起こさない。」だから「謎解きにはサスペンスなど全くない。」そして「(一種のパズル・ゲームに過ぎない)謎解きはある種の好奇心を強く誘発するが、そこにはエモーションが欠けている。」(ヒッチコック『映画術』)  本作における犯人探しミステリーもまた、ヒロインをめぐるドラマに情動を付与するための一手段に過ぎないのであり、確信的に登場人物を絞り真犯人を仄めかしている作品に「犯人が早々に判る」式の批判は、ナンセンスでしかない。  映画が主眼とするのは非本質的な謎解きなどではなく、ケイト・ブランシェットが担う「映画の感情」なのだから。  地味な普段着で息子達の部屋片付けをする母親像。パーティシーンで鏡を前にふと衣装を気にする女心。床のペンキに滑り、ずっこけるアクションの人間臭さ。キアヌ・リーブスの恫喝や、弁護士の陰湿な追及に対して怯えながらもそれに真直ぐに対峙する気丈さ。そして、ラストの車中の純真な涙。ナイーヴで不器用な中に芯の強さを湛えた表情と芝居が素晴らしい。  彼女とジョバンニ・リビシとが車中で見つめ合う切り返しの「間」と、続いて警察署前での視線を交わすショットは(謎解きが無くとも)その時点で二人がもう再会しないだろうことを確信させる。そこにはエモーションが充溢しているからだ。  物干しに揺れる白いシーツ。霧のかかる池。樫の木の合間に揺らぐ水中の死体など。(『狩人の夜』のよう) イメージショットの数々も美しい。 
[DVD(字幕)] 8点(2012-04-29 01:24:38)
620.  アマルフィ 女神の報酬
商業映画、特に『~記念大作』の類の必然として各俳優やロケ地のサービスショットなり、タイアップなりのしがらみに満ちた「企業の映画」たらざるを得ない中、画面にはそれに甘んじきらないスタッフの自己主張が随所に感じられて頼もしい。  何よりも主流ヒット作に顕著ないわゆる「万人受けの法則」つまり感傷場面の引き伸ばしに対して極めて自制的である。  主演二人のベランダの場面から、翌朝へのドライな繋ぎ。クライマックスから後日談への唐突でぶっきら棒な暗転。背中で隠したラストの「きれいな海」等はいかにも批評的で面白い。  出自やら来歴の説明を確信的に省いた風来坊のキャラクターも実に映画的で正しい。  無言を貫く主演二人の一連の動作と視線によって興味を引かせる導入部。これが終盤に活きてくる。渋滞の喧騒の中、二人は互いの言葉を聞き取れない。二人があくまで言葉によらずアイコンタクトのみによって意志を疎通させる展開の映画性。 また、空港の場面で戸田―スリの男―織田―天海親子、といった具合に人物の出し入れを(さりげない伏線の導入を含め)的確な流れで捌いた画面連鎖の見事さ。  これら、主要人物からエキストラまで複数の人物の頻繁な出入りが一貫して画面に活力を与えており、監視カメラ画像の連鎖を含めた引き、寄りのバランス感覚も悪くない。  クライマックスで織田裕二と佐藤浩市が一瞬交錯し、すれ違うショットの画面処理も的確で、二人の相容れない行路を明確に可視化している。  結果的に、類似した主題ながら台詞過多と画面の停滞で後半失速した東宝映画『誘拐』(1997)の愚を回避している。
[映画館(邦画)] 8点(2012-04-29 00:41:20)
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