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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2010年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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121.  アントマン&ワスプ
前作「アントマン」は、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」と「シビル・ウォー」の狭間で公開され、両作の色々な意味で“重い”作風に対して、一服の清涼剤となるような良い意味でライトで痛快無比な最高のヒーロー映画だった。 続編となる今作もその立ち位置は変わっていない。あの「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」の重苦しい“悲劇”の直後のMCU作品として、“清涼剤”としての役割は前作以上に大きかったことだろう。  キャストとスタッフが概ね続投されていることもあり、映画のクオリティやテイストに大きな変化はなく、前作同様ヒーロー映画として十二分に楽しい作品に仕上がっていると思う。  ただし、前作ほどのフレッシュさは流石に薄れている。 美しく強い“ワスプ”は魅力的で、表題に割って入ってくるのも納得だけれど、アントマンとのパートナーとしての関係性自体は、前作時点で既に築かれていたものなので、安心感はあるものの特段目新しさは無かった。 アントマンの“巨大化”のくだりも、「シビル・ウォー」で“ネタ見せ”してしまっているのでインパクトに欠けていた。 ストーリーの肝である量子世界への突入についても、既に前作で帰還に成功しているわけだから、新たな緊迫感を生むには至っていないと思う。  それでも前作同様の娯楽性を担保できているのは、やはり登場するキャラクターとそれを演じるキャスト陣が魅力的だからだろう。 アントマンことスコット・ラングを演じるポール・ラッドをはじめ、ワスプ役のエヴァンジェリン・リリー、ハンク・ピム博士役のマイケル・ダグラス、そしてなんと言っても悪友ルイス役のマイケル・ペーニャらのパフォーマンスが安定している。そんなレギュラーメンバーたちの掛け合いを見ているだけで楽しい。 またスコットの娘ちゃんは健気で可愛いし、普通の映画だったら憎まれ役になりがちの娘の“継父”すらも端役ながら最高なキャラクター性を見せてくており、ほっこりさせてくれる。  というわけで結果的には、前回と同じく“清涼剤”の役割をしっかりと果たしてくれていることは間違いない。 が、「覚悟」はしていたけれど、MCUにおいて痛快無比なこの作品においても、あの無慈悲な“チリ”を舞わせるとは……何とも容赦ない。 でもね、アベンジャーズの超人オールスター勢の中で、スパイダーマンでも、ブラックパンサーでも、ドクター・ストレンジでもなく、スコット・ラングという「小物」が生残されたことは、きっと“大きな”意味を持つと期待せずにはいられないよね。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-03-24 17:10:15)(良:2票)
122.  日本で一番悪い奴ら
いやいやいやいや、まったく笑えない!なのに、笑えて笑えて、困る!! 実際の警察不祥事事件をモチーフにしたこの犯罪映画は、想像以上に胸クソが悪くて、想像以上に面白くて、とても困った映画だった。  こういう“感覚”を、日本の映画ファンが体感する機会は少ない。 その理由は明確で単純だ。こういう映画があまりにも少ないからだ。 現代社会において実際に巻き起こった事件、事故、スキャンダルを映画の「題材」とすることはあっても、それらを真正面から捉えた上で“エンターテイメント化”する文化的土壌が、この国の映画業界には備わっていない。 その昔は、そういうことをまかり通すだけの肥えた土壌があったのかもしれないけれど、今はすっかり痩せ衰えていると言わざるを得ない。 それは何も映画業界だけの問題ではないだろう。この国の文化的な民度とリテラシーそものもが矮小化し、弱体化してしまい、許容し得る度量がないのだ。  そんな中で、今作と、これを描いた白石和彌という映画監督は、明らかに特異な存在と言えよう。 事実を事実として捉えた上で、「娯楽映画」としての暴力性、可笑しさ、エロさ、猥雑さ、それらすべてをひっくるめたエンターテイメント性から逃げない姿勢が先ず素晴らしい。  日本の映画業界と比較し、映画文化の土壌が肥えているハリウッドでは、作品の善し悪しは別にしてこの手の映画作品で溢れている。 マーティン・スコセッシの映画などはその頂点の一つであろう。決して過言ではなく、今作は、かの巨匠の作品の空気感を彷彿とさせた。近年の作品で言えば、序盤の主人公が悪徳メンターと交流するシーンをはじめ、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」に映画的な展開と性質がすごくよく似ていると思えた。  看過できない社会性と、直視しづらいほどの毒性、そして観る者を釘付けにするエンターテイメント性の混在。 それはまさに映画的「快楽」であり、日本でもこういう映画が作られるようになったことがとにかく嬉しい。   公開当時から観たい作品の筆頭であったが、劇場鑑賞の機会を逃したまま、期待値が高まるあまり鑑賞のタイミングを掴みそこねてきた。 ようやく鑑賞に至った動機は、この国の映画ファンにとってあまりに悲しい「ピエール瀧の逮捕」だった。 ピエール瀧が俳優としての類まれな存在感と価値を爆発させた最大のきっかけこそ、白石和彌監督の「凶悪(2013)」だったと思う。 今作においても、彼は序盤の少ない登場シーンで、前述の悪徳メンター役を嬉々として見事に演じ切っている。  無論、彼が犯した罪を擁護する気持ちは毛頭ない。一報を聞いたとき、一ファンとして、憤りと悲しみで打ちひしがれそうになった。 「作品に罪はない」という意見は概ね正しいと思うが、それがイコール「作品の価値が下がらない」ということではない。ピエール瀧の逮捕後に今作を観て、少なからず彼の演技を訝しく観てしまったことは否めなかったし、それはたとえ“過去作”であっても、この映画にとって決して小さくないマイナス要因だった。  ただそれでも、この映画がエネルギーに満ち溢れた良作であることは揺るがないし、今作に限らず、一人の演者の罪によって作品自体が蔑まされたり、日の目を見ないなんてことは間違っていると思う。 詰まるところ、重要なのは我々受け手一人ひとりの「意識」のあり方なのだ。 先に呈したこの国全体の文化的リテラシーの低下にも関わることだけれど、この社会の文化意識そものもがもっと成熟しなければならない。 その上で、「現実」と「作品」との境界線をきちんと認識し、個々人が適切な判断と評価をするべきだ。 そうでなければ、アグレッシブでオリジナリティに溢れた創造活動などできるわけもなく、結果本当に面白い映画なんて生まれるはずもない。  これからも、今作のように「現実」を「娯楽」で笑い飛ばすような映画が生まれ続けてくれることを切に願う。
[インターネット(邦画)] 8点(2019-03-24 09:23:47)(良:1票)
123.  映画ドラえもん のび太の月面探査記
春先、子どもたちを連れての“ドラえもん映画鑑賞”は、毎年の恒例となってきた。 父親としても、映画ファンとしても、ドラえもんファンとしても、嬉しい恒例行事だ。昨年に続き、今年も二人の子どもと、友人親子らと共に鑑賞。  コミックスの一エピソードである「異説クラブメンバーズバッジ」を原案としたストーリー構成が、原作ファンとしては興味深く、小説家の辻村深月が脚本を担っていることも功を奏し、世界観の広がりを携えた物語構築をしてくれていたと思う。 「月」を舞台にした物語は、「ドラえもん」の世界では意外に少なく、地球にとって最も身近な天体である月を舞台に長編化することは、“F先生”にとっても実は悲願だったのではないかと勝手に想像する。 原作エピソードを原案としているのだから当然ではあるけれど、「大長編ドラえもん」シリーズを原作としない“オリジナル”の映画作品の中では、これまでで最も「ドラえもん映画らしいドラえもん映画」と言えるのではないかと思った。  描き出されるテーマは、家族や友達を中心とした「絆」であり、それ自体に目新しさはないけれど、決して安直なウェットさを全面に押し出さないストーリーテリングに好感が持てた。 世代を超えた膨大な時間や、生物的な異なり、幾つもの銀河を超えた果てしない距離、そういった登場人物たちを取り巻く大きな“隔たり”を踏まえた上で、手を取り、助け合い、苦難に打ち勝っていくさまを紡ぎ出したストーリーには、表面的な分かりやすさと共に、深い物語性が共存していたと思う。  というわけで、作品自体のクオリティーは高かった。 昨年の「のび太の宝島」鑑賞後は、ストレートな“父子の絆”を受けて「泣けたー!」と言っていた娘だったが、今回は「涙は出んかったけど、とても面白かった」と真っ当な感想を述べていた。 そんな子どもの様子も微笑ましく横目に見ながら、原作ファンとしては、ムス子、あばらやくん、多目くん、ガリベンくんら、原作の小さなエピソードでしか登場しないのび太のクライメイトたちが、冒頭の学校シーンでさり気なく映り込んでいたことに、製作陣の原作愛を大いに感じた。  エンドロール後の「特報」を見た限りでは、来年のドラえもん映画の舞台は“恐竜世界”のようだ。 「のび太の竜の騎士」のリメイクか、今回のような小エピソードの長編化か、まったくのオリジナルストーリーか、例によって父親が子どもたち以上にワクワクしている。
[映画館(邦画)] 7点(2019-03-24 09:05:36)
124.  アクアマン
「ロード・オブ・ザ・リング」+「ブラックパンサー」+「ドラえもん のび太の海底鬼岩城」という式がぴたりと当てはまる。 そしてそれは、それぞれの過去作に対して“二番煎じ”というわけでは決してなく、あらゆる要素が大渦のように轟々と混ざり合い、まったく新しい「娯楽」の世界へと誘ってくれる。 詰まるところ、DCコミックスが放った新たなスーパーヒーロー映画は、「ワンダーウーマン」に引続き、最高の娯楽映画だったということだ。   大々的にイントロダクションされている通り、全編通して繰り広げられる海中アクションがやっぱり凄い。 映像技術の進化に伴い、水中描写そのものはそれほど珍しくなくなったが、今作ほど主要シーンの殆どが海中シーンであり、文字通り縦横無尽のアクションを展開させた映画はなかったのではないか。 そして、イマジネーションが満ち溢れる海底都市の魅惑的なビジュアルは、まさしく「誰も見たことがない」映像世界だったと思える。 また、果てしない奥行きを備えた海中世界の描写はIMAX3Dとの親和性も極めて高かった。   その圧倒的な映像世界と、凄まじいアクションシーンを司ったジェームズ・ワンの映画監督としての力量はやはり卓越している。 マレーシア出身のこのアジア人監督は、時に豪胆に、時に繊細に、広義の意味での“アクション”を膨大な映像的物量で積み重ねつつ、巧みに整理し、この大バジェット映画を支配している。 逃亡中の主人公らがヴィランに襲撃されるシチリアのシーンでは、ありがちな攻防戦を巧みな空間演出とカット割りによって、白眉のアクションシーンに昇華させている。 屈強でゴージャスなハリウッドスターの狭間で、マジックのような演出を施すこの小さなアジア人監督には、これからも新しい映画企画をどしどし回すべきだと思う。   「ジャスティス・リーグ」そして今作で、見事に“海の王”のキャラクターをものにしてみせたジェイソン・モモアのスター性も文句無く、もっとこの濃ゆい俳優によるアクアマンを観てみたいと思わせた。 現時点では「ジャスティス・リーグ2」の公開は定かにはなっておらず、今作においてもクロスオーバー的な描写が殆ど無かったことは残念だったが、隆盛を極めた“ライバル”に対して、DCコミックスの反撃態勢は確実に強く固まってきている。
[映画館(字幕)] 9点(2019-03-13 22:08:38)
125.  寄生獣 完結編
「映画化」のインフォメーションに際し、最も眉をひそめたポイントは、“田宮良子”を演じるのが深津絵里だということだった。 深津絵里は大好きな女優の一人だ。ただ、原作漫画において殆ど主人公の一人と言っても過言ではないキーパーソンである寄生生物“田宮良子”の文字通り「異質」なキャラクター性と、これまで深津絵里という女優が演じてきた多くのキャラクターとのイメージが、全く合致しなかった。 原作漫画の“信奉者”故の過剰な拒絶反応が、そもそも「映画化」という報にあった上に、その主要キャラクターにおけるイメージの乖離が、この映画を遠のかせた大きな要因だったと思う。  しかし、鑑賞後、結果的には、まさに手のひらを返すようにこの映画作品を称えたくなった。 その最大の要因も、深津絵里演じる“田宮良子”だった。 原作漫画に登場するキャラクターとは、やはり風貌も雰囲気も異なっていたけれど、深津絵里の“田宮良子”は素晴らしかった。 原作漫画のハイライトである“田宮良子”の最期のシーンが、映画化においても当然肝になると思っていたが、このシーンがほぼ完璧で、原作同様に泣いてしまった。正直、もうそれだけで、この映画化の価値は揺るがないと言っていい。 “田宮良子”の独壇場であるこのシーンで、深津絵里は、確固たるキャリアに裏打ちされた女優力で、見事にアプローチし、表現しきっている。  深津絵里に限らず、出演する俳優陣の演技がみな安定しているからこそ、諸々の改変点も許容の範疇に収まったのだと思える。 無論、改変点に対する違和感や拒否感が無くなることはないけれど、演者の演技に「説得力」が備わっているので、「これはこれでありだな」と思えたところも多かった。  “田宮良子”が「人間の真似をして笑ってみた」シーンは、原作においても印象的な場面だが、その“真似ごと”のきっかけを映画では「嘲笑」から「慈愛」に変えている。 原作通りのキャラクター表現であれば、この改変は完全に「改悪」と断罪すべきところだったが、映画のキャラクター設定と深津絵里の演技プランが、原作キャラに対して一歩踏み込んだものになっているので、原作とは別の感動を生み出していた。 また、前述の“田宮良子の最期”と、同じくハイライトの一つである“広川の最期”を並行して描いた点は、映画製作における「予算」「尺」など諸々の制約を超えていくための巧い改変だったと思う。  期待を超えた出来栄えに対する、原作ファンならではの「補完」も大いにあったのかもしれない。 が、鑑賞後確かな「満足感」を携えて、すぐさま自室の本棚に並ぶ原作全巻を読み直させたのだから、大成功の「映画化」であったことは認めざるを得ない。
[インターネット(邦画)] 8点(2019-03-09 01:31:28)
126.  ファースト・マン
これは褒めているのだが、想像よりもずっと陰鬱で、地味な映画だった。 人類史に残る「偉業」と共存していた“心の傷”と“孤独”。光と闇を等しく抱えたまま、「偉大な一歩」を残した“最初の男”の人生そのものを、俯瞰するようなシビアな目線で、リアルに映し出していた。  「アポロ計画」を題材にした映画作品といえば、筆頭として挙げられるのは「アポロ13」だろう。絶望的なトラブル(=ミッション失敗)からの奇跡的な生還を描き、王道的な感動で世界を包み込んだ1995年の傑作は今尚色褪せない。 普通に考えれば、歴史的成功をおさめた「アポロ11号」を描いた今作は、「アポロ13」以上の“大感動”を与えてくれそうなものだ。 だがしかし、その安易な想定は全くの見当はずれだった。「失敗」を描いた「アポロ13」の華々しい達成感に対して、「成功」を描いた今作がこれほどまでに重く苦しい映画に仕上がっているとは。 その意外な後味が、何とも興味深かった。  ただ、よくよく考えれば、その苦々しい後味は至極当然のことだ。なぜなら今作は、デイミアン・チャゼル監督の映画なのだから。 「セッション」、「ラ・ラ・ランド」と立て続けに、映画的な熱量と、人間のほとばしる情念に溢れた作品を生み出し、一躍ハリウッドのトップに駆け上がったこの若き名匠が、ストレートに感動的な伝記映画など撮るわけがないのだ。 「人類史上初の月面着陸」という偉業を描くのではなく、ニール・アームストロングという現代の偉人の半生と、彼のインサイドを深く深く抉り出すようなアプローチにより、この映画は極めて繊細で、危うさを秘めた作品に仕上がっている。  一人の男を描いたストーリーテリングの中で刻み付けられたのは、明確な「死」と「喪失」の連続だった。 幼い娘を亡くし、志を共にした仲間を亡くし、ミッションに向き合い、緊張と恐怖が深まると共に、主人公は盲目的な使命感と際立つ孤独感に苛まれる。その様は、誰よりも勇敢ではあるが、何とも心もとなく見え、痛々しさすら感じる。 そんな彼の生き様を映画を通じて追想することで、50年前の偉大な冒険が、いかに危険で絶望的なものだったかを思い知った。  ラストシーン、地球に帰還した主人公ニール・アームストロングは、感染予防のため隔離された部屋のガラス越しに妻と再会する。 今生の別れを覚悟した夫婦の再会シーンなのだから、もっとわかりやすく感動的に描けたはずだが、ここも極めて抑えたトーンで描き出される。 それは、月に辿り着き帰還したことで、この二人が抱え続けてきた喪失感が、少しずつ埋まり始めたことを噛み締めているようにも見えるし、全く逆に、一度離れ始めた心と心はもはや簡単に重なり合うことは無いということを示しているようにも見える。(因みにこの夫妻は38年の結婚生活を経て離婚しているそうだ)  ふと思う。苦々しく、辛らつな後味の正体は、あまりに普遍的な或る夫婦の物語だったのではないかと。
[映画館(字幕)] 8点(2019-02-28 23:16:23)
127.  寄生獣
最初にきっぱりと言っておくと、岩明均が描き出した漫画「寄生獣」は、僕にとって人生のバイブルだ。 初めてこの漫画を読んだとき、当時10代だった僕は、最終話における寄生生物ミギーの「心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!」という台詞に心から救われた。以来、この漫画は常に僕の人生の傍らに存在している。  というくらいのファンもとい“信奉者”なので、国内で映画化と言われても疑心しか無かったし、とてもじゃないが劇場に足を運ぶ気にもならなかった。 そうして劇場公開から4年余り経過し、某動画配信サービスのラインナップの中から“当たり屋”的なスタンスでようやく鑑賞に至った。  結果的には、言いたいことは無論尽きないが、ハードルを下げきって観た分、想像以上に無難に実写化しているとは思えた。 原作の信奉者として、改変箇所には一々違和感と拒否感を禁じ得なかったけれど、実写化する以上は一定の尺の中に収めることは避けられないことであり、あらゆる制約の中で、ストーリーテリングとキャラクター設定を整理しつつ、纏めている部分は致し方ないと思う。そして、「あ、なるほど」と少なからず感心する改変ポイントもあった。 そもそもモノローグが多い原作漫画なので、実写化にあたっては意外と話運びそのものが難しかったのではないかと思うが、キャラクターを整理・統合しつつ、破綻しない程度に改変できていたのではないか。  キャスティングを含め、俳優陣も概ね良かったと思う。 特に、主人公“泉新一”役の染谷将太、キーパーソン“田宮良子”役の深津絵里については、ビジュアル的にも表現的にも原作キャラと合致しているというわけではなかったけれど、それぞれが独自の演技プランで的確な役作りをしていたと思える。 一部酷評も目にしたが、“島田秀雄”を演じた東出昌大も、この俳優特有の“棒演技”感が絶妙にマッチしており、原作の“島田秀雄”というよりは、寄生生物キャラ全体に共通する作り物のようなおぞましい無機質感を体現できていた。  と、溜飲を下げる一方で、根本的な演出面では稚拙さが際立っていたと思う。 ストーリーテリング自体は整理できていたけれど、その分、一つ一つの描写がとても薄っぺらい。 俳優陣はそれぞれ頑張っていたが、感情を揺さぶられるほどの情感を引き出すには至っておらず、これはすべて監督の演出力の無さに起因すると思わざるを得ない。 「混じった瞳」「火傷の手」など、キーポイントとなるカットをしっかりと押さえるだけでも、印象は随分変わったはずだ。せっかく原作という“絵コンテ”が存在するのに、そういう画作りの不味さが際立ってしまっているのは残念だ。  あとは「みんなの生命を守らなければ」ではなく、「みんなの生命を守らねば」だ!だとか、細かすぎる難クセは枚挙にいとまがないが、「後編」も不安半分、期待半分で観てみようと思う。 浅野忠信の「後藤」には期待している。
[インターネット(邦画)] 6点(2019-02-24 12:11:22)(良:1票)
128.  アノマリサ
冒頭から、強烈な“違和感”を突きつけられる。 或る都市へ向かう飛行機内の乗客たちの何気ない会話音のはずだが、なんだか物凄く気持ちが悪い。 その理由が、乗客の声がすべて同一の無機質な男の声であることに気づくのに時間はかからないけれど、なぜそんな奇妙な設定になっているのか、得体の知れない世界観に突如放り込まれたような感覚を覚えた。  カスタマーサービス業における啓発で名声を得た主人公は、見るからに憂鬱な眼差しを携えつつ、講演のため異国の街に降り立つ。うつ病を患っているらしい彼は、自分以外の周囲の人間がすべて同じ顔に見え、同じ声に見える。 ストップモーションアニメによる絶妙に悪趣味な造形も手伝って、人形とは思えないリアルな描写が妙に生々しく、痛々しく、居心地の悪さに包み込まれる。  某動画配信サービスのラインナップの中から、特段予備知識も入れないままに鑑賞を始めたこともあり、「何を見せられるのか?」という期待と不安が入り混じった感情が、展開とともに、徐々に確実に大きくなっていった。  ストーリー展開自体は極めてミニマムだ。 翌日の講演のために前泊したホテルでの一夜を、過剰とも言える細やかさで描き連ねている。 主人公の一挙手一投足を並べ連ねていくことで、彼が抱える鬱積と闇が自然に見え隠れする。 そして、この男の、生々しく痛々しい様を見るにつけ、彼が何故ゆえ世界から孤立し、奇妙な環境の中で生きざるを得なくなっているのかが見えてくる。  主人公の正体、そして映画の正体の輪郭が見え始めた頃、「ああ、そうか、これがチャーリー・カウフマン(の映画)だったな」と思い出した。 「マルコヴィッチの穴」しかり、「アダプテーション」しかり、“こじらせオヤジ”を描かせたら、やはりこの人の右に出る者はいない。  ラスト、自宅に帰り着いた主人公は、再び孤立し、“玩具屋”で土産に買った壊れた奇妙な絡繰人形と対峙する。 まさかの「桃太郎」を歌う(気持ち悪い!)その人形を前にして、果たして彼は己の愚かさに気づいたのだろうか。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-02-24 11:19:31)
129.  ちはやふる 下の句
“青春”というエネルギーと、“かるた”という古典の表現が、融合することで生じる忘れ難きエモーションが、前作「上の句」から引き続き映し出される。 前作同様、広瀬すず演じる主人公の、眼差し、疾走、笑顔、嗚咽、白目(お約束)、すべてがエモい。 主人公をはじめとする高校生たちの言動は、時に非論理的に見えるくらいに、整合性がなく、青臭いけれど、その不安定な歪さも含めて、“青春”なのだと僕は思う。  前作のそつの無さを踏まえると、この“後編”はいささか不合理だ。言い換えれば、きっぱりと大雑把で、デリカシーがない。それらはすべて主人公・千早の言動に表れている。 今作の彼女は、前作の天真爛漫なザ・ヒロイン感を見失い、時に傍若無人に見える程の言動を繰り広げ、周囲の仲間たちを混乱させる。その混乱は、そのまま我々観客にも伝染し、「この子、こんなやつだっけ?」と眉をひそめざるを得なくなる。  でもね。まるで“別人”に思えてしまうくらいに、その時々の感情で、自分の立ち位置さえもグラグラとままならなくなることも、若さゆえの失敗であり、価値ではないか。 日々揺れ動き、自分自身が「自分」というものをまったく理解できないまま、傷つき、周囲に迷惑をかけながら、成長していく。それこそが、若者の特権であろう。  まさしく荒れ乱れるコマのようだった主人公は、ようやく自らの立ち位置を取り戻し、チームメイトたちに凛とした背中を見せる。 そして彼らは言う「あれが、あの姿が“ちはやふる”ですよ」と。最高かよ。  前作の王道感と比較すると、良い意味でも悪い意味でも面食らうことは間違いないけれど、そういう部分も含めて、やはり今作は青春映画の王道だと思える。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2019-02-12 20:03:19)
130.  映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団 はばたけ 天使たち
「じゃあ見たことのある回路に直しちゃえば?」 と、のび太に促され、ドラえもんは敵対するロボットの電子頭脳を無理やりに改造する。 “ジュド”という名前だったその電子頭脳は、その後うんともすんとも言わなくなり、ドラえもんたちの“従順な味方”となる。   これは、今作のオリジナルである1986年公開の映画「ドラえもん のび太と鉄人兵団」の1シーンだ。 当時5、6歳だった僕は、この作品を何度観たか分からない。他のドラえもん映画と同様に、VHSにダビングされたものを繰り返し観ていた。「のび太と鉄人兵団」は、数あるドラえもん映画の中でも、屈指の傑作だと今でも思っている。   ただ、今改めて前述のシーンを振り返ってみると、なんて“残酷”なシーンだったのだろうと気づく。 地球人を奴隷化しようと画策する侵略者だとはいえ、文字通り“手も足も出ない”相手に対して、有無も言わさず脳改造を施すくだりは、あまりに非人道的もとい“非ロボ道的”だ。 子どもだったとはいえ、その展開を当たり前の様に看過し、今現在に至るまで、無邪気に「正義」と疑わなかった自分自身の浅はかさを今更ながら感じる。   その“気づき”を与えてくれたのもまた「のび太と鉄人兵団」だったわけだ。 リメイクである今作でも同様のシーンが展開される。 しかし、「改造しちゃえ」と言うスネ夫に対し、のび太が「それは残酷だ」と明確に否定するシーンに“改変”されている。 そのシーンを目の当たりにして、僕は初めて30年前の映画作品の確固たる「弱点」に気がつくことができた。 この点一つを取っても、このリメイク作の意義と価値はあまりに大きいと思える。   自分自身の子どもたちがドラえもん映画を観始めるようになったのをきっかけに、長年スルーしていた新世代のドラえもん映画を観るようになった。 重度の“F先生”信者なので、自身が子どもの頃に慣れ親しんだ“大長編シリーズ”のリメイク作に対しては特に敬遠気味だったのだが、昨年「のび太の恐竜2006」を鑑賞して、その“食わず嫌い”は一気に吹き飛んだ。 「のび太の恐竜2006」、「のび太の新魔界大冒険」、そしてこの「新・のび太と鉄人兵団」と観てきたが、どれもF先生の原作をリスペクトした上で、現在の価値観を踏まえた弱点を見極め、真摯に改変に挑戦する姿勢が素晴らしいと思う。   無論、藤子・F・不二雄を信奉する者として、リメイク作に全く不満が無いわけではない。 今作にしても、スネ夫所有の“ミクロス”の露出が、新しいキャラクター設定に伴い大幅に減少してしまっていることなどは決して小さくないマイナス要素ではある。 それに“改変”されているとはいえ、突き詰めれば倫理的にスルーできないストーリー展開上の強引な要素も残っている。   だがしかし、前述の“気づき”を筆頭に、オールドファンをも認めざるを得ないリメイクの意義をしっかりと示し、今の子どもたちに向けて新しい「鉄人兵団」を公開する価値は、とても大きいと思う。それはいくつかのマイナス要素など補ってあまりあるものだ。   リルルとの別れに号泣し、スーパーコアラッコのパズルをするドラえもんに萌える。ドラえもんファンとしても、このリメイク作の仕上がりは申し分ない。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2019-01-24 17:05:51)
131.  ボーダーライン: ソルジャーズ・デイ
「面白え」と、飾りのない満足感がじわじわと滲み出てくる。 善悪の境界線など遠く通り越して、虚無的な憎しみの螺旋の中で争う様には、この世界の愚かさの極みが溢れかえっていた。 この映画世界で描かれていることが、どれだけリアルに近いのかは判別できないが、おそらく現実にはもっと陰惨で、絶望的な事実が、無慈悲に渦巻いているのではないかと思う。 現実世界の闇を根底に据え、その闇の中で生きざるを得ない人間たちの苦闘を、前作同様映画的な娯楽性もしっかりと加味しながら描き出す見事な映画だ。  前作「ボーダーライン」をようやく鑑賞した翌日に、公開中のこの続編を観たが、立て続けに観たことで、より一層二作の連なりと、描き出される「視点」の明確な違いを顕著に感じることができたと思える。 前作では、エミリー・ブラント演じる主人公を敢えて“部外者”の立ち位置のままストーリー展開をさせることで、正義と悪、この世界の光と闇の境界線を如実に表していた。 この続編では主人公の視点を、“部外者”から“当事者”にチェンジすることで、前作で朧気にだったこの世界の闇の本質がよりくっきりと映し出される。 同時に、前作では正義と悪の両者をコントロールしているように見えた“当事者”であるCIAエージェントらも、実のところ極めて混沌とした血みどろの境界線上を進まざるを得ない状況であることが描き出され、行き場のない絶望感を叩きつけられる。  キャストにおいては、前作に続きベニチオ・デル・トロの存在感が圧倒的だ。 前作においても、実は物語の真の主人公はベニチオ・デル・トロが演じるアレハンドロだったわけだが、このキャラクターが抱える憎しみと怒りと悲しみを全身で体現する演技が素晴らしい。 これ以上ない嵌り役を完璧に演じきっていることで、彼は名優として一つの高みに登ったと思える。  脚本を担うテイラー・シェリダンによると、どうやら三部作構想のようである。 文字通り死の淵から甦った“Sicario=殺し屋”は、果てしない憎しみの螺旋に終着を見いだせるのか。 完結編の製作を心して待ちたい。
[映画館(字幕)] 9点(2019-01-18 09:29:42)
132.  アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル
“トーニャ・ハーディング”が、テレビカメラ越しに、やや諦観しているような真っ直ぐな眼差しで、軽薄な「大衆」に向けて、「あなた」という呼びかけと共に、静かな怒りと諦めをぶつける。 「あなた」というのは、まさに自分自身のことだと思えた。  1994年のリレハンメル五輪のあの冬、僕は13歳からそこらだったと思うが、トーニャ・ハーディングが途中で演技を止めて、審判席に詰め寄る光景をよく覚えている。 そして、僕は確かに、彼女のその様を、「往生際の悪い女だ」と、好奇と侮蔑を携えて見ていたことも、よく覚えている。 年端もいかない“ガキ”だったとはいえ、断片的に伝え聞いていたのであろうワイドショーの情報と、衛星中継の一寸の光景だけで、そういった底意地の悪い感情を抱いてしまったことは、恥ずべきことだったと思う。 結局、何が「真実」かなんてことは分からないけれど、自分も含めた大衆の無責任さは痛感せざるを得ない。  それにしても、一流アスリートとオリンピックを巻き込んだあの一連のスキャンダル事件を、このような形で、スポーツ映画としても、一人の女性像を描き出す作品としても成立させ、見事な傑作として完成させてみせたことには驚かされた。  マーティン・スコセッシの犯罪映画のようでもあり、デヴィッド・フィンチャーの実録映画のようでもあり、最新の撮影技術を駆使した確固たるスポーツ映画でもある今作は、極めて芳醇な多様性を孕んでいて、最初から最後まで決して飽くことがない。 二十数年前のスキャンダルを知っていても、知らなくても、面白みを堪能できる作品に仕上がっていることは、虚偽と真相、フィクションとノンフィクションの境界を描く今作が、大成功を収めていることの表れだろう。  演者で特筆すべきは、やはりなんと言ってもマーゴット・ロビー。 どこまでも愚かであり、どこまでも不憫な実在の女性像を見事に表現しきっている。そして、間違いなく世界トップクラスのフィギュアスケーターだったトーニャ・ハーディングを演じるにあたってのアスリートとしてのアクションも、極めて高い説得力と共に体現していたと思う。  ラストシーン、スケート界から追放された主人公は、ボクシングのリング上で、アッパーカットを浴び宙を舞う。 その様をかつての“トリプルアクセル”と重ねて映し出すという「残酷」の後、リングに打ち付けられた彼女は再びこちらを見つめてくる。 この映画は、無責任な好奇の目に晒され続けた彼女が、それを浴びせ続けたこちら側を終始見つめ返す作品だった。
[DVD(字幕)] 9点(2019-01-18 07:45:19)(良:2票)
133.  ボーダーライン(2015)
公開時から観よう観ようと思いつつタイミングを逃してしまい、各種配信サービスにおいてもウォッチリストに必ず入れながら観られていなかった今作を、続編公開のタイミングでようやく鑑賞。 評判通りに物凄く面白かった。さっさと観ておけば良かったと只々後悔。  この映画を一言で表現するならば、「闇の淵」という感じだろうか。 邦題「ボーダーライン」が表す通り、エミリー・ブラント演じる主人公は、メキシコ麻薬カルテルを枢軸とした巨悪と、そこに渦巻く絶望的な「闇」に呑み込まれるか否かの“境界線上”に立たされる。 FBI捜査官の主人公は、得体の知れない強大な闇の一端に触れ、覗き込もうとする程に、その深さに絶望し、自らが信じ命を懸けててきた「正義」がいかに表層的なものだったかということを突きつけられる。  エミリー・ブラントは、“こちら側”の代表として、この世界の“向こう側”に巣食う悪の理を目の当たりにするFBI捜査官を熱演している。相変わらず、この女優は芯の強い女性像を演じきることに長けていて、今作においても魅力的な人物像を体現している。 ただし、この映画が面白い最大のポイントは、その主演女優が演じる魅力的な主人公が、ストーリーテリングの中心に存在していないということだ。 主人公は終始、知り得なかった別世界の闇の存在を感じ続けはするけれど、結果的にその深層に入り込むことを許されない。あくまでも“部外者”のまま、物語は進行し、終幕する。 では、この映画世界の真の主人公は誰であり、真の闇の中で生き続けている人物は誰だったのか。その巧みな映画的構図と、研ぎ澄まされたストーリーテリングが、上質なリアリティとエンターテイメント性を生み出しており、圧巻だった。 ドゥニ・ヴィルヌーブ監督による、絶望的なまでに美しく、神々しい映像感覚と音楽も素晴らしかった。  原題「Sicario」はスペイン語で「殺し屋」の意。 闇の淵に主人公を置き去りにし、一つの目的を果たした“殺し屋”は、闇の更に奥深くに突き進んでいく。
[インターネット(字幕)] 9点(2019-01-17 11:24:00)
134.  シュガー・ラッシュ:オンライン
2019年の劇場鑑賞一発目として、わが子二人と共に映画館に足を運んだ。 キュートで、エキサイティングで、ユーモラスで、感動的な、お正月に子どもと観るに相応しい映画に仕上がっており、映画ファンとしても、父親としても、満足度は高かった。   世評は意外と分散している様子だが、個人的には、続編としての“大風呂敷”の広げ方を、舞台設定の必然性、物語構造の妥当性、そして王道的なテーマ性としても、等しく真っ当に纏めていると思う。   一方で、賛否が分かれている理由もよく分かる。 確かに、6年前の前作をよくよく思い返してみると、肝心要の主人公コンビのキャラ設定がぶれてしまっていることは否めない。 そして、そのことが前作で描き出されたテーマ性をも崩さんばかりに侵食してしまっていることは、特に前作ファンにとっては残念すぎる要素だったろうと思う。   ただし、そういう作品世界の根幹を揺るがしかねないストーリーテリングの脆さを度外視してでも楽しむべき要素がこの映画には溢れていて、そういう映画ファン、ディズニーファン向けの小ネタやメタ要素を見つけていくだけで、只々楽しい。 言わずもがな、歴代ディズニープリンセスが勢揃いした“楽屋ネタ”はアガらずにはいられなかった。  若干空気感の違うメリダに対して、アナが「あの子だけスタジオが違うの」とコソコソ言うシーンでは劇場で一人吹き出してしまったし、モアナが立ち上げた水柱を、アリエルが泳ぎ登り、エルサが凍らせて滑り降りてくる等々の助太刀シーンではわが子を差し置いてはしゃいでしまった。     とはいえ、そういった小ネタがハイライトとして先行してしまっていることからも、作品の質として前作を越えていないことは認めざるを得ない。 果てしないインターネット世界を描き出した描写も、よく造り込まれてはいるけれど、スピルバーグが「レディ・プレイヤー1」を公開した直後のタイミングでは、レース描写も相まって、どうしても二番煎じ感を拭えない。 それに2時間近い上映時間は、子どもには少々長過ぎたようだった。(4歳の息子には特に)。     それでもね、この映画が自分の子どもと初めて映画館で観たディズニー映画であることは事実であるし、お正月の良い思い出として残り続けるだろうと思うのだ。
[映画館(吹替)] 7点(2019-01-10 22:14:34)
135.  グランド・イリュージョン 見破られたトリック
原題にも用いられている「Now You See Me」とは、「見えてますね」というマジシャンの常套句の意。 この原題が表す通り、この娯楽映画シリーズは、“何が見えていて、何が見えていないのか”という“トリック”を全編に散りばめながらストーリーを展開させていく。 前作は、その思惑が100%達成できているとは言えないけれど、娯楽映画としての着想そのものはユニークだったし、実力派を揃えたキャスティングも功を奏し、及第点の仕上がりだったと思う。 あからさまな酷評も割りと多かったようだけれど、この映画が“マジック”を描いている以上、素直に騙され、それを楽しむことが、観客としてのマナーだとも思った。     なので、その続編である今作においても、間違っても「あんなマジックはあり得ない」などと、分かりきった難癖を付けるのは「無粋」というものだ。 映画のストーリー上で、どんなに荒唐無稽なマジックが展開されようとも、「わあ、すごい!」と楽しめる人は心ゆくまで楽しめばいいし、もしそれが出来ないような人は観なければいい。   と、少々傲慢な“予防線”を張ってしまった感も我ながら否めないけれど、個人的には前作同様に及第点の娯楽映画を堪能できた。 奇想天外で荒唐無稽な“マジック”を「武器」にした義賊チームによるケイパー映画として、作品のテイストを前作以上に振り切ったことで、より気兼ねなく楽しめる娯楽映画に仕上がっている。   ジェシー・アイゼンバーグをはじめ主要キャストは「黒幕」や「悪役」も含めて続投となっているため、安定感はあるものの、ストーリー展開的な驚きはそれ程得られない。(モーガン・フリーマンの役どころなどは、もはやベタ過ぎる)   ただ、だからこそ王道的な娯楽を楽しめるという、“ジャンル映画”としての面白味が生まれ始めているようにも見える。 これ以上の続編はおそらく蛇足になると思われるが、義賊チームにおける“チーム感”を更に高め、愛着を得られるようになるならば、例えば「ワイルド・スピード」のような大ヒットシリーズに成長するような「奇蹟」もありえなくは無い。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-01-10 22:04:01)(良:1票)
136.  トランスフォーマー/最後の騎士王
「もはやナニがナンだかわからん!」のは、今に始まったことではなく、シリーズ3作目あたりから大体同じ印象をすべての鑑賞者が持っているはずだ。 このブロックバスターシリーズのファン、非ファンに関わらず、その“ワケの分からなさ”もしくは映像的膨大な物量の中で展開されるストーリーの“どうでもよさ”自体を受け入れられないような人は、そもそもこの映画を観るべきではない。その場合、非難されるべきは作品ではなく、鑑賞者の方だろう。 というわけで、前作(完全蛇足の中国観光映画)に対して、映画産業全体における危機感も含めて「0点」を献上した僕も、あらゆることを「覚悟」した上で、この150分に渡る超大作の鑑賞に至った。  先ず序盤から大いに戸惑う。「あれ?(録画リストから)間違えてキング・アーサーを再生してしまったのかな」と。 恐らくは、同年製作の「キング・アーサー」より多大なバジェットをかけていそうな暗黒時代の合戦シーンにあんぐりとした。 ただし、結果的にはこの大仰な大風呂敷の広げ方が、一辺倒だった当シリーズのエンターテイメント性に多様性を生んだとも言えると思う。  まったくもって「強引」極まりないが、謎の金属宇宙生命体であるトランスフォーマーと地球の因縁を、人類史を遡ってこじつけたことで、「ダ・ヴィンチ・コード」的なミステリーとアドベンチャー要素が加わっている。 その他にも、スパイ映画、宇宙人侵略映画、カーアクション映画、潜水艦映画etc様々な要素を増し増しに盛り込んで、胸焼け必至のボリュームでまとめ上げている。 サービス過剰の執事ロボットや、侵略者に慣れ過ぎちゃって平然とタイマンで交渉に臨んじゃうレノックス大尉など、惰性だろうとなんだろうと5作目まで続けてきたからこそ辿り着いた娯楽性も確実に存在する。  この映画世界はまさに「カオス」そのものであり、何を見せられているのかも分からなくなってくる。 が、マイケル・ベイ監督をはじめ製作陣は、そんな作風に対してとうの昔に開き直っているので、内容がどうであれその“映画づくり”においてはもはや迷いなどはなく、ワケのわからないものをワケのわからないままに堂々と作り込んでいるように感じる。 結果として、観ている側も「コレはこういうものだ」と納得せざるを得ない気持ちになってきた。  どうやら大風呂敷は更に広がり、トランスフォーマーたちとの因縁は地球という惑星そのものの誕生まで遡って、「エイリアン:コヴェナント」的な展開を目論んでいるようだ。 もう、どこまでも好きなだけ突き進めば良いと、諦観半分で応援したくなる。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2018-12-28 23:22:43)(良:1票)
137.  皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ
一風変わったイタリア産ヒーロー映画。 ハリウッドにおける“マーベル”、“DC”の二大コミックそれぞれのユニバース作品群は隆盛期のピークを迎えているが、所変わればヒーロー像も変わるもので、癖と雑味が激しいイタリアンヒーローの立ち振舞は、とても興味深かった。  社会のど底辺に生きるどチンピラが、突然“超人パワー”を手に入れたらどうなるか。 当然ながら突如として「正義」に目覚めるわけもなく、豪胆にもATM強盗を犯す様がまず潔い。 その後も、ヒーロー映画らしい颯爽としたシーンなどまるで無く、苦痛と苦悩にのたうち回りながら、本当に少しずつ己の運命を見定めていく愚か者の不器用さが何とも切ない。  “ヒーロー”である主人公以外の登場人物たちも、皆どこか心を病み、こじらせている。 ヒロインは陰惨な生い立ちの過去を覆い隠すかのごとく、何故か実在の日本産のロボットアニメ「鋼鉄ジーグ」に心酔し、心の拠り所にしている。 一方の悪役も、歌手になりきれなかった夢を引きずりつつ、狂気的な凶暴性を増大させていくという、ワケのわからないキャラクター像を構築している。 主要キャラクターに限らず、登場人物たちの全員が何かしらの“屈折”を抱えているように見え、それは即ち現在のイタリア社会が根底に抱えている病理性に通じているようにも感じた。  心身ともにズタズタに傷ついた愚かなヒーローは、ようやく運命を受け入れ、無様で愛おしい毛糸のマスクを身につける。 そして、眼下に見下ろす夜の街にジャンプし、映画は終幕する………が、飛翔能力があるわけではないので、きっと彼はいつものように地面に叩きつけられたことだろう。  アイアンマンやスーパーマンには敵うはずもないけれど、こんな“鋼鉄の男”がいたっていい。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-12-28 23:19:44)(良:1票)
138.  パラノーマン ブライス・ホローの謎
「フランケンウィニー」と「グーニーズ」を掛け合わせたような娯楽性豊かなストップモーションアニメだったと思う。 丹精込めて作られているのであろう、主人公をはじめとするキャラクター造形と、その言動の一つ一つが味わい深く、この手法のアニメーションならではの魅力が滲み出ている。 今や飛ぶ鳥を落とす勢いのアニメーション制作会社ライカの力量を見せつける作品であることは間違いないだろう。  ただし、個人的には、お話的に通り一遍な印象を否めず、物語がクライマックスに突き進むほどに際立った新しさが無かったように思う。 ストップモーションアニメという伝統的な手法を、新たな技術力、表現力で追求しているからこそ、紡ぎ出される物語にも、新しい視点や価値観を加味してほしい。 そうすれば、このアニメーション制作会社の作品が、群雄割拠の業界内でトップに立つことも決して夢物語ではないだろう。
[インターネット(字幕)] 6点(2018-12-28 21:12:37)
139.  来る
結局、最も凶悪でおぞましい存在の極みは、お化けでも、妖怪でも、怨霊でもなく、「人間」であるということが、この物語の発端であり、着地でもあった。 その物語のテーマ性は、劇中の台詞の中にも登場するが、「ゲゲゲの鬼太郎」の時代から“ホラー”の中で延々と語られているものだろう。 ただし、そのある種普遍的なテーマ性を孕んだストーリーを、中島哲也監督が盤石のキャスト陣で映画化したならば、そりゃあ例によって“劇薬”的な映画になるに決まっている。  「下妻物語」以来のこの監督の作品のファンだ。特に直近の2作品「告白」、「渇き。」は、ただでさえ過激な原作世界に、中島監督ならではの悪意とインスピレーションを盛り込んだ映画づくりにより、クラクラしっぱなしの映画体験を食らわされた。 ビビットな映画的色彩の中で、醜く、滑稽な、人間の本質的な闇を浮き彫りにすることにこの監督は長けている。 そして、その人間描写をジメジメと陰鬱に描き出すのではなく、まるで悪魔が高笑いをしているかのような豪胆さ、即ち“エンターテイメント”を全面に打ち出してくる作風に、毎回ノックアウトを食らうのだ。  今作では、“ほぎわん”という恐怖の対象をある種のマクガフィン的にストーリーの主軸に据え、それに対峙する人間たちがそもそも抱えていたドロドロとした闇を、おぞましく、破滅的に描きつけている。 章立てされた群像劇的なストーリーテリングの中で、主要キャラクターを演じた俳優たちはみな素晴らしかったと思う。  妻夫木聡は、前作「渇き。」に引き続き、実に愚かなクソ野郎ぶりを見事に見せつけてくれる。 黒木華は、「リップヴァンウィンクルの花嫁」と似たようなキャラクターを演じているな〜と思わせておいて、一転、心の闇を爆発させる女性像を痛々しく体現する。 岡田准一は、もはや貫禄を帯びてきた俳優力で、途中登場ながら主人公としての存在感を放っていた。 松たか子、小松菜奈による中島映画歴代ダークヒロインコンビは、あまりにも魅力的な霊能者姉妹を演じ、彼女たちが再登場する続編を観たい!と思わせた。 青木崇高、柴田理恵をはじめとする脇役、端役の面々も、それぞれがキャラクターの存在感を放ち、映画世界をより重層的に彩っていたと思う。  と、総じて満足度の高い期待通りの映画であったことは間違いはない。 ただし、前述の過去2作と比べると、何か一抹の物足りなさが残っていることも否めない。 思うに、この監督と、このキャスト、そしてこのストーリーであれば、もっともっと弾け飛ばせれたのではないかと思える。 ラストの「対決」に至るまでの盛り上がり方は最高だったが、肝心の対決そのものの描写、そして映画の締め方が、この作り手にしては大人しく萎んでしまったように見えた。  いかにもなジャパニーズホラー的な起点から、自らそれを嘲笑うかのような終着へ導いているのだから、もっと爆発的で破壊的な顛末を見せて欲しかったと思うのだ。 この一抹のフラストレーションを、あの夥しい血流の中できっと生き抜いているであろう霊能者(姉)が祓ってくれることを望む。
[映画館(邦画)] 8点(2018-12-28 20:51:22)(良:1票)
140.  ボヘミアン・ラプソディ
嗚呼、なるほど。この作品は、もう「映画」という領域の範疇を超えているのだと思った。 世代も、無知も、趣向も、もはや関係ない。 この映画と、描き出された人たちのことを何も知らなくても、スクリーンを通じて目の当たりにしたものに、只々、涙が止まらなくなる。 これは、そういう映画だ。  1981年生まれの自分は、クイーンのことを殆どよく知らないと言っていい。 もちろん、バンド名や、フレディ・マーキュリーという固有名詞は、どこかしらで幾度も耳にしたことはあるし、幾つかの代表曲についても耳馴染みはある。 ただし、どの楽曲もフルコーラスで聴いたことは無かったし、クイーンというバンドと、フレディ・マーキュリーという人物が、「時代」にとってどれほど重要で、どんなに愛されていたかということを、認識していなかった。  今作のインフォメーションを見聞きしても、昨今立て続けに製作されているバンドの固定ファン向けの半ドキュメンタリー的な映画なのだろうと、まったく興味を惹かれなかった。 たが、国内公開からしばらく経ち、各種報道番組で特集が連発される“過熱”ぶりを見るにつけ、一映画ファンとして流石に無視できない心境になり鑑賞に至った。  そして冒頭の所感にたどり着く。想定を大いに超えて、圧巻の映画体験であったことは間違いない。 無論、大前提として、クイーンという唯一無二のバンドが実際に存在し、彼らの音楽がそのまま使用されていることが、この映画の価値の9割以上を占めていることは明らかだ。 だが、その稀有な存在性の何たるかを、映画世界の中で“再現”しきったことが、やはりあまりに奇跡的なことだったのではないかと思える。  “再現”という言葉を使ったが、それはこの映画で描き出されたことの総てが“リアル”だというわけではない。 随所において、事実とは異なる経緯だったり、人物たちの言動を創作し、巧みに散りばめている。 だがしかし、その事実に対する改変が、イコール「虚偽」ということにはならない。 それは、クイーンというバンドの存在性、そしてフレディ・マーキュリーという人間を描く映画を生み出す上で、必要不可欠な“脚色”であり、だからこそ、今作は映画としてもきっぱりと優れているのだと感じる。  時代を越えて、国境を越えて、価値観を越えて、偉大な音楽がより一層多くの人に愛されていく。 映画に限らず、音楽に限らず、「表現」を愛する者にとって、それは何よりも幸福なことで、その多幸感にまた涙が溢れ出る。
[映画館(字幕)] 9点(2018-12-22 23:18:45)
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