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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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1.  ウインズ
誰が何と言おうと、キャロル・バラード監督は、アメリカ映画最大の映像詩人であると信じる者にとって、この映画の評価の低さには怒りを禁じ得ません(ぷんぷん)。ストーリーうんぬんより、ワンシーンごとの、いやワンカットごとに映像から吹き抜ける風の爽やかな官能性に陶然とならないで、何のために今まで映画を見てきたのですか、皆さんっ!(…失礼、言葉が過ぎました)。とにかく、ヨットレースのシーン以上に、砂漠でのシークエンスにこそバラードの天才的な映像感覚がいかんなく発揮されています。そして、あの信じ難いほど美しく幸福なラストシーン…。物語の妙味や興奮を味わいたいなら、本でもゲームでも何だって代わりはある。けれど、そういった次元を超えた「貴きものの顕現(エピファニー)」とすら言いたいほどの瞬間に出会える体験を、この『ウインズ』はもたらしてくれる。星の数ほどもある映画だけど、そういった超越的な体験を与えてくれる映画なんて、一体どれだけあるでしょう?   《追記》帆に風を受け、波を蹴立てて海上を疾走するヨットのダイナミズム。音もなく空中を滑空するグライダーの、ゆるやかな浮遊感。砂漠の乾いた大地を、カタカタと駆けるオンボロトラック・・・。「海」「空」「陸」それぞれの“表面”を滑るように移動する、その〈運動感覚〉にこの映画は満たされている。その感覚にぼくたちの眼差しが一体化する時、ぼくたちは映画を「見る」というよりひとつの“体験”として「生きる」ことになる。この、映画との感覚の共有化というか「一体化」は、実にエロチックで官能的だ。しかしそのエロチシズムの、なんという爽やかさだろう! そしてラスト、光の粒子のひと粒ひと粒までもが見える(!)一連のモンタージュは、そんな〈運動感覚〉がもたらす官能的な体験の後の、けだるくも心地よい“余韻”そのものと言っていい。そう、「最高のセックス」を知りたければ、この映画の前に自身の感覚をさらけ出す、それだけで十分だ。もっとも、視線をあくまで「物語られていること」の読解(リーディング)やら解釈にのみ従属させる向きには、不幸というか“不毛=不能”というか、そういうインポテンツな出会いしかもたらさないかもしれないけれど・・・。  少なくともぼくにとって、これは、そういう「最高」で「おそろしい」映画なのです。  《追記の追記》・・・もうおれも若くないんだ、日本盤DVD、いやBlu-rayを早いとこ出しやがれこのヤロー!!(魂の叫び)
[映画館(字幕)] 10点(2022-04-01 17:53:32)
2.  NYPD15分署
この映画の監督さんの映画は、いっつも「何でこんな脚本を…」と思うようなものばかりです(まあ、『摩天楼を夢みて』なんて例外もありますが)。しかし、どんなシーンであろうとこれ以上ないという素晴らしくカッチョイイ構図で役者たちを際立たせるので、やはり小生は非常に買っとります。こういう、本当に映画らしい映画を撮る監督の作品がCGまみれの奇を衒ったイマドキの映像に慣らされた眼にゃ、タイクツに映るんでしょうな。ふん! 彼の最高傑作とは言わないけれど、この映画も十分に反時代的(!)なファンを泣かしてくれることはまちがいありません。  《追記》・・・若き日のマーク・ウォルバーグもいいんだが、なによりチョウ・ユンファの格好良さたるや! 監督のジェームズ・フォーリーもまだまだ “ヤル気” をみせてくれて最高の1本!
[映画館(字幕)] 9点(2022-04-01 17:51:05)
3.  ライオンハート
シェルドン・レティックという本作の監督は、『ランボー3・怒りのアフガン』の脚本とかも書いてる人。この前、やはりヴァン・ダムの『ファイナル・レジェンド』で久々に監督作を撮ってたけど、相変わらず”B”な映画ならではの息の抜けかげんがいい感じだったな。そんなヴァン・ダムの盟友による代表作が、これ。まるで日本の長谷川伸(古いか?)の『沓掛け時次郎』みたいな人情ドラマとストリ-トファイト系のアクションが実に気分よく調和していると思います。巨額の予算をかけた派手なゴミ映画にうんざりした時に、いつもまた見たくなる…そんな、映画ファンにとっての”癒し系(?)”作品と申しておきましょう。  《追記》ひさしぶりに訪れてみたらあいかわらず低評価なので、点数を8 → 10へと変更。初期ヴァン・ダム作のみならず、これはこのアクションスターにおける傑作のひとつだと確信している次第ゆえ。なにより若い頃のヴァン・ダムの「美しさ」を存分に堪能できるのが、何よりイイのダ!
[DVD(字幕)] 10点(2022-04-01 17:45:09)
4.  ワンダーウーマン 《ネタバレ》 
・・・映画館でカンゲキ(観劇? 感激!)して、DVDでもすでに3回は見ています。いやもう、みなさんおっしゃるように主演のガル・ガドット様そのものが「ワンダー」すぎて、それだけでもう10点満点。じゅうぶんオトナとしての色香を放ちながら、どこまでも純粋無垢なキュートさをあわせ持ち、しかも一途な熱すぎるほどの正義感[ヒロイズム]に燃えている。まさに“ナイフのようにナイーヴ”な圧倒的魅力と存在感で、わがハートを貫いてくれましたとも(笑)  そして彼女が、はじめて人間世界で「ワンダーウーマン」として覚醒するあの戦場場面。塹壕をひとり飛び出して、はじめはゆっくりと、そして猛然と疾走する彼女の姿はまさに神々しいばかりの“崇高さ”で、映画館で思わずナミダしながらひれ伏したくなったもんでした。何よりこのワンダーウーマンは、ここ最近のバットマンやスーパーマンたちが「自分は何者か」という“自己との葛藤”で苦悩するのとはちがって、たとえ自らの理想主義が一度は打ち砕かれようとそれでも他者(=人間たち)への「愛」ゆえにふたたび立ち上がる。ウジウジと悩める男どもより、よっぽど「ヒーロー」として屹立し輝いているじゃないか。  もちろん、そんなガル・ガドット=ワンダーウーマンをあくまで「ダイアナ」というひとりの女性として愛しぬくクリス・パイン=スティーヴの“漢(おとこ)”っぷりも素晴らしい。そりゃあワンダーウーマンも惚れるよな。第1次世界大戦下のヨーロッパ戦線という時代色もドラマに風格をもたらしているし、「DCユニバース」とかいう一連のスーパーヒーロー物語世界[サーガ]にあっても突出して見事な、そして大好きな作品であります!
[DVD(字幕)] 10点(2021-06-04 11:07:34)
5.  ワンダーウーマン 1984 《ネタバレ》 
・・・前作のラストで、ワンダーウーマン=ダイアナはこう“独白[モノローグ]”する。「かつて私は世界を救おうとした。そしてどんな人間にも光と影が同居していると知った。人々の善と悪の戦いは続いている。でも愛があれば、その戦いに勝てる。だから私は戦い続ける」と。だが今回の彼女は、「善と悪」以上にいっそうフクザツで始末に悪い人間の「欲望」との戦いに直面する。だからこそその時代設定が「1984年」でなければならなかった。なぜなら、まさにあの時代こそ高度資本主義社会がピークを迎えようとするものだったからだ。  そして登場する、ふたりの「悪役[ヴィラン]」。だがこの映画は、そのどちらも「欲望」に負けた“犠牲者”として描きだす。ずっと負け犬の人生をおくり、ひとり息子だけが生きがいのマックス。そして“チーター”ことバーバラも、ホームレスの老人に親しく声をかける不器用だがやさしい人間だった。偽りの“力[パワー]”を得て自分を見失ったそんな彼らに、ふたたび「真実」へと目を向けさせること。だがその前にダイアナ自身が、最愛のスティーヴとふたたび出会えた幸福を“断念”することこそ「真実」だと受け入れなければならない。  その葛藤の果ての決断(……そして、それをダイアナに促したスティーブの“男気”!)をへて、彼女はついに真の「勇者[ヒーロー]」として走り出し、ついには“空を飛ぶ”のである。前作の戦場を疾走する場面に続いて、ここでもこのダイアナの「疾走」こそ本作のハイライトであり、最も感動的なシーンに違いない。いやぁ、泣いたな。ぼろ泣きです(笑)  感動的といえば、ダイアナとスティーヴがジェット戦闘機で空を飛ぶ場面。ふたりはマックスを追跡するために機を“拝借”したんだが、ちょうど独立記念日の花火があがるなかを飛ぶそのシーンは、本当に美しく、ロマンチックなのだった。まるで、リチャード・ドナー版の『スーパーマン』でスーパーマンとロイス・レインが夜空をデートする、あの最高にロマンチックなシーンのように。だからこそ本作のクライマックスで、アッと驚く「時間の逆行」ですべてメデタシメデタシという展開にも決して驚きはしないだろう。だって、それもまたドナー監督の『スーパーマン』でぼく(たち)は“経験済み”だからだ。  同じくリチャード・ドナーの『スーパーマン』こそを愛する者のひとりとして、パティ・ジェンキンス監督に今回も乾杯と両手いっぱいの花束を進呈しよう。
[映画館(字幕)] 10点(2021-06-04 11:04:48)(良:2票)
6.  アメリカン・スナイパー 《ネタバレ》 
この映画の謳い文句によると、主人公クリス・カイルは「アメリカ軍史上最多160人以上を射殺した伝説のスナイパー」とある。が、「狙撃兵(スナイパー)」ではないものの、ひとりの兵士として敵兵を最も多く射殺した者といえば間違いなくオーディ・マーフィーだろう。そしてかつてドン・シーゲル監督は、この第二次世界大戦の英雄で後に西部劇スターとなったマーフィーを、『ダーティハリー』の連続殺人鬼である「狙撃犯(スナイパー)」“サソリ”役に起用しようとしたらしい。「なぜなら、彼は本物の大量殺人者だから」と。  この『アメリカン・スナイパー』におけるクリス・カイルは、中東で紛争が起こるたびに志願して戦場へと出かける。それは義務や使命感という以上に、“仲間を助けるために敵を殺す”という、単純にして彼にとっては絶対的な「倫理観」ゆえだ。しかし、ミサイル砲を手にした少年に照準越しに「それを捨てろクソッタレ!」と毒づく時、彼は自分が少年を「殺したがっている」ことに気づいたのだ。「殺すこと」そのものが、自分のなかで目的化(!)したことに気づき、だから愕然としたのだ。だからその後、家族のもとに帰還したクリスがどこか“不穏”なあやうさを漂わせ、これが実話であることを忘れてぼくたち観客は、彼による決定的な「カタストロフィ(悲劇)」の予感(予兆?)におののきながら固唾をのんで見守ることになるのである。  もちろん、実際は帰還後のクリスが「殺人鬼」になることはない。むしろ彼は、同じ帰還兵の手によって不慮の死をとげる。だが、この映画を見てきた僕たちは、彼を殺すその帰還兵とはもはやクリス自身のアルターエゴ(別人格)というか“もうひとりの自分”に他ならないことを確信する。そしてその時、これがドン・シーゲル監督が『ダーティハリー』でひそかにもくろんでいた〈主題〉を、そこで主演俳優だったイーストウッドが今度は監督として継承し完成させたものであることを、ある感動とともに深く納得するのである。ーー狙撃犯の“サソリ”と、狙撃兵のクリス。つまり彼らは、ともに「アメリカン・スナイパー」に他ならなかった・・・。  こうしてぼくたちは、底知れない“闇(=病み)”を抱えたイーストウッド的主人公像を前に、またも震撼させられることになるのだ。
[映画館(字幕)] 10点(2016-03-31 15:18:57)(良:2票)
7.  マネーボール 《ネタバレ》 
この映画の脚本は、アーロン・ソーキンとスティーブン・ザイリアンという2人のアカデミー賞受賞者が担当している。  ・・・弱小球団アスレチックスを、「マネーボール理論」によって奇跡の“再生”を実現した若きゼネラル・マネージャー、ビリー・ビーン。その半生を描くという展開だけを見るなら、これは米国版プロジェクトXというか、典型的なサクセス・ストーリー以外の何物でもない。  だが、ソーキン脚本の『ソーシャル・ネットワーク』がそうだったように、これは、実在の人物に材を得た単なる成功譚というより、はるかに同時代的かつ思索的な「内省」へと見る者を導く、すぐれて知的な映画だといえるに違いない。と同時に、ザイリアン脚本の『シンドラーのリスト』がそうだったように、これはひとつの「歴史」を変えた人物が、“何を成し遂げたか”という伝記的な側面より、その「内面」の変化(それを、「成長」とも「成熟」とも「覚醒」とも呼んでいい)を見つめた映画でもある。  そう、『ソーシャル・ネットワーク』は、主人公が“何かを成し遂げた(=成功した)ことで失ったもの”の大きさを、まさにひとつの「悲劇」として描いたものだった。一方、この『マネーボール』のビリーは、将来を嘱望されながらメジャーの選手として大成しなかった。そんな男が、今度は弱小球団のGMとして革新的な理論で優勝をねらえるチームづくりを実現してみせる。まさに、“失ったことで、何かを成し遂げた(=成功した)”人物なのである。そして、他球団から多額の年俸で引き抜きの声がかかっても、ビリーはアスレチックスにとどまる。彼は「金額」に置き換えられるような成功よりも、もっと「かけがえのないもの」があることを学んだのだ。あのオスカー・シンドラーのように。あるいは、驚嘆すべきザイリアンの初監督作、『ボビー・フィッシャーを探して』の天才チェス少年のように。  こうして『マネーボール』は、ソーキンとザイリアンという名脚本家たちの、理想的な合作ぶりを堪能できる作品となった。もちろん、それを見事に映像化してみせたべネット・ミラー監督の手腕も、高く評価されるべきだろう。メジャーリーグという喧騒と熱気に満ちた世界を描きながら、あくまでも静謐でクールな映像のなかから登場人物たちの“体温”が確かに伝わってくるような演出ぶり。まこと、これは近年最高のアメリカ映画の1本だ。
[映画館(字幕)] 10点(2014-10-29 14:25:45)(良:2票)
8.  ホワイトハウス・ダウン 《ネタバレ》 
・・・何だかさんざん比較されているようだけれど、たとえば、この『ホワイトハウス・ダウン』にあって『ダイ・ハード』にないもの、それは〈愛〉だといったら、“エメリッヒ嘲笑派”の面々に、それこそ嘲笑どころか失笑・爆笑されるだろうか。  しかし、本作の主人公ケイルを対テロリストとの闘争に駆り立てるもの、それが「娘への愛情」以外にないことを映画は繰り返し語る。そもそも、映画の冒頭でジョンが大統領護衛のシークレット・サービスとなるべく面接を受けたのも、11歳の娘エイミーの愛情と尊敬を取り戻すためだった。離婚した妻に引き取られた彼女は、大統領ソイヤーを崇拝していたからだ。  もちろん『ダイ・ハード』でも、主人公のマクレーン警部がテロ一味と戦ったのは、妻が人質のひとりとなったからだ。けれど、あそこでの彼の行動原理は、「警官」としての職務をあくまで遂行することにあったのではなかっただろうか? 事実、マクレーンが活躍すればするほど、妻を含む人質たちは身の危険が増すのだから。だがそれでも、敵相手に西部劇のヒーローを気取るマクレーンは、“ツイてねぇ”とボヤきながらテロリスト掃討に邁進し続けるのだ。  「昔は、パパ! と抱きついてくれたのに、今では相手もしてくれない」と、大統領相手に嘆く主人公ケイル。「そんな娘にまたハグしてもらえるなら、どんなことだってする」と。そして映画は、彼女がそういった父親の愛情を受けるにふさわしい、もはやケイルや大統領以上に魅力的な“真の主人公”として描き出すのである。実際、ジョーイ・キングが演じるエイミーの健気さとその“小さな「大ヒロイン」”ぶりには、いくらエメリッヒや本作の否定派でも認めざるを得ないのではあるまいか。もし、真のクライマックスともいうべき彼女によるあの感動的な「旗振り」を、いかにもベタな“伏線”の回収としか考えられないならば、そんなシニシズムこそ「映画の敵」に他ならない!  少なくとも監督のエメリッヒは、この父親の必死さと、それに値するどこまでも健気な娘というドラマツルギーを、ここできっちりとおさえている。だからこそ、ケイルがどれだけ“不死身[ダイ・ハード]”の活躍を繰り広げようと、ぼくは最後まで手に汗握り、ナミダとともに見守ることになるのだ。・・・エメリッヒ、俺は感動したよ。心からこの映画を愛するよ!
[映画館(字幕)] 10点(2014-10-28 15:02:33)(良:1票)
9.  カウボーイ&エイリアン 《ネタバレ》 
アメリカでも日本でも評判は芳しからず、興行成績も今ひとつだったらしいけれど、そこまでヒドイ映画じゃないだろう・・・と、映画館で見て以来、久々に再確認。  正体不明の流れ者(ダニエル・クレイグ)が西部の小さな町に現れ、そこでハリソン・フォード演じる強権的な牧場主(『赤い河』のジョン・ウエイン!)や愛妻家の酒場の経営者兼バーテンダー(『リオ・ブラボー』!)、主人公の怪我を治療する酒飲みの牧師(『駅馬車』のトーマス・ミッチェル!)などがからみ、少年と犬も重要な役回りで登場する(とは、もちろん『シェーン』!)。  やがて彼らは、共通の敵に誘拐された愛する者たちを奪還する旅に出るのだが(『捜索者』!)、かつてなら「インディアン」と相場が決まっていた“共通の敵”が、ここでは凶悪な「異星人」だった、という次第。  他にも、記憶を失っていた主人公が、実は悪党集団のリーダーだったことがわかるあたりは『ワイルド・バンチ』(むしろ『明日に向かって撃て』か?)だし、非情な権力者に思えた牧場主が、雇っていたインディアン青年や身寄りのない男の子にみせる情愛など「古き良き西部劇」そのものの味わいだ。しかも町の保安官を演じるのは、『駅馬車』に出演したジョン・キャラダインの息子である、あのキース・キャラダインだ。  そう、この『カウボーイ&エイリアン』がめざそうとしているのは、徹底して「西部劇」そのものなのである。イーストウッドの『許されざる者』などとは違ったかたちで、かつて最もアメリカ映画らしいジャンルだった西部劇を、「娯楽大作」としてあらためて蘇らせること。その時、CGなど最新の映像技術を駆使した「SF映画」としての体裁は、西部劇の魅力を知らない現代の観客に対する、一種の“ギミック”としてあったのである(・・・あれほど高度な科学技術を持ったエイリアンたちが、どうして単純かつ凶暴で、しかも武器ではなく“素手(!)”で人間たちと戦うのか? だが、所詮アイツらはここで「黄金」に目のない『ワイルド・バンチ』のマパッチ将軍一味と、同じレベルの“悪党”でしかないのだ)。  そういった作り手たちの想いというか“心意気”を、ぼくは深い共感とともに受けとめる。ただひとつ残念だとすれば、せっかく脚本にスティーヴ・オーデカークが関わっていながら、この映画には意外にもほとんどまったく「ユーモア」がないことだろう。
[DVD(字幕)] 7点(2014-10-22 12:20:38)(良:1票)
10.  ペコロスの母に会いに行く 《ネタバレ》 
原作コミックは未読だが、まさかこれほど「ハゲ頭」の男たちの挽歌(?)な映画だとは予想もしていなかった・・・。まあ、岩松了演じる主人公がハゲなのはポスター等からも窺えたが、温水洋一や竹中直人(は、登場してしばらくはいかにも不自然なフサフサ頭だが・笑)、加瀬亮までもが変装した加藤茶みたいな“ヅラ頭”を披露してくれるのだ。さらに介護センターの職員や、主人公のライブ演奏場面でチラリと映し出される客にいたるまで、やたらツルツル頭が目につくんである。  そうなってくると、“認知症と老人介護をめぐるヒューマン・コメディ”という宣伝文句(には、偽りはないんだが)以上に、ずばりこれは「(ハゲ男たちの)喜劇」なのだ、と納得させられた次第。そりゃあ、そうだ。だって監督は、あの森崎東なのだから。  森崎監督の喜劇は、しばしば「怒劇」として語られる。それは、社会の周縁で生きる人々の喜怒哀楽、そのなかでも“怒”を描いてきたからだ。貧困や偏見、差別などによって蔑まれた者たちが、それでもどっこい生きて(や)る! というバイタリティーこそが森崎映画の原点であり、「笑い」の源泉なのである。  しかし、この最新作においては“怒”ではなく、それ以外の“喜・哀・楽”こそが中心となっている、と言えるかもしれない。いや、むしろ“優(しさ)”の字こそがふさわしいだろう。・・・そう、ここにあるのは、すでに人生をじゅうぶんに生き抜いてきたひとりの女性、すなわち赤木春恵(と、原田貴和子)が演じた主人公の母親への、静かな賛嘆と慈しみの念ばかりだ。彼女は、昭和という時代を懸命に生き抜いてきた。そして、今はこうして現在ではなく「過去」の時間のなかで生きている・・・あの、眼鏡橋におけるひとつの「奇跡」的な瞬間。その記念写真の場面は、あまりにも美しい。それは、この映画が彼女に用意した最高の“贈り物”でなくしてなんだろう。  その時、ぼくという観客は滂沱のナミダにくれながら、森崎東監督の映画における“怒り”とは常に“優しさ”の裏返しだったことにあらためて思い至るのだ。社会的な弱者として語られ、かたづけられる者たちの側に「連帯」することで、そういう風に語り、かたづける者たち(=社会)への怒りを画面にたたきつけてきた森崎「喜劇」。その“優しさ”こそが、この作品に充ち満ちている・・・もはや、泣くしかないではないか。
[映画館(邦画)] 10点(2014-07-26 13:02:13)(良:2票)
11.  42~世界を変えた男~
とにかく、全編にわたって「ニグロ、ニガー」が連呼されるのだ。それも、あきらかに差別的・侮蔑的に発せられるばかりでなく、たとえばハリソン・フォード扮する主人公の“恩人”であるオーナーですら、当然のように「ニグロ」と口にする。もちろんそれは、この映画が描く時代なら“政治的に正しくない言葉”でも何でもない、日常的に使われる語だった、ということなんだろう。が、21世紀の今、ここまであからさまに黒人差別用語を連呼する映画が製作されたこと。そこにこそ、本作の最も大きなポイントがあると思う。  この映画を見た英語圏の黒人観客は、その洪水のような差別用語の連呼を、もはや精神的苦痛という以上に肉体的な不快感とともに受け止めたかもしれない。なぜならそれは、否応なしに自分たちの被差別的な歴史を思い起こさせる言葉だからだ。と同時にそれは、白人の観客にも極めて居心地の悪さをもたらすものだった。なぜならそこには、彼らが“なかったこと”にしたいと思っている自分たちの差別意識が、むき出しになっているからだ。  大リーグ初の黒人選手をめぐる白人社会の反発と融和を描くといった実に「ヒューマン」な感動作にみえて(というか、その通りなんだが)、一方でこの映画が浮き彫りにするのは、誰もが「ニグロ、ニガー」といった言葉を当然のように口にしていた時代と、それを“封印=隠蔽”することでよしとする現代との、その連続性ではないか。主人公に悪辣な差別的ヤジを飛ばしつづけるあの相手チームの監督は、当時であっても非常識な「悪役」だったろう。が、それは程度の差に過ぎない。そして主人公のロビンソンが真に直面したのは、「ニグロ」という語そのものであり、その黒人へのあからさまな差別意識というか“嫌悪=憎悪”だった。  ただ、なるほど彼はそれに耐え、選手として活躍することで白人たちの意識を変えていった。が、一方でそれは、白人オーナーの忠告通り彼が「ニグロ」という語に忍従し服従した、一種の“奴隷根性(!)”ゆえともとれるのだ・・・。   あまりにうがちすぎだろうか? けれどこれは、常に歴史(=物語)の“もうひとつの真相(=深層)”にこそ言及してきた真のポストモダニスト、B・ヘルゲランド監督・脚本作品なのである。・・・問題なのは、それゆえに本作が良くも悪くもただの「感動作」たり得ないものになってしまったという、その一点にちがいない。
[映画館(字幕)] 7点(2014-04-22 11:36:06)
12.  ラッシュ/プライドと友情
デジタル化が進んだなかで、映画は何でもありというか、映像で表象=再現できないものはない(と、自負する)次元にいたった。が、昨今のアメリカ映画を見ていて思うのは、もはや過去の映画や映画人たちが遺してきたもの(それは「技法」であり「法則」であり何より「精神」というべきものだ)が、どうやらすっかり顧みられないというか、失われてしまったということだ。なるほど、往年の名作や巨匠たちの一場面やタッチを想起させ、あからさまに「引用」する場面にでくわすことは、最近の映画にあっても珍しいことじゃない。けれどそこにあるのは、その名画や巨匠たちの映画的な「記憶(それを、「愛」と呼んでもいい)」ではなく、単なる映像的な「コンテンツ(!)」として“再利用”するものでしかないだろう・・・   そのなかで、たぶんロン・ハワードは、今なお「記憶」によって映画を撮り続ける数少ない存在だ。この『ラッシュ プライドと友情』にしても、2人の伝説的なF1ドライバーのライバル関係を描きながら、まるでアニメ『トムとジェリー』の猫と鼠よろしく“仲良くケンカ”しあう両者に、思わずぼくは『港々に女あり』のヴィクター・マクラグレンとロバート・アームストロングを連想してしまう。さらに、“ああ、ダニエル・ブリュールは『ハタリ!』におけるハーディ・クリューガーのようじゃないか!”などと思ったりしてしまうのである。というか、そもそもこの映画自体が、『群衆の歓呼』や『レッドライン7000』といったカーレース映画の精神的な「リメイク」ではないのか? ・・・等々、そこにハワード・ホークス監督の諸作品をダブらせずにはいられなかったのだ。  もちろん、そういった見方があまりにシネフィル的なものであり、何も語ったことにならないことは承知している。ただ、ホークス作品の男たちが「意地」と「心意気」のためだけに生き、時には死んでいくという“単純さ”ゆえに輝いていたなら、このロン・ハワードの映画もまたその“単純さ”こそを継承しようとしている。そしてそれが、どれだけデジタル技術が発達しようが表象=再現しようもなかった「(アメリカ映画の)精神」を、2人の主人公の生きざまを通してぼくたちに見せ(=魅せ)得たのだ。  とどのつまりは、「ロン・ハワード(・ホークス)万歳!」。以上。
[映画館(字幕)] 10点(2014-04-05 15:58:05)
13.  ゼロ・グラビティ 《ネタバレ》 
冒頭近くであっという間に出演者が2人となり、その後はほとんどがヒロインを演じるサンドラ・ブロックのひとり芝居。しかも、大半は宇宙船内という限定された舞台設定は、まあ巨額の予算をSFXに投じただろう映画にしては何とも“こぢんまり”とした印象を与える。しかも、上映時間が90分ちょっとというのが、ますます「B級映画」風じゃないか。  もちろんそれは良い意味で言っているわけで、近頃のアメリカ映画「大作」におけるやたら詰め込みすぎたサービス過剰感や、それゆえの長すぎる上映時間を思う時、本作の魅力はその「B級」ぶりにこそあるのだ、とすら断定したいくらいだ。そして何といっても、映画をほとんどひとりでしょって立つサンドラ・ブロックの素晴らしさ! 途中で下着姿になるんだけど、なんだか容貌も肉体もより若々しくなっているんじゃないか、と思わせる“いいおんな”っぷりに目がくぎ付けとなった(もちろん、ヘンな意味じゃなく・笑)。  もっとも、監督のアルフォンソ・キュアロンは自分が「B級映画」を撮っているという意識など毛頭なかったろう。劇中でもオマージュを捧げていたように、『2001年宇宙の旅』や『アポロ13』などの超「A級」な作品こそがキュアロンの念頭にあったことは、画面のはしばしから見受けられる(その「野心」の最たる発露こそ、冒頭の10何分に及ぶ“長回し”場面にちがいない)。そして、『バーバレラ』からせっかく“宇宙ストリップ(!)”を引用=再現したのに、これがちっともエロくないのもまた、たぶん生真面目すぎるほど真面目なこの監督らしいというべきか・・・   ということで、良くも悪くも“マジメなくせに野心的”な本作は、それこそB級映画的にハジケる契機[チャンス]をかえりみることなく、この「女性宇宙飛行士の帰還」という単純な物語を、「胎内(=宇宙船)→出産(=大気圏突入)→羊水(=湖)から這い出て二本足で立つ(=人間の誕生)」というスタンリー・キューブリック風(?)の壮大な(と同時に、いささか図式的すぎる)「象徴劇」としてみせた(その結果の「アカデミー賞」というワケだ・・・)。ともかくオメデトウ、アカデミー賞授賞式に同席していたべっぴんな奥様もきっとホレ直したことだろうね、キュアロン監督! (と、やっかみを込めて・・・笑)
[映画館(吹替)] 6点(2014-04-02 18:29:59)
14.  三姉妹~雲南の子 《ネタバレ》 
下の妹たちが父親と町に出て行って、ひとり村に残る10歳の長女。彼女は家(というより、ほとんど“小屋”といった粗末さだ・・・)で茹でたジャガイモだけの食事を摂る。暗い屋内でそこだけ光がさす場所に座り込み、黙々と食べ続ける少女。ある意味とても孤独で痛ましい場面ではある。が、それ以上に、斜め上からの光を受けながらジャガイモを食べる彼女の姿は、あまりにも美しい。一種“崇高な”と形容したくなる鮮烈さと美に満ちているのだった。  この映画は、そういった思いがけないほど美しい場面や、目をみはるようなエモーショナルな場面のなかで、わずか10歳の少女を浮き彫りにしていく。その連続のなかで、悲惨なはずの(いや、常に咳き込んでいる彼女が置かれている状況は、「悲惨」そのものなのだけれど)長女の姿は、いつしかどんなにドラマチックな映画のヒロインよりも忘れがたい「ヒロイン」性を獲得していくのである。  中国の高山地帯にある貧しい村で、幼い三姉妹だけで暮らす彼女たち。風呂にも入らず、いつも同じ服を着たままのその暮らしは、村で飼われている豚や羊たちといった“家畜”とほとんど変わらない(この映画には、いたるところで動物たちの鳴き声が響きわたっている)。だが、妹たちや家畜の世話をしながら野良仕事もこなす、昨日と同じような今日を生きる長女の姿は、監督ワン・ビンの凝視するカメラの前で、いつしか「崇高」そのものの輝きを放ち出すのである。  なぜなら、この映画が彼女に見出そうとしたものこそ、人間の、というより“生きる”ことそのものの「神聖さ」にあるのだろうから。・・・いつも表情の少ない彼女が、村の男友だちと話すときに初めて少しうれしそうな顔をする。あるいは、ひとりぼっちで道ばたにしゃがみこみもの思う彼女を真正面からカメラがとらえようとすると、何気ないそぶりでその場を去っていく。そういったひとつひとつの映像が、ぼくたちの心を深く、深くうつ。同情なんてとんでもない! そのとき、彼女はほとんどロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』や、『バルタザールどこへ行く』のロバ(!)に匹敵する生=聖なる「顕現」ぶりによって、ぼくたちをただただ圧倒するのである。
[映画館(字幕)] 10点(2013-11-20 11:08:08)(良:1票)
15.  ザ・マスター 《ネタバレ》 
フィリップ・シーモア・ホフマン扮する新興宗教の教祖ランカスターは、ホアキン・フェニックス演じる主人公フレディを“息子”として自分のものにしたかった。フレディもまたランカスターに“父親”を見出した。…そう、『ブギーナイツ』や『マグノリア』、前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』などがそうだったように、ポール・トーマス・アンダーソン監督の作品はここでも「父と息子」、「(疑似)家族」をめぐる愛憎劇を繰り広げる。  だが、ある一点において本作は、これまでのPTA作品と根底的に異なる“貌”をみせるだろう。そう、この映画におけるフレディは、もはや誰の“息子”にもなれない男だった。ーーアル中で女に目がない、一見すると単なる負け犬の流れ者。しかし一方で彼は、どこまでも自由で束縛(=家庭)から逃走し続ける、常に「移動する者」でもあるのだ。  常にその肉体と魂を彷徨のなかに起き続ける、フレディ。何という空虚さと孤独。だが彼は、それでも生きていける。これまでも、これからも空虚で孤独でありながら「独り」で生きていける男なのだ。その意味で、すでに彼は師であり“父親”であるランカスターすらをも“超えた”存在なのである。  ランカスターはフレディに、「もし“師”なしで生きられる方法が見つかったら、ぜひまた会いに来て教えてほしい」という。そして「来世で出会ったなら、お前は私の最大の敵となるだろう」とも。ランカスターもまた、フレディが自分“息子”どころか自分すら超越した存在だということを覚っていた。それでも、というかそれだからこそ実はフレディを手放したくなかったホフマンが口ずさむ「中国行きのスロウボート」と、それに対するフェニックスのゆがんだ笑顔。その対比の、何という美しさだ・・・   フレディ、このこのアル中で情緒不安定で暴力的だが、どこか愛さずにはいられない“1950年代のハックルベリィ・フィン”。この真の意味で「自由」な人物像を造型し得ただけでも、この作品と主演のホアキン・フェニックスは映画史上のものだ。彷徨する魂と肉体にこそ己の存在理由を見出す「アメリカ(人)」の心象風景をここまで鮮やかに映像化した作品など、ほとんど空前絶後ではあるまいか。ともあれこれは、21世紀に入ってから今に至る最高の「アメリカ映画」だと、ぼくは確信している。
[映画館(字幕)] 10点(2013-03-29 01:45:33)(良:1票)
16.  アフロ田中
いや~、笑った笑った。フィルムとDVDでもう10回以上は見たけれど、そのたびにナミダを流しながら笑わせていただいた。そしてそのナミダには、笑いすぎてと同時に“感動の涙(!)”すら交じっているのだった。劇中の田中ではないが、ソレッテ、凄イコトナンダヨォ~と、声を大にして申し上げたい。この映画は単なる童貞男子のドタバタ悲喜劇でありながら、それ以上に【ザ・チャンバラ】さんがおっしゃる通り極めて「知的」な批評性と、何より男たちへの“友愛(!!)”に満ちあふれたものなのである・・・   この映画が描くのは、徹頭徹尾「男子」というものの“恥ずかしさ”であり“生きにくさ”であるだろう。高校中退のブルーカラーで生まれてこのかた女性にモテたことのない、すべてにおいて“負け組”な主人公・田中。だが、それゆえに彼の意識内は、無意味な虚栄心と自己卑下、焦燥とあきらめ、期待と疑心暗鬼・・・その他もろもろの両義的な感情に常に引き裂かれている。本人にとっては切実なこのアンビバレントな感情の“ずれ”を、そのつど田中のモノローグ(というか、独りごと)で語らせる時、第三者にとってそれが実に滑稽であること。そのことに作り手たちは、ハッキリと自覚的だ。しかもその笑いは、世の男たちにとって大なり小なり自嘲をともなった苦さと“共感”とともにあるんである。そして、そうしてとった行動が、結局ことごとく裏目に出てしまう・・・そんな主人公を、同じ男子たるもの誰が愛さずにいられようか!   主人公の内面をコトバにして語らせる。一見それは、単なるコントめいた安易な手法と受け取られかねない。けれどこの映画は、その葛藤や“ずれ”を具体化することによって、そこに「笑い」を生み出すことに成功している。下手な「アクション映画」なんぞよりもっとスリリングな“(感情の)めまぐるしい動き”によって、見る者を笑い(と、共感)の渦へと巻き込んでいくのだ。そして、その脚本や演出意図をくみ取った主演・松田翔太の快(怪?)演や、彼のいかにもな友人たちを演じた共演者たちの素晴らしさ・・・   以上、特に前半に見せた過去と現在を自在につなぎ合わせる語り口の才気も含め、この映画は2012年の大きな収穫だとぼくはかたく信じるものであります!
[映画館(邦画)] 10点(2012-12-26 17:36:04)(良:2票)
17.  桐島、部活やめるってよ 《ネタバレ》 
神木隆之介クン扮する映画部の高校生と仲間たちは、ジョージ・A・ロメロ(!)のような「ゾンビ映画」を撮ろうとしている。そして撮影機材は、今どき珍しい「シングル8」の8ミリカメラ。その時、ぼくたちはただちにもう1本の「ハリウッド映画」を想起しないだろうか。そう、スピルバーグが製作したあの『スーパーエイト』でも、少年たちは「スーパー8」の8ミリカメラで、ロメロのような「ゾンビ映画」を撮ろうとしていたのだった。  それは、それぞれの作品にとって取るに足りない些細なことかもしれない。けれど、スクールカースト上位の生徒たちに端から無視され、せいぜい嘲笑の対象でしかない彼ら最下層のオタク映画部員にとって、「ゾンビ」とは自分たち自身の鏡像なのだ。そう、片田舎で鬱屈した日々をおくる『スーパーエイト』の、ブルーカラーな少年少女たちがまさにそうだったように(だから主人公の少年は、エイリアンと「理解」し合えたのだった)。  そしてロメロのゾンビ映画が、人間たちの「生存闘争劇」からついに人間とゾンビの「階級闘争劇」へと至ったように、映画『桐島』もまた学校屋上における「ゾンビたちの反乱(!)」でクライマックスを迎える。もちろんそれで、学校内の何が変わるというワケでもない。明日からも映画部員たちは、相変わらず無視され嘲笑されるだけだろう。しかし、中心人物のひとりである野球部のイケメンだけは、神木クンにカメラを向けられ、「俺はいいんだよ。俺はいいって」と涙ぐむ時、確実に知ったはずだ。自分(たち)の方こそが彼らに“負けた”ことを。  高校生たちのリアルな日常と心情を描いた群像劇のようで、ここにあるのは各階層[カースト]に位置する者たちの、その「位相」ばかりだ。ある階層とある階層との“あいだ”にある決定的なずれと断絶。それが、しだいに動揺し衝突することのなかに産まれるダイナミズムこそ、この映画を、悲劇でも喜劇でもない真に「劇的」なるものにしている。彼らがどんな「人間」かじゃなく、彼らの「立ち位置=場所」が“不在の主人公”を前に揺らぎ崩れていくさまと、逆に“揺るがない”ことの強さと輝きを放ち出すオタク映画少年たちの姿を鮮明にしていくのだ。その光景は、奇妙で、残酷で、滑稽で、けれど何と感動的なことか。  ・・・そう、あの野球部イケメンの涙にナミダしない奴らなど、ゾンビに喰われてしまえ!
[映画館(邦画)] 10点(2012-08-24 11:22:42)(良:5票)
18.  ダーク・シャドウ(2012) 《ネタバレ》 
大江健三郎は、死を目前にした人間には独特の破壊的な想像力がある、というようなことを書いていた。それを、こう言い換えてみようか。「イジメられっ子にも、やはり独特の破壊的な想像力がある」のだと。・・・ティム・バートンの映画を見るたび、ぼくはそう思わずにはいられない。  バートン作品の世界は、肉体的・精神的な「フリークス」の饗宴だ。彼らは常に社会の秩序やら道徳(モラル)やらを嘲笑し、破壊しようとする。そしてバートンは、そういった「フリークス」の狂騒的な大暴れこそを嬉々として想像=創造することにかけて、文字通り独創的だったのだ。彼は、明らかに彼ら怪物やら怪人たちへと自分を一体化しつつ、社会への徹底した敵意というか〈悪意〉を爆発させる。そう、バートンにとって、彼ら“異形の者たち”こそ社会から迫害され排斥され追いやられる「弱者」であり、“イジメられっ子”に他ならない。そしてバートンは、そんな彼らのそれこそ必死の反撃を、バーレスクな「“負”の祝祭空間」としてヴィジュアル化してみせる。しかも、それを見事に上質な「エンターテインメント」に仕立て上げるところに、彼の本領があるのだった。  それがいつしか(というか、『マーズ・アタック!』以降の)その作品からは、ウエルメイドな画作りだけが前面化して、何より〈悪意〉が蒸発されていく。それとともに、彼の「フリークス」もすっかり“毒気”を失ってしまったかのようだ。だが、この最新作でバートンは、いかにも「ソープオペラ(TVの昼メロ)」の原作らしい醜悪な欲望むき出しの群像劇を得て、彼らを徹底的に茶化すことで社会そのものへの〈悪意〉を取り戻したかのようなのだ。相手に詫び(笑)を入れながら血を吸いまくるJ・デップの吸血鬼や、自己中心的すぎる(そして、演じるエヴァ・グリーンが素晴らしすぎる!)魔女を含めて、観客は本作の誰ひとりにも共感や感情移入できまい。だが、この自己の欲望にひたすら忠実な面々こそ、バートンの〈悪意〉による社会の、私やアナタの「鏡像」に他ならないのだ。しかしその、何と不愉快すれすれの「面白さ」であることか!   なるほど、ここには「フリークス」ゆえの悲哀を湛えた、あのバートンらしいペーソスはないかもしれない。が、久々に“ふっきれた”バートン作品は、やっぱりタダ者じゃないことも確かなのだ。
[映画館(字幕)] 9点(2012-06-05 19:20:15)(良:1票)
19.  かいじゅうたちのいるところ 《ネタバレ》 
スパイク・ジョーンズ監督の映画には、見かけの軽薄さや皮肉な笑いのなかに、いつも不思議なメランコリーがたゆたっている。見ているうちに、何だかこっちまでやるせないっていうか、切ない気持ちになってくるんである。それはたぶん、映画のなかで描かれる主人公の男たちが、誰もかれもみんな本質的に〈孤独〉でひとりぼっちであるからだ。  『マルコヴィッチの穴』のジョン・キューザックにしても、『アダプテーション』のニコラス・ケイジにしても、彼らは、誰かと一緒にいても、いや、一緒にいるからこそ〈孤独感〉がますます深まっていく。だから、懸命に相手のことを理解しようとしたりされたがったり、愛そうとしたりされたがったりする。逆に言うなら、愛や友情や思いやりとは、人が〈孤独〉だからこそ産み出され、育まれてきたものなのかもしれない。その、どこかウディ・アレンの映画をもっとキテレツ(!)にしたような神経症的なドタバタ劇こそが、「スパイク・ジョーンズ映画」の変わらない主調音なのだった。  この映画の少年マックスと、そのオルターエゴというか“分身”そのものである「かいじゅう」キャロルたちもまた、〈孤独〉であるからこそ、これ以上傷つくまいとして乱暴をはたらいたり、暴言を吐いたりしてしまう。そうして、余計に傷ついてしまうのだ。このあたり、原作絵本が“かいじゅう化していく少年マックス”を描くのに対し、映画の方は逆にかいじゅうたちの方があまりにも“人間的でありすぎる”ともいえる。みかけはオソロシクも愛きょうたっぷりなくせに、キャロルやその仲間たちは、ぼくやアナタのなかにもあってたぶん他人にあまり触れられたくない部分ーーそう“弱さ”そのものをむき出しにして、見せつけてくるのだ(ゆえに、見ていてけっこうツライ気分になってくるのも確かでは、ある)。  ・・・結局、「かいじゅうたち」と一緒にいることで、自分の内なる〈孤独〉に向き合うことを学んだマックス。センダックの絵本ファンや、年少の子どもたちにはいろいろ“不満”もあるだろうけれど、不思議な陰影に彩られた独特の映像のなか、高度に内省的だけれど実にピュアな寓意劇として、この映画は、凡百のファンタジーとは一線を画するものだ。断固支持。
[CS・衛星(吹替)] 10点(2012-05-26 19:47:54)
20.  お家をさがそう 《ネタバレ》 
保険の仲介とイラストの仕事で、何とかしのいでいるらしい主人公のカップル。そんな彼らに、子供ができた。赤ん坊を産むための「理想的な生活の場所」を見つけるため、ふたりはアメリカ各地に暮らす知人や友人たちを訪ねる旅に出る・・・。  『アメリカン・ビューティー』以来、現代アメリカの家庭像とその崩壊するさまを、どこまでもシニカルに描いてきたサム・メンデス監督。人間の卑小さゆえの「悲劇」を突き放しつつ見つめ、むしろ“滑稽”なものとして浮き彫りにする。そこにあるのは、そういった「悲劇」すらも、笑えない「喜劇」にしかなり得ないという、苦い認識だろう。我々はそういう時代を生きているのだ、と。それこそが彼の作品の一貫したモチーフなのだった。  しかし、この映画では何かが決定的に異なっている。これまでは物語や人物に対して超越的な“観察者”としての立場をとってきたサム・メンデスの映画だが、ここでは、あきらかに主人公のカップルの視点に同調[シンクロ]しているのである。彼らの眼を通じて、現代アメリカの様々な家庭像を見つめようとするのだ。  そしてこの主人公たちは、純粋にお互いのことを愛している。その“まっすぐさ”において、彼らはほとんど「天使的存在」だといって良いだろう。そんな彼らがアメリカ大陸横断の旅で出会うのは、様々なトラブルや問題を抱えた家庭の光景だ。しかし、これまでなら家庭の崩壊劇のそれこそ見本市(!)となっていただろう展開を、この主人公カップルの存在が救済する。彼らがその光景に怒り・とまどい・呆れ・胸を痛めながら、そういったひとつひとつの反応や心の機微の“まっとうさ”が、これまでのサム・メンデス作品になかった「ぬくもり」を、この映画にもたらすことになった。  結局、自分たちにとって「理想の場所」とは最も身近なところにあった…という結末は、いささか安易かつ「保守的」なメンタリティにすぎるという気がしないでもない。けれど主人公のカップル、とりわけ男の方の、彼女のことはもちろん出会う人々のことを不器用ながら本当に思いやれるその“いいひと”ぶりに、ぼくは心から感動した。彼こそはフランク・キャプラ作品のジェームズ・スチュワートに連なる、アメリカ映画の“いいひと”路線の正統なる後継者だろう。  正直あまり好きになれずにいたサム・メンデス監督だが、この映画だけは、心から乾杯!
[映画館(字幕)] 8点(2012-05-17 13:12:37)(良:1票)
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