Menu
 > レビュワー
 > 鉄腕麗人 さんの口コミ一覧
鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
【製作国 : アメリカ 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順12
投稿日付順12
変更日付順12
>> カレンダー表示
>> 通常表示
1.  インクレディブル・ファミリー
先日、20年ぶりに「Mr.インクレディブル」を鑑賞したので、スルーしていたこの続編もようやく鑑賞。2004年に公開された一作目は大ヒットだったはずだが、なぜ続編の製作が14年(2018年公開)もかかってしまったのだろう。 かなり間をおいた続編にもかかわらず、作中の時間軸上では前作のラストシーンとほぼ地続きでストーリーが展開するので、より一層作品世界外の時間の経過に違和感を覚えた。 そしてその違和感は、この続編が描こうとするテーマにも、少なからず影響を及ぼしていたように感じた。  本作では、“ファミリー”の中の母親であるイラスティガールの活躍がストーリーの中軸として描き出される。 男性中心の社会の中で、女性のスーパーヒーローの立ち位置を際立たせ、その葛藤を描くストーリーテリングは、“MeToo運動”も活性化していた2018年当時のアメリカ社会において、取り扱いが必然とも言えるテーマ性だったのだろうとは思う。  インクレディブルファミリーのキャラクター造形の中で、家族の根幹を支える存在であるイラスティガールが中心に活躍すること自体には、何も違和感は無い。 ただそれをポリコレを意識した女性活躍問題や性差別問題と唐突に関連付けたストーリー展開は、強引で、あまり真っ当ではないと感じてしまった。  そしてその一番のしわ寄せは、主人公であるMr.インクレディブルに押し付けられていた。 スーパーヒーローとして第一線で活躍する妻の一方で、子育てや家事に奔走するMr.インクレディブルの姿はユニークだったけれど、それと同時にあからさまに妻の活躍を妬み、不遜で時代錯誤なキャラ設定を半ば強引に被せられいたように感じた。そして、最終的にそれほど大きな活躍や挽回もさせてもらえず、不遇なポジションを強いられていたと思う。  作品世界の中でもそれ相応の年月が経過した上で、精神的にも、肉体的にも、時代的にも、“変化”を余儀なくされたキャラクターたちが、新たな価値観や葛藤を越えて活躍するのであれば納得できただろう。 が、前作直後から始まるストーリーでこのような展開を見せられても前述の通り違和感は禁じ得ないし、ポリコレを安直に意識したストーリー性も的外れであり、その不誠実さはそれこそ時代錯誤に思えた。 ヴィランにおけるキャラクター設定も、前作の二番煎じであることは否めない。  3人の子どもたちを含めスーパーヒーローファミリーのキャラクター性自体は、前作から通じて娯楽性に満ち溢れているので、彼ら自身の人生に対して真摯なストーリーテリングで、新たな続編を観たいと思う。
[インターネット(吹替)] 5点(2024-02-12 17:21:55)
2.  イニシェリン島の精霊 《ネタバレ》 
「何だったのだろうか」 という一言が、エンドロールが流れ始めた瞬間に大きな疑問符と共に脳裏を埋め尽くす。正直なところ、正確な理解は追いつかなかったし、良い映画だったのかどうかの判別すらも、その時点ではつかなかった。 鑑賞から1日以上だった現時点においても、その心境に大きな変化はなく、「困惑」の域を抜け出せてはない。 ただ、その「困惑」を覚えることは、本作の鑑賞体験において極めて正しいことだったと思う。  年を食った二人の男が織りなすとても可笑しくて、笑えないお話。  何もない、何も変わらないことに対する終わりのない閉塞感が、突如としてある“衝動”を生む。 周りの人間たちから見ると、それはあまりに突然の変化に見え、とてもじゃないが理解が追いつかない。特に、前日まで楽しく時間を共有していたと信じていた“親友”にとっては、あまりに理不尽で悲劇的な“心変わり”であったろう。  前述の通り、鑑賞者として主人公二人がその奥底に孕んでいる心情の正体を正確には理解できていない。でも、薄っすらと見え隠れする心の機微は何となく感じ取れる。  それが、アイルランドの内戦下でありながらまるで蚊帳の外な環境的な疎外感によるものか、そんな環境で凡庸な人生を終えようとする老齢の焦りなのか、はたまた長年の親友への友情を越えた感情に対する困惑からなのか、いずれにしてもその理由を他人が断定することはできないし、する必要もないだろう。 感情の理由も正体も、それは彼らだけのものだ。  自分自身、40歳を越えた頃から心の中に小さな点のような“焦燥感”が生まれ、それが徐々に大きくなっていることを感じている。 それが、今後の人生観に少なからず影響を及ぼしていることも否定できない。 そう、世界の果てのようなアイルランドの孤島でなくとも、本作で描き出された焦燥や衝動や狂気は、世界中の誰しもが実は孕んでいる感情なのだと思う。   本作の最後、コリン・ファレル演じる主人公は、変わらない、終わらない現実を理解し、受け入れ、改めて親友と向き合う。 数日間の小さく静かな“内戦”により、二人はそれぞれ決して小さくないものを失ったが、改めて人間として付き合い続ける覚悟が生まれているように見えた。  果たして彼らがまた親友に戻れたかどうかは不明だけれど、14時の時報が鳴る頃にはパブでビールを酌み交わしている姿をせめて想像したい。
[映画館(字幕)] 8点(2023-02-09 22:16:08)
3.  イコライザー2
冒頭、トルコの国鉄まで“出張”した主人公が、早速狂気的な正義感と親切さで悪党を撃滅する。 “正義の味方”とはいえ、相変わらずメチャクチャな暴挙に対して、カタルシスなどすっ飛ばして唖然としてしまう。 が、まあ「続編」ということも踏まえ、オープニングのそのぶっ飛んだ展開自体はアリかなと思えた。  しかし、目を引いたのはむしろそのアバンタイトルだけだったかもしれない。  前作から引き続き、“殺人マシーン”と化したデンゼル・ワシントンが狂気を解放させていく様が醍醐味の映画ではあるが、前述の冒頭シーン以降では目新しい展開が見られない。 前作では、タクシー運転手として平穏に暮らしつつも、身の回りの悪事に対して「正義感」というフラストレーションが膨らみ爆発するくだりに娯楽性が溢れていたけれど、今作では主人公は端から街の悪党退治に勤しんでいるので、前作で見られた緊張感や高揚感が得られなかった。  かつての同僚が裏切り者というありきたりな展開を経て、クライマックスを迎えるが、悪党側のキャラクターがそもそも小者で脅威がまったくないので、最強殺人マシーンの主人公の前ではことさらに弱々しく見え、盛り上がりもまるで無い。  デンゼル・ワシントンのでっぷりとした恰幅が、前作では逆に良い意味で不気味で魅力的だったが、今作ではストーリーテリングの愚鈍さと合わさって、ただただ鈍重に見えた。
[インターネット(字幕)] 3点(2020-09-13 01:56:18)
4.  1917 命をかけた伝令 《ネタバレ》 
まさしく、「臨場感」の境地。  戦場の瞬間を途切らすことなくつぶさに映し出した映画世界にあらわれたものは、虚無と望郷、そして幻想が入り交じった一人の兵士の“混濁”だった。  実寸規模の何kmにも及ぶ巨大セット(というか“戦場”そのもの)を作り出し、“ワンカット風”の演出で描き出した映像世界は流石に凄い。 “戦場の臨場感”という観点から言えば、クリストファー・ノーラン監督の「ダンケルク」も記憶に新しいところ。 あの作品も「本物」の撮影にこだわり抜いた意欲作であり、傑作だったと思うけれど、本作も、サム・メンデス監督が全く異なるベクトルの“主観”によって映し出した戦争映画の新たな傑作だと言えるだろう。  「臨場感」という表現を用いたが、この映画におけるその言葉の意味は、映像的な“没入感”のみを指すものではない。  「全編ワンカット映像」という触れ込みがイントロダクションとして大々的に伝えられていたので、映像的に「見せる」映画なのだろうというイメージが先行していた。 勿論、前述の通り超巨大セットによる映像的な迫力と説得力の高さは言わずもがなだが、この映画の醍醐味は、視覚的な体感を超えて、画面に映り続ける「兵士」の心理状態や精神状態をも体感できるということだろう。  この映画は、休憩中に微睡んでいる或る兵士がふいに上官に起こされるカットから始まる。 わけも分からず司令官に呼び出された兵士は、或る重大な指令を受け、すぐさま最前線に直行し、突如として明確な「死」に直面する。  その間、時間にしてわずか数十分。  “微睡み”から“死”まで、リアルタイムに映し出されたこの数十分に、一兵士の心理と戦場の無慈悲が表れている。  サム・メンデス監督がこの映画で示したかったことは、戦場のリアルを単に映像的に「見せる」ということではなく、そこに渦巻く兵士たちの無数の感情を含めて「魅せる」ことだったのだと思う。  それを表すように、“ワンカット風”、“リアルタイム風”に映し出される映像世界は、終盤に差し掛かるにつれ、幻想的に、非現実的に表現される。  敵兵の銃弾を受けブラックアウトした主人公の兵士が目覚めた時、彼が目にしたものは、戦火に照らされた幻想的な廃墟の街並みだった。  厳かで、神々しいまでに美しく照らされたあの光景は、果たして「現実」だったのか? もしかしたら、彼は敵と相討ち、その場で絶命してしまったのかもしれない。  あの光景の先で描かれる、母子(疑似)との慈愛に満ちた邂逅も、絶体絶命のアクロバティックな逃走も、砲弾をかいくぐる奇跡的な疾走も、すべては死後の幻想であり、我々は彼の深層心理を垣間見ていたのではないか。と、そんな思いに駆られる。     某映画評論でも触れられていたが、この映画で描き出されたような「伝令」が実際に実行され、無意味な突撃が阻止されたなんてことは無かったに等しいだろう。現実の戦場では、無意味な作戦と、無駄死にが延々と繰り返されていたに違いない。  本作では、ベネディクト・カンバーバッチ演じる最前線の指揮官が、「伝令」を素直に受け入れるけれど、劇中マーク・ストロング演じる将校が示唆していたように、実際は軍人の「意地」で愚かな突撃を強行した指揮官が殆どだったのだろうとも思う。  そういう「現実」や、垣間見える兵士の「幻想」を思うと、この映画には表面的な感動の裏に、極めて混濁した真理が潜んでいるように感じるのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2020-02-15 19:29:43)(良:2票)
5.  イット・フォローズ
概念的な死生観そのものを「それ」と表現して、確かにそこに存在するのに正体が明らかにならない「恐怖」のメタファーとして描き出したホラー映画であることは理解できる。 しかし、ハイティーンの主人公の目線を主眼として、こんこんと紡ぎ出されたそのテーマ性が、ストーリーの中で最終的に腑に落ちず、靄々としたままエンディングロールを見送ることになってしまった。  “新しい視点”のホラー映画だと思うし、面白くない訳ではないけれど、恐怖映画が苦手なため評判の良さを耳にしながら後回しにしつつ、いたずらに期待感を膨らませ過ぎてしまったことが良くなかったと思う。 やはりこういう映画は、空いた時間にたまたま入った映画館や、眠れない夜にふと見始めた深夜放送で観た時に、最良の映画体験となるものだと思う。  思うに、この映画は主人公らの“お年頃”同様に、ティーン・エイジャー向けの、いやティーン・エイジャーのためのホラー映画なのではないか。 確実に意識的にだろうが、この映画のストーリー上に「大人」が直接的に絡むことが殆ど皆無であることからも、それは明らかだ。 この映画で描き出される「恐怖」の根幹にあるものは、「性」即ち「セックス」との距離感と、意味合いが、より強い年頃の若者たちの中に渦巻く不安定さや曖昧さに直結するものなのだと思う。  セックスという行為に触れることで露わになる自分自身の“生物感”と“不確定要素”。 それは人間としての経験が浅く、故にその行為そのものに対して憧れや畏怖、不安などといった様々な感情が渦巻く若者だからこそ鋭敏に感じ取れてしまう「恐れ」なのではないか。 このホラー映画における「それ」とは、まさにその得体の知れない曖昧な「恐れ」のことだったのではないだろうか。と、思う。  だからこそ、とうの昔に大人になり(別にセックスに精通しているとは言わなけれど)、少なからず何かしらの経験を重ねて、子どもまで生まれてしまった自分には、この映画で表現される恐怖の正体について理解めいたことはできるものの、実体感を感じることが出来なかったのだと思う。 したがって、「それ」という表現から滲み出る曖昧さ自体に対して靄々した感情が拭えず、物語上の整合性の欠如や、論理性の脆さが、雑音として響いてしまった。  しかし、この映画が新しい視点とアイデアを礎にしつつ、或る世代における普遍的な「畏怖」を具現化したチャレンジングなホラー映画であることは間違いない。“或る視点”の映画として、長く評価される作品だとも思う。
[インターネット(字幕)] 6点(2018-10-08 00:03:34)
6.  犬ヶ島
「日本」という国は、なんて奇妙で、ユニークで、興味深い国なんだろう。と、思う。 日本人でありながら、この映画を観ていると、この国の「異質」さに頭がクラクラしてきた。 それは、決してこの映画がいわゆる“トンデモ”日本描写に溢れているというわけではない。 日本の文化と風土を愛してくれている稀代のクリエイターが、懇切丁寧にこの国の本質を表す描写を積み重ねている。 その結果として、こんなにもエキセントリックな映画が出来上がるのだから、それは即ち、やはりこの国そのものが本当にエキセントリックということなのだろう。  “今から20年後”という時代設定も巧い。この表現により、この先いつどの時代に今作を観たとしても、近未来を描いたディストピア映画のように見える。 そして、映し出される映画世界は、過去も未来もあらゆる時代が混濁している。それは、この物語がどの時代にも当てはまる悲哀と戒めを秘めていることの暗示でもあろう。  権力と暴力により虐げられる対象を「犬」としてこの物語は綴られているが、その光景はまさに今なお続く人間の負の歴史そのものだった。 もしこれがそのまま「人間」が虐げられる話として描き出されていたならば、とてもじゃないが直視できない。 けれど、人間の“隣人”である「犬」に置き換えて、独特の風合いのストップモーションアニメで映し出すことで、映画としての可笑しみが生まれ、同時に胸に刺さる悲しみや辛辣さも孕むことに成功している。  ウェス・アンダーソン監督ならではのフェティシズムに溢れたユーモラスでブラックな快作である。 コレ程偏執的な「日本愛」を示されては、日本人として、映画ファンとして、ニマニマしながら観るしかなかった。
[映画館(字幕)] 8点(2018-06-21 09:23:39)
7.  インフェルノ(2016) 《ネタバレ》 
ご存知ラングドン教授が、ヨーロッパの宗教史、美術史を辿りつつ、「謎」から「謎」を奔走する。 この映画はもはや、ミステリーに彩られたストーリーを追うものではなく、「謎解き」そのものを娯楽として楽しむべき豪華絢爛な“ジャンルムービー”なのだと思う。 ストーリーテリングが強引で粗があろうと、物語としての整合性があろうがなかろうが、「謎解き」そのものに対するカタルシスが得られれば、それでいいというスタンスなのだ。 娯楽の趣向としては、映画というよりも、ゲーム「レイトン教授」シリーズに近いものを感じた。まあ勿論、アチラのゲームが、この映画なり原作なりに着想を得ているのだろうけれど。  というわけで、年末の慌ただしい中、レイトショーで観た映画としては、面白過ぎるわけでもないし、駄作過ぎるわけでもなく、ちょうどいい塩梅で楽しめた。  前述の通り、ストーリー展開については苦笑を禁じ得ない稚拙な展開が目につく。 首謀者の計画の意味不明な遠回り感や、クライマックスの描写のグダグダ感など、サスペンス映画としての完成度は決して高くはない。 ただし、ロン・ハワードの監督の流石に洗練されたカメラワークや、三度ラングドン教授を演じたトム・ハンクスの安定感が、映画の表面的なクオリティーの高さをキープしている。  またこの映画の場合は“ヒロイン”の立て方がユニークで、大きな見どころとなっている。 ストーリー展開の中で入れ替わり立ち替わり存在する“ヒロイン”を巡る顛末こそが、今作の最大のサスペンスだと言えるかもしれない。  アカデミー賞ノミネートされた「博士と彼女のセオリー」の演技も記憶に新しいフェリシティ・ジョーンズの、“ある表情”の転換が見事だった。
[映画館(字幕)] 7点(2016-12-14 09:22:20)
8.  インビクタス/負けざる者たち
「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったもの。 歴史上におけるトピックスと成り得る出来事は、往々にして、「創作」における「遠慮」を容易に飛び越えていく。 もしこの映画のストーリー展開が、完全なる創作だったとしたならば、「なんて安直で都合のいいストーリーだ」と批判は避けられないだろう。でも、事実なのだから、ストーリー展開そのものに対しては、批判のしようがないというものだ。  この映画は、二人のリーダーの話である。 一人は、ラグビー南アフリカ代表チーム“スプリングボクス”のキャプテンであったフランソワ・ピナール。そしてもう一人は、南アフリカ共和国という国そのものを率いたネルソン・マンデラ大統領その人だ。 特に際立っていたのは、モーガン・フリーマンが演じるネルソン・マンデラという「指導者」の、使命感と人生観だった。  27年間に及ぶ獄中生活を経てからの大統領就任。その初日の描写からこの映画は始まる。 当然あるはずの怒りや憎しみを抑えこみ、融和と寛容によって国家の混乱を治めようとする指導者の姿には、南アフリカ共和国にかぎらず、世界中総ての人々が教訓とすべき“在り方”が示されていたと思う。 そして、その偉大な指導者の人間性に触れ、国内において微妙な立ち位置の代表チームの主将として、「勝利」することの価値の大きさに共鳴していくフランソワ・ピナールの振る舞いが印象的だった。  偉大なリーダーの信念によって、人が、チームが、国が変わっていくということの本質を、この映画は伝えるのだと思う。 劇中、マンデラ大統領がこう言う。  「変わるべき時に私自身が変わられないなら、人々に変化を求められません」  必ずしもリーダーという立場にあろうがなかろうが、変わるべきは常に自分自身ということなのだろう。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2016-09-04 18:49:16)(良:1票)
9.  インデペンデンス・デイ: リサージェンス
大味である。真っ当なオトナが観る映画としては、馬鹿馬鹿しくて、粗いことは間違いない。 だがしかし、「そんなことどうでもいい!」と思えるくらいに、鑑賞中の多幸感が勝った。 それが、「ID4」の20年来の大ファンにとっての正直な気持ちである。 “あの独立記念日”を祝い、20年の歳月を経て、再び人類が滅ぶか否かの“独立記念日”を迎えた登場人物たちの「人生」そのものを思い、涙が出た。 誰がなんと言おうと、20年前の愛すべきSF超大作の、“愛すべき続編”だとまず断言したい。  何と言っても、20年前の独立記念日に世界を救った者たちの傍らに寄り添っていた子どもたちが、成長し、父親の後を継ぐかのうように世界を救うという、良い意味で恥も外聞もないベタな設定が「ID4」の大ファンとしてはたまらないのだ。 そう「ID4」という娯楽大作の最大の醍醐味は、そのベタさであり、王道っぷりであり、世界中の映画ファンが一度は憧れた「アメリカ万歳!」という精神なのだと思う。  前作が公開された1996年当時にして、「この映画は20世紀最後の幸福なアメリカ万歳映画」と評されていた。 それから20年、自身が巻き起こした世界の混迷とともに、かの超大国の世界的な権威は下降の一途を辿っている。 昨今の世界情勢を“普通”に捉えられている者ならば、冗談でも「アメリカ万歳!」などとは言えないのが実情である。 ただし、それは=それを決して言いたくないということではない。 世界中の多くの人たち、特にかつてアメリカという大国に対して何かしらの“憧れ”を抱いた人たちは、アメリカが再び真の意味で世界的な権威を取り戻すことを心の底では願っているのではないか。  ローランド・エメリッヒというドイツ人監督が生み出す超大作は、冒頭に記した通り、いつも大味で馬鹿馬鹿しいけれども、そういった拭い去れない“かつての憧れ”に対する思いが溢れている。 だから僕は、同じ思いを持つ者の一人として、この監督の作品を決して嫌いになれないのだとも思う。  1996年公開の前作も、大ヒット作品ではあるが、世間的には決して手放しで褒め称えられた作品ではなかった。 ただし、好きになった者の愛着の強さは、他のSF超大作に比べても類を見ないものだったと思う。 それはどうやら出演者たちにとっても同様だったようで、多くの主要キャストの続投に表れている。 “20年ぶりの続編”において、登場人物たちの再登場こそが、最大の娯楽性であることは間違いない。  ジェフ・ゴールドブラム、ビル・プルマンら主演キャストは勿論、ジャド・ハーシュやヴィヴィカ・A・フォックスら脇役陣もしっかり登場し、それぞれが、泣きどころ、笑いどころの見せ場を与えられていることが嬉しかった。 ウィル・スミスのキャスティングが叶わなかったことは残念だが、もはや大ハリウッドスターの彼が出演してしまうと、群像劇のバランスが崩れ、作品のテイスト自体に影響が出てしまっただろう。 彼が演じたヒラー大尉の成長した息子を主役級に配したことで、映画世界の中で世代が受け継がれていく様が鮮明になったとも思う。  受け継がれるといえば、ビル・プルマン演じるホイットモア元大統領の愛娘の凛々しく成長した姿も忘れてはならない。 前作での最大の落涙ポイントは、大統領夫人の死去シーンである。愛する妻を亡くし、悲しみの淵に沈みつつ、「ママは眠った」と幼い娘を抱き寄せるホイットモア大統領の姿は涙なしでは見られない。 そして、当時は母親の死を理解しきれない幼子だった娘が、今作において父の跡を継ぐようにパイロットとしてエイリアンに向かっていく様は、なんとも感慨深い。  一方でもっと登場させてほしかったキャラクターもいる。 前作において主役級の3人以上の“ヒーロー”であったケイス飛行士の子どもたちは、是非とも登場させて欲しかった。 またロバート・ロッジアが演じたグレイ将軍の登場シーンは嬉しかったが、それならばジェームズ・レブホーンが演じた途中解任された国防長官も1カットでもいいので登場させてあげてほしかったと思う。 そして、ヒロインの一人だったデヴィッドの奥さんは何処に行ってしまったのか……。  とかなんとかと、マニアックな“ほじくり”が尽きないのは、やはり僕自身がこの続編を充分に“堪能”したことの表れだと思う。 どうやら、今作の成功いかんで「3」の製作が決まるらしい。 今作のラストで触れられているように、今度は逃げるエイリアンの尻を追って更に馬鹿げた大風呂敷が広がっていくことは明らかなようだ。  仕方がない。大いに期待しよう。
[映画館(字幕)] 7点(2016-07-18 19:19:48)(良:3票)
10.  インサイド・ヘッド
4歳の娘と、1歳の息子がいる。 当然ながら、一日中、それぞれが笑ったり泣いたりの繰り返しである。 人の親としてもまだまだ未熟なので、彼らの言動に対して右往左往することも多いのだが、この秀逸なアニメ映画は、そんな子育て中の親たちにとっては特に興味深くて、それ故に面白味の深い作品だったと思う。  二人の子どもが何かの拍子で泣き始めるとする。 1歳の息子は、彼の好きな遊びやおもちゃ、もしくは食べ物を見せればすぐに泣き止み、途端に笑い始める。 一方、4歳の娘はそう簡単にはいかなくなった。彼女が泣き止むまでには、それなりの説明と駆け引きと時間が必要になる。 そうやって当たり前のように、子どもたちの感情が変化していく様を見ているけれど、彼らの頭の中では常に様々な感情たちが、彼らの「幸福」のみを考えて親以上に右往左往しているのだと思うと、なんだか率直に感心し、感動してしまった。  この映画においてアドベンチャーとして描き出されている通り、子どもたちの頭の中では常に会議と冒険が繰り広げられ、そして時に崩壊と構築が繰り返されているのだろう。  大切に抱え続けた思い出に「ヨロコビ」と「カナシミ」が入り混じり、「ヨロコビ」だけでは決して生きていくことはできないというストーリーの着地は、子どもも大人も観る映画として、とても誠実だったとも思う。  精神が成長するということの見事な具現化。 それはとても楽しくて、とても切ないエンターテイメントだった。
[ブルーレイ(吹替)] 8点(2016-01-18 23:27:21)(良:2票)
11.  イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密 《ネタバレ》 
「あなたが普通じゃないから、世界はこんなにも素晴らしい」  勿論それは映画上で脚色された台詞だろうけれど、たとえそうであったとしても、この映画とこの台詞により、アラン・チューリングという不遇の天才数学者の魂は幾ばくか救われたのではないか。 せめて、せめてそう思いたい。   冒頭から中盤までは、主人公のエキセントリックな人間性が表立って描き出される。 そのため、彼がどうして暗号解析という仕事に異常なまでの執念で固執するのか、そしてどうして戦後間もなくして警察機関に尋問されるに至っているのかが、掴めない。 その他の登場人物たちと同様に、「変人」というレッテルを主人公に対して貼らざるを得ない心境になってくる。  しかし、徐々に詳らかになる主人公の少年時代の描写とリンクするように、彼がこの仕事に執着する意味と、ひた隠すように抱え続けたある思いが明らかになる。 “モンスター”とも呼ばれたアラン・チューリングという一人の人間の、“人間らしさ”がようやく垣間見えた時、筆舌に尽くしがたい悲しみを覚えずにはいられなかった。  “クリストファー”と名付けられた暗号解読機がもたらしたものは、神の如き功と、悪魔の如き罪だった。 その功罪を一手に引き受けるかのようにして、一人の天才数学者が、歴史の闇に埋もれていたことに、様々な感情が渦巻いた。   何と言っても特筆すべきは、主演俳優の表現力だろう。 当然ながら、アラン・チューリングその人のことを知っているわけではないけれど、主演俳優ベネディクト・カンバーバッチは、佇まいから細かな仕草、さらにはその精神性に至るまで、その人物像になり切っていたと思える。 TVシリーズ「SHERLOCK シャーロック」を国内放送当時に初めて観てからというもの、この俳優には注目し続けているが、その後順調に世界的なスターダムにのし上がり、この作品により確実に「名優」への階段を登り始めたと思う。  同時期に公開され、アカデミー賞でもせめぎ合ったスティーヴン・ホーキング博士の伝記映画「博士と彼女のセオリー」との類似も興味深い。 両作とも、一人の“天才”とそれを支えた一人の女性との関係性を描いており、まったく別人であるそれぞれの女性の人間性そのものも極めて似通っているように思える。 アラン・チューリングも、スティーヴン・ホーンキングも、「彼女」の存在がなければ、何かを成し遂げることは出来なかったであろう。 そしてかつて、ベネディクト・カンバーバッチ自身も英国のTV映画「Hawking」でホーキング博士を演じて世に出ていたことには、映画史における何か宇宙意志的な“文脈”を感じずにはいられない。   時代に許されないまま潰えた「初恋」の思いを胸に、いまや世界を支えるコンピューターの礎は作られた。 それはとても悲しくもあり、ある意味とてもロマンティックでもある。  時代に抗い、時代を救い、そして時代に潰された天才数学者の偉業に胸が詰まった。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2015-11-15 22:59:01)
12.  イコライザー
実は“殺人マシーン”だった主人公が、憎き悪党と真向かい、直接的に、淡々と、「宣戦布告」する。 それを演じるデンゼル・ワシントンの“目”がヤバい。“ヤバい”とはいかにもチープな表現だが、本当にヤバいのだから仕方がない。 正義の鉄槌を振るうことを心に決めた主人公のその“目”は、完全に異常者のそれであり、主演俳優のその表情を観ることこそが、この映画を観る価値だと断じてしまっても過言ではない。  何かしらの過去を背負いつつ、平穏に暮らす主人公が、突如として復讐鬼と化すというこの手のジャンルムービーは昨今目立つように思う。 いわゆるビジランテ(=自警団)ものが流行らざるを得ないのは、真っ当な正義が存在しないこの社会の病理性の表れだろうか。 誰も守ってくれない。誰も裁いてくれない。誰も怒ってくれない。 ならば自ら鉄槌を振るうほかないではないか。 という悲鳴がそこかしこから聞こえてくるようだ。  と、まあ、そんな悲観的な考察は抜きにして、流行りのジャンルムービーの中でもこの映画のクオリティーの高さは確かなものだと思う。  やはり魅力的なのは、デンゼル・ワシントン演じる主人公のキャラクター性だろう。 日々眠れぬ夜を近所のダイナーで過ごす主人公、観客としては当然ながら彼の正体がいかなるものかということを大体知っているわけだが、それでも物静かなこの男が、文字通りの殺人マシーンへと変貌する様は娯楽性に溢れている。 それは、この映画のストーリー自体がこの先どう転じていくのかという娯楽性とも合致し、楽しい。  過去に捨て去ったはずの血塗られた仕事を再開することで、自分の生きる価値を改めて見出し、みるみる活き活きとしていく主人公の様は、実は笑えない。  ただ、そういう役を演じるデンゼル・ワシントンはいつも大体「最高」である。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-09-22 22:46:11)(良:2票)
13.  インターステラー
レイトショーの映画館を出て、真冬の凍てつく空気に包み込まれた。ふと夜空を見上げると、澄んだ空気の遥か先に満月と星が光っていた。 広大な宇宙の中で、自分自身がひとりぽつんと存在している感覚を覚え、孤独感と大いなる宇宙意思を同時に感じ高揚感が溢れた。 普段の何気ない景色が一変していたようだった。これこそがSF。これこそが映画だと思えた。  数多の大傑作がそうであるように、今作もとてもじゃないが言葉では表現しきれない。 特にこのSF映画が描き出す世界観の多層性と文字通りの深淵さは、言葉で説明すべきものではないだろう。 「圧巻」とひと言で言ってしまえばそれまでだろうし、それで充分だとも思える。  とても複雑な宇宙理論が繰り広げられる語り口は、一見難解に見える。しかも監督はクリストファー・ノーランである。一筋縄ではいかないことは必至。 しかし、実際に観終えてみれば、この映画は決して難解なのではなく、難解な要素に彩られた普遍的な人間ドラマであったことに気づく。 複雑に入り組んでいるのは、宇宙理論ではなく、むしろ多様な人間の在り方とそれに伴う濃密なドラマ性だった。  “親子愛”をはじめとする人間のドラマを根底に敷き、未知の領域に踏み出した人類は、「人類」そのものの限界とその先を追い求めていく。 中盤、“マン博士”という人物が登場する。その名前の通り、彼こそが今現在の人間の本質を表したキャラクターであろう。 一つの“限界”に辿り着いてしまった人類、進化か滅亡か、このキャラクターはその分岐点の象徴と言える。(このキャラをほぼノンクレジットで演じているスター俳優はエラい) 主人公が、“マン博士”と真正面から対峙し、それを越えようとする様こそが、人類の進化の瀬戸際だったのだと思える。  高度な科学的空想の先に辿り着く人間の真の姿と可能性。僕はそれこそが、人間が生み出した「Science Fiction」の本質であり、醍醐味だろうと思う。 そういうことが満ち溢れんばかりに繰り広げられるこの映画を、愛さないわけがない。  ただし、この映画を語り切るには、まだまだ膨大な時間が必要だ。 それは、これがとても幸福な映画体験であったことの証明だろう。
[映画館(字幕)] 10点(2014-12-07 01:37:45)(良:2票)
14.  イントゥ・ザ・ストーム
乱立する巨大竜巻に襲われる町、あらゆるものが吹き飛ばされていく中で、さりげなく“牛”の看板が飛ばされていく。 これは明らかに「ツイスター」オマージュであり、今作はそのオマージュを捧げるに相応しい“竜巻映画”に仕上がっている。  3ヶ月前に竜巻映画の金字塔である「ツイスター」を鑑賞し直したばかりだったので、類似点や相違点を比較することも楽しかった。 「ツイスター」が、竜巻ハンターの男女を主人公に配していることに対して、今作は竜巻ハンターも含まれていはいるが、あくまでも竜巻被害を受ける市井の人々を主軸にしており、「ディザスター映画(災害映画)」としての立ち位置としては、今作の方が正統だと思う。  全く予測可能な“モンスター”として描き出される今作は、竜巻という災害の恐怖感をより一層増幅させてみせていると思う。 ファウンド・フッテージを主軸にした撮影手法も、臨場感を効果的に高めている。 若者たちがiPhoneやハンディカムで延々と“恐怖”を映しとっていく様は、あながち非現実的ではなく、あまりにも巨大過ぎる事象を目の当たりにして衝動的にカメラを手にし続けてしまうことは、人間の心理として理解出来ることだろう。  映画のジャンルとしては、災害もののB級映画という範疇を超えていないかもしれない。 けれど、安直に過小評価することははばかられる程、意外にも完成度の高い映画だったと思う。  三連休中日にも関わらず鑑賞した上映回は、幸か不幸か“お一人様”状態だった。 映画館内でたった一人、まさに悪魔的な強風に襲われる登場人物たちを目の前にして、思わず座席の手すりを強く握ってしまった。 ディザスター映画好きであれば、そりゃマストな作品であることは間違いない。
[映画館(字幕)] 7点(2014-09-14 09:20:52)
15.  インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア 《ネタバレ》 
まず感じたことは、これほど“つかみどころ”のない映画も他に覚えがないということ。 それは面白味が見出せないということではなく、「ああこういう映画か」と認識するや否や、つかみかけた映画の世界観のテイストがするりと手の中から抜けていく感じを冒頭からエンディングまで終始受け続ける作品だった。  序盤は、ハリウッドのスター俳優としてこれからどう転じていくかという一つの岐路に立たされていたトム・クルーズと、その後釜を虎視眈々と狙い始めたブラッド・ピット、二人のスター俳優の新旧の“色気”が画面に映し出されるままにせめぎ合う完全な“女性の欲求くすぐり映画”だった。  そういう映画だろうという予想が、この映画を無意識に敬遠していた要因でもあったので、「ああやっぱりこういう映画か」と若干テンションが下がり始めた頃、掲題の女優が登場。一気に“ちっちゃいキルスティン・ダンストの才能爆発映画”に転ずる。 キルスティン・ダンストがこれほど子役の時代に出演している映画とは知らなかったので、前述の二人のスターをも凌駕する衝撃的な存在感を目の当たりにして驚きが隠せなかった。  その後映画は、ヴァンパイアたちの悲しく激しい対立と運命が描かれつつ、シリアスにそして切なく深まっていく。 「ああ、なかなか悲哀深い映画だった」と結論付けようとしたところ、ラストで更につかみ損ねた。  延々とインタビュー形式で綴られたヴァンパイアの悲しい運命の物語が、何百年に渡る“ぼやき”として軽快なロックと共に一笑に付せられた瞬間、映画ファンとしては幸福なほくそ笑みを浮かべずにはいられなかった。  豪華過ぎるキャスティングの印象が強かったせいか、ミーハー女子好みのある種ベタで王道的な映画世界が展開されるのだろうと思っていただけに、想定外に毒っ気が強く、カルト的な映画世界に最終的に圧倒された。 結局のところ最後まで“つかみ切れない”映画で、美しい部分はとことん美しいし、悲しい部分はとことん悲しいし、馬鹿馬鹿しい部分はとことん馬鹿馬鹿しい。 とにもかくにも、ちょっと他にない類いのユニークな映画であることは間違い。  ああ、生き血をすすりたい欲望を抑えるルイよろしく、なんだかじわじわと滲み出てくる「愛着」を抑え切れない……。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2012-01-09 02:51:59)(良:1票)
16.  インセプション
睡眠中の「夢」というものを、本当によく見る。 前夜に見た夢のことをつらつらと思いめぐらせて、一日が過ぎるということもしばしばある。 そういう者にとっては、この映画の完成度は殊更に高まると思う。  「夢」の世界の中で巡りめく攻防を描く今作。 先ずはストーリー展開がどうのこうの言う前に、その世界観のクオリティーの高さにおののく。  夢をよく見る人であれば、常に感じているだろう“夢”という世界の“目まぐるしさ”を完全に表現している。その映像世界が、先ず圧巻だ。  表面的な現実感と同時に存在する、時空と空間を超越する「感覚」。  そういうことを、現時点で成し得る映像表現の全てを使って”具現化”している。 その映像世界を構築した時点で、この映画の価値は揺るがない。  「ダークナイト」ですっかりメジャー監督となったクリストファー・ノーランだが、よくよく思い返せば、彼は「メメント」の監督なわけで、この手の作品こそこの映画作家の“真骨頂”ということなのだろうと観終わって納得した。  ただし、この映画に対して充分に評価した上で言わせてもらうならば、  物凄い製作費を投じて生み出された作品ならではの、出来るだけ広いマーケットを意識した“譲歩感”は感じられる。  恐らく、クリストファー・ノーランの本来の「構想」は、もっと無遠慮に難解で、歪んでいく映像世界を凌駕する程にねじり込まれたものだったのではないかと思われる。  “鑑賞者”として物凄く身構えた分、ストーリー展開に対しては、案外“ストレート”な印象を受け、一抹の物足りなさも感じた。 詰まりは、もっと人間の精神的な内部に踏み込み、その不可思議さに対する顛末を表現出来たのではないかと思う。  主演のレオナルド・ディカプリオが、もう一つ弾き切れていなかったことも、そういった“遠慮”が少なからず影響していたように感じてならない。 一概には比較出来ないが、ディカプリオのパフォーマンスだけを捉えるなら、今年公開された「シャッター アイランド」の方がインパクトがあった。  まあ、とは言っても、とんでもないオリジナリティに溢れた映画だということは間違いないし、その映画のセカンドネームに「Ken Watanabe」がクレジットされていることは、日本の映画ファンとして誇り高いことだと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2010-07-25 00:34:22)(良:2票)
17.  イングロリアス・バスターズ 《ネタバレ》 
「キル・ビルVol.2」以来のタランティーノの新作鑑賞。「キル・ビル~」ってもう6年前の映画なのかと、少々唖然とした。  そしてこの新作にも、大いに唖然とさせられた。 タランティーノ作品において、「唖然」という表現が“好評”なのか“不評”なのか、その単語のみでは正直判断がつかないだろう。 そして、「唖然」と発した自分自身も、実際のところ好不評の判断がつけづらい。  独特の台詞回しによる“タランティーノ節”に限って言えば、とてもタランティーノらしい台詞の掛け合いに溢れていた。 冒頭のナチスの大佐と農夫の対峙から、ナチス将校に扮したバスターズのメンバーが本物のナチス将校と酒を酌み交わすシーンまで、「タランティーノ!」という賞賛を思わず発したくなるような独特のユーモアと緊張感溢れる掛け合い震えた。  これは久しぶりに、評価に違わないタランティーノの傑作が誕生したんだな。とほぼ確信していた。  が、しかし、クライマックス近くまで非常に大きなエネルギーを感じたまま堪能できのだけれど、最終的な印象として「映画」としての魅力が無い、と感じてしまった。  何だろう?詰まるところ、クエンティン・タランティーノが「ナチス」を描く価値って何なのかが見出せなかったような気がする。 安直過ぎるほどにナチスを悪役として描き、それに残虐なまでの復讐を果たすバスターズの面々と、家族を殺された一人の娘。 結局、登場する全員が残虐なので、誰にも感情移入できない。 もちろん、これがタランティーノの映画である以上、感情移入なんて必要ないのかもしれない。 ただ、部分部分の台詞まわしやシーンは魅力的なのに、それぞれがバラバラで噛み合ない。  まあ“シュール”と言ってしまえばそれで済むのかもしれないけれど、やはりそれでは映画としてのカタルシスは得られない。  あ、そうそう。予想に反して見せ場の無いブラッド・ピットにも、唖然とする。
[ブルーレイ(字幕)] 6点(2010-06-22 00:03:03)(良:1票)
18.  インクレディブル・ハルク(2008) 《ネタバレ》 
「エンドゲーム」公開に向けたMCU作品ミニマラソン二発目。 無論、MCU作品(映画作品に限る)はこれまで全作品鑑賞しているが、初めて鑑賞した作品は、「アイアンマン」ではなくこの「インクレディブル・ハルク」だった。 日本国内では、今作の方が「アイアンマン」よりも先に公開されてしまったため、そういう鑑賞順になってしまっている映画ファンは多いと思う。 当時は、MCUというクロスオーバー企画そのものの存在を認知していなかったので、エンドクレジット後のシークエンスで“トニー・スターク”ことロバート・ダウニー・Jrが登場してきてもピンとこず、今作自体に対するフラストレーションも手伝って、「ああ企画ものなんだ……」と揶揄的に捉えてしまった。  初鑑賞時もそうだったのだが、今作は、良作揃いのMCUの作品群の中では随一の“不出来”と言わざるを得ない。 初鑑賞時は、自分自身の勘違いもあったが、同キャラクターを描いた2003年の映画「ハルク」(アン・リー監督)の“続編”と認識してしまっていたこともあり、根本的な“違和感”を禁じ得なかった。 今回、MCUの一作品として再鑑賞してみても、その“違和感”は拭いきれなかった。その大きな原因は、ヒーローの「誕生」をきちんと描いていないことだと思う。 今作では、オープニングクレジットで、“ハルク”が誕生してしまった事件のあらましと、主要登場人物たちの苦悩の様がフラッシュバック的に“雑”に映し出される。 これが当初の自分の勘違いの通り、「続編」としてのオープニングであれば全然問題ないのだけれど、まったく別ベクトルのリブート作品で、しかも今後展開されるクロスオーバー企画の主要キャラを描き出す単独作品というのであれば、この手法にはあまりに愛がなく、作品単体として面白みに欠けてしまうことは必然だったと思える。  ブルース・バナーという辛辣な運命を背負った人間の描きこみが冒頭の時点から希薄なままストーリーが展開されるので、主演のエドワード・ノートンがいくら心痛な面持ちをしてみせたところで、今ひとつ感情移入ができない。 加えて、エドワード・ノートン演じる主人公本人もそうだが、リブ・タイラー演じるヒロイン、その父親で一応の悪役であるロス将軍(ウィリアム・ハート)も、言動の一つ一つが今ひとつ利口に見えないので、それぞれ一流の科学者だったり、軍の要人というキャラクター設定に説得力を感じることができなかった。  それと比較すると、「アベンジャーズ」以降でブルース・バナー(ハルク)を演じるマーク・ラファロのハマりぶりは見事で、少ない描写の中でしっかりとブルース・バナーという一人の人間と、ハルクという哀しいモンスターを演じきっていることは、改めて賞賛に値するなと思える。
[DVD(字幕)] 4点(2009-03-21 02:16:13)
19.  イーグル・アイ
何やら意味深な予告編だけでは、今ひとつストーリーのテイストが分からなかった本作だった。 が、観て納得。これは予備知識を入れずにフラットな状態で観るほど楽しめる映画だと思う。  そういうわけで、ストーリーの詳細は避けたいと思うが、言うなれば物語の本質は異なるが、超現代版「北北西に進路を取れ」的な印象を受けた。  とても面白かったと思う。  このところ大作映画への出演が続いているシャイア・ラブーフのパフォーマンスを初めて観たが、良い意味でスター性が薄い存在感が、エンターテイメント大作においてバランス良いのだと思う。スピルバーグが好んで起用している理由が分かる気がする。  個人的には、ビリー・ボブ・ソーントンの演技を久しぶりに見られたのも嬉しかった。テロに対して信念を持って対峙するFBI捜査官を、相変わらずの曲っ気たっぷりに演じてみせている。  下手をすればもっとコケている作品なのかもしれないという危惧もあっただけに、高いアクション性と、終始緊迫感溢れる展開に満足度は殊更に高い。
[映画館(字幕)] 8点(2008-10-18 12:58:24)(良:1票)
20.  インサイド・マン
シャープな映像感覚、ユーモアと社会風刺に富んだ流れるような台詞回し、全編通してスパイク・リーらしい映画世界には中だるみなく引き込まれる。伏線をおおいに孕んでいそうな“強盗計画”の展開により、その吸引力はさらに強まっていく……。 が、最後の最後でどうも乗り切れないというか、今ひとつこの作品が持つストーリーとしての「解放感」を得ることができなかった。ストーリーに説得力がないとも言えるかもしれない。 たぶんそれは、主要人物たちの掘り下げ方がどこか中途半端で、軽薄だったからだと思う。だからラストの顛末に、明確な「意思」や「ドラマ性」が生まれていないんだと思う。 ものすごく映画としてレベルの高い雰囲気を出していただけに、残念だ。
[映画館(字幕)] 4点(2006-06-14 19:15:12)
全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS