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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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121.  パターソン
“パターソン”とは、バス運転手の朴訥な主人公の名前であり、彼が住む街の名前。 この映画は、“彼”と“彼が住む街”の「7日間」を極めてシンプルに映し撮っただけの映画、のように見える。 何か“特別なコト”が巻き起こるわけではない。慎ましく、平凡に生活する男と妻と愛犬の日常が、淡々と綴られる。  でもね、と、この映画を観ていた多くの人々はふと立ち止まり、思うだろう。  「“特別なコト”とは何だろうかと」  大災害に遭遇してサバイバルを余儀なくされるコト?殺人事件に巻き込まれて無実の罪で追われるコト?宇宙人襲来に脅えるコト?大恋愛をして人生を変えてしまうくらいに感情を爆発させるコト? 数々の映画的娯楽の中で表現されてきたそれらのコトは、無論“特別なコト”に他ならないだろうけれど、果たしてそういうことだけが「特別」なのだろうか。  裕福でもなく、貧困でもない普通の小市民が、何気ない日常生活を決まったルーティーンで繰り広げるということ。 決まった時間に起床し、たまに寝過ごし、妻にキスをし、シリアルを食べて出勤し、同僚の愚痴を聞き、決まったバスルートを運行し、帰宅し、妻の料理を食べ、愛犬を散歩させつつ馴染みのバーに立ち寄って、一日を終える。  そんな当たり前のことが、「特別」であるということを、この静かな映画は雄弁に伝えてくるし、今この世界の私たちは、事程左様に深く感じ入る。  そして、そんな普遍的な「生活」の中で、忘れてはならないことは何か? それは「表現」をするということだ。 「表現」とは、何もこの映画の主人公やその妻のように、「詩」を創作したり、「アート」や「料理」や「音楽」に没頭したりするような“クリエイティブ”な活動に限ったことではないだろう。  「愛してる」「美味しい」「ありがとう」「大丈夫?」「お前なんか嫌いだ」……生活の中の様々な事象に対して、ちゃんと自分の感情を相手に伝えるということ。 それが、もっとも大切な「表現」だと思えるし、そういうことを積み重ねていくからこそ、代り映えなく見える「生活」そのものが、何にも代えがたいものになり得るのだろうと思う。  半ば強制的に自らの「生活」に対して向き合わざるを得ないこのご時世。 ささやかな生活の中のささやかな喜びや多幸感を感じ、それを表現するコト。 このさざ波のような映画には、今この世界にもっとも必要なコトが満ち溢れている。
[インターネット(字幕)] 9点(2020-05-07 10:31:13)
122.  ザ・ランドロマット -パナマ文書流出-
「パナマ文書」とは結局のところ何なのか?  その知見を得ることを目的としてこの映画を観たならば、もしかすると逆効果かもしれない。 なぜならば、ストーリー展開に伴いその「真相」が詳らかになるほどに、関連する人物や物事はぐちゃぐちゃに入り組んで、わけが分からなくなることが必至だからだ。 それくらいに、この「パナマ文書」と称される機密文書に絡む一連の租税回避行為は、悪意に溢れた巧妙な責任転嫁の上に成り立っていて、その実態が見えてくればくるほど、怒りを超えた虚無感を覚える。  世界を股にかけたペーパーカンパニーを用いたマネーロンダリング。 その“合法行為”がもたらした「悲劇」と「裏切り」に対する怒りと虚無感が、稀有な映画手法で見事に描きつけられている。 呆れて失笑してしまうくらいに煩雑な相関関係も、それ故に入り乱れるストーリー展開も、本作の狙い通りであり、そこには明確な「意思」があった。  ラストカットでは、主演のメリル・ストリープが、劇中で演じたキャラクターを“二段階”で越え、更には“第四の壁”までも越えて、大女優メリル・ストリープとして断固たるメッセージを発する。 彼女は、観客である我々に向けて「まずは疑問を紐解くこと」の重要性を諭す。そして、自由のシンボルを模した姿と強い眼差しで、今この瞬間にも蔓延る“危機”を訴える。     事件当事者である実在の人物と狂言回し、そしてメッセンジャーとしての女優本人が、次々と立ち代わり入り乱れるストーリー展開は、前述の通り非常に分かりづらい。 ただし、だからこそ生じる愚かさや可笑しみも含めて、この映画のつくり手達の目論見通りであろう。 この世界の“真相”に対しては、大女優と同様に怒りに打ち震えるが、その感情も含めて面白味に溢れた作品だった。  それにしても、こんなにも時事的であると同時に実験的な映画を、こんなにも豪華なキャストで作り上げた監督は誰だ? と、思いきや、なんだスティーブン・ソダーバーグか。只々納得。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-04-07 22:53:06)
123.  ザ・サークル
トム・ハンクスが新型コロナウイルス感染との報を受け、映画ファンとして少なからず不安が深まる今日この頃。 世界的スターや著名人における感染の報を聞くと、いよいよ“パンデミック”の様相だなと流石に危機感は募る。  そんなわけで、名優トム・ハンクスを“応援”する意味も込めて、本作を鑑賞した。  基本的に、人格者の“善人”しか演じない印象のトム・ハンクスが、何やら悪意に満ちた人物像を演じている様は、公開時から気になっていた。 描き出されるテーマ的にも、2010年代以降世界を席巻し、もはやサーバースペースという領域を超えて、現代社会を“支配”しつつある“GAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)”を筆頭にした巨大IT企業に対して、ほぼ名指しでその「功罪」を追求していることは明らかで、実際に各社のサービスに“依存”してしまっている“1ユーザー”として非情に興味があった。  が、鑑賞後の率直な感想としては「ひどく中途半端だな」というところ。 “社会風刺映画”として、消化不良感は否めないし、きっぱりと面白くはなかった。  いろいろと問題はあろうが、最たる弱点は、お話としての踏み込みの甘さだろう。 現実社会に君臨する“GAFA”に対して、ほぼ直接的に言及し、警鐘を鳴らしているわりに、肝心な部分で希薄さを感じてしまった。それは創作に当たっての「尻込み」と言ってもいいだろう。  最先端企業の革新的な価値と華やかさを魅力的に映し出しつつ、その巨大企業が生み出したツールやサービスを“ユーザー”である我々人間の一人ひとりがどう「活用」するのか?という問題提起。 そのストーリーの本筋は間違っていないし、やはり興味深い。ただストーリーの中で息づくキャラクターたちの描写があまりにも類型的で軽薄だった。  主演のエマ・ワトソンも、トム・ハンクスも、演者としてキャラクターにマッチしていたとは思うし、精力的な演技を見せていたとは思うけれど、人物描写の軽薄さが響き、人間としてまったく魅力的に映らなかった。 それはその他の脇役についても同様で、ジョン・ボイエガ(「スター・ウォーズ」シリーズ)やカレン・ギラン(「アベンジャーズ」シリーズ)ら割と豪華なキャスト陣が、何やら意味深で印象的な佇まいは見せてくれるが、言動や心理描写が尽く浅いので、「結局、何がしたかったの?」と思ってしまう。  トム・ハンクスは人間力の高いパブリックイメージを表面的には活かしつつ、行き過ぎた企業戦略を強行するCEO役を演じていたが、悪役に徹することができず、終始あまりにも中途半端な立ち位置だった。 ラスト、主人公の行動により、辣腕のCEOはどのような帰着に至ったのか。結果的に善人であったとしても、悪人であったとしても、その顛末はきちんと描くべきだったと思う。  一方で、ある意味“放りっぱなし”なエンディングを選んだ意図は理解できる。 詰まるところ、巨大なIT企業の英知と戦略がもたらした「未来」はもはや避けられるものではない。 現実社会においても、“システム”が進化していくことは止められないし、止めるべきではないだろう。 そこで頼らざるを得ないのは、結局、人間の「善意」だということ。爆弾も、核エネルギーも、その「発明」自体に罪はないわけで。罪の対象は、常に「人間」そのものである。  そういうこの映画の核心を、もっと深く抉り出せていたならば、この映画はこんな中途半端な“円”ではなく、もっと“尖った”作品になっていただろう。     エンドロールで、“ビル・パクストン”の名前を見て、難病を抱えた主人公の父親役だったことに気づいた。 が、その直後に「For Bill」の文字。この作品の直後に61歳の若さで亡くなったそうで。「アポロ13」「ツイスター」をはじめ、僕自身が映画を本格的に鑑賞し始めた90年代のハリウッド映画を彩った俳優の一人だったので、悲しい。  兎にも角にも、とりあえずトム・ハンクスは、コロナを治そう。
[インターネット(字幕)] 4点(2020-03-18 15:13:23)
124.  ダークナイト(2008) 《ネタバレ》 
前作「バットマン ビギンズ」で、“バットマン”という周知のヒーローを、全く新たな「黒色」で塗り替えたクリストファー・ノーラン。 同監督が引き続き指揮を執った新シリーズの続編は、バットマンというヒーロー像に留まらず、“ヒーロー映画”そのものを洗練された「黒色」で塗りつぶし、新たな造形を浮き上がらせてみせたと思う。  バットマンというヒーローの誕生秘話を、決して派手な娯楽性に走らず、ビジュアルとインサイドの両面で濃密に描き出した「ビギンズ」は、見事な映画だった。 バットマンというと、大富豪が自らの莫大な資産を使って夜な夜なコウモリ男のコスチュームでヒーロー業を繰り広げるというどこか安直な印象がかつてはあったが、同作の誕生によりそのイメージは一新され、悲哀に溢れたダークヒーローへと進化したと思う。  今作では、このヒーロー特有の“ダークさ”を、更に進化させ、ついにはヒーローのレッテルすら剥奪されてしまう。ヒーロー映画としては、もはや「斬新」と言わざるを得ない。  その映画としての衝撃を成功へと至らしめた最大の要因は、悪役を演じた俳優の功績に他ならない。  ヒーロー映画においては、悪役を演じる俳優の重要性は、主演俳優のそれを遥かに凌ぐ。 かつての「バットマン(1989)」で、悪役ジョーカーを演じたジャック・ニコルソンが、主演のマイケル・キートンを抑え付けたように、今作は、同じくジョーカーを演じたヒース・レジャーの存在なしには考えられない。 そして、このジョーカーという役に限れば、ヒース・レジャーのパフォーマンスは、ジャック・ニコルソンの比ではなく、遥かに凌ぐ。  バットマンの存在性と表裏一体に描かれるジョーカーの異常性は、今作のまさに核心であり、それを120%表現したヒース・レジャーは圧倒的だった。  文字通りのマッドピエロの狂言回しによって、極限まで追いつめられたヒーローの選んだ宿命。  この顛末を、「娯楽」が最優先されるべきヒーロー映画でやり遂げられたのは、クリストファー・ノーランという鬼才監督と、早過ぎる死によって伝説と化した若き名優ヒース・レジャーの奇跡的なコラボレーションに他ならないと思う。  これから先、ジョーカーという役に限られることなく、映画俳優としての功績で、大名優ジャック・ニコルソンを超える可能性を秘めていた俳優の死は、あまりに残念だ。
[映画館(字幕)] 9点(2020-03-05 21:21:32)
125.  アンブレイカブル
「シックス・センス」で衝撃的な才覚を見せたM・ナイト・シャマランであるが、今作はそれをさらに越える衝撃であった。非常に哲学的なストーリーの顛末、ヒッチコックを髣髴とさせる映像的なサスペンスフル。シャマラン監督はこの映画をもってその実力を不動のものにした。
[映画館(字幕)] 10点(2020-03-05 21:05:13)
126.  シャークネード カテゴリー2<TVM>
「1時間に50ミリの“降サメ量”となるでしょう」と、NYのお天気お姉さんが真剣な表情で伝える。 フツーなら「“降サメ量”ってなんやねん!」と突っ込みたくなるところだが、そのシーンの頃にはそんな「大馬鹿」なキラーフレーズすら思わず受けれてしまっている自分がいた。(“積サメ量”というフレーズも続く)  “Z級映画”史上屈指のムーブメントを引き起こし、カルト的に人気を勝ち得た“禁断”のサメ映画シリーズ第二弾。 パート1も確かに言葉を失ってしまうくらいに“どうかしている”作品だったけれど、このパート2にして完全なる“イカれ映画”として堂々爆誕している。 おそらくは、このパート2の弾けっぷりこそが、今シリーズをある意味「神格化」させた起爆剤だったのだろうと思う。  まず、前作と比べると、明らかな映像的クオリティアップに驚く。 勿論、一般的な大作映画と比較すれば、CGにしても特撮にしても“お粗末”の範疇を出てはいないのだが、それでも前作の見るからにチープな映像表現を思えば、バジェット(製作費)が倍増していることも明らかだった。  そういう部分を目の当たりにすると、どんなにクオリティの低いバカ映画だろうと、ヒットした作品には、わかりやすくちゃんと“金”が回ってくるアメリカの映画界は、ある意味健全だなと思う。     バジェットの増大は映像的なクオリティアップに留まらず、キャスト陣の顔ぶれにも大いに影響している。  パート1では、見たことがある俳優といえば、主人公の店の常連客役の故ジョン・ハード(「ホーム・アローン」のパパ役)くらいだったが、本作では、個人的に大好きな「インデペンデンス・デイ(ID4)」シリーズのジャド・ハーシュの出演がアツかった。 主人公たちの焦りや悲壮感をよそに喋りまくるタクシー運転手役は、「ID4」で演じた主人公の父親役を彷彿とさせ、とても懐かしかったのだが、特徴的なキャラ設定のわりに“死に様”はあっさりとしていて残念。  まあ、脇役キャラやモブキャラの死亡シーンの“テキトー”な感じもZ級映画のお約束なのだろうと、だんだん理解してきたよ。  ただキャスト的に最も驚いたのは、主人公の昔の恋人役として登場する黒人女性“スカイ”を演じたのが、ヴィヴィカ・A・フォックスだったということ。 ってそれ誰やねん?と、映画ファンであっても多くの人が疑問だろうけれど、ヴィヴィカ・A・フォックスといえば、これまた「インデペンデンス・デイ」でウィル・スミスの恋人役を演じた女優ではないか。  「ID4」では、キュートな風貌と華奢な体つきで、セクシーなストリップダンサーでもあり、一人息子を持つシングルマザーでもあるヒロイン役を好演していたものだが、あれから20年、随分と巨漢に……いや逞しくなられて。 ウィル・スミスに「君の脚は鶏ガラ」なんてからかわれていたものですが、本作では“セリーナ・ウィリアムズ”並の貫禄で、主人公をバッチリサポートしてくれます(そして切ない!)。     そんなわけで、パニックムービーとしての映像的クオリティも格段に向上し、キャスト陣的にも見応えのある本作であるが、兎にも角にもクライマックスにおける映画作品としての「暴走」が半端ない。  何の因果か知らないけれど、2作目にして完全に“シャークネード”にとり憑かれてしまっている主人公は、“最終決戦”を前にして、ついに脳内のどこかの“線”が切れてしまったようだ。 表面上は、NY市長をはじめとするニューヨーカーたちを前にしてヒーロー然と振る舞っているけれど、その精神状態は完全なる怒れるイカれ野郎。無論、そんな男でなければ、こんなイカれた災害に打ち勝てるわけがないわけで。  意味不明に体を反り返しながら巨大鮫をチェーンソーでぶった切るお約束シーンを皮切りに、バカ、馬鹿、大馬鹿シーンのオンパレード。 前作ではそんなバカシーンの連続に対して開いた口が塞がらなかっただけだったが、本作ではそんな状態を超えて、一抹の「高揚感」を覚えていることにはたと気づいてしまった。  最終的には、元妻の“喰われた左腕”から指輪を抜き取り、エンパイアステートビルのてっぺんで再プロポーズをするという、本当にどうかしているラストシーンをも受け入れてしまっているシマツ。  嗚呼、ズブリズブリと沼に落ち込む音が聞こえる。
[インターネット(吹替)] 6点(2020-03-02 22:58:30)(良:1票)
127.  オーシャンズ8
休日の真っ昼間から赤ワイン片手に、豪華絢爛な大女優だらけの泥棒映画を観る至福。  110分の間、その「至福」を堪能出来ただけで、個人的には娯楽映画としての価値は揺るがないし、実際のところ存分に楽しめた。  スティーヴン・ソダーバーグ監督が手掛けた「オーシャンズ11」がもう20年近く前の作品であることにはショックを受けざるを得ないが、再び映し出された「娯楽」は、良くも悪くも「オーシャンズ11」の映画世界そのもので、その“感覚”がもはや懐かしくもあった。  「豪華キャストを揃えただけの映画」  とは、2001年の「オーシャンズ11」公開当時から、この映画シリーズを通じて、最も多く発された否定的な感想だろう。  そして、それは概ね間違いない意見だ。  ただし、僕はそれこそがこの映画シリーズの最大の娯楽要素であると思うし、その“キャスティング”の凄さをちゃんと堪能することが、こういう映画の正しい観方であろうと、20年前から思っていた。  そしてこの最新作は、監督はスティーヴン・ソダーバーグではないし、ジョージ・クルーニーもブラッド・ピットもマット・デイモンも出演していないけれど、れっきとした“オールスター映画”である。 冒頭でも述べた通り、まさに世界屈指の宝石のように美しい大女優たちの競演を観られるだけで、只々“楽しい”。  サンドラ・ブロック、ケイト・ブランシェット、アン・ハサウェイのアカデミー賞ウィナーの三者を筆頭に、彼女たちに劣らぬ大女優の一人であるヘレナ・ボナム=カーター、トップシンガーのリアーナらを揃えた「8」の顔ぶれは、「11」に劣らぬ豪華さであり、文字通り華々しい。  だがしかし、いくら彼女たちがハリウッドを代表するスーパースターであっても、女優のみが主演のエンターテイメント大作を映画企画として成立させるには、まだまだ足かせや困難が付き纏うのが、虚しく悲しい現実である。 エンターテイメントの世界に生きる世界中の名女優、大女優たちが声高に「待遇」と「機会」の改善を訴えるようになって久しいが、それでも、この世界の“男”と“女”は、まだまだ「平等」には程遠い。  そういう意味でも、人気シリーズの新たな続編として、キャスティングの根本から刷新した本作の試みとその成果は、非常に価値があるものだと思う。  サンドラ・ブロックやケイト・ブランシェットが、撮影の合間に気軽に電話をすれば、ジョージ・クルーニーやブラッド・ピットはたとえノーギャラでも喜んでゲスト出演しただろうけれど、それをせずに、女性だけで“キャッキャッ”と「勝利」する映画として貫き通したことが、彼女たちの「矜持」だったのだろう。(「女友達が欲しかった」という大女優役の大女優のセリフがすべてだ)  見事に盗み出した世界一の宝石を身に着けて、颯爽と現場を後にする彼女たちそれぞれの表情には、映画世界のキャラクター設定を超えた「女性」としての“気品”と“プライド”が満ち溢れていたように見えた。     とはいえ、しつこいくらいに「死亡」したことが語られるダニー・オーシャン(ジョージ・クルーニー)が絶対に死んでいないことは明らかであり、それならば、ラストシーンの一瞬でもいいから存在を垣間見せてほしかったなあ、というのが映画ファンの正直な感想ではあるけれどね。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-02-25 23:32:49)
128.  シャークネード<TVM>
いやはや……。ウワサには聞いていたが、もはやどう形容すべきか分からん。 “Z級映画”とはうまく言ったもので、確かにAとかBとかCとかいうレベルでは測りきれない。 圧倒的なチープさと一抹の魅力が癖になるというムーブメントも分からなくはない。  もはや映像的なチープさや、ストーリー展開の幼稚さを突っ込むべきものではない。 相応の「覚悟」を持って観始めたつもりだったが、それでも特に序盤の低レベル加減には、なかなか耐えきれぬものがあった。 低予算のテレビ映画だとはいえ、よくもまあこの程度の映像作品を大の大人が作り出すものだ。  ただ、逆に言うと、その限られた予算の中でも、何かしら面白味のあるモンスター映画を作ろうという、作り手たちの気概というか、“真剣な馬鹿さ”みたいなものは伝わってくる。  そして、この手の最低レベルのテレビ映画が、アメリカではずうっと昔から量産し続けられているわけで、そこには製作者側にも、視聴者側にも、芳醇で寛容な文化の幅のようなものを感じる。  こういう低予算映画の文化と需要が存在し、売れていない俳優やスタッフらを含めた“映画人”たちに、可能な限り「仕事」が分配され、下支えされているからこそ、彼の国の映画産業は強大なのだとも思う。  全編通してあんぐりと口を開けっ放しにせざるを得ない“サメ映画”だったが、流石Z級映画としては異例のシリーズ化もされ、一つのムーブメントを生み出した作品だけあって、べっとりと拭い去れない娯楽性は感じられた。 特にクライマックスの怒涛のトンデモ展開は、この作品のシリーズ化を確定させた要素なのだろう。  無論、そういうトンデモ映画は嫌いじゃないわけで。 シリーズ最新作のトレーラーを観てみると、更に更に常軌を逸した世界観が広がっていることは明らかだった。 「沼」にハマるのは怖いが、恐る恐る踏み入ってみようか。  こういう低予算映画の文化と需要が存在し、売れていない俳優やスタッフらを含めた“映画人”たちに、可能な限り「仕事」が分配され、下支えされているからこそ、彼の国の映画産業は強大なのだとも思う。   全編通してあんぐりと口を開けっ放しにせざるを得ない“サメ映画”だったが、流石Z級映画としては異例のシリーズ化もされ、一つのムーブメントを生み出した作品だけあって、べっとりと拭い去れない娯楽性は感じられた。 特にクライマックスの怒涛のトンデモ展開は、この作品のシリーズ化を確定させた要素なのだろう。  無論、そういうトンデモ映画は嫌いじゃないわけで。 シリーズ最新作のトレーラーを観てみると、更に更に常軌を逸した世界観が広がっていることは明らかだった。 「沼」にハマるのは怖いが、恐る恐る踏み入ってみようか。
[インターネット(字幕)] 3点(2020-02-24 12:58:05)
129.  MEG ザ・モンスター
「B級モンスター映画」と呼ばれるジャンル映画を、長らく愛してきた。 僕自身が映画を観始めた1990年代は、モンスタームービーの一つの隆盛期とも言え、数多くの同ジャンル映画が生み出され、興奮と恐怖、そして酷評が渦巻いていた。  “B級モンスター映画”の不朽の名作としてもはや誉れ高い「トレマーズ」を始め、「ザ・グリード」「アナコンダ」はその代表格と言えるだろう。 ローランド・エメリッヒ版「GODZILLA ゴジラ」や「ジュラシック・パークⅢ」も優れた“B級モンスター映画”だと言って間違いない。  そして90年代のモンスター映画として忘れてはならないのが、1999年の「ディープ・ブルー」だ。 “人喰いザメ”を描いた映画といえば、勿論その筆頭に挙げざるを得ないのは、スティーヴン・スピルバーグの「ジョーズ」だろう。 しかしながら、“B級モンスター映画”のジャンルに限った上での“サメ映画”と言えば、スピルバーグ御大の名作を差し置いて「ディープ・ブルー」を思い浮かべる映画ファンはとても多いだろう。  生体実験によって生み出された巨大で利口なサメたちが、凶暴に、そして知性的に、実験施設の人間たちを襲う。 アクション映画の雄、レニー・ハーリン監督が描き出したこのサメ映画は、映像的な迫力もさることながら、誰がどの順番で死亡するか予測不可能で、その破天荒なストーリーラインが魅力的なモンスター映画の名作だった。  そして本作は、その「ディープ・ブルー」のテイストを多分に孕んだ、良い意味でも悪い意味でも、「B級モンスター映画」と呼ぶに相応しい娯楽映画として仕上がっている。  未知の海溝探査を行う海洋研究施設を舞台にし、太古の巨大鮫“メガロドン”が施設の人間たちに襲いかかるというプロットは、「ディープ・ブルー」ととても似通っており、主人公がいざとなったら自ら海中に飛び込み巨大鮫と直接対峙する“筋肉バカ”であるところも共通している。  ただし、この映画において最も注意すべき要素は、その“筋肉バカ”の主人公を演じるのが、我らがジェイソン・ステイサムであるということだ。 この要素を正確に捉えて鑑賞できているかどうかで、鑑賞後の満足感は大いに変わってしまうと思う。  この映画は、“B級モンスター映画(サメ映画)”であると同時に、紛れもない“ジェイソン・ステイサム映画”である。  詰まるところ何が言いたいかというと、いくら規格外の巨大鮫が襲ってこようが、海中で絶体絶命の一騎打ちになろうが、ジェイソン・ステイサム演じる筋骨隆々の主人公が死亡するということは絶対に無い。ということ。  この映画の主人公は、「無理やり連れてこられた」的なことを言いはするが、端から自分自身をより危険な状況に追い込んでおり、最終的には“メガロドン”との「対決」を一人楽しんでいるフシすらある。  それは普通のモンスター映画の主人公であれば鼻白むキャラクター設定だろうけれど、演じるのがジェイソン・ステイサムであるのならば、話は全く別。 クライマックスにかけてどんどんと馬鹿っぽくなる映画全体のテンションは、“ジェイソン・ステイサム映画”として極めて真っ当で、良い。 最終的な“決着シーン”では、非現実的すぎて大笑いしてしまったことも、ステイサム映画ならではだろう。  と、当代随一のアクション映画俳優のスター性に溜飲を下げる一方で、“B級モンスター映画”としてはもう一つ振り切れていないことは否めない。  せっかく巨費を投じた大作映画なのだから、もっとビジュアル的に大胆な“画”があってしかるべきだったろうし、古代鮫の規格外の巨大感も今ひとつ表現しきれていなかった。  またジェイソン・ステイサムの脇を固める俳優陣も、大富豪役のレイン・ウィルソン、リーダー役のクリフ・カーティスと味のあるキャスティングができていたので、新鮮な人物描写や、小気味いいストーリーテリングがあれば、もっと面白味は深まったろうと思う。  “サメ映画”のジャンルの深層には、「Z級映画」と呼ばれる更に常軌を逸したモンスタームービーがおびただしい群れをなしているとも聞く。その中では本作で登場した“メガロドン”などはもはや使い古されたネタらしい。  僕はまだおっかなくてその世界に足を踏み入れていないのだけれど、これを機にちょっとその深い海の底を覗いてみようかと思う。
[インターネット(字幕)] 6点(2020-02-23 22:55:39)(良:2票)
130.  1917 命をかけた伝令 《ネタバレ》 
まさしく、「臨場感」の境地。  戦場の瞬間を途切らすことなくつぶさに映し出した映画世界にあらわれたものは、虚無と望郷、そして幻想が入り交じった一人の兵士の“混濁”だった。  実寸規模の何kmにも及ぶ巨大セット(というか“戦場”そのもの)を作り出し、“ワンカット風”の演出で描き出した映像世界は流石に凄い。 “戦場の臨場感”という観点から言えば、クリストファー・ノーラン監督の「ダンケルク」も記憶に新しいところ。 あの作品も「本物」の撮影にこだわり抜いた意欲作であり、傑作だったと思うけれど、本作も、サム・メンデス監督が全く異なるベクトルの“主観”によって映し出した戦争映画の新たな傑作だと言えるだろう。  「臨場感」という表現を用いたが、この映画におけるその言葉の意味は、映像的な“没入感”のみを指すものではない。  「全編ワンカット映像」という触れ込みがイントロダクションとして大々的に伝えられていたので、映像的に「見せる」映画なのだろうというイメージが先行していた。 勿論、前述の通り超巨大セットによる映像的な迫力と説得力の高さは言わずもがなだが、この映画の醍醐味は、視覚的な体感を超えて、画面に映り続ける「兵士」の心理状態や精神状態をも体感できるということだろう。  この映画は、休憩中に微睡んでいる或る兵士がふいに上官に起こされるカットから始まる。 わけも分からず司令官に呼び出された兵士は、或る重大な指令を受け、すぐさま最前線に直行し、突如として明確な「死」に直面する。  その間、時間にしてわずか数十分。  “微睡み”から“死”まで、リアルタイムに映し出されたこの数十分に、一兵士の心理と戦場の無慈悲が表れている。  サム・メンデス監督がこの映画で示したかったことは、戦場のリアルを単に映像的に「見せる」ということではなく、そこに渦巻く兵士たちの無数の感情を含めて「魅せる」ことだったのだと思う。  それを表すように、“ワンカット風”、“リアルタイム風”に映し出される映像世界は、終盤に差し掛かるにつれ、幻想的に、非現実的に表現される。  敵兵の銃弾を受けブラックアウトした主人公の兵士が目覚めた時、彼が目にしたものは、戦火に照らされた幻想的な廃墟の街並みだった。  厳かで、神々しいまでに美しく照らされたあの光景は、果たして「現実」だったのか? もしかしたら、彼は敵と相討ち、その場で絶命してしまったのかもしれない。  あの光景の先で描かれる、母子(疑似)との慈愛に満ちた邂逅も、絶体絶命のアクロバティックな逃走も、砲弾をかいくぐる奇跡的な疾走も、すべては死後の幻想であり、我々は彼の深層心理を垣間見ていたのではないか。と、そんな思いに駆られる。     某映画評論でも触れられていたが、この映画で描き出されたような「伝令」が実際に実行され、無意味な突撃が阻止されたなんてことは無かったに等しいだろう。現実の戦場では、無意味な作戦と、無駄死にが延々と繰り返されていたに違いない。  本作では、ベネディクト・カンバーバッチ演じる最前線の指揮官が、「伝令」を素直に受け入れるけれど、劇中マーク・ストロング演じる将校が示唆していたように、実際は軍人の「意地」で愚かな突撃を強行した指揮官が殆どだったのだろうとも思う。  そういう「現実」や、垣間見える兵士の「幻想」を思うと、この映画には表面的な感動の裏に、極めて混濁した真理が潜んでいるように感じるのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2020-02-21 23:50:19)(良:2票)
131.  マリッジ・ストーリー
「いやあ、ちょっと、ぐうの音も出ない。」  と、鑑賞直後に呟いてから一週間が経とうとしているが、その後も紡ぐべき言葉が中々出てこなかった。 “ブラック・ウィドウ”と“カイロ・レン”の「リアル」なバトルを目の当たりにして、只々身につまされ、ひたすらに打ちのめされた感覚のまま、数日間、思考が止まっている。  もう軽く受け流して、目を背けたい気持ちでいっぱいだけれど、なんとか“鑑みてみよう”と思う。  主人公夫婦と、僕たち夫婦の境遇はとても良く似ている。 結婚して10年、共に働き、長子は8歳。(そして、妻はダンスが上手く、腕っぷしが強い。)  どうにかこうにか今のところ「離婚」というプロセスは辿ってはいないけれど、喧嘩はしょっちゅうするし、甲斐性のない僕に対する妻の不満の蓄積は認めざるを得ない。  勿論、僕は妻を愛しているし、たぶん…、おそらく…、願わくば…、彼女もそうであることは変わりないと思うけれど、だからと言って、最初の「約束」通りに、連れ添い続けることが「絶対」ではない。 ある意味ひどく“曖昧”で、とても“脆い”関係性が「夫婦」というものだろう。  この映画の「夫婦」にしたって、最後の最後まで、互いに思い合い、愛していることは明らかだ。 それでも、ささいなすれ違いは極限まで広がり続け、「離婚」という選択を避けられなくなっている。 滑稽で、愚かしくもあるけれど、それはあまりにも普遍的な悲哀だろう。 世界中の何千、何万、何億という夫婦が、まったく同じようなプロセスを日々歩んでいる。  描き出される“ストーリー”が、現実世界でありふれているからこそ、「夫婦」というものの当事者である僕たちは、胸が痛くて痛くてたまらなくなる。  そして、「夫婦」として連れ添い続ける以上、その不安や恐れは、ずうっと無くなったりせず、この道の真ん中に常に在り続けるのだ。  そのことを考えると、まあ面倒であり、心細くもあるけれど、同時にエキサイティングでもあるし、そういった諸々の感情を含めて、豊かで芳醇な人生というものなのだろうとも思える。  兎にも角にも本作は、「アベンジャーズ」や「スター・ウォーズ」とは全く別のベクトルではあるが、同等、いやそれ以上に圧倒的な“バトル映画”であった。  スカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライバーによる、“怒り”と“悲しみ”と“愛”に満ちた感情の応酬の様は、白眉の名シーンであり、同じように“夫婦喧嘩”で感情をむき出しにしてしまった経験が少しでもある人であれば、グッサリと大きな棘が胸に突き刺さることであろう。  果たして、どこまで続いているのか分からないけれど、僕は僕で、このストーリーが紡ぐ道をこれからも歩んでみようと思う。
[インターネット(字幕)] 9点(2020-02-14 23:18:12)(良:1票)
132.  6アンダーグラウンド
“セミプロ版”スパイ大作戦(大暴走)!!by マイケル・ベイ  「007」にしても、「ミッション:インポッシブル」にしても、主人公のスーパー諜報員の超人的活躍が目立つが、その裏ではやっぱり「組織力」が彼らの諜報活動の精度を上げているんだなということを痛感させられる。 それくらい、この映画の主人公(大富豪)が“自警団”的にはじめたスパイチームの暗躍は、綻びだらけで、世界にとっては甚だしく大迷惑だ。  ただし、この映画の大暴走+大迷惑ぶりは完全に確信犯であり、映画作品としての是非以前に、終始一貫して“マイケル・ベイ節”が全開である。 ファーストシーンのカーチェイスから、“ギア”の入れ方が常軌を逸している、というよりも、あるべき“ギア”自体がどこかへ飛んでいってしまっているようだった。 ストーリーテリングなど端から放棄していて、ただただ問答無用の盛々のアクションシーンと、過剰に露悪的なゴア描写が繰り返される。 マイケル・ベイ監督は、「トランスフォーマー」シリーズの後半から既に“開き直っていた節”があったが、「Netflix」というある種の無法地帯に降臨し、益々暴走が止まらなくなっている(ギリギリ褒めている)。  えーと、結局ライアン・レイノルズ演じる主人公がその人間性も含めて何者で、何が“真意”なのかまったく分からないけれど、そんなストーリーの粗なんて突っ込むことすら馬鹿馬鹿しいし、実際どうでもいい。 色々な意味で「非常識」な物量のアクションシーンをあんぐりと口を開けて堪能しつつ、エンドロールが始まった瞬間に何も記憶に残さずに鑑賞を終える。それが今作に対する正しいスタンスだろう。
[インターネット(字幕)] 6点(2020-01-12 09:13:19)(良:1票)
133.  キャプテン・マーベル
“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”は、最終章「エンドゲーム」公開を直前に控えたこのタイミングで、唯一欠けていた“ピース”を埋めてきたのだと思った。 多種多様なスーパーヒーロー達を描き連ね、「正義」という概念に対する様々な価値観と、それに伴う結束と決裂と崩壊を、MCUは大エンターテイメントの中で映し出してきた。 そんな中において、唯一にして明確に欠けていた要素があった。それは映画企画としては後発の“DC”では先に表されていたものでもある。  それは即ち、「時代」に即した、圧倒的に強く魅力的な女性ヒーローの存在だ。 無論、これまでのMCUの作品群の中でも、強くて魅力的な女性キャラクターは数多く登場する。 ブラック・ウィドウ、スカーレット・ウィッチをはじめとするアベンジャーズメンバーは勿論、ペギー・カーターやマリア・ヒルなどS.H.I.E.L.Dという組織を支えてきた面々、ガモーラやワスプなど主人公キャラをも凌駕する強さを発揮するキャラクターも幾人も登場している。 だがしかし、彼女たちはすべてスーパーヒーローやリーダーをサポートする役割であり、物語の“主人公”にはなり得ていなかった。 新たな時代の価値観を踏まえて、それぞれの作品のストーリーを紡いできたMCUであるが、その女性キャラクターの偏った立ち位置においてはあまりに前時代的だったと言わざるを得ない。  そんなシリーズの文脈の中でついに登場した女性ヒーローが、今作のキャロル・ダンヴァース=“キャプテン・マーベル”なのだと思う。 それはまさに、ライバルDCエクステンデッド・ユニバースが、起死回生の傑作となった「ワンダーウーマン」で成し得たことそのものであり、作中の類似性も含めて「ワンダーウーマン」が無ければ、今作は誕生しなかったのではないかとすら思える。  ただ単に強い女性ヒーローを誕生させただけであれば、それこそ「ワンダーウーマン」の真似事に過ぎないところだが、そこは流石のMCU、しっかりと大河の本流に組み込ませつつ、想定を大いに超える圧倒的な無双ぶりを展開させ、問答無用の高揚感を与えてくれる。 若きニック・フューリー(aka サミュエル・L・ジャクソン)を“相方”とすることで必然的に生じる軽妙な台詞回しとユーモアも全編通して気が利いており巧い。   「感情的」で何が悪い? 怒り、悲しみ、泣き、笑い、「女」は何度だって立ち上がる。 その神々しいまでの勇ましさは、「インフィニティ・ウォー」によるあまりに大きな絶望感に対してようやく生まれた一筋の光だ。 とにもかくにも、ニック・フューリーが最後の最後まで隠し持った“切り札”はとんでもなかった。
[映画館(字幕)] 8点(2020-01-11 01:16:21)(良:1票)
134.  ハンターキラー 潜航せよ
昔、ある高校の同級生に好きな映画のジャンルを聞くと、「原子力潜水艦モノ」とピンポイントな返答が返ってきた。こちらとしては、“アクション映画”だとか、“ホラー映画”だとかの大別したジャンルを聞いたつもりだったので、一笑に付してしまったが、今思い返してみると、とても潔く、的を射た返答だと思える。  詰まるところ、“原潜モノ”というジャンルに区分けされる映画には、一定の娯楽性が担保されていて、大ハズレが少ない。 1981年生まれの自分の世代だと、ショーン・コネリーの「レッド・オクトーバーを追え」を皮切りに、ジーン・ハックマン、デンゼル・ワシントン競演の「クリムゾン・タイド」、そしてキャスリン・ビグロー監督の「K-19」などの骨太なエンターテイメントを孕んだハリウッド映画の印象が強い。 どの作品も、それぞれの時代背景を踏まえて、必然的な閉鎖空間の中で、艦長をはじめとする乗組員たちが選択と決断を迫られる様がスリリングであると共に、決死の覚悟で任務遂行を果たそうとする姿に極上のドラマを感じられる。  潜水艦内という空間には、物理的にも、状況的にも、そもそも緊張感や緊迫感が付随していることに加え、極めて限られた空間描写で済むという点において製作費的な負担も少なくて済むので、映画との相性が良いのだろうとも思う。 ただ状況設定が限定的な分、映画として描き出せるストーリーとしても限られていることも事実。“ネタ切れ”のためハリウッドでは長らく大作映画が作られてこなかった。  そんな中で満を持してのハリウッド産原子力潜水艦映画に対しては、“原潜モノ”ファンでなくとも、高揚感を覚えずにはいられなかった。 そして主人公の艦長役にはジェラルド・バトラー!こりゃあ暑苦しいまでの男のドラマを見せてくれるに違いないと身構えて鑑賞に至った。  まず言いたいのは、「これはしっかりと良い原子力潜水艦映画だ」ということ。 前述の定義にもれず、久しぶりに観た“原潜モノ”はやはり映画娯楽との相性が良く、全編通して存分に楽しむことができた。  ただこの映画には“想定外”の要素がいくつかあり、その点もより一層映画としての娯楽性を高めていたと思う。  まずは、ジェラルド・バトラー演じる主人公が思ったよりも「冷静」で、ちゃんと優れた艦長だったということ。 主人公のそのキャラ設定が想定外だったというのがおかしな話だが、昨今の彼の主演映画での無頼漢ぶりを見るにつけ、今作においても原潜艦長であるのをいいことに、常軌を逸した豪胆さで危機を弾き返すのだろうと高を括っていた。 しかし、今作の主人公は極めて冷静で、我慢強く、圧倒的な精神力の強さで絶体絶命の危機を回避してみせる。 驚くことに、彼がこの映画の中で、明確な“暴力”を行使することは直接的にも間接的にも只の一度も無く、ひたすらに我慢と、対話を繰り返す。(そういえば冒頭のハンティングシーンでも彼は鹿を殺していない) そのキャラクター描写は、この映画が描き出す危機に対する姿勢として極めて真っ当であり、映画としての魅力にも直結していると思う。  そしてもう一つ想定外だったのは、陸上の潜入作戦を描く“特殊部隊モノ”の要素がどーんと並行して展開されるということ。 下手を打てば、完全な蛇足ともなり得たその陸上シーンだが、これまた娯楽性が存外に高く、嬉しい“大盛り”だったことは間違いない。  原潜映画に限らず、過去の様々なミリタリー映画の要素を盛り合わせていると言えなくは無く、「傑作」とは言えないかもしれないが、はっきり言ってこれだけのものを食らわせてくれれば申し分は無い。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2020-01-11 01:13:09)
135.  女王陛下のお気に入り
絢爛豪華なイングランドの王室を舞台にしつつも、べっとりと全身に塗りたくられた“何か”の臭いが漂ってくるようだった。 その臭いの正体は、汚物交じりの泥なのか、吐しゃ物なのか、生臭い体液なのか、それとも嫉妬と愛憎に塗れた“怨念”なのか。 いずれにしてもこの映画が描き出すものは、実在の女王を中心に据えた煌びやかな史劇などでは全く無く、3人の女性のあまりにも生々しい「欲望」そのものだった。  情け容赦なく、無情なこの映画の物語性は、普通の映画づくりであれば、もっと鈍重に、ただただ陰惨に映し出されて然るべきだろう。 しかし、この“へんてこりん”な映画のアプローチはまったくもって異質で、まるで観たことがない映画世界を構築し、魅了する。 それは決してビジュアル的にヴィヴィッドな映像表現をしていたり、突飛な演出をしているわけではなく、重厚な史劇描写の雰囲気を保持したまま、時代考証の垣根を越えて、現代的な“軽薄”と“インモラル”を孕ませている。  そんな特異な映画世界の空気感の中で、3人の女優が演じる「女」たちが、見事なまでに怖ろしく、哀しく、息づいている。 オスカーのトリプルノミネートとなった主演女優3人の文字通りの「競演」が本当に素晴らしい。 既に女優賞ウィナーのエマ・ストーン、レイチェル・ワイズは無論素晴らしかった。 が、やはり特筆すべきは、本作で主演女優賞ウィナーとなったオリヴィア・コールマンの圧倒的な存在感と、表現力に尽きる。 彼女が演じたアン女王からは、重く悲痛な運命を背負った哀しみと、女性としての強かさと恐ろしさと醜さ、そして欲望に対する純粋な貪欲さに至るまで、ありとあらゆる感情や情念が文字通りねっとりと全身から溢れ出しているかのようだった。  圧倒的権力を持ちつつも、心身ともに脆く危うい哀しき女王は、幼馴染の聡明で美しい公爵夫人に身を心も委ねることで、何とか“バランス”を保てていた。 しかし、そこにもう一人の“女”が入り込んでしまったことで、バランスは脆くも崩れ、三者三様の欲望は渦となり、彼女たち自身を吞み込んでいく。  泥に塗れ地に堕ちた屈辱を胸に秘め、若き女は、悪魔になることも躊躇わず、ついに“兎”のように女王の寵愛を勝ち取る。 そしてはたと気づく、17匹の兎の寿命は短く、蠢く命の中から常に入れ替わっているだろうことに。 彼女自身、無限に続く「代用」でしかないことに。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2020-01-11 01:11:57)(良:1票)
136.  アイリッシュマン
一言、凄い。 「映画」という“表現”と“歴史”が内包する「過去」と「現在」と「未来」を濃縮したような凄い映画だった。 この映画の“凄さ”は幾層に折り重なっていて、とてもじゃないが一度の鑑賞のみで語り尽くすのは困難に思う。  マーティン・スコセッシ監督が、自身のフィルモグラフィーにおける盟友(+名優)たちを集めて、ある種“懐古的”に製作されたギャング映画かと思っていた。 無論、その想像通りに、老いたデ・ニーロがスコセッシ作品で再びギャング役を演じるだけだったとしても、映画ファンとしての興奮は揺るがず、きっと良作になっていたに違いない。 だがしかし、この映画作品が孕むテーマとクオリティは、そんな安直な想像を容易に飛び越えて、遥かに高尚で、圧倒的に面白い映画の境地を見せてくる。  “マーティン・スコセッシの新作で老いたロバート・デ・ニーロがギャング役を演じている” そのこと自体に間違いは無い。が、そこに映し出されたものは、決して単なる懐古主義などでは留まるわけもない“新しい映画表現”そのものだった。  CG技術によって俳優の実年齢を大幅に変えて若返らせたり、老け込ませたりする“映像処理”の手法自体はもはや珍しくもなんともないことだけれど、今作のそれは、“映像処理”などという表面的な範疇を遥かに超えて、監督の演出と、俳優の演技に密接にリンクする「表現」として昇華されている。 そこで感じられたものは、ビジュアル的に違和感が有るとか無いとかのレベルではない。 稀代の名優たちが、スコセッシ監督が言うところの「CGによるメイク」を施されることにより、それぞれのキャラクターの人生を圧倒的な演技力で表現しきっていることに他ならない。  きっと、この映画を観た若い俳優たちは、驚きと共に、“恐れ”と“喜び”で、震え上がったに違いない。 なぜなら、避けられぬ老いと共に、一線から引いていたに見えた偉大な名優たちが、映画の新しい表現方法により再び新たな可能性を得たことを目の当たりにしてしまったのだから。 それは俳優としての機会損失の危機であると同時に、映画史の過去と未来が現在進行系で入り交じる、より多様性を孕んだ新しいキャスティング時代の幕開けに他ならないと思える。  そしてこの新しい映画表現が「実現」したフィールドが、「Netflix」という新時代のメディアであることも、当然ながら看過できない。 今の時代、通常の映画興行では“3時間半”に及ぶ長尺で、“ギャング映画”を製作し、公開するなんてことはほぼ不可能だろう。 巨額の製作費的にも、観客側のニーズ的にも、インターネットによる世界同時配信だからこそ成立した映画企画だったことは明らかで、この作品の“勝利”をきっかけとして、世界の映画人たちの“軸足”は益々変遷していくに違いない。  映画ファンの一人として、映画を「映画館」で鑑賞することの幸福は決して揺るがない、と思いたいけれど、本当に面白い映画を観ることができる「場所」が変わってしまうのならば、僕たち観客も“軸足”を変えざるを得ないだろう。
[インターネット(字幕)] 9点(2020-01-08 21:36:00)(良:1票)
137.  アリータ:バトル・エンジェル 《ネタバレ》 
序盤から何だかいやな予感はしていた。 舞台はディストピア、何らかの過去を抱えた選ばれしヒロイン、苦境の中で芽生える無垢な恋心、絶対的権力と運命に対する若者たちの抗い……ああ、この流れは、典型的な量産型ティーン向けムービーじゃないか。 有り触れたクライマックスと、見え透いた続編に向けたラストシーンを迎えた頃には、すっかり気持ちは萎えてしまっていた。   ジェームズ・キャメロン、ロバート・ロドリゲスというビックネームが名を連ね、クリストフ・ヴァルツ、マハーシャラ・アリらアカデミー賞俳優が顔を並べた今作のインフォメーションは魅力的だった。 久しぶりに登場したジェームズ・キャメロン御大に「革新的映像!」と日本人向けに煽られては、そりゃ期待せずにはいられないじゃないか。 というわけで、昨年早々のトレーラー公開時から期待値は非常に高かったのだが、結果としては非常に残念な仕上がりだった。   映像世界の作りこみは確かに凄いとは思うが、決して目新しさがあったわけでもなく、「革新的」と謳うわりにはあまりに物足りなかった。 トレーラーの段階では、“違和感”を“期待感”が凌駕していたけれど、主人公の造形をあからさまなCGI的な風貌にした意図も、結局ちょっとよくわからなかった。  非人間的な造形のスーパーヒロインが、ひたすらにハードアクションを繰り広げ、死屍累々の上に立つさまをおぼろげに想像したが、そういう振り切れた描写も殆どなく、ロバート・ロドリゲスが監督を担った意味も皆無だったといわざるを得ない。   日本の原作漫画も未読なので、このあとにどんなストーリー展開が備わっているかは知らないけれど、少なくともこの映画作品の方向性では続編への期待は薄い。 ついでに、御大が満を持しての続編を公開する「アバター」に対しても、極めて懐疑的になってきた。
[映画館(字幕)] 2点(2019-12-29 15:45:12)
138.  アナと雪の女王2
“ハッピーエンド”のその先へ。 生まれ持った「資質」にまつわる“重責”や“鬱積”、そして“真価”を本当の意味で「解放」する物語。 持つ者と、持たざる者、それを象徴する愛すべき姉妹の素晴らしい到達点。 なんてアメージングな映画だろうか。   前作「アナと雪の女王」はもちろん良い映画だったと思う。 ちょうど愛娘が物心ついた時期だったこともあり、わりと何度も繰り返し鑑賞してきた。 ディズニープリンセスの系譜の中で、そのクラシック性をベースに敷きつつも、テーマ的には殆どそれを「否定」するレベルでの新しい時代の新しい価値観を、主人公の“お姫様姉妹”に表現させてみせたことは、アニメーション映画としてとてもチャレンジングであった。 社会現象まで引き起こす世界的なヒット作になったことも含めて、映画史上における価値も無論否定しない。   ただしその一方で、個人的な心情としては、何か一抹の“モヤモヤ感”が心のどこかに存在していて、そのことが世間の過剰な盛り上がりに対して、一歩引かせてしまっていたことも事実だった。 この続編を観てようやく明確になったことだが、そのモヤモヤの正体は、女王エルサの深層心理についてだった。分かりやすく言い換えれば、彼女の「本音」と言ってしまってもいいかもしれない。   魔法の力を生まれ持ったエルサは、妹を傷つけてしまったことや、両親の死に対して、自身の能力を呪い、それを隠すように長年に渡って引き篭もった。 そのひた隠してきた能力が、妹アナをはじめとする周囲の人間にあらわになってしまったことをきっかけに、彼女は鬱積してきた思いをぶちまけ、その資質を解放する。 そう、その様を描いたシーンこそが、前作最大のハイライトである「Let It Go」の歌唱シーンである。   逆に言うと、前作には、「Let It Go」のシーン以上にエモーショナルな場面が無い。 それはつまり、結局エルサは、「Let It Go」の前はもちろん、その後のシーンでも、更には“ハッピーエンド”のその後(短編2作含め)に至るまで、妹のアナにすら「本音」をぶちまけられていないことに他ならないのではないか。 エルサが「本音」を吐露したのは、“ありのまま”の自分を初めて自分自身で認め、高らかに歌い上げたあの最高の歌唱シーンのみだった(最後のちょっと“悪い顔”も最高)。 その彼女の“モヤモヤ”が、前作鑑賞時の僕自身の“モヤモヤ”と無意識レベルで直結していたのだと思う。   今作の冒頭でエルサ自身が認めているように、前作のハッピーエンド以降、彼女は「幸福」に包まれて王国の女王として生きることができている。 アナをはじめ、すべての国民たちは、女王である彼女を心から敬愛し、慈愛を向けている。   だがしかし、「果たしてそれが本当に彼女(エルサ)らしい生き方なのか?」ということ。この続編のテーマはそれに尽きる。   そもそもなぜエルサには魔法の力が与えられているのか。 国王である両親たちはなぜ幼い姉妹と国民を置いて危険な船旅に出掛けたのか。 そして、アナにはなぜ特別な力が備わっていないのか。   前作では、スペシャルな楽曲の数々によって巧妙に覆い隠されていたそれらストーリー上の欠落ポイントが、今作では壮大な物語性とストーリーテリングによって、補われ、きっちりと埋められていく。  そしてエルサは、「女王」としてではなく、一人の「人間」として、生まれ持った資質を解放させ、自らの存在意義と辿るべき“生き方”を見出していく。 彼女のその様は、喜びと尊厳に満ち溢れており、前作の「Let It Go」以上にエモーショナルなシーンの連続だった。   更には、すべてを決着させるための「決断」と「行動」をアナに担わせることで、この物語は素晴らしい到達点を見せる。 それは、この姉妹が「対」として存在し、「共に生きること」の“本当の意義”の表明だ。  必要だったのは、自然の猛々しい流れを強引に堰き止める巨大なダムなどではなく、姉と妹の二人をそれぞれの“袂”とした「橋」だったということ。 ぴったりと寄り添うことばかりが「共に生きる」ということではなく、互いの意志と資質を尊重し、たとえ離れていたとしても気持ちを行き交わすことも、間違いなく「共に生きる」ということであるという帰着。 “二人の女王”が、それぞれの場所で、互いを思うラストシーンには感嘆せずにはいられなかった。   前作の奇跡的な存在感を放つ楽曲群と比較すると、確かに“聴き劣り”はするけれど、それを補って余りある圧倒的なビジュアル表現とスペクタクルシーンの連続は、「圧巻」の一言だったし、連作を通じて物語全体の価値を高める素晴らしい続編だったと思う。
[映画館(吹替)] 9点(2019-12-27 22:40:30)
139.  アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー 《ネタバレ》 
改めて辞書で確認してみると、「avenger」の意味は「復讐者」とある。つまり、このエンターテイメント大作のタイトルの意味は「復讐者たち」ということになる。 もはや熱心な映画ファンやアメコミファンでなくとも、「アベンジャーズ」という呼称は聞き馴染みのあるメジャーワードとなっているけれど、よくよく考えてみれば、ヒーローたちが集結した“チーム”の名称として、その意味は少々奇異に思える。 「復讐者たち」ということは、絶大なパワーを備えたチームでありながら、先ず危害を被ることを前提としているように聞こえるからだ。  しかし、その答えは、この“チーム”が結成された経緯を振り返れば明確になる。 各々がスーパーヒーローとしてそれぞれの「正義」を全うしていた中で、想像を超えた巨大な「悪」による恐怖と悲劇に晒される。ヒーロー一人ひとりでは到底太刀打ちできない。だから、結束して「復讐」をする。 絶対的な「巨悪」が先ずあり、それに対峙するために生まれた“チーム”だからこそ、彼らは「復讐者たち」なのだ。  彼らのその姿は、この現実世界の在り方とまさに“合わせ鏡”だ。 普段、この世界では、それぞれの国、それぞれの民族、それぞれの人が、てんでバラバラに己の「正義」を振りかざしている。 何かしらの問題や課題、共通の「敵」が存在したとき、初めて人々は同じ方向を向くことができる。 言い換えれば、何か「実害」が生じなければ、我々は結束することが出来ない。  なんとも歯がゆく、なんとも愚かしい。 ただそれが人間の正直な姿であり、「そうじゃない」と否定したところで何も始まらない。  その人間の、歯がゆく愚かな本質を根幹に据えたヒーロー像こそが、「アベンジャーズ」の正体なのだと思う。 彼らは人智を超越したスーパーヒーローではあるけれど、間違いも起こせば、失敗もする。そしてその都度、甚大な被害を生み、傷つき、苦悩する。  だけれども、彼らは常にそこから立ち上がり、己の間違いを正し、悪を叩き、ついに「復讐」を果たす。 だからこそ、僕たち人間は、彼らの活躍に熱狂するのだ。   満を持しての第三弾。“復讐者たち”は、あたかもそれが彼らの宿命であるかのように、打ちのめされ、紛うことなく過去最大の悲劇を叩きつけられる。 重く悲しい旋律がシアター内を包み込む。鑑賞を共にしたすべての観客が、絶望感と共に押し黙っているようだった。 誰も席を立つはずもなく、エンドロール後に示されるはずの「希望」を心待ちにしていた。 ようやく隻眼の司令官が登場し一寸安堵する。が、まさか、彼に「mother f*cker」すら言わせないとは。 “サノス”は「慈悲」だと言ったけれど、何たる無慈悲か。   でも、僕らは知っている。 チーム結成時の「6人」は、“二分の一の賭け”に勝ち残っているということを。 そして、「アベンジャーズ」と名付けられた彼らの本当の「avenge=復讐」が始まるということを。  最高だぜ。
[映画館(字幕)] 10点(2019-12-25 22:24:14)(良:1票)
140.  ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
“クソったれ”な俗物だらけのこの街で、強欲と虚栄に塗れた“モノ(即ち映画)”が、時代と価値観を越えて、生み出し続けられている。 数多の作品と俳優が生まれては、ガムの様に噛んで吐き捨てられる。なんて儚くて、なんて愚かしいのだろう。 ただね、それでも、この街と、そこに生きる人間たちと、彼らが生み出す「映画」が大好きなんだから仕方がないじゃないか。 このクソ素晴らしい“ハリウッド”に愛をこめて。 by クエンティン・タランティーノ     と、タランティーノ監督が高らかに言い放ったかどうかは知らないけれど、結論から言うと、この作品は世界一“映画愛”に溢れた映画監督による、“映画愛”に満ち溢れた傑作だと思う。 僕は、クエンティン・タランティーノには遠く及ばないけれど、“映画愛”を自負する者の一人として、この映画を否定できるはずも無く、立て続けに2度映画館に足を運んだ。   タランティーノ映画ならではのバイオレンス描写や、マシンガンのような刺激的な台詞まわしを期待してこの映画を見進めていくと、面食らうことは先ず間違いない。 二度鑑賞し、冷静に振り返ってみても、この映画の大半は「何も起こっていない」と言わざるを得ない。 1969年のハリウッドを舞台に、落ち目のテレビスターと、彼の相棒兼専属スタントマンの平坦で自堕落な日々を、ひたすらに、そして恐ろしいまでの丁寧さで描いていく。   極めて単調な映画のように見えるのに、この映画は最初から最後まで少しも退屈ではなく、161分の上映時間は瞬く間に過ぎ去る。 それは丁寧に描きぬかれた一つ一つのシーン、一つ一つのカットが、あまりに愛おしく、映画として光り輝いているからだ。 そして、テレビスターも、スタントマンも、映画監督の隣人も、その妻も、プロデューサーも、子役も、若手カンフー俳優も、ヒッピーも、善人も、悪人も、この映画に登場するすべての人物が映画を愛してやまないからだ。   単調に見えるストーリーテリングの末、溜まりに溜まった鬱積と暴力性が唐突に弾ける様に、短くもこの上なく激しいクライマックスを経て、本作は終幕する。 あまりにも爽快で、あまりにも破茶滅茶なその顛末が、同時にとても刹那的で感慨深い。   そこにあったのは、誰よりも映画を愛するタランティーノ監督による現実に対する「復讐」と、「やさしい嘘」だった。   テレビスターのリックは酒に溺れて、そのまますべてを失ったかもしれない。 スタントマンのクリフは激情的な暴力のしっぺ返しを受け、命を落としたかもしれない。 そして、隣人のシャロン・テートは、狂ったカルト集団に襲われ身ごもった子もろとも惨殺されたかもしれない……。   現実世界の理不尽な暴力を、映画世界だからこそ許されるさらに激しい暴力で返り討ちにした後、主人公は隣人に招かれ、身重の彼女を優しく抱擁する。 不幸な事件なんてまるでなかったかのうように、クエンティン・タランティーノは、「映画」で「映画」を抱きしめ続ける。
[映画館(字幕)] 10点(2019-12-25 22:11:33)
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