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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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21.  ブレードランナー 2049
「切ない」なんて一言では言い表せないくらいに、切ない。 ただこの切なさこそが、伝説的前作から引き継がれたこの映画世界が持つ根幹的な“テーマ”そのものであろう。 それは即ち、すべての「生命体」が持つジレンマであり、前作で、強力なレプリカントの“ロイ”が最期まで抱え続けた苦悩だ。  「我々は 何のために生まれ どこから来て どこへ向かうのか」  レプリカントたちの苦悩と葛藤は続く。 きっと、彼らが「生命」として存在した瞬間から、そのた闘いに終わりはない。 そう、まさしく人間と同様に。   世界中の映画ファンからある種カルト的な「偏愛」を博している前作に対してのこの「続編」のハードルは極めて高かったろう。 監督を担ったドゥニ・ヴィルヌーブ自身が漏らしたように、ある意味常軌を逸した企画であり、一歩間違えば「誰得」な映画になってしまうことは容易に想像できる。 それでもこの続編に挑み、確固たる価値を持ったSF映画として仕上げてみせたドゥニ・ヴィルヌーブ監督をはじめとする製作陣を先ず賞賛したい。  今作を「リブート」ではなく、「続編」として、30年余りのリアルな時間を経て繋ぎとめたことの価値は大きいと思う。 前作から通ずるテーマ性を確実に引き継ぎつつ、映画世界の内外で幾つもの時代を越えてきたからこそ生じる新たな価値観と葛藤を加味し、今この時代に語られるに相応しい「ブレードランナー」の世界観を構築してみせている。   この映画は、ライアン・ゴズリング演じるレプリカント「K」の物語である。 「K」は、まさしく我々現代人を象徴する存在として描き出されている。 彼の存在性のすべてから醸し出されれる哀しさ、弱さ、脆さ、無様さ、そして苦悩と葛藤は、今この世界を生きる現代人に通じ、非常に身につまされる。 だからこそ、彼が辿る切なすぎる旅路が、あまりにもダイレクトに我々の感情に突き刺さるのだろう。  そういう観点を重要視するならば、前作に引き続きハリソン・フォードが演じるデッカードの登場と一連のシーンは、「続編」だからとはいえ、必ずしもあそこまで必要ではなかったのではないかと思える。 往年のカルトファンに限らず、デッカードの登場は、多くの映画ファンを熱くさせる要素ではあったけれど、彼の登場シーンがサービス精神旺盛に展開される程に、主人公である「K」の物語がぼやけてしまったようにも感じた。  勿論、今作のストーリーテリング上、前作のラスト以降のデッカードの物語を辿ることは必要不可欠なわけだけれど、御大ハリソン・フォードにクライマックスの展開であんなに出張られては、「K」の立場が益々ぞんざいに追いやれているように見え、「そりゃないだろう」と思えてしまう。 まあそういう“やるせなさ”も含めて、この映画の「切なさ」に繋がっているといえば、確かにそうなんろうけれど……。  個人的には、「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」におけるルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)よろしく、最後の最後に1シーンだけデッカードが登場して「彼女」との邂逅を果たすくらいのバランスの方が、更にエモーショナルに今作が伝えるべき物語性を表せたのではないかと思う。   「生命」として存在した以上、誰もが己の「存在価値」を追い求める。 ミミズだってオケラだってアメンボだって、人間だって、レプリカントだって、その「価値」と「意味」を求める旅路の本質は変わらない。 “或る役割”を果たし、降りしきる雪のもとで静かに「生命」を終えようとするレプリカントの心に、ほんの少しでも“温もり”が生じしていたことを願ってやまない。
[映画館(字幕)] 8点(2017-11-05 00:23:16)
22.  ブレードランナー
3日前に“ブレードランナー 初鑑賞”のつもりで観た「ディレクターズカット 最終版」だったが、鑑賞後に同じバージョンを10年以上前に観ていたことに気づく……。 気を取り直して、この「オリジナル劇場版」を満を持して“初鑑賞”。 監督のリドリー・スコットが最も不満タラタラだったバージョンと聞くが、個人的には都合三度目の「ブレードランナー」鑑賞にして、一番しっくりきた。  三度目ということもあり、敢えて日本語吹替版で鑑賞し、良い意味で気を抜いて観られたことが良かったのかもしれない。 それに、古いSF映画を日本語吹替版で観るという感覚は、かつて自分が子供の頃に親しみ、「洋画」を観るきっかけともなった「日曜洋画劇場」の記憶を呼び起こし、時代を超えて映画を楽しんでいるという行為そのものに改めて感慨深さを感じた。(実際に「日曜洋画劇場」で「ブレードランナー」が放映されたかどうかは定かではないが)  人間に似て非なるものたちの「生命」に対しての切望とジレンマ。 この映画が伝える主題が、3回目の鑑賞でようやく腑に落ちた。リドリー・スコットは忌み嫌ったようだが、個人的にはこの「オリジナル劇場版」が紡いだストーリーテリングの在り方は、映画世界に対して真っ当だったと思う。 主人公・デッカードのモノローグも、ハッピーエンドも、リドリー・スコットは「説明的だ」「蛇足だ」と否定しているけれど、アーティスティックに振れ過ぎだった世界観を「娯楽」として成立させるために、効果的な手段だったと思える。  そして、この映画が、公開当時から現在に至るまで、世界中のありとあらゆるクリエイターへ多大な影響を与え続けてきたであろうことを、改めて実感した。 特に、我が心の書、岩明均の漫画「寄生獣」には、「ブレードランナー」に対するかなりダイレクトなオマージュ要素が多分に散りばめられていたことを、今回の鑑賞でようやく気づいた。 白目をむくレプリカントの表情や、瞳の中に異形のものが“混じっている”ことを暗に示す表現など、些細な描写からテーマの根幹に関わる設定に至るまで、重なる部分は少なくない。 「我々はどこから来て、どこへ向かうのか」 レプリカント“ロイ”の最期の語りなど、寄生生物“田村玲子”そのものじゃないか。  そういうことに気づいてくると、この実は決して大衆的ではない歪なSF映画が、長い年月に渡り世界中の映画ファンから愛され続けてきた理由も途端に理解できてきた。 今作を生み出したリドリー・スコット自身が、公開以降も試行錯誤を繰り返し、ある意味反則的であっても幾度も別バージョンを発表してきたことからも明らかなように、説明しきれぬ、表現しきれぬ魅力があるからこそ、この映画は今なおカルト的な人気を博し続けているのだろう。  どうやら一映画ファンとしてより良いスタンスで、全世界待望の続編「2049」を鑑賞することが出来そうだ。
[ブルーレイ(吹替)] 8点(2017-10-28 23:50:01)(良:1票)
23.  複製された男
“いかにも”な邦題を踏まえて、「フィリップ・K・ディックもどきのクローンものなのだろう」と認識し、サクッと観てさっさと寝るつもりだったのだが……。  何なんだ、これは?何を見せられたのか?  時折挟み込まれる不可解なカットに困惑を残しつつ、それら困惑の極みとも言える“ラストカット”を目の当たりにして、思考が停止した。 まったくもって変な映画だった。完成度の是非は別にして、そのことは間違いない。  邦題による“ミスリード”がどういった意図によるものかは分からないが、前述の通り“クローン”を描いたSFとしてこの映画を観た者は、大いに面食らう。 この映画は、“クローンもの”でもなければ、“SF”でもなく、或る強迫観念めいたものを主題にした“精神”にまつわる映画である。 詰まるところ、“複製された男”の正体は、クローンではなく、“ドッペルゲンガー”であった。  主人公の男は、ふいに現れたドッペルゲンガーと対峙し、それが現れた理由と意味を盲信的に追い求めていく。 それは詰まり、自らが「自分」という人間の本性、深層心理を丸裸にするプロセスであり、深みにのめり込んでいくほどに、彼の精神は疲弊し、或る臨界点を迎えたのだと思う。   非常に奇妙な映画ではあったけれど、「ドッペルゲンガー=自己像幻視」を描いた作品であることを踏まえて省みてみると、諸々の不可解描写も途端に理解しやすいものではあった。 「蜘蛛」も「ブルーベリー」も「女性」も、この主人公が抱えた強迫観念の象徴であり、映画世界の中で映し出されるすべてのものが、彼の精神世界そのものであったと捉えれば、腑に落ちやすい。  そう考えると、極めてシンプルな話とも思え、映画としてももう少しコンパクトにまとめた方が良かったのかもしれない。短編映画として、不可解を不可解なままに一方的に投げ出した方が、観客の想像力を更に刺激し、カルト的な傑作となったようにも思える。
[インターネット(字幕)] 6点(2017-10-08 23:10:25)
24.  ブラックブック
第二次世界大戦末期。「戦争」の只中で、人間の善悪の境界を渡り歩く一人の女。 絶望と、虚無と、断末魔を幾重にも折り重ねて辿り着いた彼岸で、彼女は何を思ったのか。  「苦しみに終わりはないの?」  終盤、主人公はそう言い放ち、それまでの人生で最大の絶望に覆い尽くされ、慟哭する。 その後に展開される更なる絶望と残酷のつるべうちが凄まじい。 裏切り、恥辱、怨み、復讐、そして新たな争乱……。 それは、主人公の“クエッション”に対する、監督の取り繕いのない“アンサー”だったように思う。 そう、「苦しみに終わりはない」のだ。  あまりに取り繕いもなければ、救いもない潔いその返答に対して、主人公も、観客も、逆に絶望すら感じていられなくなる。 突き付けられた「人間」と、この「世界」の本質を目の当たりにして、どうしようもなく愚かに感じると同時に、それでも「生きる」ことしか我々に許された術はないということを解し、清々しさすら感じてしまう。  そういうことを、この映画の主人公は、実ははじめから直感的に理解していたからこそ、悲しみと恥辱に塗れながらも、「生きる」というただ一点に集中し、その中で喜びや愛さえも育んでいけたのだと思う。  いやあ、なんて「面白い」映画なのだろう。  現実を礎にした悲惨極まる重厚な物語を、ただ重苦しく描くのではなく、映画という娯楽の真髄を刻みつけている。 時に残酷に、時にエキサイティングに、時に情感的に、時にユーモラスに、圧倒的に「面白い!」映画世界に圧倒される。  ハリウッドから本国オランダに帰り、「本領」を見せつけたポール・ヴァーホーヴェン監督の気概が本当に素晴らしい。  そしてその偏執的な変態監督の演出に応えた俳優たちもみな素晴らしい。 主要キャラクターから端役に至るまで、キャラクターの一人ひとりの存在感が際立っていて、それぞれが“良い表情”を見せる。  その中でも、主演女優カリス・ファン・ハウテンの文字通りに体と心を張った演技は、言葉では言い尽くせない。 家族の血を浴び、反吐を吐き、陰毛を染め、糞尿を浴び、それでも誰よりも美しく、高らかに歌い上げる。 この世界で「生きる」ということはこういうことだという、「真理」を語る映画史上に残る女性像を体現している。  そんな主人公エリスの存在感は、日本のアニメーション映画「この世界の片隅に」の主人公“すず”と重なる。 この二人は、まさに“同じ時代”を生きている。劇中の描写から察するにほぼ同じ年頃ではないだろうか。 残酷な時代と運命に翻弄されつつも、どこか飄々として、芯の強い女性像の類似。 その興味深い類似性は、過酷な時代を一人の女性が「生きる」ということを物語る上で欠かせないファクターの表れなのだろう。   動乱のさなか、時流の変化によって“変色”するかの如く、人間の表裏の表情には善と悪の両色が無様に入り混じる。 誰もが善人にもなれば、悪人にもなれる。 「戦争」は、勿論愚の骨頂であり、“悪”以外の何ものではない。  しかし、いくら綺麗事を並べ立てても、それを繰り返し続ける「人間」自体の本質的な“おぞましさ”から目を背けてはならぬ。 ポール・ヴァーホーヴェンがこの映画に描きつけたものは、まさしくそのすべての人間が背けたくなる「視点」そのものなのだと思った。
[インターネット(字幕)] 10点(2017-09-16 20:06:29)(良:1票)
25.  BLAME!
原作版「風の谷のナウシカ」を崇拝するという共通項を持った古い友人が、人生において最も影響を受けた漫画として教えてくれたのが、今作の原作である弐瓶勉の「BLAME!」だった。 そこまで言うならば是非読んでみようと思っていた矢先、この映画化作品がNetflixオリジナル作品として配信されていることを知り、原作未読のまま鑑賞に至った。  成る程、友人が好むのはよく分かる。物語の世界観は、超ハードSFアクション版「風の谷のナウシカ」という風合いだった。 人間社会崩壊後の黄昏の時代を舞台にし、少女戦士の活躍、救世主の登場と、類似点は多い。  映画版「風の谷のナウシカ」と同様に、濃密な原作が持つ一部分を映画化したようで、原作者が生み出した物語の世界観が実は孕んでいるのであろう深い全容は掴みきれないが、精密なアニメーションによるハードSFの雰囲気は堪能できたと言える。  この映画作品の構造自体が、壮大な物語の“番外編”的なニュアンスで語られていることからも明らかだが、今作のみでストーリーの委細を理解しようとすることは無意味だし、製作者側もそういう意図では作っていない。 文字通り「多層的」に孕んでいる膨大な情報量から漏れ伝わる物語の雰囲気を堪能しつつ、濃ゆい原作漫画に触れてみるのが得策なのだろう。
[インターネット(邦画)] 6点(2017-09-16 20:05:34)(良:1票)
26.  プリデスティネーション 《ネタバレ》 
「お袋でも分からないな」  冒頭、顔面の大怪我により形成手術を受けた“男”が、鏡に映った自分自身を見ながら自嘲気味につぶやく。 あまりにもさりげなく発せられるこの台詞が孕む意味と闇の深さを知ったとき、全身が粟立った。  “タイムトラベル”とそれに伴う“タイムパラドックス”描いた映画としてすべての整合性が取れている作品だとは言わない。 綻びは当然あるし、独善的で強引なストーリーテリングだと言えばその通りだろう。 極めて“いびつ”な映画である。だが、その歪さこそがこのSF映画が持つ真価であり、揺るがない独自性だと思う。  普通の人間が無意識レベルで携えている倫理観や禁忌すらも大胆に超越して描きつけられる“SF”。 まるで見てはいけないものを見てしまったような驚きと当惑が堪らない。  「自分の尾を永遠に追い続ける蛇」というフレーズがまさに象徴的なストーリー展開は、明らかな「矛盾」を生む。 しかし、その「矛盾」そのものが堂々巡りとなり、物語の帰着を許さない。 一つの疑問に対する答えがまた別の疑問を生み、繰り返され、最初の疑問に戻ってくる。まさに時空の螺旋。観客も登場人物同様に時空の狭間に閉じ込められる。 と、これ以上の言及は未鑑賞者の興を冷めさせてしまうので控えなければならない。   初見の当惑のまま、すぐに観返したくなり、再鑑賞に至った。  「お前や私のような細身の顔」  「恋に溺れた経験は?」「一度だけ」「なら分かるだろ」  「不思議だよな この顔を見ると人生を壊した男を思い出す」  「娘もその父親も過去の亡霊だ」  「俺を爆弾魔かと?」「かもな」「お前かも」  冒頭の台詞を皮切りに、劇中で繰り広げられるあらゆる台詞にこの物語の真意が込められていた。   惜しむらくは、ただ一点。 主演のイーサン・ホークの初登場は、“バーテンダー”として現れるべきだったと思う。 “掴み”として、最初のシーンが必要だったことは理解できるが、あの時点で彼の「顔」までを晒す必要はなかった。  「俺たちには この職しかない」  というメインタイトル前の台詞を“リピート”させてラストシーンを締めたなら、この作品の特異な構造は更なるエモーションと共に際立ったのではないかと思う。  まあしかし、そんなことは些末なことだろう。 そういう鑑賞者個々人の考察も含めて、様々な感情が思い巡らされることが今作の最大の魅力だと思う。 サラ・スヌークという驚異的な才能、監督スピエリッグ兄弟の確かな映画的センス、綻びを補って余りあるストーリーテリングの力、このSF映画が掘り出したモノの価値は、極めて大きい。
[インターネット(字幕)] 10点(2017-04-03 16:13:07)(良:1票)
27.  ブリッジ・オブ・スパイ
非常に地味な映画である。ただし、同時に物凄く豪華で、洗練されている映画でもある。 その印象は明らかな矛盾を孕んでいるが、それがさも当たり前のようにまかり通っていることこそが、「一流」の映画である証であろう。 そして、一流の映画を生み出すことにおいて、スティーヴン・スピルバーグは頂点に立ち続けている。 この最新作を観て、彼のその立ち位置が現在進行形で変わりないことを思い知った。  映画は、芸術に秀でたスパイが黙々と自画像を描くシーンから始まる。 敵国に潜伏する孤独なスパイの極度の冷静さと、その奥底に一寸垣間見える人間性を感じる非常に見事なオープニングである。  このソ連側の老スパイを演じているマーク・ライランスの演技が素晴らしい。長らく舞台上で確固たる実績を重ねてきたベテラン俳優らしいが、朴訥とした雰囲気の中で一瞬見せる軽妙さが抜群であった。今作でのアカデミー賞受賞は間違いないのではないか。  勿論、主演のトム・ハンクスも至極当然のように名演を見せている。 弁護士としての責務を全うしようとする主人公は、国益のために規則をないがしろにしようとするCIAの要求対して、規則こそが国家を国家たるものとする唯一無二のものだと毅然と突っぱねる。 その揺るがない信念と怒りに満ちた姿こそが、アメリカという国が長らく見失っている“強さ”のように見えた。 主演俳優に投影されたかつての大国としての本当の強さ。そこにこそ、スティーヴン・スピルバーグが今このタイミングでこの映画を撮った意味が表れているのだと思う。  若者たちが塀を越えていく。 まったく同じ時代でありながら、一方は眩い青春の日常であり、一方は銃殺の対象であった。 それは何も、この映画で描かれた時代に限られた話ではないと思う。 同じようなことが、今この瞬間にも、世界のそこかしこで起こっている。  世界一の映画監督が伝えたかったメッセージ性は明らかだ。 ただしかし、決して説教臭くなどなく、極めて娯楽性に富んだ一流の映画に仕上がっている。 ただただ巧い。流石だ。
[映画館(字幕)] 9点(2016-01-27 23:24:17)(良:1票)
28.  フューリー(2014)
朝が来る。 朽ち果てた戦車と、そこで闘い果てた屍を越えて、兵たちは歩を進める。 まるで何もなかったかのような俯瞰で、残骸となった戦車を一つ残し、一つのストーリーが終わる。  「戦争」という、繰り返される人間の愚かな歴史の中で、同様のシーンが一体、幾千、幾万、繰り広げられてきたのだろうか。 その無残の極みの様に、胸が詰まる。   僕自身はミリタリー描写にそれほど熱い頓着が無いので、伝説的な戦車とその活躍の様を忠実に再現したという、この映画の触れ込みにもあまり興味を惹かれなかったことは否めない。 ただ、世の好事家たちはこぞって絶賛しているので、全編通して描き出される戦場シーンに一切の妥協はないのだろう。  冒頭に記した通り、戦争そのものに対する普遍的な無残さと、そこに携わった人間たちが抱える虚無感は、きちんと描かれている。 そして、ビジュアル的な説得力も充分に備わっている優れた戦争映画、なのだとは思う。  ただし、ひしひしと伝わってくる映画のクオリーティーの高さに反して、今ひとつ感情的に揺さぶられるものが少なかった。 ラストの決死戦などは、もっとエモーショナルな感覚を持ってしかるべきなのだと思うが、何となく淡々と観れてしまった。  人物描写の描き込みが希薄だったのか、そもそもミリタリー映画自体への愛着が薄いからか、単に精神的なタイミングが悪かっただけなのか。  この虚しさのような物足りになさに、戦争の空虚感を表現していたとしたら、それはそれで大したものだけれど。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-11-01 00:26:37)
29.  FRANK -フランク-(2014)
才能の誕生も精神の喪失も、その発端に必ずしも明確な理由や環境があるわけではないと思う。 誰しも、自分自身の才能に期待し、模索し、絶望した経験が少なからずあるだろう。  凡庸で薄っぺらな主人公が、一人の天才と出会ってしまったことで、求めたもの、失ったもの、そして得られてものはなんだったのだろうか。 凡庸と天才が出会うことで、それまで保たれていた琴線は途切れ、痛々しい悲しみが生まれる。 でも、その痛みと悲しみは、両者にとって必要なことだったのだと思える。  もし出会わなければ、凡庸はいつまでも夢見るだけの愚か者であり続けただろうし、天才もまた安全安心ではあるけれど極めて歪な鳥籠の中で永遠に羽を繕い続けていただろう。 いずれにしても両者はそのうちに破綻し、取り返しの付かない悲劇を生んでいたかもしれない。  最終的に凡庸は、自分の存在の意味と居場所を思い知り、天才の元を去っていく。 その様は非常に物悲しい。 けれど、それは互いにとって本当に必要な物を得られた瞬間だったのではないか。  それは彼らにとって必要な心の旅路だったのだろう。   作中ずうっと奇妙なお面を被り続けて“FRANK”という天才を演じたのは、マイケル・ファスベンダー。 この俳優も風貌に似合わず厳しい役柄ばかりを演じ続けている。 この人もかなりキテいる“役者馬鹿”なんだと思う。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2015-09-23 23:15:47)(良:1票)
30.  フライト・ゲーム 《ネタバレ》 
冒頭、主人公がウイスキーを紙コップに注ぎ歯ブラシでかき混ぜる。 この主人公の男が明らかにうらぶれていて、拭いがたい負い目を抱えて生きていることが一発で分かるオープニングだった。 その主人公を、リーアム・ニーソンがお馴染みの“困り顔”で演じているわけだから、それだけで“リーアム・ニーソン映画”としては太鼓判を押していいのかもしれない。  「シンドラーのリスト」「レ・ミゼラブル」「マイケル・コリンズ」など、かつては歴史大作や文芸大作を主戦場に渋く濃厚な存在感を示していたこの俳優が、“ジャンル映画”のスターとなって久しい。 彼の俳優としての立ち位置に対しては、映画ファンによってその是非が分かれるところだろうが、とはいえ実際ハマっている映画も多いので、「面白い」のであればそれが正義だと思う。  今作にしても、ジャンル映画としての存在価値は充分に発揮している。 ストーリー上の穴や粗など端から無視を決め込むか、それ有りきで楽しむべき立派な“リーアム・ニーソン映画”だ。  ストーリーテリングとしては、ヒッチコックの「バルカン超特急」に端を発する“誰も信じてくれない”系サスペンスで、舞台が航空機内とういこともあり、ジョディ・フォスターの「フライトプラン」にも酷似しているが、リーアム・ニーソンの近年持ち前の“危うさ”巧く機能しており、観客すらも彼に対して疑心暗鬼になってしまう。  ジュリアン・ムーアを初めとして、脇を固める俳優陣も地味に豪華で、主人公と観客の“疑心”を効果的に深めている。 結末を知った後で、オープニングの群像シーンを観てみると、それぞれにキャラクターにおいて細やかな演出がされていて、それはそれで面白かった。   それにしても、思わず口走ってしまった“一年間乗客無料サービス”の約束は果たされるのだろうか。反故にされた場合は、訴訟を起こす輩が一人くらいはいそうでコワい。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-07-15 23:27:55)
31.  ブルージャスミン
ケイト・ブランシェット。現役俳優の中で最も「大女優」という呼称が相応しいと言ってもはや過言ではないだろう。 十数年来この大女優の大ファンで、彼女の出演作品を長年観続けているが、今作がキャリアNo.1の演技であったことは間違いない。 その演技を引き出したのが、ウディ・アレンである事実に、やはり“女優づかい”においてこの女好き監督に敵う者はいないと思い知る。    この映画は、喜劇だろうか、悲劇だろうか。 高慢と虚栄の果てにすべてを失った主人公ジャスミンの言動は、愚かで滑稽だ。その姿には、思わず笑わずにはいられない。 ただし同時に、栄華の極みからド底辺まで叩き落とされた彼女のさらにその先の顛末は、生き地獄そのもの。その姿には、思わず胸が締め付けられる。 詰まるところ、この映画は、喜劇であり、悲劇だ。 ありふれた言い回しを敢えて使うなら、人間の人生は悲喜劇そのものであり、描き出されるそれが生々しければ生々しいほど、喜劇と悲劇は同封されるのだろう。  主人公ジャスミンは、サイテーな人間である。それは間違いない。 けれど、だからといって彼女は「悪人」だろうか。彼女の人生を簡単に断罪できる人間が、この世の中にどれほどいるというのだろうか。 多かれ少なかれ、誰にも「虚栄心」はあるものだ。「嘘」は人間が自分を守るために許された特権かもしれない。 「サイテー」と蔑みつつも、少なくとも僕は、彼女のことを真っ向から否定することができなかった。  「栄枯衰退」なんて言葉にすれば簡単だが、それを己の身一つで体現することは生半可なことではない。 今作の“大女優”が素晴らしかったのは、栄華を極めた過去のシーンも、落ちぶれた現在のシーンも、一貫してメイクや衣装を変えずに、「虚栄」に埋め尽くされた女を演じきっていることだ。 同じ衣装やメイクが、ほとばしる鬱積とともに、みるみるくたびれ、劣化していくようだった。 「演じる」というのは、こういうことかと身が震えた。  監督の非情さを呪いたくなるくらいに、ラストはあまりに辛辣だ。 ただ、そのラストがまた主演女優の演技ともども素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2014-11-15 18:48:51)(良:1票)
32.  フェイズIV/戦慄!昆虫パニック 《ネタバレ》 
聞きしに勝るカルト的なSF映画だった。 ただし、決して奇をてらった“とんでも映画”というわけではなく、気が遠くなりそうに緻密な演出と撮影、そして揺るがない美意識に支えられた極めてアーティスティックな映画だった。  とある宇宙線の影響により、砂漠地帯の“蟻”に劇的な「進化」がもたらされる。 高度な知性を得た蟻とうい種が、徐々に周囲の環境を支配し、ついに人類と敵対する。 というのがこの映画の導入部。即ち“PHASE I”である。  その進化にいち早く気づいた科学者二人と蟻との攻防が描かれるわけだ。 この映画が、邦題「戦慄!昆虫パニック」というテイストの通りだったならば、良くも悪くもB級モンスター映画に仕上がっていたことだろう。 しかし、この映画の邦題は大いに見当違いであり、そんな生半可な仕上がりを許すものではなかった。  この特異な映画が描き出すものは、この世界の支配者とされる人類とそれを脅かすものとの攻防などではなく、現状の支配者が新たな支配者によって確実に速やかに取って代わられる様そのものだ。  蟻の脅威的な進化に対して、人間は必死に抵抗を試み、攻防を演じているように見える。 だが、実際はそうではない。 観察者であった筈の人間が、実際は蟻によって観察されていたことを知った瞬間、そもそもそこに攻防などという関係性は無かったのだと気づく。  この映画に映し出されていたものは、その“資格”を持った新しい支配者が世界を支配するという、あまりに自然的で、だからこそ残酷な生物の「理」だったのだと思い知った。  ついに支配を受け入れた人間の雄と雌が、禍々しく赤く灼けた太陽を臨むシーンでエンディングを迎える。 一寸それは夕陽に見え、世界の終末を感じさせる。 しかし、すぐにそれは昇る朝日だと分かる。“終末”ではなく、新しい世界の“はじまり”だったのだ。  そして「PHASE IV」というタイトルバック。参った。
[DVD(字幕)] 9点(2014-10-19 08:58:58)(良:1票)
33.  プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命
誰しも、本当は“真っ当”でありたい。 悪に染まることなどなければ、勿論それに越したことはない。 でも時にそういうわけにもいかなくなるのが、この世の常。 「正義」と「悪」、本来相反するものである筈のその狭間で苛まれ、持って生まれた血脈と宿命に対峙する人間たちの生き様。その行き着く先に涙する。  結局、与えられた「宿命」が何であれ、「行動」を選び取るのは当人自身であり、結果として何が起ころうとも何が起こらなかろうとも、それが“生きる”ということなのだと思える。  タイトル「The Place Beyond the Pines」は、「森林の向こう側」という意味。 薄暗く、すぐに出口を見失いそうになる鬱蒼とした茂みを越えて、彼らが辿り着いた場所は何だったのか。 終始“いやな予感”しかしない映画世界だったけれど、最後の最後、走り去って行く若き主人公の背中には、ほんのわずかではあるが、希望じみた光が見えたような気がする。  「ブルーバレンタイン」おいて、残酷で美しい男と女の身につまされる関係性を描き出したデレク・シアンフランス監督の才能は、今作によって疑いの無いもになったと思う。 前作同様に、残酷なまでに美しい映像美とカメラワークによって、俳優の演技力というよりも、描き出されるキャラクターの実在感を導き出して見せている。  前作に引き続きタッグを組んだライアン・ゴズリングの存在感は言わずもがなだが、一幕目のヒロインを演じたエヴァ・メンデス、二幕目の主人公を演じたブラッドリー・クーパーらも、他の映画では見られない“表情”を見せており、素晴らしかった。  ただし、個人的には、ライアン・ゴズリングよりも、ブラッドリー・クーパーよりも、三幕目の主人公を演じたデイン・デハーンが最も印象的だった。 作品の結論を成す三幕目なので印象度が強いことは必然だとは思うが、登場のファーストカットを見た瞬間にちょっと唸ってしまった。 昨年鑑賞した「クロニクル」で既にその才能は認識していたけれど、レオナルド・ディカプリオの「陰」の要素を爆発的に増大させ、今にも満ち溢れんばかりのバランスで場面を支配するこの若い俳優の存在感は、この先さらに特別なものになり得るだろうと断言せずにはいられない。  監督と、三者三様の主人公を演じた俳優たちを筆頭に、これからの映画界の根幹を成していくだろう才能が結集した、エポックメイキングな映画だと思う。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2014-04-19 23:23:18)(良:1票)
34.  プラチナデータ 《ネタバレ》 
「駄目」と言える要因は山ほどあるが、先ず一番のマイナス要素は、主演のアイドル俳優の画的な見栄えの悪さだ。 二宮和也のルックスや雰囲気は主人公のキャラクターに合っていたとは思うが、いかんせん小さ過ぎる。相手役が豊川悦司なもんだから、そのチビさが殊更に際立つ。 役柄的にガタイが良い必要はないのかもしれないが、主人公の背格好のみすぼらしさは、それだけでこの映画を馬鹿にしたくなる要因になる。  と、言ってしまうと、まるで“ニノ”一人がこの映画の戦犯のように思われるかもしれないが、勿論そんなことはない。 万が一主演がレオナルド・ディカプリオだったとしても、この映画が駄作であることは揺るがないだろう。(まあディカプリオが主演ならば、自ら製作を担って、スコセッシ監督を呼んで傑作にしてしまうだろうが……)  東野圭吾の原作は未読だが、ストーリーそのものが決して褒められたものではない。 映画のストーリー展開が原作通りなのならば、流行作家の神通力もいよいよ落ち目なのだろうか。 主題であるDNAによる犯罪捜査と、この物語の“真相”は、衝撃的には見えるが、あまりに食い合わせが悪く、サスペンスとしてアンフェだと言わざるを得ない。 物語としての整合性が伴わないまま、科学を超えた人間のドラマなどを謳われても、正直シラケてしまうばかりだった。 文体ではもう少し情感的に表現が出来ているのだろうが、この“シラケる感じ”は、過去の東野作品の中でも幾度か見受けられたものなので、原作自体の出来もたかが知れているのだろう。  と、言ってしまうと、原作そのものが悪かったことがこの映画が駄作である理由と一括りにされそうだが、決してそういうわけでもない。 DNA操作、遺伝子論、精神医学、アナログとデジタルの対峙、これくらいの要素が揃っていれば、“オチ”のマズさはあったとしても、面白い映画的展開は出来たろうにと思う。 主人公の上長の刑事がロリポップを舐めながら登場する。何らかの特徴を持たせたキャラ設定をしたかったのだろうが、あまりに稚拙で失笑してしまった。 それは映画全体にとっては極めて些細なことだけれど、そういう稚拙さがすべての演出に垣間見えることは否めない。  誰か一人が悪いわけではなく、それぞれが少しずつ確実に見せてしまった稚拙さが、映画全体を覆ってしまっているような、そんな残念さに溢れている。 
[地上波(邦画)] 2点(2014-04-16 22:52:51)
35.  舟を編む
10年以上かけて延々と辞書をつくる。ただひたすらに言葉を集め、編纂する。 おびただしい言葉の海に放り込まれ、漂い、もがき、“向こう側”に辿り着こうとする映画。 極めて地味な映画である。でも、なんとも愛らしい映画だった。  「言葉」そのものを敬い、愛する日本人ならではの物語だと思う。 また、「仕事」に一生をかけることへの憧れと羨望の描き出し方も、日本人ならではの特性をくすぐるものだった。 そういう意味では、とても日本人らしい映画だと思うし、この国の人々の普遍的な一側面を世界に対して理解してもらうにも有意義な映画だとも思う。  映画としては非常にオーソドックスで面白味が薄いようにも見えるけれど、一つ一つの画づくりはとても丁寧だった。 たとえば、編集室の書類の積み重なり方や、主人公の下宿の佇まいに至るまで、登場人物たちが息づく空間の空気感がちゃんと伝わってくる。  作り込まれた映画の世界観は、時に秀逸なアニメーションに通じる雰囲気を覚えた。 特に主人公とヒロインが出会うシーンなどは、ありふれた描写ではあるけれど、とてもキュートでファンタジックだった。  主演の松田龍平は地味な物語の地味な主人公を、彼の愛妻が言うように「面白く」魅力的に演じていた。 宮﨑あおい、オダギリジョー、小林薫ら脇を固める俳優たちの存在感もそれぞれ素晴らしく、味わい深い人間模様を見せてくれた。  映画的工夫の軽微な欠如は感じ、物語の核となる「言葉」や「料理」などにもう少し効果的にフォーカスを合わせてみても良かったように思える。 そうすれば更に芳醇な映画になったかもしれないけれど、そのいきすぎない「真面目さ」がこの映画のあり方だろうし、それはひいてはこの国が見つめ直すべきあり方に繋がるものなのだろうと思う。
[DVD(邦画)] 7点(2014-03-16 10:15:57)(良:1票)
36.  ふがいない僕は空を見た
見るともなく空を見ながら、川沿いを自転車で行く主人公の高校生を見て、自分自身の高校生の頃を思い出した。同じように、何となく空を見上げて、自転車で川沿いの家路を辿った。 勿論、僕は、コスプレ好きの人妻と不倫をしていたわけでもないし、文字通りの飢えを感じるほど貧困に窮したわけでもなく、ただただ普通の男子高校生だった。 それでも、悩みやそれに伴う鬱積は確実にあって、それらに対して何の解決策も持たない自分自身に、悲観しつつ、呆れつつ、日々を過ごした。  俯瞰して見れば、この映画の主人公の高校生は、結局のところ、何一つ自分で解決したわけではない。 すべては彼に関わる“大人”が、決断し、導き、見守り、彼を生かしたのだ。 当の本人は、傷心と攻撃にただただ打ちひしがれ、閉じこもり、幸福にもまわりの人間に助けられて、再び立ち上がることが出来たに過ぎない。 そして、ふと空を見上げて、なんだか成長したような気分になっているに過ぎないのだ。   ……でもね。それでいいのだと、強く思う。   この映画で描かれるようなちょっとヘビーな境遇であろうとなかろうと、16~17歳の高校生に出来得ることなどたかが知れている。 むしろ、「何も出来ない」と言ってしまっていい。  唯一出来ることがあるとすれば、それは、主人公の母親が言う通りにただ「生きる」ということだけだ。 ささやかでどうでもいいことの方が多いのだろうけれど、絶え間ない悩みと鬱積に対して、ただひたらすらにうじうじともがき苦しみ、時間の経過とまわりの人間の助力によってそれらが自然に雲散霧消するのを待つ。  そして、空でも見つつ、自分で自分を慰めて、その先を生きていく。それでいいのだ。  この映画の作り手は、「現実」に対してドライな観点を終始保ちつつ、同時に普遍的な慈愛をもって、決して劇的ではない人間模様を落ち着いて描いていると思った。   すべての人間が生きていいく上で必ず意識する「生」と「性」。 それらは常に対のものとして、人生に喜びと苦しみを平等に与える。 その美しさとおぞましさを、何の変哲も無い普通の人々の群像の中で繊細に描き出してみせたこの映画の在り方は、とても正しい。 
[DVD(邦画)] 8点(2013-11-05 23:59:20)(良:1票)
37.  フラクチャー
アンソニー・ホプキンス×ライアン・ゴズリングという新旧の個性と実力を兼ね備えた二人の競演作でありながら、日本国内未公開どころか今なおDVDスルーにも至っていないことが、まず腑に落ちない。 内容がお粗末な作品ならまだしも、これほどクオリティーの高いサスペンス映画も昨今なかなか無いので、殊更だ。 どうやら劇中の或る描写が、現実的な倫理観と照らし合わせて問題視されているようだが、まったく何のための「フィクション」という言葉なのかと思う。  とにかく、日本では見る機会さえ無かったかもしれなかったことに憤りを感じるくらい、見応えのある「犯罪劇」であり、「法廷劇」だった。  何より、前述の主演の二人の相性が、思いのほか良かったと思う。 老獪で利口な犯罪者の「策略」に、対峙する若く野心的な検事が振り回されつつも追求していくという構図に、ぴったりと合ったキャスティングだった。  “レクター博士”ほどの強烈さはもちろん無かったけれど、アンソニー・ホプキンスは軽妙な語り口の奥底に秘めた恐ろしさをひしひしと感じさせる存在感を放っていた。 一方で、ライアン・ゴズリングは、若さ故の傲慢さと未熟さを放ちつつ、最後には相手を凌駕する雰囲気を醸し出していた。  この二人、タイプは全く違うように見えるが、俳優としての本質的な部分に何か似通った要素を感じる。 そういった俳優自身の素養を引き出し、混ぜ合わせることに成功した見事なキャスティングであり、演出だったと思う。  ラスト、“真相”の正体そのものには「なあんだ」と一寸肩透かしを食らう。 しかし直ぐさま、この映画ならではの“オチ”で静かに締める顛末がとても巧かった。  冷静で頭脳明晰な犯罪者が、犯行の最後の最後で抑えきれなかった“憎しみ”という感情。 その感情の一瞬の露呈が、完璧だった計画に、小さな小さな綻びを生んでいたのだろう。
[インターネット(字幕)] 8点(2013-06-26 00:10:49)
38.  ブロブ/宇宙からの不明物体 《ネタバレ》 
宇宙から飛来したアメーバの怪物が小さな田舎町の住人を片っ端から襲っていく。 この一文の説明で全く不足ない映画だが、“B級モンスター映画”として充分過ぎる存在感を放つ作品だと思う。 モンスター映画は大好きなので、1988年に製作されたこの映画の存在価値が極めて高いものだということは明らか。今の今まで存在すらよく知らなかったことを恥じなければならない。  オープニングクレジットで知らない名前ばかりが並ぶ中、“フランク・ダラボン”が脚本にクレジットされているのを発見し、一躍興味は掻き立てられた。 「ショーシャンクの空に」で一躍名匠の一人に名を連ねるに至ったフランク・ダラボンだが、元々感動映画傾倒の映画人ではなく、実はモンスター映画への嗜好が極めて強い人であることはもはや周知の事実。 そんな彼がキャリアの初期に携わった作品だけあって、実に堂々としたモンスター映画ぶりを繰り広げている。  幾つか特徴的なところを挙げるならば、まずは襲われ方のパターンが多岐に渡っていること。 基本的には、知能はほぼ無いと思われる謎の生物が、本能的に人間を呑み込んでいくということの連続なのだが、状況や場所のバリエーションを変えていくことで“殺され方”を多彩に描いている。 小さな排水溝に強引に引きずり込んだかと思えば、クライマックスでは大怪獣よろしく町の人々をまとめて呑み込んでいく。 モンスター映画のにおいて、人が襲われるシーンというのは“華”と言って過言でないので、それが多彩なこの映画はそれだけでも素晴らしい。  あと、“生き残るだろう登場人物”の予測が序盤において尽く外されていくということも、この映画の特徴だろう。 ヒーロー的な活躍をしていくのだろうと思われたキャラクターが老若男女関係なしに、割とあっさりとヤラレていくので、最終的に誰が生き延びるのかという緊迫感を最後まで持続させてくれる。  そしてラストは、実際に製作されるかされないかなど問題にしていない「続編」への布石。これがあるだけで、モンスター映画ファンとしてはかなり満足度が高くなる。 意外に細やかな伏線の回収ぶりも、目を引くところ。  というわけで、クオリティーが高いなんて映画では勿論ないが、B級モンスター映画ファンとしては外すべきではない映画であることは間違いない。
[インターネット(字幕)] 7点(2013-06-03 22:03:51)
39.  ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン
数年前、自分自身の結婚式を控えた頃、YouTubeで結婚式のスピーチ関連の動画を検索していて、何処かの誰かの結婚式での花嫁の親友らしい女性のお決まりのテンションのスピーチ動画に、妻共々笑ってしまった。 映画の中で登場する、花嫁の親友同士の“スピーチ合戦”は、そういった結婚式における“女の友情あるある”を彷彿とさせ、笑いが止まらない。  商売には失敗し、恋愛偏差値は下がる一方の“いきおくれ”の主人公が、幼馴染みの親友の花嫁介添人のまとめ役をまかされたことにより、益々精神不安が加速していく。  男性が主人公のこの手の“イタさ”と“下ネタ”オンパレードの極めて“アメリカ的”なコメディ青春映画は多々あるけれど、女性が主人公でここまでぶっ飛んでいる映画はあまりない。 それ故に、男性目線からだと特に、時にえげつくなく、時に際限なく下品ではあったけれど、好事家たちの評判に違わず、サイコーに愉快で、サイコーにキュートな映画だったと思う。  映画として上手いなと思うのは、主人公一人の葛藤だけを描いているわけではないということ。 花嫁の親友たちで構成された5人の花嫁介添人たち(ブライズメイズ)。花嫁自身も含め、立場も生活環境も違う6人の女たちそれぞれが抱える葛藤を、遠慮のないコメディ描写の中でしっかりと描き出し、最終的には6人全員が好きになってくる。 男性として、女性の友情にはどうしても懐疑的な部分があるのだけれど、この映画を観ると、男同士のそれには無いドギツさとコワさを感じる一方で、女同士の友情に初めて羨ましさを覚えた。  とにもかくにも、それぞれがそれぞれに個性的でパワフルな女性が6人も集えば、周辺の男性陣はただただ右往左往するしか無いわけで。観客の男もその一人として、ただ笑い続けるしか無い。  結婚式を控える女性、結婚式を終えた女性、そして特に結婚式の予定なんてない女性、面と向かって勧める勇気はないけれど、そういったすべての女性のための映画だと思う。  この映画は、明らかに相性が悪いのであろう男との爆笑必至のセックスシーンから始まる。 この“笑撃”的なファーストシーンは、主人公が陥っている状況を端的に表すとともに、この映画の“振り切れ具合”を潔く表していた。 それは「この映画、こんなカンジて突っ走るよ?ついてきてね」と観客に対してのある種の宣戦布告だったのかもしれない。
[DVD(字幕)] 8点(2013-03-08 17:17:24)(良:2票)
40.  フライト 《ネタバレ》 
いきなり映し出される或る女性の乳房。そして、その女性と一夜を共にしたらしい主人公は、元妻からの電話に叩き起こされ、苛立ち億劫に応答しながら、真っ裸でうろつく女性の下半身を凝視する。 おおよそ“ロバート・ゼメキスの映画らしくない”そのアダルティーで、どこか退廃的なムードが漂う描写に「おや?」と思う。どうやらこちらの想定外の映画が展開されるらしいということは、この冒頭数分の映像で明らかだった。  機体トラブルによる旅客機墜落を奇跡的に回避した機長。「英雄」となるはずだった彼の血液からアルコールが検出されたことから生まれる疑惑。主人公は「英雄」なのか「犯罪者」なのか。 ストーリーの大筋はこのイントロダクションの通りである。しかし、この映画は、そこに隠された真実を追っていく類いのありふれたサスペンス映画ではない。 冒頭のシーンで明らかな通り、デンゼル・ワシントン演じる主人公が決して“清廉潔白”な人間ではないという事実からこの物語は始まる。  詰まるところ観客は、映画の序盤において、「英雄か?犯罪者か?」という問いに対して、「そのどちらも当てはまる」という答えを知ることになるのだ。 すなわち、この映画が伝えようとしているものが、主人公の社会的顛末などではなく、彼の人間としての「決断」の物語であることに気付く。  人間は、歳を重ねるにつれ、自分の非を認めるということが困難になる。 それが内省的なものであればあるほど、曝け出し、悔いること自体に多大な勇気が必要になってしまう。 この映画が描くことはまさにそういうことだ。 大事故に遭遇し自らの功績により生き残った主人公が、強制的に自分自身を省みなければならない日々を経て、最終的にどのような道を選び取るのか。  そういうことが、非常に巧みな映画づくりの中で表現されている。 一見すると、無駄に思えたり、やけにまどろっこしく思えるシーンの一つ一つが、この映画が伝えるテーマに繋がっていき、上質なドラマに昇華される。 ロバート・ゼメキス監督の映画を久しぶりに観たが、安定した演出力もさることながら、齢60歳にして非常に精力的に新境地を開拓してみせたと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2013-03-02 16:59:33)(良:2票)
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